坂本城の戦い(1582)
天正十年、山崎の合戦で敗れた明智光秀は小栗栖で落命。明智秀満は坂本城へ帰還し、一族を介錯後、城に火を放ち天守で自刃。光秀が築いた壮麗な湖城は炎上し、明智一族は滅亡した。
天正十年、湖城燃ゆ ― 坂本城の戦い・最後の二日間
序章:天王山崩壊 ― 明智光秀、最後の刻
天正十年(1582年)六月、日本の歴史を震撼させた本能寺の変からわずか十一日後、天下の動向を決定づける戦いが摂津国と山城国の境、山崎の地で繰り広げられました。この山崎の合戦の終結こそが、近江国坂本城で繰り広げられる悲劇の直接的な序曲となります。坂本城の戦いを理解するためには、まずその前段、明智光秀の野望が完全に潰えたこの日の夕刻から筆を起こさねばなりません。
天正十年六月十三日、夕刻 ― 山崎の決着
六月十三日、羽柴秀吉は備中高松城から驚異的な速度で引き返した「中国大返し」を成功させ、織田信孝、丹羽長秀といった織田家の重臣や、高山右近、中川清秀らの摂津衆を糾合し、その軍勢は約四万にまで膨れ上がっていました 1 。対する明智光秀の軍勢は、頼みとしていた細川藤孝・忠興父子や筒井順慶といった有力大名の協力を得られず、約一万六千という劣勢を強いられていました 3 。この開戦前から存在する圧倒的な兵力差は、戦いの帰趨を予見させるに十分でした 3 。
午後四時頃、雨が降りしきる中、明智方の伊勢貞興隊が羽柴方の中川清秀隊に攻めかかったことで戦闘の火蓋が切られます 3 。当初、明智軍は天王山と淀川に挟まれた狭隘な地形を利して善戦し、一進一退の攻防が続きました 6 。しかし、戦局が大きく動いたのは、羽柴軍の池田恒興隊が淀川沿いを密かに北上し、明智軍の右翼に布陣していた津田信春隊の側面を突いたことによります 3 。この巧みな奇襲攻撃を契機に、これまで拮抗していた戦線は一気に崩壊。動揺は全軍に伝播し、明智軍はなすすべもなく総崩れとなったのです 3 。
組織的抵抗が不可能となった明智軍の兵士たちは、蜘蛛の子を散らすように敗走を始めます。多くは京の都を目指しましたが、市井の人々によって市中への進入を阻まれ、やむなく主君の本拠地である坂本城へと向かいました 7 。しかし、彼らを待ち受けていたのは安息の地ではなく、道中の村々で活発化した「落ち武者狩り」でした。武装を解かれ、あるいは疲弊した敗残兵は格好の標的となり、その多くが馬や刀剣を奪われ、命を落としていきました 7 。
この混乱の中、明智光秀は斎藤利三ら僅かな旗本に守られ、戦場を離脱。かつて娘婿である細川忠興が居城とした勝龍寺城へと辛うじて逃げ込みます 7 。しかし、この城は大規模な籠城戦を想定した堅城ではなく、一時的な退避所以上の機能は果たしませんでした。城内に集結できた兵はわずか七百余名にまで減少し、兵の離散は止まるところを知りませんでした 3 。
この一連の出来事は、後に続く坂本城での攻防が、もはや軍事的な勝敗を決する「合戦」ではなく、勝利者による反逆者の最終的な「掃討」であり、明智一族にとっての壮絶な「終焉の儀式」であったことを示唆しています。山崎での物理的な敗北に加え、秀吉の神速の進軍と、それに伴う「明智敗北」という情報の急速な伝播が、光秀に与する者たちの心を折り、味方を募る時間的猶予を完全に奪い去りました。情報の速度が、物理的な兵力差以上に、明智方の求心力を破壊し尽くしたのです。この時点で、坂本城での籠城がいかに絶望的なものであったかは、火を見るより明らかでした。
日付(天正十年) |
時刻(推定) |
明智光秀の動向 |
明智秀満の動向 |
羽柴秀吉・堀秀政の動向 |
六月十三日 |
午後4時頃 |
山崎にて羽柴軍と開戦。 |
安土城にて守備。 |
山崎にて明智軍と開戦。 |
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午後6時頃 |
総崩れとなり敗走開始。勝龍寺城へ退却。 |
(情報なし) |
明智軍を撃破。追撃を開始。 |
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深夜 |
勝龍寺城を脱出、坂本城を目指す。小栗栖にて落命。 |
(情報なし) |
勝龍寺城を包囲。 |
六月十四日 |
未明 |
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光秀敗死の報を受け、安土城からの脱出を決意。 |
