園部城の戦い(1579)
丹波平定戦史:明智光秀と「園部城の戦い」の真相 ― 荒木城攻防から丹波諸城の陥落まで
序章:丹波の「園部城の戦い」― 呼称に秘められた謎
天正7年(1579年)、明智光秀が丹波国の諸城を次々と攻略したとされる一連の戦役の中で、「園部城の戦い」は丹波平定における重要な一局面として語られることがある。しかし、この呼称には歴史的な錯綜が内包されており、その実像を解明することから本報告書は始まる。
核心的な謎は、合戦の舞台とされる「園部城」そのものの存在にある。現在、京都府南丹市園部町にその遺構を残す園部城は、戦国時代の城郭ではない。その起源は江戸時代初期の元和5年(1619年)、出石藩から転封された小出吉親が築いた陣屋に遡る 1 。この園部陣屋は、幕末の慶応4年(1868年)から明治2年(1869年)にかけて城郭へと改修されたものであり、「日本最後の城」として知られている 3 。したがって、明智光秀が丹波を席巻した天正7年(1579年)の時点では、我々が今日認識する園部城は影も形も存在しなかったのである。
では、「園部城の戦い」とは一体何を指すのか。この問いを解く鍵は、織田信長の側近であった太田牛一が記した信頼性の高い第一級史料『信長公記』に見出すことができる。同書には、明智光秀が波多野氏の重臣・荒木氏綱が守る城を攻め落とした記述があり、一部の文献ではこの城が「薗部城」と記されている 6 。このことから、「園部城の戦い」という呼称は、実際には多紀郡(現在の丹波篠山市)に位置した荒木氏綱の居城・**荒木城(細工所城)
に対する攻城戦を指している可能性が極めて高い。さらに重要なのは、この戦いが行われたのが天正7年(1579年)ではなく、その前年の 天正6年(1578年)**であったという点である 6 。
この歴史的呼称の錯綜は、単なる記録の誤りとして片付けられるものではない。戦国期に存在したであろう園部地域の中世城郭の記憶と、江戸時代を通じて地域の中心であった園部陣屋(後の園部城)の存在が、後世の人々の記憶の中で混同され、あるいは統合された結果生じたものと考えられる。地域の歴史認識が、厳密な史料考証だけでなく、地域の象徴的なランドマークを中心に再編されていく動的な過程を、この呼称は示唆しているのである。
本報告書は、この歴史的錯綜を解き明かすことを目的とする。まず、呼称の源泉となったであろう「荒木城攻防戦」の実態を時系列に沿って詳細に再現する。次いで、利用者が当初の問いとして設定した天正7年(1579年)に、丹波国、特に園部周辺地域で実際に何が起きていたのかを詳述する。これにより、「園部城の戦い」というキーワードの背後に隠された、丹波平定戦の真実に迫る。
第一章:戦乱の舞台、丹波国 ― 信長の野望と光秀の使命
天正年間、天下布武を掲げる織田信長にとって、丹波国は避けて通れない戦略的要衝であった。京の都の背後に位置し、西国の雄・毛利氏へと通じる山陰道の入り口を押さえるこの地は、畿内の恒久的な安定化と、西国方面への軍事展開の両面において、極めて重要な意味を持っていた 8 。丹波を制する者は京を制す、という地政学的な認識が、信長に丹波攻略を決意させたのである。
しかし、当時の丹波は一筋縄でいく相手ではなかった。多紀郡を本拠とする八上城主・波多野秀治 9 、そして「赤鬼」の異名で恐れられた氷上郡黒井城主・赤井(荻野)直正 9 をはじめとする独立志向の強い国人衆が割拠し、信長の支配に対して激しい抵抗の意志を燃やしていた 12 。彼らは丹波の地理的優位性を盾に、巧みな連携で外部からの侵攻を幾度となく退けてきた誇り高き武士団であった。
