宇都宮城の戦い(1584~85)
天正壬午の乱後、北条氏の北関東進出に対し、佐竹・宇都宮連合が対抗。沼尻で長期対陣、皆川広照の寝返りで連合は敗北。薄葉ヶ原で宇都宮は那須に敗れ、多気山城へ移転。小田原征伐への序曲となる。
「Perplexity」で合戦の概要や画像を参照
天正後期における下野国の角逐:宇都宮城の戦い(1584-85年)の総合的分析
巻頭:主要関連事象年表(1582年~1586年)
本報告書が詳述する下野国における一連の紛争を理解するため、その前提となる関東地方の情勢変化を時系列で概観する。
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年代(西暦/和暦) |
主要事象 |
場所 |
主要関連人物 |
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1582年 (天正10年) |
本能寺の変、織田信長死去 |
京 |
織田信長、明智光秀 |
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神流川の戦い |
上野・武蔵国境 |
滝川一益、北条氏直 |
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天正壬午の乱 |
甲斐・信濃・上野 |
徳川家康、北条氏直、上杉景勝 |
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徳川・北条間の和睦成立 |
甲斐・駿河 |
徳川家康、北条氏直 |
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1583年 (天正11年) |
北条氏、上野国をほぼ制圧 |
上野 |
北条氏直、北条高広 |
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佐野宗綱、由良・長尾氏を調略 |
下野・上野 |
佐野宗綱、由良国繁、長尾顕長 |
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由良・長尾氏、北条方から離反 |
上野 |
由良国繁、長尾顕長 |
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1584年 (天正12年) |
由良・長尾氏、小泉城を攻撃 |
上野 |
由良国繁、長尾顕長、富岡秀高 |
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宇都宮・佐竹連合軍、小山城を攻撃 |
下野 |
宇都宮国綱、佐竹義重 |
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沼尻の合戦(対陣) |
下野沼尻 |
北条氏直、佐竹義重、宇都宮国綱 |
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岩船山の戦い、皆川広照の寝返り |
下野岩船山 |
皆川広照、北条氏直 |
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沼尻の和睦成立 |
下野沼尻 |
北条氏直、佐竹義重 |
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1585年 (天正13年) |
那須資晴、親北条路線へ転換 |
下野 |
那須資晴、北条氏政 |
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薄葉ヶ原の戦い |
下野薄葉ヶ原 |
宇都宮国綱、那須資晴 |
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宇都宮国綱、本拠を多気山城へ移転 |
下野 |
宇都宮国綱 |
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1586年 (天正14年) |
佐野宗綱、戦死 |
下野彦間 |
佐野宗綱、長尾顕長 |
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北条氏忠、佐野氏の家督を継承 |
下野唐沢山城 |
北条氏忠、佐野房綱 |
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皆川広照・壬生義雄、北条氏に降伏 |
下野 |
皆川広照、壬生義雄 |
序章:天正壬午の刻、北関東の地殻変動
