大河内城再攻囲(1569)
永禄十二年、織田信長は伊勢大河内城を再攻囲。北畠具教の頑強な抵抗に苦戦するも、木造具政の内応と将軍義昭の仲介で和睦。信長の次男信雄を養子に入れ北畠家を乗っ取り、伊勢支配を確立。後に北畠家は滅亡した。
永禄十二年 伊勢国攻防史 – 大河内城再攻囲の全貌
序章:天下布武の前に立ちはだかる伊勢の名門
戦国時代の日本において、伊勢国は単なる一地方ではなかった。その地が持つ戦略的価値は、天下統一を目指す者にとって決して無視できないものであった。尾張・美濃を本拠地とする織田信長にとって、伊勢は京へ至る主要街道の一つ、東海道が通過する交通の要衝である 1 。このルートを確保することは、迅速な上洛と畿内への軍事展開を可能にする生命線であり、信長の天下布武事業の根幹をなすものであった 2 。さらに、伊勢湾に面した諸港、特に伊勢大湊は海上交通の拠点として栄え、莫大な経済的利益を生み出していた 4 。この経済圏を掌握することは、信長の軍事行動を支える財政基盤を盤石にすることを意味した。軍事的に見ても、伊勢を敵対勢力下に置いたままでは、信長が畿内や他方面へ出兵した際に常に側面を突かれる危険性をはらんでおり、本拠地の安全保障上、伊勢の平定は必然の課題であった 3 。
この戦略的要衝、伊勢国の南部に二百年以上にわたって君臨していたのが、伊勢国司・北畠家である。村上源氏の流れを汲み、南北朝時代には南朝の忠臣として名を馳せた北畠親房・顕家親子を祖とする超名門であった 4 。その権威は伊勢国内に留まらず、周辺諸国にも広く及んでいた。永禄十二年(1569年)当時、家督は北畠具房にあったが、実権は隠居していた父・具教が掌握していた 7 。具教は剣豪としても名高く、塚原卜伝に師事したと伝えられる武勇に優れた人物であり、その存在は北畠家の精神的支柱であった 8 。この名門としての誇りと、武門としての自負が、新興勢力である織田家への安易な服属を許さなかったのである。
信長の伊勢侵攻は、単に城を落とし領土を奪うという「点の制圧」に留まるものではなかった。それは、京と本国を結ぶ兵站線という「線の確保」であり、伊勢湾の経済圏という「面の支配」を目指した、極めて高度で複合的な戦略目標に基づいていた。この壮大な計画の前に、南朝以来の伝統と権威を背負った伊勢の名門、北畠家が最後の壁として立ちはだかったのである。
第一章:合戦前夜 – 織田信長の伊勢侵攻戦略と北畠家の内訌
織田信長の南伊勢侵攻は、周到な準備の上に成り立っていた。永禄十年(1567年)までに、信長は神戸氏や長野工藤氏といった北伊勢の有力国人を次々と降伏させ、北伊勢八郡を事実上の支配下に置いていた 7 。これにより、南伊勢五郡を治める北畠家との直接対決は避けられない情勢となっていた。信長は足利義昭を奉じて上洛を果たす前後から、重臣・滝川一益を伊勢方面の司令官として送り込み、現地の国人衆に対する調略活動を活発化させていた 1 。
そして永禄十二年(1569年)五月、この水面下での工作が決定的な成果を生む。北畠具教の実弟であり、一門の重鎮である木造城主・木造具政が、滝川一益の調略に応じて織田方へ内応したのである 7 。具政の離反の背景には、北畠宗家との長年の確執があった。彼は兄・具教から冷遇されていると感じており、その不満と一門内での地位向上への野心を、一益に巧みに利用されたとされている 10 。この内応は、軍事行動に先立って敵の内部崩壊を誘うという、信長が得意とした戦略の典型であった 9 。
大河内城の戦いは、信長が一方的に仕掛けた侵略戦争という側面のみならず、北畠一族内部に存在した権力闘争と不和という亀裂に、信長が楔を打ち込んだ結果として勃発した事件であった。強固に見えた名門の支配体制は、その内部から崩れ始めていたのである。
