妙顕寺の変(1536)
京都炎上――天文法華の乱(1536年) 全貌と戦闘経過の時系列的再構築
序章:天文法華の乱とは何か
戦国時代の日本史において、大名間の抗争が注目されがちであるが、その裏では宗教勢力が政治・軍事の領域で巨大な影響力を行使していた。その中でも、天文5年(1536年)に京都を舞台に繰り広げられた「天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)」は、日本中世史上最大級の宗教戦争として特筆されるべき事件である。この戦いは、日蓮宗(法華宗)の信徒である町衆(まちしゅう)が組織した「法華一揆」と、旧来の権威である比叡山延暦寺およびそれに与した守護大名・六角氏らの連合軍との間で勃発した全面衝突であった 1 。
利用者によって提示された「妙顕寺の変」という呼称は、洛中における法華宗の中心寺院の一つであった妙顕寺に焦点を当てた名称であるが、この事件の実態は、妙顕寺のみならず洛中に拠点を構えた「法華二十一本山」全てが攻撃対象とされた、より大規模なものであった 2 。そのため、歴史学的には年号を冠した「天文法華の乱」または「天文法乱(てんもんほうらん)」が一般的な呼称として用いられる 1 。一方で、壊滅的な被害を受けた法華宗の視点からは、この事件は「天文法難(てんもんほうなん)」とも呼ばれており、呼称の違いが各々の立場性を色濃く反映している 4 。
この乱の最大の特徴は、その凄惨さにある。戦闘とそれに伴う放火によって、京都の下京(しもぎょう)は全域が、上京(かみぎょう)もその三分の一が灰燼に帰したとされ、その被害規模は百年の大乱と称された「応仁の乱」をも上回るものであったと記録されている 4 。これは単なる宗派間の武力衝突に留まらず、応仁の乱後の京都で経済的・社会的に台頭した新興勢力(法華町衆)と、既得権益を脅かされた旧権力(延暦寺、室町幕府、守護大名)との間で繰り広げられた、都市の支配権をめぐる政治的・経済的覇権闘争であった 5 。本報告書は、この天文法華の乱の全貌を、その背景から戦闘の経過、そして歴史的影響に至るまで、特に合戦の推移を時系列に沿って詳細に再構築することを目的とする。
第一章:法華一揆の台頭――「題目の巷」京都の力学
天文法華の乱に至る背景を理解するためには、応仁の乱(1467年-1477年)以降の京都の社会構造の変化に目を向ける必要がある。11年にわたる戦乱で京都は荒廃し、室町幕府の権威は地に堕ちた。このような権力の空白期において、都市の復興と自衛を担う主体として台頭したのが、商工業者を中心とする「町衆」であった 5 。
武装する町衆と法華宗の拡大
幕府や守護大名の権力が及ばない中、町衆は土一揆や他勢力の侵攻から自らの財産と生命を守るため、自発的に武装し、自治組織を形成していった 2 。この町衆の精神的支柱となったのが、日蓮宗(法華宗)であった。他宗の教義を積極的に論破しようとする「謗法折伏(ほうぼうしゃくぶく)」という攻撃的な教義は、自らの力で運命を切り拓こうとする町衆の気風と合致した 7 。
法華宗は、信者以外との施しを避けるなど、強固な連帯意識と排他性を特徴とするコミュニティを形成した 5 。これにより、特に庶民が多く暮らす下京を中心に爆発的に信者を増やし、当時の京都は「題目の巷」と称されるほど、法華宗一色に染まっていった 8 。やがて、これらの武装した法華宗徒の町衆は「法華一揆」と呼ばれる強大な軍事・政治勢力へと成長する。彼らは「南無妙法蓮華経」の題目を唱えながら武装して市内を巡回する「打ちまわり」と呼ばれる示威行動を行い、京都の治安維持を自主的に担う一方で、領主への地子銭(土地税)納入を拒否するなど、公然と自治権を主張し始めた 2 。
政治権力との連携と山科本願寺焼き討ち
