堀越御所の戦い(1493)
堀越御所の戦い(1493年)― 戦国黎明期における中央政変と伊豆平定の時系列的再構築
序論:戦国時代の黎明を告げる伊豆の動乱
明応2年(1493年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えます。京都では管領・細川政元がクーデターを断行して将軍を追放する「明応の政変」が勃発し、室町幕府の権威は根底から揺らぎました 1 。そして、この中央政局の激震と時を同じくして、東国・伊豆国において、後に「北条早雲」の名で戦国時代の象徴的人物となる伊勢宗瑞が、現地の支配者であった堀越公方・足利茶々丸を攻め滅ぼす「堀越御所の戦い」が引き起こされました 3 。
この二つの事件は、決して無関係ではありません。むしろ、堀越御所の戦いは、明応の政変という中央の動乱が直接的に地方の権力構造を覆した、時代の転換を象徴する出来事でした。本報告書は、この「堀越御所の戦い」について、単に堀越公方の滅亡という結果を述べるに留まらず、その背景にある関東の複雑な政治力学、中央政変との連動性、そして合戦の具体的な展開と伊豆平定に至るまでのプロセスを、可能な限り時系列に沿って「リアルタイム」に近い形で再構築することを目的とします。
従来、この事件は伊勢宗瑞という素浪人が、その才覚と野心によって一国を乗っ取った「下剋上」の典型例として語られてきました 5 。しかし、近年の研究は、宗瑞が室町幕府の幕臣を務めた名門・伊勢氏の出身であり、彼の行動が中央政局と密接に連携した、周到な政治的・軍事的作戦であったことを明らかにしています 5 。本報告書では、これらの学術的成果を全面的に採用し、事件の多層的な構造を解き明かしていきます。それは、旧来の権威が崩壊し、新たな実力者が台頭する戦国時代の黎明を、鮮やかに描き出す試みとなるでしょう。
【表1】堀越御所の戦い 主要関係者相関図
カテゴリ |
人物名 |
役職・立場 |
主要な関係性・行動 |
堀越公方家 |
足利政知 |
初代堀越公方 |
8代将軍義政の弟。鎌倉に入れず伊豆に留まる 10 。 |
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足利茶々丸 |
2代目堀越公方 |
政知の長男。継母・円満院と異母弟・潤童子を殺害し家督簒奪 12 。 |
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円満院 |
政知の継室 |
茶々丸に殺害される。義澄と潤童子の母 12 。 |
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潤童子 |
政知の子 |
茶々丸に殺害される。義澄の同母弟 12 。 |
幕府中枢 |
足利義材 |
10代将軍 |
明応の政変で細川政元により追放される 1 。 |
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細川政元 |
管領 |
明応の政変を主導。義澄を新将軍に擁立 1 。 |
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足利義澄 |
11代将軍 |
元の名は清晃。政知の子で、潤童子の兄。母弟の仇討ちが宗瑞の口実となる 12 。 |
駿河・伊豆勢 |
伊勢宗瑞(盛時) |
今川家客将 |
備中伊勢氏出身の元幕府官僚。明応の政変に連動し伊豆へ侵攻 5 。 |
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北川殿 |
今川義忠室 |
宗瑞の姉。この縁で宗瑞は駿河へ下向 5 。 |
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今川氏親 |
駿河守護 |
宗瑞の甥。宗瑞の伊豆討ち入りを全面的に支援 12 。 |
