最終更新日 2025-08-31

天筒山城の戦い(1573)

元亀元年、織田信長は越前侵攻を開始し、天筒山城を一日で陥落。浅井長政の裏切りで窮地に陥るも、天正元年、朝倉氏を刀根坂で壊滅させ、一乗谷を焼き払い滅亡。

天筒山城の戦いと朝倉氏の滅亡:元亀・天正の越前攻防全史

序章:天下布武の前に立ちはだかる名門

永禄11年(1568年)、足利義昭を奉じて京都への上洛を果たした織田信長は、畿内における政治的影響力を急速に拡大させていた 1 。しかし、その覇道は未だ盤石ではなく、各地に根を張る伝統的権威、すなわち旧来の名門大名との間に深刻な緊張関係を内包していた。その筆頭格が、越前国(現在の福井県嶺北地方)に君臨した朝倉義景であった。

朝倉氏は、室町幕府の重鎮である管領・斯波氏の家臣から、実力で守護の地位を勝ち取った名家である 2 。一方の織田氏は、その斯波氏の守護代の、さらに分家に過ぎない。この歴然とした家格の差は、義景の中に信長に対する根強い軽侮の念を植え付け、後の破滅的な対立の遠因となった 2

両者の対立を決定的にしたのは、室町幕府第15代将軍となる足利義昭の存在であった。当初、義昭は上洛の足掛かりとして義景を頼り、その本拠地である一乗谷に身を寄せていた 1 。しかし、一向に動こうとしない義景に業を煮やした義昭は、美濃を制圧し飛ぶ鳥を落とす勢いであった信長へと乗り換える 3 。信長は義昭を将軍の座に就けると、その権威を最大限に利用し、諸大名に対して上洛を命令した。しかし、義景はこれを再三にわたって拒否 4 。これは信長にとって、将軍の権威、ひいては自らの権威に対する明白な挑戦であり、もはや両者の軍事衝突は避けられない状況となった。

この織田・朝倉の対立に、複雑な影を落としたのが北近江(現在の滋賀県北部)の浅井長政である。浅井氏は長年にわたり朝倉氏の庇護下にあり、強固な同盟関係を築いていた 7 。一方で信長は、美濃攻略の過程で長政の武勇に着目し、妹のお市の方を嫁がせることで、浅井氏と政治的な同盟を締結していた 5 。この同盟には「朝倉氏へは攻め入らない」という密約があったとも言われるが、その真偽は定かではない 8 。結果として浅井氏は、旧来の恩義ある朝倉氏と、新たな義理の兄である信長という二大勢力の板挟みとなり、信長が越前侵攻の軍を起こした際、歴史を揺るがす重大な決断を迫られることになるのである。


【表1】主要参戦武将一覧(1570年・1573年)

勢力

主要武将

1570年の動向

1573年の動向

結末

織田・徳川連合軍

織田信長

越前侵攻軍 総大将

朝倉討伐軍 総大将

本能寺の変で自刃

徳川家康

連合軍として参陣

(参陣の記録は二次史料のみ)

江戸幕府を開く

柴田勝家

天筒山城攻撃部隊

朝倉軍追撃部隊

賤ヶ岳の戦いで敗れ自刃

丹羽長秀

天筒山城攻撃部隊

朝倉軍追撃部隊

豊臣政権下で大名となる

木下秀吉

遊軍、金ヶ崎の退き口で殿軍

朝倉軍追撃の中核、小谷城攻略

天下を統一する

明智光秀

金ヶ崎の退き口で殿軍

朝倉軍追撃部隊

本能寺の変後、山崎の戦いで敗死

朝倉・浅井連合軍

朝倉義景

越前防衛軍 総大将

小谷城救援軍 総大将

賢松寺で自刃

朝倉景恒

金ヶ崎城主、降伏

不明(刀根坂で戦死説あり)

