塩尻峠の戦い(1548)
天文17年、武田信玄は上田原の敗戦後、塩尻峠で小笠原長時を奇襲し大勝。信濃守護の権威を完全に失墜させ、信濃平定を大きく前進させた。
天文十七年・塩尻峠の戦い ― 武田信玄、逆転の智略と信濃守護の落日
序論:運命を分けた塩尻峠
日本の戦国時代史において、一日の合戦がその後の勢力図を劇的に塗り替える例は少なくない。天文17年(1548年)7月19日、信濃国(現在の長野県)の塩尻峠で繰り広げられた武田晴信(後の信玄)と小笠原長時との戦いは、まさにその典型であった。この戦いは、単なる一地方豪族間の衝突に留まらず、若き武田晴信の信濃平定戦略における決定的な転換点であり、ひいては信濃国全体の運命を左右する分水嶺となったのである 1 。
わずか5ヶ月前、晴信は上田原の戦いで北信濃の雄・村上義清に生涯初の大敗を喫し、譜代の重臣を失い自らも傷を負うという最大の危機に瀕していた 3 。武田氏の信濃における権益は風前の灯火と見なされ、これまで服属していた国人衆は次々と離反の動きを見せていた 4 。しかし、この塩尻峠において、晴信は劣勢と見られた状況を覆し、信濃守護という旧来の権威を象徴する小笠原長時軍を壊滅させるという圧倒的な勝利を収める。
なぜ武田軍は、短期間でかくも見事な再生を遂げ、圧勝を手にすることができたのか。そして、鎌倉時代以来の名門であり、信濃国の最高権威者たる守護職・小笠原氏は、なぜこれほどまでに脆く、無残に敗れ去ったのか。本報告書は、これらの問いを解明すべく、『高白斎記』や『妙法寺記』などの一次史料を丹念に読み解き、合戦の背景、両将の戦略と心理、そして戦闘の経過を時系列に沿って徹底的に分析する。特に、合戦当日の両軍の動きをリアルタイムで再現することにより、智略と油断が交錯した戦場の実像に迫ることを目的とする。この一戦が、武田信玄を稀代の戦略家へと飛躍させ、信濃支配を決定づける「足掛かり」となった歴史的意義を明らかにしていきたい 5 。
第一章:上田原の衝撃 ― 武田晴信、生涯初の敗北
第一節:慢心と蹉跌 ― 天文17年2月、上田原
塩尻峠の戦いを理解する上で、その前哨戦ともいえる上田原の戦いについて詳述することは不可欠である。天文17年(1548年)2月、当時28歳の武田晴信は、信濃侵攻を着実に進めていた 7 。父・信虎を追放して以来、諏訪氏を滅ぼし、伊那、佐久へと勢力を拡大してきた晴信にとって、その道程は比較的順調であった 2 。しかし、その成功体験が、北信濃に盤踞する村上義清という強敵に対する油断を生んでいた可能性は否定できない。
晴信は、約7,000から8,000とされる兵を率いて、村上氏の本拠地である葛尾城を目指し進軍した 9 。対する村上軍の兵力は同等かそれ以下と推定されるが、地の利は完全に村上側にあった 9 。武田軍は2月という信濃で最も厳しい寒さの中、大門峠を越えるという長い遠征で疲労が蓄積しており、戦場となった上田原の段丘地形も熟知していなかった 9 。
2月14日、両軍は激突。武田軍の先陣を務めた板垣信方は、当初こそ村上軍の一部を撃破したものの、勝利を急ぐあまり深追いしすぎた 10 。これが戦術的な致命傷となる。地の利を活かした村上軍の巧みな反撃に遭い、武田軍の先陣は孤立し、混乱に陥った。結果、武田軍は700人以上もの戦死者を出すという、晴信にとって生涯初となる惨敗を喫したのである 3 。
第二節:失われた両腕 ― 板垣信方・甘利虎泰の戦死
この敗北が武田家にもたらした衝撃は、単なる兵の損失に留まらなかった。合戦の最中、武田家を草創期から支えてきた二人の宿老、板垣信方と甘利虎泰が討死したのである 3 。彼らは「武田の四天王」にも数えられる重臣中の重臣であり、その死は武田軍の指揮系統に深刻な打撃を与えた。
特に板垣信方は、晴信が制圧した諏訪郡の郡代として現地の統治を任されており、彼の死は武田氏の諏訪支配の根幹を揺るがす事態であった 12 。軍事・政治の両面で晴信を支えてきた「両腕」とも言うべき存在を同時に失ったことは、武田家にとって計り知れない損失であった。さらに、晴信自身もこの戦いで二箇所の傷を負ったとされ、個人的な挫折感も大きかったと推察される 12 。
