最終更新日 2025-09-01

堂洞合戦(1547)

天文十六年、斎藤道三は美濃支配確立のため、織田信秀率いる尾張軍と加納口で激突。道三は城下を焼かれるも籠城し、撤退する織田軍を奇襲し大勝。この勝利で道三は美濃国主の地位を確立。信秀は美濃攻略を断念し、信長と帰蝶の政略結婚へ。

天文十六年(1547年)の激闘:斎藤道三の勝利と「堂洞合戦」の真相

序章:歴史の交点 ― 問いの再定義

利用者様の問いへの応答と本報告書の主題設定

日本の戦国時代における特定の合戦について深く掘り下げることは、その時代の権力構造、武将たちの思惑、そして歴史の大きな潮流を理解する上で極めて重要です。今回、調査のご依頼をいただいた「堂洞合戦(1547年)」は、斎藤道三が土岐・長井勢を破った戦いとしてご提示いただきました。しかしながら、詳細な調査を進める中で、この情報には二つの重要な歴史的事象が交錯している可能性が浮かび上がりました。

第一に、天文16年(1547年)に斎藤道三が主役となって繰り広げた大規模な合戦は、一般に「 加納口の戦い (井ノ口の戦い)」として知られています。これは、美濃国に侵攻してきた尾張の雄・織田信秀を、道三が鮮やかな戦術で撃退した戦いです 1

第二に、「 堂洞合戦 」として記録されている主要な戦いは、それから18年後の永禄8年(1565年)に発生したものです。この戦いは、道三の孫・斎藤龍興の家臣である岸信周が守る堂洞城を、道三の娘婿である織田信長が攻め落とした、信長の美濃攻略戦における重要な一戦でした 2

これらの事実から、利用者様が真に探求されているのは、**「1547年」 という年代と 「斎藤道三」 という人物が中心となる合戦、すなわち 「加納口の戦い」**であると判断いたしました。したがいまして、本報告書では、この「加納口の戦い」を主軸に据え、その背景から合戦のリアルタイムな経過、そして歴史に与えた深遠な影響までを徹底的に詳述いたします。

同時に、歴史的な混乱を解消し、より包括的な理解を提供するため、本来の「堂洞合戦(1565年)」についても独立した章を設けて解説し、両者の違いを明確にすることで、利用者様の知的好奇心に余すところなくお応えすることを目指します。

第一部:戦雲の胎動 ― 美濃国盗りを巡る情勢

天文16年(1547年)の加納口の戦いを理解するためには、まずその舞台となった美濃国が、いかにして一触即発の状況に至ったかを知る必要があります。それは、旧来の権威の失墜と、それに乗じて成り上がった新興勢力、そしてその混乱に介入しようとする隣国の野心が複雑に絡み合った結果でした。

1-1. 守護権威の失墜と土岐氏の内紛

16世紀前半の美濃国は、名門守護大名である土岐氏によって統治されていました。土岐氏は鎌倉時代以来の名家であり、その「水色桔梗紋」の旗は美濃の権威の象徴でした 4 。しかし、戦国乱世の波は、この名門の足元をも容赦なく揺るがします。当主の座を巡り、土岐政房の子である兄・頼武(政頼とも)と弟・頼芸の間で深刻な内紛が勃発したのです 4

この家督争いは、単なる兄弟喧嘩に留まりませんでした。美濃国内の国人衆は二派に分かれて争い、守護代の斎藤氏や小守護代の長井氏までもが巻き込まれる泥沼の内乱へと発展しました 4 。長年にわたる争いの結果、土岐氏の権威は地に堕ち、もはや名目上の存在と化してしまいます。国内を実力で統制する力を失った守護家は、家臣たちの下剋上を許す格好の土壌を自ら作り出してしまったのです。

