土浦城の戦い(1590)
天正十八年、土浦城の戦いは小田氏治の惣無事令違反と浅野長政の進撃により無血開城。在地領主の時代の終焉と、豊臣秀吉による新たな秩序の確立を象徴する。
天正十八年 土浦城の戦い:天下統一の奔流に消えた在地領主の最後の刻
序章:天下統一最終局面における常陸国の戦略的価値
天正十八年(1590年)、日本列島は豊臣秀吉による天下統一事業の最終段階にあった。九州、四国、そして紀州を平定した秀吉の視線は、関東に蟠踞する最後の大敵、後北条氏に向けられていた 1 。秀吉は、天下の秩序を維持するため、大名間の私的な戦闘を禁じる「惣無事令」を発令していたが、天正十七年、北条家の家臣である猪俣邦憲が真田昌幸の所領である名胡桃城を奪取するという事件が発生する 2 。これを口実とし、秀吉は「天道に背き、帝都に対して悪だくみを企て、勅命に逆らう」者として北条氏の討伐を天下に宣言、二十万を超える空前の大軍を関東へと進発させた 2 。
この小田原征伐において、常陸国、とりわけ霞ヶ浦周辺地域は、軍事戦略上、極めて重要な意味を持っていた。霞ヶ浦は広大な内海であり、利根川水系を通じて太平洋と関東内陸部を結ぶ水運の大動脈であった 5 。この水路を掌握することは、二つの大きな戦略的利点をもたらす。第一に、小田原城に籠城する北条方への補給路を断つこと。第二に、二十万を超える豊臣軍自身の兵糧や武具を輸送する兵站線を確保することである。特に、関東平野の豊かな穀倉地帯から産出される米を効率的に前線へ送るには、水運の活用が不可欠であった。
土浦城は、まさにこの霞ヶ浦水運の西岸に位置する要衝であり、陸上の街道との結節点でもあった。この地を抑えることは、豊臣軍にとって北関東における兵站網を完成させ、小田原包囲を盤石にするための鍵となる。したがって、土浦城をめぐる動向は、単なる一地方城砦の攻防に留まらず、秀吉の天下統一戦略全体における、後方兵站確保という極めて重要な一翼を担うものであった。本報告書は、この「土浦城の戦い」と呼ばれる事象を、戦闘の有無という次元に留まらず、天下統一という巨大な政治的・軍事的潮流の中で、在地領主たちが如何なる決断を迫られ、そして歴史の舞台から姿を消していったのか、その詳細な過程を時系列に沿って再構築するものである。
第一章:土浦城をめぐる在地勢力 - 長年の確執と最後の賭け
土浦城の運命を理解するためには、まずこの地を巡る在地勢力の複雑な関係性を解き明かす必要がある。そこには、長年にわたる抗争の歴史と、時代の変化を読み違えた一つの致命的な決断があった。
「常陸の不死鳥」小田氏治の軌跡
土浦城を事実上の支配下に置いていたのは、常陸国の戦国大名・小田氏治である。彼は、宿敵である佐竹氏との数十年にわたる抗争の中で、本拠である小田城を幾度となく奪われながらも、その都度奪還に成功したことから、「常陸の不死鳥」の異名をとった不屈の武将であった 7 。しかしその戦歴は、時に関東管領上杉氏、後には相模の北条氏といった大勢力との同盟関係に依存するものであり、彼の不屈の戦いは、戦国中期における在地領主の、常に外部勢力の動向に左右される厳しい生存競争そのものであった 7 。天正十一年(1583年)には、ついに佐竹氏の軍門に降り臣従する形となったが 11 、一方で北条氏との関係も維持し続けるという、極めて危うい外交的バランスの上に立たされていた。
土浦城主・菅谷氏の忠誠と苦悩
この小田氏治を支え続けたのが、土浦城主であった重臣・菅谷氏である 13 。特に菅谷政貞は、主君・氏治が小田城を追われるたびに、自らの居城である土浦城に迎え入れ、小田城奪還のための拠点を提供し続けた忠義の将として知られる 11 。氏治の「不死鳥」伝説は、菅谷氏の揺るぎない支援なくしてはあり得なかった。しかし、主家である小田氏の勢力は佐竹氏の圧迫の前に衰退の一途をたどり、菅谷氏もまた、主家への忠誠と、自家の存続という現実の間で、極めて困難な立場に置かれていた 12 。