弟の裏切りに激怒した具教は、同年五月十二日、ただちに兵を率いて木造城を包囲し、猛攻撃を開始した 7 。しかし、木造城は滝川一益や、既に織田方についていた神戸氏、長野氏からの援軍を得て頑強に抵抗を続けた 7 。数ヶ月にわたる攻防の末、八月に入っても木造城は陥落せず、戦線は膠着状態に陥った 7 。この状況を打破し、伊勢平定を完遂するため、信長は自ら大軍を率いて伊勢へ出陣することを決断した。大河内城の戦いの火蓋は、この前哨戦によって切って落とされたのである。
第二章:両軍の陣容と大河内城の地勢
大河内城での決戦に臨む両軍の戦力は、圧倒的な差があった。信長率いる織田軍の陣容は、まさに彼の勢力の絶頂期を象徴するものであった。
織田軍の陣容
総大将はもちろん織田信長本人であり、その総兵力は諸説あるものの、五万から八万、一説には十万に達したと伝えられている 4 。これは信長本拠の尾張・美濃の兵だけでなく、同盟者である徳川家康からの援軍、そして新たに服属した北伊勢の国人衆までをも動員した、文字通りの大軍団であった 4 。
参陣した武将たちも、当時の織田家の主力をほぼ全て集めた「オールスターキャスト」であった。伊勢方面軍司令官として調略から実戦までを担う滝川一益、先鋒として阿坂城を攻略した木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)、夜襲部隊を率いた丹羽長秀、池田恒興、稲葉良通らに加え、柴田勝家、前田利家といった宿老、さらにはこの戦いが初陣となった蒲生氏郷など、後の豊臣政権や江戸幕府で重きをなす武将たちが顔を揃えていた 4 。
北畠軍の陣容
対する北畠軍は、総帥を前国司の北畠具教、当主を北畠具房が務めた。その総兵力は約一万六千、そのうち決戦の地となった大河内城には約八千が籠城したとされている 7 。織田軍との兵力差は五倍から十倍にも及び、野戦での決戦は到底不可能な状況であった。
籠城軍は、北畠一族と譜代の家臣に加え、南伊勢五郡、さらには伊賀南部、大和国宇陀、志摩、紀州、熊野といった広範囲から馳せ参じた兵で構成されていた 10 。これは名門北畠家の威光を示すものであったが、同時に寄せ集めの軍勢という側面も否定できなかった。日置大膳亮や天花寺小次郎といった配下の国人領主たちが、絶望的な状況下で奮戦することになる 10 。
【表1】両軍主要武将と推定兵力比較
陣営 |
役職 |
武将名 |
推定兵力 |
主な役割・特記事項 |
織田軍 |
総大将 |
織田信長 |
約70,000 |
全軍の総指揮 |
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伊勢方面軍司令官 |
滝川一益 |
- |
事前調略、多芸城焼き討ち、魔虫谷攻撃 |
|
先鋒 |
木下藤吉郎 |
- |
阿坂城攻略 |
|
部隊長 |
丹羽長秀 |
- |
搦手からの夜襲部隊を指揮 |
|
部隊長 |
柴田勝家 |
- |
主力部隊の一翼を担う |
|
部隊長 |
蒲生氏郷 |
- |
この合戦が初陣となる |
北畠軍 |
総帥(前国司) |
北畠具教 |
約8,000 (籠城軍) |
籠城戦の総指揮、剣豪としても著名 |
|
当主(国司) |
北畠具房 |
- |
具教と共に籠城 |
|
城主 |
日置大膳亮 |
- |
自らの城を焼き払い大河内城へ参陣 |
|
侍大将 |
天花寺小次郎 |
- |
防衛戦で奮戦し討死 |
決戦の舞台・大河内城
北畠軍が圧倒的な兵力差にもかかわらず籠城戦を選択したのは、決戦の舞台となった大河内城が、天然の要害に築かれた難攻不落の堅城であったからに他ならない。
大河内城は標高約110mの丘陵に築かれた平山城で、その立地はまさに天険であった 15 。東には阪内川、北には矢津川が流れ、自然の外堀を形成。南と西は急峻な深い谷に囲まれており、大軍が一度に取り付くことを物理的に不可能にしていた 11 。城の構造も極めて巧妙であった。大手口は谷筋を蛇行しながら登る道筋となっており、両側に配置された曲輪から常に側面攻撃(横矢)を受ける設計になっていた 16 。本丸、二の丸、西の丸といった主要な郭は、複雑に配置された堀切、土塁、竪堀によって堅固に守られていた 16 。応永二十二年(1415年)に北畠満雅によって築かれて以来、百数十年にわたって改修が重ねられたこの城は、織田の大軍を長期間にわたって足止めにし、「難攻不落」と称賛されることになる 17 。
