大桑城の戦い(1567)
永禄十年、織田信長は長年の宿願であった美濃平定を稲葉山城の戦いで完遂。斎藤龍興の暗愚と西美濃三人衆の内応を突き、情報操作と電撃戦を駆使し、わずか十五日で難攻不落の稲葉山城を陥落させた。この勝利は信長の天下布武の第一歩となり、日本の歴史を大きく動かした。
永禄十年、美濃、落つ:稲葉山城の戦い ― 七年の宿願と十五日の電撃戦、その全貌
序章:歴史の交差点 — 「大桑城」から「稲葉山城」へ
永禄十年(1567年)、美濃国において発生したとされる「大桑城の戦い」について、その詳細を解き明かすことは、戦国時代の美濃における権力移行の核心に迫る作業である。しかし、この問いに正確に答えるためには、まず歴史的な事実関係を整理する必要がある。利用者様がご提示された「大桑城の戦い(1567年)」という特定の合戦は、同時代の一次史料においてその存在を確認することが難しい。
大桑城は、美濃国守護・土岐氏がその権勢の終焉に際して拠点とした山城であった 1 。斎藤道三による「国盗り」の過程で、土岐頼芸はこの城に籠り抵抗を試みたが、天文十一年(1542年)から天文二十一年(1552年)にかけての複数回にわたる攻防の末、ついに道三の手に落ちた 3 。この落城をもって土岐氏の美濃支配は名実ともに終焉を迎え、大桑城もまた歴史の表舞台から姿を消し、廃城となったと伝えられている 4 。
一方で、永禄十年(1567年)は、美濃国の運命を決定づける極めて重要な年であった。この年、織田信長が長年の宿願であった美濃平定を完遂する。そのクライマックスとなった決戦の舞台は、大桑城ではなく、斎藤氏三代の本拠地であった難攻不落の 稲葉山城 (後の岐阜城)であった 5 。利用者様の「稲葉山外郭線の一角を巡る攻防」という認識は、まさにこの稲葉山城攻略戦という大きな歴史的文脈の中に位置づけられるべき事象である。
したがって、本報告書は、利用者様の真の関心事であると推察される「永禄十年(1567年)の織田信長による美濃最終攻略戦、すなわち稲葉山城の戦い」を主題とする。この視点に立つとき、大桑城と稲葉山城は、単なる地名の誤認を超えた、より深い歴史的対比を我々に示してくれる。大桑城の陥落が「斎藤氏による美濃支配の確立」を象徴するならば、稲葉山城の陥落は「織田氏による美濃支配の確立と斎藤氏の終焉」を意味する。この二つの城の物語を辿ることは、美濃の支配権が土岐氏から斎藤氏へ、そして斎藤氏から織田氏へと移る、下克上の時代のダイナミズムそのものを解き明かすことに他ならない。
第一部:必然の衝突 — 美濃攻略に至る道
第一章:尾張の野望、美濃の憂愁
織田信長の美濃攻略は、永禄十年(1567年)に突如として始まったわけではない。その根は深く、父・信秀の代にまで遡る。天文十三年(1544年)あるいは十六年(1547年)とされる加納口の戦いにおいて、信秀は美濃守護・土岐頼芸を支援する名目で大軍を率いて侵攻したが、斎藤道三の巧みな戦術の前に大敗を喫した 8 。この敗北は、織田家にとって美濃が容易ならざる相手であることを痛感させる原体験となった。
状況が転換したのは、信秀の死後、家督を継いだ信長と道三との間に和議が結ばれたことによる。両者は信長と道三の娘・濃姫(帰蝶)との政略結婚を通じて同盟関係を構築し、一時的な安定期が訪れた 11 。しかしこの同盟は、道三とその嫡男・義龍との深刻な不和によって脆くも崩れ去る。弘治二年(1556年)、義龍は父・道三に対して謀反を起こし、両者は長良川の河原で激突した。この長良川の戦いで道三は討ち死にし、信長は義父であり最大の理解者でもあった道三を失った 13 。この時、道三が信長に美濃国を譲るという趣旨の遺言状、いわゆる「美濃国譲り状」を託したとされ、これが信長にとって美濃侵攻の正当な大義名分となった 14 。
永禄四年(1561年)、義龍が35歳の若さで急死すると、信長はこの好機を逃さなかった 15 。義龍の跡を継いだのは、わずか14歳の嫡男・龍興であった。信長は義龍の死からわずか数日後に美濃へ侵攻し、森部の戦いなどで勝利を収めるが、美濃全体の攻略は遅々として進まなかった。特に永禄六年(1563年)の新加納の戦いでは、斎藤方の若き天才軍師・竹中半兵衛重治の伏兵戦術に苦杯をなめさせられ、撤退を余儀なくされている 5 。
美濃攻略が一筋縄ではいかないことを悟った信長は、より大局的な戦略的布石を打ち始める。永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いで東の強敵・今川義元を討ち取ると、永禄五年(1562年)には三河の松平元康(後の徳川家康)と清洲同盟を締結 18 。これにより東方の憂いを断ち切り、全戦力を美濃攻略に集中できる体制を整えた。さらに永禄六年(1563年)には、美濃国境に近い小牧山に新たに城を築き、本拠地を清洲から移転。腰を据えて美濃を攻めるという断固たる意志を示したのである 18 。
