最終更新日 2025-09-01

大高城の戦い(1560)

永禄三年、今川義元の尾張侵攻に際し、松平元康は大高城への兵糧入れと砦攻略を成功させる。しかし、義元は桶狭間で油断し討死。元康は大高城を脱出し、岡崎城へ帰還、独立を果たした。

永禄三年 大高城の戦い ― 松平元康、独立への胎動と織田・今川国境紛争の沸点

序章:桶狭間前夜、尾張国境の緊張

永禄3年(1560年)、日本の歴史を大きく転換させることになる桶狭間の戦い。その直前に、尾張国の南端、知多半島の付け根に位置する大高城をめぐり、熾烈な前哨戦が繰り広げられた。これは単なる局地的な小競り合いではない。駿河・遠江・三河の三国を支配下に置き「海道一の弓取り」と称された今川義元と、尾張統一を成し遂げたばかりの新興勢力・織田信長、両雄の戦略が真正面から衝突した、必然の戦いであった。この「大高城の戦い」を深く理解することなくして、桶狭間の奇跡の本質を語ることはできない。本報告書は、この戦いを桶狭間の戦いの単なる序章としてではなく、松平元康(後の徳川家康)の戦略的自立の萌芽であり、織田・今川間の国境紛争が沸点に達した一大攻防戦として再評価し、その全貌を時系列に沿って徹底的に解明するものである。

今川義元の上洛計画と尾張侵攻の戦略的背景

当時の今川義元は、その権勢の頂点にあった。駿河・遠江・三河の三国を領有し、その動員兵力は2万5千にも達したと伝えられる 1 。彼の視線は、京の都に向けられていた。足利将軍家の権威が失墜し、群雄が割拠する乱世において、義元は上洛を果たし、幕府の権威を背景に天下に号令するという壮大な政治的野心を抱いていた 3

この上洛計画を実現する上で、尾張国は避けて通れない戦略的要衝であった。京へ向かう経路上に位置するだけでなく、背後には織田信長という無視できない脅威が存在した。義元にとって、尾張への侵攻は、上洛ルートを磐石なものとし、後顧の憂いを断つための不可欠な軍事行動だったのである 2 。2万5千という大軍の動員は、この作戦が今川家の総力を挙げた一大事業であったことを雄弁に物語っている。

織田信長の尾張統一と対今川防衛網

一方、迎え撃つ織田信長は、ようやく尾張国内の敵対勢力を制圧し、一国としての統一を達成したばかりであった 2 。その兵力は今川軍の数分の一に過ぎず、国力においても大きな差があった。この圧倒的な劣勢を覆すため、信長は国境地帯に緻密な防衛網を構築する戦略を選択した。

特に、今川方に寝返った鳴海城と大高城は、織田領の喉元に突き付けられた匕首(あいくち)であった。信長はこれらの城を無力化するため、その周囲に複数の砦を築城した。鳴海城に対しては丹下、善照寺、中島砦を、そして大高城に対しては丸根、鷲津といった砦を築き、包囲網を形成したのである 5 。これは、敵の拠点を点で結ぶ線で囲み、兵站を断って孤立させる「封じ込め」戦略であり、信長の合理的な思考が色濃く反映されたものであった。

大高城の戦略的重要性

この攻防の焦点となった大高城は、単なる一つの城ではなかった。知多半島の付け根に位置し、伊勢湾に面することから、陸路だけでなく水運も利用可能な交通の要衝であった 8 。今川軍にとって、この城は尾張侵攻の最前線基地であり、兵員や兵糧を集積する兵站拠点、そしてさらなる進軍の足掛かりとなる、作戦の成否を左右する極めて重要な拠点であった 10

逆に織田軍から見れば、大高城の存在は自領の心臓部に常に脅威を与え続ける存在であり、何としてもその機能を停止させる必要があった。信長が、大高城からわずか800メートルほどの距離に丸根砦、鷲津砦を築いて徹底的な包囲と監視を行ったのは、この城の地政学的・戦略的重要性を誰よりも深く理解していたからに他ならない 7