1-2. 「美濃の蝮」の台頭と国盗りの完成

この土岐氏の内紛に乗じて、彗星の如く現れたのが、後に「美濃の蝮」と恐れられる斎藤道三(当時は長井規秀、後に斎藤利政と名乗る)でした。一介の油売りから身を起こしたとも、京都妙覚寺の僧侶であったとも伝わる謎多きこの人物は、弟・頼芸方に味方し、その知謀と実力で頭角を現します 4 。道三は頼芸の信頼を勝ち得ると、対立する頼武方を駆逐し、頼芸を美濃守護の座に就けることに成功しました。

しかし、道三の野心はそこで終わりませんでした。彼は主君である頼芸を巧みに操り、美濃の実権を次々と掌握していきます。そして天文11年(1542年)頃、ついに頼芸を美濃から追放し、事実上、美濃一国を自らの手中に収めるという「国盗り」を完成させたのです 4 。この下剋上は、旧来の権威や血筋に依らない、純然たる実力主義が支配する戦国時代の到来を象徴する出来事でした。しかし、その冷酷非情な手段は、美濃国内の多くの国衆から強い反発を招く要因ともなり、道三の支配は常に内外の敵に晒される不安定なものでした 5

1-3. 介入する隣国 ― 尾張の虎・織田信秀の思惑

その頃、美濃の東隣、尾張国では「尾張の虎」と称された織田信秀が急速に勢力を拡大していました。国内の敵対勢力を次々と打ち破り、尾張のほぼ全域を掌握した信秀が次に狙いを定めたのが、内紛と下剋上で混乱する美濃国でした。

信秀の美濃介入には、大義名分がありました。それは、道三によって国を追われた前守護・土岐頼芸を救出し、美濃守護の座に復帰させるというものです 6 。このため、信秀は頼芸を保護していた越前の朝倉孝景とも連携し、道三を東西から挟撃する態勢を整えました 1 。しかし、その真の目的は、美濃の混乱に乗じて自らの勢力圏を木曽川の向こう岸にまで拡大することにあったのは明らかでした。信秀にとって、道三は美濃を手に入れるための最大の障害であり、排除すべき敵でした。

1-4. 合戦前夜:大桑城の陥落

加納口の戦いの直接的な引き金となったのは、その前哨戦ともいえる大桑城での戦いです。天文16年(1547年)8月、土岐頼芸と、同じく守護家の血を引く土岐頼純は、織田・朝倉連合軍の支援を背景に、美濃国内の反道三勢力の拠点である大桑城に籠城し、蜂起の機会をうかがっていました 1

しかし、「蝮」の牙は彼らが動くよりも速く、そして鋭かったのです。道三は、敵の連携が整う前に先手を打つことの重要性を熟知していました。同年8月15日、道三は1万3千と号する大軍を率いて大桑城を電撃的に強襲します 1 。不意を突かれた城方はなすすべもなく、頼純は打って出て討ち死にし、頼芸は命からがら越前へと逃亡しました 4

この大桑城の陥落は、単なる一城の攻略以上の意味を持つ、道三の卓越した戦略眼の現れでした。これにより、道三は美濃国内に燻っていた反乱の芽を完全に摘み取りました。それと同時に、織田信秀にとっては、土岐頼芸を擁して美濃国内の勢力と連携するという介入戦略そのものが根底から覆されたことを意味します。信秀に残された選択肢は、もはや自らが主力となって美濃に大規模な軍事侵攻を行うこと以外になくなりました。こうして、道三と信秀、美濃と尾張の二人の梟雄による直接対決は、避けられない運命となったのです。

第二部:血戦、加納口 ― 天文十六年九月二十二日、その一日

大桑城を落とし、国内の憂いを断った斎藤道三。一方、介入の足掛かりを失い、正面からの侵攻を決意した織田信秀。両者の雌雄を決する戦いの舞台は、道三の居城・稲葉山城の城下町、井ノ口(加納口)へと移ります。天文16年(1547年)9月22日、この一日の攻防が、その後の両家の運命を大きく左右することになります。