第二章:落日の斎藤家
信長が着々と外堀を埋めていく一方で、斎藤家は内部から崩壊の兆しを見せ始めていた。父・義龍の急死により若くして家督を相続した斎藤龍興は、祖父・道三や父・義龍が持っていた器量に恵まれなかった 19 。政務を疎かにして遊興に耽り、耳の痛い諫言をする家臣を遠ざけ、追従する者ばかりを重用したと伝えられる 21 。このような当主の姿勢は、歴戦の家臣たちの間に深刻な不満と絶望感を醸成していった。
斎藤家の権威失墜を決定づけ、その内部崩壊を内外に露呈させたのが、永禄七年(1564年)に発生した前代未聞の事件であった。龍興の家臣であった竹中半兵衛が、舅の安藤守就らと共謀し、わずか16名の手勢で難攻不落の稲葉山城を占拠したのである 5 。この時、龍興は寝間着姿のまま城から逃げ出すという醜態を晒したとされている 21 。
このクーデターの動機は、半兵衛自身の野心ではなく、主君・龍興の暗愚を諫めるためのものであったというのが通説である 16 。事実、半兵衛は半年ほど城を占拠した後、信長からの誘いを断り、城を龍興に返還している 5 。しかし、この事件が与えた影響は計り知れない。それは、斎藤家の統治能力が完全に麻痺していること、そして当主である龍興が「裸の王様」であることを、美濃国の全ての国人衆に証明してしまった。
この一件は、単なる主君への諫言という枠を超え、斎藤家の支配体制そのものに致命的な亀裂を入れた。一度失墜した権威は回復せず、有力な家臣たちが「この主に仕えていては、家が滅ぶ」と考えるのは時間の問題であった。竹中半兵衛の行動は、西美濃三人衆のような有力国人衆が、後に織田方へ内応するという決断を下すための、心理的かつ政治的な土壌を整えたと言える。信長が永禄十年に美濃を手に入れることができたのは、この内部崩壊という「熟しきった果実」を、的確な時期にもぎ取った結果に他ならなかった。
第二部:稲葉山城、燃ゆ — 永禄十年八月の攻防(時系列解説)
永禄十年(1567年)の稲葉山城攻略戦は、信長の周到な調略と電光石火の軍事行動が完璧に融合した、彼の戦歴の中でも特筆すべき戦いであった。その詳細を時系列に沿って追うことで、戦場のリアルタイムな状況と、信長の卓越した戦略眼が浮かび上がってくる。
表1:美濃攻略戦 主要年表(1560年〜1567年)
年月 |
出来事 |
結果・意義 |
永禄3年 (1560) |
桶狭間の戦い |
今川義元を討ち取り、東方の脅威を排除。 |
永禄4年 (1561) |
斎藤義龍、急死。龍興が家督相続。 |
信長、美濃侵攻を本格化。森部の戦い。 |
永禄5年 (1562) |
清洲同盟 |
松平元康(徳川家康)と同盟。背後の安全を確保。 |
永禄6年 (1563) |
小牧山城築城 |
美濃攻略の最前線基地を構築。新加納の戦いで敗退。 |
永禄7年 (1564) |
竹中半兵衛、稲葉山城を乗っ取る。 |
斎藤家の権威が失墜し、家臣団の離反が加速。 |
永禄8年 (1565) |
東美濃・中濃攻略 |
堂洞城、関城などを攻略し、稲葉山城を徐々に孤立化。 |
永禄10年 (1567) |
西美濃三人衆の内応 |
稲葉山城攻略の決定的な好機到来。 |
永禄10年8月 |
稲葉山城の戦い |
美濃平定を達成。 |
表2:稲葉山城の戦い 主要関係者一覧
勢力 |
武将名 |
役職・立場 |
合戦における役割 |
織田方 |
織田信長 |
総大将 |
全軍の指揮。調略と軍事行動を主導。 |
|
柴田勝家 |
宿老 |
主力部隊を率いる。 |
|
丹羽長秀 |
宿老 |
主力部隊を率いる。 |
|
羽柴秀吉 |
部将 |
後の逸話では裏山からの奇襲が語られるが、当時は部隊長の一人。 |
|
斎藤利治 |
信長の近習 |
斎藤道三の末子。兄・龍興を裏切り、信長方として美濃攻略に貢献。 |
斎藤方 |
斎藤龍興 |
当主 |
稲葉山城に籠城するが、統率力を発揮できず。 |
|
日根野弘就 |
重臣 |
龍興に最後まで忠誠を尽くした武将の一人。 |
内応者 |
稲葉一鉄 |
西美濃三人衆 |
斎藤家の宿老。龍興を見限り、信長に内応。 |
|
氏家卜全 |
西美濃三人衆 |
斎藤家の宿老。龍興を見限り、信長に内応。 |
|
安藤守就 |
西美濃三人衆 |
斎藤家の宿老。龍興を見限り、信長に内応。 |
開戦前夜:水面下の攻防(永禄十年三月〜七月)
永禄十年に入ると、斎藤家の衰退はもはや誰の目にも明らかであった。信長による東美濃・中濃地域の制圧が進み、稲葉山城は徐々に孤立を深めていた 20 。この状況を前に、西美濃に勢力を持つ斎藤家屈指の宿老たち、すなわち稲葉一鉄(良通)、氏家卜全(直元)、安藤守就の三名、世に言う「西美濃三人衆」は、ついに龍興を見限る決断を下す 24 。
