最終更新日 2025-08-30

安土城の戦い(1582)

天正十年、安土城の戦いは本能寺の変後の混乱で勃発。信長の夢の象徴は、明智光秀の占拠と秀吉の反攻の中、何者かの手で炎上。この焼失は織田政権の終焉を告げ、天下の覇権争いを加速させた。

天正十年、安土城の十三日―織田信長の夢の終焉と天下の行方

序章:天下布武の象徴、安土城

天正十年(1582年)六月、歴史の奔流がその速度を俄かに速めたとき、その渦の中心にあったのは一つの城であった。近江国、琵琶湖の東岸に聳える安土城。それは単なる城郭ではなかった。織田信長という稀代の革命家が、その天下布武の理念を地上に具現化した、壮大なる政治的・文化的装置であった。本能寺の変に続く、いわゆる「安土城の戦い」を理解するためには、まず、この城がいかに時代を超越した存在であったかを知らねばならない。それは物理的な戦闘がほとんど行われなかったにもかかわらず、その占拠と焼失が天下の行方を決定づけた、象徴をめぐる戦いであったからだ。

第一節:城郭概念の革命

安土城は、それまでの日本の城が持っていた概念を根底から覆す存在であった。戦国時代の城郭は、険峻な地形を利用した軍事防衛拠点、すなわち「戦うための城」が主流であった。しかし信長が天正四年(1576年)から築城を開始した安土城は、その思想が全く異なっていた 1

最大の特徴は、防御一辺倒の発想からの脱却と、「見せる」ことによる権威の誇示という明確な政治的意図である。城の正面玄関にあたる大手道は、敵の侵入を阻むために複雑に折れ曲がるのが常識であった時代に、幅六メートルを超える石段の道が約180メートルにわたって天主へと一直線に伸びていた 2 。これは来訪者を圧倒し、信長の絶対的な権力を見せつけるための壮大な舞台装置であった。また、山全体を総石垣で覆い、山頂にはそれまでの天守という軍事的な物見櫓とは一線を画す、壮麗な「天主」を戴いていた 2 。この天主は、宣教師ルイス・フロイスが「我らの塔より気品があり壮大な建築」と記したように、外部は階層ごとに白、赤、青と彩られ、最上階は金色に輝いていたと伝えられる 6

この構造は、信長が目指した中央集権的統治体制の物理的な表現に他ならなかった。城はもはや戦うためだけの場所ではなく、天下を治めるための政治の中心、統治装置そのものへと変貌を遂げたのである。信長はこの城を築くことで、旧来の権威構造を乗り越え、自らが新たな秩序の中心であることを天下に宣言したのだ 1

第二節:政治・経済・文化の中心地

安土城の革新性は、その構造だけに留まらない。信長はこの城を、日本の新たな政治・経済・文化の中心地とすべく、様々な仕掛けを施していた。

驚くべきことに、信長は他の大名のように本丸御殿を日常の居所とせず、天主そのものに起居していたとされる 9 。これは、本丸に築かれた御殿が、天皇を迎えるための「御幸の間」として特別に用意されていたためであった 1 。天主から天皇の御座所を見下ろすという配置は、信長が伝統的権威である朝廷を自らの統治構造の中に位置づけ、その頂点に自らが立つという強烈な意志の表明であった 1

城下では「楽市楽座」が施行され、座などの既得権益を排して自由な商業活動を保障したことで、多くの商工業者が集まり、経済の中心地として繁栄した 10 。城内には、羽柴秀吉や前田利家といった有力家臣の邸宅が配置され、家臣団の集住を強制することで、中央集権体制を強化する狙いがあった 3

さらに、安土城は当代一流の文化が集積する場でもあった。天主や御殿の内部は、狩野永徳が率いる絵師集団による豪華絢爛な障壁画で埋め尽くされていた 14 。信長は茶の湯を政治的に利用し、名物茶器を家臣への恩賞として用いる一方 17 、この城で壮大な茶会を催した 18 。信長はこの城の姿を描かせた「安土山図屏風」をイエズス会巡察師ヴァリニャーノに贈り、天正遣欧使節を通じてローマ教皇へ献上させるなど、その威光を海外にまで示そうという国際的な視野をも持っていたのである 6

