最終更新日 2025-09-07

宇和島・板島城の戦い(1588~92)

天正15年、伊予南予の新領主戸田勝隆の圧政に旧西園寺家臣団が蜂起。板島城を包囲するも、西園寺公広の暗殺で鎮圧された。これは中央集権化に伴う在地勢力の抵抗であった。

天正南予の激震:戸田勝隆の支配と板島城をめぐる動乱の全貌(1587-1594)

序章:天下統一の波、伊予南予へ

戦国乱世の終焉を告げる豊臣秀吉の天下統一事業は、日本各地の伝統的な支配秩序に根底からの変革を迫るものであった。天正13年(1585年)、秀吉は圧倒的な軍事力をもって四国に君臨していた長宗我部元親を降伏させ、この地を完全にその支配下に置いた 1 。戦後、秀吉の差配によって行われた「四国国分(しこくくにわけ)」は、中央の論理が地方の運命を決定する新時代の到来を象徴する出来事であった 3 。この国分により、伊予国は当初、中国地方の雄・毛利氏の重鎮であり、秀吉の信頼も厚い小早川隆景の所領とされた 1

この激動の時代、伊予国南予地方(宇和郡)を長らく治めてきたのは、鎌倉時代以来の名家・西園寺氏であった 6 。当主の西園寺公広は、土佐の長宗我部氏、そして豊臣の小早川氏と、次々と支配者が変わる中で、一貫して自領の安堵を求め続けていた 7 。しかし、天下統一という巨大な潮流の前では、一地方領主の願いはあまりにも脆く、その地位は極めて不安定なものとなっていた。在地に深く根を張る西園寺氏とその家臣団は、中央から次々と送り込まれる新たな支配者に対し、拭い難い不安と警戒の目を向けていたのである。

事態が大きく動いたのは、天正15年(1587年)のことである。秀吉が九州平定を成し遂げると、その戦功により小早川隆景は筑前・筑後へと転封される 4 。その跡地となった伊予、とりわけ南予は、秀吉が発した朱印状に「伊予は九州・中国之かなめ所」と記されるほど、地政学的に極めて重要な拠点と見なされていた 7 。瀬戸内海と豊後水道に面し、九州への兵站基地、あるいは進出拠点として、さらには西国大名を監視する上でも、豊臣政権が直接、強力な支配を及ぼす必要のある戦略拠点であった。

この南予の地に、新たな領主として送り込まれたのが、秀吉子飼いの猛将・戸田勝隆である。彼の入部こそが、本報告書が詳述する「宇和島・板島城の戦い」、すなわち「天正の南予一揆」と呼ばれる激しい動乱の直接的な引き金となる。この一連の戦いは、単なる地方の反乱ではない。それは、豊臣政権が推し進める「惣無事令」に代表される中央集権化政策と、土地に根差した旧来の支配体制との間に生じた、避けることのできない激しい衝突の典型例であった。戸田勝隆の着任は、その中央集権化政策の冷徹な「執行者」が送り込まれたことを意味し、南予の地は未曾有の激震に見舞われることとなる。


【表1】関係者一覧

勢力

人物名

役職・立場

動乱における役割

豊臣方(中央勢力)

豊臣秀吉

関白・天下人

四国平定後の伊予国分を断行。戸田勝隆を南予の新領主として派遣する。

戸田勝隆

伊予大洲城主

秀吉の命を受け、太閤検地や旧勢力の解体を強行。一揆を誘発し、これを徹底的に鎮圧する中心人物 7

浅野長吉(長政)

豊臣家奉行

秀吉の命により、南予における太閤検地の実施を主導する 10

在地勢力(旧秩序)

西園寺公広

旧宇和郡領主

豊臣政権下で地位を失い、本領安堵を願うも、一揆の黒幕と疑われ、戸田勝隆の謀略により暗殺される 8

土居清良

旧西園寺家重臣

旧主家への恩義と南予の安寧との間で苦悩。戸田方の依頼を受け、一揆勢を一時的に説得・調停する 11

法華津前延

旧西園寺家重臣

西園寺氏の重臣の一人。戸田勝隆から200石で仕官の誘いを受け、これに応じる 7

一揆勢

西園寺旧臣・在地領主

下城命令と検地に反発し蜂起。板島城などを包囲するも、指導者を失い、最終的に鎮圧される 9


第一部:新秩序の到来と軋轢の萌芽(天正15年 / 1587年)