関東諸勢力 |
足利成氏 |
初代古河公方 |
幕府と対立し、享徳の乱を引き起こす 15 。 |
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山内上杉氏 |
関東管領 |
扇谷上杉氏と対立(長享の乱)。茶々丸を支援 12 。 |
|
扇谷上杉氏 |
- |
山内上杉氏と対立。宗瑞の伊豆討ち入りに協力 12 。 |
第一章:脆弱なる公方府 ― 堀越公方の内憂外患
伊勢宗瑞による侵攻の背景を理解するためには、まず攻撃対象となった堀越公方府が、その成立当初からいかに不安定で、深刻な内部対立を抱えていたかを把握する必要があります。その政治的脆弱性こそが、外部からの介入を容易にする土壌となりました。
第一節:堀越公方の成立と限界
堀越公方の起源は、関東地方を三十年近くにわたり戦乱に巻き込んだ「享徳の乱」(1454年〜)に遡ります 15 。当時、関東を統治する鎌倉公方・足利成氏は、補佐役である関東管領・上杉憲忠を謀殺したことをきっかけに、室町幕府との全面的な抗争に突入しました 17 。幕府は、この反抗的な成氏に対抗するため、8代将軍・足利義政の実弟である足利政知を新たな鎌倉公方として関東へ派遣する決定を下します 10 。
しかし、政知の関東下向は困難を極めました。成氏方の勢力は関東一円に根を張っており、政知は本来の任地である鎌倉に入ることさえ叶いませんでした 18 。進退窮まった政知は、幕府方の有力大名である駿河守護・今川氏の勢力圏に近い、伊豆国の韮山に拠点を構えざるを得ませんでした 20 。この地が「堀越」と呼ばれていたことから、政知は「堀越公方」と称されるようになります 22 。
この事実は、堀越公方がその誕生の瞬間から深刻な限界を抱えていたことを示しています。関東全域を統べるべき「公方」でありながら、その実質的な支配領域は伊豆一国に限定されていました 23 。軍事的には関東管領・上杉氏や今川氏の支援に依存せざるを得ず、独自の強力な権力基盤を築くことはできませんでした 20 。いわば、堀越公方府は幕府の権威を背景とした「仮の政権」であり、その存在は常に不安定な情勢の中にありました。
第二節:血塗られた家督相続 ― 「豆州騒動」
堀越公方府の構造的脆弱性は、延徳3年(1491年)4月の初代公方・足利政知の死をきっかけに、最悪の形で露呈します。政知は生前、長男である茶々丸の素行不良を問題視し、彼を廃嫡して土牢に幽閉していました 12 。そして、後継者には継室・円満院との間に生まれた潤童子を指名していました。
しかし、父の死という権力の空白期を好機と捉えた茶々丸は、幽閉されていた牢から脱出します。そして、自らの家督相続を阻む存在であった継母・円満院と、異母弟の潤童子を惨殺するという凶行に及び、実力で公方の座を簒奪しました 5 。
茶々丸の暴走はこれに留まりませんでした。この血塗られた家督相続に反対したであろう家老の外山氏や秋山氏といった重臣たちをも次々と粛清し、伊豆国内に恐怖政治を敷いたのです 12 。この一連の内乱は「豆州騒動」と呼ばれ、堀越公方府の求心力を完全に失墜させました。茶々丸の行動は、単なる一個人の凶暴性の発露というだけでなく、公方府の脆弱な権力基盤を自ら破壊する行為であり、伊豆の国人衆の離反を決定づけました。伊勢宗瑞は、この伊豆国内に生じた深刻な「権力の空白」と国人たちの不満を、的確に見抜いていたと考えられます。
第二章:京の激震、伊豆へ ― 明応の政変という追い風
堀越公方府が内部から崩壊しつつあった頃、京都では日本の政治構造そのものを変容させる一大クーデターが発生します。この中央政変は、伊豆の動乱と完全に連動しており、伊勢宗瑞の行動に決定的な「追い風」となりました。
第一節:細川政元によるクーデター
明応2年(1493年)4月、10代将軍・足利義材(後の義稙)が、河内国(現在の大阪府東部)の畠山氏の内紛に介入するため、自ら軍を率いて京都を留守にしました。この将軍不在の好機を捉え、幕府の最高権力者である管領・細川政元がクーデターを決行します 1 。