第三節:天正十年六月一日、天下の情勢

本能寺の変が勃発する前夜、織田家の軍事力は、信長の壮大な天下統一事業を遂行すべく、各地に展開していた。

中国方面では、羽柴秀吉が備中高松城にて毛利輝元率いる毛利本隊と対峙し、水攻めの真っ只中にあった 18 。北陸方面では、筆頭家老の柴田勝家が越中魚津城を攻略し、上杉景勝の勢力を追い詰めていた 21 。関東では、滝川一益が旧武田領の統治に当たっていた。そして、信長の三男・神戸信孝と重臣・丹羽長秀は、四国の長宗我部元親を討伐すべく、大坂で出征の準備を整えていた 20

このように、織田家の主要な軍団はすべて遠隔地でそれぞれの作戦に従事しており、信長の本拠地である畿内は、軍事的には一種の空白地帯となっていた。信長自身は、中国攻めに向かう秀吉への援軍を出す準備のため、わずかな手勢を率いて京の本能寺に滞在していた 20 。この畿内における権力の空白こそが、明智光秀に、主君信長を討つという、歴史を揺るがす謀反を実行させる千載一遇の好機を与えることになったのである 24

安土城は、このとき、信長の権威を一身に体現する静かな象徴として、主の凱旋を待っていた。しかし、その主が二度と帰ることはなかった。そしてこの城自身が、信長の死後、次なる天下の行方を占う、激しい権力闘争の舞台となる運命にあった。

第一部:激震(天正十年六月二日~四日)

信長の死は、瞬く間に畿内を震撼させた。天下布武の象徴であった安土城もまた、その例外ではあり得ない。主を失った巨城で繰り広げられた三日間の混乱と決断は、その後の歴史の潮流を大きく左右することになる。

第一節:六月二日―凶報と混乱

未明~早朝: 天正十年六月二日、払暁。京都本能寺は、一万三千と号する明智光秀の軍勢によって完全に包囲された 20 。信長は近習ら数十名と共に奮戦するも、衆寡敵せず。御殿の奥に篭り、自ら火を放って四十九年の生涯を閉じた 24 。ほぼ時を同じくして、信長の嫡男であり織田家の後継者であった織田信忠も、宿所の二条御新造で明智軍の猛攻を受け、自刃 20 。織田政権の中枢は、わずか半日にして壊滅した。

日中~午後: この未曾有の凶報は、飛脚によって安土城にもたらされた。城内は情報が錯綜し、凄まじい混乱と恐怖に包まれたであろうことは想像に難くない。このとき、安土城の留守居役を任されていたのは、蒲生賢秀であった 2 。賢秀はもともと南近江の六角氏に仕えた有力国人であったが、信長の上洛を機にその配下となり、忠実な武将として仕えてきた人物である 27 。彼は、信長と信忠という二人の主君を同時に失うという絶望的な状況下で、極めて重大な決断を迫られることになった。

夕刻~夜: 賢秀の目の前には、いくつかの選択肢があった。明智軍の来襲に備えて籠城するか、あるいは明智方に降るか。しかし、彼が選んだのはそのいずれでもなかった。賢秀は、城に残された信長の妻妾や子女ら、織田家の一族を保護し、自らの本拠地である日野城(現在の滋賀県蒲生郡日野町)へ退去することを決断したのである 2

この退去に際し、城内にいた女房衆などから、「この城の金銀財宝が敵の手に渡るのは無念である。城に火をかけ、財宝を持ち出しましょう」という進言がなされた。しかし賢秀はこれを毅然として退けたと、『信長公記』は伝えている。「天下無双の御名城を、我々の都合で焼くなど畏れ多いことである。また、この機に乗じて金銀を奪えば、欲に目が眩んだと天下の物笑いになるであろう」と諭し、放火と略奪を厳しく禁じた 29 。賢秀は息子の蒲生氏郷を先発させて日野城へ退去の準備を整えさせると、信長の夫人らに警護をつけ、静かに安土城を後にした 29

第二節:六月三日~四日―権力の空白地帯

蒲生賢秀一行が日野城へと向かった六月三日、安土城は完全に主を失った。物理的には何ら損傷を受けていない壮麗な城郭が、政治的・軍事的には完全な権力の空白地帯と化したのである。

