最終更新日 2025-09-11

大坂城下・京口の戦い(1614)

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大坂城下・京口の戦い(慶長19年):冬の陣、序盤の激闘を解剖する

第一章:序章:大坂の陣、開戦に至る道

慶長19年(1614年)11月26日に大坂城の北東部で繰り広げられた「京口の戦い」は、大坂冬の陣における序盤の重要な一戦である。しかし、この戦闘を単なる軍事衝突として捉えることは、その本質を見誤ることになる。この一日の激戦は、関ヶ原の戦いから14年間にわたり、徳川家康が周到に張り巡らせた深謀遠慮と、それに抗い続けた豊臣家の政治的孤立が、ついに火を噴いた必然的な帰結であった。

第一節:関ヶ原以降の「冷戦」構造

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは、名目上は豊臣家家臣団の内部抗争であったが、その実態は徳川家康による天下掌握の決定的な一歩であった 1 。戦後、家康は豊臣秀頼を主筋として遇しつつも、その権力基盤を巧みに削いでいく。全国に約220万石あった豊臣家の蔵入地(直轄領)は、戦後処理の名目でその4分の3が削減され、摂津・河内・和泉の約65万石にまで押し込められた 2 。そして慶長8年(1603年)、家康は征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開府。名実ともに天下の支配者としての地位を確立する 2

この新たな秩序に対し、大坂城の豊臣家、特に秀頼の母・淀殿は、徳川家への臣従を断固として拒否した。慶長10年(1605年)、家康が二代将軍・秀忠への挨拶と自身との会見のため秀頼に上洛を促した際、淀殿は「強制するなら秀頼と切腹する」とまで言い放ち、これを拒絶した 1 。この一件は、豊臣家が自らを幕藩体制下の一大名ではなく、依然として天下人であると認識していることを天下に示し、両者の間に深い亀裂を生じさせた。

家康の行動の根底には、単なる権力欲だけでなく、豊臣家が「太閤秀吉の後継者」という、幕府の論理を超越した権威の「聖域」であり続けることへの強い警戒心があった。豊臣家が存在する限り、それは西国大名や反徳川勢力にとっての潜在的な旗印となり、幕府の安定は永続的に脅かされる。しかし、豊臣家を武力で滅ぼすための正当な大義名分がない。そこで家康が選択したのは、経済的・政治的な圧力をかけ続ける「兵糧攻め」とも言うべき長期戦略であった。その核心にあったのが、豊臣家が蓄えた莫大な黄金を消耗させるための、大規模な寺社普請の推奨である 5 。豊臣秀吉が建立し、地震で倒壊した京都の方広寺大仏殿の再建を勧めたのは、まさにこの戦略の一環であった 7

だが、豊臣家の権威は衰えず、家康の焦りは募っていく。自らの高齢を鑑みれば、この問題を自身の存命中に解決する必要があった。豊臣家を幕藩体制内の「一大名」へと完全に格下げするか、あるいはそれを拒むならば滅ぼすか。14年間の冷戦状態は、もはや一触即発の緊張状態へと移行していたのである。

第二節:「方広寺鐘銘事件」—周到に仕組まれた開戦の口実

慶長19年(1614年)、豊臣家が心血を注いで再建した方広寺の大仏殿と、そこに納める梵鐘が完成した。しかし、この梵鐘に刻まれた銘文が、徳川家康に待望の開戦の口実を与えることとなる。問題とされたのは、「国家安康」「君臣豊楽」という二つの句であった 5 。家康は、林羅山ら御用学者に解読させ、「『国家安康』は家康の名を分断し、その身を呪詛するもの、『君臣豊楽』は豊臣を君として子孫の繁栄を楽しむ意図が隠されている」という、極めて意図的な解釈を展開させた 2

豊臣方は驚愕し、弁明のために重臣・片桐且元を駿府の家康のもとへ派遣した 5 。しかし、家康の真の狙いは銘文そのものではなく、別の場所にあった。それは、豊臣家内部の穏健派筆頭であり、徳川家との唯一の交渉窓口であった片桐且元を、豊臣家自身の猜疑心によって排除させることにあった。