この手痛い敗戦は、若き晴信に力押しだけでは信濃のような国人衆が割拠する地を制圧できないという現実を痛感させた。それまでの成功体験からくる慢心は打ち砕かれ、より慎重かつ緻密な戦略、特に敵の心理を突く謀略や調略の重要性を認識する契機となったと考えられる 13 。上田原での敗北は、晴信が単なる猛将から、後に「甲斐の虎」と恐れられる智将へと成長するための、いわば「成長の触媒」となったのである。この経験なくして、後の塩尻峠で見せる洗練された智略は生まれなかったであろう。
第三節:信濃に広がる動揺と反武田の狼煙
「武田軍、上田原にて大敗」。この報は、瞬く間に信濃全土を駆け巡り、これまで武田の威勢に服していた国人衆の心を大きく揺さぶった 1 。武田氏の支配は盤石ではないと見た彼らの間で、反武田の機運が一気に高まったのである 3 。
この好機を逃さなかったのが、信濃守護の小笠原長時であった。彼は村上義清と連携し、武田氏への反攻を開始する 3 。佐久郡では在地土豪による一揆が頻発し、諏訪郡でも武田に反旗を翻す動きが顕在化するなど、信濃における武田氏の支配体制は、まさに崩壊の危機に瀕していた 15 。上田原の敗戦は、信濃の勢力図を再び流動化させ、塩尻峠での決戦へと至る直接的な引き金となったのである。
第二章:好機到来 ― 信濃守護・小笠原長時の決断
第一節:名門・信濃守護の実像
武田晴信の前に立ちはだかった小笠原長時は、単なる一地方の豪族ではなかった。その家系は甲斐源氏の祖・源清光に遡り、武田氏とは同族にあたる 1 。鎌倉時代以来、信濃国の守護職を世襲してきた名門中の名門であり、長時はその正統な当主であった 14 。当時、信濃では小笠原氏、村上氏、諏訪氏、木曽氏が「四大将」と称されるほどの勢力を誇っていたが、その中でも小笠原氏は筆頭格と見なされていた 17 。
しかし、戦国時代の「守護」という職は、室町幕府の権威失墜とともに形骸化が進んでいた。長時の実質的な支配力は、本拠地である林城(現在の松本市)を中心とした筑摩郡と安曇郡の二郡に限定されており、信濃全土を統制するほどの力は持ち合わせていなかった 16 。村上義清のような有力国人は、守護の権威を認めつつも、事実上半独立した勢力として存在していたのである 17 。長時の権力基盤は、その輝かしい家名とは裏腹に、決して盤石なものではなかった。
第二節:弓馬の達人、将としての器量
小笠原長時という人物を評価する際、その卓越した個人的武勇は特筆に値する。彼は武家故実の集大成である「小笠原流弓馬術礼法」の宗家として、特に弓術と馬術においては当代随一の腕前を誇っていた 19 。ある戦では、自ら敵兵18人を斬り倒したという逸話も残るほど、一人の武人としては比類なき強さを持っていた 19 。
しかし、その個人的武勇が、大軍を率いる将帥としての能力に直結しなかった点が、彼の悲劇であった。史料を紐解くと、彼の指揮官としての資質にはいくつかの疑問符がつく。例えば、塩尻峠の合戦に先立ち、小笠原軍に加わっていた安曇郡の仁科氏が和睦を進言した際、長時はこれを頑として聞き入れなかった。これに腹を立てた仁科氏は軍勢を引き上げてしまったとされ、彼の頑迷さが軍の結束を弱める一因となったことが示唆されている 7 。個人の技量は優れていても、多様な国人衆の思惑を調整し、一つの軍団としてまとめ上げる統率力や戦略的な柔軟性には欠けていたと言わざるを得ない。
第三節:反武田連合の形成と諏訪への侵攻
上田原での武田軍敗北は、長時にとって千載一遇の好機であった。彼はこれを機に、信濃から武田勢力を一掃すべく、村上義清や仁科氏らと連携し、武田の支配下にある諏訪郡への侵攻を開始した 7 。
しかし、その侵攻は当初から順調とは言えなかった。まず、天文17年4月、諏訪大社下社の御柱祭の隙を突いて侵攻するも、周辺を焼き払うに留まり、大きな戦果なく撤退している 1 。