一方、本能寺と二条御新造を制圧した明智光秀は、直ちに安土城の確保へと動いていた。しかし、彼の前には一つの障害が立ちはだかる。近江瀬田の国人・山岡景隆が光秀への与力を拒否し、瀬田の唐橋を焼き落として抵抗したのである 31 。これにより、光秀軍は琵琶湖を渡ることができず、安土への進軍を二日間足止めされることになった。

この予期せぬ遅延が、安土城に二日間の不気味な静寂をもたらした。支配者を失い、守る者もいなくなった城は、無防備な巨人のように横たわっていた。城下の治安は急速に悪化し、この混乱に乗じて一攫千金を狙う野盗や土民が、城内への侵入を窺っていた可能性も指摘されている 32 。信長の絶対的な権威によって保たれていた秩序は、その死と共に脆くも崩れ去ろうとしていた。

蒲生賢秀の決断は、歴史の大きな分岐点となった。信長への忠誠心ゆえに「天下の名城を焼くことはできない」とした彼の高潔な判断は、結果として、謀反人である明智光秀に、無傷の安土城という最高の政治的プロパガンダの舞台を提供してしまうという、極めて皮肉な結果を生むことになる。もし賢秀が城を焼いていれば、光秀は焼け跡しか手に入れられず、信長の権威を象徴する場所を利用することはできなかったであろう。賢秀の忠義の行動が、意図せずして光秀の簒奪計画を助ける形となったのである。この二日間は、「安土城の戦い」が物理的な戦闘ではなく、情報と象徴をめぐる心理戦であったことを如実に示している。城の価値は石垣や天主そのものではなく、「誰が支配しているか」という情報にあった。賢秀の退去によりその情報が「空白」となったことが、次の支配者を呼び込む強力な磁場を形成したのだ。


【表1】天正十年六月二日~十五日 主要人物・勢力の動向時系列表

日付

時刻

明智光秀軍(含:秀満)

羽柴秀吉軍

柴田勝家

織田信雄

蒲生賢秀

安土城の状況

6月2日

未明

本能寺を急襲、信長を討つ。続いて二条御新造を攻め、信忠も自害。

備中高松城にて毛利軍と対峙中。

越中魚津城を攻城中。

伊勢国にて待機。

安土城にて留守居役。

平穏。

午後

瀬田へ進軍するも、山岡景隆に瀬田の唐橋を落とされ足止め。

魚津城落城。

凶報を受け、城内の混乱を収拾。

凶報伝来、大混乱。

瀬田にて滞陣。

信長の妻子らを伴い、日野城への退去を決断。放火・略奪を禁じる。

蒲生賢秀の管理下。

6月3日

終日

瀬田の唐橋の修復を待つ。

魚津城の戦後処理。本能寺の変の報に接する。

日野城へ退去。

賢秀退去後、無主状態(権力の空白)。

6月4日

終日

近江へ向けて撤退を開始。

日野城に到着、籠城。

無主状態。

6月5日

終日

修復された橋を渡り、安土城に無血入城。城内の財宝を接収。

毛利氏との和睦交渉を開始。

日野城にて籠城。

明智光秀が占拠。

6月7日

終日

安土城にて朝廷からの勅使・吉田兼見を迎え、謀反の正当性を主張。

毛利氏と和睦成立。中国大返しを開始。

光秀の政治的拠点となる。

6月8日

終日

明智秀満を城代に残し、自身は坂本城へ移動。

姫路城へ向けて驚異的な速度で進軍。

明智秀満が守備。

6月12日

終日

秀吉軍接近の報を受け、山崎へ出陣。

摂津富田に到着。天王山に布陣。

守備兵力が出陣し、手薄になる。

6月13日

午後

山崎の合戦で秀吉軍に大敗。

山崎の合戦で勝利。

伊勢より軍勢を率いて近江へ向かう。

守備兵力不在。

深夜

小栗栖にて落ち武者狩りに遭い、討たれる。

無防備状態。

6月14日

終日

安土城から出陣した秀満軍が打出浜で敗北。坂本城へ退却。

無防備状態。

6月15日

未明

安土城付近に到着か。

天主・本丸より出火、炎上・焼失。


第二部:簒奪(天正十年六月五日~十二日)

