奥州仕置(1590~91)
天正18年、秀吉は小田原征伐後、奥州仕置を断行。惣無事令違反の伊達政宗を減封し、不参の葛西・大崎らを改易。この急進的な改革は大規模な一揆を招き、再仕置へと繋がった。
天下統一の最終章:奥州仕置(1590-91)-その背景、経過、そして帰結
序章:奥羽、独立の終焉
天正年間(1573-1592)も後半に差し掛かるまで、日本の東北地方、すなわち奥羽両国は、中央の激しい動乱から半ば独立した独自の政治世界を維持していた 1 。京や大坂を舞台に繰り広げられる織田信長、そして豊臣秀吉による天下統一事業の奔流は、この広大な「みちのく」の地までは、まだ間接的な影響を及ぼすに留まっていた。しかし、天正13年(1585年)に秀吉が関白に就任し、名実ともに天下人としての地位を確立すると 3 、その視線は必然的に、未だその支配に服さぬ最後の独立地域へと向けられた。関東の雄・北条氏、そしてその先に広がる奥羽の群雄たちである 5 。
ここに始まる「奥州仕置」とは、単なる軍事的な征服を意味する言葉ではない。「仕置」とは、当時の言葉で、征服した土地の支配体制を決定し、秩序を再編する行為を指す 7 。それは、秀吉が自らを絶対的な統治者、そして最高裁定者と位置づけ、奥羽の諸大名をその裁きを受けるべき被治者と見なしていることを示す、極めて強力な政治的宣言であった。この一連の軍事・政治行動は、奥羽地方が数百年にわたり育んできた独自の秩序を根底から覆し、豊臣政権が主導する新たな全国規模の統治システムへと強制的に組み込む、歴史的な転換点となるのである。
その根幹をなしたのが、「惣無事令」という新たな秩序原理であった。これは大名間の私的な領土紛争(私戦)を禁じ、すべての紛争の裁定権を豊臣政権が独占するという、画期的な法令である 4 。秀吉は関白という天皇の代理人たる立場からこれを発令し 9 、違反者は「朝敵」、すなわち国家への反逆者と見なされることになった。これにより、奥羽の諸大名がこれまで自らの存亡を賭けて行ってきた領土拡大戦争は、一夜にして「法を犯す犯罪行為」へとその意味を転換させられた。武力によって領土の境界が画定されてきた中世的な「私戦の論理」から、中央権力が絶対的な法をもって秩序を維持する近世的な「公戦の論理」への、一方的かつ暴力的なパラダイムシフト。これこそが奥州仕置の本質であり、後に吹き荒れる激しい抵抗の根本的な原因となるのであった。
第一部:仕置前夜 - 臨界点に達する奥羽情勢(~1590年初頭)
第一章:惣無事令への挑戦者、伊達政宗
奥州仕置の直接的な引き金となったのは、出羽米沢城主・伊達政宗の野心と、その急激な勢力拡大であった。天正15年(1587年)、秀吉が関東・奥羽地方に対して惣無事令を発令したにもかかわらず 8 、若き「独眼竜」はその勢いを止めることはなかった。彼の行動は、遠い中央から発せられる法が、奥羽の現実をまだ支配するには至らないという計算に基づいた、危険な賭けであった。
政宗は惣無事令を意に介さず、天正16年(1588年)には大崎氏の内紛に介入(大崎合戦)するなど、周辺勢力への侵攻を続けた 10 。そして天正17年(1589年)6月、その挑戦は頂点に達する。会津の名門・蘆名氏への大々的な侵攻を開始し、磐梯山麓の摺上原において蘆名義広の軍を撃破したのである(摺上原の戦い) 12 。敗れた義広は実家の佐竹氏へと逃れ、戦国大名としての蘆名氏は滅亡。政宗は会津黒川城を掌中に収め、南奥羽の覇権を確立した 10 。この勝利により、彼の所領は会津、中通り、置賜地方にまたがり、約114万石から150万石ともいわれる、全国でも屈指の大領国へと膨張した 10 。
しかし、この輝かしい勝利は、秀吉の定めた天下の秩序に対する最も悪質な違反行為であった。惣無事令を公然と踏みにじった政宗の行動は、天下人の権威への明確な挑戦と見なされ、豊臣政権による大規模な討伐の危機を招くことになった 11 。政宗は秀吉に使者を送って恭順の意を示す一方で、既成事実を積み重ねることで自らの勢力圏を認めさせようとした。それは、彼なりの高度な外交戦略であったが、秀吉が求めていたのは交渉相手ではなく、絶対服従を誓う臣下であった。この根本的な認識の齟齬が、奥羽全体の運命を決定づけることになる。