不明

朝倉景鏡

一門筆頭

義景を裏切り信長に降伏

越前一向一揆に討たれる

寺田采女正

天筒山城主

-

天筒山城で戦死

山崎吉家

-

刀根坂の戦いで殿軍を務め戦死

刀根坂で戦死

浅井長政

織田軍を裏切り、背後を脅かす

小谷城に籠城

小谷城で自刃


第一部:元亀の烽火 ― 1570年、天筒山城の攻防

第一章:越前侵攻の開始

元亀元年(1570年)4月20日、織田信長は徳川家康の軍勢を含む3万とも称される大軍を率いて京を発した 9 。表向きの目的は、若狭国(現在の福井県嶺南地方)の守護・武田氏の家督争いへの介入であったが、これは朝倉義景の警戒を解くための巧妙な偽装であった 9 。信長の真の狙いは、再三の上洛命令を無視し続ける朝倉氏の本拠地、越前への電撃的な侵攻にあった 5

軍勢は琵琶湖西岸を迅速に北上し、若狭の熊川宿で一泊した後 10 、朝倉氏との国境に位置する国吉城に入り、最終的な軍議を重ねた 11 。そして4月25日、織田・徳川連合軍は若越国境を越え、朝倉氏の支配下にある越前敦賀郡へと雪崩れ込んだ 10 。信長は敦賀市街の妙顕寺に本陣を構え、眼前にそびえる敦賀湾の要害、天筒山城と金ヶ崎城の攻略を全軍に下知した 10

第二章:敦賀湾の要害、天筒山城

敦賀は、古代より日本海海運の拠点として栄え、畿内と北陸、さらには大陸とを結ぶ経済・交通の要衝であった 16 。この港を支配することは、朝倉氏の経済基盤そのものを揺るがすことを意味し、一乗谷の文化的繁栄を支える物流網を断ち切るに等しい戦略的価値を持っていた。この敦賀港を直接的に防衛する軍事拠点が、金ヶ崎城と天筒山城からなる要塞群であった。

金ヶ崎城は敦賀湾に直接突き出した標高約86mの丘陵に築かれ、その南に連なる標高約171mの天筒山には支城である天筒山城が構えられていた 9 。両城は尾根伝いに連結されており、一体不可分の防衛システムを形成していた 21 。特に天筒山城は金ヶ崎城を眼下に見下ろす高所にあり、戦術的に極めて優位な位置を占めていた 15 。『太平記』にも、南北朝時代の合戦において、この天筒山の位置から金ヶ崎城を攻撃した記述が見られ、古くからその戦略的重要性が認識されていた 22 。ここを失うことは、金ヶ崎城が敵の射程に完全に晒されることを意味し、要塞群全体の防衛が成り立たなくなることを示唆していた。

この重要拠点に対し、朝倉方は敦賀郡司の朝倉景恒を総大将として金ヶ崎城に、そして天筒山城には城主の寺田采女正をはじめ、地元の気比大社の社家衆など約1,300から1,500の兵を配置して守りを固めていた 10

第三章:血戦、一日での陥落

4月25日、信長は自らの軍略家としての資質を遺憾なく発揮する。彼はまず、机上の作戦に頼ることなく、自らの目で戦場全体を検分した。『信長公記』が「懸けまはし御覧じ(駆け回ってご覧になり)」と記す通り、信長は敵の布陣、城の構造、そして周囲の地形を徹底的に分析したのである 15

この偵察により、信長は朝倉方の決定的な油断を見抜いた。天筒山城の東南面は、切り立った崖とその下に広がる池見湿地帯によって守られており、朝倉方はこれを天然の要害と過信し、防備を手薄にしていた 10 。信長は、常道である正面からの攻撃ではなく、この敵の意表を突くルートからの奇襲的強襲こそが、堅城を迅速に陥落させる鍵であると判断し、即座に総攻撃を命じた 10