天正3年(1575年)、信長は腹心の将・明智光秀を総大将に任じ、丹波攻略の軍を発した(第一次丹波攻め)。光秀は優れた軍才を発揮し、丹波の国人衆を次々と降し、一時は丹波国の大部分を制圧下に置くかに見えた。しかし、天正4年(1576年)1月、赤井直正の籠る黒井城を包囲していた光秀の背後で、予期せぬ事態が発生する。光秀軍に加わっていた八上城主・波多野秀治が突如として織田方を裏切り、赤井方に寝返ったのである 11 。
この裏切りは、単なる戦術的な離反ではなかった。それは、丹波国人衆の独立への執着と、彼らの間に結ばれた強固な紐帯の根深さを物語るものであった。外部勢力である織田の支配下に入るよりも、丹波内部の同盟関係を優先するという彼らの決断は、光秀の丹波攻略計画を根底から覆した。背後を突かれた光秀は挟撃の危機に陥り、全軍の撤退を余儀なくされる。この手痛い失敗は、光秀に、丹波平定が個々の城を力で落とすだけでは達成できないことを痛感させた。国人衆の強固なネットワークそのものを断ち切り、無力化する、より周到かつ徹底した戦略が必要とされたのである。この第一次攻略戦の頓挫は、後の第二次攻略戦における光秀の冷徹で合理的な戦術選択へと繋がる、重要な伏線となった。
第二章:「丹波の荒木鬼」― 猛将・荒木氏綱と要害・荒木城
第二次丹波攻略において、明智光秀が八上城の波多野秀治を討つ上で、まず攻略しなければならなかったのが、その最も信頼する重臣が守る城であった。その将こそ、波多野氏七頭家の一角を占め、「丹波の荒木鬼」とまで呼ばれ恐れられた猛将、荒木山城守氏綱である 6 。
荒木氏の出自については、伊勢・志摩国が発祥であるとする説や、波多野氏の一族が分かれたとする説など諸説紛々としており、その詳細は定かではない 9 。しかし、氏綱が波多野家における軍事的な中核を担う、比類なき武勇の士であったことは衆目の一致するところである。丹波には黒井城の赤井直正を「赤鬼」、籾井城の籾井教業を「青鬼」と称する伝承があるが、氏綱が「荒木鬼」と並び称された事実は、彼の武名が丹波一円に轟いていたことを示している 9 。この異名は、単に勇猛であるだけでなく、彼の戦術や支配が敵対者にとって恐怖の対象であったことを示唆しており、戦国武将の評価が味方からの信望と敵からの畏怖という二つの側面から成り立っていたことの好例と言える。
その「荒木鬼」が本拠としたのが、丹波国多紀郡に位置する荒木城であった。この城は細工所(さいくしょ)という地名から「細工所城」とも呼ばれる 14 。京から丹波を抜け、但馬・山陰方面へと至る古来の主要街道である山陰道の要衝に築かれており、交通と軍事の結節点を押さえる戦略的に極めて重要な拠点であった 15 。
城は標高約400メートル、比高約170メートルの峻険な山上に築かれた、典型的な戦国の要害堅固な山城である 14 。長く伸びる尾根筋に沿って主郭や複数の曲輪(くるわ)を巧みに配置し、敵の侵攻を阻むために尾根を断ち切る堀切(ほりきり)や、急峻な人工斜面である切岸(きりぎし)といった防御施設が随所に設けられていた 16 。この天然の地形と人工の防御設備が一体となった荒木城は、容易に攻め落とせる城ではなかった。
戦略的に見れば、荒木城は波多野氏の本拠・八上城の東方を固める最重要の前衛基地であった 14 。明智光秀が八上城を完全に包囲し、孤立させるためには、まずこの東の守りを担う荒木城を無力化することが絶対条件であった。丹波平定の行方は、まさしくこの「荒木鬼」が籠る難攻不落の山城の攻略にかかっていたのである。
第三章:荒木城攻防戦(天正六年四月)― 合戦の時系列再現
