堅田・湖上戦(1570)
元亀元年、信長包囲網下の織田信長は、琵琶湖の制水権を巡り堅田衆を味方につけ、浅井・朝倉連合軍に奇襲を仕掛ける。しかし、連合軍の反撃で織田方は敗北し、坂井政尚が討死。この敗戦が信長に比叡山焼き討ちを決意させ、近江支配戦略を転換させた。
元亀元年 堅田・湖上戦の真相 ― 琵琶湖の覇権を巡る二日間の攻防 ―
序章:元亀元年の激動 ― 信長、最大の危機
元亀元年(1570年)、織田信長は天下布武の道程において、かつてない規模の危機に直面していた。この年に勃発した「堅田・湖上戦」は、単独の戦闘としてではなく、信長を包囲する巨大な敵対勢力の網、すなわち「第一次信長包囲網」という激動の文脈の中で理解されなければならない。この戦いは、四面楚歌の状況に追い詰められた信長が、膠着した戦況を打破するために放った、乾坤一擲の奇襲作戦の結末であった。
全ての始まりは、同年4月の越前朝倉義景討伐に遡る。信長は徳川家康と共に朝倉領へ侵攻し、手筒山城、金ヶ崎城を次々と陥落させた 1 。しかし、その背後で、義弟であるはずの北近江の大名・浅井長政が突如として離反。信長は朝倉・浅井両軍に挟撃される絶体絶命の窮地に陥った 3 。木下秀吉(後の豊臣秀吉)や徳川家康らの決死の殿(しんがり)働きにより、信長は命からがら京へ逃げ延びる(金ヶ崎の退き口) 1 。この裏切りにより、織田と浅井・朝倉の関係は完全に破綻した 5 。
体勢を立て直した信長は、同年6月、徳川家康の援軍を得て浅井・朝倉連合軍との決戦に臨む。近江国姉川の河原で繰り広げられたこの「姉川の戦い」は、織田・徳川連合軍の辛勝に終わったものの、敵の戦力を根絶やしにするには至らなかった 6 。浅井・朝倉の勢力は依然として健在であり、信長にとって北近江の脅威は残り続けたのである。
さらに信長の苦境を深めたのが、同年8月に始まった「野田・福島の戦い」であった。三好三人衆が摂津国で蜂起し、これに石山本願寺の勢力が加わったことで、信長は主力軍を率いて摂津方面に釘付けにされてしまう 3 。この信長の不在は、浅井・朝倉連合軍に再起の絶好の機会を与えた。彼らはこの機を逃さず、総勢3万ともいわれる大軍を率いて、手薄となっていた琵琶湖西岸(湖西)を南下し、京の目前まで迫ったのである 9 。
京に敵が迫っているとの急報を受けた信長は、摂津戦線からの電撃的な撤退を決断。9月23日には京の本能寺に帰還する 9 。信長の急な転進を知った浅井・朝倉連合軍は、当時、不可侵の聖域とされていた比叡山延暦寺に立て籠もった 12 。信長はこれを坂本周辺から包囲。ここに、約3ヶ月にわたる長期対陣戦、「志賀の陣」の幕が切って落とされた 9 。堅田での攻防は、この絶望的な膠着状態の中で、信長が唯一見出した活路を求めるための、極めて危険な賭けとして実行されることになる。
第一章:湖上の支配者「堅田衆」― 琵琶湖の戦略的価値
堅田・湖上戦の舞台となった堅田は、単なる湖畔の集落ではなかった。この地は、琵琶湖の軍事・経済を支配する上で絶対に譲れない戦略的要衝であり、その価値の源泉は「堅田衆(かたたしゅう)」と呼ばれる特異な水上勢力の存在にあった。
堅田は、琵琶湖が最も狭まる「喉」の部分に位置する。この地理的条件により、古代から北陸地方と畿内を結ぶ物資輸送の大動脈である湖上水運の要港として栄えてきた 14 。ここを制する者は、琵琶湖の物流、ひいては周辺地域の経済を掌握することを意味した。
この地を拠点としたのが、「堅田衆」あるいは「湖族(こぞく)」と呼ばれる人々である。彼らは、琵琶湖全域における漁業権、湖上に関所を設けて通行料を徴収する権利(上乗権)、さらには造船権までをも掌握していた 16 。比叡山延暦寺や京都の下鴨神社といった伝統的権威の後ろ盾を得ながらも、猪飼(いかい)氏や居初(いそめ)氏といった地侍(殿原衆)と商人・漁民(全人衆)から成る独自の自治組織(宮座)を運営し、水軍とも呼べる強力な軍事力を保持した、独立性の高い勢力であった 17 。
永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛を果たした信長は、この堅田衆が持つ湖上支配力にいち早く着目した。信長は彼らが古来より有してきた特権を公式に認める(安堵する)ことで、自らの陣営に引き入れることに成功する 19 。新興勢力である信長と結びつくことは、堅田衆にとっても、六角氏や延暦寺といった旧来の支配者に代わる新たな庇護者を得て、自らの権益を維持・拡大するための現実的な選択であった 20 。