攻撃は、信長自らが先陣に立ち、織田一門、そして柴田勝家や丹羽長秀といった宿老たちが続くという苛烈なものであった 10 。後詰には徳川家康や松永久秀らが控え、万全の体制が敷かれた。この時、後に天下人となる木下秀吉は遊軍として、城の周辺に放火して回り、守備兵の注意を逸らし、城内に混乱を引き起こすという重要な役割を担っていた 10

織田軍の主力は、ぬかるむ湿地帯をものともせず突破し、崖を一気に駆け上がった 10 。予想だにしなかった方向からの大軍の猛攻に、城兵は必死の抵抗を試みたが、その動揺は隠せなかった。戦いは凄惨を極め、双方に多数の死傷者を出した。織田方では、猛将・森可成の嫡男である森可隆が初陣で討死を遂げるなど、1,500名余りの犠牲者が出たとされる 10 。一方、朝倉方も奮戦空しく、圧倒的な兵力差の前に次々と討ち取られていった。『信長公記』は、この戦いで討ち取られた朝倉方の首級を1,370と記録しており、籠城兵はほぼ全滅したと見られる 10

金ヶ崎城から救援に駆け付けた朝倉景恒の部隊もこの猛攻の前に敗れ、本城へと引き返さざるを得なかった 10 。そして日没頃、わずか一日にして、要害と謳われた天筒山城は織田軍の手に落ちたのである 10 。この戦いは、単なる兵力による圧殺ではなく、信長自らによる徹底した情報収集、敵の心理的な隙と地形の弱点を突く合理的な戦術、そして各部隊が連動した立体的な作戦行動の賜物であった。信長の戦術家としての非凡な才能が明確に示された、初期の重要な戦例と言える。


【表2】天筒山城の戦い(1570年)タイムライン

日付

時刻(推定)

織田軍の動向

朝倉軍の動向

元亀元年4月25日

午前

信長、敦賀に着陣し妙顕寺に本陣を設置。自ら天筒山城周辺の地形を偵察。

天筒山城に籠城し、防備を固める。

昼前

東南面の崖と湿地帯が防御の手薄な弱点であることを見抜く。同方面からの総攻撃を決定。

東南面を天然の要害と過信し、主力を大手口方面に集中。

午後

信長自ら先陣に立ち、東南面から総攻撃を開始。木下秀吉の遊軍が周辺に放火し陽動。

予期せぬ方向からの猛攻に混乱。必死の防戦を展開する。

午後~日没

湿地帯と崖を突破し、城内へ乱入。激戦の末、城兵を圧倒。双方に甚大な被害が出る。

兵力差で押し切られ、城兵は次々と討死。籠城部隊はほぼ壊滅。

日没頃

天筒山城を完全に制圧・占拠する。

城は陥落。救援の朝倉景恒隊も敗走。


第四章:束の間の勝利と裏切り

眼前の天筒山城が、わずか一日で文字通り蹂躙される様を目の当たりにした金ヶ崎城の将兵は、完全に戦意を喪失した 6 。本国からの援軍も間に合わない中 10 、これ以上の抵抗は無意味であると悟った城主・朝倉景恒は、翌4月26日、信長の降伏勧告を受け入れ、城を無血で明け渡した 9

敦賀一帯を完全に掌握し、越前攻略の橋頭堡を築いた織田軍の士気は最高潮に達した。しかし、信長がさらに軍を越前奥深くへと進めようとしたその矢先、戦況を一変させる凶報がもたらされる。義理の弟であり、同盟者であるはずの浅井長政が信長を裏切り、織田軍の退路を断つべく近江海津に進軍したというのである 6

この知らせがどのようにして信長にもたらされたかは、歴史上の謎の一つである。長政の妻であり信長の妹であるお市の方が、両端を固く結んだ小豆の袋を陣中見舞いとして送り、「袋の鼠」であることを示唆したという逸話は有名だが、これは後世の創作である可能性が高い 6 。確かなのは、信長が当初この報を「虚説たるべき(偽情報に違いない)」と信じなかったものの、複数の使者からの続報によって事実であると認めざるを得なくなったことである 6

