最終更新日 2025-09-03

天王寺・岡山口の戦い(1578)

天正四年、織田信長は石山合戦の最中、天王寺砦で絶体絶命の危機に瀕す。信長は寡兵で自ら陣頭指揮を執り、本願寺勢を撃破。この奇跡的勝利は、信長の軍才とカリスマ性を示し、石山合戦の転換点となった。
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天正四年 天王寺の戦い - 織田信長、絶体絶命の危機を覆した一日

序章:石山合戦の泥沼化と天王寺の戦略的価値

日本の戦国時代において、織田信長がその天下布武の過程で直面した最大の障害は、武装した宗教勢力、石山本願寺であった。元亀元年(1570年)に始まった両者の対立、すなわち「石山合戦」は、単なる一寺院との抗争ではなかった。法主・顕如の下に結束した門徒衆は、信仰に裏打ちされた死を恐れぬ兵士となり、全国に広がる一向宗ネットワークは反信長勢力の結節点として機能した。この戦いは10年以上にわたり信長を苦しめ、その覇業を幾度となく頓挫させたのである 1

天正4年(1576年)に至る頃、長篠の戦いでの武田家への勝利や、浅井・朝倉両氏の滅亡により、戦局は信長優位に傾いているかに見えた。しかし、将軍・足利義昭の呼びかけに応じ、中国地方の雄・毛利輝元が反信長包囲網に加担。石山本願寺への海路からの兵糧・弾薬援助を開始したことで、戦況は再び緊迫の度合いを増していた 1 。本願寺は単なる宗教団体ではなく、下間頼廉のような優れた官僚組織、雑賀衆に代表されるプロの傭兵集団、そして寺内町という経済圏を擁する複合的な国家ともいえる存在であった 3 。この強大な組織力と、門徒の狂信的な士気が、長期にわたる抵抗を可能にしていたのである 5

この膠着状態を打破すべく、信長は本願寺を兵糧攻めにするための包囲網を構築した。石山本願寺(現在の大阪城の地)が位置する上町台地の周辺に、野田、森河内といった複数の「付城(つけじろ)」を築き、経済的・軍事的な圧迫を加えた 6 。中でも、上町台地の南端に位置する天王寺は、本願寺の喉元に刃を突きつけるに等しい、最重要の戦略拠点であった 7 。この地に織田軍が築いた天王寺砦は、まさに本願寺攻略の最前線基地だったのである 9

本報告書で詳述する「天王寺の戦い」は、この天王寺砦をめぐって天正4年(1576年)5月に繰り広げられた、石山合戦の趨勢を決定づける極めて重要な野戦である。なお、ご下問にあった天正6年(1578年)には、織田信忠を総大将とする示威行動や第二次木津川口の戦いがあったものの 10 、「天王寺・岡山口の戦い」という名称で知られる大規模な野戦は、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣における豊臣方と徳川方の最終決戦を指すのが一般的である 12 。本稿では、石山合戦における主導権争いというご趣旨に最も合致する、1576年の「天王寺の戦い」に焦点を当て、その詳細な時系列を追うこととしたい。

第一部:前哨戦 - 織田軍、未曾有の敗北(天正四年五月三日)

天正4年5月、信長は石山本願寺の生命線である海上補給路を完全に断つべく、大坂湾へと繋がる木津川河口に位置する木津砦の攻略を決断した。この作戦の総指揮官には、大和方面軍を率いる重臣・塙(ばん)直政(原田直政とも)が任命された 1

木津砦への進撃と本願寺の迎撃

五月三日早朝、織田軍は行動を開始した。陣立ては、三好康長、そして根来衆・和泉衆からなる部隊を先陣とし、総大将の塙直政が率いる大和衆・山城衆が第二陣として続く構成であった 1 。後方の天王寺砦には、万一に備え、明智光秀と筆頭家老・佐久間信盛の嫡男である佐久間信栄が守備兵として残された 1

しかし、織田軍の動きは本願寺側に筒抜けであった。寺内町や全国に広がる門徒のネットワークを通じて、本願寺は優れた情報網を構築しており、織田軍の作戦を事前に察知していたのである 16 。木津砦周辺には、本願寺勢力の切り札ともいえる雑賀衆を中心とした1万を超える大軍が、数千丁の鉄砲と共に待ち構えていた 15 。特に、雑賀衆を率いる鈴木孫一(重秀)は、単に鉄砲を撃つだけでなく、射手と弾込役を分業させ、複数の部隊が間断なく一斉射撃を行うという、当時としては革新的な戦術を編み出していた 19

織田軍の潰走と総大将の戦死

織田軍の先陣が木津砦に迫ったその時、本願寺勢の伏兵が一斉に火を噴いた。雑賀衆による雷鳴のような一斉射撃は、織田軍の先鋒を瞬時に粉砕した。凄まじい火力と統制の取れた攻撃の前に先陣は総崩れとなり、将の三好康長は早々に戦線を離脱する 16