第二章:揺れ動く奥羽の群雄
伊達政宗という奔流は、奥羽の他の大名たちをも激しく揺さぶった。彼らは、「目の前の政宗の脅威」と「遠い中央の惣無事令」という二つの巨大な圧力の板挟みとなり、自己矛盾を孕んだ苦渋の選択を迫られていた。
政宗の伯父にあたる出羽山形の最上義光は、常に甥の野心を警戒し、時には大崎合戦で敵対するなど、複雑な関係にあった 2 。南奥の雄、常陸の佐竹義重は反伊達連合の盟主として、自らの次男・義広を蘆名氏の養子に送り込むことで伊達包囲網を形成しようとしたが、摺上原の敗戦でその戦略は破綻した 16 。敗走した義広は、父と共に政宗の惣無事令違反を秀吉に訴え、中央の裁定に望みを託すほかなかった 18 。
北の巨人・南部信直は、天正10年(1582年)の家督相続以来、一族の実力者である九戸政実との深刻な対立を抱えていた 3 。さらに、家臣であった大浦(津軽)為信の独立にも苦慮しており、不安定な領国をまとめるため、秀吉という中央の権威に接近することで自らの地位を固めようと模索していた 19 。
一方で、葛西晴信や大崎義隆といった奥羽の名門は、長年の内紛により家中の統制力を著しく失っていた 1 。彼らはもはや独立した大名として領国をまとめ、遠征軍を組織するだけの政治力・経済力を喪失しつつあった。この内部の混乱と統治能力の欠如が、天下を揺るがす大事件への対応を誤らせ、家名の断絶という悲劇的な結末へと繋がるのである。奥羽の情勢は、内部からの崩壊と外部からの圧力が臨界点に達し、爆発寸前の状態にあった。
第二部:天下人の裁定 - 奥州仕置の発動(1590年7月~10月)
第一章:小田原参陣 - 運命の分水嶺
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして、関東の北条氏討伐へ向け全国の大名に参陣を命じた 6 。この「小田原征伐」への参加は、単なる軍事動員ではなかった。それは、豊臣政権という新たな統治システムへの参加資格を問う、奥羽諸大名にとって最後の「政治的儀式」であった。
この踏み絵に対し、伊達政宗の決断は遅れた。秀吉に恭順するか、北条氏と結びあくまで抵抗を続けるか、家中は二分した 22 。母・義姫との確執も絡み、政宗の米沢出発は大幅に遅延する 22 。最終的に彼は恭順を選び、白の死装束に身を包んで秀吉の前に進み出た。小田原城が事実上陥落した後の6月5日の到着であった 22 。秀吉はその大幅な遅参を激しく叱責したが、政宗の命までは奪わなかった。
この政宗の決断が、伊達家の存続を可能にした。一方で、この「儀式」に参加できなかった者たちの運命は過酷であった。旧態依然とした統治に揺れていた葛西氏、大崎氏をはじめ、白河結城氏、石川氏といった多くの奥羽の領主たちは、領内の混乱や情報不足、あるいは政宗の圧力などを理由に、ついに小田原へ参陣することができなかった 14 。秀吉は、彼らがもはや大名としての統治能力を欠いていると判断し、その存在そのものを否定する。小田原への参陣の有無が、文字通り彼らの運命の分水嶺となったのである。
第二章:宇都宮仕置 - 奥羽の新たな地図
天正18年7月5日、小田原城は開城し、北条氏は滅亡した 24 。戦後処理を開始した秀吉は、7月19日に鎌倉を発ち、同26日、下野国宇都宮城に入城した 25 。秀吉は、かつて源頼朝が奥州合戦の際にこの地で戦勝を祈願した故事に倣い、宇都宮を新たな天下秩序を宣言する舞台に選んだ 5 。城には南部信直、佐竹義宣、そして遅参を許された伊達政宗らが続々と出頭し、固唾をのんで天下人の裁定を待った 25 。
宇都宮において、奥羽の新たな地図が引かれた。これを「宇都宮仕置」と呼ぶ。