このままでは、北の朝倉軍と南の浅井軍に挟撃されるという絶体絶命の危機に陥る。信長は即座に全軍撤退を決断 6 。木下秀吉、明智光秀、池田勝正といった信頼の置ける将に、最も危険な殿(しんがり)を命じ、金ヶ崎城で追撃を防がせている間に、自身は僅かな供回りとともに京を目指し、決死の退却戦を開始した。世に言う「金ヶ崎の退き口」である。天筒山城での鮮やかな勝利は、一転して信長生涯最大の窮地への序章となったのである。

第二部:雌伏と包囲網 ― 1570年~1573年の動向

金ヶ崎の窮地から九死に一生を得て生還した信長は、すぐさま反撃に転じた。同年6月には「姉川の戦い」で浅井・朝倉連合軍を打ち破り、一矢を報いる 5 。しかし、この勝利も決定打とはならず、浅井・朝倉氏は依然として健在であった。さらに、彼らに呼応するように摂津の三好三人衆や石山本願寺が蜂起し、将軍・足利義昭をも巻き込んだ広範な「信長包囲網」が形成される 1 。朝倉義景もこの包囲網の中核として、近江へ再三出兵し、「志賀の陣」などで信長を大いに苦しめた 2

しかし、この長期にわたる戦いは、朝倉氏の国力を確実に蝕んでいった。度重なる近江への出兵は将兵を疲弊させ、家中には厭戦気分が蔓延し始める 30 。特に元亀3年(1572年)、信長最大の強敵であった甲斐の武田信玄が西上作戦を開始し、信長を滅ぼす絶好の機会が到来したにもかかわらず、義景の動きは鈍かった。信玄からの再三の共同作戦要請にもかかわらず、大雪などを理由に越前から動こうとせず、ついに信玄の怒りを買うに至った 2 。これは義景個人の優柔不断な性格に加え、すでに出兵を公然と拒否する重臣が現れるなど、朝倉氏の家臣団が一枚岩でなくなっていたことの証左であった 31

そして元亀4年(天正元年、1573年)4月、上洛の途上で武田信玄が病死するという劇的な展開が訪れる 5 。信長包囲網の要が失われたことで、その力関係は完全に逆転した。背後の最大の脅威が消え去った信長は、この好機を逃さず、浅井・朝倉両氏に最後のとどめを刺すべく、総力を挙げたのである 5

第三部:天正の終焉 ― 1573年、朝倉氏滅亡

第一章:最後の出陣

天正元年(1573年)8月8日、信長は3万と号する大軍を率いて岐阜を出陣し、浅井長政の居城・小谷城を完全に包囲した 5 。盟友の危機に対し、朝倉義景は2万の兵を率いて救援に向かう。これが、彼にとって最後の出陣となった 31 。しかし、この出陣に際しても、重臣の魚住景固らが長年の軍事疲弊を理由に出兵を拒むなど、家中の足並みの乱れは深刻であった 31

近江に到着した朝倉軍は、小谷城の北方に位置する田上山や大嶽山に陣を構え、織田軍と対峙した 35 。しかし、信長はこの間にも巧みな調略を進めており、浅井方の重要拠点である山本山城の城主・阿閉貞征を寝返らせることに成功 30 。これにより、小谷城はさらに孤立を深め、戦況は織田方へ大きく傾いていった。

第二章:崩壊への序曲 ― 大嶽砦・丁野砦の陥落

膠着状態を打破したのは、またしても信長の奇襲戦術であった。8月12日の夜、近畿一帯を激しい暴風雨が襲う 30 。信長はこの悪天候こそが敵の油断を誘う絶好の機会と判断。自ら精鋭を率いて、風雨に紛れて朝倉軍の重要拠点である大嶽砦に奇襲をかけた 30 。暴風雨の中での攻撃を全く予期していなかった朝倉方の守備兵はろくに抵抗もできず、砦はあっけなく陥落した。