秀吉、光秀の首を検分。堀秀政を先鋒として近江へ派遣。 |
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日中 |
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打出浜にて堀秀政軍と交戦後、琵琶湖を渡り坂本城へ入城。 |
堀秀政、打出浜で秀満軍を撃破。坂本城へ進軍。 |
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夜 |
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籠城の準備。 |
堀秀政、坂本城の包囲を完了。 |
六月十五日 |
早朝 |
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(籠城中) |
堀秀政、坂本城への総攻撃を開始。 |
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昼頃 |
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敗北を悟り、名物を堀秀政に引き渡す。 |
秀満より名物を受け取る。 |
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午後 |
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光秀の妻子ら一族を介錯。 |
(攻撃継続) |
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日没後 |
- |
城に放火し、天守にて自刃。坂本城落城。 |
坂本城を制圧。 |
第一章:二つの敗走 ― 小栗栖の悲劇と安土城からの脱出
山崎の戦いが終結した夜、明智一族の運命は二つの絶望的な逃避行へと分岐します。一つは、天下に手をかけた主君・光秀自身のあまりに儚い最期。もう一つは、その腹心であり娘婿でもある明智秀満の、死地へと向かう壮絶な帰還でした。この二つの敗走を対比することで、明智一族の終焉が不可逆的に確定していく過程を克明に追うことができます。
第一節:光秀、小栗栖に死す(六月十三日深夜)
勝龍寺城での一時的な休息も束の間、光秀は再起を図るべく、僅かな供回りと共に居城・坂本城を目指して闇夜の中を落ち延びていきました 7 。坂本城には彼の栄華の象徴たる財宝と、何よりも大切な家族が待っていました。しかし、彼が生きてその城門を潜ることはありませんでした。
京の南、山科の小栗栖村(現在の京都市伏見区)に差し掛かった時、一行は鬱蒼とした竹藪の小道へと入ります 9 。その暗闇の中から、突如として数本の竹槍が突き出されました。落ち武者狩りを行っていた地元の農民による、無慈悲な一撃でした 10 。その一本が光秀の脇腹を深く貫き、彼は為す術もなく落馬したと伝えられています 7 。致命傷を悟った光秀は、もはやこれまでと覚悟を決め、家臣・溝尾茂朝の介錯によって自刃したとも、あるいは農民に直接殺害されたとも言われています 3 。信長を討ち、一時は天下を手中に収めたかに見えた男の最期は、謀反の首魁としてではなく、名もなき一人の敗残兵として、あまりに唐突かつ無残な形で訪れたのです。
光秀の首は、夜が明けた十四日には早くも秀吉の元へと届けられました 7 。そして翌十五日、奇しくも坂本城が炎に包まれるその日、主君・信長が斃れた本能寺の跡地に、約三千の明智方将兵の首と共に晒されることとなります 7 。これにより、謀反の張本人の死は公のものとなり、明智方の残党が抵抗を続けるための大義名分は完全に失われました。
第二節:明智秀満、安土城からの脱出行(六月十四日)
光秀が山崎で死闘を繰り広げていた頃、彼の娘婿であり、明智家中で最も信頼の厚い武将であった明智秀満(通称:左馬助)は、織田政権の本拠地・安土城の守備についていました 7 。しかし、主君の敗北という凶報は、この巨大な城にも瞬く間に届きます。絶対的な権威を失った城主の名に、もはや兵たちを繋ぎとめる力はありませんでした。光秀敗死の報が伝わるや否や、城兵は次々と逃亡し、あれほどの大城を守る兵力は見る影もなく減少してしまいます 7 。