彼らは密かに織田信長に使者を送り、内応を申し出た。その忠誠の証として、それぞれが人質を差し出すことを約束したのである 21 。信長にとって、これは千載一遇の好機であった。斎藤家の屋台骨を支える重臣たちが寝返ることは、稲葉山城が内部から崩壊することを意味する。信長はこの申し出を快諾し、人質を受け取るための使者として、腹心の村井貞勝と島田秀満を西美濃へ派遣した 25 。全ては水面下で、静かに、しかし確実に進められていた。
永禄十年八月一日:雷鳴の進軍
戦いの火蓋は、誰もが予期せぬ形で切られた。西美濃三人衆からの人質がまだ織田方の陣営に到着していないにもかかわらず、信長は突如として全軍に出陣を命じたのである 22 。この出陣は、表向きには「三河方面への出兵」と偽装されており、斎藤方の警戒を巧みに逸らすものであった 6 。
尾張を出立した織田軍は、驚異的な速さで美濃へ侵攻。目標はただ一つ、稲葉山城であった。信長は、城の南西に位置し、尾根伝いに城と繋がる戦略的要衝、瑞龍寺山に本陣を構えた 18 。稲葉山城から見れば、目と鼻の先に突如として織田の大軍が出現したことになる。
城内の斎藤方は、まさに寝耳に水であった。眼前に広がる軍勢が、信長の敵軍なのか、それとも内応を約束した味方(三人衆)の軍勢なのか、瞬時に判断がつかず大混乱に陥った 21 。信長はこの一瞬の躊躇と混乱を見逃さなかった。折しも当日は風が強く吹いていた。信長はこれを好機と捉え、城下町への一斉放火を命じる。火は風に煽られて瞬く間に燃え広がり、稲葉山城は炎の海に浮かぶ孤島と化した 18 。物理的な城壁は健在であっても、城を守るべき町と人の繋がりは、この一撃で断ち切られたのである。
八月二日:絶望の包囲網
一夜明け、織田軍は次なる手を打つ。稲葉山城の四囲に、人馬の通行を遮断するための簡易的な柵である「鹿垣(ししがき)」を巡らせ始めたのである 18 。これにより、城からの脱出も、外部からの援軍や兵糧の搬入も完全に不可能となった。稲葉山城は、物理的にも心理的にも、完全に封じ込められた。
この頃、内応を約束していた西美濃三人衆が信長の本陣に駆けつけたが、彼らですら信長のあまりの行動の速さに度肝を抜かれたと『信長公記』は伝えている 25 。この戦いの本質は、物理的な城攻めではなかった。信長は、敵の思考と判断の速度を上回ることで主導権を握り、敵が有効な手を打つ前に絶望的な状況を創り出すという、高度な情報戦・心理戦を展開していた。城兵たちの目に映ったのは、燃え落ちた城下町と、日に日に狭まってくる包囲網だけであった。
八月三日〜十四日:静かなる圧迫
完全な包囲網が完成して以降、信長は焦って力攻めを仕掛けることはなかった。難攻不落で知られる山城を強攻すれば、自軍にも多大な損害が出ることを熟知していたからである。彼の戦術は、圧倒的な圧力をかけ続けることで、敵が内側から崩れるのを待つというものであった。
援軍の望みは絶たれ、食料は日に日に減っていく。そして何より、頼るべき主君・龍興にはもはや人望はなかった。このような極限状況下で、城兵たちの士気が維持できるはずもなかった。一人、また一人と、城を抜け出して織田方に投降する者が続出した 21 。信長は物理的な城壁を破壊するのではなく、籠城する兵士たちの「心の壁」を破壊することに成功したのである。
八月十五日:落城
包囲開始から約半月が経過した八月十五日、ついにその時は来た。もはや抵抗は不可能と悟った斎藤龍興は、城兵の降伏を認め、自身は少数の側近と共に城を脱出した 5 。龍興は長良川から舟に乗り、伊勢長島の一向一揆勢力を頼って落ち延びていった 12 。
こうして、父・信秀の代から約二十年、信長自身が本格的に攻略に着手してから七年の歳月を要した美濃国は、最後の稲葉山城攻防においてはわずか十五日間で、しかも大きな戦闘もなく、織田家のものとなった。それは、長年にわたる調略と、敵の内部崩壊を的確に突いた、信長の戦略の完全なる勝利であった。
第三部:天下布武の黎明 — 新たな時代の幕開け
第一章:「岐阜」の誕生
美濃平定という大願を成就した信長は、すぐさま新たな時代への布石を打つ。まず、長年の攻略拠点であった小牧山城から、獲得したばかりの稲葉山城へと本拠地を移転した 7 。そして、この地「井ノ口(いのくち)」を「岐阜」と改め、稲葉山城も「岐阜城」と改称したのである 25 。
この「岐阜」という地名には、信長の壮大なビジョンが込められていた。これは、古代中国において、周の文王が天下統一の拠点とした伝説の地「岐山」の麓にあった「岐邑」に由来するとされる 26 。周が殷を打ち破り新たな王朝を創始したように、自らもまた旧来の秩序を打ち破り、新たな天下を創造するという、信長の強い意志表明であった。美濃を手に入れたことで、信長の視線はもはや尾張・美濃という一地方から、京を中心とする「天下」へと明確に向けられたのである。
第二章:新時代の政策