この信長が築いた砦群と、今川方が保持する大高城・鳴海城が形成する地理的配置は、それ自体が両軍の力が拮抗し、ぶつかり合う一つの「戦線」として機能していた。砦は織田方の「点」であり、城は今川方の「点」である。この点と点を結ぶ線上が、永禄3年5月、両軍の存亡をかけた戦いの舞台となったのである。今川義元にとって、尾張侵攻作戦を開始するにあたっての最初の課題は、この織田方が構築した「封じ込め」を打破し、機能不全に陥りかけている大高城を再活性化させることであった。そして、その極めて困難な任務を託されたのが、若き日の松平元康であった。彼の働きは、単なる補給作戦に留まらず、敵が構築した戦線を突き破り、自軍の戦略拠点を再起動させるという、侵攻作戦全体の成否を左右する重責を担っていたのである。

第一章:盤上の駒 — 対峙する城砦と武将たち

大高城をめぐる攻防は、両軍の戦略が凝縮された盤上であり、そこに配置された武将たちは、それぞれの役割と運命を背負った駒であった。彼らが置かれた状況と、その胸中に去来したであろう思惑を解き明かすことで、合戦の様相はより鮮明となる。

籠城する今川方:大高城と鵜殿長照

織田軍の厳重な包囲網の只中にあった大高城。その守備を任されていたのは、今川家の重臣、鵜殿長照(うどの ながてる)であった 5 。鵜殿氏は今川義元の妹を娶るなど、今川家とは深い姻戚関係にあり、義元からの信頼も厚い一族であった 14 。長照は、この絶望的な状況下で城兵を鼓舞し、必死の抵抗を続けていた。

しかし、信長の執拗な封じ込め戦略により、城内の兵糧は枯渇寸前に追い込まれていた。その窮状は凄まじく、『信長公記』の記述を信じるならば、城兵は山野の草木の実を採取して飢えを凌ぐほどであったと伝わる 15 。士気は低下し、落城は時間の問題と見られていた。この極限状況こそが、今川義元に大軍の動員と、大高城の救援を最優先課題として決断させた直接的な要因であった。

包囲する織田方:丸根砦と鷲津砦

鵜殿長照が籠る大高城に、鋭い視線を向ける二つの砦があった。織田信長が対大高城の拠点として築いた、丸根砦と鷲津砦である。

丸根砦 は、大高城の東方約800メートルの丘陵上に位置していた 7 。この砦は、今川軍の本拠地である沓掛城から大高城へと至る支援路を直接見下ろすことができる、戦略上の最重要拠点であった 17 。この砦の守将を任されたのは、佐久間大学盛重(さくま だいがく もりしげ)。彼はかつて信長の弟・信行に仕えた経歴を持つが、兄弟が対立した稲生の戦いでは信長に味方し、武功を挙げた歴戦の勇士であった 18

一方の 鷲津砦 は、大高城の北東約700メートル、丸根砦からは北西に約600メートルの距離に位置していた 7 。守将は飯尾近江守定宗(いいお おうみのかみ さだむね)とその一族であり、約400から500の兵が守りを固めていた 20

この二つの砦は、大高城から相互に視認できるほどの近距離にあり 12 、狼煙(のろし)や伝令によって緊密な連携を保ち、大高城を物理的にも心理的にも完全に封鎖していたのである 6

救援の先鋒、松平元康

この膠着しきった戦線に、風穴を開けるべく投入されたのが、当時19歳の松平元康であった 23 。今川義元は、この極めて困難かつ重要な作戦の指揮官として、若き三河の将を抜擢した。元康が率いたのは、酒井忠次、石川家成といった譜代の家臣に加え、この戦いが初陣となる本多忠勝など、後に徳川四天王として名を馳せることになる精鋭の三河武士団であった 25 。その兵力は約1,000と伝えられている 26

なぜ義元は、今川譜代の歴戦の将ではなく、元人質という立場の元康をこの作戦の指揮官に選んだのか。その背景には、義元の冷徹な戦略的判断があった。第一に、元康は若年ながらもこれまでの戦で数々の武功を挙げており、その指揮官としての能力は義元も高く評価していた 26 。この危険な任務を遂行できるだけの器量があると見なされたのである。第二に、元康の妻子は依然として駿府にあり、事実上の人質であった。彼にとって、この重要任務を成功させることは、今川家への忠誠心を示す絶好の機会であり、義元は彼の忠誠を試す意図も持っていたと考えられる。