家康は且元との直接の面会を避け、金地院崇伝らを介して、「秀頼の江戸参勤」「淀殿の人質提出」「大坂城を退去しての国替え」という、豊臣方が絶対に受け入れられない三つの選択肢を突きつけた 2 。この過酷な要求を大坂に持ち帰った且元が、城内の強硬派から「家康に内通した裏切り者」の烙印を押されることは、家康の計算通りであった。大野治長ら主戦派に追い詰められた且元は、ついに大坂城を退去 2 。これにより、豊臣家は徳川家との外交チャンネルを完全に失い、内部統制は崩壊。もはや「開戦」以外の選択肢は残されていなかった。鐘銘事件は、家康が豊臣家を討つための「大義名分」を得ると同時に、豊臣家の内部崩壊を誘発し、和平への道を完全に閉ざすための、極めて高度な政治的・心理的策略だったのである。

第三節:両軍の集結—寄せ集めの「義勇軍」対「天下の公儀軍」

慶長19年10月1日、家康は片桐且元殺害の企てがあったとの報を理由に、全国の諸大名へ大坂への出兵を命令した 2 。徳川方は、幕府の権威の下、全国から約20万とも30万ともいわれる大軍を動員した 1

一方、豊臣家も諸大名に檄を飛ばしたが、これに応じる者は一 daimyo もいなかった 1 。しかし、豊臣秀吉への旧恩や、徳川の世に不満を抱く者たちが、その旗の下に集った。関ヶ原の戦いなどで領地を失った牢人(浪人)たちである。その数は約10万人に達し、中には九度山から脱出した真田信繁(幸村)、黒田家を出奔した後藤基次(又兵衛)、土佐の旧領主・長宗我部盛親、キリシタン武将の明石全登、毛利輝元の庶子・毛利勝永といった、歴戦の猛将たちが含まれていた 3

この両軍の兵力構成の違いは、必然的にそれぞれの戦略を規定した。

徳川軍は、圧倒的な兵力と安定した兵站を背景に、正攻法である大坂城の完全包囲と、時間をかけた力押しを選択するのが最も合理的であった。

対する豊臣軍は、兵数で劣るものの、個々の兵士は実戦経験豊富で死を恐れない精鋭揃いであった。しかし、所詮は寄せ集めの軍団であり、長期的な組織統制や兵站維持には大きな不安を抱えていた 1。彼らの戦闘能力を最大限に活かすには、短期決戦を挑むか、あるいは大坂城という天下の名城に拠った籠城戦に持ち込むしかなかった。

豊臣方が籠城策を選択したのは、単に大坂城が難攻不落だったからだけではない。自軍の兵力構成の特性、すなわち「個の武勇は高いが、組織的継戦能力に劣る」という点を冷静に分析した上での、最も合理的な戦略であった。そして、「京口の戦い」のような前哨戦は、この籠城戦略を成功させるために、敵の包囲網完成を遅らせ、その戦力を少しでも削ぐという、極めて重要な目的を担っていたのである。

第二章:戦場の地勢と両軍の配備

慶長19年11月下旬、徳川の大軍は大坂城へと迫り、その包囲網を狭めつつあった。その中で、城の北東方面に位置する京口、そしてその前面に広がる鴫野・今福一帯は、冬の陣序盤における最重要戦線の一つとなった。この地域の特異な地形と、それに対応した両軍の配備が、戦闘の様相を決定づけることになる。

第一節:大坂城京口—北東の守りの要

豊臣大坂城は、南北に伸びる上町台地の北端に築かれた天然の要害であった 11 。城の南は台地続きで防御上の弱点となりうるため、真田信繁によって出城「真田丸」が築かれ、西は海に面し、北は淀川の本流が天然の堀となっていた。