第一章:新領主・戸田勝隆の着任

天正15年(1587年)2月、九州平定の戦役の最中、戸田勝隆は伊予宇和郡7万石の領主として封じられた 7 。彼の出自は必ずしも明確ではないが、織田信長、そして羽柴秀吉に仕え、秀吉の家臣団の中では古参の部類に入る歴戦の武将であった 7 。特に、秀吉の馬廻衆の中でも精鋭中の精鋭で構成される「黄母衣衆」の筆頭に選ばれるほどの武勇を誇り、『武家事紀』には「これに越える勇功の士あらず」とまで記されている 7

しかし、勝隆は単なる武辺者ではなかった。近江における検地奉行や城割奉行を歴任した経験は、彼が豊臣政権の土地政策や支配体制を深く理解し、それを遂行する能力を持った有能な官吏(能吏)であったことを示している 7 。また、千利休や津田宗及が主催する茶会にも名を連ねており、当時の支配階級としての高い教養も備えていた 10

このような人物が、戦略的要衝である南予に送り込まれた目的は極めて明確であった。それは、豊臣政権による直接的かつ均一な支配を、この地の末端まで徹底的に浸透させることに他ならない。そのための最も重要な手段が、全国で推し進められていた「太閤検地」の断行である 5 。『宇和旧記』が伝えるように、秀吉の「一郷も二郷もなで斬り」も辞さないという検地に対する不退転の決意を、勝隆はまさに体現する存在として選ばれたのである 14 。彼の使命は、旧来の在地勢力が持つ複雑な権益を解体し、全ての土地と民を中央政権の直接支配下に組み込むことであった。

第二章:旧勢力の解体と不満の蓄積

南予の支配者となった戸田勝隆は、その使命を遂行すべく、矢継ぎ早に旧体制の解体に着手した。その手法は、豊臣政権が全国で展開した「飴と鞭」の支配戦略そのものであり、個人的な残虐性からではなく、与えられた政治的使命を完遂するための、極めて合理的かつ計算されたものであった。

まず、勝隆は強烈な「鞭」を振るう。天正15年8月、彼は西園寺公広や土居清良といったごく一部の最重臣を除く、南予に割拠していた旧西園寺家臣団に対し、彼らが拠点とする38の城から全て退去するようにという、非情な命令を下した 7 。これは、在地領主たちが長年にわたって築き上げてきた軍事的・政治的権力を、根こそぎ奪い去るに等しい措置であった。城を失うことは、武士としての誇りを奪われ、地域の支配者としての地位を完全に否定されることを意味した。

同時に、豊臣政権の根幹をなす政策である太閤検地が、浅野長吉らの奉行衆主導のもと、勝隆の監督下で強行される 11 。検地は、田畑一筆ごとに等級を分け、面積、石高、耕作者を確定させるもので、これにより年貢徴収の確実性を高め、領国支配の基盤を強化することを目的としていた 13 。しかし、在地領主たちにとっては、これは自らの支配の正当性を支えてきた経済基盤そのものを奪われる行為であり、到底受け入れられるものではなかった。

一方で、勝隆は支配を円滑に進めるための「飴」も用意していた。彼は、旧勢力の中でも協力的と判断した人物を取り込む懐柔策も用いている。例えば、在地領主の一人であった武井宗意を蔵入地(豊臣家直轄領)の代官に任命するなど、新たな支配体制の中で一定の地位と権益を与えることで、旧勢力の分断と取り込みを図った 17 。これは、抵抗勢力を孤立させ、新体制への移行をスムーズに進めるための、巧みな政治的判断であった 13

しかし、その懐柔策の裏では、旧領主・西園寺公広への圧力は日増しに強まっていった。勝隆は、在地勢力が精神的な支柱として仰ぐ公広の存在を、新体制確立における最大の障害と見なしていた。同年12月、勝隆は遂に公広を居城であった黒瀬城からも退去させ、九島にある願成寺へと追いやった 7 。これにより、西園寺氏の権威は完全に失墜し、追い詰められた在地領主たちの不満は、もはや爆発寸前の状態にまで達していたのである。

第二部:蜂起と攻防 ― 南予一揆、燃え上がる(天正15年11月~12月)

戸田勝隆による急進的な改革は、南予の在地社会が長年培ってきた秩序を根底から揺るがした。城を奪われ、経済的基盤である土地の支配権をも脅かされた旧西園寺家臣団や国衆たちの怒りと絶望は、ついに武装蜂起という形で噴出する。


【表2】天正南予一揆 詳細年表(1587-1588)

年月日

南予での出来事(戸田方・一揆方)

関連する中央の動向(豊臣秀吉・政権)

