最終更新日 2025-09-06

多度津城の戦い(1585)

天正十三年「多度津城の戦い」は、秀吉の四国征伐における無血開城であった。讃岐方面軍の阿波転進で香川信景は孤立し降伏。秀吉の戦略的チェックメイトが戦国の終焉と新時代の到来を告げた戦いである。
Perplexity」で合戦の概要や画像を参照

天正十三年・多度津城の戦いの真相:豊臣政権の四国平定における戦略的帰結の考察

序章:天正十三年、四国の風雲

天正13年(1585年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。織田信長が本能寺に倒れてわずか3年、その後継者として驚異的な速度で権力基盤を固めた羽柴秀吉は、天下統一の最終段階に着手していた 1 。山崎の戦いで明智光秀を討ち、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、小牧・長久手の戦いを経て徳川家康と和睦した秀吉の眼前には、もはや巨大な敵対勢力は数えるほどしか残されていなかった 2 。その一つが、四国全土を手中に収めつつあった「土佐の出来人」、長宗我部元親であった。

元親は、土佐国の一豪族から身を起こし、永禄年間から天正年間にかけ、破竹の勢いで領土を拡大した稀代の英雄である 3 。天正3年(1575年)に土佐を統一すると、その矛先は阿波、讃岐、伊予へと向けられた。天正10年(1582年)には中富川の戦いで阿波の三好氏勢力を駆逐し、同12年(1584年)には十河城を陥落させ讃岐を平定 2 。そして四国征伐が開始される直前の天正13年春、伊予の名門・河野氏を降伏させ、ついに四国統一という偉業をほぼ成し遂げたのであった 2

当初、元親と秀吉の関係は必ずしも敵対的ではなかった。しかし、信長の死後、秀吉が中央の覇権を確立していく過程で、元親の四国における独立した勢力拡大は、秀吉が構想する天下秩序にとって看過できない存在となっていった。秀吉は元親に対し、平定した伊予と讃岐を返上し、豊臣政権の秩序に組み込まれるよう要求した 2 。これは元親にとって、自らの力で勝ち取った成果を放棄せよというに等しい屈辱的な要求であった。交渉は決裂し、両雄の衝突は不可避となった 1

この対立は、単なる領土紛争ではなかった。それは、戦国乱世が生んだ二つの異なる「統一」の論理の激突であった。一つは、元親に代表される、一地方の覇者がその地域を実力で統一するという、旧来の「地域覇権」の論理。もう一つは、秀吉が推し進める、中央政権が全国の大名を序列化し、その支配下に置くという、近世的な「天下再編」の論理である。天正13年の四国征伐、そしてその一局面である「多度津城の戦い」は、後者の新しい論理が、前者の古い論理を圧倒し、吸収していく歴史的過程そのものであった。この巨大な潮流の中で、讃岐国西部に勢力を張った多度津城主・香川氏もまた、否応なく運命の決断を迫られることになる。

第一章:秀吉の鉄槌 ― 四国征伐作戦の全貌

長宗我部元親との交渉が決裂するや、秀吉の行動は迅速かつ苛烈を極めた。彼はこの戦いを、自らの天下統一事業における重要な一里塚と位置づけ、長宗我部氏の抵抗力を根こそぎ粉砕するべく、未曾有の大軍を動員した。その作戦計画は、周到に練り上げられた、圧倒的な物量と高度な戦略思想に裏打ちされたものであった。

総大将には、最も信頼する弟の羽柴秀長を任命 1 。秀長には事実上の全権が委任され、この四国平定戦が豊臣政権にとって最重要課題の一つであることを内外に示した。秀吉が立案した作戦の骨子は、長宗我部氏の領国に対し、三つの方面から同時に侵攻し、防衛線を飽和させ、戦略的に包囲殲滅するというものであった。