- 伊達政宗 に対しては、惣無事令違反と小田原遅参の罪を問い、摺上原の戦いで獲得した会津四郡、岩瀬郡、安積郡などを没収。所領は陸奥・出羽のうち13郡、およそ72万石へと大幅に減封された 14 。しかし、その場で秀吉から「銀伊予札白糸威胴丸具足」を下賜されたとも伝えられ 14 、命を助けられた上に一定の所領を安堵されたことは、秀吉の「アメとムチ」の巧みさを示している。
- 南部信直 は、いち早く恭順の意を示したことが評価され、本領が安堵された。ただし、かねてより独立を画策し、秀吉に直接臣従していた津軽為信の支配は正式に認められ、南部氏には代替地が与えられる形となった 5 。
- 最上義光 や 佐竹義重 、 相馬義胤 など、小田原に参陣した他の主要大名も、概ね所領を安堵された 5 。
この一連の裁定は、今後の奥羽統治のコストを最小化し、豊臣政権の支配を最も効率的に浸透させるための、高度に計算された政治判断であった。早く従った者には恩賞を、最大の違反者には懲罰を与えつつも生かすことで寛大さを示し、そして参陣しなかった者には改易という峻烈な処分を下す。恐怖と恩寵を同時に示すことで、秀吉は奥羽の諸大名を心理的に完全に掌握したのである。
第三章:会津への巡察と新領主の配置
宇都宮での仕置を終えた秀吉は、その権威を奥羽の心臓部にまで見せつけるため、自ら軍を率いて北上した。8月4日、政宗を案内役として宇都宮を発ち、8月9日、かつて政宗が攻略した会津黒川城へと入城した 26 。
この地で、奥羽の新体制が最終的に決定される。
- 政宗から没収した旧蘆名領、会津42万石には、腹心中の腹心である蒲生氏郷が伊勢松坂より移された 14 。これは、未だ強大な力を持つ伊達政宗を監視・牽制し、奥羽全体の「楔」とするための極めて戦略的な配置であった 27 。
- 小田原不参を理由に改易された葛西氏と大崎氏の旧領、約30万石には、豊臣政権の吏僚である木村吉清・清久親子が新たな領主として封じられた 5 。これは、在地との繋がりを持たない中央の行政官を直接送り込むことで、この地を完全に豊臣政権の管理下に置こうとする意図の表れであった。
- 秀吉は8月10日、石田三成を通じて奥羽統治に関する具体的な法令を発し、人身売買の禁止、検地、そして刀狩りの実施を厳命した 26 。これは、奥羽の伝統的な社会構造を破壊し、中央集権的なシステムをゼロから構築しようとする試みであった。
秀吉自身は8月12日に会津を後にしたが、浅野長政らが率いる奥州仕置軍はさらに北へ進軍し、抵抗する和賀氏らを攻略しつつ、各地で検地や城の破却(破城)を強行していった 5 。こうして、奥羽の地は力ずくで新たな秩序の下に組み伏せられていった。しかし、そのあまりに急進的で在地社会の実情を無視した改革は、即座に激しい反発を招くことになる。
【表1:奥州仕置(天正18年)における主要大名の処遇一覧】
大名家 |
当主 |
拠点 |
小田原参陣の有無 |
処分内容 |
仕置後の石高(推定) |
理由・特記事項 |
伊達家 |
伊達政宗 |
米沢 |
有(遅参) |
減封 |
約72万石 |
惣無事令違反(会津攻め)と小田原遅参の罪 14 。 |
最上家 |
最上義光 |
山形 |
有(遅参) |
安堵 |
約24万石 |
父の葬儀による遅参と事前に連絡。徳川家康の執り成しもあった 14 。 |
南部家 |
南部信直 |
三戸 |
有 |
安堵 |
約10万石 |
早くから恭順。津軽領は没収されるも代替地を与えられた 14 。 |
津軽家 |
津軽為信 |
堀越 |
有 |
安堵(独立承認) |
約4.5万石 |
南部氏から独立した領地が秀吉により正式に認められた 14 。 |
佐竹家 |
佐竹義重 |
水戸 |
有 |
安堵 |
54万石 |
所領安堵 14 。 |
相馬家 |
相馬義胤 |
中村 |
有 |
安堵 |
約4万石 |
石田三成の執り成しにより安堵された 14 。 |
秋田家 |
秋田実季 |
湊 |
有 |
減封 |
約5万石 |
湊合戦が惣無事令違反とされたが、実質的な収入は維持された 14 。 |
葛西家 |
葛西晴信 |
寺池 |
無 |
改易 |