天正15年(1587)2月12日

戸田勝隆、伊予宇和郡7万石に封じられる 7

九州平定の戦役が進行中。

天正15年6月

小早川隆景が筑前へ転封。

九州平定が完了し、戦後処理(九州国分)が行われる 18

天正15年7月以降

浅野長吉らが南予に入り、太閤検地を開始 10

肥後国人一揆が勃発。豊臣政権は在地勢力の抵抗に直面する 18

天正15年8月

勝隆、西園寺旧臣38名に居城からの下城を命じる 7

天正15年11月頃

【一揆勃発】 旧西園寺家臣団らが蜂起。板島丸串城・黒瀬城を包囲する 9

天正15年11月~12月

板島城代、隠棲中の土居清良に調停を依頼。清良の説得により一揆勢は一時的に包囲を解く 10

天正15年12月8日~10日

勝隆、偽の朱印状を用いて西園寺公広を誘い出すも、警戒され失敗 10

天正15年12月11日

【西園寺公広、死す】 勝隆の謀略により、公広は家臣の邸宅で襲撃され自刃。大名としての伊予西園寺氏は滅亡する 8

天正16年(1588)2月21日

戸田勝隆、自ら軍を率いて板島城に入城 9

肥後国人一揆が鎮圧される。

天正16年2月以降

勝隆、一揆残党の徹底的な掃討を開始。武芸に秀でた者を処刑し、寺社領を没収するなど恐怖政治を敷く 10

天正16年春頃

【一揆鎮圧】 南予における組織的な抵抗は完全に終息する。


第一章:一揆の勃発と板島城包囲

天正15年11月頃、ついに堪忍袋の緒が切れた旧西園寺家臣団や在地領主たちは、一斉に蜂起した。彼らは数千の兵力を結集し、戸田氏による南予支配の拠点となっていた板島丸串城(後の宇和島城)と、かつての西園寺氏の本城であった黒瀬城を同時に攻撃し、包囲下に置いた 9

板島城を守るのは、城代の戸田与左衛門(戸田左衛門信種とも伝わる)であった 9 。しかし、彼らが率いる兵は寡兵であり、何よりも地の利も人心も完全に一揆勢の側にあった。城の周囲には、昨日までの隣人であった者たちが、今は憎悪の炎を燃やす敵兵としてひしめいている。怒涛の如く押し寄せる一揆軍の猛攻に、城兵は必死の防戦を強いられた。外部との連絡は完全に遮断され、城内の兵糧や矢弾は刻一刻と尽きていく。先の見えない籠城戦の中で、城兵の士気は日に日に低下し、城は陥落寸前の絶望的な状況に追い込まれていった 11

第二章:旧恩と新義の狭間で ― 土居清良の調停

万策尽きた城代・戸田与左衛門は、常識では考えられない窮余の一策に打って出る。それは、敵である一揆勢のかつての主筋であり、西園寺十五将にも数えられる家中随一の重臣であった土居清良に、仲介を依頼することであった 9 。清良は西園寺氏が実質的に滅んだ後、新領主からの仕官の誘いを固辞し、故郷で静かに隠棲生活を送っていた 12 。しかし、その威名と人望は南予一円に轟いており、一揆勢の中にも彼を慕う者は数多く存在した。

この依頼は、清良を究極の選択へと追い込むものであった。一方は、旧主家を滅ぼした憎き新領主からの、虫の良い頼み。もう一方は、かつて苦楽を共にし、今まさに死地に立たされている旧臣や仲間たち。彼の選択は、旧来の地域秩序における「顔役」としての役割が、中央から派遣された絶対的な権力者の前でいかに無力であるかを残酷なまでに示すことになる。

清良は深く苦悩した。しかし、このまま戦が続けば、南予の地が焦土と化し、多くの民が犠牲になることは火を見るより明らかであった。彼は「西園寺家臣」という立場よりも、「南予の秩序維持者」としての責務を優先する。苦渋の決断の末に調停役を引き受けた清良は、単身板島城に赴き、一揆勢の指導者たちと対峙した。彼の威徳と、南予の将来を憂う真摯な説得は、頑なになっていた一揆勢の心を動かした。彼らは清良の顔を立て、一時的にではあるが城の包囲を解き、攻撃を停止することに同意したのである 11

第三章:謀略の刃 ― 西園寺公広の暗殺(天正15年12月)

土居清良の尽力によって一時的な平穏が訪れたものの、大洲にあって事態を注視していた戸田勝隆の考えは全く異なっていた。彼は、この大規模な一揆の背後で、西園寺公広が糸を引いているに違いないと深く猜疑していた 10 。在地勢力の抵抗を根絶するためには、彼らが精神的支柱として仰ぎ続ける公広の存在そのものを、この世から抹殺する以外に道はないと、冷徹に判断した。

