最終更新日 2025-08-30

大多喜城の戦い(1590)

小田原征伐時、里見氏の惣無事令違反により、大多喜城は戦う意味を失う。本多忠勝率いる徳川軍に無血開城。忠勝は城を大改修し、徳川の房総支配の要衝とした。これは中世から近世への時代の転換を象徴する。
Perplexity」で合戦の概要や画像を参照

天下統一の奔流、房総を呑む:大多喜城の戦い(1590年)—その戦略的意義と歴史的転換点の詳細分析

序章:天下統一、最後の刻

天正18年(1590年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。関白豊臣秀吉は、破竹の勢いで四国、九州を平定し、その視線は天下統一事業における最後の、そして最大の障壁である関東の後北条氏に向けられていた 1 。秀吉の権力は、単なる軍事力に留まらなかった。全国的な太閤検地や刀狩、兵農分離政策の断行によって、旧来の荘園制に立脚した社会構造を解体し、石高を基準とする近世的な支配体制を構築しつつあった 2 。この新しい秩序の根幹をなすのが、大名間の私的な戦闘を禁じる「惣無事令」であった。

この秀吉が築こうとする「公儀」としての秩序に対し、関東に巨大な王国を築き上げ、百年にわたり独立を保ってきた後北条氏は、中世的な実力主義の論理から抜け出せずにいた。対立の直接的な引き金となったのは、天正17年(1589年)に北条方の猪俣邦憲が、真田昌幸の支配下にあった名胡桃城を奪取した事件である 3 。これは秀吉が下した領土裁定を覆す行為であり、「惣無事令」への明確な挑戦と見なされた。

ここに、秀吉による小田原征伐の決意は固まった。全国の大名に動員令が発せられ、その総兵力は実に二十一万から二十二万という、日本の軍事史上でも類を見ない空前の大軍となった 5 。対する北条方も、領国から動員可能な兵力を結集し、その数はおよそ五万六千に達したが、その兵力差は絶望的であった 5 。兵の質も異なっていた。秀吉軍が兵農分離によって専門化した武士団を中核としていたのに対し、北条軍の多くは農民兵であった 5

この圧倒的な劣勢を前に、北条氏政・氏直親子が選択した戦略は、かつて上杉謙信や武田信玄をも退けた、難攻不落の本城・小田原城を中心とする籠城策であった 3 。関東各地に配置された支城群が豊臣の大軍を足止めし、疲弊させることで、戦局の膠着化、ひいては有利な形での和睦に持ち込むことを狙ったのである。

これに対し、秀吉は小田原城を十数万の軍勢で幾重にも包囲して封鎖しつつ、徳川家康や前田利家、上杉景勝らを将とする別動隊を編成し、関東各地の支城を各個撃破する作戦を展開した 4 。この壮大な軍事作戦の中で、房総半島、上総国に位置する大多喜城もまた、歴史の奔流に巻き込まれていく。本稿で詳述する「大多喜城の戦い」は、この無数に行われた支城戦の一つであり、単なる軍事衝突に留まらず、秀吉が志向する近世的秩序と、滅びゆく北条氏が象徴する中世的価値観との衝突が、房総という一地域において具現化した象徴的な出来事であった。


表1:小田原征伐と大多喜城の戦い 主要関連年表

年月日(天正18年/1590年)

出来事

2月

豊臣軍、出陣開始。徳川家康らも駿府より進発。

3月1日

豊臣秀吉、京を発つ。

3月29日

豊臣秀次軍、山中城を半日で攻略。織田信雄軍、韮山城の包囲を開始。

4月3日

豊臣軍本隊、小田原城の包囲を開始。

4月~5月

徳川家康軍、江戸城を無血開城。下総国の臼井城、佐倉城などを攻略。

5月19日

浅野長政軍、武蔵国の岩槻城を攻撃開始(22日開城)。

5月下旬~6月頃

本多忠勝率いる徳川軍、上総国へ進軍。万喜城、土気城などを制圧後、大多喜城を包囲。交渉の末、無血開城。

6月14日

前田利家軍、鉢形城を開城させる。

6月23日

前田利家・上杉景勝軍、八王子城を攻略。

7月5日

小田原城、開城。後北条氏が滅亡。

7月13日

秀吉、徳川家康の関東移封を正式に発表。

8月

家康、江戸城に入城。本多忠勝が大多喜城主となる。


第一章:嵐の前の房総半島

「大多喜城の戦い」を理解するためには、まずその舞台となった房総半島、とりわけ上総国が戦国末期に置かれていた複雑な状況を解き明かす必要がある。

房総の地政学と二大勢力

現在の千葉県中部に位置する上総国は、西に江戸湾(東京湾)、東に太平洋を望み、古来より海上交通の要衝であった 7 。南には安房国、北には下総国が接し、これらの国々との関係性が、常にこの地域の歴史を動かす原動力となってきた 8