そして第三に、最も冷徹な理由として、リスク管理の観点があった。万が一、この作戦が失敗し元康の部隊が壊滅したとしても、その損害はあくまで三河衆に限定される。今川本隊の中核を成す駿河・遠江の兵力は温存できる。元康とその三河衆は、その出自から、今川家にとって最もリスクを負わせやすい「捨て駒」にもなりうる存在であった。義元による元康の起用は、彼の能力を最大限に活用しつつ、今川家全体のリスクを最小限に抑えるための、極めて合理的な、そして非情な戦略的判断だったのである。

表1:大高城の戦い 主要関係者とその役割

氏名

所属

役職/拠点

主な動向

結果

今川 義元

今川方

総大将/沓掛城

尾張侵攻軍を率い、元康に大高城救援を命令。

桶狭間にて織田信長に討たれる。

松平 元康

今川方

先鋒大将

大高城への兵糧入れを成功させ、丸根砦を攻略。

義元討死後、大高城を脱出し岡崎城へ帰還、独立。

鵜殿 長照

今川方

大高城主

織田軍の包囲下で籠城。兵糧欠乏に苦しむ。

元康に救出され、城の守備を交代。後に三河へ帰還。

朝比奈 泰朝

今川方

部隊長

元康と共に先鋒部隊を率い、鷲津砦を攻略。

義元討死後、敗走。

織田 信長

織田方

総大将/清洲城

対今川防衛網を構築。砦陥落の報を受け出陣。

桶狭間で今川義元本陣を奇襲し、勝利を収める。

佐久間 盛重

織田方

丸根砦守将

元康率いる三河衆の猛攻に対し、城外で迎撃。

激戦の末に討死。丸根砦は陥落。

飯尾 定宗

織田方

鷲津砦守将

朝比奈泰朝の攻撃に対し、籠城戦で抵抗。

奮戦するも討死。鷲津砦は陥落。

第二章:乾坤一擲の兵糧入れ — 松平元康、闇夜を駆ける(永禄3年5月18日)

永禄3年5月18日、大高城の運命、ひいては今川・織田両家の未来を左右する作戦の火蓋が切られた。松平元康に課せられた任務は、単なる物資輸送ではない。敵の厳重な警戒網を突破し、味方の士気を回復させ、反撃の狼煙を上げるという、乾坤一擲の賭けであった。

軍議と作戦決定

5月12日に駿府を発った今川義元の大軍は、順調に進軍を続け、18日には尾張侵攻の最前線基地である沓掛城に到着した 1 。ここで開かれた軍議において、喫緊の課題として挙げられたのが、兵糧が尽きかけている大高城の救援であった。この困難な任務の遂行者として、満場の中から元康が名乗りを上げた、あるいは義元によって指名されたと伝えられる 1 。『徳川実紀』には、他の将が尻込みする中、当時18歳(数え年で19歳)の元康が臆することなくこの任を引き受け、敵味方を感嘆させたと記されている 27

陽動と潜行:大高道ルートの検証

元康の作戦は、単純な力押しではなかった。織田方の砦の注意を引きつけつつ、兵糧を運ぶ本隊は密かに城へ接近するという、緻密な計画が求められた。

元康が辿ったとされる主要ルートは「大高道」である 23 。これは当時、三河と尾張を結ぶ主要街道の一つであったが、その道程は織田方の丸根砦から目と鼻の先にあり、日中に大部隊で通行すれば確実に発見され、集中攻撃を受けることは自明であった 23 。しかし、史実は元康が兵糧入れに成功したことを示している 1

この矛盾を合理的に説明するならば、元康の作戦は複数の要素を組み合わせた複合的なものであったと考えられる。まず、作戦の実行は敵の視界が効かない夜間に行われた可能性が極めて高い。闇に紛れて移動することで、発見されるリスクを大幅に低減できるからである。さらに、一部の部隊を囮として砦に陽動攻撃を仕掛けさせ、織田方の注意を惹きつけている隙に、兵糧を運ぶ本隊が主要道を外れた脇道や谷間などを利用して、隠密に大高城へ接近したと推測される 23 。『徳川実紀』が記す「敵軍の中ををしわけ難なく小荷駄を城内へ」という一節は、単なる武勇伝ではなく、こうした陽動と潜行を組み合わせた高度な戦術の成功を示唆しているのである 27