政元は、8代将軍・義政の未亡人であり、依然として大きな影響力を持っていた日野富子の支持を取り付け、京都を制圧 1 。そして、遠征中の将軍・義材を一方的に廃し、代わりに堀越公方・足利政知の子で、当時は天龍寺で出家していた清晃(せいこう)を還俗させ、新たな将軍として擁立しました 12 。これが第11代将軍・足利義澄です。
この一連の事件は「明応の政変」と呼ばれます。管領が将軍を意のままに廃立したこのクーデターは、室町将軍の権威を著しく失墜させ、もはや幕府が全国を統治する力を失ったことを天下に知らしめました。この政変こそが、実力のみがものをいう戦国時代の到来を決定づけた画期的な出来事と評価されています 2 。
第二節:新将軍の私怨と大義名分
この明応の政変が伊豆の情勢に与えた影響は、計り知れないほど大きいものでした。なぜなら、新たに将軍となった足利義澄は、かつて伊豆で足利茶々丸によって殺害された潤童子の実の兄であり、円満院の実子でもあったからです 12 。
この事実により、足利茶々丸の立場は劇的に変化しました。彼はもはや、単なる伊豆一国を暴力で支配する暴君ではありません。「現職将軍の実母と実弟を殺害した大逆人」という、国家的な罪人となったのです 12 。
この状況は、伊豆侵攻の機会を窺っていた伊勢宗瑞にとって、千載一遇の好機でした。宗瑞は、甥である駿河守護・今川氏親と共に、クーデターを主導した細川政元と緊密な連携関係にありました 12 。彼の伊豆討ち入りは、もはや私的な野心による領土拡大戦争ではなく、新将軍・義澄の上意を受け、その正統性を背景に行われる「公的な討伐戦」という極めて強力な大義名分を得ることになったのです。宗瑞は、軍事行動を起こす上で最も重要となる政治的正統性を、この明応の政変によって完璧な形で手に入れたのでした。彼の行動は、旧来の室町幕府の権威構造を巧みに利用して自らの行動を正当化し、新たな権力を創出していく、戦国初期の武将の姿を象徴しています。
第三章:龍、駿河に潜む ― 伊勢宗瑞の実像
堀越御所の戦いを主導した伊勢宗瑞は、後の「北条早雲」という名と共に、素浪人から一代で大名に成り上がった下剋上の体現者として広く知られています。しかし、その人物像は、江戸時代に成立した軍記物によって創作された虚像であり、史実とは大きく異なります。彼の本当の姿を理解することなしに、この合戦の真実を語ることはできません。
第一節:「素浪人」説の否定とエリート官僚としての出自
江戸時代初期に成立した軍記物『北条五代記』などを通じて流布した、宗瑞を伊勢国(現在の三重県)出身の素浪人とする説は、明治時代以降に歴史学の世界でも通説として扱われてきましたが、これを裏付ける同時代の史料は存在しません 5 。
近年の精力的な研究により、宗瑞の出自はほぼ完全に解明されています。彼の本名は伊勢盛時(もりとき)であり、室町幕府の財政を司る政所(まんどころ)の長官である執事(しつじ)を代々務めた名門・伊勢氏の分家、備中伊勢氏の出身であることが確実視されています 5 。彼の父・伊勢盛定は、将軍直属の親衛隊である奉公衆の一員として幕府に仕えた人物でした 7 。
宗瑞自身も、若くして京都の大徳寺で禅の修行を積み 28 、その後は9代将軍・足利義尚の側近である申次衆(もうしつぎしゅう)に抜擢されるなど、幕府中枢で活躍したエリート官僚でした 5 。彼が「北条」の姓を名乗った事実はなく、生涯を通じて「伊勢新九郎」あるいは出家後の「伊勢宗瑞」を名乗っています 5 。彼が素浪人どころか、中央政界の力学を熟知した、れっきとした名門出身の幕臣であったという事実は、堀越御所の戦いの性格を理解する上で極めて重要です。
第二節:今川家の客将として