第一次丹波攻めの失敗から教訓を得た明智光秀は、天正5年(1577年)から第二次丹波攻略を開始し、丹波の国人衆を一人、また一人と切り崩していった。そして天正6年(1578年)春、ついに波多野氏の中核拠点である荒木城へとその矛先を向けた。この戦いは、後に「園部城の戦い」と誤伝されることになる、丹波平定における極めて重要な転換点であった。
天正6年(1578年)4月、進軍開始と包囲
『信長公記』によれば、天正6年4月、明智光秀は丹波へと再侵攻を開始した 7 。この軍勢には、織田家中で屈指の猛将として知られる滝川一益も加わっていた 6 。信長が自らの重臣を増援として派遣したという事実は、この荒木城攻略を、単なる一拠点への攻撃ではなく、丹波平定全体の帰趨を決する重要な作戦と位置づけていたことを示している。光秀と一益の軍勢は、峻険な山々に守られた荒木城へと迫り、その周囲を幾重にも取り囲んだ。
4月10日、攻城戦の火蓋
4月10日、明智軍による荒木城への総攻撃が開始された 7 。攻城側は鉄砲隊を前面に押し立て、城内へ猛烈な射撃を加えながら、急峻な山道を駆け上がろうと試みた。対する籠城側の荒木勢は、「荒木鬼」氏綱の指揮の下、山城の地形的利点を最大限に活用してこれを迎え撃った。高所から放たれる無数の矢や鉄砲玉、さらには大石や丸太を投下する戦術は、攻め寄せる明智軍に多大な損害を与えた。
この時の戦いの激しさは、「井串極楽、細工所地獄、塩岡・岩が鼻立ち地獄」という伝承として後世に語り継がれている 16 。「細工所地獄」とは、まさしくこの荒木城(細工所城)での戦闘が、兵士たちにとって地獄のような惨状を呈したことを物語っている。双方の兵が入り乱れ、血で血を洗う凄惨な白兵戦が、城の至る所で繰り広げられたのであろう。
戦術転換 ― 水の手を断つ
数日にわたる力攻めにもかかわらず、荒木城の守りは揺るがなかった。籠城側の士気は高く、このまま力押しを続ければ、自軍の損害がさらに拡大することは必至であった。ここで、戦略家としての光秀の真価が発揮される。彼はいたずらに兵の命を失う強攻策を中止し、より確実かつ合理的な戦術へと切り替えた。すなわち、兵糧攻めである。
光秀は荒木城の包囲網を一層厳重にし、外部からの兵糧や物資の補給路を完全に遮断した。そして、籠城戦において最も致命的な打撃となる作戦を実行に移す。城にとって生命線である「水の手」、すなわち水源を断つことに成功したのである 6 。山城において水源の確保は死活問題であり、これを絶たれたことは、籠城する兵士たちの肉体的、そして精神的な持久力を急速に奪っていった。飲み水にも事欠く状況は、いかに屈強な「荒木鬼」の兵たちといえども、戦意を維持することを不可能にした。
落城と戦後処理 ― 光秀の度量
水を断たれ、長期の籠城が不可能となった荒木氏綱は、万策尽きて降伏を決断する。城門が開かれ、氏綱は光秀の前に恭順の意を示した。
この時、光秀は氏綱に対して寛大な処置をとった。最後まで抵抗した主君の波多野秀治とは異なり、光秀は氏綱の武勇を高く評価し、その命を奪うことはなかった。氏綱は病身を理由に仕官を固辞したが、光秀はそれを受け入れ、代わりに氏綱の子息である荒木氏清ら一族を自らの家臣として召し抱えたのである 6 。
この戦後処理は、光秀の高度な政治戦略を示すものであった。武力によって抵抗勢力を徹底的に排除する一方で、降伏した有能な武将は評価し、自らの戦力として組み込む。この「アメとムチ」の使い分けは、他の丹波国人衆に対して、無益な抵抗を続けることの無意味さと、恭順することの利点を同時に示す効果があった。光秀は単なる破壊者ではなく、戦後の丹波統治までを見据えた、秩序の再建者として振る舞ったのである。荒木城の陥落は、八上城を完全に孤立させ、丹波平定を事実上決定づける、極めて大きな一歩となった。