権力の空白地帯と化した安土城に、新たな支配者が現れる。明智光秀は、この天下無双の城を単なる戦利品としてではなく、自らの新政権の正統性を確立するための政治的首都として活用しようと試みた。この一週間は、光秀が描いた天下構想が、つかの間の現実となった期間であった。

第一節:六月五日―無血の支配者

山岡景隆の抵抗によって二日間の遅れを余儀なくされた光秀であったが、六月四日には瀬田の唐橋が修復され、ついに安土への道が開かれた 31 。六月五日、光秀の軍勢は安土城下に到達し、抵抗を受けることなく城内へと入った 29 。蒲生賢秀が既に退去していたため、文字通りの無血入城であった。当時の奈良興福寺の僧、英俊が記した『多聞院日記』にも、四日には安土城が光秀に引き渡されたとの記述があり、この迅速な掌握が周辺に与えた衝撃の大きさを物語っている 33

安土城をその手に収めた光秀は、直ちに城内の金銀財宝を接収し、自らの居城である坂本城へ移送したとされる 35 。これは、目前に迫るであろう織田家宿老たちとの決戦に備えた軍資金の確保という極めて現実的な目的があった。しかし、それ以上に、信長が蓄積した富と権力を自らが完全に継承したことを内外に示す、象徴的な意味合いが強かった。信長の夢の結晶を手中に収めることで、光秀は自らが次なる天下人であることを宣言したのである。

第二節:六月七日―新政権の正統化

光秀の戦略の巧みさは、単なる武力による制圧に留まらなかった点にある。彼は、既存の権威、すなわち朝廷を利用して自らの行動を正統化しようと図った。本能寺の変の直後から、光秀は朝廷との接触を密に行っていた。

その政治的駆け引きの頂点となったのが、六月七日の出来事である。この日、光秀は安土城に、朝廷からの勅使として神官の吉田兼見を迎え入れた 21 。信長の絶対的権威の象徴であった安土城の、壮麗な御殿の一室で勅使に謁見するという行為は、自らの謀反が朝廷によって承認された「公的な政変」であると天下にアピールするための、計算され尽くした政治的パフォーマンスであった。これにより、光秀は単なる謀反人から、天下の秩序を再編する為政者へと、その立場を昇華させようとしたのである。兼見の日記『兼見卿記』によれば、光秀はこの場で兼見に対し、今回の挙兵に至った真意を語ったという 29 。彼はこの城を舞台に、自らの新政権構想を公にしたのだ。

第三節:六月八日~十二日―畿内制圧と迫る脅威

安土城を政治的拠点とした光秀は、畿内の地盤固めを急いだ。特に、織田家の支配が深く浸透していた近江の国人衆や土豪層の調略は急務であった。光秀は、多賀豊後守や布施忠兵衛といった使者を派遣し、「味方に付けば近江半国を与える」といった破格の条件を提示して、周辺勢力の切り崩しを図った 21 。信長の死によって動揺する在地領主たちを、巧みな外交手腕で自らの陣営に取り込もうとしたのである。

六月八日、光秀は一個の重要な軍事的決断を下す。彼は、最も信頼する重臣であり娘婿でもある明智秀満を安土城の守将として残し、自身は本拠地の坂本城へと移動した 31 。この配置の背後には、光秀の冷静な情勢分析があった。彼が最も警戒していたのは、北陸方面軍を率いる織田家筆頭家老・柴田勝家の南下であった 38 。北陸からの進軍路に近い安土城に、最も信頼できる秀満を置くことで、勝家の動きに備えようとしたのである。

しかし、光秀の計算には、一つの巨大な誤算があった。それは、中国地方で毛利氏と対峙していた羽柴秀吉の存在である。光秀が畿内で新政権の地盤を固めている、まさにその間隙を縫って、秀吉は驚くべき速さで歴史の舞台を駆け上がっていた。主君信長の死を知った秀吉は、即座に毛利氏と和睦を結ぶと、全軍を率いて京へ向けて反転した。世に言う「中国大返し」である。その進軍速度は、光秀の想定を遥かに超えるものであった 38