常陸統一を目指す佐竹氏と豊臣政権
一方、小田氏の宿敵である佐竹氏は、当主・佐竹義重と嫡男・義宣のもとで常陸国内における勢力を着実に拡大し、小田氏を圧倒していた 7 。彼らが小田氏と決定的に異なっていたのは、中央の情勢に対する的確な認識であった。佐竹氏は、天下の趨勢が豊臣秀吉にあることをいち早く見抜き、積極的に臣従することで、豊臣政権という新たな権威を自らの領国支配の正当性の源泉とした。これにより、来るべき小田原征伐において、佐竹氏は「官軍」たる豊臣方の一翼を担うという、極めて有利な政治的立場を確保することに成功したのである 19 。
運命を分けた一手:天正十八年一月、小田氏治の小田城攻撃
天下分け目の戦いが目前に迫る天正十八年(1590年)一月二十九日、小田氏治は常軌を逸した行動に出る。土浦城を拠点とし、佐竹義宣が支配する旧本拠・小田城へと攻撃を仕掛けたのである 19 。この行動は、秀吉が天下に禁じた「私戦」そのものであり、豊臣政権の根幹をなす「惣無事令」への明白な違反行為であった。背後にある北条氏も、秀吉との決戦を前に援軍を送る余裕などなく、この挙は完全に孤立無援の暴挙であった 19 。
この一月の小田城攻撃こそ、小田氏と土浦城の運命を決定づけた致命的な判断ミスであった。氏治は、来るべき大戦の混乱に乗じて旧領を回復できるという、旧来の戦国的な発想に囚われていたのかもしれない。しかし、もはや時代は変わっていた。豊臣政権に臣従する佐竹氏への攻撃は、すなわち天下人・秀吉への反逆行為と見なされる。この時点で、小田氏は豊臣政権から「討伐対象」として明確に認定され、その所領は没収されるべきものと運命づけられた 7 。五月に豊臣の大軍が常陸に現れる以前に、小田氏の政治的生命は、この一月の時点で既に絶たれていたのである。
第二章:豊臣軍の関東侵攻と常陸・下総方面作戦
小田氏が自滅的な一手によって政治的に孤立する中、豊臣秀吉による空前の規模を誇る関東征伐が開始された。土浦城の開城は、この巨大な軍事行動の一環として、必然的に引き起こされた事象であった。
小田原征伐の全体戦略と軍団編成
天正十八年二月から三月にかけ、豊臣軍は続々と畿内を出発した。その総勢は二十一万から二十二万に達し、徳川家康を先鋒とする東海道軍、前田利家・上杉景勝らを主力とする北国勢(東山道軍)、そして九鬼嘉隆らが率いる水軍が、陸海から同時に北条領へと殺到した 2 。秀吉の戦略は、主力が北条氏の本拠・小田原城を厳重に包囲して兵糧攻めにする一方で、強力な別動隊を関東各地に派遣し、網の目のように張り巡らされた北条方の支城群を体系的に、かつ同時並行で攻略するという、まさに「面」で制圧する作戦であった 2 。これにより、各支城は互いに連携を絶たれ、孤立した状態で各個撃破されることになった。
浅野長政率いる別動隊の役割と進軍
この多方面作戦において、下総・常陸方面の制圧という重要な任務を担ったのが、豊臣五奉行の一人、浅野長政(当時は長吉)が率いる別動隊であった 19 。彼の部隊には、木村重茲といった武将も加わっていた 24 。その任務は、北条方に与する在地領主の城を攻略し、抵抗勢力を一掃すること、そして何よりも、前章で述べた利根川・霞ヶ浦水系の兵站線を完全に確保することにあった。この任務の遂行は、小田原城を包囲する主力軍の生命線を維持し、さらにはその先の奥州仕置までを見据えた、極めて重要な戦略行動であった。
周辺城砦の連続攻略 - ドミノ倒しの始まり
天正十八年五月、浅野長政の軍勢は下総国に侵入し、北条方の城砦群に対して圧倒的な軍事力で圧力をかけ始めた。その攻略の様相は、まさにドミノ倒しの如くであった。