深夜の搬入作戦

5月18日の夜、元康率いる三河武士団は、兵糧を積んだ荷駄隊と共に沓掛城を出発した。漆黒の闇の中、彼らは息を殺して大高道を進んだ。道中、眼前の丘陵上には、松明の光が揺らめく丸根・鷲津砦が不気味に浮かび上がっていたであろう。織田方の斥候や伏兵との遭遇という、常に死と隣り合わせの緊張感が、部隊全体を支配していたに違いない。

幾多の困難を乗り越え、元康の部隊は大高城に到着した。飢餓と絶望の中で落城を待つばかりであった城兵たちは、元康の到着と山と積まれた兵糧を目の当たりにし、歓喜の声を上げた。この兵糧搬入の成功は、大高城の士気を劇的に回復させ、織田軍の包囲網に最初の亀裂を入れた瞬間であった 15 。それは、翌日に控える総攻撃への完璧な布石であり、元康の武将としての名を天下に知らしめる第一歩となったのである。

第三章:暁の攻防 — 丸根・鷲津砦の陥落(永禄3年5月19日 未明~午前)

兵糧入れという第一段階の任務を完遂した松平元康は、息つく間もなく作戦の第二段階、すなわち大高城を包囲する織田方の砦の排除へと移行した。永禄3年5月19日の夜明け前、尾張の空が白み始める頃、大高城周辺の丘陵地帯は、桶狭間の戦いの序曲となる激しい戦闘の舞台と化した。

攻撃開始(5月19日 午前3時頃)

『信長公記』によれば、今川軍による丸根・鷲津両砦への総攻撃が開始されたのは、午前3時頃であった 1 。これは、夜明け前の最も暗い時間帯を狙った奇襲であった。作戦は二正面で同時に展開された。松平元康率いる精鋭の三河衆が丸根砦に、そして今川家の重臣である朝比奈泰朝(あさひな やすとも)が率いる部隊が鷲津砦に、それぞれ殺到した 1

丸根砦の激闘(午前3時~午前8時頃)

元康隊は、当時最新兵器であった鉄砲を効果的に用いて、丸根砦に猛攻を加えたと伝えられる 17 。夜陰を切り裂く轟音と閃光は、砦の守兵に大きな衝撃を与えたであろう。

この奇襲に対し、守将・佐久間盛重は籠城という選択肢を採らなかった。彼は、数で劣る状況での籠城は不利と判断したのか、あるいは武士の意地か、残存兵力を率いて城外に討って出るという果敢な決断を下した 1 。砦の麓では、闇の中で両軍が入り乱れる壮絶な白兵戦が展開された。三河武士の猛攻の前に、織田方の兵は次々と倒れていった。佐久間盛重は鬼神の如く奮戦したが、衆寡敵せず、激戦の末に討ち死を遂げた。守将を失った丸根砦は完全に崩壊し、守備側は全滅。夜明けから数時間後には、元康の手によって完全に制圧された 10

鷲津砦の籠城戦(午前3時~午前10時頃)

一方、朝比奈泰朝隊の攻撃を受けた鷲津砦では、丸根砦とは対照的な戦いが繰り広げられた。守将の飯尾定宗は、徹底した籠城戦を選択したのである 21 。砦の守兵は、柵や土塁といった防御施設を最大限に活用し、弓や鉄砲で必死に抵抗した。

しかし、攻め寄せる今川軍は次々と新手を繰り出し、波状攻撃を執拗に続けた 21 。数に勝る今川方の猛攻の前に、砦の防御機能は徐々に破壊され、守兵は一人、また一人と討ち取られていった。飯尾定宗をはじめとする将兵の多くが討死し、午前10時頃までには鷲津砦も陥落した 10

清洲城の信長(午前4時~午前8時)