法華一揆がその勢力を決定的にしたのは、天文元年(1532年)の山科本願寺焼き討ちである。当時、畿内の実権を握っていた管領・細川晴元は、対立する三好元長や、強大な勢力を誇る浄土真宗本願寺教団(一向一揆)との抗争に苦慮していた 10 。ここで晴元は、京都に根を張る法華一揆の軍事力に着目する。
晴元は法華一揆および近江守護の六角定頼と手を組み、一向一揆の総本山であった山科本願寺への攻撃を計画した 9 。天文元年8月、連合軍は山科本願寺を総攻撃し、これを焼き討ちにして壊滅させた 4 。この戦功により、法華一揆は晴元政権から京都市中の警備権を公式に認められ、以後約5年間にわたり、名実ともに京都の支配者として君臨する黄金期を迎えることとなった 4 。
しかし、この成功体験は法華一揆に過剰な自信を植え付け、彼らの行動をさらに増長させる結果を招いた。当初、細川晴元にとって法華一揆は、敵対勢力を排除するための有効な「同盟軍」であった。しかし、晴元の思惑を超えて強大化し、独自の自治権を主張し始めた法華一揆は、やがて晴元自身の支配をも脅かしかねない、制御不能な存在へと変貌していく。この力関係の変化が、後の天文法華の乱において、晴元がかつての同盟者を見捨てる遠因となったのである。
第二章:対立の激化――既得権益をめぐる旧勢力との確執
京都の支配者として君臨する法華一揆の存在は、古くから京都に権益を持つ旧勢力、特に比叡山延暦寺との間に深刻な対立を生み出した。その対立の根源は、宗教的な教義の違いのみならず、より現実的な経済的利権にあった。
経済的利権をめぐる延暦寺との緊張
比叡山延暦寺は、中世を通じて京都の金融業者である土倉(どそう)や酒屋に対して強い支配権を持ち、これらから得られる収益は寺社の重要な財源となっていた 5 。しかし、法華宗徒である町衆が経済力を増し、自治権を拡大する中で、延暦寺の既得権益は次第に侵害されていった。法華一揆による地子銭の不払い運動なども含め、両者の対立は京都の経済的覇権をめぐる争いとしての側面を色濃くしていったのである 5 。
決定的亀裂を生んだ「松本問答」
経済的な緊張が高まる中、両者の関係を決定的に破綻させる事件が発生する。天文5年(1536年)の2月とも3月ともされる時期に起こった「松本問答」である 4 。
延暦寺西塔の僧侶・華王房(けおうぼう)が京都の一条烏丸で説法を行っていた際、聴衆の中にいた上総国出身の法華宗徒・松本久吉(まつもとひさよし)がこれに反論。公衆の面前で行われた宗論の末、学僧である華王房は一介の信徒である松本久吉に完膚なきまでに論破されてしまった 3 。さらに松本は、敗れた華王房を高座から引きずり下ろし、その袈裟を剥ぎ取るという侮辱的な行為に及んだとされる 4 。
この事件は瞬く間に噂として広まり、延暦寺の権威と面目を著しく失墜させた。激昂した延暦寺の大衆は、まず幕府に「法華宗」という名称の使用を禁じるよう訴え出たが、後醍醐天皇の勅許を根拠に法華宗側の勝訴となった 4 。この裁定には、両者を争わせて共倒れを狙う細川晴元政権の思惑があったとも指摘されている 4 。
この松本問答とその後の訴訟における敗北は、延暦寺という伝統的権威が、問答という「知」の領域と、訴訟という「法」の領域の両面で、新興勢力に敗れ去ったことを象徴する出来事であった。知力でも法力でも相手を屈服させられないと悟った延暦寺にとって、残された最後の手段は、自らが有する物理的な力、すなわち僧兵による「暴力」の行使のみとなったのである。
この危機的状況を打開すべく、近江守護の六角定頼が両者の仲裁のために上洛し、木沢長政も調停に動いたが、双方の溝は埋めがたく、交渉は決裂に終わった 4 。ここに、武力衝突は不可避となった。
第三章:決戦前夜――両陣営の対峙と戦略
調停の失敗を受け、天文5年(1536年)6月1日、延暦寺は三院集会において法華一揆の武力による撃滅を正式に決議した 4 。京都の空には、かつてない規模の戦乱の暗雲が垂れ込めていた。
反法華連合の形成と法華一揆の孤立