0 |
小田原不参のため 14 。 |
大崎家 |
大崎義隆 |
岩出山 |
無 |
改易 |
0 |
小田原不参のため 14 。 |
白河結城家 |
結城義親 |
白河 |
無 |
改易 |
0 |
小田原不参のため 14 。 |
石川家 |
石川昭光 |
三春 |
無 |
改易 |
0 |
小田原不参のため 14 。 |
和賀家 |
和賀義忠 |
二子 |
無 |
改易 |
0 |
小田原不参のため 14 。 |
第三部:仕置への反動 - 吹き荒れる抵抗の嵐(1590年10月~1591年初夏)
第一章:葛西・大崎一揆の勃発
豊臣秀吉が断行した奥州仕置は、力による秩序の再編であったが、それは在地社会の魂を服従させるものではなかった。天正18年(1590年)10月、仕置軍の主力が奥羽から引き揚げると、その直後から各地で鬱積していた不満が爆発する 5 。その中でも最大規模の反乱となったのが、旧葛西・大崎領で発生した一揆であった。
直接的な引き金は、新領主・木村吉清親子による「太閤検地」の強行であった 30 。検地は、土地の価値を米の生産量(石高)という統一基準で測り、それに基づいて年貢と軍役を課す、豊臣政権の根幹をなす政策である 32 。しかしこれは、在地武士たちが代々受け継いできた土地と農民に対する複雑な支配権や既得権益を全て無効化する、革命的な社会変革であった。彼らにとって、それは自らの存在基盤を根こそぎ奪われるに等しい行為だったのである。
改易された葛西・大崎両氏の旧臣たちに率いられた一揆勢は、瞬く間に旧領全域に拡大 30 。10月16日には岩手沢城から蜂起が始まり 34 、木村親子は居城の寺池城を追われ、佐沼城へと逃げ込んだ。しかし、数万に膨れ上がった一揆勢は佐沼城を完全に包囲し、木村親子は絶体絶命の窮地に立たされた 30 。この一揆は、単なる新領主への反発ではなく、豊臣政権がもたらした新たな支配システムそのものに対する、在地社会全体の組織的な拒絶反応であった。
第二章:伊達政宗の暗躍と蒲生氏郷との対立
葛西・大崎一揆の報は、隣接する伊達政宗と、政宗の監視役である会津の蒲生氏郷のもとへもたらされた。木村氏の救援要請を受けた政宗は、ただちに出陣。一揆勢を一時的に退け、佐沼城に籠る木村親子を救出した 36 。
しかし、この一連の動きの裏で、政宗が一揆を扇動しているのではないかという重大な疑惑が持ち上がる。蒲生氏郷は、政宗がこの混乱を利用して旧領を回復しようと画策していると看破し、秀吉にその旨を報告した。その決定的な証拠とされたのが、一揆の指導者が所持していた政宗からの密書であった。窮地に立たされた政宗は、上洛して秀吉の前で直接弁明することになる。その際、密書に押された花押(サイン)について、「本物の花押の鶺鴒(せきれい)の目には針で穴を開けてあるが、この書状にはそれがない」と主張し、偽物であると申し立てたという逸話はあまりに有名である 35 。
天正19年(1591年)正月、京に上った政宗は、黄金の磔柱(はりつけばしら)を背負って秀吉の前に進み出るという奇抜なパフォーマンスで死を覚悟する姿勢を示し、再びその許しを得ることに成功した 37 。政宗が一揆を扇動したか否かの真相は歴史の謎であるが、彼がこの危機を自らにとって有利な状況へと転換させるべく、高度な政治的駆け引きを展開したことは間違いない。表向きは豊臣政権に忠誠を誓い一揆を鎮圧する一方で、その混乱が長引くことで自らの政治的価値を高めようとする、危険な綱渡りを演じていたのである。
第三章:各地に広がる反乱の火種
葛西・大崎一揆は、孤立した事件ではなかった。それは、奥州仕置に対する広範な抵抗の狼煙であった。
- 和賀・稗貫一揆 : 旧葛西・大崎領と時を同じくして、改易された和賀氏・稗貫氏の旧臣たちも蜂起。南部信直が鎮圧に向かうが、一揆勢の抵抗は激しく、鎮圧は困難を極めた 19 。
- 仙北一揆 : 出羽国仙北地方では、減封処分を受けた小野寺氏の領内で一揆が発生 5 。
- 庄内一揆(藤島一揆) : 庄内地方でも、新たな支配に対する反発から一揆が勃発した。