第四章:丹波平定の最終章(天正七年)― 八上城から園部周辺諸城へ
天正6年(1578年)4月の荒木城陥落は、丹波攻略における大きな分水嶺であった。東の最大の支えを失った波多野秀治の八上城は、風前の灯火となった。明智光秀は八上城に対する包囲網を段階的に強化し、丹波平定の総仕上げへと駒を進めていく。そして、当初の問いであった天正7年(1579年)、丹波の戦況は最終局面を迎える。
八上城の陥落と波多野氏の滅亡(天正7年6月)
光秀は八上城に対し、荒木城で用いた兵糧攻めを、より大規模かつ徹底した形で行った。城の周囲には幾重にも柵や塀を張り巡らせ、さらには堀を掘り、物見櫓を建てて、蟻一匹這い出る隙もないほどの厳重な包囲網を敷いた 12 。外部との連絡を完全に遮断された城内では、やがて食料が尽き、多くの者が餓死するという凄惨な状況に陥った 13 。
一年半近くに及ぶ絶望的な籠城戦の末、天正7年6月1日、八上城はついに開城した 11 。降伏した波多野秀治、秀尚の兄弟は捕らえられ、信長の本拠である安土へと護送された。彼らを待っていたのは、荒木氏綱のような寛大な処置ではなかった。信長は、一度裏切った上で最後まで抵抗を続けた波多野兄弟を許さず、安土城下で磔刑に処した 10 。この苛烈な処罰は、織田政権に逆らう者がどのような運命を辿るかを天下に示す、見せしめの意味合いが強かった。ここに、丹波に勢力を誇った波多野氏は完全に滅亡した。
黒井城の陥落と丹波平定の完了(天正7年8月)
波多野氏を滅ぼした光秀は、休む間もなく丹波における最後の抵抗拠点、氷上郡の黒井城へと軍を進めた。かつて光秀を苦しめた「赤鬼」赤井直正は、前年にすでに病没していた。後を継いだ赤井忠家が籠城して抵抗を試みるも、主家である波多野氏が滅亡し、丹波の趨勢が完全に決してしまった状況では、もはや抗う術はなかった。同年8月9日、黒井城は落城 11 。これにより、丹波国における大規模な抵抗勢力はすべて鎮圧され、足掛け4年にわたる明智光秀の丹波平定事業は、ついに完了したのである 19 。
園部周辺の戦い(天正7年)
丹波平定戦が最終段階を迎えた天正7年、園部周辺に位置する国人たちの城も、次々と明智軍の軍門に降っていった。
その一つが、現在の南丹市日吉町に位置した**塩貝城(大戸城)**である。城主の塩貝晴道は波多野氏に従っていた国人であり、明智軍の攻撃を受けて落城したと伝えられている 6 。塩貝城は標高310メートルの山上に築かれた堅固な山城であり、曲輪や堀切、竪堀などの遺構が今も残ることから 20 、落城に際しては激しい攻防戦が繰り広げられたと推測される。
また、同じく園部近隣の 藁無高山城 も、この時期に攻略された城の一つと考えられている 6 。一方で、
蜷川城 の城主であった蜷川氏は、武力で抵抗する道を選ばず、明智光秀に恭順の意を示してその支配下に入った 23 。
これらの事例は、丹波平定の最終局面において、光秀が抵抗勢力を武力で確実に排除する一方、時勢を読んで従う者には協力関係を築くという、柔軟な統治方針をとっていたことを示している。天正7年における園部周辺の状況は、特定の城をめぐる大規模な会戦というよりも、丹波平定という大きな流れの中で、各地域の国人たちが降伏か、あるいは抵抗の末の滅亡か、という最終的な選択を迫られた結果であったと言えるだろう。
表1:明智光秀による丹波攻略戦 主要合戦年表(天正3年~天正7年)
年月日 |
場所・城 |
主要な出来事 |
主要人物 |
結果・意義 |
天正3年 (1575) |
丹波国一円 |
明智光秀、第一次丹波攻略を開始。 |