2-1. 【午前】 織田軍、美濃侵攻と蹂躙

天文16年9月3日、織田信秀は尾張国中に動員令を発し、道三討伐の兵を挙げました 1 。その総勢は約1万とも伝えられる大軍であり、当時の尾張一国で動員しうる最大級の兵力でした 6 。信秀のこの戦いにかける並々ならぬ決意がうかがえます。

そして運命の日、9月22日。織田軍は木曽川を渡り、美濃国へと侵攻。道三の居城である稲葉山城の喉元、城下町の井ノ口へと殺到しました 1 。圧倒的な兵力を誇る織田軍は、その威勢を示すかのように、城下の村々に次々と火を放ち始めます 1 。黒煙は天を覆い、炎は家々を舐め尽くす。これは単なる破壊行為ではありません。城に籠る斎藤軍に対する心理的な圧迫であり、恐怖と混乱を煽って城から誘き出すための、計算された挑発行為でした。織田軍は焼き払った村々を越え、稲葉山城の惣構え(外郭)である町口にまで迫りました。

2-2. 【午後】 籠城と膠着、そして織田軍の油断

対する斎藤道三は、兵力で劣る自軍の状況を冷静に分析していました。難攻不落と名高い稲葉山城の堅固な守りを頼み、城に籠って織田軍の攻撃に耐える策を選びます 10 。道三は城下町が焼かれるのを、ただ歯噛みしながら見ているだけでした。しかし、それは無策なのではなく、敵の力が最も高まっている正面からの衝突を避け、好機を待つという「蝮」ならではの忍耐でした。

織田軍は町口に猛攻を加えましたが、斎藤軍の頑強な抵抗に遭い、膠着状態に陥ります。時刻は申の刻(午後4時頃)を過ぎ、日は西に傾き始めました 7 。これ以上の攻城は困難と判断した織田信秀は、その日の戦闘を打ち切り、一旦兵を引くことを決断します 7

この撤退判断こそ、百戦錬磨の将である信秀が犯した、生涯最大級の過ちでした。城下を思うままに蹂躙し、敵が城から一歩も出てこないのを見て、「道三は恐れをなした」と侮ったのでしょう。自軍の圧倒的な兵力への過信が、油断を生みました。戦国時代の合戦において、統制を保ったままの撤退は最も難しい軍事行動の一つであり、陣形が乱れ、警戒が緩むその瞬間は、敵にとって絶好の攻撃機会となります。信秀はこの戦の鉄則を、この時に限って見過ごしてしまったのです。彼が命じた撤退は、統率の取れた後退ではなく、各部隊が安堵の息をつきながらばらばらに引き上げていく、崩れかけたものだったのかもしれません。そしてそれこそが、道三が一日中、城の櫓から目を凝らして待ち望んでいた瞬間でした。

2-3. 【申ノ刻~酉ノ刻】 蝮の牙 ― 斎藤道三、決死の反撃

織田軍の半分ほどが撤退を開始し、その隊列が伸びきって部隊間の連携が失われた、まさにその一瞬。稲葉山城の城門が、轟音とともに開かれます。道三は、この千載一遇の好機を逃しませんでした。城内に温存していた全兵力を率いて、一斉に打って出たのです 7

これは、単なるやぶれかぶれの反撃ではありませんでした。敵の心理的な油断(「今日の戦は終わった」という安堵感)と、物理的な脆弱性(乱れた隊列と無防備な背後)を完璧に突いた、計算され尽くした奇襲攻撃でした 12 。敵を自らの土俵に引き込み、最も油断した瞬間に牙を剥く。まさに「美濃の蝮」と恐れられた道三の、面目躍如たる戦術でした 13

2-4. 【夜】 潰走と死闘 ― 織田軍の大敗

完全に不意を突かれた織田軍は、大混乱に陥りました。撤退中だった先頭部隊は後方の異変に対応できず、後方に残っていた部隊は斎藤軍の猛攻をまともに受けて、組織的な抵抗もできないまま崩れ去ります 7 。味方同士が入り乱れ、誰が敵で誰が味方かも分からない阿鼻叫喚の地獄絵図が、井ノ口の地に現出しました。