これらの反乱が奥羽の広範囲で同時多発的に発生したという事実は 29 、豊臣政権の支配が、城や街道といった「点」と「線」を抑えたに過ぎず、広大な農村や在地社会という「面」を全く掌握できていなかった現実を露呈させた。中央から派遣された新領主たちは、地域の複雑な人間関係や慣習から断絶されており、彼らの統治はまさに砂上の楼閣だったのである。
第四部:最終的服従 - 奥州再仕置と天下の完成(1591年6月~末)
第一章:九戸政実の決起
奥羽各地で一揆の炎が燃え盛る中、天正19年(1591年)3月、天下統一事業における最後の、そして最大の抵抗が始まる。南部一族の最大実力者、九戸政実の蜂起である。
その背景には、南部宗家の家督を巡る信直との長年の確執があった 20 。奥州仕置により、信直が豊臣政権に公認された「大名」となり、それまで同格に近い存在であった九戸氏がその「家臣」と一方的に位置づけられたことは、政実の誇りを深く傷つけた 19 。彼は、「奥州とは無縁の人物(秀吉)に領土の口出しをされることに我慢がならない」と公言し 39 、5,000の兵力をもって公然と信直に反旗を翻した。
政実の勢いは凄まじく、周辺の国人たちも次々とこれに同調。南部信直は自力での鎮圧に失敗し、居城・三戸城に追い詰められる危機に瀕した 40 。万策尽きた信直は、嫡子・利直を京へ送り、秀吉に大規模な援軍を要請する以外に道はなかった 38 。九戸政実の乱は、中世的な「同族連合体」としての武士団が、近世的な「集権的大名家」へと変貌する過程で生じた、最後の内部破裂であった。
第二章:豊臣政権、総力を挙げる
奥羽の反乱が、もはや地方領主レベルでは収拾不可能な段階に至ったことを悟った秀吉は、国家の総力を挙げた鎮圧を決意する。これが「奥州再仕置」である 3 。その軍容は、単なる一揆鎮圧の域を遥かに超えていた。
総大将には甥の豊臣秀次を据え、徳川家康、上杉景勝、蒲生氏郷、浅野長政、石田三成、堀尾吉晴、井伊直政といった豊臣政権の主力が軒並み動員された 41 。これに伊達政宗ら奥羽の諸大名も加わり、総勢6万とも10万ともいわれる、空前の大軍が奥州へと進撃を開始した 38 。九戸政実の兵力5,000に対し、10倍以上の兵力を投入したこの編成は、軍事的な必要性を超えた、全国に対する政治的パフォーマンスであった。秀吉は、一度定めた天下の秩序に歯向かう者がどのような運命を辿るかを、日本の全ての武士に見せつける必要があったのである。
再仕置軍の進軍は、以下の時系列で進められた。
- 天正19年(1591年)6月 : 秀吉が諸将に出陣を命令。
- 同年7月 : 先鋒を務めた伊達政宗が、葛西・大崎一揆の残党が籠る佐沼城、登米城を攻略。徹底した掃討作戦により、一揆勢の首級数千を挙げ、これを完全に鎮圧した 44 。
- 同年8月 : 豊臣秀次、徳川家康らの本隊が二本松(福島県)に到着。諸将が集結し、最終的な作戦会議が開かれた 29 。ここから、各部隊は葛西・大崎・和賀・稗貫の各一揆の残党を掃討しつつ、最終目標である九戸城へと進軍した。
第三章:九戸城、落城
再仕置軍の圧倒的な進撃の前に、各地の一揆は次々と鎮圧されていった。そして9月、天下統一の最後の戦いの舞台となる九戸城(岩手県二戸市)に、全ての軍勢が集結した。
9月1日、蒲生氏郷らの先鋒が九戸方の支城を攻略し、翌2日には秀次率いる本隊が到着。北からは津軽為信、松前慶広の軍勢も加わり、九戸城は6万を超える大軍によって完全に包囲された 38 。攻城軍は鉄砲や火矢を雨のように降らせ、猛攻撃を開始した。
数に勝る敵の前に、籠城する5,000の兵では抗戦にも限界があった。9月4日、政実は城兵の助命を条件に降伏勧告を受け入れ、剃髪して城を出た 38 。しかし、これは豊臣方の謀略であった。政実をはじめとする首謀者たちは、総大将・秀次の本陣がある三迫(宮城県栗原市)へと送られ、そこで斬首された 38 。さらに、降伏した城兵たちも、城の二の丸に集められて撫で斬りにされるなど、凄惨な方法で殺戮されたと伝えられている 40 。