この期間は、まさしく時間との戦いであった。光秀は安土城という「静的」な権威の象徴を利用し、時間をかけて畿内を固めるという正攻法の戦略を取った。対する秀吉は、軍団の移動速度という「動的」な要素を最大限に活用し、光秀が築き上げた時間的猶予を打ち破ろうとした。安土城に留まり、新たな秩序を構築しようとする光秀と、その安土を目指して怒涛の如く驀進する秀吉。この対照的な構図が、この後の天下の趨勢を決定づけることになる。

第三部:炎上(天正十年六月十三日~十五日)

明智光秀が安土城で描いた天下構想は、あまりにも短命に終わる。中国地方から驚異的な速度で舞い戻った羽柴秀吉の軍勢が、光秀の前に立ちはだかったからだ。運命の決戦と、それに続く混乱は、信長の夢の結晶であった安土城を、紅蓮の炎の中へと葬り去ることになる。

第一節:六月十三日―山崎の決戦

天正十年六月十三日、羽柴秀吉軍と明智光秀軍は、京の南の玄関口である山崎の地で対峙した 31 。兵力で勝る秀吉軍は、地の利を得て光秀軍を追い詰める。

この決戦に際し、安土城の守将であった明智秀満は、主君の危機を座視することができなかった。彼は光秀本隊を後方から支援するため、安土城の守備兵力を率いて山崎へと出陣した 2 。この決断は、軍事的には当然の行動であったが、結果として安土城の運命を決定づけることになる。天下の名城は、その守備兵力のほとんどを失い、極めて手薄な状態に置かれたのである。

山崎での戦いは、午後四時頃に始まり、わずか二時間ほどで決着した 31 。秀吉軍の圧倒的な攻勢の前に光秀軍は総崩れとなり、敗走を余儀なくされる。そして同日深夜、再起を図るべく居城の坂本城を目指していた光秀は、山城国小栗栖の竹藪で落ち武者狩りの土民の襲撃に遭い、その生涯を終えた 31 。天下人への野望は、わずか十一日で潰えた。「三日天下」という言葉は、この故事に由来する。

第二節:六月十四日―敗残兵の退路

主君・光秀敗死の報は、各地に残る明智方の将兵に絶望的な衝撃を与えた。安土城から駆けつけた明智秀満の部隊もまた、十四日に近江打出浜(現在の大津市)で秀吉方の堀秀政軍と交戦し、敗北を喫した 32 。もはやこれまでと悟った秀満は、残存兵を率いて退路を求めた。

陸路での移動は困難と判断した秀満は、琵琶湖を船で渡り、明智家の本拠地である坂本城へ退却したと伝えられている 3 。有名な「明智左馬助の湖水渡り」の伝説が生まれたのも、この時の退却劇である。秀満が安土城を放棄し、坂本城へと向かったこの時点で、安土城は三度、主を失った。そして今度は、城下を統制する権力も、城を守る兵力も存在しない、完全な無防備状態に晒されることになったのである。

第三節:六月十五日―灰燼に帰す

運命の日は、静かに訪れた。六月十五日の未明、安土城から火の手が上がった。火元は、城の中枢である天主、そして本丸御殿付近であったとされる 2 。火は、折からの風に煽られたか、瞬く間に燃え広がり、信長が七年の歳月と国中の富を注ぎ込んで築き上げた、壮麗を極めた天主を舐め尽くした。地上六階、地下一階、内部は狩野永徳の筆による金碧障壁画で飾られ、最上階は金色に輝いていたという天下無双の楼閣は、わずか数時間のうちに巨大な火柱と化し、焼け落ちていった 14

この日の出来事について、京都の神官・吉田兼見は自身の日記『兼見卿記』に、「十五日、壬申、安土放火云々、自山下類火云々」と記している 32 。これは、十五日に安土で放火があったという噂と、山下からの延焼であったという噂、二つの情報が京都に伝わっていたことを示している。この記述は、安土城焼失の日付を特定する上で、最も信頼性の高い史料とされている。

しかし、この火災で焼失したのは、あくまで天主や本丸といった城の中心部であった。二の丸や家臣たちの屋敷曲輪などは焼失を免れ、城郭としての機能が完全に失われたわけではなかった 6 。それでも、織田信長の権威と夢の象徴であった天主が灰燼に帰したという事実は、人々に時代の終わりを強烈に印象付けた。明智秀満の「出陣」という軍事行動が、安土城焼失の直接的な引き金となったことは間違いない。彼が城に残っていれば、たとえ敗戦後であっても、野盗の侵入や偶発的な失火を防げた可能性は高い。彼の不在が、天下の名城を、誰の手によってとも知れぬ炎に身を任せる、無防備な「的」へと変えてしまったのである。