その宗瑞が東国に下向するきっかけとなったのが、姉(一説に妹)・北川殿と駿河守護・今川義忠との婚姻でした 5 。この姻戚関係を頼り、宗瑞は駿河国へと移ります。文明8年(1476年)、今川義忠が遠江国での戦で不慮の死を遂げると、今川家では家督を巡る内紛が勃発します。この時、宗瑞は京都から駆けつけ、見事な政治手腕で調停を成功させ、姉の子である甥の龍王丸(後の今川氏親)を正式な後継者として認めさせることに成功しました 8 。
この功績により、宗瑞は今川家中で絶大な信頼を得ます。そして、報酬として駿河国東部の要衝である興国寺城(現在の静岡県沼津市)を与えられ、今川家の客将として確固たる地位を築きました 30 。この興国寺城は、伊豆国との国境に位置しており、奇しくも後の伊豆討ち入りのための絶好の前線基地となりました。
宗瑞の成功は、彼個人の才覚のみによるものではありません。彼が生まれながらにして有していた「伊勢氏」という名門の血筋、幕府官僚時代に培った中央政界への人脈、そして今川家との姻戚関係という、極めて有利な「人的資本」と「政治的ネットワーク」を最大限に活用した結果でした。彼は、京都の「情報」と駿河の「武力」を自在に結びつけることができる、稀有な能力を持った人物だったのです。
第四章:伊豆討ち入り ― 合戦の時系列再構築
明応2年(1493年)秋、伊勢宗瑞はついに伊豆討ち入りの軍事行動を開始します。通説では、この戦いはわずか1ヶ月で終結し、宗瑞が伊豆一国を平定したとされてきましたが、これは後世の軍記物による誇張です。実際には、堀越御所の攻略という緒戦の勝利の後も、伊豆国内の平定には約5年もの歳月を要する長期戦となりました。ここでは、断片的な史料をつなぎ合わせ、開戦から終結までのプロセスを時系列に沿って再構築します。
【表2】伊豆討ち入りから平定までの時系列年表
年月 |
京都の動向 |
伊勢宗瑞の動向 |
足利茶々丸の動向 |
関東・甲斐の動向 |
1491年4月 |
- |
駿河・興国寺城主 |
父・政知の死後、継母・潤童子を殺害し家督簒奪(豆州騒動) 12 |
- |
1493年4月 |
明応の政変 。細川政元が義材を追放し、義澄(茶々丸の異母兄)を将軍に擁立 1 |
今川氏親の総大将として出陣準備 |
堀越公方として伊豆を支配 |
長享の乱(山内上杉 vs 扇谷上杉)継続中 16 |
1493年秋頃 |
- |
伊豆へ侵攻 。堀越御所を急襲し、攻略 32 |
堀越御所から敗走。伊豆国内で抵抗を続ける |
- |
1493-95年 |
- |
韮山城を築城し、伊豆統治の拠点とする 33 。伊豆国内の茶々丸派(狩野氏など)と交戦 |
伊豆国内でゲリラ的な抵抗を継続 |
- |
1495年 |
- |
茶々丸を伊豆から追放 。伊豆中央部を掌握 5 |
甲斐の武田信縄を頼り亡命 |
- |
1496年 |
- |
扇谷上杉氏の援軍として相模へ出兵 5 |
山内上杉氏の支援を受け、駿河東部へ進出し反撃を試みる 12 |
山内上杉氏が扇谷上杉氏領へ侵攻。小田原城の大森氏が山内方へ寝返る 12 |
1498年8月 |
- |
伊豆国を完全に制圧 |
甲斐国内で 自害 (または討伐される) 12 |
甲斐武田氏の内訌が終結。信縄が茶々丸への支援を打ち切る 12 |
第一節:諜報と調略(開戦前夜)
宗瑞は、単なる武辺者ではありませんでした。彼の真骨頂は、軍事行動に先立つ周到な準備にあります。伝承によれば、宗瑞は湯治を名目として伊豆の修善寺に滞在し、現地の情勢、地理、そして国人衆の動向を詳細に調査したとされています 32 。
この諜報活動を通じて、彼は足利茶々丸の暴政によって国内に不満が渦巻いていることを把握しました。そして、有力な国人である鈴木繁宗や松下三郎右衛門尉らと密かに接触し、彼らを味方に引き入れる調略を成功させます 32 。これにより、宗瑞は伊豆国内に協力者を確保し、内部からの崩壊を誘う布石を打ちました。