続く6月10日には再度下諏訪に乱入するが、今度は武田方についた下社の社人や諏訪衆の思わぬ反撃に遭遇する。この戦闘で小笠原軍は騎士17人、雑兵100人余りを討ち取られ、長時自身も二箇所の傷を負って敗走するという屈辱的な結果に終わった 7 。この二度にわたる侵攻の失敗は、長時の守護としての権威を傷つけ、彼の焦りを増幅させたと考えられる。彼の行動原理は、単なる失地回復という戦略的目標以上に、「守護としての権威を信濃国人衆に誇示する」という、多分に感情的な動機に突き動かされていた。この名門としてのプライドと焦りが、後の塩尻峠における致命的な油断へと繋がっていくのである。
第三章:決戦前夜 ― 諏訪を巡る攻防と晴信の深謀
第一節:諏訪西方衆の蜂起
小笠原長時の度重なる侵攻は、武田氏の支配が揺らぐ諏訪地方の在地勢力を刺激した。天文17年7月10日、諏訪郡西方の国人領主である矢島氏、花岡氏らが小笠原氏に呼応し、ついに武田氏に対して反旗を翻した 7 。彼らは武田方の拠点である上諏訪に攻め寄せ、諏訪地方は一気に緊迫の度を増す 10 。
この反乱は、武田方の諏訪衆に深刻な動揺を与えた。千野靫負尉といった武将たちは、家族を捨てて家臣だけを連れ、上原城への籠城を余儀なくされた 7 。また、諏訪大社の最高権威者である神長官・守矢頼真も、祭祀に用いる神聖な道具を収めた「神秘の皮籠」だけを手に、命からがら上原城へ逃げ込むという有様であった 1 。この逸話は、当時の武田方陣営がいかに切迫した状況に追い込まれていたかを如実に物語っている。諏訪の武田支配は、まさに崩壊寸前であった。
第二節:晴信の「静かなる」出陣
諏訪の危機的状況を伝える報せは、直ちに甲府の武田晴信のもとへ届いた。晴信は7月11日、事態を収拾すべく甲府を出陣する 4 。しかし、ここからの彼の行動は常軌を逸していた。通常であれば、一刻も早く危機に瀕した味方を救援すべく急行するのが定石である。だが晴信は、甲斐と信濃の国境に近い大井森(現在の山梨県北杜市長坂町)に到着すると、7月18日までの実に一週間もの間、そこに滞陣して全く動こうとしなかったのである 1 。
この不可解な遅延行軍は、単なる逡巡や情報収集のためだけではなかった。これは、敵である小笠原長時を油断させるための、高度に計算された心理戦であった 12 。晴信は、あえて動かないことで長時に「武田は上田原の敗戦から立ち直れず、迅速な対応ができない」と誤認させようとした。この静止した一週間の間に、晴信は敵陣の情報を詳細に分析し、敵内部に潜む不満分子への調略を水面下で進めていた可能性が高い 1 。晴信は、戦いの主導権は先に動いた小笠原軍にあると錯覚させることで、逆に戦いの時間と空間を完全に支配し、敵を精神的に武装解除させるという、極めて能動的な戦略を展開していたのである。
第三節:塩尻峠への布陣と小笠原軍の慢心
晴信の思惑通り、小笠原長時は武田軍の遅滞を好機と捉えた。7月15日、長時は約5,000の兵を率いて塩尻峠に陣を敷いた 7 。この地は諏訪盆地を一望できる戦略的要衝であり、南下してくる武田軍を迎え撃つには絶好の布陣であった。兵力においても、武田軍の約3,000に対して優位に立っていた 22 。
しかし、日を追えど武田軍は姿を見せない。有利な地形を占拠し、兵力でも勝るという状況は、小笠原軍の陣中に次第に気の緩みをもたらした 4 。当初の緊張感は薄れ、警戒態勢は麻痺していった 12 。さらに、小笠原軍は信濃各地からかき集められた国人衆の寄せ集めであり、その結束は脆弱であった 12 。前述の通り、仁科氏が作戦対立から軍を引いてしまうなど、内部には不協和音も生じていた 7 。長時は、自らが戦場をコントロールしているという感覚に浸り、晴信が仕掛けた巧妙な罠に、知らず知らずのうちにはまり込んでいったのである。
第四章:電光石火 ― 塩尻峠の合戦、そのリアルタイム詳解
第一節:嵐の前の静寂 ― 7月18日
7月18日の夕刻、一週間にわたる静寂は突如として破られた。武田晴信は、大井森の陣を電撃的に払うと、夜陰に乗じて約20kmの道のりを踏破し、深夜には上原城へ入城した 7 。この神速の行軍は、小笠原方の斥候網を完全に欺き、その接近を全く察知させなかった。
上原城に籠城していた守矢頼真をはじめとする武田方の者たちは、晴信の到着に安堵したことであろう。晴信は兵たちに束の間の休息と兵糧を与え、英気を養わせた 7 。しかし、それは次なる作戦への序曲に過ぎなかった。この夜、上原城に立ち上る炊煙は、反撃の狼煙でもあったのである。