第四部:真相(安土城焼失の謎をめぐる考察)

誰が、なぜ、安土城に火を放ったのか。この問いは、本能寺の変そのものと並ぶ、戦国史最大のミステリーの一つとして、今日に至るまで多くの議論を呼んでいる。確固たる証拠が乏しい中、同時代の記録や後世の編纂物に残された断片的な記述を手がかりに、複数の説が提唱されてきた。それらを比較・検証することは、単なる犯人探しに留まらず、事件直後の権力者たちによる「歴史の物語化」の過程を浮き彫りにする作業でもある。


【表2】安土城焼失原因に関する諸説の比較検討表

提唱説

根拠となる主要史料

説の概要と論理

状況証拠および補強材料

矛盾点および反証

明智秀満放火説

『太閤記』(小瀬甫庵著)、『秀吉事記』など

山崎の戦いで敗れた秀満が安土城に退却し、秀吉軍に渡すことを潔しとせず、自ら火を放って坂本城へ逃れたとする。

秀吉政権下で編纂された書物に多く見られ、明智一族の非道さを強調する意図が見える。

秀満は13日に山崎、14日に打出浜で戦っており、15日に安土にいたとは考えにくい。坂本城では名宝を敵将に引き渡しており、文化財を無闇に破壊する人物像と矛盾する 6

織田信雄放火説

ルイス・フロイス『日本史』(イエズス会日本年報追加)

本能寺の変後、伊勢から軍を率いてきた信長の次男・信雄が、「暗愚であったため、なんらの理由もなく」天主や城、市に火を放ったとする。

フロイスは同時代人であり、その報告は貴重。清洲会議で信雄が失脚した一因として、この放火の責任を問われた可能性が指摘されている 32

「暗愚」という動機は主観的。残党狩りのための放火が延焼した、あるいは弟・信孝に城を渡したくなかった等の動機も考えられるが、いずれも推測の域を出ない 32

野盗・土民放火説

『兼見卿記』(吉田兼見著)

秀満軍が出陣し、城がもぬけの殻になった隙に、略奪目的で侵入した野盗や土民が、証拠隠滅や混乱に乗じて放火したとする。

支配者が不在となった権力の象徴は格好の略奪対象であり、当時の混乱した社会状況を考えると、極めて現実的な説 32

略奪が主目的ならば、なぜ天主や本丸という最も警備が厳重であったはずの中枢部が狙われ、焼失したのかという点に説明がつきにくい。

失火・類焼説

『兼見卿記』の「自山下類火云々」という記述

城下の民家などから発生した火事が、折からの強風で山上の天主まで燃え移ったとする説。

「類火」という直接的な記述が同時代史料にある。

山麓の火事が、なぜ山頂の天主や本丸だけに飛び火し、中腹の二の丸などが無事だったのか、という延焼経路に不自然な点がある 32


諸説の検証

説一:明智秀満放火説

この説は、江戸時代初期に成立した小瀬甫庵の『太閤記』などに記されていることから広く知られているが、現在ではその信憑性は低いと考えられている 32。最大の矛盾点は、秀満の行動記録との時間的・地理的な不整合である。前述の通り、秀満が安土城で放火したとされる六月十五日、彼は既に坂本城に籠城し、堀秀政の軍に包囲されていた 32。また、坂本城落城の際に見せた、光秀収集の名刀や茶器といった文化財を敵将に託すという彼の行動は、安土城を無意味に焼き払うという行為とは相容れない。この説は、豊臣秀吉の天下統一後、その正統性を高めるために、敵役である明智一族を「文化の破壊者」として描く、勝者による歴史の再構築、すなわちプロパガンダであった可能性が極めて高い。