地名の変更と時を同じくして、信長は自らの政治理念を天下に示す新たな象徴を用いるようになる。それが「天下布武(てんかふぶ)」と刻まれた朱印の使用開始である 26 。これは一般に「武力をもって天下を統一する」と解釈されるが、より正確には「七徳の武(暴を禁じ、戦を止め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにする)」をもって天下に平和な秩序を布く、という儒教的な理念に基づいている。信長は自らの戦いを、単なる領土拡大のための私戦ではなく、天下に秩序と平和をもたらすための公戦であると位置づけた。これにより、彼は他の戦国大名とは一線を画す存在となり、後の上洛をはじめとする行動に絶大な正当性を与えることに成功した。
さらに信長は、理念を掲げるだけでなく、具体的な政策によって新時代の到来を形にしていく。戦火で焼失した城下の加納に対し、有名な「楽市楽座」令を発布した 25 。これは、座(同業者組合)などの旧来の特権を廃し、誰もが自由に商売できる場を保障するものであった。軍事力だけでなく、経済の活性化こそが国を富ませ、天下を安定させる礎であると見抜いていた信長の先進性がここに表れている。美濃攻略後のこれら一連の政策は、信長の天下統一事業の壮大な「開幕宣言」であり、その後の日本の歴史を大きく規定する起点となったのである。
結論:七年の宿願、十五日の勝利
永禄十年(1567年)の稲葉山城の戦いは、織田信長の七年にわたる美濃攻略戦略の輝かしい集大成であった。その勝利は、単なる軍事力の優劣によって決したものではない。それは、敵の内部崩壊を的確に見抜き、西美濃三人衆という内応者を得た周到な調略の成果であり、人質の到着を待たずに出陣するという敵の意表を突く決断力と、情報戦・心理戦を駆使して戦わずして敵の戦意を砕いた、卓越した戦術眼の賜物であった。
この勝利が持つ歴史的意義は計り知れない。第一に、肥沃な美濃国を完全に掌握したことで、信長は尾張・美濃の二ヶ国を領する大大名となり、その経済的・軍事的基盤を飛躍的に強化した。第二に、美濃という戦略的要衝を手に入れたことで、京都への上洛ルートを確保し、天下の中枢へ進出する道が開かれた。
そして最も重要なのは、この勝利が信長自身を、単なる一地方の「戦国大名」から、天下の秩序回復を担う「天下人」へと変貌させた思想的・政治的な転換点となったことである。「岐阜」への改名と「天下布武」朱印の使用は、彼の行動原理が新たな段階に入ったことを天下に示す象徴的な行為であった。
稲葉山城の落城は、斎藤氏という名門の滅亡であると同時に、織田信長による天下統一事業が実質的に始動した、日本の歴史における極めて重要な瞬間であった。わずか十五日間で達成されたこの電撃的な勝利は、来るべき新時代の幕開けを告げる高らかな号砲となったのである。
引用文献
- 大桑城には池のある庭園があった!! 山県市発掘調査で判明 https://gifu.gifoo.co.jp/hokutou/news/11184
- 歴史背景 - 山県市ホームページ https://www.city.yamagata.gifu.jp/site/kirin/6682.html
- 「国盗り」あまたの犠牲 六万墓(山県市大桑/室町末期) - 岐阜新聞デジタル https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/340038
- 大桑城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/ooga.j/ooga.j.html
- 稲葉山城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%91%89%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 稲葉山城の戦い - 世界の歴史まっぷ https://sekainorekisi.com/glossary/%E7%A8%B2%E8%91%89%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84/
- やさしい考古学講座 第2回 戦国時代の城~岐阜城 https://gikyobun.or.jp/maibun/file/KozaShiryoH25_2.pdf
- 加納口の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E7%B4%8D%E5%8F%A3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 「加納口の戦い(1544 or 1547年)」道三の罠だった?織田信秀、マムシに大敗。信長と帰蝶縁組のきっかけに | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/872