戦国時代、この房総半島に覇を唱えたのが、安房国を拠点とする里見氏であった。里見氏は長年にわたり、相模国の後北条氏と房総の覇権を巡って熾烈な抗争を繰り広げてきた 10 。両者の戦いは、第二次国府台合戦に代表されるように、一進一退の激しいものであり、房総の国人たちは常に両勢力の間で揺れ動くことを余儀なくされた。

この里見氏の勢力拡大を支えたのが、その庶流であり重臣でもある正木氏であった。特に正木時茂は「槍大膳」の異名をとる猛将として知られ、上総国へ積極的に進出。その過程で、大多喜城周辺を支配していた真里谷武田氏を破り、この地を自らの拠点とすることに成功する 12 。しかし、正木氏の勢力は時に里見本家を凌ぐほど強大化し、その関係は常に緊張をはらんでいた。一族内部でも内紛が絶えず、里見氏と北条氏の争いに乗じて離反や寝返りが繰り返されるなど、房総の政治情勢は極めて流動的であった 11

大多喜城の来歴と城主の変遷

1590年当時、大多喜城と呼ばれた城は、元々は「小田喜城」と称されていた。築城したのは上総武田氏の一族である真里谷氏であったが、天文13年(1544年)頃、前述の正木時茂によって奪取され、以降は上総における正木氏の拠点として重要な役割を担うこととなる 12

しかし、天正9年(1581年)、正木氏の歴史に大きな転機が訪れる。当時の城主であった正木憲時が、里見本家の当主・里見義頼との深刻な対立の末、大多喜城内において謀殺されるという事件が勃発したのである 12 。この事件は義頼の策謀であったとされ、これにより小田喜城は里見氏の直接支配下に置かれることになった。義頼は、正木氏の旧領を完全に掌握するため、自らの次男を正木氏の名跡を継がせ、「正木時茂」(初代とは別人)と名乗らせて新たな城主とした 12 。したがって、小田原征伐の時点(1590年)で大多喜城を守っていたのは、正木氏の血を引く者ではなく、里見氏の直系の子息だったのである 17

里見氏、致命的な判断

天下統一の槌音が間近に迫る中、里見氏当主・里見義康は、自らの、そして一族の運命を左右する致命的な判断ミスを犯す。秀吉が発令した惣無事令を無視し、かつての小弓公方・足利義明の遺児を擁して、北条氏の支配下にあった対岸の三浦半島へ軍事介入を試みたのである 12 。これは、秀吉が構築しようとしていた天下の秩序に対する公然たる挑戦であった。

この行動が秀吉の逆鱗に触れたことは想像に難くない。結果として、里見氏は小田原征伐後に、その罪を問われる形で、先祖代々支配してきた上総・下総の広大な領地を没収されるという厳しい処分を受けることになる 12

この政治的失策こそが、「大多喜城の戦い」の結末を事実上、戦う前から決定づけていた。本多忠勝率いる徳川軍が城に迫った時点で、城主である正木時茂(里見義頼の子)と城兵たちが守るべき上総国は、もはや主家である里見氏のものではなくなることが運命づけられていたのである。彼らがどれほど奮戦し、城を固守したとしても、その先に領地安堵という未来は存在しなかった。この「戦う意味の喪失」こそが、大多喜城が無血開城へと至る最大の伏線だったのである。

第二章:徳川軍団、関東へ

小田原征伐において、豊臣軍の先鋒という重責を担ったのが、徳川家康であった。かつての同盟相手であり、婚姻関係もあった北条氏を討つという複雑な立場にありながら、家康は秀吉政権下での自らの地位を確固たるものとするため、この戦役で最大の功績を上げるべく、万全の態勢で臨んだ 4

先鋒・徳川家康と徳川四天王

家康が率いた軍勢は三万。これは、豊臣軍に参陣した諸大名の中でも最大規模の兵力であった 19 。その中核を成したのは、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政という、後に「徳川四天王」と称される歴戦の猛将たちであった 4