明智光秀 |
丹波の大部分を一時制圧。 |
天正4年 (1576) 1月 |
黒井城 |
波多野秀治が赤井(荻野)直正に呼応して離反。 |
波多野秀治、赤井直正 |
光秀軍、挟撃の危機に陥り丹波から撤退。第一次攻略失敗。 |
天正5年 (1577) |
丹波国一円 |
光秀、第二次丹波攻略を再開。亀山城を拠点に周辺諸城を攻略。 |
明智光秀 |
丹波平定に向けた地盤を固める。 |
天正6年 (1578) 4月 |
荒木城(細工所城) |
光秀、滝川一益と共に荒木城を攻撃。水の手を断ち、降伏させる。 |
明智光秀、荒木氏綱 |
八上城の重要拠点を無力化。八上城は完全に孤立。 |
天正6年 (1578) 12月 |
八上城 |
光秀、八上城の本格的な包囲を強化。厳重な兵糧攻めを開始。 |
明智光秀、波多野秀治 |
八上城の孤立が決定的に。 |
天正7年 (1579) 6月 |
八上城 |
一年半に及ぶ籠城の末、八上城が開城。 |
波多野秀治、秀尚 |
波多野兄弟は安土で処刑され、波多野氏は滅亡。 |
天正7年 (1579) 年中 |
塩貝城(大戸城)など |
園部周辺の波多野方諸城が攻略される。 |
塩貝晴道 |
丹波平定の最終段階。地域国人の掃討が進む。 |
天正7年 (1579) 8月 |
黒井城 |
光秀、黒井城を攻撃し、落城させる。 |
明智光秀、赤井忠家 |
丹波の主要な抵抗勢力が全て鎮圧され、丹波平定が完了。 |
第五章:戦いの遺産 ― 武人たちのその後と城跡の変遷
丹波平定戦という歴史の激動は、戦いに生きた武人たちと、彼らが命を懸けて守った城郭に、それぞれ異なる運命をもたらした。
荒木一族の運命
明智光秀の度量によって命を救われ、その家臣となった荒木氏綱の子息たちであったが、彼らを待ち受けていたのは、さらなる歴史の荒波であった。主君となった光秀は、丹波平定からわずか3年後の天正10年(1582年)、本能寺にて主君・織田信長を討つという日本史上最大の下剋上を敢行する。荒木一族は、光秀の配下としてこの本能寺の変、そしてその直後の山崎の合戦にも参陣したと伝えられている 14 。
しかし、光秀は羽柴秀吉に敗れ、天下は三日で終わる。主君と運命を共にした荒木一族は、歴史の敗者となった。歴史記録は、多くの場合、勝者によって編纂される。波多野氏の家臣として一度敗れ、そして「逆臣」明智光秀の家臣として再び敗れた荒木氏のその後の詳細な記録は、歴史の闇の中へと消えていった。「没落した家の歴史は正確に伝わらないことが多い」という言葉が示すように 9 、彼らの武勇や葛藤を伝える物語は、時の流れと共に散逸してしまったのである。
城跡の変遷
激戦の舞台となった二つの「城」もまた、対照的な道を歩んだ。
「丹波の荒木鬼」が籠った 荒木城 は、その役目を終えた後、廃城となり、再び静かな山へと還っていった。現在、その跡地には、往時の激戦を物語る曲輪や堀切の痕跡が、木々に埋もれるようにしてひっそりと残るのみである 14 。訪れる者も少ない山中で、戦国乱世の記憶を静かに留めている。
一方、本報告書のきっかけとなった 園部城 は、全く異なる歴史を刻んだ。江戸時代を通じて園部藩の藩庁として地域の中心であり続け、明治維新後には「日本最後の城」として改築された。その跡地は現在、京都府立園部高等学校の敷地となり、往時を偲ばせる壮麗な櫓門や巽櫓、番所といった貴重な建造物が現存し、地域の歴史的シンボルとして親しまれている 3 。櫓門はそのまま校門として使われ、生徒たちが日々その下を潜り抜けている。