この関係は、堅田の戦いの本質が、単なる拠点の奪い合いに留まらないことを示唆している。それは、信長が「実利」を与えることで築き上げた在地勢力との新たな同盟関係が、浅井・朝倉・延暦寺という近江の旧来の秩序によって試された、いわば新旧勢力による「人心」の争奪戦であった。浅井・朝倉側から見れば、信長に与した堅田衆は許しがたい裏切り者であり、堅田への攻撃は失地回復と裏切り者への懲罰という二重の意味を持っていたのである。
第二章:電光石火の奇襲 ― 織田軍、堅田を掌握(元亀元年11月25日)
比叡山での対陣が2ヶ月を超え、冬の訪れと共に戦況が膠着する中、信長のもとに千載一遇の好機が舞い込む。堅田衆の有力者である猪飼昇貞(いかい のぶさだ)、居初又次郎(いそめ またじろう)、そして馬場孫次郎らが、信長へ内通を申し入れてきたのである 9 。彼らは、浅井・朝倉の支配下に入ることを良しとせず、再び信長方につくことを決断したのだ。
信長はこの好機を逃さなかった。即座に堅田の奪回と、そこを拠点とした敵補給路の遮断作戦を決定する。この危険な任務を遂行する別動隊の大将として、美濃出身の歴戦の将である坂井政尚(さかい まさひさ)が任命された 9 。部隊は、安藤右衛門佐(安藤守就か)、桑原平兵衛といった武将たちで固められ、兵力は約1,000の精鋭であった 9 。
元亀元年11月25日、深夜。坂井政尚率いる織田軍別動隊は、猪飼ら内通者の手引きによって、比叡山に布陣する浅井・朝倉連合軍に全く察知されることなく、密かに堅田の砦(堅田寺城ともいわれる)への入城を果たした 21 。作戦の第一段階は完璧な成功を収めた。彼らの目的は、堅田を確保して琵琶湖の制水権を完全に掌握し、比叡山に籠る3万の敵軍への兵糧や物資の補給、特に湖上からの搬入ルートを遮断することにあった 9 。成功すれば、敵を内部から瓦解させ、志賀の陣そのものを終結に導く可能性を秘めた、まさに起死回生の一手であった。
しかし、この作戦は極めて大きなリスクを内包していた。兵力1,000という数は、敵の大軍が目と鼻の先にいる状況下で拠点を維持するにはあまりにも少ない。この計画は、敵が織田軍の動きに即座に反応できないだろうという、ある種、楽観的な見通しの上に成り立っていた。作戦の成否は、ひとえに「奇襲の継続性」、すなわち、敵に有効な反撃の準備をさせない時間的猶予をどれだけ稼げるかにかかっていた。だが、織田方のこの想定は、致命的なまでに甘いものであったことが、翌日、明らかとなる。
第三章:血戦、琵琶湖畔 ― 浅井・朝倉連合軍の逆襲(元亀元年11月26日)
織田軍の奇襲成功の報は、驚くべき速さで比叡山の連合軍本陣に届いた。堅田と比叡山は物理的に極めて近い距離にあり、地域住民からの通報か、あるいは極めて優秀な斥候網によって、坂井政尚の堅田入城は即座に察知されたのである 9 。
表:堅田・湖上戦(元亀元年11月26日)における両軍の構成
軍勢 |
総大将/指揮官 |
主要武将・勢力 |
兵力(推定) |
作戦目的 |
織田軍 |
坂井政尚 |
安藤守就、桑原平兵衛、猪飼昇貞、居初又次郎ら堅田衆 |
約1,000名 |
堅田衆の内応を機に堅田を確保し、連合軍の湖上補給路を遮断する。 |
浅井・朝倉連合軍 |
朝倉景鏡 |
前波景当、一向宗門徒など |
不明(織田軍を数倍上回る規模) |
織田軍の奇襲を阻止し、堅田を奪回。琵琶湖西岸の支配権を維持する。 |
連合軍の意思決定は迅速かつ的確であった。これまで優柔不断と評されることもあった朝倉軍であったが、この危機に際しては見事な組織的対応能力を見せる。朝倉一門の総大将格である朝倉景鏡(あさくら かげあきら)と、勇将として知られた前波景当(まえば かげまさ)が率いる部隊が、一向宗門徒も加えて編成され、11月26日の夜明けと共に比叡山から出撃。怒涛の勢いで堅田へと殺到した 9 。
堅田の坂井政尚の部隊は、砦の防備を固める時間的猶予もほとんどないまま、自軍を遥かに凌駕する大軍に四方を完全に包囲された。彼らは湖畔の砦に完全に孤立し、信長本隊からの援軍は望めない絶望的な状況に陥った。