第三章:大河内城攻防戦 – リアルタイム時系列詳解
永禄十二年八月下旬から十月初旬にかけて繰り広げられた大河内城の攻防は、織田信長の戦術の多様性と北畠軍の頑強な抵抗を示す、戦国史上有数の籠城戦であった。その戦況の推移は、まさに息詰まる攻防の連続であった。
【表2】大河内城攻防戦 主要時系列表
年月日(西暦/和暦) |
織田軍の動向 |
北畠軍の動向 |
戦況・特記事項 |
1569/8/20 (永禄12) |
織田信長、総勢約7万を率いて岐阜城を出陣。 |
- |
南伊勢への本格侵攻開始。 |
1569/8/23 |
木造城に着陣。 |
木造城の包囲を解き、大河内城への籠城体制を完了。 |
- |
1569/8/26 |
木下秀吉隊が阿坂城を攻略。 |
支城が陥落するも、本城での徹底抗戦を継続。 |
信長は支城を無視し、大河内城へ全軍を集中。 |
1569/8/28 |
大河内城を完全に包囲。信長は桂瀬山に本陣を設置。 |
約8千の兵で籠城。 |
二重三重の鹿垣を築き、厳重な包囲網を完成。 |
1569/9/8 (夜) |
丹羽長秀らに搦手からの夜襲を命じるも、豪雨で中止。 |
織田軍の夜襲を警戒。 |
雨で鉄砲が使用不能となり、力攻めが失敗。 |
1569/9/9 |
戦術を兵糧攻めに転換。滝川一益が多芸城等を焼き討ち。 |
城内への避難民流入により、兵糧消費が増大。 |
周辺住民を意図的に城内へ追い込む非情な戦術。 |
1569/9月中下旬 |
滝川一益隊が魔虫谷から攻撃するも、大損害を出し撃退される。 |
頑強な抵抗により、織田軍の攻撃を頓挫させる。 |
城内では兵糧が枯渇し始め、餓死者が出現。 |
1569/10/3 |
北畠側の申し出を受け、和睦が成立。 |
籠城の限界を悟り、和睦を決断。 |
信長の次男・茶筅丸の養子入りを条件に開城。 |
8月20日~28日:包囲網の完成
八月二十日、岐阜城を出立した信長の大軍は、破竹の勢いで伊勢を進んだ 7 。二十三日には前哨戦の舞台であった木造城に着陣。この時点で北畠軍は既に木造城の包囲を解き、全軍を大河内城とその支城群に集結させ、籠城体制を固めていた 7 。二十六日、先鋒の木下秀吉隊が阿坂城を攻撃し、これを陥落させる 7 。しかし信長は、他の支城には目もくれず、全軍を本城である大河内城へ集中させるという、一点集中突破の決断を下した 7 。八月二十八日、織田軍はついに大河内城を四方から完全に包囲。信長は城の東方約2kmに位置する桂瀬山に本陣を構え、城の周囲には二重、三重にもなる鹿垣(防御柵)を築き上げ、蟻の這い出る隙間もない厳重な包囲網を完成させた 7 。
9月8日~9日:雨中の夜襲と兵糧攻めへの転換
包囲開始から十日後、信長は力による短期決戦を試みる。九月八日の夜、丹羽長秀、池田恒興、稲葉良通らの精鋭部隊に、城の裏手にあたる搦手からの夜襲を命じた 7 。しかし、この試みは天候によって阻まれる。折からの豪雨で火縄が湿り、当時の主力兵器であった鉄砲が全く使用不能に陥ったため、攻撃は実行不可能なまま中止、撤退を余儀なくされた 7 。
この夜襲の失敗は、攻防戦全体の転換点となった。偶然の天候不順が、信長に力攻めの非効率性とリスクを悟らせたのである。彼はただちに戦術を、より残忍で、しかし効果的な兵糧攻めへと全面的に切り替えた。翌九日、信長は滝川一益に命じ、北畠氏の本来の本拠地であった多芸城(霧山城)をはじめ、周辺の町や村をことごとく焼き払わせた 7 。さらに田畑の稲を薙ぎ払い、収穫を不可能にすることで、北畠領の経済基盤そのものを破壊した 10 。そして、この焼き討ちによって住む場所を失った周辺住民を、意図的に大河内城内へと追い込んだのである 7 。これは、籠城側の食糧消費を人為的に急増させ、その継戦能力を内部から破壊するための、極めて非情かつ合理的な戦術であった。