同じ丹波の地にありながら、戦国の記憶と共に忘れ去られようとしている荒木城と、近世・近代の歴史の象徴として保存されている園部城。この二つの城跡の対比は、地域の歴史がいかに重層的であり、また、ある時代の記憶が別の時代の記憶に覆い隠されていくことがあるのかを、雄弁に物語っている。
終章:結論 ― 「園部城の戦い」から読み解く明智光秀の丹波攻略
本報告書は、「園部城の戦い(1579)」という一つの問いから出発し、その歴史的実像の解明を試みた。その過程で明らかになったのは、この呼称が、実際には天正6年(1578年)4月に行われた「荒木城の戦い」を指す可能性が極めて高いということ、そして、問いの年であった天正7年(1579年)には、丹波平定戦が最終段階を迎え、八上城や黒井城といった主要拠点が陥落し、園部周辺の塩貝城なども攻略されたという事実関係であった。
この一連の丹波攻略戦を通して、我々は明智光秀という武将の多面的な姿を再認識することができる。彼は単に勇猛な武将であるだけでなく、第一次攻略戦の失敗から戦術を学び、第二次攻略戦では兵糧攻めや調略といった、より合理的で損害の少ない手法を駆使する、極めて優れた戦略家であった。特に、難攻不落の荒木城を攻略する際に、力攻めから断水という心理的・物理的圧迫へと戦術を転換した柔軟性は、彼の軍事的能力の高さを証明している。
さらに、光秀は戦後統治までを見据えた政治家としての一面も併せ持っていた。降伏した荒木氏綱の武勇を評価してその一族を登用する度量を見せる一方で、最後まで抵抗した波多野氏には主君・信長の意向を汲んで苛烈な処罰を下す。この硬軟織り交ぜた対応は、丹波国の迅速な安定化に大きく寄与したであろう。
丹波平定の成功は、織田政権の畿内における支配を盤石なものとした。そして同時に、この広大な丹波一国を与えられたことで、明智光秀は織田家中で屈指の力を持つ重臣へと上り詰めた。皮肉なことに、丹波攻略戦で証明された彼の強大な軍事力と経済基盤、そして戦略家としての自信が、後の本能寺の変を引き起こす遠因の一つとなったという見方も可能である。その意味で、丹波平定は、織田政権の安定期を画する戦いであると同時に、日本の歴史を大きく揺るがす次なる動乱の序章でもあったと言えるだろう。「園部城の戦い」という一つの呼称の謎を追う旅は、最終的に、戦国という時代の転換点に立つ一人の武将の実像へと我々を導くものであった。
引用文献
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- 丹波 園部城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/tanba/sonobe-jyo/
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- 園部城の歴史観光と見どころ - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/kinki/sonobe/sonobe.html
- 古地図の園部城下まち歩きマップ - ambula map https://ambula.jp/map/kyoto/308/
- 園部城 藁無城 蜷川城(蟠根寺城) 片山城 佐切城 越方城 大村城 小山城(五合山城) - 丹波霧の里 - FC2 https://tanbakiri.web.fc2.com/KYOTO-sonobe-siro-docu.htm
- 歴史の目的をめぐって 丹波国[国] https://rekimoku.xsrv.jp/6-timei-16-tanbanokuni.html
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