この九戸城での「撫で斬り」は、秀吉が以前から一揆に対して命じていた「抵抗する者は根絶やしにせよ」という方針 45 を徹底して実行したものであった。それは、中世的な「降伏すれば助命される」という武士の慣習を完全に否定し、天下人の命令に背く罪の重さを、最も残酷な形で天下に示したのである。戦国時代の「いくさ」の論理は、ここに終わりを告げた。
第四章:新たな秩序の確定
一連の反乱を全て鎮圧した後、豊臣政権は奥羽の最終的な領土再編を行った。これが奥州再仕置の帰結である。
- 伊達政宗 : 葛西・大崎一揆鎮圧の功績は認められたものの、扇動の嫌疑を完全に払拭することはできず、懲罰として先祖伝来の地である米沢、長井、伊達、信夫などを没収された。代わりに、一揆の温床であった旧葛西・大崎領の中心地、岩出山へ約58万石(実高では60万石超)で転封(領地替え)となった。これは、政宗の力を削ぎ、在地勢力との結びつきを断ち切るための、巧みな「分断統治」であった。
- 蒲生氏郷 : 一連の鎮圧戦における最大の功労者として、会津の所領に加え、政宗から没収された伊達、信夫などの郡を与えられ、合計92万石という破格の大大名となった 27 。これにより、氏郷は関東以北における豊臣政権最大の拠点として、伊達、最上ら周辺大名を監視する「奥羽の総督」たる役割を担うことになった。
- 南部信直 : 九戸の乱を平定した結果、旧和賀・稗貫領などを与えられ、領国は安定。近世大名としての南部氏の地位を確固たるものとした。
- 木村吉清 : 一揆を招いた失政の責任を問われ、改易。蒲生氏郷の与力となった。
この巧みな配置転換により、秀吉は軍事力を常駐させることなく、大名間の相互牽制によって奥羽を安定的に支配するシステムを構築した。ここに、豊臣政権による全国の再編事業は完了したのである。
【表2:奥州仕置から再仕置への主要大名の領地・石高変動】
大名家 |
当主 |
1590年仕置後の拠点・石高 |
一揆への関与・役割 |
1591年再仕置後の拠点・石高 |
変動理由 |
伊達家 |
伊達政宗 |
米沢・約72万石 |
一揆扇動の嫌疑/鎮圧の主力 |
岩出山・約58万石 |
扇動の嫌疑による懲罰的転封と減封。 |
蒲生家 |
蒲生氏郷 |
会津黒川・42万石 |
一揆鎮圧軍の主力大将 |
会津黒川・92万石 |
鎮圧の功績による大幅な加増。奥羽の監視役強化 27 。 |
南部家 |
南部信直 |
三戸・約10万石 |
九戸の乱の当事者/討伐軍に参加 |
三戸・約10万石(和賀・稗貫などを加増) |
九戸氏の旧領などを併合し、領国を再編・安定化。 |
木村家 |
木村吉清 |
寺池・約30万石 |
一揆を招いた当事者 |
改易(蒲生氏郷の与力へ) |
葛西・大崎一揆を招いた統治失敗の責任。 |
結論:戦国時代の終焉と近世の黎明
天正18年(1590年)から翌19年(1591年)にかけて展開された奥州仕置、そして再仕置は、豊臣秀吉による「天下統一」事業の、文字通り最後のピースを埋めるものであった 5 。九戸城の落城をもって、応仁の乱(1467年)以来、100年以上にわたって日本列島を覆い尽くした戦国乱世は、実質的な終焉を迎えた。
奥羽地方にとって、この二年間は社会構造が根底から覆される激動の時代であった。伊達、最上、南部といった巨大な近世大名領国へと再編される一方で、葛西、大崎、和賀、稗貫など、数百年にわたりその地を治めてきた数多の名門が歴史の舞台から姿を消した。これは、奥羽における中世的政治秩序の完全な終焉を意味していた 3 。後に安東実季が「仕置によって東北の戦乱状態が解消された」と評価したように 14 、この強制的に与えられた平和は、長期的に見れば地域の安定化に寄与した側面も否定できない。