その中で、京口(京橋口)は城の北東に位置する重要な城門であり、京都へと繋がる京街道の起点でもあった 12 。城門の外には「篠の丸」と呼ばれる馬出曲輪(城門の前に設けられた小規模な防御区画)が存在し、防御を固めていた 11 。この京口は、二重の戦略的重要性を持っていた。第一に、他の方面に比べて平地が広がり、大軍が展開しやすい可能性があり、防衛網の潜在的な弱点と見なされていた。第二に、京都方面からの兵站線や連絡線を断ち、大坂城を完全に孤立させたい徳川軍にとって、最優先で制圧すべき戦略拠点であった。徳川軍が冬の陣の緒戦で、この京口方面の攻略に主力を投入したのは、大坂城包囲網という巨大なジグソーパズルの「最後のピース」を埋めるための、計算され尽くした戦略行動だったのである。

第二節:鴫野・今福—湿地帯が創り出す「一本道」の戦場

京口門の前面、現在の大阪市城東区に広がる鴫野・今福一帯は、当時、旧大和川の支流が複雑に流れ込む広大な湿地帯であった 13 。見渡す限りの沼沢と水田が広がり、大軍の兵馬が自由に移動することは極めて困難な地形であった。唯一の進軍路は、この湿地帯を貫くように築かれた数本の狭い堤防のみ。特に鴫野堤と今福堤が、大坂城へ至る主要な道となっていた 14

この特異な地形は、徳川軍の最大の利点である「数的優位」を事実上無力化する効果を持っていた。20万の大軍も、幅が数メートルしかない堤防の上では、一度に戦闘に参加できるのは最前列の数十人から数百人に限られる。後続の部隊はただ待機するしかなく、兵力の厚みを活かした包囲や側面攻撃は不可能となる。結果として、この戦場の戦いは兵の「数」ではなく、最前線に立つ兵士の技量、士気、そして指揮官の局所的な采配によって決せられる「質」の戦いへと変貌した。

豊臣方はこの地形を最大限に活用した。堤防を数か所で堀切り、通行を妨害。さらに今福では四重、鴫野では三重にも及ぶ厳重な防衛柵を構築し、徳川軍を待ち構えた 15 。豊臣方がこの地で野戦に応じる構えを見せたのは、決して無謀な賭けではなかった。それは、地形を絶対的な味方につけ、敵の長所を殺し、自軍の長所を最大限に活かすという、極めて高度な戦術的判断に基づいていたのである。

第三節:両軍の布陣

徳川家康は、この難所である大坂城北東方面の攻略に、歴戦の勇将を投入した。淀川を挟んだ対岸に布陣し、鴫野方面には「沈黙の智将」上杉景勝率いる約5,000の兵を、今福方面には常陸の大名・佐竹義宣率いる約1,500の兵を配置した 16 。これらは冬の陣における徳川方の先鋒部隊であり、その突破力が試されることとなった。

対する豊臣方は、鴫野・今福の砦と柵に井上頼次、矢野正倫、飯田家貞といった将を配置して第一次防衛線を形成 15 。そして、大坂城の京口門内には、豊臣軍が誇る最強の機動予備部隊(遊軍)を控置させた。その指揮を執るのは、秀頼の乳母の子として若くして重用された木村重成と、数多の戦場を渡り歩いた猛将・後藤基次であった 15 。彼らは、戦況に応じていつでも城から打って出て、敵を粉砕する態勢を整えていた。

陣営

配置場所

総大将/指揮官

兵力(推定)

役割・特記

徳川軍

鴫野

上杉景勝

約5,000

主力攻撃部隊。鉄砲隊の運用に定評がある。

徳川軍

今福

佐竹義宣

約1,500

助攻部隊。鴫野との連携が求められる。

豊臣軍

鴫野砦

井上頼次など

不明(少数)

第一次防衛線。三重の柵で守備。

豊臣軍

今福砦

矢野正倫、飯田家貞ら

不明(少数)

第一次防衛線。四重の柵で守備。

豊臣軍

京口(城内)

木村重成、後藤基次

約3,000以上

機動予備部隊(遊軍)。戦況を打開する切り札。

こうして、湿地帯の狭い堤防を舞台に、両軍の精鋭が激突する準備は整った。この戦いの結果が、大坂冬の陣全体の趨勢を占うことになる。

第三章:合戦詳報:大坂城下・京口の戦い(慶長19年11月26日)