- 国史跡 岐阜城 http://www.pcpulab.mydns.jp/main/gifujyo.htm
- 蝮とうつけが築いた城~斎藤道三と織田信長を支えた岐阜城 – Guidoor Media | ガイドアメディア https://www.guidoor.jp/media/dosan-nobunaga-gifujocastle/
- [合戦解説] 10分でわかる稲葉山城の戦い 「金華山を完全包囲する信長、天下統一への戦略」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=JMLsZll7zK0
- 長良川の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%89%AF%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 本能寺の変で討死した斎藤利治!父は美濃のマムシと言われた斎藤道三! - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=LJm1aDChPmg
- 長良川の戦いから信長の美濃侵攻 - よしもと新聞舗:岐阜県瑞穂市情報お届けサイト http://www.yoshimoto-shinbun.com/history/%E9%95%B7%E8%89%AF%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84/
- 竹中半兵衛は何をした人?「稲葉山城を16人で奪った天才軍師が秀吉を出世させた」ハナシ https://busho.fun/person/hanbee-takenaka
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- 織田信長(八) 美濃平定 - 日本の歴史 解説音声つき https://history.kaisetsuvoice.com/Sengoku_Nobunaga08.html
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- 稲葉山城攻め https://kanamorisennki.sakura.ne.jp/senjou-new/inabayaseme/inabayamaseme.html
- 武将列伝番外編組列伝・西美濃三人衆 - BIGLOBE https://www2s.biglobe.ne.jp/gokuh/ghp/busho/g_0306.htm
- 稲葉山城の戦い(2/2)織田信長が美濃を制覇 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/156/2/
- 【解説:信長の戦い】稲葉山城の戦い(1567、岐阜県岐阜市金華山) 信長は如何にして美濃平定を成し遂げたのか? https://sengoku-his.com/485
- 信長いよいよ稲葉山城攻めへ - よしもと新聞舗:岐阜県瑞穂市情報お届けサイト http://www.yoshimoto-shinbun.com/history/%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%81%84%E3%82%88%E3%81%84%E3%82%88%E7%A8%B2%E8%91%89%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E6%94%BB%E3%82%81%E3%81%B8/
- 斎藤龍興/ホームメイト - 名古屋刀剣ワールド https://www.meihaku.jp/toyotomi-kyoudai/saitou-tatsuoki/
- 斎藤龍興 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E9%BE%8D%E8%88%88
- 天下統一の鍵を握った山城!織田信長が惚れ込んだ稲葉山城の魅力とは - note https://note.com/dear_pika1610/n/ne1d6e0532cba
- 稲葉山城の戦いが描かれた浮世絵/ホームメイト https://www.touken-collection-kuwana.jp/mie-gifu-ukiyoe/mie-gifu-ukiyoe-inabayamazyo/
- chapter_2_s.pdf - 岐阜市 https://www.city.gifu.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/005/148/chapter_2_s.pdf