説二:織田信雄放火説

イエズス会宣教師ルイス・フロイスが、同時代の見聞として「信長の子、信雄はふつうより知恵が劣っていたので、なんらの理由もなく、彼に邸と城を焼き払うよう命ずることを(デウスは)嘉し給うた」と記していることから、最も有力視される説の一つである 14。フロイスの記述は、第三者による客観的な記録として価値が高い。しかし、「暗愚だったから」という動機は、フロイスのキリスト教的価値観に基づく主観的な解釈である可能性も否定できない 41。より現実的な動機としては、①明智方の残党が城内に潜んでいると考え、炙り出すために放った火が制御不能となり延焼した 6、②父・信長亡き後の後継者争いにおいて、ライバルであった弟の織田信孝に、父の象徴である安土城を渡すことを嫌った、などが考えられる。いずれにせよ、後の清洲会議で信雄が政治的に失脚する一因として、この放火の責任が追及されたという説もあり 32、彼の周辺で何らかの火災に関する不手際があった可能性は高い。

説三:野盗・土民放火説

吉田兼見の『兼見卿記』を根拠とするこの説も、当時の社会情勢を鑑みれば十分に考えられる 32。信長の死と明智軍の敗走により、安土は一時的に無政府状態に陥った。権力の象徴であり、富の集積地でもあった安土城が、略奪の対象となったことは想像に難くない。秀満軍が出陣し、城がもぬけの殻となった状況は、彼らにとって絶好の機会であっただろう。略奪の過程で失火したか、あるいは証拠隠滅のために意図的に放火したというシナリオは、極めて現実的である。

安土城焼失の真相をめぐる議論は、単なる歴史の謎解きに留まらない。それは、事件直後の権力者たちによる「物語の構築」そのものを映し出す鏡である。秀吉は「明智=破壊者」という物語を、信雄の失脚を望む勢力は「信雄=暗愚な放火犯」という物語を必要とした。史料に残された記述の相違は、事実そのものの不確かさだけでなく、当時繰り広げられた激しい政治的プロパガンダの結果であると解釈することもできる。真実は、おそらくこれらの要因が複雑に絡み合った先にあり、今となっては特定の犯人を一人に断定することは困難である。しかし、この謎自体が、安土城の喪失がいかに大きな政治的意味を持っていたかを雄弁に物語っている。

第五部:遺産(焼跡が語る権力闘争)

天主を失い、黒い骸を天に晒した安土城。しかし、その物理的な価値が失われた後も、城が持つ象徴的な意味合いは、むしろ増大していった。焼跡と化した安土城は、信長亡き後の天下の覇権をめぐる、新たな権力闘争の舞台となったのである。それは、もはや石垣や建物を奪い合う戦いではなく、信長の後継者という「正統性」をめぐる、目に見えない戦いであった。

第一節:清洲会議と信雄の失墜

本能寺の変からわずか25日後の天正十年六月二十七日、織田家の宿老たちが尾張国清洲城に集い、信長亡き後の織田家の体制を決定する、いわゆる「清洲会議」が開かれた 44 。この会議の主要な議題は、信長の後継者問題と、その遺領の配分であった。

血筋から言えば、信長の次男である織田信雄は、兄・信忠が亡くなった今、最も有力な後継者候補の一人であった 32 。しかし、会議の主導権を握ったのは、山崎の合戦で光秀を討ち、主君の仇討ちという最大の功績を挙げた羽柴秀吉であった。秀吉は、信忠の遺児である三法師(後の織田秀信)を新たな織田家当主として擁立することを主張し、これを認めさせた。

信雄がこの会議で主導権を握れず、結果的に秀吉の台頭を許した背景には、様々な要因があるが、その一つとして「父・信長の象徴である安土城を焼いた責任」を問われた可能性が、複数の史料や研究で指摘されている 32 。フロイスの記述が事実か否かは別として、安土城焼失の直後に信雄の軍勢が現地にいたことは事実であり、彼が城の管理責任を問われたとしても不思議ではない。安土城の焼失は、単なる建物の損失に留まらず、信雄の当主としての器量や政治的資質を問う格好の材料として、秀吉ら政敵によって巧みに利用されたのである。物理的な事件が、直接的に権力闘争の力学を大きく変化させた瞬間であった。

第二節:秀吉の権力掌握と安土の象徴性

清洲会議で三法師の後見人という立場を手に入れた秀吉は、自らが信長の路線を継承する正統な後継者であることを天下に示すため、安土城の持つ象徴性を最大限に利用しようとした。