慶長19年(1614年)11月26日、大坂の空は冬の低い雲に覆われていた。この日、大坂城の北東に位置する鴫野・今福の湿地帯で、大坂冬の陣の序盤における最も激しい野戦の火蓋が切られた。以下に、その戦闘の推移を時系列で詳述する。

時刻(推定)

場所

徳川軍の動向

豊臣軍の動向

主要な出来事

未明

鴫野・今福

上杉・佐竹両隊、攻撃開始位置へ前進。

砦の守備兵が警戒態勢に入る。

徳川方による奇襲作戦が開始される。

早朝(午前6時頃)

鴫野

上杉隊、伏せていた鉄砲隊による一斉射撃で奇襲。

守備隊は応戦するも、不意を突かれ圧倒される。

鴫野の第一次防衛線が突破される。

早朝(午前6時頃)

今福

佐竹隊、今福堤を進撃し、柵に猛攻を加える。

矢野・飯田隊が守る第一・第二の柵を撃破される。

今福の防衛線も後退を強いられる。

午前中

今福

佐竹隊、第三の柵で頑強な抵抗に遭い、進撃が停滞。

大谷吉胤隊が奮戦し、時間を稼ぎつつ城へ急報。

戦線が一時的に膠着状態に陥る。

午前10時頃

京口→今福

-

木村重成・後藤基次隊、増援として京口門から出撃。

豊臣方の本格的な反撃が開始される。

正午前

今福

佐竹隊、木村隊の猛攻を受け後退。重臣・渋江政光らが討死。

木村重成が初陣ながら獅子奮迅の活躍を見せる。

戦況が逆転し、佐竹隊が崩壊の危機に瀕する。

午後

鴫野→今福

上杉景勝、佐竹隊の危機に対し、鉄砲による援護射撃を実施。

木村・後藤隊、上杉隊の的確な介入により猛進を阻まれる。

徳川方の連携により戦線が維持される。

夕刻

全域

両軍ともに甚大な消耗により、攻撃を停止。

城内へ撤収し、守りを固める。

激戦の末、日没により戦闘は一旦終結する。

第一節:払暁の奇襲(未明~早朝)

11月26日、夜の闇がまだ辺りを支配する未明、徳川方の上杉景勝隊と佐竹義宣隊は行動を開始した 13 。目標は、大坂城の北東を守る豊臣方の前線拠点、鴫野と今福の砦である。上杉景勝は、事前に詳細な偵察を行い、敵の配置を完全に把握していた。そして、攻撃の主軸となる鉄砲隊を、堤防の陰や地形の起伏を利用して巧みに伏せていた 15

東の空が白み始めた早朝、その静寂は突如として破られた。上杉隊の鉄砲が一斉に火を噴き、轟音とともに鉛玉の雨が鴫野の砦に降り注いだ。完全な不意を突かれた豊臣方の守備隊は混乱に陥り、組織的な抵抗もままならないまま、三重に築かれた防衛柵は次々と突破されていく。

時を同じくして、今福の堤でも佐竹義宣隊が進撃を開始していた。こちらも豊臣方が築いた第一、第二の柵を力押しで次々と打ち破り、守将の矢野正倫、飯田家貞らを敗走させた 15 。緒戦は、徳川方の周到な計画による奇襲の完全な成功であった。このまま一気に大坂城京口まで迫るかと思われた。

第二節:京口からの出撃(午前)

徳川方の猛攻により、今福の防衛線は後退を重ね、第三の柵を守る大谷吉胤隊は片原町の柵まで押し込まれた 15 。しかし、彼らはここで驚異的な粘りを見せる。狭い堤防の上で死に物狂いの抵抗を続け、佐竹隊の進撃を食い止めた。この必死の時間稼ぎの間に、伝令が大坂城へと駆け込み、戦況の悪化を告げた。