斎藤軍の追撃は苛烈を極めました。織田方は潰走状態となり、甚大な被害を出します。『信長公記』によれば、この一戦で織田信秀の弟であり、犬山城主でもあった重臣・ 織田信康 、そして家老の青山秀勝といった有力武将が次々と討ち死にしました 1 。戦死者の数は諸説あり、『信長公記』は5,000人、『定光寺年代記』は2,000人と記していますが 1 、いずれにせよ、織田家にとって壊滅的と言える大敗北であったことは間違いありません。

この戦いの後、夥しい数の織田方戦没者を弔うために「織田塚」が築かれたと伝えられており、現在も岐阜市の史跡として、この日の激戦の記憶を静かに留めています 1

第三部:勝利と敗北の帰結 ― 合戦がもたらした地政学的転換

加納口での一日の激闘は、美濃と尾張の力関係を劇的に変化させ、その後の戦国史にまで影響を及ぼす大きな転換点となりました。道三の勝利は単なる一戦の勝利に留まらず、新たな政治的現実と、未来へと続く伏線を生み出したのです。

3-1. 道三の威光と美濃支配の確立

この地を揺るがすような大勝利は、斎藤道三の名声を天下に轟かせました。「美濃の蝮」は、隣国からの大軍を独力で、しかも圧倒的な形で撃退してみせたのです 13 。これにより、道三は名実ともに「美濃の国主」としての地位を内外に確立しました。

それまで道三の出自や国盗りの手法に不満を抱き、その支配に懐疑的だった美濃国内の国衆たちも、この勝利を目の当たりにして沈黙せざるを得なくなります。尾張の織田信秀という強大な外敵を打ち破った道三の実力は、もはや誰もが認めざるを得ないものとなりました 12 。加納口の戦いは、道三にとって美濃一国を完全に掌握し、その支配を盤石なものとするための、最後の総仕上げであったと言えるでしょう。

3-2. 織田家の蹉跌と戦略転換

一方、織田家が受けた打撃は計り知れないものでした。数千の兵を失っただけでなく、信秀の弟であり一門の重鎮であった織田信康を失ったことは、軍事的にも政治的にも大きな痛手でした 6 。この手痛い敗北により、信秀の権威は大きく揺らぎ、その後の三河を巡る今川氏との戦いにも影響を与えたとされています。

何よりも、信秀はこの敗北によって、武力による美濃攻略という選択肢を事実上、断念せざるを得なくなりました。難攻不落の稲葉山城と、その城主である道三の恐るべき戦術眼を身をもって知った信秀は、力で美濃を制圧することの困難さを痛感したのです。これにより、織田家の対美濃戦略は、軍事から外交へと大きく舵を切ることになります。

3-3. 歴史の伏線 ― 信長と帰蝶(濃姫)の政略結婚

加納口の戦いがもたらした最も重要な歴史的帰結は、織田家と斎藤家の間に結ばれた和睦、そしてその証として成立した政略結婚でした。戦いの後、両家は和議を結び、道三の娘・帰蝶(濃姫)が、信秀の嫡男である 織田信長 に嫁ぐことになったのです 1

この政略結婚は、単なる一時的な和睦の証に留まらず、その後の歴史の潮流を大きく変える伏線となりました。

第一に、この同盟は若き日の信長にとって、計り知れない戦略的価値を持ちました。背後の美濃との国境が安定したことで、信長は尾張国内の統一事業に専念することができ、さらには東から迫る今川義元との決戦(桶狭間の戦い)に全力を注ぐことが可能となったのです。もしこの同盟がなければ、信長は常に美濃からの脅威に晒され、その後の飛躍はあり得なかったかもしれません。