延暦寺は行動を開始した。翌6月2日には朝廷と幕府に決議を奏上し、事実上の攻撃許可を取り付けると同時に、畿内近国の主要寺社に檄文を発した。本願寺、興福寺、園城寺(三井寺)、東寺、根来寺など、かつてのライバルを含む諸勢力、さらには越前の朝倉孝景にまで協力を要請したのである 4 。これらの勢力の多くは直接の援軍派遣こそ見送ったものの、中立を約束した。これにより、法華一揆は外交的に完全に孤立無援の状態に追い込まれた。
そして、調停役であった六角定頼は、最終的に延暦寺側への加担を表明する 3 。この決断は、単に調停の失敗によるものではない。近江を本拠とする定頼にとって、自らの影響下にあるとは言えない、過激で排他的な武装市民勢力が京都に独立政権を築くことは、地政学的に断じて容認できない脅威であった。予測不能な新興勢力を排除し、行動原理が読める旧来の権威である延暦寺を勝たせることで、京都ひいては畿内における自らの影響力を最大化するという、冷徹な政治的判断が働いたのである。
両陣営の兵力と法華一揆の防衛体制
こうして形成された反法華連合軍の兵力は、延暦寺の僧兵が数万、六角定頼・義賢父子が率いる近江勢が3万、園城寺勢が3千騎など、総勢6万から最大で15万に達したと記録されている 3 。対する法華一揆側の兵力は、2万から3万程度とされ、数において圧倒的に不利であった 4 。
兵力差を補うため、法華一揆は5月下旬から防衛準備に着手していた。洛中に点在する二十一本山の寺院を拠点とし、その周囲に堀や土塁を築いて要塞化を進めた 2 。特に頂妙寺には、当時を偲ばせる「構え跡」が今も残されている 15 。彼らの戦略は、京都の市街地そのものを一つの巨大な城郭と見立て、地の利を活かした籠城戦に持ち込むことであった。
【表1:洛中法華二十一本山一覧】
この戦いで攻撃対象となった法華宗の主要寺院は以下の通りである。これらの寺院群が、法華一揆の防衛拠点ネットワークを形成していた。
寺院名 |
読み |
備考 |
妙顕寺 |
みょうけんじ |
四条門流。洛中法華の中心寺院の一つ。 |
本圀寺 |
ほんこくじ |
六条門流。法華一揆の最後の拠点となる。 |
妙覚寺 |
みょうかくじ |
四条門流。妙顕寺より分派。 |
立本寺 |
りゅうほんじ |
妙顕寺より分派。三具足山の一つ。 |
本能寺 |
ほんのうじ |
本門流。織田信長の宿所として著名。 |
本満寺 |
ほんまんじ |
近衛家ゆかりの寺院。 |
頂妙寺 |
ちょうみょうじ |
防衛のための「構え跡」が伝わる。 |
妙傳寺 |
みょうでんじ |
|
本法寺 |
ほんぽうじ |
|
妙蓮寺 |
みょうれんじ |
|
本隆寺 |
ほんりゅうじ |
|
本禅寺 |
ほんぜんじ |
|
住本寺 |
じゅうほんじ |
後に上行院と合併し要法寺となる。 |
上行院 |
じょうぎょういん |
後に住本寺と合併し要法寺となる。 |
妙満寺 |
みょうまんじ |
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寂光寺 |
じゃっこうじ |
|
学養寺 |
がくようじ |
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大妙寺 |
だいみょうじ |
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弘経寺 |
ぐきょうじ |
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宝国寺 |
ほうこくじ |
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本覚寺 |
ほんがくじ |
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(妙泉寺) |
(みょうせんじ) |