勝隆は、卑劣な謀略を巡らせる。天正15年12月8日、彼は毛利氏の斡旋によって秀吉が公広に本領を安堵した、という全くの偽物である朱印状を餌に、公広を自身の邸宅へと招き寄せた 8 。しかし、長年の経験から謀略の匂いを嗅ぎ取った公広は、この誘いを警戒し、翌9日、10名の屈強な護衛を連れて現れた。暗殺の隙を見出せなかった勝隆は、この日の計画を断念せざるを得なかった 10

だが、勝隆は諦めなかった。12月11日、彼は今度は家臣である戸田駿河守の邸宅に公広を招いた。度重なる招きに、公広も遂に応じざるを得なかった。屋敷に入った公広は、巧みに供の者たちと引き離され、そこで多数の刺客に襲われた。全てを悟った公広は、武士としての最後の誇りをかけて奮戦し、戸田駿河守をはじめとする9名を斬り伏せたが、衆寡敵せず、遂に自刃して果てた。辞世の句は「黒瀬山 峰の嵐に 散りにしと 他人には告げよ 宇和の里人」と伝わる 8 。享年51であった。主君の死を知った護衛たちもまた激怒し、屋敷に斬り込んで50余人の敵を討ち取り、全員が壮絶な討死を遂げた 10

この謀殺により、鎌倉時代から続いた大名としての伊予西園寺氏は、完全に滅亡した 8 。一揆勢は精神的支柱と大義名分を同時に失い、勝隆の非情なやり方に対する怒りをさらに燃え上がらせたものの、もはや組織的な抵抗を維持する力を急速に失っていった。

第三部:鉄槌 ― 戸田勝隆、動く(天正16年 / 1588年)

第一章:勝隆、板島城へ入城

西園寺公広を謀殺し、抵抗勢力から中心人物を奪い去った戸田勝隆は、もはや交渉や調停の段階は終わったと判断した。天正16年(1588年)2月、彼は満を持して自ら軍を率いて本拠の大洲城を出発し、一揆の中心地であった板島丸串城へと入城した 9 。これは、南予の在地勢力に対し、これより完全な武力制圧に移行するという明確な意思表示であり、恐怖による支配の始まりを告げるものであった。

この一連の動乱は、板島城の戦略的価値を改めて浮き彫りにした。在地勢力による大規模な包囲戦を経験したことで、この城が単なる居城ではなく、南予一円を確実に支配し、さらに西の九州や海上の勢力に睨みを利かせるための、より堅固な近世城郭へと改修される必要性が明確になったのである。勝隆自身も城の改修に着手したとされ 4 、この時の教訓は、後の築城の名手・藤堂高虎による大規模な築城事業へと繋がっていく。高虎が考案したとされる、敵を欺くための五角形の縄張りなどは 9 、この一揆で経験したゲリラ的な攻撃や予期せぬ方面からの襲撃を常に想定した、動乱の記憶が生んだ産物と解釈することも可能であろう。

第二章:恐怖による支配の確立

板島城に入った勝隆は、伊丹源次郎、好利小右衛門といった家臣を奉行に任じ、一揆の残党に対する徹底的な掃討作戦を開始した 10 。その手法は苛烈を極めた。

まず、一揆に加担した者、あるいはその疑いがある者たちを徹底的に捜索し、捕らえた。特に「武芸に秀でた者は探し出して斬り」 10 という方針は、将来再び抵抗の核となりうる人材を物理的に排除するための、冷徹かつ合理的なものであった。多くの者から人質を徴発して反抗の意欲を削ぎ、少しでも疑わしい者は見せしめとして容赦なく処刑することで、南予の民衆の心に絶対的な恐怖を植え付けた。

さらに勝隆は、物理的な弾圧に留まらず、在地勢力の精神的・経済的基盤そのものの破壊にも乗り出した。地域の共同体の結束の核となっていた寺社の所領を没収し、建物を破却したのである 10 。これは、彼らの信仰の対象を奪うと同時に、寺社が持っていた経済力を剥奪することで、地域の求心力を根底から解体する狙いがあった。

この徹底した弾圧により、天正16年の春を迎える頃には、南予一円における組織的な抵抗は完全に終息した。蜂起した者たちは殺されるか、あるいは沈黙するしかなかった。こうして、板島城を拠点とする、戸田勝隆による直接的かつ強権的な支配体制が、血と恐怖の上に確立されたのである。