報告を受けた大坂城内では、即座に決断が下された。城内に控える最強の遊軍、木村長門守重成と後藤又兵衛基次に出撃命令が下る。これが、若干22歳の木村重成にとっての初陣であった 17 。秀頼の小姓として育った若き将は、歴戦の勇士である後藤又兵衛と共に、精鋭を率いて京口門から打って出た。彼らの目標はただ一つ、崩壊寸前の今福戦線の救援と、徳川方への逆襲である 14

第三節:堤防上の死闘(正午~午後)

木村・後藤隊の戦場到着は、戦場の空気を一変させた。特に初陣とは思えぬ木村重成の采配と武勇は凄まじく、その猛攻に佐竹隊は逆に押し返され始めた 16 。勢いに乗る豊臣軍は、佐竹軍の陣中深くまで切り込み、佐竹義宣が最も信頼を寄せる重臣・渋江政光をはじめ、多くの将兵を討ち取った。佐竹隊は一気に崩れ、部隊が壊滅しかけるほどの危機に陥った 16

この窮状に、佐竹義宣は隣の戦線で優勢に戦いを進めていた鴫野の上杉景勝に、必死の援軍要請を送った。これに応えたのが、百戦錬磨の将、上杉景勝であった。景勝は、自軍の戦線を維持しつつも、今福方面の佐竹隊を救援するため、得意とする鉄砲隊に長距離からの援護射撃を命じたとされる 17 。鴫野方面から放たれた正確な射撃が、猛進する木村・後藤隊の側面に突き刺さり、その勢いを削いだ。

この的確な援護により、佐竹隊はかろうじて戦線を立て直す。戦いは再び膠着状態に陥り、狭い堤防の上で、両軍の精鋭が入り乱れ、血で血を洗う一進一退の激しい白兵戦が、午後になっても延々と繰り広げられた。

第四節:日没、そして対峙(夕刻)

払暁から続いた一日がかりの激戦で、両軍ともに多数の死傷者を出し、その疲労は限界に達していた。これ以上の戦闘継続は不可能と判断した両軍は、日没を機に兵を引く。豊臣方は木村・後藤隊を城内に帰還させ、徳川方も元の陣地へと後退した 14 。こうして、大坂冬の陣序盤における最も激しく、そして象徴的な野戦の一つである「京口の戦い」は、勝敗の決着がつかぬまま、その幕を閉じたのである。

第四章:戦いの帰趨と各将の動静

一日間にわたる鴫野・今福での死闘は、両軍に大きな影響を与えた。この戦いの結果を戦術的、戦略的観点から評価し、この戦場に立った武将たちの動静を考察することは、大坂冬の陣全体の理解を深める上で不可欠である。

第一節:損害と戦術的評価

この戦いにおける損害は、両軍ともに甚大であった。特に徳川方の佐竹隊は、重臣の渋江政光を失うなど、部隊の根幹を揺るがすほどの打撃を受けた 16 。豊臣方も、城外の拠点を守る兵の多くを失い、増援部隊にも相当数の死傷者が出たと推測される。

この戦いの評価は、どの視点に立つかによって大きく異なる。

豊臣方の視点に立てば、これは「戦術的勝利」と評価できる。徳川方の奇襲による序盤の圧倒的な劣勢を、木村重成・後藤基次という強力な予備兵力の投入によって完全に覆し、敵の進撃を阻止した。特に佐竹隊に壊滅的な損害を与え、初陣の木村重成という新たな英雄の登場は、籠城する城内の士気を大いに高めた。局所的な戦闘においては、豊臣方が徳川方を凌駕したと言ってよい。

しかし、徳川方、すなわち徳川家康の視点に立てば、これは「戦略的勝利」であった。徳川軍の当面の目的は、鴫野・今福という拠点を一日で「占領」することではなかった。むしろ、豊臣方が誇る城内の精鋭部隊を城外に引きずり出して消耗させ、大坂城を完全に孤立させるための「橋頭堡を確保」することにあった。佐竹隊の損害は大きかったが、それは計算のうちであり、最終的にこの地域一帯の制圧に成功した。大局的に見れば、大坂城包囲網を完成させるという戦略目標は、この戦いを通じて達成されたのである。