この絶望的な状況下で、秀満は決断します。それは、光秀の一族が待つ坂本城へ、最後の務めを果たすために帰還することでした 7 。残ったわずかな兵、一説には七百から千程度の兵を率いて、秀満は死地と知りつつ安土城を発ちます 7 。
彼の前途は、しかし、いばらの道でした。坂本城へ向かう途中、琵琶湖南岸の大津・打出浜付近で、秀吉軍の先鋒として近江へ進軍してきた堀秀政の部隊と遭遇、激しい戦闘となります 7 。この戦いで秀満は三百名もの兵を失い、陸路での坂本城への帰還は完全に断たれてしまいました 7 。
この時、後世に語り継がれる一つの伝説が生まれます。それが「明智左馬助の湖水渡り」です 14 。進退窮まった秀満が、愛馬「大鹿毛」にまたがったまま琵琶湖の荒波に乗り入れ、対岸の柳が崎まで泳ぎ渡り、追っ手を振り切って坂本城へ入ったという、彼の武勇と忠義を象徴する heroic な逸話です 16 。この伝説は歌舞伎や浮世絵の題材となり、広く民衆に親しまれました 17 。
しかし、複数の史料を突き合わせると、その真相はより現実的なものであった可能性が高いと考えられます。『惟任退治記』などの記録によれば、秀満は小船を用いて湖上を渡ったとされています 7 。また、実際には湖を完全に横断したのではなく、大津の町と湖水の間の浅瀬を馬で駆け抜けたという説も有力です 18 。この絶体絶命の状況下での大胆な脱出劇が、後世の人々の想像力を掻き立て、超人的な「湖水渡り」という伝説へと昇華されたのでしょう。これは、秀満の主君と一族に対する揺るぎない忠誠心が、人々の共感を呼び、「悲劇の英雄には超人的な逸話こそがふさわしい」という民衆の願望が物語を形成した結果と解釈できます。
いずれにせよ、明智秀満は命からがら坂本城へたどり着きました。しかし、彼のこの行動は、軍事的な再起を目指したものではありませんでした。安土城での兵の離散と、打出浜での敗北を経た時点で、彼我の戦力差は覆いようもなく、もはや勝利の可能性がないことは明白でした。それでも彼が坂本城を目指した理由は、ただ一つ。「主君・光秀の一族と最期を共にし、明智家の終焉を自らの手で荘厳に締めくくる」という、武士としての殉死の美学に基づいていたのです。彼の敗走は、未来への希望を求めた逃避行ではなく、過去への忠義を貫くための死出の旅路でした。
第二章:湖上の名城、坂本城 ― 籠城戦の舞台
明智秀満が最後の地に選んだ坂本城は、単なる防衛拠点ではありませんでした。それは明智光秀の栄華と才能の象徴であり、織田信長の天下布武を支えた戦略上の要衝でもありました。これから始まる最後の攻防戦の悲劇性を深く理解するためには、まずその舞台となった坂本城そのものの価値と構造に光を当てる必要があります。この壮麗な湖城が灰燼に帰すことの意味は、単に一つの城が失われる以上の、一つの時代の終焉を象徴する出来事だったのです。
第一節:戦略拠点としての坂本城
坂本城の歴史は、元亀二年(1571年)に織田信長が断行した比叡山延暦寺の焼き討ちに遡ります 20 。この焼き討ちの功により近江国滋賀郡を与えられた光秀は、信長の命を受け、延暦寺の監視と、京の喉元に位置する琵琶湖の制海権を掌握するという二つの重要な目的のために、この地に城を築きました 22 。
坂本は、琵琶湖西岸に位置し、湖上水運と、京へ至る山中越えなどの陸上交通路が交差する、まさに交通の要衝でした 24 。光秀はこの地の利を最大限に活用し、坂本城を一大物流拠点として機能させます 26 。信長の安土城、羽柴秀吉の長浜城、津田信澄の大溝城と並び、これらの城は琵琶湖を内海とする一大水運ネットワークを形成し、信長の天下統一事業を経済的・軍事的に支える大動脈となったのです 24 。坂本城は、その中でも京に最も近い拠点として、比類なき戦略的重要性を担っていました。
第二節:「安土城に次ぐ」と謳われた壮麗な構造
坂本城は、その戦略的価値だけでなく、比類なき美しさでも知られていました。当時、日本に滞在していたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、その著書『日本史』の中で、坂本城を「信長の安土城に次いで豪壮華麗な城」と記し、その壮麗さを絶賛しています 27 。