明け方、丸根・鷲津両砦が今川軍の攻撃を受けているとの急報は、清洲城の織田信長のもとにもたらされた 1 。前日まで具体的な策を示さず、重臣たちを苛立たせていた信長は、この報を聞いて寝所から飛び起きると、有名な幸若舞『敦盛』を舞い、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」と謡った後、すぐに出陣の準備を命じた。

そして午前4時頃、信長は兵の集結を待たず、小姓衆わずか5騎のみを連れて居城の清洲城を駆け出した 1 。道中で兵を徐々に集めながら南下し、午前8時頃、熱田神宮に到着。ここで戦勝を祈願した信長が東の空を見上げた時、彼の目に飛び込んできたのは、二筋の黒煙であった。それは、丸根砦と鷲津砦が陥落し、炎上していることを示す、敗北の狼煙であった 1

表2:大高城の戦い 詳細時系列表(永禄3年5月18日~19日)

日時

場所

今川軍(元康隊)

今川軍(義元本隊)

織田軍(砦)

織田軍(信長)

5月18日

沓掛城

義元より大高城への兵糧入れを拝命。

沓掛城に入城。軍議を開く。

丸根・鷲津砦にて大高城を包囲・監視。

清洲城にて籠城か出撃かで家中は紛糾。

5月18日 夜

大高道~大高城

闇に紛れ、兵糧入れを敢行。深夜、大高城に到着し、任務を成功させる。

沓掛城にて待機。

厳重な警戒を敷くも、元康隊の潜入を許す。

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5月19日 午前3時頃

丸根・鷲津砦周辺

丸根砦への総攻撃を開始。

沓掛城にて先鋒の戦勝を待つ。

今川軍(元康・朝比奈隊)の奇襲を受ける。戦闘開始。

清洲城にて就寝中。

5月19日 午前4時頃

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砦攻撃の急報を受け起床。『敦盛』を舞い、5騎で出陣。

5月19日 午前8時頃

丸根砦

激戦の末、佐久間盛重を討ち取り、丸根砦を陥落させる。

-

丸根砦が陥落。守備隊は全滅。

熱田神宮に到着。砦陥落を示す黒煙を目撃する。

5月19日 午前10時頃

鷲津砦・大高城

鷲津砦も陥落。元康は両砦の制圧後、大高城に入城し、義元本隊の到着を待つ。

砦陥落の報を受け、沓掛城を出発。大高城へ向かう。

鷲津砦が陥落。飯尾定宗ら守兵の多くが討死。

善照寺砦に到着。軍勢を集結させる(約2,000~3,000)。

第四章:束の間の勝利と運命の転換(永禄3年5月19日 午前~午後)

大高城をめぐる前哨戦は、今川軍の圧倒的な勝利に終わった。松平元康は与えられた任務を完璧に遂行し、織田信長が築いた国境の防衛線に大きな風穴を開けた。この戦術的勝利は、今川軍全体を祝勝ムードで満たしたが、皮肉にも、それこそが総大将・今川義元の戦略的敗北を招く最大の要因となる。

大高城入城と元康の待機

丸根・鷲津両砦を攻略した元康は、籠城していた鵜殿長照と交代する形で大高城に入り、城の守備を固めた 13 。彼の当面の任務は、この尾張侵攻の橋頭堡を確保し、後続の今川義元本隊の到着を待って合流することであった 26 。この時点において、元康も、そして今川軍の誰もが、自軍の勝利を疑っていなかったであろう。眼前の脅威は排除され、総大将の到着を待つばかり。まさに作戦は計画通りに進んでいるかに見えた。

今川義元の油断と桶狭間での休息

一方、義元率いる本隊は、先鋒隊の勝利の報を受け、意気揚々と沓掛城を出発し、大高城へ向かって西進していた 1 。丸根・鷲津という、信長が築いた最前線の砦がこうも容易く陥落したという報告は、義元に「信長の防衛線は脆く、織田軍に組織的な抵抗力はない」という誤った認識を植え付けた。勝利に酔いしれた義元は、道中で謡をうたわせるなど、完全に油断していた 1

そして運命の正午頃、折からの激しい雷雨に見舞われたこともあり、義元本隊は桶狭間山中の田楽狭間と呼ばれる窪地で大休止を取ることを決断する 4 。これは、視界が悪く、大軍の展開にも不向きな場所であり、軍事的には極めて危険な判断であった。