天正10年(1582年)6月、本能寺の変における織田信長の死は、中央政権の激変に留まらず、関東地方の勢力図を根底から覆す地殻変動を引き起こした。信長によって関東管領として上野国に配されていた滝川一益の支配体制は、主君の死とともに急速に瓦解する 1 。この権力の真空状態を好機と捉えたのが、相模の雄・後北条氏であった。
北条氏政・氏直父子は、神流川の戦いで滝川一益軍を撃破し、織田勢力を関東から駆逐すると、返す刀で甲斐・信濃の旧武田領を巡る「天正壬午の乱」に突入した 1 。この乱において、徳川家康、上杉景勝としのぎを削った末、北条氏は家康との間に和睦を成立させる。この和睦の持つ戦略的意味は極めて大きい。これにより北条氏は南と西の脅威を解消し、その軍事力を北関東へと集中させることが可能となったのである 1 。事実、この和睦には「上野は北条の切取次第(上野国は北条が自由に切り取ってよい)」という条項が含まれており、徳川家康から北関東侵攻の事実上の「お墨付き」を得たに等しかった 3 。この1582年の外交的決着こそが、1584年から始まる下野国での大規模な紛争の直接的な引き金となったのである。
この北条氏の露骨な膨張政策に対し、深刻な危機感を抱いたのが、常陸の佐竹義重を盟主とする北関東の諸大名であった。彼らは「東方の衆」とも呼ばれ、下野の宇都宮国綱、佐野宗綱、下総の結城晴朝らが中心となり、反北条連合を形成する 5 。特に宇都宮氏と佐竹氏は、宇都宮国綱の母が佐竹義昭の娘であるという婚姻関係で結ばれており、同盟の強固な基盤となっていた 7 。彼らの結束は、単なる軍事同盟に留まらず、伊豆の新興勢力である北条氏に対し、関東の旧来の秩序と独立を守るための最後の抵抗であった。こうして、北関東の覇権を賭けた北条氏と反北条連合の全面対決は、不可避の情勢となったのである。
第一部:関東の天下分け目、沼尻の大対陣(1584年)
第1章:戦端 - 小泉城・小山城を巡る前哨戦
天正12年(1584年)の戦役は、反北条連合による巧みな調略戦から始まった。連合の先手として動いた下野の佐野宗綱は、北条方に属していた上野国の有力国衆、由良国繁・長尾顕長兄弟に働きかけ、離反を促した 3 。天正11年(1583年)11月、この調略は功を奏し、由良・長尾両氏は北条方から離反。北条方の富岡秀高が守る上野・小泉城に攻撃を開始し、遂に戦端が開かれた 3 。
この初動は、北条氏の支配圏の末端を侵食し、内部から切り崩そうとする「周辺侵食戦略」とも言うべきものであった。しかし、関東の覇者たる北条氏の対応は迅速かつ的確であった。彼らは小泉城へ後詰の軍勢を派遣すると同時に、離反した長尾氏の本拠地である下野・足利城へも攻撃を開始したのである 3 。これは、敵の攻撃拠点そのものを叩くことで連合の足並みを乱し、戦いの主導権を握り返そうとする「中央突破戦略」であり、北条氏の成熟した軍事組織としての能力の高さを示すものであった。
一方、反北条連合の中核である佐竹義重と宇都宮国綱は、天正12年4月、宇都宮城から主力を率いて出陣する 3 。彼らの当初の戦略目標は、北条方に寝返っていた下野南部の要衝・小山城の奪還であった 3 。小山城は北条勢力が下野国に打ち込んだ楔であり、これを抜くことは連合にとって喫緊の課題であった。
北条軍が足利・佐野方面へ、連合軍が小山方面へと進軍した結果、両軍の作戦目標が近接した。これにより、下野国南部の沼尻(現在の栃木市藤岡町)周辺が、両軍が雌雄を決する対決の場として必然的に浮かび上がったのである 8 。
第2章:沼尻での対峙 - 110日間のリアルタイム戦況
5月初旬、戦況は新たな局面を迎える。5月5日までに佐竹・宇都宮連合軍が沼尻に到着し、野戦陣城の構築を開始。これを追うように5月12日までに、北条氏政・氏直父子が率いる本隊も現地に到着し、関東の覇権を賭けた空前の大軍が対峙することとなった 8 。
両軍の兵力と布陣は、この合戦の性格を如実に物語っている。
【表1:沼尻の合戦 両軍勢力比較】
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項目 |
北条軍 |
反北条連合軍 |
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総兵力(推定) |
70,000 - 80,000 3 |
20,000 - 30,000 3 |
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総大将 |
北条氏直 |
佐竹義重 |
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主要指揮官 |
北条氏照、富岡秀高 |
宇都宮国綱、結城晴朝、佐野宗綱 |
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主要参加勢力 |
北条一門、他関東諸勢力 |
佐竹氏、宇都宮氏、結城氏、佐野氏、由良氏、長尾氏、皆川氏、多賀谷氏 |