その構造は、当時の最先端技術を結集したものでした。本丸は琵琶湖に大きく突き出す形で築かれ、三方を湖水に囲まれた天然の要害をなしていました 29 。城内には大小二つの天守が聳え立ち、その威容は湖上からも望むことができたでしょう 29 。また、城内には舟入(船着き場)が設けられ、物資や兵員を積んだ船が直接城内に乗り入れることが可能な、典型的な「水城(みずじろ)」でした 29 。
長らく「幻の城」とされてきた坂本城ですが、近年の発掘調査や、琵琶湖の渇水時に湖底から石垣が姿を現すことによって、その姿が徐々に明らかになりつつあります 29 。特に、隅部を強化する「算木積み」という技法で積まれた石垣や、整然と並ぶ礎石群は、安土城以降の織豊系城郭に見られる先進的な築城技術が用いられていたことを示しています 25 。
このように、坂本城は単に信長の命令で築かれた城というだけではありませんでした。その戦略的な立地選定は光秀の卓抜した地理的洞察力を、壮麗な建築は彼の豊かな財力と美意識を、そして先進的な築城技術は彼の高度な統治能力を物語っています。坂本城は、まさしく明智光秀という武将の「能力」と、そして彼が抱いていたであろう「野心」の結晶だったのです。だからこそ、その城に自らの手で火を放ち、一族と共に滅びるという結末は、光秀が築き上げてきた全ての栄光を自ら否定する行為であり、本能寺の変という大逆がもたらした代償の大きさを、何よりも雄弁に物語っています。
第三節:絶望的な籠城戦の始まり
六月十四日、秀満が命からがらたどり着いた坂本城には、光秀の妻・煕子(ひろこ)をはじめとする一族郎党が、不安な時を過ごしていました 20 。秀満の帰還は、彼らにとって一縷の望みであったかもしれませんが、現実はあまりにも過酷でした。
秀満が率いてきた兵は、安土城からの脱出と打出浜の戦いを経て、わずか数百名にまで減少していました 7 。これほど広大な城郭を守るには、あまりにも寡兵です。対する羽柴方の先鋒、堀秀政の軍勢は、山崎で勝利した勢いを駆って近江に殺到しており、その兵力は数千から一万に達したと推定されます。攻防は、その火蓋が切られる前から、すでに決着していたと言っても過言ではありませんでした。坂本城に籠もる人々にとって、これから始まる戦いは、いかにして生き延びるかではなく、いかにして死を迎えるか、という壮絶な問いへの答えを探すための、最後の二日間となったのです。
第三章:最後の攻防 ― 坂本城、炎上(天正十年六月十五日)
天正十年六月十五日。この日、琵琶湖のほとりに築かれた壮麗な名城は、炎と血によってその短い歴史に幕を下ろします。圧倒的な兵力差の中、坂本城内で繰り広げられたのは、軍事的な抵抗というよりも、滅びゆく一族の矜持と覚悟を示すための、悲壮な儀式でした。ここでは、その最後の一日を、時間の経過と共にリアルタイムで追体験していきます。
夜明け前 ― 包囲網の完成
夜の闇がまだ深い頃、堀秀政が率いる羽柴軍の先鋒部隊は、坂本城の周囲に幾重もの包囲網を完成させていました 13 。陸路は完全に遮断され、琵琶湖の湖上にも羽柴方の船が展開していたことでしょう。城内に籠もる明智秀満と一族郎党は、四方を敵に囲まれ、もはや逃げ場がどこにもないことを静かに悟ったはずです。夜明けと共に訪れるであろう、避けられぬ運命を待つ、重苦しい時間が流れていました。
早朝 ― 形式的な攻防
朝日が琵琶湖の湖面を照らし始める頃、羽柴軍による坂本城への総攻撃が開始されました 16 。鬨の声が上がり、鉄砲の轟音が静かな湖畔の空気を引き裂きます。しかし、この攻防は、実質的には戦闘の名に値しないものでした。
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攻城側(羽柴軍) |
籠城側(明智軍) |
総大将 |
堀秀政 |
明智秀満 |
推定兵力 |
数千~一万 |
数百 |
士気 |
非常に高い(山崎の合戦の勝利後) |
絶望的(主君敗死、敗走後) |
目的 |
反逆者の掃討、城の制圧 |
一族の尊厳ある最期 |
上表が示す通り、両軍の兵力と士気には絶望的なまでの差がありました 8 。城を守る兵はあまりに少なく、もはや組織的な抵抗は不可能です。矢を放ち、鉄砲を撃ち返すといった散発的な抵抗はあったかもしれませんが、それは羽柴軍の圧倒的な物量の前に次々と打ち破られていったことでしょう。この戦いは、籠城側にとって、勝利を目指すためのものではなく、ただ滅びの時を先延ばしにするための、時間稼ぎに過ぎませんでした。