第二節:闇夜の強行軍 ― 7月19日(深夜〜未明)
晴信の真の狙いは、上原城での防戦ではなかった。彼は城でほとんど休むことなく、全軍に再出撃を命令。真夜中の闇に紛れて、諏訪湖畔を抜け、決戦の地である塩尻峠へと向かう夜間強行軍を開始した 7 。この行動は、常識を超えた機動力であり、小笠原軍の想定を完全に覆すものであった。
この強行軍のルートについては、当時の中山道であった正規の塩尻峠ではなく、より険阻で知られる**勝弦峠(かっつるとうげ)**を密かに迂回したという説が有力視されている 6 。勝弦峠は塩尻峠の南に位置し、ここを越えれば小笠原軍の陣の側面、あるいは背後を突くことが可能となる。この予期せぬ進軍路の選択こそが、奇襲の成否を分ける決定的な要因となった。闇と地形を味方につけた武田軍は、夜明け前には小笠原軍の陣地に忍び寄っていた。
第三節:暁の惨劇 ― 7月19日(卯の刻・午前5時〜7時頃)
天文17年7月19日、東の空が白み始める頃、武田軍は塩尻峠に布陣する小笠原軍の死角に突如としてその姿を現した。『神使御頭之日記』によれば、攻撃が開始されたのは**卯の刻(午前6時頃)**と記録されている 7 。
その時の小笠原軍の状況は、惨憺たるものであった。一週間にわたる待機で完全に油断しきっており、陣中の兵の過半数はまだ就寝中であった 12 。『守矢信実訴状』には「武具など着けている者は一人もなく、半分ていどの兵たちが刀で反撃しただけ」という、生々しい記述が残されている 7 。彼らは組織的な抵抗を行うどころか、寝込みを襲われ、何が起きたのかも理解できないまま大混乱に陥った 1 。
戦いは、もはや合戦とは呼べない一方的な殺戮と化した。武田軍の鬨の声が、小笠原軍兵士の断末魔の叫びにかき消されていった。『妙法寺記』は、その凄惨さを「ことごとく小笠原殿の人数を打殺しに被食候」と、まるで皆殺しであったかのように記している 7 。この奇襲により、小笠原軍は1,000人以上もの兵士が討ち取られ、軍団は完全に崩壊した 4 。小笠原長時は、わずかな供回りと共に、命からがら本拠地の林城へと敗走した。
第四節:裏切りの刃 ― 調略説の検証
この一方的な勝利の背景には、晴信による周到な調略があったとする説が根強く存在する。『小笠原系図』や『溝口家記』などの史料によれば、小笠原軍に属していた山家氏、三村氏、西牧氏といった国人衆が、事前に武田方に内応していたとされる 7 。
特に『小笠原系図』には、合戦は一日に六度繰り返され、五度目までは小笠原方が優勢であったが、最後の六度目の決戦で山家・三村の両氏が2,000余騎をもって裏切ったため、勝敗が決した、という具体的な記述が見られる 7 。もしこれが事実であれば、武田軍の奇襲は、敵内部の崩壊を誘発する引き金として機能したことになる。奇襲による物理的な打撃と、内応による心理的な打撃が組み合わさり、小笠原軍の崩壊を決定的なものにしたと考えられる。
ただし、この内応説には異論も存在する。山家氏や三村氏が、この戦いの後も筑摩郡で小笠原氏と共に武田氏と対峙している記録があることから、塩尻峠での内応は事実ではないとする見方もある 12 。史料によって記述が異なるため断定は難しいが、晴信が遅延行軍の間に何らかの調略活動を行っていたことは十分に考えられ、それが合戦の結果に影響を与えた可能性は高いと言えるだろう。
表:塩尻峠の戦い タイムライン(天文17年7月18日〜19日)
時刻(推定) |
武田軍(晴信)の動向 |
小笠原軍(長時)の状況 |
典拠史料 |
7月18日 |
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昼 |
大井森に滞陣。動きを見せず、小笠原軍を油断させる。 |
塩尻峠に布陣。武田軍の遅滞に気の緩みが生じ始める。 |
7 |
夕刻〜夜 |
大井森から上原城へ約20kmを電撃的に強行軍、入城。 |
斥候網を突破され、武田軍の接近を察知できず。 |
7 |
7月19日 |