ここに、大高城の戦いの勝利がもたらした致命的な因果関係が浮かび上がる。元康による完璧な任務遂行という「戦術的勝利」が、総大将である義元に「敵は弱体である」という致命的な「油断」を生じさせた。そして、その油断が、悪天候下における不利な地形での休息という「戦略的過誤」を引き起こしたのである。信長は、この一瞬の隙を見逃さなかった。元康がもたらした勝利の美酒は、結果として義元にとっての毒杯となった。大高城の戦いは、桶狭間の戦いの単なる前哨戦ではなく、その勝敗を決定づけた因果の連鎖の、まさに起点だったのである。

凶報の伝来

大高城で本隊の到着を今か今かと待ちわびていた元康のもとに、信じがたい報せが届いたのは、その日の午後のことであった。「今川義元様、桶狭間にて討死」。この凶報は、勝利に沸いていた城内に大きな混乱と衝撃をもたらした 25

しかし、元康は動揺しなかった。戦場では虚報や流言が飛び交うのは常である。彼は、これが織田方による偽情報である可能性を冷静に分析し、軽率な行動を厳に戒め、確たる情報が入るまで城に留まることを決断した 25 。絶体絶命の状況下で見せたこの冷静な判断力こそ、彼が後に天下人となる片鱗を示すものであった。

終章:大高城からの撤退、そして独立への序曲

今川義元の討死という衝撃的な結末は、大高城の戦いの意味を根底から覆した。前哨戦の勝利者は、一転して敵地の真っ只中に孤立した敗軍の将となった。松平元康は、人生最大の岐路に立たされた。ここでの決断が、彼の、そして日本の未来を大きく左右することになる。

決断の時:水野信元の助言

錯綜する情報の中、元康に決断を促す決定的な情報がもたらされた。彼の伯父であり、織田方に属していた刈谷城主・水野信元からの使者であった。信元は、義元の討死が事実であることを確報するとともに、今や織田軍の包囲下にある大高城から一刻も早く退去するよう、強く勧告した 25

この信頼できる情報源からの勧告を受け、元康は撤退を決断する。これは、総大将を失い、指揮系統が完全に崩壊した今川軍の中で、彼が初めて自らの判断で部隊の存続と未来を決定した、極めて重要な意思決定であった。それは、今川家の一将としての行動ではなく、三河松平家の当主としての行動であり、事実上の独立宣言に等しいものであった。

夜陰に乗じた脱出

5月19日の夜、元康は残存兵力を率いて、夜陰に乗じて大高城を脱出した 25 。織田軍の追撃を警戒しながらの撤退は困難を極めた。道中、織田方の兵と遭遇する危機もあったが、水野信元の案内もあり、何とかこれを切り抜け、故郷である三河へと向かった。

岡崎城への帰還と独立

三河に戻った元康は、菩提寺である大樹寺に一旦身を寄せた 34 。岡崎城にはまだ今川家の代官が残っていたため、すぐには入城できなかったのである 35 。先祖の墓前で自害を考えたという逸話も残るほど、彼の心境は複雑であった 35 。しかし、やがて今川の代官が城を放棄して駿河へ逃亡すると、元康はついに本拠地である岡崎城への入城を果たした 11 。彼が人質として駿府に送られて以来、実に十数年ぶりの故郷への帰還であった 34

この岡崎城入城は、松平元康が名実ともに今川氏の軛(くびき)から脱し、独立した戦国大名として新たな一歩を踏み出した歴史的瞬間であった 25

総括:大高城の戦いが歴史に与えた影響

大高城の戦いは、松平元康が初めて大規模な独立部隊を率い、兵糧入れと砦攻略という複雑な複合的作戦を完璧に成功させた、彼の軍事キャリアにおける画期的な戦いであった。この戦いで得た自信と、その後の絶体絶命の状況下で下した冷静な判断は、19歳の若者を大きく成長させた。