終章:束の間の支配と遺されたもの

一揆を完全に鎮圧した後、戸田勝隆は文禄3年(1594年)に没するまで、南予の地を支配した。彼の統治は、豊臣政権の政策を忠実に実行するものであり、在地の人々にとっては極めて厳しいものであったことは想像に難くない。しかし、その強権的な手法は、南予地方が中世的な分権体制から近世的な中央集権体制へと移行するプロセスを、強制的に加速させたという側面も持つ 13 。彼の治世は、伊予が新たな時代へと生まれ変わる際に伴う、変革の激しい痛みを象徴するものであった。

天正18年(1590年)には小田原征伐に従軍し、文禄元年(1592年)からは豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)にも加わり、3,900の兵を率いて朝鮮半島へ渡海した 10 。しかし、文禄3年(1594年)10月、朝鮮の陣中にて病を発し、帰国の途上でその生涯を閉じた 5 。彼には跡を継ぐべき男子がおらず、その死によって大洲戸田家は無嗣断絶となった 4

勝隆の死後、彼が血をもって平定した南予の地は、秀吉の信頼厚い家臣であり、築城の名手として名高い藤堂高虎に与えられた 1 。高虎は、この地に近世城郭として壮麗な宇和島城の築城を開始し、後の宇和島藩十万石の基礎を固めていくことになる。

結論として、「宇和島・板島城の戦い(1588~92)」とは、特定の期間に行われた単一の戦闘を指すものではない。それは、天正15年(1587年)の新領主・戸田勝隆の入部から始まる、豊臣政権による全国統一という巨大な構造変革の波が南予に及んだ際に発生した、在地勢力の激しい抵抗(天正の南予一揆)と、その後の強制的な体制転換の全プロセスを指す歴史的事件である。戸田勝隆はその冷徹な「執行者」であり、彼の苛烈な支配なくして、南予の近世化はあり得なかったと言えるのかもしれない。天正の南予一揆という激しい産みの苦しみを経て、この地はようやく安定した近世の時代へと、その歩みを進めていくのである。

引用文献

  1. 現存12天守に登閣しよう【宇和島城】築城名人藤堂高虎の海城 - 城びと https://shirobito.jp/article/694
  2. 四国攻め - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E6%94%BB%E3%82%81
  3. 四国国分 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E5%88%86
  4. 伊予国 宇和島藩 - 全国史跡巡りと地形地図 https://www.shiseki-chikei.com/%E5%B9%95%E6%9C%AB%E4%B8%89%E7%99%BE%E8%97%A9-%E5%9F%8E-%E9%99%A3%E5%B1%8B/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E5%9C%B0%E6%96%B9%E3%81%AE%E8%AB%B8%E8%97%A9/%E5%AE%87%E5%92%8C%E5%B3%B6%E8%97%A9-%E6%84%9B%E5%AA%9B%E7%9C%8C/
  5. 戸田勝隆(とだ かつたか)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%88%B8%E7%94%B0%E5%8B%9D%E9%9A%86-1094676
  6. 西園寺氏による宇和郡の支配 - 西予市 https://www.city.seiyo.ehime.jp/miryoku/seiyoshibunkazai/bunkazai/dayori/16215.html
  7. 戸田勝隆とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E6%88%B8%E7%94%B0%E5%8B%9D%E9%9A%86
  8. 西園寺公広 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E5%BA%83
  9. 宇和島城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%92%8C%E5%B3%B6%E5%9F%8E
  10. 戸田勝隆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E7%94%B0%E5%8B%9D%E9%9A%86
  11. 二 太閤支配下の検地① - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/64/view/8028
  12. 土居清良 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B1%85%E6%B8%85%E8%89%AF
  13. 調査・研究えひめの歴史文化モノ語り - 愛媛県歴史文化博物館 https://www.i-rekihaku.jp/research/monogatari/article/043.html
  14. 二 領主の交替 - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/64/view/8024
  15. テーマ展「収蔵品が語る 伊予の転換期―戦国から近世へ―」 | 展示案内 - 愛媛県歴史文化博物館 https://www.i-rekihaku.jp/exhibition/special/2022/1220_1/
  16. 太閤検地 - 国税庁 https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/sozei/quiz/1104/index.htm
  17. 調査・研究えひめの歴史文化モノ語り - 愛媛県歴史文化博物館 https://www.i-rekihaku.jp/research/monogatari/article/157.html
  18. 1587年 – 89年 九州征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1587/
  19. 重文七城「宇和島城」の歴史と特徴/ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/useful/16947_tour_028/
  20. 重要文化財7城 宇和島城/ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/japanese-castle/uwajima-castle/