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|
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深夜 |
上原城で兵に仮眠と食事を与えた後、直ちに出陣。闇夜に乗じ塩尻峠(勝弦峠経由か)へ進軍。 |
陣中で警戒を解き、大半が就寝中。夜襲への備えは皆無。 |
7 |
未明 |
小笠原軍の陣の背後・側面に到達。攻撃態勢を整える。 |
完全に無警戒。武田軍の奇襲を全く予期せず。 |
7 |
卯の刻(午前6時頃) |
一斉に奇襲攻撃を開始。 |
武具も付けぬまま襲われ、組織的抵抗不能な大混乱に陥る。 |
7 |
午前中 |
一方的な勝利。敗走する小笠原軍を追撃。 |
総崩れとなり、長時は僅かな供回りと共に林城へ敗走。死者1,000人以上。 |
4 |
第五章:勝者と敗者 ― 戦後処理と信濃府中の平定
第一節:信濃守護の落日
塩尻峠での惨敗は、小笠原長時の運命を決定づけた。命からがら本拠地の林城へ逃げ帰ったものの、もはや彼に往時の威光はなかった 1 。この一戦で信濃守護としての権威は完全に失墜し、麾下の国人衆の動揺と離反を招いた 14 。武田氏に対抗する力は、もはや残されていなかった。
二年後の天文19年(1550年)7月、武田晴信は満を持して信濃府中、すなわち松本平への本格的な侵攻を開始する(林城の戦い) 27 。支城が次々と陥落する中、長時は組織的な抵抗もできず、ついに居城である林城を放棄。北信濃の村上義清を頼って落ち延びていった 2 。これにより、信濃国の中核地帯は完全に武田の支配下に入った。
その後の長時の人生は、流浪の連続であった。村上義清が武田に敗れると、越後の上杉謙信、京の三好長慶などを頼り、失地回復を夢見るも叶わなかった 16 。最終的には会津の蘆名氏のもとに身を寄せたが、天正11年(1583年)、家臣の坂西勝三郎に斬り殺されるという悲劇的な最期を遂げた 30 。信濃の名門守護の末路は、戦国乱世の非情さを象徴するものであった。
第二節:晴信の信濃経営と非情なる論功行賞
塩尻峠の勝利者となった晴信は、息つく間もなく信濃平定を再開した。上田原の敗戦で失った威信をこの大勝で取り戻した彼は、9月には佐久郡の反抗勢力を鎮圧し、10月には小笠原氏への押さえとして、林城からわずか二里の地点に村井城を築城するなど、着実に支配領域を固めていった 12 。
この戦後処理において、晴信の統治者としての冷徹な一面が垣間見える。塩尻峠で武田方に内応したとされる三村長親の末路である。長親は戦功を認められ、恩賞が与えられるものと信じて甲府の一蓮寺に出向いた。しかし、晴信は彼を歓待するどころか、「一度主君を裏切る者は、またいつか裏切る」として、兵を差し向け寺を包囲。長親を一族郎党もろとも謀殺したのである 5 。
この非情な処断は、単なる個人的な不信感によるものではない。これは、信濃の国人衆に対する強烈な政治的メッセージであった。武田の秩序に組み込まれる以上、裏切りという行為は絶対に許されないという姿勢を恐怖と共に示すことで、支配体制を磐石にする狙いがあった。晴信は、軍事力で抵抗勢力(小笠原氏)を排除し、政治的恐怖で内なる不安要素(三村氏のような内応者)を排除するという二段構えで、信濃府中を完全に掌握したのである。これは、彼が単なる侵略者から、領国を経営する戦国大名へと変貌を遂げていく過程を示す象徴的な出来事であった。
第三節:戦場の記憶
塩尻峠の戦いの激しさは、今なお現地に残る史跡によって語り継がれている。峠の麓にある永井坂には、この戦いで命を落とした兵士たちを弔うために築かれた「首塚・胴塚」が現存しており、訪れる者に往時の惨劇を伝えている 6 。
この戦いの勝利は、武田氏の信濃支配を決定的なものにした。信濃中部を完全に手中に収めた晴信は、次なる標的を北信濃の村上義清に定める。やがて義清を越後へと追いやることになるこの動きが、結果として越後の「龍」上杉謙信を信濃の地へ引きずり出すことになる。日本戦国史上最も有名な対決と称される「川中島の戦い」は、この塩尻峠の勝利から始まる、より大きな歴史の潮流の中に位置づけられるのである 3 。