さらに宗瑞は、関東全体の情勢も注視していました。当時、関東では山内上杉氏と扇谷上杉氏が「長享の乱」と呼ばれる抗争を繰り広げていました 16 。茶々丸の支援者である山内上杉氏が、この抗争のために伊豆から兵を動員したことで、堀越御所の守りが手薄になるという、またとない好機が到来したのです 34 。
第二節:電光石火の侵攻(明応2年 / 1493年)
全ての条件が整った明応2年(1493年)秋、宗瑞は行動を開始します。彼は甥である今川氏親の「総大将」という立場で、今川家の主力部隊、そして姻戚関係にあった葛山氏をはじめとする駿河の国人衆を率いて、前線基地である興国寺城から出陣しました 12 。
その侵攻方法は、敵の意表を突くものでした。通説によれば、宗瑞は陸路からの正面攻撃を避け、兵を乗せた船団を組織して駿河湾を横断。防御が手薄であった西伊豆の海岸に上陸し、山を越えて堀越御所の背後を急襲したと伝えられています 32 。
この電光石火の奇襲に対し、堀越御所の守備兵は有効な抵抗を組織することができず、戦闘は短時間で終結したと推測されます。不意を突かれた足利茶々丸は、御所を放棄せざるを得ず、裏手にある守山に一時立てこもったものの、やがてそこからも敗走しました 21 。堀越御所跡の発掘調査では、この時の戦火によるものと考えられる焼けた土塀の破片などが発見されており、合戦の激しさを物語っています 33 。
第三節:長期化する伊豆平定戦(明応4年~7年 / 1495年~1498年)
しかし、堀越御所の攻略は、あくまで伊豆平定の第一歩に過ぎませんでした。近年の研究では、宗瑞が茶々丸を伊豆から完全に追放するまでに、さらに2年の歳月を要したことが明らかになっています 5 。伊豆国内には、狩野氏をはじめとする茶々丸支持勢力が根強く残っており、彼らの抵抗は熾烈を極めました 12 。
この長期戦に備え、宗瑞は旧来の権威の象徴である堀越御所を拠点とせず、そこから約1キロメートル離れた龍城山に新たに「韮山城」を築城しました 33 。堅固な山城である韮山城を本拠地とすることで、彼は伊豆平定と、その後の統治のための恒久的な拠点を確保したのです。
一方、伊豆を追われた茶々丸は、なおも再起を諦めませんでした。彼は支援者である山内上杉氏や甲斐守護・武田信縄のもとを頼り、各地を転々としながら抵抗を続けます 12 。一時は駿河国の一部にまで進出するなど、激しい反撃を試みました。宗瑞の戦いは、伊豆国内の敵と、その背後にいる関東・甲斐の敵という、二正面作戦の様相を呈していたのです。
しかし、明応7年(1498年)、茶々丸にとって最大の支援基盤であった甲斐武田氏の内部で、長年続いていた内紛が収束します 12 。これにより、武田信縄は茶々丸を支援し続ける利益を失い、彼を見捨てたと考えられます。強力な後ろ盾を失った茶々丸は、ついに甲斐国内で自害、あるいは捕らえられ殺害されたと伝えられています 12 。彼の死をもって、1493年から5年間にわたって続いた伊豆を巡る戦乱は、ようやく終結を迎えたのです。
第五章:新時代の統治 ― 戦国大名・北条氏の萌芽
伊勢宗瑞が歴史に名を刻んだのは、単に優れた武将であったからだけではありません。彼は同時に、卓越した統治者・行政官でもありました。武力によって伊豆国を征服した後、彼が実施した一連の革新的な政策こそが、旧時代の守護大名とは一線を画す「戦国大名」としての彼の本質を示しており、後の後北条氏百年の繁栄の礎となりました。
第一節:伊豆国主としての統治
伊豆国を完全に手中に収めた宗瑞は、まず領国の実態を正確に把握することから始めました。そのために行われたのが、体系的な「検地」(土地調査)です 36 。これは、田畑の面積や質を測量し、誰が耕作しているかを台帳に記録する作業であり、これにより大名が直接土地と人民を把握することが可能になりました。旧来の荘園制的な複雑な支配構造を解体し、領国全体を大名が一元的に支配する「一円支配」の確立に向けた、画期的な第一歩でした。