後続の塙直政率いる本隊も、混乱に陥った先陣と、側面から襲いかかる本願寺勢の猛攻によって、たちまち大混乱に陥った。この乱戦の最中、総大将である塙直政は、一族の塙喜三郎、小七郎らと共に討死するという、織田軍にとって最大級の悲劇に見舞われた 21 。方面軍司令官が野戦で命を落とすという事態は、織田軍の作戦が敵の兵力と戦術を完全に軽視した、情報分析の段階での完敗であったことを物語っている。

天王寺砦、絶望の籠城戦へ

木津での勝利に勢いづいた本願寺勢は、敗走する織田の残兵を追撃し、その勢いのまま天王寺砦へと殺到した。砦を包囲する軍勢は1万5千にまで膨れ上がり、砦は完全に孤立した 6 。砦内に籠る明智光秀、佐久間信栄らの兵力は僅かであり、まさに絶体絶命の窮地に立たされた。光秀らは、一縷の望みを託し、京都に滞在する信長のもとへ救援を求める急使を放ったのである 1

第二部:信長、電光石火の救援(五月四日~六日)

天王寺砦からの凶報は、五月四日、京都の妙覚寺に滞在していた信長の元に届いた 18 。方面軍司令官の戦死と、明智光秀ら重臣が包囲されているという報告は、事態がもはや一刻の猶予も許さないことを示していた。

信長の決断と若江城への急行

信長は、報告を受けるや否や、即座に自らの出陣を決意。畿内の諸将に動員令を発すると同時に、自身もすぐさま京を発った。『信長公記』によれば、五月五日、信長は僅か百騎ほどの供回りのみを連れ、「明衣の仕立(めいいのしたて)」、すなわち戦場に赴くための甲冑ではなく、普段着のまま馬に乗り、河内国の若江城へと急行したという 1 。この異様な出で立ちは、信長がいかにこの事態を深刻に受け止め、一刻も早い現地到着を優先したかの証左である。

この迅速な行動の背景には、軍事的な合理性だけでなく、当時の武家社会における極めて重要な価値観があった。ここで光秀らを見捨てれば、信長は「味方を見殺しにする主君」という汚名を着せられ、他の家臣や同盟勢力からの信頼を失いかねない。それは、天下布武という大事業の根幹を揺るがす致命的な失態となる。信長にとって、短期的な軍事的リスクを冒してでも、自らの「面目」と「評判」という無形の政治的資本を守り抜くことは、絶対不可欠な判断であった。

若江城での焦燥と決意

若江城に到着した信長を待っていたのは、厳しい現実であった。あまりに急な動員令であったため、諸将の兵の集結は遅々として進まず、五月六日の時点でも集まった兵力は僅か3千に過ぎなかった 1 。対する本願寺勢は1万5千。兵力差は実に5倍である 22

その間にも、天王寺砦の光秀からは「もってあと三日も支えられませぬ」という、悲痛な報告が矢継ぎ早に届く 14 。信長は、「このまま光秀らを攻め殺させては、世間の笑いものとなり、末代までの恥辱である」と語り、この圧倒的に不利な状況下で、寡兵をもって敵の大軍に決戦を挑むことを決意した 14 。この時の兵の集結の遅れという苦い経験は、信長に、より迅速に大軍を動員できる強力な中央集権体制の必要性を痛感させ、後の苛烈なまでの命令実行を求める姿勢に繋がっていった可能性も考えられる。

第三部:決戦 - 天王寺合戦の一日(五月七日)

五月七日、夜明けと共に、織田信長の生涯でも屈指の、大胆かつ奇跡的な戦いが始まった。この一日は、信長の軍事的才能のすべてが凝縮された日であった。

払暁の奇襲 - 南方からの迂回進軍

信長は若江城を出ると、最短距離である西の天王寺へは向かわなかった。大きく南へ迂回し、住吉方面から上町台地を駆け上がり、北上して天王寺砦を目指すという、全く予想外の進軍ルートを選択したのである 14 。本願寺勢の意識が東の若江城方面に集中しているであろうことを完全に見抜いた、敵の意表を突くための卓越した戦術的判断であった。

午前:三段の陣による突撃

住吉口から上町台地に姿を現した織田軍3千は、眼前に広がる1万5千の本願寺勢の包囲陣に対し、躊躇なく突撃を開始した。その陣形は、周到に計算された三段構えであった 14

  • 第一陣(先鋒): 佐久間信盛、松永久秀、細川藤孝といった歴戦の将たちが率いる部隊 14
  • 第二陣: 滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、そして美濃三人衆(稲葉良通、氏家直昌、安藤守就)ら、織田軍団の中核をなす主力部隊 14
  • 第三陣: 信長自らが率いる精鋭の親衛隊、馬廻衆 14