この表が示す通り、北条軍は連合軍の倍以上の兵力を有しており、その物量差は圧倒的であった。しかし、この戦いには特筆すべき技術的要素が存在した。連合軍は、当時最新鋭の兵器であった鉄砲を8,000丁も用意していたと伝えられている 3 。これは、織田信長が長篠の戦いで動員したとされる3,000丁を遥かに凌駕する数であり、兵力差を技術力で補おうとする佐竹義重の先進的な軍事思想の表れであった。この膨大な数の鉄砲の存在が、北条の大軍をして安易な決戦を躊躇させた最大の要因と考えられる。
結果として、戦場は『今宮祭祀録』に110日間と記録される長期の対陣、すなわち膠着状態に陥った 3 。大規模な会戦は発生せず、両軍は陣城に籠り、互いに隙を窺う睨み合いを続けた。この間、数万の兵を維持するための兵站線の確保が、両軍にとって最大の課題となった 11 。
この軍事的な膠着状態の裏で、水面下の外交戦が熾烈に繰り広げられた。この沼尻の対陣は、単なる関東の局地戦ではなく、当時日本全国を二分していた羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄の対立(小牧・長久手の戦い)における「関東戦線」としての側面を色濃く持っていた。佐竹・宇都宮氏は秀吉と頻繁に書状を交わし、背後からの牽制を依頼。これに応じた秀吉の命により、同盟者である上杉景勝が信濃へ出兵し、北条領の側背を脅かした 3 。一方の北条氏は、家康との同盟関係を背景に、秀吉と敵対する織田信雄と連携。同時に、連合軍の内部崩壊を狙い、佐竹家臣の梶原政景や、宇都宮配下の皆川広照といった武将への調略を活発化させた 3 。このように、沼尻の戦況は、遠く離れた尾張や信濃の情勢と密接に連動しており、両陣営ともに全国的な大局観に基づいた戦略的行動を強いられていたのである。
第3章:均衡の崩壊 - 岩船山の戦いと皆川広照の寝返り
110日にも及ぶ長期対陣は、両軍、特に兵站に劣る連合軍の疲弊を招いた。この状況下で、北条氏が執拗に続けてきた調略が、ついに戦局の均衡を破る。宇都宮氏配下の有力国衆であり、かつて天正壬午の乱では徳川方として北条氏と戦った経験も持つ皆川広照が、北条方へと寝返ったのである 3 。
天正12年8月20日、この皆川氏の手引きによって、北条軍は連合軍の兵站線と退路を扼する戦略的要衝、岩船山陣城を急襲し、これを占拠した 3 。この「岩船山の戦い」は、沼尻の対陣における決定的な転換点となった。
岩船山陣城の陥落は、佐竹・宇都宮連合軍にとって致命的な打撃であった。彼らは背後を完全に遮断され、補給路を断たれると共に、北条軍による挟撃の危機に直面した 11 。物理的な損害以上に、継戦能力そのものを喪失したことは決定的であった。この戦いの決着は、両軍の主力が激突する会戦によってではなく、兵站と政治的結束という、より根源的な要素によってもたらされた。北条氏は、鉄砲で武装した敵との損害の大きい正面衝突を避け、諜報と調略によって敵の兵站基盤と政治的結束を破壊するという、極めて合理的かつ効果的な戦略で勝利を収めたのである。
戦略的優位を完全に失った連合軍は、講和の席に着かざるを得なかった。8月27日、和睦が成立し、翌日には両軍ともに撤兵した 3 。講和の具体的な内容は史料に残されていないが、由良・長尾両氏が北条方から離反する以前の状況、すなわち北条氏優位の勢力圏を再確認する内容であったと推察されている 3 。
第二部:沼尻の余波、下野国の新たな火種(1585年)
第4章:薄葉ヶ原の激突 - 宇都宮対那須の宿縁
沼尻の合戦は、反北条連合の軍事力と政治的結束の限界を白日の下に晒した。この結果は、下野国北部に新たな火種を生むことになる。下野北部の雄、那須資晴は、この力関係の変化を冷静に分析し、旧来の宇都宮・佐竹氏との協調路線を放棄。関東の覇者としての地位を固めつつある北条氏への接近を強めるという、大きな外交方針の転換を行った 15 。
これにより、反北条の旗頭である宇都宮氏と、親北条に転じた那須氏との対立は決定的となった。天正12年8月には、宇都宮方の山田辰業が那須領に侵攻するなど、国境地帯での小競り合いが頻発し、両者の緊張は一触即発の状態にあった 15 。
そして天正13年(1585年)3月25日、両者の対立は遂に全面衝突へと発展する。宇都宮国綱は、那須氏を討つべく2,500の兵を率いて出陣。対する那須資晴は、これを1,000の兵で迎撃。両軍は下野国塩谷郡薄葉ヶ原(現在の栃木県矢板市)で激突した 15 。
【表2:薄葉ヶ原の戦い 両軍勢力比較】
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項目 |
宇都宮軍 |
那須軍 |
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兵力 |
2,500騎 15 |
1,000騎 15 |