信長はさらに翌13日には丁野砦も攻略 30 。ここで彼は、捕らえた兵をあえて解放し、朝倉本陣へ逃げ帰らせるという心理戦を仕掛けた 31 。敗報と恐怖が瞬く間に伝播することで、朝倉軍全体の士気を内部から崩壊させ、組織的な撤退を誘発させることが狙いであった。

信長の狙い通り、前線の重要拠点が相次いで陥落したことに朝倉軍は激しく動揺した。織田軍3万に対して自軍は2万という兵力差、そして兵士たちの低い士気を鑑みた義景は、もはや野戦での勝利は不可能と判断。越前への全軍撤退を決断した 31 。しかし、この決断こそが、朝倉軍を殲滅の淵へと導くことになる。

第三章:死の追撃路、刀根坂

朝倉軍の撤退を完全に予測していた信長は、この好機を逃さなかった。彼は全軍に追撃を厳命すると、自ら先頭に立って敗走する朝倉軍を猛追した 31

総崩れとなった朝倉軍は、越前の防衛拠点である敦賀の疋壇城を目指し、近江と越前の国境をなす北国街道の難所・刀根坂(とねざか)へと殺到した 31 。しかし、機動力で遥かに勝る織田軍は、刀根坂の麓にあたる柳ヶ瀬で早くも朝倉軍の後衛部隊に追いつき、攻撃を開始した 35

刀根坂は狭隘な峠道であり、大軍が整然と退却するには極めて不向きな地形であった 36 。前夜の暴風雨で道はぬかるみ、足場は悪い。そこに織田軍の猛追が加わったことで、朝倉軍の統制は完全に失われ、退却戦は一方的な殺戮の場と化した。『信長公記』は、主を捨て、親を捨てて我先に逃げ惑う兵士たちの様を「蜘蛛ノ子ヲ散ガ如ク(蜘蛛の子を散らすように)」と生々しく描写している 35

この刀根坂の戦いで、朝倉軍は壊滅的な打撃を受けた。一門衆の重鎮である北庄城主・朝倉景行や、わずか17歳の朝倉道景、家老の山崎吉家、そしてかつて美濃を支配した斎藤道三の孫であり、客将として朝倉家に身を寄せていた斎藤龍興など、朝倉家の軍事的中核を担っていた武将たちが次々と討ち死にした 31 。織田方の記録によれば、この追撃戦における朝倉軍の死者は3,000人を超えたとされ、朝倉氏の野戦軍は事実上ここで消滅した 30

信長はなおも追撃の手を緩めず、翌14日まで敗残兵の掃討を続け、敦賀へと入った 31 。1570年の金ヶ崎で、信長は敵中からの決死の「撤退」を強いられた。しかしその3年後、彼は逆に敵の「撤退」を一切許さず、その軍事力を根絶やしにする「殲滅戦」を完遂したのである。この変化は、信長の戦争観が、単に敵を打ち破ることから、敵対勢力を完全に無力化するという、より冷徹で合理的なものへと進化を遂げたことを示している。


【表3】刀根坂の戦い(1573年)タイムライン

日付

時刻(推定)

織田軍の動向

朝倉軍の動向

天正元年8月12日

暴風雨に乗じ、大嶽砦を奇襲し陥落させる。

大嶽砦の守備隊が壊滅。本陣に動揺が走る。

8月13日

未明~日中

丁野砦も攻略。捕虜を意図的に解放し、朝倉本陣の混乱を煽る。

砦の相次ぐ陥落に戦意を喪失。全軍撤退を決断。

日中~夕刻

朝倉軍の撤退を確信し、全軍に追撃命令を発令。

越前を目指し、統制のないまま退却を開始。

信長自ら先頭に立ち、猛烈な速度で追撃。柳ヶ瀬で朝倉軍後衛に追いつく。

刀根坂の隘路で大混乱に陥り、敗走状態となる。

深夜~14日未明

刀根坂で一方的な殲滅戦を展開。朝倉軍の中核武将を多数討ち取る。

組織的抵抗が完全に崩壊。将兵はなすすべなく討たれる。

8月14日

日中

追撃を継続し、敗残兵を掃討。敦賀に入城する。

軍組織は完全に消滅。義景は僅かな供回りと共に敗走。


第四章:一乗谷炎上

刀根坂の地獄を辛うじて生き延びた朝倉義景は、もはや大名としての威厳を完全に失っていた。鳥居景近や高橋景業といった僅か10人程度の側近に守られ、8月15日、悄然と本拠地・一乗谷へと帰還した 4