この時、信長は当初、摂津方面軍を率いる荒木村重に先陣の栄誉を与えようとしたが、村重は「自分は木津方面の抑えに回る」としてこれを辞退したという逸話が『信長公記』に記されている 1 。先陣は最大の栄誉であると同時に最も危険な役目であり、自軍の兵力温存を優先した村重の合理的な判断ともとれるが、信長への絶対的な忠誠と自己犠牲を求める主君から見れば、それは許されざる態度であった。戦後、信長は「戦意のない村重に先陣を任せなくてよかった」と漏らしたとされ、この一件は二年後の村重の謀反へと繋がる亀裂の予兆であったとも解釈できる。

正午:死闘、信長自ら陣頭に立つ

戦闘が始まると、信長は第三陣の本陣に留まることなく、自ら馬を駆って第一陣の足軽たちの間に分け入り、直接指揮を執り始めた 7 。総大将が最前線に姿を現したことに、織田軍の士気は爆発的に高まった。対する本願寺勢は、数千丁の鉄砲を雨あられと撃ちかけ、猛烈な弾幕で織田軍の突撃を阻もうとする。この壮絶な激戦の最中、信長は敵の放った鉄砲玉を脛に受け、軽傷を負った 1 。しかし、総大将の負傷にも怯むことなく、織田軍は信長の檄に応え、鬼神の如く敵陣に突入。ついに、分厚い本願寺勢の包囲網の一角を切り崩すことに成功した。

午後:砦との合流、そして驚愕の第二波攻撃

死闘の末、信長率いる救援部隊は天王寺砦に到達し、明智光秀、佐久間信栄らの籠城部隊との合流を果たした 1 。通常であれば、ここで一旦兵を休め、陣形を立て直すのが戦の常道である。しかし、信長の思考は常人のそれを超越していた。

本願寺勢が、合流されたとはいえ依然として大軍であることに安堵し、陣容を立て直そうとしているのを見るや、信長は即座に「重ねて一戦に及ぶべし」と、再攻撃の命令を下した。兵は疲弊し、敵は依然として数倍。佐久間信盛ら重臣たちは、あまりの無謀さに反対したが、信長は「今、敵が油断しているこの時こそ、天が与えた好機である」として、一切聞き入れなかった 14 。信長の戦術の核心は、物理的な戦力差を覆すほどの「心理的衝撃」を敵に与え続けることにあった。予期せぬ方向からの奇襲、総大将の陣頭指揮、そして息つく間もない連続攻撃。これら一連の常識外れの行動は、本願寺勢の意思決定の循環を破壊し、組織的な抵抗力を麻痺させることを狙ったものであった。

夕刻:完全勝利と石山本願寺への追撃

籠城していた兵と合流し、勢いを増した織田軍は、再び砦から打って出た。この予期せぬ第二波攻撃に、本願寺勢の指揮系統は完全に崩壊した。一度は信長を追い詰めた大軍は、統制を失った烏合の衆と化し、我先にと石山本願寺を目指して敗走を始めた。

織田軍はこれを猛追し、石山本願寺の城門である木戸口まで敵兵を追い立て、実に2700余りの首級を挙げるという、圧倒的な大勝利を収めた 1 。この日の激しい戦闘により、戦場となった四天王寺の壮麗な伽藍は兵火に包まれ、その多くが灰燼に帰したと伝えられている 6


表:天正四年 天王寺の戦い 両軍兵力比較

項目

織田軍

石山本願寺・一向一揆勢

総兵力

約3,000

約15,000

総大将

織田信長

本願寺顕如 (戦場指揮官:下間頼廉、鈴木孫一ら)

主要武将

救援部隊 ・第一陣:佐久間信盛、松永久秀、細川藤孝 ・第二陣:滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀 他 ・第三陣:信長馬廻衆 天王寺砦籠城部隊 ・明智光秀、佐久間信栄

主力部隊 ・下間頼廉、下間頼龍 援軍 ・雑賀衆(鈴木孫一) ・根来衆 ・畿内門徒衆

特記事項

急遽召集された寡兵。 信長自らが陣頭指揮を執る。

雑賀衆の数千丁ともいわれる鉄砲隊が戦力の中核。 士気は極めて高い。


第四部:戦後の影響と歴史的意義

天正4年5月7日の一日の戦いは、石山合戦全体の流れを決定づける転換点となり、織田軍団の内部、そして戦国時代の戦争のあり方にまで、多岐にわたる影響を及ぼした。

大坂包囲網の再編と佐久間信盛の栄光と悲劇

この劇的な勝利の後、信長は天王寺砦の戦略的重要性を再認識し、本願寺攻めの体制を抜本的に強化した。その総大将として、織田家筆頭家老である佐久間信盛を任命し、天王寺砦に配置したのである 1 。さらに大坂周辺に新たに十箇所の付城を築かせ、包囲網をより一層厳重なものとした 1