- 五月五日頃: 浅野軍はまず、下総国北部の小金城(現在の千葉県松戸市)を占領する 19 。
- 五月上旬: 続いて浅野配下の部隊は南下し、常陸国南部の牛久城(城主・岡見氏)と江戸崎城(城主・江戸崎土岐氏)を攻略した。圧倒的な兵力差を前に、牛久城主・岡見治広は戦わずして城を明け渡し、逃亡した 19 。江戸崎城もまた、豊臣方についた佐竹軍の攻撃によって落城したとも伝えられる 26 。
- 五月十日: 浅野軍は、下総中部の要衝・臼井城(城主・原氏)を占領 19 。
- 五月十八日: さらに、下総の名族・千葉氏の本拠である本佐倉城を占領する 19 。北条氏と強固な姻戚関係にあった千葉氏も、この豊臣軍の侵攻の前に滅亡の時を迎えた 29 。
浅野長政の作戦は、戦闘による消耗を極力避け、迅速に戦略目標である兵站線を確保することを最優先した、極めて合理的なものであった。攻略された城の位置は、江戸湾から利根川、霞ヶ浦へと至る水運路と主要街道を抑える要衝にあり、これらを体系的に制圧する意図が明確に見て取れる。そして、わずか二週間ほどの間に、周辺の同盟勢力が抵抗らしい抵抗もできずに次々と陥落していくという情報は、土浦城の籠城兵に対し、物理的な包囲網が完成する以前に、絶望的な心理的包囲網を完成させたのである。援軍の望みは完全に絶たれ、次は我が身であるという恐怖が、城内の戦意を根底から揺るがしたことは想像に難くない。
第三章:土浦城開城 - 時系列で再構築する天正十八年五月
周辺状況が刻一刻と悪化する中、土浦城は歴史的な決断の時を迎える。それは、火花散る合戦ではなく、圧倒的な現実を前にした、静かなる終焉であった。
表1:小田原征伐・関東方面作戦 主要日程表(天正十八年)
土浦城が開城に至るまでの数週間、関東全域で何が起きていたかを俯瞰するため、主要な出来事を時系列で以下に示す。この表は、土浦城がいかに急速に戦略的孤立を深めていったかを明確に物語っている。
日付 (天正十八年) |
方面 |
出来事 |
主要人物 |
典拠 |
||
3月29日 |
伊豆 |
山中城、豊臣軍の猛攻によりわずか半日で落城 |
豊臣秀次、徳川家康 |
19 |
||
4月3日 |
相模 |
豊臣軍本隊、小田原城の包囲を開始 |
豊臣秀吉 |
4 |
||
5月5日頃 |
下総 |
浅野長政軍、小金城を占領 |
浅野長政 |
19 |
||
5月上旬 |
常陸 |
浅野配下、牛久城・江戸崎城を占領(牛久城は無血開城) |
浅野長政 |
19 |
||
5月10日 |
下総 |
浅野軍、臼井城を占領 |
浅野長政 |
19 |
||
5月18日 |
下総 |
浅野軍、本佐倉城を占領。千葉氏が滅亡 |
浅野長政 |
19 |
||
5月中旬~下旬 |
常陸 |
土浦城、豊臣軍に無抵抗で開城 |
菅谷政貞、浅野長政 |
|
7 |
|
5月22日 |
武蔵 |
浅野軍、岩槻城を攻撃開始 |
浅野長政、木村重茲 |
19 |
||
5月27日 |
相模 |
佐竹義宣、宇都宮国綱らが小田原の秀吉本陣に参陣 |
佐竹義宣 |
19 |
||
6月14日 |
武蔵 |
北条氏邦の守る鉢形城が開城 |
前田利家、上杉景勝 |
19 |
||
7月5日 |
相模 |
約三ヶ月の包囲の末、小田原城が開城。北条氏が滅亡 |
北条氏直、豊臣秀吉 |
4 |
五月中旬:包囲網の完成と土浦城の戦略的孤立
上記の時系列が示す通り、五月中旬の時点で土浦城は完全に孤立無援となっていた。南からは牛久城・江戸崎城を落とした浅野軍の別動隊が迫り、西の下総方面では同盟関係にあった千葉氏や原氏の拠点が全て陥落。そして北と東は、もとより敵対関係にあり、今や豊臣方として小田原に参陣している佐竹氏の勢力圏である。霞ヶ浦の水利を活かした堅城として知られた土浦城も 14 、この四面楚歌の状況下では、その防御能力を発揮する以前の問題であった。