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総大将 |
宇都宮国綱 |
那須資晴 |
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主要武将 |
塩谷義綱、山田辰業、岡本氏宗 |
福原資孝、大関高増、伊王野資宗 |
兵力では宇都宮軍が倍以上の優位に立っていたが、戦況は那須軍優位に進んだ。那須勢は地の利を生かし、また大関高増や伊王野資宗といった歴戦の将たちの奮戦により、宇都宮軍を圧倒した。この戦いで宇都宮方は勇将・山田辰業が討死するなど甚大な被害を出し、総崩れとなって敗走した 15 。沼尻での戦略的敗北に続き、この薄葉ヶ原での戦術的惨敗は、宇都宮氏の軍事的権威を大きく失墜させることとなった。
第5章:伊王野資宗の遠謀 - なぜ国綱は討たれなかったのか
薄葉ヶ原で敗走する宇都宮国綱に対し、勢いに乗る那須軍は猛追撃をかけ、国綱を討ち取る寸前まで追い詰めた。しかし、その土壇場で那須家重臣・伊王野資宗が進言し、追撃は中止された 19 。
資宗の論理は、目先の戦術的勝利よりも、長期的な地政学的安定を優先する、極めて高度な戦略的判断に基づいていた。『那須記』によれば、資宗は「宇都宮氏を今ここで滅ぼしてしまえば、我ら那須家が巨大な北条氏と直接国境を接することになる。宇都宮氏を北条氏に対する防壁(緩衝地帯)として生かしておくべきである」と主君・那須資晴を説いたという 19 。
この判断は、戦国後期の関東における政治力学の変化を象徴している。もはや関東の大名たちは、単に隣接する敵を滅ぼすという単純な征服競争をしていたわけではない。彼らは、圧倒的な覇権勢力である北条氏を常に念頭に置き、その巨大な力をいかにして受け流し、自家の存続を図るかという、複雑な「勢力均衡(バランス・オブ・パワー)」の思考で動いていた。那須家にとって、宇都宮氏はもはや不倶戴天の敵ではなく、北条という共通の脅威に対する「戦略的資産」へとその価値を変えていたのである。この伊王野資宗の遠謀により、宇都宮国綱は辛くも虎口を逃れ、宇都宮家は滅亡を免れた。
第三部:戦略的転換と新たなる秩序への道
第6章:宇都宮国綱の決断 - 多気山城への本拠移転
沼尻での戦略的敗北、そして薄葉ヶ原での戦術的惨敗。この二つの敗北は、宇都宮氏が下野国における軍事的優位を完全に喪失したことを意味した。北条氏とその同盟者である那須氏からの軍事的圧力は日に日に増大し、宇都宮氏は存亡の危機に立たされた 15 。
宇都宮氏代々の本拠である宇都宮城は、領国経営の中心地としては優れた平城であったが、防御の面では大軍による包囲に脆弱であるという弱点を抱えていた 20 。この危機的状況に直面した宇都宮国綱は、重大な決断を下す。本拠地を、宇都宮城の西方に位置し、より堅固な防御力を誇る山城・多気山城へと移転したのである 15 。
この本拠移転は、単なる軍事上の戦術変更に留まらない、宇都宮氏の国家戦略の根本的な転換を示すものであった。平城から山城への移転は、領国への積極的な支配と攻勢戦略を放棄し、徹底した籠城による持久戦へと戦略を大転換させたことを意味する。それは、宇都宮氏が数百年にわたり維持してきた関東の独立した地域権力としてのアイデンティティを捨て、自力での領国維持がもはや不可能であることを認めたに等しい。
この防衛的な姿勢は、彼らの視線が既に関東内部ではなく、中央へと向けられていたことを示唆している。自力での存続が困難となった宇都宮氏は、佐竹氏と共に、北条氏に対抗しうる唯一の存在である豊臣秀吉への依存を急速に深めていく 3 。多気山城への籠城は、秀吉率いる中央の軍勢が関東へ出馬するまでの時間を稼ぐための、最後の抵抗策であり、新たなる全国統一権力への自発的な編入を前提とした戦略であった。
第7章:北条氏の浸透と反北条連合の瓦解
沼尻の合戦後、北条氏は反北条連合の構成員を各個撃破する戦略を徹底し、その勢力圏を下野国に着実に浸透させていった。
天正14年(1586年)正月、連合の有力な一員であった佐野宗綱が、北条方に与する長尾顕長との戦いで不慮の戦死を遂げる 24 。この機を逃さず北条氏は佐野家の後継者問題に介入し、最終的に北条氏政の子である氏忠を養子として送り込み、関東の名門・佐野氏を事実上乗っ取った 3 。
さらに同年、沼尻の合戦で決定的な役割を果たした皆川広照、そして壬生義雄も正式に北条氏に降伏 3 。これにより、下野国の西半分は完全に北条氏の勢力圏と化した 3 。かつて北条氏の膨張を食い止めるべく結集した反北条連合は、内外からの切り崩しによって完全に瓦解し、宇都宮氏と佐竹氏は、北条氏の圧倒的な軍事的・政治的圧力の前に、ますます孤立を深めていったのである。
結論:小田原征伐への序曲 - 1584-85年下野紛争の歴史的意義