もはや織田軍の侵攻を防ぐ術はない。ここで義景の運命を決定づけたのが、一門筆頭であり、従弟にあたる朝倉景鏡であった 37 。8月16日、景鏡は義景に、一乗谷を放棄し、自らの領地である大野郡で再起を図るよう進言する 35 。他に頼るべき者もいない義景は、この言に従い、東雲寺、次いで賢松寺へと落ち延びていった 30

しかし、これは景鏡が仕掛けた罠であった。彼はすでに信長に内通しており、自らの保身と引き換えに主君を売り渡すことを決意していたのである 35 。8月20日の早朝、景鏡は手勢を率いて賢松寺を包囲し、義景に自害を迫った 35 。万策尽きた義景は、辞世の句を遺し、自刃して果てた。享年41 1 。最後まで付き従った側近たちも、主君の後を追い殉死した 42 。朝倉氏の滅亡は、織田軍との決戦によるものではなく、度重なる敗戦と当主の求心力低下が生んだ、家臣団の内部崩壊という、あまりにも無残な結末であった。

義景の自害に先立ち、信長の先遣隊は8月18日から一乗谷への攻撃を開始していた。三日三晩にわたって火が放たれ、朝倉氏100年の栄華を誇った壮麗な館、武家屋敷、寺社、そして町屋はことごとく焼き払われ、灰燼に帰した 1 。義景の首は京で晒され、その母や妻子らも捕らえられて処刑された 4 。ここに、戦国大名朝倉氏は、歴史の舞台から完全に姿を消したのである。

この徹底的な破壊は、朝倉文化の終焉を意味したが、歴史の皮肉と言うべきか、それは同時に戦国時代の都市の姿を現代に伝えるタイムカプセルを生み出すことにもなった。灰の下に埋もれた一乗谷は、その後の大規模な開発を免れたため、発掘調査によって、計画的に整備された道路網、武家屋敷や町屋の構造、さらには当時の人々の生活を物語る膨大な遺物が出土した 45 。義景の悲劇と一乗谷の炎上は、結果として、戦国時代の社会と文化を具体的に知るための、比類なき考古学的遺産を後世に残したのである。

終章:戦いの遺産と歴史的意義

天筒山城の攻防から刀根坂の殲滅戦に至る一連の戦役は、織田信長の天下統一事業における画期的な出来事であった。

戦術的に見れば、1570年の天筒山城攻略が情報と地形を駆使した「一点突破」型の近代的な攻城戦であったのに対し、1573年の刀根坂の戦いは、敵の撤退を誘い、隘路で捕捉し、組織的戦闘能力を完全に奪う「追撃殲滅戦」であった。この二つの戦いは、信長の戦術の多様性と、状況に応じて最適な手段を選択する柔軟な思考を示している。

戦略的な帰結として、朝倉氏の滅亡は越前国に一時的な権力の空白を生んだ。信長は当初、降伏した旧臣を用いて統治を試みたが、彼らの内紛をきっかけに「越前一向一揆」が蜂起し、越前は「百姓の持ちたる国」と化してしまう 31 。これに対し信長は、天正3年(1575年)に再び大軍を派遣して一揆を根絶やしにすると、筆頭家老の柴田勝家を新たな支配者として北ノ庄城に封じた 49 。これにより、越前は北陸方面攻略の最重要拠点として、織田政権の支配下に完全に組み込まれたのである。