しかし、その過程は、新たな秩序に抵抗した在地武士層や農民たちの、膨大な犠牲の上に成り立っていた。秀吉の天下とは、抵抗する「民」との最後の戦闘を経て、ようやく完成されたものであった 5 。そして、国内の平定を成し遂げた天下人の目は、間髪をいれず国外へと向けられる。奥州再仕置のために動員された巨大な軍事機構は、そのまま朝鮮出兵(文禄・慶長の役)へとスライドしていくことになる 5 。
奥州仕置は、豊臣政権が確立した近世的支配システムの最終的なストレステストであった。検地と刀狩による兵農分離、中央集権的な大名配置、そして絶対的な公権力による私戦の禁止。これらのシステムが、最も抵抗の激しかった最後の辺境である奥羽にまで適用され、機能したことで、日本の統治体制は新たな段階へと移行した。戦国時代は、九戸城の城壁が崩れ落ちると共に、その幕を完全に閉じたのである。
引用文献
- 解説之書 https://www.esashi-iwate.gr.jp/bunka/wp/wp-content/uploads/2021/11/saikachi_manual20220221.pdf
- 東北で活躍した武将たち【戦国時代-江戸時代】 | 彡みちのく歴史フォト散歩 彡 https://rekipho.jugem.jp/?eid=24
- 【開催】奥羽再仕置430年記念プロジェクト「奥羽再仕置と南部領」 - もりおか歴史文化館 https://www.morireki.jp/info/3882/
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- 「奥州仕置(1590年)」秀吉の天下統一最終段階!東北平定と領土再分配の明暗 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/14
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- 「遅れてきた戦国武将」伊達政宗。波乱万丈の人生を3分で解説! - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/185670/
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- 【葛西・大崎一揆発生】1590年10月16日|Mitsuo Yoshida - note https://note.com/yellow1/n/ne7792e666265
- 天正18年(1590)10月16日は岩手沢城から葛西大崎一揆が始まった日。秀吉の奥州仕置に不満な葛西・大崎旧臣らが蜂起。伊達政宗に一揆を扇動した疑惑が。扇動の証拠とされる密書に書かれた花押セキレイの目 - note https://note.com/ryobeokada/n/nc96d362ac8d1
- 葛西大崎一揆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E8%A5%BF%E5%A4%A7%E5%B4%8E%E4%B8%80%E6%8F%86
- 伊達政宗、まさかの「死装束姿」…黄金の十字架パフォーマンスで危機を乗り越えたことも!? https://sengoku-his.com/719
- 九戸の乱 - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/~echigoya/ka/KunoheNoRan.html
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- 郷土歴史倶楽部(葛西大崎一揆) - FC2 https://tm10074078.web.fc2.com/history1060.html
- 無慈悲な執行に一揆勃発!豊臣秀吉「奥州仕置」衝撃の真相【謎解き歴史紀行「半島をゆく」歴史解説編】 | サライ.jp https://serai.jp/tour/1019742
- 小田原攻めと「奥州仕置」はなぜ起きた?豊臣秀吉の天下統一事業のラストを飾る2つの事件 https://mag.japaaan.com/archives/197674