  • 阿波方面(主攻): 総大将・秀長自らが率いる約6万の主力軍団。摂津・和泉から淡路島を経由し、四国の玄関口である阿波国に上陸する。これは元親の本国・土佐への最短ルートであり、長宗我部軍の主力を引きつける役割を担っていた 7
  • 讃岐方面(助攻): 備前・美作の領主である宇喜多秀家を主将とし、軍師・黒田孝高、猛将・仙石秀久らを加えた約2万3000の軍勢。備前・播磨から瀬戸内海を渡り、讃岐国東部の屋島に上陸。阿波の主戦場を側面から支援し、讃岐の国人衆を制圧する任務を帯びていた 2
  • 伊予方面(助攻): 中国地方の覇者・毛利輝元を総大将とし、その叔父である小早川隆景、吉川元長が率いる約3万の軍勢。安芸から芸予諸島を渡り、伊予国北部に上陸。四国の西側から長宗我部領を切り崩し、完全な包囲網を完成させる役割を果たした 7

この三方面侵攻作戦の全貌は、以下の表に集約される。

【表1:豊臣軍四国侵攻部隊の編成(天正13年6月)】

方面

総大将/主将

主要武将

兵力(推定)

侵攻経路

阿波

羽柴秀長

羽柴秀次、蜂須賀正勝、筒井定次

約60,000

摂津・和泉 → 淡路島 → 阿波国

讃岐

宇喜多秀家

黒田孝高、仙石秀久

約23,000

備前・播磨 → 備讃瀬戸 → 讃岐国屋島

伊予

毛利輝元

小早川隆景、吉川元長

約30,000

安芸 → 芸予諸島 → 伊予国今治

合計

約113,000

豊臣軍の総兵力は10万を超え、対する長宗我部軍は四国全土からかき集めても最大で4万程度であった 2 。この3倍近い兵力差は、戦う前から勝敗がほぼ決していたことを物語っている。

秀吉の戦略の真骨頂は、単なる兵力差だけではない。彼は、長宗我部氏が瀬戸内海の制海権を完全には掌握できていないという戦略的弱点を的確に見抜いていた 8 。毛利水軍をはじめとする強力な水軍を動員し、瀬戸内海を自軍の兵力・兵站輸送のための「内海」として完璧に活用したのである。三方面からの同時上陸は、元親に防衛戦力を集中させる暇を与えず、補給路を脅かし、心理的にも「四方から包囲されている」という絶望的な状況を現出させた。元親は主力が侵攻してくるであろう阿波方面の防備を固めることに専念せざるを得ず、讃岐や伊予で起こる事態に有効な手を打つことができなかった 2 。この時点で、四国の諸城は個別に撃破される運命に置かれていたのである。

第二章:讃岐平定戦 ― 時系列による戦況再現

天正13年6月、秀吉の鉄槌は、寸分の狂いもなく四国に振り下ろされた。讃岐方面においても、宇喜多秀家率いる大軍団が、あたかも定められた手順を踏むかのように、長宗我部方の拠点を次々と蹂躙していった。その進軍は、讃岐の国人たちにとって、抗う術のない津波のようであった。

天正13年6月16日頃

備前・播磨の港を出帆した宇喜多秀家率いる2万3000の軍勢は、瀬戸内海を埋め尽くす大船団となって讃岐国東部の屋島に上陸した 2。その威容は、現地の国人たちの戦意を挫くのに十分であった。彼らの最初の目標は、長宗我部方が押さえる高松頼邑の喜岡城(当時の高松城)であった。

上陸直後

喜岡城を守る長宗我部方の兵力はわずか200。豊臣軍の圧倒的な兵力の前に、城は瞬く間に攻略され、城主・高松頼邑は討ち死にした 2。この緒戦の結末は、両軍の絶望的な戦力差を象徴する出来事となり、その報は讃岐全土を震撼させた。

6月下旬

喜岡城の陥落を皮切りに、豊臣軍は破竹の勢いで西進を開始する。香西佳清が守る香西城、そして牟礼城などが、抵抗らしい抵抗もできないまま次々と攻略、あるいは降伏勧告に応じて開城した 2。東讃岐から中讃岐にかけての国人領主たちは、豊臣軍の圧倒的な力と、迅速極まりない進軍速度の前に、組織的な抵抗を組み立てる間もなく、その軍門に下っていった。

7月上旬

豊臣軍の進撃は続き、戸波親武が守る堅城・植田城の城下に到達した 2。植田城は防備が固く、力攻めにすれば相当の損害と時間を要することが予測された。ここで、讃岐方面軍の運命、ひいては西讃岐の運命を決定づける軍議が開かれる。