9月中下旬:魔虫谷(マムシ谷)の激闘と城内の疲弊
兵糧攻めと並行し、織田軍は城への攻撃も続けていた。『勢州軍記』などの記録によれば、この時期に滝川一益の部隊が、城の西側に位置する「魔虫谷(マムシ谷)」と呼ばれる谷間から決死の攻撃を敢行したとされる 7 。この谷は城の構造上の弱点と見なされたのかもしれないが、北畠軍の抵抗は凄まじかった。谷を見下ろす城内から放たれる弓矢や鉄砲による猛烈な迎撃を受け、滝川勢は「斃れた人馬が谷を埋めた」と表現されるほどの甚大な被害を出し、攻撃は完全に頓挫した 18 。
この魔虫谷での敗北は、大河内城の物理的な堅牢さを改めて証明した。しかし、城の外での軍事的な成功とは裏腹に、城内では信長の兵糧攻めの効果が着実に現れ始めていた。約一ヶ月に及ぶ籠城で備蓄された兵糧はみるみるうちに底を突き、やがて城内では餓死者が出るに至った 9 。
10月初旬:和睦への道
城内の惨状を前に、総帥・北畠具教は苦渋の決断を迫られた。外部からの援軍の当てもなく、兵糧も尽きかけている状況では、これ以上の籠城はいたずらに兵を死なせるだけであった 12 。一方、信長側にも、早期決着を望む焦りが生じていた。大河内城の攻略に手間取っている間に、畿内では信長に追われた六角義賢らが不穏な動きを見せるなど、背後の情勢が不安定化し始めていたのである 4 。伊勢での長期戦は、信長の天下布武全体の計画に遅滞をもたらすリスクがあった。城内の窮状という「内的要因」と、信長の畿内情勢という「外的要因」。この二つの要素が絶妙なタイミングで交差した結果、両者は和睦への道を歩み始めたのである。
第四章:和睦交渉 – 屈辱的和平とその裏側
永禄十二年(1569年)十月三日、約五十日間にわたった大河内城の攻防は、両軍の和睦という形で終結した 7 。しかし、その内容は和平とは名ばかりの、北畠家にとって屈辱的な降伏条件であった。
和睦の最大の眼目は、織田信長の次男・茶筅丸(当時十二歳、後の織田信雄)を、北畠家当主・具房の養嗣子(家督を継ぐ養子)として迎えることであった 8 。さらに、決戦の舞台となった大河内城はただちに茶筅丸に明け渡され、具教・具房親子は別の城へ退去することが定められた 12 。茶筅丸は具教の娘・雪姫(千代御前)を正室に迎え、血縁の上でも北畠家の中枢に深く入り込むことになった 8 。
この和睦は、信長にとって単なる停戦ではなかった。それは、軍事的な戦闘の終わりであると同時に、北畠家を内部から解体するための「政治的・血縁的浸透作戦」という、新たな形態の戦争の始まりであった。信長は、南朝以来の名門である北畠家の権威と領地を、武力で完全に破壊し、周辺の反感を買うことを避けた。その代わりに、自らの子を送り込むことで、その権威と正統性を合法的に乗っ取るという、より高度で冷徹な戦略を選択したのである 6 。伊勢国司という伝統的な権威を織田家が手中に収めることで、南伊勢の支配を恒久的に正当化する狙いがあった。
この和睦交渉の裏側には、当時の将軍・足利義昭の存在があったとする見方もある。信長が義昭に働きかけ、自らに有利な形で和睦の仲介をさせたという説である 4 。一方で、将軍の意向を無視したこの強引な養子縁組が、むしろ義昭の不快感を招き、後の信長と義昭の決定的な対立の一因になったとする研究も存在する 7 。
いずれにせよ、大河内城の開城は平和の到来を意味しなかった。それは、北畠家という名門の内に仕掛けられた時限爆弾のスイッチが押された瞬間であった。物理的な包囲は解かれたが、織田家による見えざる包囲は、この日からより強固なものとなったのである。
第五章:戦後の影響と北畠家の終焉