中でも本多忠勝は、その武勇において一際異彩を放つ存在であった。「生涯において参加した五十七度の合戦で、ただの一度も傷を負わなかった」という伝説は、彼の並外れた武勇と戦場での冷静な判断力を物語っている 21 。その勇猛さは敵味方を問わず知れ渡っており、かつて武田軍の将からは「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八(忠勝の通称)」と、主君にはもったいないほどの逸材であるとまで称賛された 22 。小田原征伐においても、忠勝は武蔵岩槻城や鉢形城の攻略戦で目覚ましい功を挙げるなど、徳川軍団の主力として獅子奮迅の働きを見せた 24

房総方面への進軍 ― 来るべき支配への布石

天正18年4月3日、秀吉本隊による小田原城の包囲が開始されると、徳川軍を主力とする別動隊は関東各地の支城平定へと向かった 5 。家康軍はまず、北条氏の関東における本拠地の一つであった江戸城を無血で接収 4 。続いて下総国へと進軍し、千葉氏の拠点であった本佐倉城や、臼井城といった北条方の拠点を次々と攻略していった 4

そして、下総の平定に目処がつくと、軍の一部が上総国へと矛先を向けた。この房総方面軍の指揮官の一人が、本多忠勝であった。

この徳川軍による房総平定作戦には、単なる支城潰しに留まらない、より深い戦略的意図が隠されていた。秀吉が戦後、家康を関東へ移封させる構想を抱いていることは、家康自身も察知していたであろう。つまり、家康にとって関東平定は、敵地を攻略する戦いであると同時に、これから自らの本拠地となる領国を、自らの手で平定する「地ならし」でもあった。

そのため、無用な殺戮や破壊は極力避け、最小限の損害で各拠点を制圧し、戦後の統治を円滑に進めることが求められた。忠勝は、その圧倒的な武威で敵を畏怖させるだけでなく、豊臣政権との交渉役を務めるなど、政治的な駆け引きや交渉能力にも長けた武将であった 22 。力でねじ伏せるだけではなく、降伏の道を示して無血で事を収める。そのような高度な任務を遂行する上で、本多忠勝はまさに適任者だったのである。彼の房総への進軍は、来るべき「徳川の関東支配」を見据えた、周到な布石であった。

第三章:大多喜城、包囲下にあり ― 時系列で見る数日間

大多喜城における攻防は、火花散る合戦としてではなく、静かなる心理戦として展開された。その数日間の「リアルタイムな状態」を再現するには、物理的な時間の経過以上に、城内に充満していく情報の断絶と絶望の過程を追う必要がある。時期は、関東各地の支城戦が本格化していた天正18年(1590年)5月下旬から6月頃と推定される。

【第一段階:進撃と孤立】

本多忠勝率いる徳川軍は、大多喜城へ直行するのではなく、まず周辺の抵抗拠点を methodical に制圧していった。上総中部の要衝であった万喜城(城主・土岐氏)や土気城(城主・酒井氏)などが、その武威の前に次々と降伏、あるいは攻略された 29 。近年の研究では、忠勝が大多喜城に入る前に、一時的に万喜城を拠点としていたことを示す文書も発見されており、房総平定を着実に進めるための前線基地として機能させていたことが窺える 31

この動きは、大多喜城にとって死活問題であった。周辺の友軍拠点が沈黙していくことで、大多喜城は外部との連絡を完全に遮断され、房総半島の内陸部に浮かぶ孤島と化したのである。

【第二段階:包囲網の完成】

周辺を完全に制圧した後、忠勝軍は満を持して大多喜城へ到達する。当時の城は、後の忠勝による大改修以前の、中世的な山城の様相を呈していたと考えられる。徳川軍は、その圧倒的な兵力をもって城を幾重にも包囲し、蟻一匹這い出る隙間もないほどの包囲網を完成させた。

城主・正木時茂と数百の城兵は、完全に籠の中の鳥となった。彼らが直面した状況は、以下の四点において絶望的であった。

  1. 圧倒的な兵力差: 攻城軍である本多勢は数千規模と推定されるのに対し、守備兵は多くても数百程度。まともに野戦を交えれば、勝敗は火を見るより明らかであった。
  2. 救援の途絶: 主家である里見氏は、すでに秀吉への恭順を示して小田原に参陣しており、大多喜城を救援する術も、そして意思も持ち合わせていなかった 6
  3. 北条方の総崩れ: この時点で、小田原城は鉄壁の包囲下にあり、関東各地の主要な支城は次々と陥落していた 4 。北条方全体の敗色は、もはや覆い隠しようのない事実として城内にも伝わっていたはずである。
  4. 大義名分の喪失: そして何よりも、前述の通り、里見氏の惣無事令違反によって、そもそも上総国を守り抜くという戦いの大義名分そのものが失われていた 12

表2:大多喜城攻城軍と守備軍の戦力比較(推定)