この戦役で滅びた朝倉義景は、一乗谷に京風の洗練された文化を花開かせ、全国の諸大名と外交を展開するなど、文化人・統治者として優れた一面を持っていた 52 。しかし、軍事指導者としては、信長包囲網という絶好の機会を活かせず、重要な局面で決断を先延ばしにする優柔不断さが目立った 3 。彼の悲劇は、個人の資質のみならず、一門衆が強い発言力を持つ旧来の守護大名的な統治体制が、信長のような強力な中央集権を目指す新しいタイプの権力者の前では、もはや通用しなくなった時代の転換点を象徴している。

足利将軍家と深く結びついた伝統的権威の象徴であった名門・朝倉氏の滅亡は、旧体制の終焉を天下に強く印象づけた。これに続く浅井氏の滅亡と合わせ、信長は最大の障壁であった包囲網を完全に粉砕し、若狭・越前という日本海側の経済的・戦略的要地を掌握した。これにより、次なる標的である北陸の一向一揆や越後の上杉謙信と直接対峙する体制が整い、天下布武への道は、もはや誰にも止められない大きな流れとなったのである。

引用文献

  1. 朝倉氏の歴史 - 福井市 https://asakura-museum.pref.fukui.lg.jp/site/history
  2. 朝倉義景は何をした人?「信長の背後をねらうヒット&アウェイでマジギレされた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yoshikage-asakura
  3. 信長を敗北寸前にまで追い込んだ男!朝倉義景とは一体どんな人物だったのか? - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/99054/
  4. 優柔不断で滅亡? 戦国大名・朝倉家最後の当主「朝倉義景」の人物像【前編】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/129710/2
  5. 一乗谷城の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11096/
  6. 金ヶ崎の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7305/
  7. 2023/05/27 尾張~越前戦国旅(2/2日目)、金ヶ崎の戦い編(一乗谷朝倉氏遺跡 https://haretarafuratto.amebaownd.com/posts/46199458/
  8. お市と浅井長政が信長を裏切った理由とは?~朝倉義景に従属を続けた国衆 - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/azainagamasa-uragiri/
  9. 織田信長最大のピンチ! 金ヶ崎の退き口ってどんな戦いだったの?ー超入門!お城セミナー【歴史】 https://shirobito.jp/article/847
  10. 金ヶ崎の退き口 - 敦賀市 http://historia.justhpbs.jp/nokiguti1.html
  11. 織田信長の越前朝倉氏侵攻をたどるルート(車利用) - 若狭美浜観光協会 https://wakasa-mihama.jp/modelcourse/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%81%AE%E8%B6%8A%E5%89%8D%E6%9C%9D%E5%80%89%E6%B0%8F%E4%BE%B5%E6%94%BB%E3%82%92%E3%81%9F%E3%81%A9%E3%82%8B%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E8%BB%8A%E5%88%A9%E7%94%A8/
  12. 〈検証“金ヶ崎の退き口”〉信長が軍議を開いた名城・国吉城周辺には秀吉成功物語と異なる伝承があった!【麒麟がくる 満喫リポート】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1010159
  13. 1570年4月 織田信長越前攻め(金ヶ崎の退き口)と徳川家康伝承 - 美浜町 https://www.town.fukui-mihama.lg.jp/uploaded/attachment/5330.pdf
  14. 天筒山城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%AD%92%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  15. 金ヶ崎の退き口 (前編:手筒山攻撃~浅井長政の離反) - 歴旅.こむ http://shmz1975.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-d8e5.html
  16. 交通の要衝として栄えた今庄宿 - 南越前町 https://www.town.minamiechizen.lg.jp/kouhou/h29/p002552_d/fil/ima.pdf
  17. 敦賀の中世 - 敦賀の歴史 http://historia.justhpbs.jp/tyusei1.html
  18. 中世日本の 海運の要、 越前の 湊 み - 福井県 https://www.pref.fukui.lg.jp/doc/brandeigyou/brand/senngokuhiwa_d/fil/fukui_sengoku_26.pdf
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