次に宗瑞は、民衆の支持を獲得するための巧みな政策を打ち出します。その代表が、年貢率を「四公六民」(収穫の4割を領主が、6割を農民が取る)に定めるなどの税制改革でした 12 。これは当時の基準からすれば比較的低い税率であり、足利茶々丸の暴政に苦しんでいた領民にとっては大きな恩恵でした。さらに、不当な権力を振るう地頭の越権行為を禁じるなど、法と秩序に基づいた安定した統治を目指しました 12 。
これらの政策は、宗瑞が単なる征服者ではなく、領民の生活を安定させる新たな統治者としての評価を確立する上で、絶大な効果を発揮しました。彼は、武力による「征服」と、善政による「人心掌握」を両輪とすることで、自らの支配の正統性を築き上げたのです。彼の権力の源泉は、もはや幕府や公方といった旧来の権威から与えられたものではなく、領国と領民を直接統治し、その支持を得ることで自ら創出したものでした。
第二節:「早雲寺殿廿一箇条」に見る統治哲学
宗瑞の統治者としての理念は、彼が定めたとされる家訓『早雲寺殿廿一箇条』に凝縮されています 37 。この家訓は、後の後北条氏の分国法(領国経営の基本法)の原型となったと評価されています 37 。
その内容は、全21ヶ条にわたり、武士としての心構えから日常生活の具体的な心得までを、極めて平易な言葉で記しています。例えば、「神仏を信ずること」「朝は早く起きること」「嘘をつかないこと」「文武両道を心がけること」といった条項が含まれており、質素倹約や礼儀作法、火の用心に至るまで、その教えは多岐にわたります 40 。
これは単なる精神論ではありません。領国を統治・運営していく家臣団に対し、実務的で規律ある行動規範を具体的に示した、いわば「組織運営マニュアル」としての性格を強く持っています。宗瑞は、優れた統治システムを構築するためには、それを支える人材の質を高めることが不可欠であると理解していました。『廿一箇条』は、そのための教育指針であり、彼の現実的で合理的な統治哲学の表れと言えるでしょう。
結論:堀越御所の戦いが歴史に刻んだもの
明応2年(1493年)に始まった「堀越御所の戦い」と、それに続く伊豆平定は、日本の戦国時代の幕開けを告げる上で、極めて重要な歴史的意義を持つ事件であったと結論付けられます。
第一に、この戦いは、明応の政変という京都の中央政局の激変が、即座に地方の権力構造を根底から覆した画期的な事例でした。室町幕府の権威が失墜し、中央と地方が連動しながら新たな秩序を模索していく戦国時代という時代の特性を、明確に示しています。伊勢宗瑞の行動は、この大きな時代のうねりを巧みに捉え、利用したものでした。
第二に、この事件を通じて歴史の表舞台に登場した伊勢宗瑞は、旧来の権威に依存するのではなく、自らの軍事力、政治戦略、そして優れた統治能力によって領国を切り拓き、経営する「戦国大名」の先駆けと言えます 37 。彼の出自が素浪人ではなく、幕府の中枢を知るエリート官僚であったという事実は、戦国大名という存在が、単なる武力だけの存在ではなく、高度な政治的・行政的手腕を必要とするものであったことを物語っています。
そして第三に、この伊豆平定は、その後約百年にわたって関東に一大勢力を築き上げる後北条氏の輝かしい歴史の出発点となりました 44 。宗瑞が韮山城を拠点に築き上げた伊豆国の統治システムは、息子の氏綱、孫の氏康へと受け継がれ、関東支配の強固な基盤となります。その意味で、堀越御所の戦いは、関東の戦国史の幕開けを告げる、まさに号砲となったのです。この戦いを深く理解することは、戦国時代という新たな時代がいかにして始まったのか、その本質に迫ることに他なりません。
引用文献
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- 北条早雲の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7468/
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