第二に、この結婚を通じて、道三は娘婿である信長の非凡な才覚を見抜いたとされています。後に道三が実子・義龍との骨肉の争いに追い込まれた際、「美濃国は信長に譲る」という趣旨の遺言状を書き残したという逸話は有名です 18 。これは、加納口の戦いを経て結ばれた関係が、単なる政略を超えた、道三から信長への期待と信頼に昇華していたことを示唆しています。

そして最後に、この関係こそが、信長が天下統一への道を歩み始めるための礎となりました。道三の死後、信長はこの遺言状を大義名分として美濃に侵攻。最終的に稲葉山城を攻略し、地名を「岐阜」と改め、そこを拠点に「天下布武」の印を用い始めるのです 19

このように、天文16年(1547年)の加納口における道三の一勝は、単に自国を守っただけでなく、十数年後の天下人・織田信長の登場を促し、戦国時代の新たな扉を開く、壮大な歴史の序章を描き出すことになったのです。

第四部:名称の由来と歴史の交錯 ―「堂洞合戦」の実像

ここまで詳述してきた通り、天文16年(1547年)に斎藤道三が織田信秀を破った合戦は「加納口の戦い」です。それでは、利用者様が当初ご提示された「堂洞合戦」とは、一体どのような戦いだったのでしょうか。ここでは、その実像を明らかにし、歴史上の混同を整理します。

4-1. 永禄八年(1565年)の「堂洞合戦」

歴史にその名を留める「堂洞合戦」は、加納口の戦いから18年後の永禄8年(1565年)8月に起こった戦いです 2 。この戦いの主役は、もはや斎藤道三ではなく、その娘婿である織田信長でした。

当時、信長は岳父・道三の遺志を継ぐという大義名分を掲げ、美濃攻略を本格化させていました。これに対し、道三の孫にあたる美濃国主・斎藤龍興は、家臣たちを率いて抵抗します。その斎藤方の重要拠点の一つが、中濃地方に位置する堂洞城でした。城主は、岸一族の当主・岸信周(きしのぶちか)です 2

合戦の引き金となったのは、堂洞城の南に位置する加治田城の城主・佐藤忠能が信長に内応したことでした。これに激怒した岸信周は、人質として預かっていた忠能の娘・八重緑を長尾丸山で磔にするという凶行に及びます 3 。これを受け、信長は堂洞城への総攻撃を命令。丹羽長秀、河尻秀隆、森可成といった織田軍の精鋭が城を包囲しました 3

岸信周をはじめとする岸一族は、兵力で圧倒的に劣りながらも、凄まじい抵抗を見せました。しかし、織田軍の猛攻の前に城の各所が次々と破られ、ついに本丸へと攻め込まれます。もはやこれまでと覚悟を決めた岸信周は、妻と共に辞世の句を詠んで刺し違え、壮絶な最期を遂げました 3 。こうして堂洞城は落城し、信長は中濃地方に重要な楔を打ち込むことに成功。稲葉山城攻略への大きな布石としたのです 9

4-2. 二つの合戦の比較

利用者様の理解をより明確にするため、「加納口の戦い」と「堂洞合戦」の相違点を以下の表にまとめます。この二つの戦いは、年代、場所、主役、そして歴史的意義において全く異なるものであることが一目瞭然となります。

項目

加納口の戦い(井ノ口の戦い)

堂洞合戦

発生年

天文16年(1547年)

永禄8年(1565年)

場所

美濃国 井ノ口(稲葉山城下)

美濃国 堂洞城

総大将(主役)

斎藤道三 vs 織田信秀

織田信長 vs 岸信周 (斎藤龍興方)

合戦の性格

道三による美濃支配の確立をかけた防衛戦

信長による美濃統一過程における攻略戦

戦術的特徴

撤退する敵を奇襲し大勝(道三の戦術眼)

城を包囲し、力攻めで陥落させる(信長の物量)