勢力

項目

兵力・状況

攻城側(豊臣・徳川軍)

総大将

本多忠勝

指揮下部隊兵力

数千名

豊臣軍総兵力

約22万名

徳川軍総兵力

3万名

守城側(里見・正木方)

城主

正木時茂(里見義頼の子)

城兵

数百名

援軍の可能性

皆無

戦略的状況

周辺拠点全て陥落、完全に孤立


【第三段階:開城交渉と心理的降伏】

この万事休すの状況下で、本多忠勝は城方に対して降伏を勧告する。おそらく、使者が丁重に、しかし厳然と城方に伝えた内容は、単なる脅しではなかったであろう。彼は、圧倒的な軍事力を見せつけながらも、それ以上に冷徹な政治的現実を突きつけたと推察される。

「小田原の落城は時間の問題である。関東の諸城もことごとく我らの手に落ちた。貴殿らの主家・里見義康殿は、惣無事令に違反した咎により、すでに関白殿下から上総・下総の領地を没収されることが決まっている。今ここで抵抗することは、関白殿下への反逆と見なされ、城兵の命はもちろん、一族の存続すら危うくなるであろう。速やかに城を明け渡せば、城兵の命は保証する」

この通告は、城内に残っていたわずかな希望の光を完全に打ち消した。戦う理由も、守り抜いた先にある未来も、すべてが失われたことを悟った瞬間であった。激しい戦闘が行われたという記録は一切なく、この「戦い」は、物理的な衝突が起こる前に、政治的・心理的な次元で決着がついていたのである。城主・正木時茂は、城兵の助命を条件に、開城を受け入れた。

第四章:落日と夜明け

大多喜城の無血開城は、単に一つの城が降伏したという事実以上の意味を持っていた。それは、房総半島における中世の終わりと、徳川支配という近世の夜明けを告げる、象徴的な出来事だったのである。

北条氏の滅亡と関東仕置

大多喜城が開城して間もない天正18年7月5日、約三ヶ月にわたる包囲の末、天下にその威容を誇った小田原城はついに開城。当主の北条氏直は降伏し、戦国大名・後北条氏は百年の歴史に幕を閉じた 5

天下統一を完成させた秀吉は、戦後処理として「関東仕置」と呼ばれる大規模な領土再編に着手する。その最大の眼目は、この戦役で最大の功労者であった徳川家康を、旧領である三河・遠江・駿河など東海地方から、北条氏の旧領であった関東六カ国へ移封(国替え)させることであった 4 。これは、家康の強大な力を畿内から引き離すという秀吉の深謀遠慮であると同時に、家康にとっては広大で豊かな関東一円を新たな本拠地とする、飛躍の機会でもあった。

房総半島の新たな支配体制

この関東仕置の奔流は、房総半島にも及んだ。里見氏は、小田原征伐に参陣し秀吉に恭順の意を示したものの、戦前の惣無事令違反という致命的な失策を厳しく咎められた。その結果、先祖伝来の地であった上総国と下総国の大部分を没収され、安房一国のみの領有をかろうじて認められるという、大幅な減封処分を受けることとなった 10

これにより、房総半島における勢力図は一変した。数世紀にわたりこの地の覇者として君臨してきた里見氏の力は大きく削がれ、その影響力は安房一国に限定された。そして、没収された上総国は、新たに関東の支配者となった徳川家康の広大な領地の一部に組み込まれ、その譜代の家臣たちが新たな支配者として配置されることになったのである。

大多喜城の開城は、この歴史的な権力構造の転換を、まさに最前線で体現する出来事であった。城主であった正木氏(里見氏)は歴史の舞台から退き、代わって徳川四天王の一人である本多忠勝が、新たな時代の支配者としてこの地に足を踏み入れることになる。それは、房総の地における中世的在地領主の時代の落日と、徳川家による近世的支配体制の夜明けを、何よりも雄弁に物語っていた。

第五章:徳川の猛将、新たな城主として

徳川家康の関東入封に伴い、大多喜城の運命は新たな局面を迎える。この城は、徳川の天下経営における極めて重要な戦略拠点として、生まれ変わることになるのである。

本多忠勝、大多喜十万石の領主へ

関東の新領主となった家康は、広大な領国を安定的に統治するため、江戸を中心とした要衝に、最も信頼の置ける譜代の重臣たちを配置した。本多忠勝は、小田原征伐における一連の戦功、特に房総平定を成し遂げた功績を高く評価され、上総国大多喜に十万石という、徳川家臣団の中でも破格の領地を与えられた 18