降伏か、籠城か:菅谷政貞・範政父子の決断
この絶望的な状況下で、城主・菅谷政貞と息子の範政は、一族と領民の運命を左右する決断を迫られた。彼らが考慮すべきであった点は、以下の通りである。
- 大義名分の喪失: 主君である小田氏治は、一月の小田城攻撃によって既に「惣無事令」違反者として豊臣政権から断罪されている。もはや豊臣軍に抵抗するための大義名分は存在しなかった。
- 軍事的勝算の欠如: 周辺の城は全て陥落し、小田原の北条本家からの援軍は絶望的であった。籠城しても、圧倒的な兵力を持つ豊臣軍の前に、いずれは兵糧が尽きるか、力攻めによって落城するかの未来しか見えなかった。
- 家名存続の道: 無益な抵抗を行えば、一族は皆殺しにされ、菅谷家の家名は完全に断絶する。しかし、時勢を読んで恭順の意を示せば、家名存続の道がわずかながら残される可能性があった。
長年にわたり主君・小田氏治に忠誠を尽くしてきた菅谷政貞にとって、戦わずして城を明け渡すことは苦渋の選択であったに違いない。しかし、彼は一人の武将であると同時に、家臣と領民の生命を預かる領主でもあった。無駄な血を流さず、家の未来を繋ぐことこそが、この局面における最善の道であると判断したのである。
「戦い」なき終焉:土浦城、開城の日
具体的な開城の日付を特定する史料は現存しないが、五月中旬から下旬にかけて、浅野長政の軍勢が土浦に接近、あるいは降伏勧告の使者を派遣したのに応じ、菅谷氏は城を明け渡したと推察される 7 。これは戦闘を伴わない「無血開城」であった。したがって、「土浦城の戦い」という呼称は、実際の武力衝突を指すのではなく、この一連の政治的・戦略的な圧力の末に行われた降伏という歴史的事件の総称と理解すべきである。
この菅谷氏の現実的な決断は、結果として家名を救うことにつながる。後に菅谷範政は徳川家康に見出され、旗本として召し抱えられることになるが 7 、この土壇場での冷静な判断が、家康に高く評価された一因であった可能性は十分に考えられる。
第四章:戦後処理と新たな秩序 - 関東仕置の影響
小田原城の開城と北条氏の滅亡をもって、豊臣秀吉による天下統一は事実上完成した。その後、秀吉は宇都宮に陣を移し、関東から奥州にかけての新たな領国秩序を構築する「関東・奥羽仕置」に着手する 34 。土浦城とその旧領主たちの運命も、この巨大な領土再編の奔流の中で決定づけられた。
表2:土浦城開城に関わる主要勢力の動向と処遇
この歴史的転換点において、各勢力がどのような運命を辿ったのかを以下に要約する。この表は、誰が勝者となり、誰が敗者として歴史から退場したのかを明確に示している。
勢力 |
主要人物 |
開戦前の立場 |
天正十八年の動向 |
戦後の処遇 |
典拠 |
小田氏 |
小田氏治 |
北条氏と同盟、佐竹氏と敵対 |
惣無事令違反(小田城攻撃)、小田原不参陣 |
所領没収、改易。後に結城秀康に仕える |
12 |
菅谷氏 |
菅谷政貞、範政 |
小田氏家臣、土浦城主 |
主家に随い北条方。豊臣軍に無血開城 |
一時没落後、徳川家旗本として家名存続 |
7 |
佐竹氏 |
佐竹義重、義宣 |
豊臣政権に臣従 |
小田原に参陣、忍城攻めなどに参加 |
常陸国の大半(約54万石)を安堵され、大大名へ |
19 |
北条氏 |
北条氏政、氏直 |
豊臣政権と対立 |
小田原城に籠城、降伏 |
滅亡。氏政・氏照は切腹、氏直は高野山へ追放 |
4 |
豊臣氏(浅野) |
浅野長政 |
豊臣政権の中核(五奉行) |
関東方面軍司令官として諸城を攻略 |
論功行賞により甲斐国21万石余へ加増 |
22 |
徳川氏(結城) |
徳川家康、結城秀康 |