洛外の拠点。松ヶ崎にあり最初に攻撃された。 |
出典: 17
7月20日頃、六角勢が東山に、延暦寺勢がその山麓に、園城寺勢が北方に布陣を完了し、京都に対する巨大な包囲網が完成した 4 。洛中の法華一揆は、絶望的な状況下で決戦の時を待つこととなった。
第四章:京都炎上――天文法華の乱、時間軸で辿る戦闘の記録
天文5年7月22日、ついに反法華連合軍による総攻撃の火蓋が切られた。ここから約一週間にわたり、京都は未曾有の戦火に見舞われることになる。
天文5年7月22日:松ヶ崎、開戦の狼煙
戦闘は洛中ではなく、洛外の拠点から始まった。22日早朝、延暦寺の軍勢は京都の北、松ヶ崎に殺到した 2 。松ヶ崎は村全体が法華宗徒という洛外の重要拠点であり、ここを叩くことで洛中への北からの圧力を強める狙いがあった 2 。激しい攻防の末、松ヶ崎城は陥落し、拠点寺院であった妙泉寺も炎上した 2 。法華一揆は緒戦で重要な防衛拠点を失い、洛中への包囲網はさらに狭まった。
7月23日~26日:洛中市街戦の激化
松ヶ崎の陥落を皮切りに、連合軍の主力が洛中への攻撃を本格化させた。東山の麓から、三条口や四条口といった京都の玄関口へ向けて、幾度となく攻撃が繰り返された 2 。法華一揆側は、要塞化した寺院や入り組んだ市街地の地理を最大限に活用し、頑強に抵抗した。戦闘は一進一退の攻防となり、洛中は混乱を極めた 4 。当時の公家・山科言継は、その日記『言継卿記』に、公家屋敷にまで火の手が迫り、書物を抱えて避難したことなど、市中の緊迫した様子を記している 22 。数日間にわたる激しい市街戦により、京都の街は徐々に破壊されていった。
7月27日:四条口の攻防と大火、戦局の転換
膠着した戦況が大きく動いたのは、7月27日のことであった。この日、六角定頼が率いる近江の精鋭部隊が、四条口の防衛線に猛攻を仕掛けた 4 。この方面は本能寺などが中心となって防衛していたと推測されるが 2 、数に勝る六角勢の波状攻撃の前に、ついに防衛線は突破された。
洛中への突入に成功した六角勢は、市中に一斉に火を放った 4 。乾いた夏の京の町家は瞬く間に燃え広がり、火は下京全域を舐め尽くし、上京の三分の一をも焼き払う大火災となった 3 。火攻めによって防衛拠点は次々と機能を失い、法華一揆の組織的抵抗はここに潰えた。防衛線は総崩れとなり、宗徒たちは阿鼻叫喚の中を逃げ惑うばかりであった。
7月28日:本圀寺の陥落と法華一揆の壊滅
生き残った法華衆の残兵は、最後の望みを託し、六条にあった本圀寺に集結して抵抗を続けた 4 。しかし、大軍に包囲された本圀寺も長くは持たず、28日の午前中には陥落した 4 。これにより、5年間にわたり京都を支配した法華一揆は、組織として完全に壊滅した。
同日午後2時頃、南禅寺に陣を置いていた将軍・足利義晴のもとに戦勝の報が届く。義晴はただちに朝廷へ使者を送り、「日蓮衆退治落居、珍重(日蓮宗徒の退治が完了し、喜ばしい限りである)」と報告した 4 。戦況が有利に傾くや否や、勝者側につくという幕府の態度は、まさに戦国時代の権力のありようを象徴するものであった。
第五章:焦土からの再起――追放、帰洛、そして和解へ
戦闘は終結したが、京都には凄惨な光景が広がっていた。法華宗徒の戦死者は数千から一万人にのぼったとされ、街は文字通り焦土と化していた 4 。その被害規模は、応仁の乱をも凌駕するものであった。
京都の惨状と6年間の禁教令
勝利した延暦寺・六角勢による法華宗徒の残党狩りが始まり、略奪や狼藉が横行した。その惨状を見かねた後奈良天皇が、幕府に対して狼藉を禁じるよう命じたほどであった 4 。生き延びた法華宗徒の多くは、当時自由都市として栄えていた和泉国の堺へと逃れた 2 。妙顕寺は堺の妙法寺へ、本能寺は堺の顕本寺へと、それぞれ縁のある寺院を頼った記録が残っている 8 。