戦闘は凄惨を極めた。数で圧倒的に劣る織田軍であったが、その抵抗は熾烈を極めた。乱戦の中、坂井政尚の部隊は敵の将・前波景当を討ち取るという大きな戦果を挙げる 9 。これは、彼らが一方的に蹂躙されたのではなく、最後まで死力を尽くして戦ったことの証左である。しかし、大勢を覆すには至らなかった。次々と押し寄せる連合軍の波状攻撃の前に、織田方の防衛線は次第に切り崩されていく。
そして同日夕刻、ついに砦は陥落。大将の坂井政尚は壮絶な討死を遂げた 9 。彼と共に多くの将兵が湖畔の地に骨を埋め、信長の起死回生を託された別動隊は壊滅した。
この地獄絵図の中、内通者であった猪飼昇貞、居初又次郎ら堅田衆は、その真価を発揮する。陸上の戦いでは勝機がないと見るや、彼らは自らが知り尽くした水路と巧みな操船術を駆使し、手勢を率いて船で琵琶湖上へと脱出した 9 。陸上では無敵を誇る浅井・朝倉の兵も、湖上に出た彼らを追う術を持たない。この決死の湖上脱出は、堅田衆の価値が単なる地理的優位性だけでなく、湖上における圧倒的な機動力と生存能力にあることを証明した瞬間であった。彼らのこの能力こそ、信長が後々まで彼らを重用し、織田水軍の礎としていく理由となるのである。
第四章:勝敗の行方と戦後の動静
堅田における織田軍別動隊の壊滅は、志賀の陣全体の戦局に決定的な影響を与えた。堅田を確保し、敵の補給路を断つという信長の戦略目標は完全に頓挫した。それどころか、坂井政尚という有能な部将と1,000の精兵を失うという、極めて手痛い損害を被ったのである 9 。これにより、比叡山を包囲する信長の立場はさらに悪化し、短期決戦の望みは完全に絶たれた。
この敗戦は、信長に現実的な判断を迫ることになる。堅田での戦闘からわずか2日後の11月28日、将軍・足利義昭と朝廷(関白・二条晴良ら)が和睦の勅使として坂本へ下向し、両軍の調停に乗り出した 11 。これ以上の対陣は不利と判断した信長は、この調停を受け入れる。同年12月、織田方と浅井・朝倉方との間に和睦が成立し、約3ヶ月に及んだ志賀の陣は、明確な勝敗がつかないまま終結した 9 。
しかし、この和睦は一時的な休戦に過ぎず、深い禍根を残した。特に、浅井・朝倉軍を匿い、積極的に支援した比叡山延暦寺に対し、信長の怒りは頂点に達していた。この時の憎悪が、翌元亀2年(1571年)9月に行われる、聖域を焼き尽くすという前代未聞の「比叡山焼き討ち」へと直結していくのである 3 。
同時に、堅田での敗北は、信長の近江支配戦略を根本から見直させる契機となった。堅田衆のような在地勢力との協力関係に依存する支配体制の脆弱性を痛感した信長は、より直接的で恒久的な支配体制の構築へと舵を切る。比叡山焼き討ちの後、信長は腹心の明智光秀に滋賀郡を与え、琵琶湖の制水権を完全に掌握するための拠点として、湖畔に壮麗な「坂本城」を築かせた 24 。これは、在地勢力への依存から脱却し、自らの直轄水軍による盤石な支配を目指すという、信長の戦略的進化の象徴であった。堅田での手痛い敗北という「授業料」は、結果として、信長により強固で近代的な領国支配のシステムを構築させるための重要な教訓となったのである。
結論:堅田・湖上戦が戦国史に与えた影響
元亀元年(1570年)11月に琵琶湖畔で繰り広げられた「堅田・湖上戦」は、戦国史においてしばしば見過ごされがちな局地戦である。しかし、その詳細を検証すると、この二日間の攻防が織田信長の天下布武の道程において、極めて重要な意味を持つ戦いであったことが明らかになる。
第一に、この戦いは「織田方が琵琶湖水運で優勢を確保した」という一部の認識を覆す、明確な 織田方の戦術的完敗 であった。信長が起死回生を狙って放った奇襲作戦は、浅井・朝倉連合軍の迅速かつ的確な反撃によって完全に粉砕され、多大な人的損害を被って失敗に終わった。
第二に、この敗北は、当時信長が直面していた「第一次信長包囲網」がいかに深刻なものであったかを象徴している。浅井・朝倉軍が見せた組織的な対応能力は、信長の敵対勢力が決して侮れない実力を有していたことを示しており、信長の天下統一事業が決して順風満帆ではなかったという厳しい現実を物語っている。
そして最も重要な点は、この敗戦がその後の歴史の潮流を大きく変える転換点となったことである。短期的には、戦術的敗北が信長に「志賀の陣」での和睦を決断させる直接的な原因となった。そして長期的には、この戦いで浅井・朝倉を支援した比叡山延暦寺への拭い難い憎悪を植え付け、翌年の比叡山焼き討ちという苛烈な行動へと繋がった。さらに、在地勢力に依存する支配の限界を痛感させたことで、明智光秀による坂本城築城と直轄水軍の整備という、より強固な近江支配体制への戦略的転換を促した。