本報告書で分析した1584年から85年にかけて下野国で繰り広げられた一連の紛争、すなわち「宇都宮城の戦い」は、単一の城を巡る攻防戦ではなく、関東の覇権を賭けた広域的な戦略的角逐であった。この紛争が歴史に与えた意義は、以下の三点に集約される。
第一に、この戦いは後北条氏が武力、外交、調略を駆使して北関東における覇権をほぼ確立した最終段階であった。沼尻での勝利と、その後の巧みな各個撃破戦略により、北条氏の関東支配は盤石のものとなった。
第二に、この戦いは佐竹・宇都宮といった関東の旧来の名門が、自らの力だけで地域の秩序を維持することの限界を露呈させた。彼らの敗北は、関東地方が中世以来の自立した政治圏から、豊臣政権という新たな全国統一権力の一部分へと組み込まれていく歴史的過程を象徴している。宇都宮国綱の多気山城への本拠移転は、その象徴的な出来事であった。
そして第三に、この紛争は豊臣秀吉の関東介入を決定づけた直接的な原因となった。自力での抵抗が不可能となった宇都宮氏と佐竹氏は、秀吉への救援要請をますます強めていく。これが、後の惣無事令、そして最終的な小田原征伐へと繋がっていくのである 3 。この意味において、天正12年から13年にかけて下野国を舞台としたこの一連の戦いは、戦国時代の終焉を告げる小田原征伐への、避けることのできない序曲であったと結論付けることができる。
引用文献
- 1582年(後半) 東国 天正壬午の乱 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1582-4/
- 後北条氏-合戦(氏政/氏直)- - harimaya.com http://www2.harimaya.com/hozyo/sen_masa.html
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- 天正壬午の乱/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/99866/
- 鬼の異名を持つ戦国武将!上杉謙信に一目置かれた男、佐竹義重の生涯 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/82494/
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- 実はよくわかっていない、戦国合戦における「物資の補給と管理」その真相とは - シンクロナス https://www.synchronous.jp/articles/-/1124
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- 訪問記「早乙女坂古戦場」@喜連川早乙女|スキマニウム - note https://note.com/gensouseirei09/n/n7e222f94b734
- 那須の動乱21 http://plaza.harmonix.ne.jp/~ionowie/nasu21.html
- 山田新左衛門 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E6%96%B0%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80
- 【(11)那須、宇都宮と再度の戦い(薄葉原の合戦)】 - ADEAC https://adeac.jp/otawara-city/text-list/d100070/ht021070
- 鎌倉・室町に周囲の武将たちに恐れらた宇都宮氏の居城・多気城【栃木県宇都宮市】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/28553
- 【多気山城】栃木県最大級の山城!宇都宮を見下ろす大城郭を徹底解説!! - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=TC8astcIF-k
- 宇都宮城の歴史 - 埋もれた古城 表紙 http://umoretakojo.jp/Shiro/Kantou/Tochigi/Utsunomiya/Rekishi.htm
- 秀吉に改易された宇都宮国綱が抱えていた「内憂」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/42733
- 佐野宗綱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%87%8E%E5%AE%97%E7%B6%B1
- 唐沢山城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E6%B2%A2%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84