大河内城の和睦後、北畠具教は三瀬館へ、当主の具房は坂内城へと移った 7 。表向きは北畠家の存続が認められた形であったが、その実態は織田家による完全な監視下にあった。しばらくは具教が実権を保ち続けたとされるが、それは滅亡への猶予期間に過ぎなかった 7 。
天正三年(1575年)、北畠家の養子となった織田信雄は元服して家督を正式に継承し、南伊勢統治の拠点を新たに築いた田丸城へ移した。これに伴い、難攻不落を誇った大河内城はその役目を終え、廃城となった 17 。そして翌年の天正四年(1576年)、信長の最終的な意図が実行に移される。信雄は、北畠一族の完全な粛清を断行したのである。世に言う「三瀬の変」である。
まず、三瀬館に隠居していた義父・具教を、長野左京亮、滝川雄利らの兵が襲撃。剣豪であった具教は刀を抜いて奮戦し、多数の敵兵を斬り倒したと伝えられるが、多勢に無勢の前に力尽き、討ち取られた 8 。時を同じくして、信雄は「もてなしのため」と偽って田丸城に具教の他の息子たちや一族の主だった人々を招き入れ、その場でことごとく謀殺した 8 。この周到に計画されたクーデターにより、南朝以来の名門・北畠氏は指導者層を根絶やしにされ、事実上滅亡した 9 。信長・信雄親子による伊勢国の完全平定が、ここに達成されたのである。
伊勢国の平定は、信長の天下統一事業において決定的な意味を持った。これにより、本拠地である東海地方と、政治の中心である畿内が完全に結びつき、支配体制は盤石のものとなった。後の石山合戦や西国攻めにおいて、後顧の憂いなく全兵力を動員できるようになったのである。
しかし、この合戦の評価は一様ではない。近年の研究では、織田軍が攻城戦に苦戦し、むしろ劣勢に陥っていたため、将軍・足利義昭の仲介を頼んでようやく和議に持ち込んだとする「信長劣勢説」も提唱されている 7 。また、将軍の意向を軽視した強引な乗っ取りが、信長と義昭の関係を決定的に悪化させ、後の「信長包囲網」形成の遠因になったとする見方も有力である 7 。
この戦役は、信長の合理的な戦略の集大成であり、彼の勢力拡大を決定づけた成功例である。しかし同時に、その強引で非情な手法は、旧来の権威や秩序との深刻な軋轢を生み出した。大河内城での勝利には、信長の成功の頂点と、その後の孤立と破滅に至る道のりの、両方の種が蒔かれていたと言えるのかもしれない。
結論:大河内城の戦いが戦国史に刻んだもの
永禄十二年の大河内城再攻囲は、単なる一地方の城を巡る攻防戦ではない。それは、戦国時代の戦争のあり方そのものの転換点を示す、象徴的な合戦であった。この戦いにおいて信長が見せた戦術は、単純な兵力の衝突から、事前の調略、兵站を断つ兵糧攻め、敵の心理を突く焼き討ち、そして最終的な政治工作までを組み合わせた、極めて近代的な総力戦の萌芽であった。
この戦いはまた、二つの時代の価値観が激突した舞台でもあった。南朝以来の名門としての誇りと伝統を背負う北畠家と、実力主義と冷徹な合理性によって旧来の秩序を破壊していく織田信長。その衝突は、伝統的権威の終焉と、新たな支配者の台頭を鮮烈に印象付けた。
そして何よりも、和睦による養子縁組から一族の計画的粛清に至るプロセスは、戦国時代における「国盗り」の冷徹な実態を我々に突きつける。力で滅ぼすのではなく、内部から乗っ取り、その権威ごと奪い去る。大河内城の戦いは、織田信長の天下統一事業の本質と、目的のためには手段を選ばないその非情な手法を理解するための、不可欠なケーススタディとして戦国史にその名を刻んでいるのである。
引用文献
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- 大河内城 (三重県松阪市) -織田軍が落とせなかった堅城 https://tmtmz.hatenablog.com/entry/2024/11/03/080000
- 織田信雄~不肖の息子と呼ばれながらも、戦国を生き抜いた男 | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5059