そして天文5年閏10月7日、細川晴元は法華宗に対して3ヶ条からなる禁令を発布。これにより、僧侶の京都内外での活動、寺院の再興などが一切禁じられ、以後6年間にわたり、京都において法華宗は禁教状態に置かれることとなった 4 。
帰洛への道と六角定頼の斡旋
堺へ逃れた法華宗徒たちは、京都への帰還を諦めなかった。彼らは何度も幕府に帰洛を願い出た 3 。そして天文11年(1542年)、事態は意外な方向へ動く。法華一揆を壊滅させた張本人である六角定頼が、彼らの帰洛の斡旋に乗り出したのである 4 。
定頼の働きかけにより、後奈良天皇から法華宗徒の帰洛を許す勅許が下された。しかし、延暦寺はこれに猛反発し、「叡山の末寺となること」を帰洛の条件として突きつけるなど、強硬な姿勢を崩さなかった 4 。ここでも再び六角定頼が両者の間に入り、粘り強く調停を続けた。
この定頼の行動は、単なる温情からではない。法華一揆を一度徹底的に破壊し無力化した上で、自らの管理下に置く形で京都に復帰させることで、延暦寺と法華宗の双方に恩を売り、両者を天秤にかけることで畿内における自身の政治的影響力を盤石にするという、高度な戦後処理であった。
和解と復興
六角定頼の巧みな仲介により、天文16年(1547年)2月、ついに延暦寺と法華宗との間に和議が成立した 4 。これにより、6年ぶりに法華宗の禁教が解かれた。
その後、焼失した二十一本山の内、妙顕寺や本能寺、本満寺など15ヶ寺が再建されることとなった 3 。本能寺は天文14年(1545年)にはすでに日承上人によって四条西洞院の地に再建されており 24 、本圀寺も和議が成立した同年の8月には本堂の再建を果たしている 4 。こうして、一度は京都から完全に姿を消した法華宗は、苦難の末に再びその信仰の灯を都にともすことができたのである。
終章:天文法華の乱が残したもの
天文法華の乱は、京都に未曾有の破壊をもたらしただけでなく、その後の日本の歴史に多大な影響を与えた。この事件が残したものは、単なる宗教対立の爪痕に留まらない、より構造的な変化であった。
第一に、この乱は、武装した宗教勢力が大名権力にとってどれほど危険な存在になりうるかを天下に知らしめた。法華一揆の台頭と、それを鎮圧するために要した多大な犠牲は、戦国大名たちにとって大きな教訓となった。この経験は、後の織田信長による比叡山延暦寺焼き討ちや、石山本願寺との10年にわたる石山合戦など、武家権力が宗教勢力の武装解除と政治からの排除を徹底して推し進める政策へと繋がっていく。
第二に、京都の都市構造に与えた影響も大きい。市街地の寺院が要塞化し、大規模な籠城戦の舞台となった結果、都市そのものが焦土と化したこの経験は、都市のあり方を見直す契機となった。後の豊臣秀吉による京都の都市改造、特に寺院を寺町通や寺之内といった特定の地域に集約させる政策は、寺院の軍事拠点化を防ぎ、為政者による都市の支配と防衛を容易にするという、この乱の教訓が活かされた側面がある 2 。
第三に、この事件は畿内の政治力学を大きく変動させた。法華一揆という一大軍事勢力が消滅したことで、彼らを利用していた細川晴元政権は結果的にその力を削がれることになり、これが後の三好長慶の台頭を許す遠因となった 25 。また、この乱を事実上主導した六角定頼は、畿内における最重要人物としての地位を確立した。
天文法華の乱は、中世的な在地勢力による「一揆」という抵抗形態が、より強大で中央集権的な武家権力によって制圧されていく、時代の大きな転換点を象徴する出来事であった。それは、町衆が自らの力で自治を勝ち取ろうとした輝かしい時代の終わりであり、同時に、強力な統一権力による支配へと向かう戦国時代の新たな秩序が形成されていく過程の一里塚でもあったのである。京都の灰の中から立ち上った煙は、中世の終焉と、新たな時代の到来を告げていた。
引用文献
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