そして何よりも、この戦いの結果として得られた「岡崎城への帰還」は、彼が後の徳川家康として天下統一への道を歩むための、全ての始まりであった。もし元康が大高城の戦いで失敗していれば、今川義元は桶狭間で油断することなく、信長は敗れ去っていたかもしれない。あるいは、元康自身がこの戦いで命を落としていた可能性もある。そう考えれば、大高城はまさに彼の「開運城」 36 であり、この戦いこそが、後の徳川の平和な世を築くための、運命の序曲であったと言えるだろう。

引用文献

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  2. 桶狭間の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7145/
  3. 桶狭間の戦い https://kanamorisennki.sakura.ne.jp/senjou-new/okehazama/okehazama.html
  4. 桶狭間の戦い ~織田信長 対 今川義元 - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/okehazama.html
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  6. 丸根砦・鷲津砦(愛知県)古戦場ゆかりの城をゆく~桶狭間の戦い④~ | しんこうの趣味のブログ http://shinkoukou.blog.fc2.com/blog-entry-319.html
  7. 名古屋市:緑区史跡散策路・大高城下コースの紹介(緑区) https://www.city.nagoya.jp/midori/page/0000001953.html
  8. 桶狭間の戦い - ニッポン旅マガジン https://tabi-mag.jp/ai0580/
  9. 命がけで徳川家康が兵糧を運び込んだ大高城(桶狭間の戦い) - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/2214
  10. 桶狭間の戦い 大高城/鳴海城と5つの砦めぐり - 歴史うぉ~く https://rekisi-walk.com/%E6%A1%B6%E7%8B%AD%E9%96%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84%E3%80%80%E5%A4%A7%E9%AB%98%E5%9F%8E-%E9%B3%B4%E6%B5%B7%E5%9F%8E%E3%81%A8%EF%BC%95%E3%81%A4%E3%81%AE%E7%A0%A6%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8A/
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  20. 『どうする家康』聖地巡礼 ⑧鷲津砦 横堀や遺構らしきものはあるが謎が多い砦 https://shirokoi.info/toukai/aichi/washidu-toride/wasidut_221209
  21. 鷲津砦 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/washizu.sj/washizu.sj.html
  22. 丸根砦・鷲津砦 | あいち歴史観光 - 愛知県 https://rekishi-kanko.pref.aichi.jp/place/place4.html
  23. 大高道|桶狭間合戦で松平元康(のちの徳川家康)が兵糧入れした ... https://delight-net.biz/archives/5406
  24. 若き松平元康の一大ミッション!桶狭間の前哨戦「大高兵粮入」とは【どうする家康】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/191947
  25. 松平元康(徳川家康)の「桶狭間の戦い」の背景・結果を解説|今川氏との決別の戦い【日本史事件録】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1106712/2
  26. 家康の冷静沈着な判断が冴え渡った「桶狭間の戦い」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/24964
  27. 若き松平元康の一大ミッション!桶狭間の前哨戦「大高兵粮入」と ... https://mag.japaaan.com/archives/191947/2
  28. 永禄3年(1560)5月18日は今川軍の松平元康(家康)が織田軍に包囲 ... https://note.com/ryobeokada/n/n0082d91a90bc
  29. 桶狭間の戦い古戦場:愛知県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/okehazama/
  30. 鷲津砦公園 | なごや英傑 史跡一覧 https://nagoya-eiketsu.jp/contents/shiseki/446/
  31. 史跡散策路 緑地・砦コース - 名古屋市 https://www.city.nagoya.jp/midori/cmsfiles/contents/0000012/12335/midori_5_ryokuchi_toride.pdf
  32. 桶狭間合戦 ― 織田&今川の進軍ルート - 歴旅.こむ - ココログ http://shmz1975.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-87d8.html
  33. 1560年 – 64年 桶狭間の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1560/
  34. 徳川家康、17歳で見せた「桶狭間」直後の"驚く決断" 想定外の出来事にもあわてず、状況を鋭く読む - 東洋経済オンライン https://toyokeizai.net/articles/-/646665?display=b
  35. TOP|幾多の危機に見舞われながらも、天下人としての土台を築いた 岡崎時代の徳川家康 https://okazaki-kanko.jp/feature/ieyasu-in-okazaki/top
  36. 桶狭間の戦いの前に、今川勢は織田勢の大高に https://odaka-kankou.com/senseki_c.pdf