結論として、「京口の戦い」は、豊臣方が局地戦でその武勇と意地を見せつけたものの、結果として徳川家康が描いた大包囲戦略の掌の上で戦わされた戦いであったと言える。豊臣方は目の前の敵を打ち破ったが、徳川方はより大きな戦局を支配したのである。

第二節:武将たちの肖像

この戦いは、三人の武将の姿を際立たせた。

木村重成: この戦いが初陣であったにもかかわらず、その勇猛果敢な指揮ぶりは敵味方から称賛された 17 。豊臣秀頼の乳母の子という出自から若くして重用されたが、これまではその実力を疑問視する声も少なくなかった。しかし、この戦いにおける獅子奮迅の働きによって、その評価を完全に覆し、名実ともに豊臣軍の中核を担う将として確固たる地位を築いた。彼の存在は、絶望的な状況に置かれた豊臣方にとって、一筋の光明となった。

上杉景勝: 寡黙で知られる歴戦の将は、この戦いでも冷静沈着な指揮を見せた。自らが担当する鴫野の戦線を危なげなく突破しつつ、隣の戦線で苦境に陥った友軍(佐竹隊)を、鉄砲隊による的確な援護射撃で救うという離れ業を演じた 17 。これは、個々の武勇だけでなく、部隊間の連携と組織力こそが徳川軍の真の強さであることを示すものであった。彼の采配なくして、佐竹隊は壊滅し、徳川方の戦線は破綻していた可能性が高い。

後藤基次: 旧主・黒田家を出奔した牢人という立場でありながら、その卓越した戦術眼と武勇は豊臣方で高く評価されていた 17 。この戦いでも木村重成と共に反撃の中核を担い、その存在感を見せつけた。経験の浅い木村重成を支え、豊臣方の反撃を成功に導いた功績は大きい。彼は、豊臣方に集った牢人たちの質の高さを象徴する武将であった。

第五章:結論:京口の戦いが冬の陣全体に与えた影響

慶長19年11月26日の一日の激闘は、単なる前哨戦に留まらず、その後の大坂冬の陣の展開、ひいては豊臣家滅亡へと至る流れの中で、決定的な転換点となった。

第一節:大坂城包囲網の完成と籠城戦の本格化

鴫野・今福で死闘が繰り広げられているのと並行して、徳川軍は大坂城周辺の他の拠点にも攻撃を仕掛けていた。11月19日には城の南西に位置する木津川口の砦が蜂須賀至鎮らによって陥落 17 。29日には博労淵の砦も破られ、豊臣方は城外の拠点をことごとく失った 17

これにより、豊臣方は大坂城に完全に封じ込められる形となった。京口の戦いは、豊臣方が主体的に城外で仕掛けた、事実上最後の組織的な大規模野戦であった。この戦いを通じて、豊臣方は一つの厳しい現実に直面することになる。それは、鴫野・今福のような地形的有利を最大限に活かしたとしても、徳川軍の圧倒的な物量と、上杉・佐竹の連携に見られるような組織力を完全に打ち破ることはできない、という事実である。

城外の拠点を全て失ったことで、豊臣方の戦略は、望むと望まざるとにかかわらず、完全な籠城戦へと移行せざるを得なくなった。戦いの主導権は完全に徳川方の手に移り、戦いの焦点は、南の真田丸での攻防戦や、家康が仕掛ける大砲を用いた心理戦へとシフトしていく。

「京口の戦い」の終結は、大坂冬の陣が、豊臣方の反撃の可能性を秘めた「野戦」の段階から、徳川方が時間をかけてじわじわと締め上げる「攻城戦」の段階へと、不可逆的に移行したことを象徴する出来事であった。この戦いの後、豊臣家の命運は、大坂城の高く厚い城壁と、深く広い堀の強度、そして城内の結束力のみに委ねられることとなる。局地戦での一時の勝利に沸いた大坂城であったが、その頭上には、すでに巨大な包囲網が完成していたのである。

引用文献

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  16. 鴫野・今福の戦い関連地、他(大坂冬の陣) - 歴旅.こむ http://shmz1975.cocolog-nifty.com/blog/2019/10/post-7d6452.html
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