この軍議において、軍監として従軍していた黒田官兵衛が、卓越した戦略的見地から献策を行った。官兵衛は、眼前の植田城を攻略するという戦術的勝利に固執することの非効率性を指摘。彼は、「この城の攻略に貴重な時間と兵力を費やすのは得策ではない。植田城は監視の部隊を残して放置し、軍の主力をただちに阿波国へ転進させ、総大将・秀長公の本隊と合流すべきである。それこそが、長宗我部元親の本陣に直接的な圧力を加え、この戦全体を早期に終結させる最善の策である」と主張したのである 2

この献策は、個々の城を落とすことよりも、敵の総大将を屈服させるという戦争の最終目標を最優先する、秀吉の軍事思想を完璧に体現したものであった。主将の宇喜多秀家をはじめとする諸将もこの策に同意。讃岐方面軍は、植田城を戦略的に「無視」するという大胆な決断を下し、大坂越え(現在の香川・徳島県境の峠道)を越えて阿波国へと侵入、秀長軍との合流を目指した 8

この黒田官兵衛による戦略的転換は、讃岐平定戦における決定的なターニングポイントであった。もし豊臣軍が植田城の攻略に手間取っていれば、西讃岐の諸将、とりわけ多度津に本拠を置く香川氏には、防備を固め、抵抗を準備する時間的猶予が生まれたかもしれない。しかし、主力が予想外の速さで目前を通り過ぎ、阿波の主戦場へと向かったことで、西讃岐の国人たちは完全に孤立し、組織的な抵抗の機会を永遠に失うことになったのである。

第三章:西讃岐の雄、香川氏と多度津・天霧城

讃岐方面軍の主力が阿波へと転進する中、西讃岐の地で固唾をのんで戦況を見守っていたのが、多度津を本拠とする香川氏であった。彼らこそ、本報告書の主題である「多度津城の戦い」の当事者となるはずの存在であった。

香川氏は、相模国香川庄を発祥とする桓武平氏の流れを汲む名門武家である 10 。南北朝時代、讃岐守護であった細川頼之に従って讃岐に入部し、その功績によって多度津の地を与えられた 10 。以来、代々西讃岐の守護代を務め、在地勢力として強固な基盤を築き上げてきた 12

しかし、戦国乱世の荒波は、この名門にも大きな変転をもたらした。四国統一の野望に燃える長宗我部元親が讃岐に侵攻すると、香川氏もその強大な力の前に屈せざるを得なかった。天正6年(1578年)頃、香川信景は元親の子・親和を養子として迎え入れ、事実上、長宗我部氏の軍門に下った 15 。この時点で、香川氏は独立した戦国大名ではなく、長宗我部家の四国支配体制に組み込まれた麾下の一将という立場になっていたのである。

その香川氏が拠点としていたのが、多度津城と天霧城という、役割の異なる二つの城であった。

  • 多度津城(本台山城): 多度津港を眼下に見下ろす、現在の桃陵公園一帯の丘陵に築かれた城である 10 。ここは香川氏の「平時の居館」であり、領国経営を行う政庁としての機能が中心であった 15 。瀬戸内海の海上交通の要衝である多度津の津(港)を直接支配下に置く、経済的・政治的に極めて重要な拠点であったが、大規模な籠城戦を想定した堅固な要塞ではなかったと考えられている 18
  • 天霧城: 多度津城の背後、善通寺市・三豊市・多度津町にまたがる標高382メートルの天霧山に築かれた、西讃岐随一の規模を誇る巨大な山城である 14 。ここは、有事の際に立て籠もるための「詰城(つめのしろ)」であり、尾根沿いに本丸、二の丸、三の丸が連なる連郭式の縄張りを持ち、石塁や堀切、井戸なども備えた難攻不落の要害であった 20

この「居館」と「詰城」を使い分ける二元的な防衛体制は、中世から戦国期にかけての国人領主に見られる典型的なものであった。しかし、豊臣秀吉が動員したような、圧倒的な兵力と高度な兵站能力を持つ近世的な大軍の前では、この伝統的な防衛システムは深刻なジレンマを抱えることになる。