忠勝がこの地に封じられたのには、明確な戦略的理由があった。それは、安房一国に押し込められたとはいえ、依然として強大な水軍力を有し、潜在的な脅威であり続ける里見氏を監視し、その北上を牽制するためであった 18 。大多喜城は、安房の里見氏に対する徳川領の最前線基地という、極めて重要な軍事的役割を担うことになったのである。

近世城郭への大改修 ― 支配の象徴として

新たな城主となった忠勝は、旧来の小田喜城を大幅に改修し、全く新しい近世城郭としての「大多喜城」を築城した 35 。この大改修は、単なる防御機能の強化に留まらず、徳川の支配権威を房総全域に示すためのものでもあった。

その象徴が、三層四階とも伝えられる壮麗な天守閣の建設であった 38 。天守は、軍事的な司令塔であると同時に、領民や周辺勢力に対して新たな支配者の威光を示す政治的なシンボルであった。さらに、籠城戦に備え、城内には「底知らずの井戸」と呼ばれる巨大な井戸が掘削された。この井戸は周囲17メートル、深さ20メートルにも及び、16個もの滑車で水を汲み上げたと伝えられ、いかなる渇水にも耐えうる水源として、城の生命線を確保するものであった 23

また、大多喜城の縄張りの特徴として、石垣を一切用いず、この地域の地質(大田代層)を巧みに利用した広大で堅固な土塁によって城郭が構築されている点が挙げられる 41 。これは、地域の特性を最大限に活かす、忠勝の優れた築城技術と行政手腕を物語っている。

この城の壮麗さは、後年、大多喜近郊の御宿海岸に漂着したスペイン人、ドン・ロドリゴ一行の記録にも残されている。忠勝の息子・忠朝の時代に城に招かれたロドリゴは、その著書『日本見聞録』の中で、大多喜城を「城門は鉄製で、御殿は金粉で装飾されていた」と記しており、当時の城が異国人の目をも驚かせるほどの威容を誇っていたことがわかる 22

この忠勝による大改修は、城郭という存在そのものが持つ意味の変化を象徴している。正木氏という在地領主一族の防衛拠点であった中世の「小田喜城」は、1590年の「戦い」を境に、徳川家という巨大な権力体が房総半島全域を統治し、潜在的な敵を抑え込むための政治・軍事拠点、すなわち近世の「大多喜城」へと、その機能と役割を全く新しいものへと変貌させたのである。

終章:一つの戦いが語る時代の転換

「大多喜城の戦い」は、刀槍を交える激しい戦闘が行われなかったという点で、戦国時代の数多の合戦とは趣を異にする。しかし、その歴史的意義は、むしろその「戦われなかった」という事実の中にこそ凝縮されている。この戦いの勝敗を決したのは、個々の武将の武勇や戦術ではなく、その背後にある圧倒的な国力差と、豊臣秀吉という天下人が確立した「惣無事令」という政治的権威であった。それは、武力のみが全てを決定した中世という時代の終焉を告げる象徴的な出来事であった。

この一件を通じて、房総の地で数百年にわたり栄枯盛衰を繰り返してきた里見氏や正木氏といった中世以来の在地勢力は、その影響力を大きく後退させた。代わって歴史の表舞台に登場したのは、徳川家康の家臣団という、中央集権的な支配体制に組み込まれた新たな支配層であった。これは、日本全体で進行していた兵農分離と、領主と領民の関係がより近世的なものへと移行していく時代の大きなうねりが、房総半島という地域にも確実に到達したことを示している 2

そして何よりも、本多忠勝による大多喜城の確保と、その後の安定した統治は、徳川家康が江戸を本拠地として広大な関東を掌握するための、極めて重要な布石となった。江戸湾の東岸に位置する房総半島を安定させることは、江戸の安全保障に直結し、家康が関東で着実に力を蓄え、やがて天下人へと飛躍していくための盤石な基盤を築く上で不可欠であった。

かくして、大多喜城における静かなる攻防は、一つの城の運命を変えただけでなく、房総の地域秩序を再編し、ひいては二百六十年にわたる江戸幕府の泰平の世へと繋がる道筋をつけたのである。それは、巨大な歴史の歯車が一つ、音もなく、しかし確実に噛み合った瞬間として、記憶されるべきであろう。

引用文献

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  3. 【3万5千 VS 22万】小田原征伐|北条家が圧倒的不利な状況でも豊臣秀吉と戦った理由 - 【戦国BANASHI】日本史・大河ドラマ・日本の観光情報サイト https://sengokubanashi.net/history/odawara-seibatsu/
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