歴史的意義

織田・斎藤同盟の締結、後の信長の飛躍の遠因

信長の美濃攻略を加速させ、稲葉山城陥落への布石

結論:一点の勝利が描いた壮大な歴史の序章

天文16年(1547年)の加納口の戦いは、決して一地方大名の領土を巡る局地的な防衛戦に留まるものではありませんでした。それは、「美濃の蝮」斎藤道三が、その知謀と決断力をもって自らの支配を盤石のものとし、隣国から迫る「尾張の虎」織田信秀の野心を鮮やかに打ち砕いた、彼の生涯における最大の勝利の一つでした。

道三がこの戦いで見せた、敵の油断を誘い、最も脆弱な一点を突くという戦術は、彼の評価を決定的なものにしました。そして、この戦いの結果として結ばれた織田家との和睦、すなわち信長と帰蝶の政略結婚は、当事者たちの思惑を超えて、歴史の歯車を大きく動かすことになります。

この一点の勝利がなければ、信長は尾張統一にさらに時間を要し、桶狭間での奇跡も起こらなかったかもしれません。道三が信長に美濃を託すという遺志を持つこともなく、信長が「天下布武」の拠点として岐阜城を得ることもなかったでしょう。

斎藤道三が加納口で放った反撃の一撃は、単に自らの国を守っただけでなく、図らずも次代の覇者・織田信長が躍動する舞台を整え、戦国時代の新たな扉を開くための、壮大な歴史の序章を告げる一撃でもあったのです。本報告書が、この歴史のダイナミズムを深く理解するための一助となれば幸いです。

引用文献

  1. 加納口の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E7%B4%8D%E5%8F%A3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  2. 岸勘解由 - 美濃加茂事典 / みのかも文化の森・美濃加茂市民ミュージアム https://www.forest.minokamo.gifu.jp/m_dictionary/details.cfm?id=517&indekkusu=7
  3. 堂洞合戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%82%E6%B4%9E%E5%90%88%E6%88%A6
  4. 「斎藤道三に滅ぼされた土岐氏とは?」「土岐氏の末裔とは?」「土岐氏の城とは?」わかりやすく解説します! https://kiboriguma.hatenadiary.jp/entry/toki
  5. 敵を作りすぎた「美濃のマムシ」斎藤道三は息子にも領民にも嫌われた⁉ - 歴史人 https://www.rekishijin.com/35287
  6. 加納口の戦い(天文十六年九月二十二日) - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/data2/tenbun160922.html
  7. 加納口の戦い|一万人の戦国武将 https://sengoku.hmkikaku.com/dekigoto/31mino/15440922kanougutinotatakai.html
  8. 美濃守護・土岐頼芸が最後に拠った大桑城跡に立つ。14㎞先に望む斎藤道三・稲葉山城に戦国の悲哀を想う【麒麟がくる 満喫リポート】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/390038
  9. 美濃斎藤家滅亡・序章 - 織田信長と戦国武将 - FC2 http://1kyuugoukaku.blog.fc2.com/blog-entry-178.html
  10. 斎藤道三の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7564/
  11. 斎藤道三の武将年表/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/62978/
  12. 斎藤家 と 斎藤道三 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/saitou.htm
  13. 「美濃の蝮」として恐れられた斎藤道三は https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001552214.pdf
  14. 織田信康(織田信康と城一覧)/ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/78/
  15. 織田信康 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%BA%B7
  16. 斎藤道三(さいとう どうさん) 拙者の履歴書 Vol.22〜下剋上の蝮、美濃を制す - note https://note.com/digitaljokers/n/nb083ea2d9096
  17. 「道三の罠」に大敗! 信長の父・織田信秀の波乱万丈人生【麒麟がくる 満喫リポート】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/386725
  18. 美濃のマムシと呼ばれた男、斎藤道三。恐るべき下剋上の真実とは - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/76374/
  19. 稲葉山城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%91%89%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  20. 織田信長の合戦年表 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/84754/
  21. 加治田城と堂洞城 - 富加町 https://www.town.tomika.gifu.jp/docs/243.html