しかし、この栄誉ある任命は、皮肉にも4年後の信盛追放への序曲となった。信長は、自らが命を懸けて勝利をもぎ取ったこの地で、信盛が積極的な攻勢に出ず、いたずらに兵糧を消費する持久戦に終始したことを「怠慢」と断じた 28 。天正8年(1580年)、本願寺との和睦が成立すると、信長は信盛に十九ヶ条にもわたる折檻状を突きつけ、高野山へ追放する。その最大の罪状として挙げられたのが、この本願寺攻めにおける働きぶりの不足であった 30 。天王寺での戦いは、織田家臣団にとって、その働きぶりを測る極めて厳しい人事評価の基準点となったのである。塙直政は敗死し、明智光秀は籠城を耐え抜き、羽柴秀吉らは信長の突撃に従った。この戦いを通じて、信長の掲げる苛烈な実力主義、すなわち「成果を出せぬ者は、譜代の重臣であろうと容赦なく切り捨てる」という方針が、全家臣に強烈に示されたと言える。

戦いの舞台は海上へ - 海軍技術革新の遠因

天王寺での陸戦における大敗により、本願寺は陸路からの反撃や補給の望みをほぼ絶たれた。これにより、毛利氏による海路からの兵糧輸送が、文字通り唯一の生命線となった 14 。この状況が、僅か2ヶ月後の天正4年7月、毛利水軍が焙烙火矢を駆使して織田水軍を壊滅させる「第一次木津川口の戦い」を引き起こす直接的な原因となる 2

この海戦での惨敗は、信長に制海権の重要性を痛感させた。そして、この敗北こそが、従来の和船の常識を覆す巨大な「鉄甲船」の建造を九鬼嘉隆に命じるきっかけとなったのである。天正6年(1578年)の第二次木津川口の戦いにおいて、鉄甲船はその圧倒的な防御力と火力で毛利水軍を粉砕し、大坂湾の制海権を完全に奪取した 33 。これにより本願寺の兵站は断たれ、ついに長期にわたる籠城戦は終焉へと向かう。天王寺での陸戦の大勝利が、結果的に織田軍の海軍戦略と技術を大きく飛躍させる遠因となったという、壮大な歴史の連鎖が見て取れる。

織田信長という人物像の凝縮

この天王寺の戦いは、織田信長という稀代の武将のリーダーシップと軍事的才能を、最も鮮烈に描き出した合戦の一つである。絶望的な凶報にも冷静さを失わない 情報分析力と迅速な意思決定 。敵の意表を突く迂回進軍や、常識外れの連続攻撃に見られる 大胆な戦術眼 。そして何より、自ら負傷を負いながらも最前線で兵を鼓舞し、5倍の敵を打ち破る原動力となった 圧倒的なカリスマ性 。そのすべてが、この一日に凝縮されている。この勝利によって、信長は石山合戦の主導権を完全に掌握し、天下布武への道を大きく前進させたのであった。

結論:戦国史における天王寺の戦いの位置づけ

天正4年(1576年)の天王寺の戦いは、単なる一合戦に留まるものではない。それは、10年以上にわたった石山合戦における最大の転換点であり、織田信長という人物の軍事思想、組織論、そして人間的魅力を体現した、戦国史における象徴的な一幕であった。

この戦いは、情報戦の重要性、鉄砲という新兵器の戦術的革新、そして何よりも、危機的状況においてリーダーが示すべき決断力と行動力がいかに戦局を覆すかを我々に教えてくれる。信長がもしこの時、兵力差を恐れて救援を躊躇していれば、明智光秀らは討死し、織田軍の威信は失墜、石山合戦の泥沼化はさらに深刻なものとなり、日本の歴史は大きく異なる道を歩んでいたかもしれない。

寡兵を率いて自ら死地に飛び込み、絶望的な敗北を奇跡的な勝利へと転換させたこの一日の戦いは、織田信長がなぜ戦国の覇者たりえたのか、その本質を雄弁に物語っている。それは、その後の織田軍団のあり方を規定し、日本の戦争史における技術革新の引き金にさえなった。天王寺の戦いは、信長の天下統一事業において、決定的な重要性を持つ一日だったのである。

引用文献

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  2. 石山合戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B1%B1%E5%90%88%E6%88%A6
  3. 下間頼廉 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%93%E9%A0%BC%E5%BB%89
  4. [合戦解説] 10分でわかる石山合戦 「織田信長と10年戦った宗教勢力石山本願寺の最後」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=jeYEBEq4CsU
  5. 木津川口の戦いと村上海賊 - 北条高時.com https://hojo-shikken.com/entry/2014/06/11/213000
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