昼頃 ― 秀満、最後の務め
攻防が始まって数刻が経ち、城の各所で火の手が上がり始めた頃、城の総大将である明智秀満は、完全な敗北を悟ります。そして彼は、一人の武将として、また当代一流の文化人でもあった光秀の腹心として、戦国史にも類を見ない驚くべき行動に出ました。
それは、「天下の名物の引き渡し」でした 16 。明智光秀は、茶の湯の道具や刀剣、書画といった、金銭には代えがたい文化的価値を持つ「名物」を数多く収集していました。秀満は、これらの天下の至宝が戦火によって永遠に失われることを惜しみ、敵将である堀秀政の陣へ使者を送ります。そして、名物の一切を記した目録を添え、これらを丁重に引き渡したのです 18 。これは単なる降伏の証ではありません。自らの一命や一族の助命を乞う行為でもありませんでした。それは、たとえ自分たちの肉体は滅びようとも、美と文化は永遠に残るべきであるという、滅びゆく者の最後の矜持と、文化への深い敬意を示す行為でした 16 。
午後 ― 一族の覚悟
最後の務めを果たした秀満は、静かに城内へと戻ります。彼を待っていたのは、さらに過酷な、しかし武家の棟梁として果たさねばならない最後の役割でした。彼は、主君・光秀の正室であった煕子、まだ幼い光秀の子供たち、そして自らの妻や子など、城内に残る明智一族の女性や幼子たちの元へ向かいます。そして、自らの手で、一人、また一人と、その命を絶っていきました 16 。これは、一族が敵の手に落ちて辱めを受けることを防ぐための、戦国時代の武家社会における、あまりにも悲壮な習わしでした。愛する者たちの血でその手を染めながら、秀満は明智家の幕を静かに下ろしていったのです。
日没後 ― 湖城、炎上
城内が静寂に包まれ、全ての覚悟が決まった時、秀満は城の各所に松明を投じさせました。乾いた木材は瞬く間に炎を飲み込み、火の手は天守へと駆け上がります 20 。秀満は、介錯した一族の亡骸を丁重に天守へと運び込むと、自らもその最上階へと登りました 16 。
琵琶湖の湖面は、燃え盛る城の炎を映して、不気味なほど赤く染まっていたことでしょう。かつてフロイスが「安土城に次ぐ」と讃えた壮麗な天守は、巨大な火柱となって夜空を焦がします。その炎の中で、明智秀満は静かに鎧を脱ぎ、白装束に身を改めると、己の腹に深々と短刀を突き立て、十文字に切り裂き、壮絶な自刃を遂げて果てました 8 。
こうして、明智光秀がその栄華の全てを注ぎ込んで築き上げた坂本城は、本能寺の変からわずか十三日後、明智一族の血と炎の中に、その短い歴史の幕を閉じたのです。
終章:落城後の坂本城と明智一族の終焉
坂本城から立ち上る黒煙は、本能寺の変から始まった天正十年の動乱が、その最終幕を迎えたことを天下に告げる狼煙でした。この戦いの終結は、単に一つの城と一つの家族が歴史から消え去ったことを意味するだけではありません。それは、羽柴秀吉という新たな時代の覇者の台頭を決定づけ、戦国の世が次の段階へと移行する、重大な転換点となったのです。
第一節:明智氏の滅亡
坂本城の落城と、城主・明智秀満の壮絶な自刃により、明智光秀の一族は、仏門に入っていた者などごく一部の例外を除き、歴史上から完全にその姿を消しました 3 。秀吉は、この謀反の結末を天下に示すため、光秀の首を主君・信長が斃れた本能寺の跡地で、そして秀満をはじめとする一族の首を京の粟田口で晒しものにしました 3 。これにより、「主君の仇討ち」という秀吉の大義名分は名実ともに完遂され、彼の政治的地位は揺るぎないものとなります。光秀の「三日天下」は、一族の完全な滅亡という、あまりにも大きな代償をもって終わりを告げたのです 5 。
第二節:坂本城のその後
主を失い、灰燼に帰した坂本城ですが、その戦略的重要性から、歴史の舞台から完全に姿を消したわけではありませんでした。戦後処理を話し合うために開かれた清洲会議の結果、近江国の滋賀・高島二郡は織田家宿老の一人、丹羽長秀の所領となります 20 。長秀は直ちに坂本城の再建に着手し、城は再び息を吹き返しました 16 。実際、城跡の発掘調査では、光秀時代のものとされる焼土層の上に、長秀時代に整地されたと考えられる遺構の層が確認されており、落城後すぐに復興が始まったことを物語っています 23 。