結論:智略と油断が交錯した一瞬
天文17年7月19日の塩尻峠の戦いは、武田晴信の戦歴、そして信濃攻略史において、画期的な意味を持つ一戦であった。それは、若き武将が敗北から学び、飛躍を遂げた瞬間であり、旧来の権威が新しい時代の力の前に脆くも崩れ去った瞬間でもあった。
この合戦の勝敗を分けた要因は、両軍の将帥の資質の違いに集約される。武田晴信は、上田原での手痛い敗戦を教訓とし、力押しに頼る戦術から脱却した。敵の心理を巧みに操る「遅延行軍」という心理戦、水面下で進められたであろう周到な「調略」という情報戦、そして常識を覆す「夜間強行軍からの奇襲」という機動戦。これらを知略の限りを尽くして完璧に融合させ、圧倒的な勝利を手にした。この一戦は、晴信が戦術家として大きく成熟したことを天下に示すものであった。
対照的に、小笠原長時は、信濃守護という名門の権威に固執するあまり、敵の力量を完全に見誤った。武芸に秀でた一個の武人ではあったが、寄せ集めの軍勢を統率し、変化する戦況に柔軟に対応する将器には恵まれなかった。彼の敗北は、血筋や家格といった旧来の価値観が、実力と智略が全てを決定する戦国乱世において、いかに無力であったかを象徴している。
わずか一日の、それも早朝の数時間で決したこの戦いは、その後の数十年にわたる信濃国の勢力図を完全に塗り替えた。信濃中南部を平定した武田氏は、北信濃、そして越後の上杉氏と対峙する強大な勢力へと成長する。塩尻峠の勝利は、武田信玄という名を戦国史に不滅のものとして刻み込む、極めて重要な一歩であったと言えるだろう。
引用文献
- 「塩尻峠の戦い(1548年)」信玄の信濃国制圧の転機となった戦い。佐久郡は再び平定へ。 https://sengoku-his.com/771
- 武田信玄の戦略図~豪族の群雄割拠が続く信濃に活路を求めた甲斐の虎 https://articles.mapple.net/bk/736/
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- 甲斐武田氏-戦った戦国大名- - harimaya.com http://www2.harimaya.com/takeda/html/t_arasou.html
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- 小笠原長時(オガサワラナガトキ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E9%95%B7%E6%99%82-39731
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- 小笠原長時 弓馬の腕は超一流!でも指揮官としての能力は?? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=v0mqyrHuz7A
- 小笠原長時(おがさわら ながとき) 拙者の履歴書 Vol.188~信濃守護の矜持と流離 - note https://note.com/digitaljokers/n/n21d450e8f19e
- 『小笠原右近大夫貞慶―武田信玄に敗れ没落した小笠原長時、その小笠原家を再興した小笠原貞慶の一代記』|感想・レビュー - 読書メーター https://bookmeter.com/books/11100020
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- 小笠原長時 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E9%95%B7%E6%99%82
- 永井坂の首塚・胴塚 - 塩尻市観光協会 https://tokimeguri.jp/guide/nagaisaka-kubizuka/
- 上杉謙信と武田信玄の5回に渡る川中島の戦い https://museum.umic.jp/ikushima/history/takeda-kawanakajima.html