豊臣軍が多度津に迫った場合、防御力の低い多度津城で戦うのは無謀である。定石通りならば、城を放棄して堅固な天霧城に立て籠もることになる。しかし、それは麓の城下町、経済の生命線である港、そして領民と田畑のすべてを敵の蹂躙に委ねることを意味する。領主として、それは耐え難い選択である。さらに、天霧城に籠城したとしても、主君である元親は阿波で釘付けにされており、援軍の望みは絶望的であった。圧倒的な兵力を持つ豊臣軍は、難攻不落の天霧城を力攻めにする必要すらない。ただ遠巻きに包囲し、補給路を断つだけで、城兵は早晩飢渇に苦しむことになる。備中高松城の水攻めなど、兵糧攻めを得意とする秀吉の戦法を考えれば、その結末は火を見るより明らかであった 23

戦うも地獄、籠もるも地獄。東から迫る豊臣軍の報に接した時、香川信景は、この絶望的な戦略的ジレンマの淵に立たされていたのである。

第四章:「多度津城の戦い」の真相 ― 戦わずしての終焉

利用者の方が当初提示された「多度津城の戦い(1585)」という合戦名は、歴史的事実として、極めて興味深い問題を提起している。なぜなら、豊臣秀吉の四国征伐に関する数多の史料を精査しても、多度津城や天霧城を舞台とした大規模な戦闘、すなわち攻城戦や野戦が繰り広げられたという具体的な記録は、実のところ見出すことができないからである 2 。この「史料の沈黙」こそが、「多度津城の戦い」の真相を解き明かす最大の鍵となる。

天正13年7月上旬から中旬にかけて、多度津城にいた香川信景が置かれていた状況を再構成してみよう。

  1. 東・中讃岐の崩壊: 宇喜多・黒田軍の上陸からわずか半月で、東讃岐と中讃岐の長宗我部方勢力は完全に制圧された。味方の城が次々と陥落、あるいは降伏したという報は、信景の元にもたらされていたはずである。
  2. 戦略的孤立: 讃岐方面軍の主力は阿波へと転進したが、讃岐平定のための別動隊が西進していた可能性は極めて高い。さらに西方の伊予からは、小早川隆景率いる毛利の大軍が破竹の勢いで東進しており、金子城などが陥落していた 8 。香川氏の領地は、東と西から豊臣の大軍に挟撃される危機に瀕していた。
  3. 主家の敗色濃厚: 最大の頼みである主君・長宗我部元親は、阿波の一宮城周辺で羽柴秀長率いる6万の大軍に包囲され、絶体絶命の窮地に陥っていた 8 。援軍が来る可能性は皆無であった。

この四面楚歌の状況下で、香川信景に残された選択肢は極めて限られていた。天霧城に籠城して徹底抗戦を叫ぶことは、一族郎党の皆殺しと領民の塗炭の苦しみを意味する。それは武士としての意地を示すことにはなっても、領主としての責任を放棄する行為に他ならない。

おそらく、この時期に豊臣方から降伏勧告の使者が送られたであろう。交渉役は、軍監として讃岐の戦況を熟知していた黒田官兵衛であった可能性も否定できない 25 。「長宗我部家の命運は尽きた。これ以上の無益な抵抗は、一族と領民を滅ぼすだけである。速やかに城を明け渡し、秀吉公の軍門に降られよ」――。このような内容の、抗いようのない現実を突きつける説得が行われたことは想像に難くない。

これらの状況証拠を総合的に判断するならば、導き出される結論は一つである。「多度津城の戦い」とは、刀や鉄砲が火花を散らす戦闘ではなかった。それは、圧倒的な軍事的・政治的圧力の前に行われた、**「無血開城」**という名の、戦わずしての終焉であった。香川信景は、豊臣軍の主力が多度津の城下に到達する以前の段階で、あるいは小規模な先遣隊が姿を現した時点で、抵抗を断念し、降伏を決断したと考えるのが最も合理的である。

この決断の結果、香川信景と養子の親和は、多度津城と天霧城を豊臣方に明け渡した。そして、主君・元親が土佐一国に減封されるのに伴い、彼らもまた長年支配した讃岐の地を離れ、土佐へと移住することになった 16 。ここに、南北朝時代から200年以上にわたって西讃岐に君臨した名門・香川氏は、事実上滅亡した。そして、彼らの栄枯盛衰の舞台であった多度津城と天霧城もまた、歴史の表舞台から姿を消し、廃城となったのである 17