結論として、堅田・湖上戦は、信長にとって苦い敗北であった。しかし、その敗北から得た教訓こそが、後の彼の支配戦略をより洗練させ、強固なものへと進化させる原動力となった。琵琶湖畔での小さな、しかし血塗られたこの戦いは、織田信長という人物の戦略思想の変遷と、戦国時代の権力構造の変化を理解する上で、決して欠かすことのできない一頁なのである。
引用文献
- 歴史シリーズ「近江と徳川家康」① 姉川古戦場 - ここ滋賀 -COCOSHIGA- https://cocoshiga.jp/official/topic/ieyasu01/
- 1570年 – 72年 信長包囲網と西上作戦 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1570/
- 朝倉氏の歴史 - 福井市 https://asakura-museum.pref.fukui.lg.jp/site/history
- 徳川家康の「姉川の戦い」の背景・結果を解説|家康の機転で形勢逆転した戦い【日本史事件録】 https://serai.jp/hobby/1123503
- 一乗谷城の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11096/
- 姉川の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11094/
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- 志賀の陣・比叡山焼き討ち /信長包囲網が形成され、信長の苦悩が始まった。 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=m5ze3dAcAlg
- 元亀元年の戦い - 天下は朝倉殿に(3)志賀の陣 http://fukuihis.web.fc2.com/war/war082.html
- 朝倉義景 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E7%BE%A9%E6%99%AF
- 志賀の陣古戦場:滋賀県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/shiga-no-jin/
- 中世における近江堅固と諸勢力の動向 湖上の権益をめぐってー https://opac.ryukoku.ac.jp/iwjs0005opc/bdyview.do?bodyid=BD00005239&elmid=Body&fname=rd-bn-ky_036_010.pdf&loginflg=on&once=true
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- 中世の自治都市・堅田で古い町並みを撮る〜滋賀県カメラ散歩 https://atelier-pentad.com/blog/shiga/katata/
- 居初家天然図画亭|大津の文化財 - 大津市歴史博物館 https://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/db/bunka/detail.html?6
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- 織田信長公三十六功臣 | 建勲神社 https://kenkun-jinja.org/nmv36/
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- 明智光秀公ゆかりの地 - びわ湖大津トラベルガイド https://otsu.or.jp/wp/wp-content/uploads/2019/04/70b9690bd10004978a989a5981ae9d34.pdf
- 光秀ゆかりのスポット | 【公式】びわ湖大津・光秀大博覧会 https://otsu.or.jp/mitsuhide/spot/