豊臣政権の最大大名 |
東海道の先鋒。小田原包囲軍の中核 |
北条旧領(関東)へ移封。土浦城は秀康の所領となる |
13 |
小田氏・菅谷氏の改易とその後の道
戦後、秀吉の「関東仕置」によって、小田原に参陣せず、かつ惣無事令に違反した小田氏治は、全ての所領を没収された。これにより、鎌倉時代から続く常陸の名門・小田氏は大名としての歴史に幕を閉じた 7 。氏治自身は、その後、旧小田領の一部を与えられた結城秀康に客将として迎えられ、その生涯を終えた 9 。一方、無血開城の決断を下した菅谷氏は、一時的に所領を失うも、その武名と時勢を読んだ判断力が評価され、後に関東の新領主となった徳川家康によって範政が旗本として召し出され、近世を通じて家名を保つことに成功した 7 。
論功行賞:佐竹氏の常陸支配確立
秀吉にいち早く味方した佐竹氏は、この戦役における最大の受益者の一人となった。佐竹義宣は、戦後に常陸国の大部分(結城領などを除く)を安堵され、五十四万石余の大大名としての地位を不動のものとした 19 。佐竹氏は秀吉から与えられた朱印状という絶大な権威を背景に、これまで抵抗を続けてきた常陸国内の在地勢力(江戸氏、大掾氏など)を次々と討伐し、名実ともに常陸一国の支配者となったのである 19 。
徳川家康の関東入府と土浦城の新たな役割
そして、この小田原征伐がもたらした最も巨大な地殻変動は、徳川家康の関東移封であった 37 。秀吉は、最大の同盟者である家康を、旧来の三河・遠江・駿河などから、没収した北条旧領である関東六カ国へと移した。これにより、旧小田領を含む常陸国南部は徳川家康の広大な領国の一部となり、土浦城は家康の次男で下総の名門・結城氏の養子となっていた結城秀康の支城とされた 13 。城代には多賀谷村広などが置かれたとされる 35 。ここに、土浦城は、戦国時代を通じて在地領主・小田氏の独立性を支えた拠点から、近世大名の広大な領国を統治するための一支城へと、その歴史的役割を大きく転換させることになった。
結論:小田原征伐における「土浦城の戦い」の歴史的意義
天正十八年(1590年)の「土浦城の戦い」は、その名に反して、実際には大規模な戦闘が行われなかった。しかし、この「戦われない戦い」こそが、日本の戦国時代の終焉と、新たな時代の到来を雄弁に物語る象徴的な出来事であった。
第一に、この一件は、小田氏治に代表されるような、戦国時代を通じて地域の自立性を保ってきた在地領主の時代の終わりを告げるものであった。彼らが長年培ってきた局地的な武力や外交術は、豊臣秀吉が動員した国家規模の圧倒的な軍事力と、それを支える兵站システムの前には全く無力であった。抵抗することすら許されず、政治的に淘汰されていく様は、時代の不可逆的な転換を明確に示している。
第二に、土浦城の無血開城は、豊臣政権が掲げた「惣無事令」という新たな秩序が、関東の隅々にまで浸透し、旧来の地域紛争の論理を完全に無効化したことを示す好例である。小田氏治が最後の賭けとして行った私戦は、もはや旧時代の遺物であり、新しい秩序への反逆として断罪された。勝敗は戦場で決するのではなく、中央政権が定めたルールに従うか否かによって、戦う前に決していたのである。
最終的に、この「戦い」の帰結は、武力衝突の末の勝利ではなく、豊臣秀吉の周到な戦略、特に兵站計画の勝利であった。浅野長政による周辺城砦の迅速な制圧は、土浦城を物理的・心理的に完全に孤立させ、降伏以外の選択肢を奪った。土浦城の静かなる開城は、豊臣秀吉の天下統一が、単なる軍事力による征服ではなく、新しい時代の秩序を構築し、それを強制する政治力によって成し遂げられたことを、何よりも鮮やかに物語っているのである。
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