多度津城の無血開城は、秀吉の戦争のやり方が、旧来の戦国大名のそれとは次元が異なることを如実に示している。彼は、実際の戦闘に訴える前に、圧倒的な兵力、多方面からの戦略的包囲、迅速な進軍、そして巧みな調略によって敵の戦意そのものを破壊した。香川信景の降伏は、臆病や敗北主義の産物ではなく、一族と領民の未来を守るために、戦国末期の領主が下した、苦渋に満ちた現実的な政治判断であった。それは、中世的な武士の名誉(戦って死ぬこと)よりも、近世的な領主の責任(家と領地を存続させること)を優先した結果と解釈することも可能であろう。

終章:四国平定の完成と新たな秩序

多度津城の無血開城は、讃岐平定戦の最終局面を象徴する出来事であった。時を同じくして、阿波、伊予の各戦線でも長宗我部方の抵抗は限界に達していた。天正13年7月25日、阿波の白地城に本陣を置いていた長宗我部元親は、ついに羽柴秀長の軍門に降り、降伏した 7 。同年8月6日、秀吉との間で和議が成立。その条件は、元親が土佐一国を安堵される代わりに、苦心して手に入れた阿波・讃岐・伊予の三国をすべて没収されるという、厳しいものであった 1 。元親の四国統一の夢は、完成からわずか数ヶ月にして、儚くも潰え去ったのである 28

四国平定後、秀吉はただちに新たな支配体制の構築に着手した。いわゆる「国分け」である。

  • 阿波国: 秀吉の腹心である蜂須賀家政に与えられた 7
  • 伊予国: 同盟者である毛利氏の重鎮、小早川隆景が拝領した 7
  • 讃岐国: 淡路を拠点に四国攻めの先駆けを務めた仙石秀久に与えられた 5 。秀久は聖通寺城や高松城を拠点として、讃岐の統治を開始した 30

この国分けは、四国の政治構造が根本的に変革されたことを意味した。香川氏のような、土地に深く根差した中世的な国人領主はことごとく排除され、その代わりに秀吉の信頼が厚い直臣や、強力な同盟大名が配置された。これは、在地性の強い旧来の支配体制から、豊臣政権という中央権力に直結した、近世的な領域支配体制への完全な移行であった。

しかし、この新たな秩序の下で栄光を手にした者たちの運命もまた、安泰ではなかった。讃岐一国の主となった仙石秀久は、その好例である。翌天正14年(1586年)、秀吉が九州征伐を開始すると、秀久は軍監として豊後国へ出陣。しかし、戸次川の戦いにおいて、功を焦るあまり秀吉の持久戦命令を無視して島津軍に無謀な攻撃を仕掛け、壊滅的な大敗を喫した 32 。この戦いで、長宗我部元親の最愛の嫡男・信親や、旧讃岐の領主であった十河存保らが討死するという大失態を演じた 34

この報告を受けた秀吉は激怒し、秀久から讃岐国を没収、高野山へ追放する処分を下した 30 。一度は一国を与えられるという破格の恩賞を受けながら、一度の失敗で全てを失う。この仙石秀久の栄光と没落は、豊臣政権下の大名たちが、常に厳しい軍役の責任と結果責任を問われる、極めて緊張度の高い立場に置かれていたことを物語っている。

一方、故郷を追われ土佐に移った香川氏のその後も、平坦な道ではなかった。彼らは長宗我部家の家臣として生きることになったが、その長宗我部家もまた、戸次川の戦いで嫡男・信親を失ったことで、衰退の道を歩み始める。この運命の戦いでは、香川氏の一族も多くが命を落としたと伝えられている 26 。彼らが再び讃岐の地を踏むことは、ついになかった。

「多度津城の戦い」の結末は、単に香川氏という一族の没落に留まらない。それは、戦国という時代が終わりを告げ、四国全土が豊臣政権という新たな中央集権体制の下に再編されていく、大きな歴史の転換点を象徴する出来事だったのである。

引用文献

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