その後、城主は秀吉の家臣である杉原家次、次いで浅野長政へと引き継がれていきます 20 。しかし、坂本城の命運も長くは続きませんでした。天正十四年(1586年)、天下人となった秀吉の命により、琵琶湖南岸により大規模な大津城が築城されることになったのです 23 。これに伴い、坂本城は廃城となり、その壮麗な天守や堅固な石垣といった資材の多くは、解体されて大津城の築城のために転用されました 20 。光秀の栄華の象徴は、新たな支配者の城の一部へと姿を変え、その記憶は次第に人々の間から薄れていきました。
第三節:歴史的意義
坂本城の戦いは、本能寺の変という巨大な歴史のうねりの、最終的な帰着点でした。この戦いで「主君の仇を討った最大の功労者」という決定的な名誉を手にした羽柴秀吉は、清洲会議で織田家中の実質的な主導権を掌握し、柴田勝家ら他の宿老を抑えて、天下人への道を大きく踏み出すことになります 4 。もし、この坂本城での最終的な掃討が遅れていれば、その後の政治情勢はまた違った様相を呈していたかもしれません。
明智光秀とその一族、そして彼らが心血を注いで築き上げた壮麗な湖城の劇的な終焉は、戦国時代という時代の権力がいかに流動的で、そして儚いものであったかを象徴しています。しかし、その記憶は完全には消え去っていません。城跡の近くには、落城の悲劇を伝える「明智塚」が今もひっそりと佇み、地元の人々によって手厚い供養が続けられています 21 。また、坂本城の城門は西教寺に移築されたと伝えられ、光秀とその妻・煕子の墓も同寺にあります 22 。これらの史跡は、謀反人として歴史に名を刻まれた光秀が、領主としては善政を敷き、地元の人々から慕われていた側面を静かに伝えています。坂本城の戦いは、勝者によって語られる歴史の裏側で、敗れ去った者たちの悲劇と記憶が、今なお地域史の中に深く息づいていることを我々に教えてくれるのです。
引用文献
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- 琵琶湖の水底から姿を現した「幻の城」坂本城の石垣 | 一般社団法人・東京滋賀県人会 https://imashiga.jp/blog/%E7%90%B5%E7%90%B6%E6%B9%96%E3%81%AE%E6%B0%B4%E5%BA%95%E3%81%8B%E3%82%89%E5%A7%BF%E3%82%92%E7%8F%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%8C%E5%B9%BB%E3%81%AE%E5%9F%8E%E3%80%8D%E5%9D%82%E6%9C%AC%E5%9F%8E%E3%81%AE/
- 【現地説明会レポート】世紀の発見!「幻」の坂本城(滋賀県)石垣を見た!! https://shirobito.jp/article/1974
- 悲劇の武将・明智光秀【湖に沈む幻の城】 - 海と日本PROJECT in 滋賀県 https://shiga.uminohi.jp/information/mitsuhide/
- 坂本城 (滋賀県大津市) -琵琶湖に沈んだ幻の石垣を探して https://tmtmz.hatenablog.com/entry/2022/07/31/080000
- 明智秀満 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/AkechiHidemitsu.html
- 堀秀政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%A7%80%E6%94%BF
- 画「大津坂本城落城之図 https://www.city.kusatsu.shiga.jp/kusatsujuku/gakumonjo/gallery.files/R2.9.pdf
- 坂本城 - お城散歩 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-871.html
- 坂本城址碑 - びわ湖大津トラベルガイド https://otsu.or.jp/thingstodo/spot500
- 坂本城を歩く - ゲ ジ デ ジ 通 信 https://gejideji.exblog.jp/30718969/