秀吉の構想は、幼い三法師を安土城に入城させ、そこを名目上の政権本拠地とすることで、自らが事実上の最高権力者として君臨するというものであった 40 。秀吉は丹羽長秀に命じ、三法師を迎えるために安土城の普請を急がせている 40 。これは、物理的な城の再建以上に、「安土城=織田政権の本拠地」という絶大なブランドイメージを手に入れるための、高度な政治戦略であった。

これに対し、清洲会議で秀吉と対立した柴田勝家や、三法師の後見役の一人であった織田信孝は、この動きを強く警戒した。彼らは、畿内の情勢が安定するまで三法師の安土入りを延期するよう主張し、秀吉の権力掌握を阻止しようと試みる 40 。焼失した安土城は、いわば「空虚な玉座」として、信長の後継者を自認する者たちの間で、激しい政治的駆け引きの対象となったのである。

第三節:夢の終焉と新たな時代の幕開け

賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、織田家中の実権を完全に掌握した秀吉であったが、彼が新たな天下の中心として選んだのは、安土ではなかった。秀吉は、水運の便に優れ、経済の中心地であった摂津国大坂に、安土城を遥かに凌駕する壮大な大坂城の築城を開始する。これにより、信長が構想した、近江・琵琶湖を中心とする天下統治の時代は、名実ともに終わりを告げた 14 。安土城が再建されることはなく、城下町も八幡山城下(現在の近江八幡市)へ移転され、急速に寂れていった 39

しかし、安土城が歴史に残した遺産は、決して消え去ったわけではなかった。信長がこの城で確立した、権威の象徴としての壮大な天主、政治的意図を込めた城郭の構造、そして城と城下町を一体的に整備する都市計画といった革新的な思想は、後の城郭建築に決定的な影響を与えた 1 。秀吉の大坂城や伏見城、そして徳川家康の江戸城へと至る、近世城郭の発展の系譜は、まさしく安土城から始まったのである。

安土城は物理的には失われた。しかし、その理念は、次代の天下人たちの城へと確かに受け継がれていった。焼跡となった安土城は、信長個人の夢の終わりであると同時に、日本の城郭史、ひいては政治史における新たな時代の幕開けを告げる、静かな記念碑として、その後の歴史を見つめ続けることになったのである。

結論:夢の跡―安土城が変えた歴史

天正十年六月二日の本能寺の変から、同十五日の安土城焼失までのわずか十三日間。この間に繰り広げられた「安土城の戦い」とは、鉄砲や槍が火を噴く大規模な攻城戦が行われたわけではない、極めて特殊な「戦い」であった。それは、情報、権威、そして象徴をめぐる激しい心理戦であり、次代の覇権を賭けた高度な政治闘争であった。

本報告書で詳述したように、この歴史的事件は、幾人もの登場人物の思惑と決断が複雑に絡み合った結果であった。主君への忠誠心から城の焼失を拒んだ蒲生賢秀。信長の権威を継承すべく安土城を政治利用した明智光秀の野心。主君の仇討ちという大義名分を掲げ、驚異的な速度で歴史の舞台を駆け上がった羽柴秀吉。そして、父の遺産の継承者でありながら、その象徴を失う一因を作ったと目される織田信雄。彼らの行動が連鎖し、天下にその威容を誇った名城を、わずか築城から六年、天主完成から三年という短期間で灰燼に帰させたのである。

安土城の焼失は、単に一つの壮麗な建造物が失われたという以上の、決定的な意味を持っていた。それは、織田信長という絶対的な個人のカリスマによって支えられていた統治体制の終焉を、誰の目にも明らかな形で告げる狼煙であった。信長の権威の象徴が物理的に消滅したことで、織田家中の権力均衡は崩壊し、諸将による実力主義の覇権争いが一気に加速した。その最大の受益者こそ、仇討ちの功労者として、そして信長路線の継承者として自らを巧みに演出した羽柴秀吉であった。安土城の焼跡の上に、豊臣政権への道が拓かれたと言っても過言ではない。

しかし、失われた天主は、その革新的な思想をもって、後の日本の歴史の中に生き続けている。防御一辺倒であった中世城郭から、統治と権威の象徴である近世城郭へ。安土城が成し遂げたこのパラダイムシフトは、後の大坂城や江戸城に受け継がれ、日本の都市と社会のあり方を大きく変えていった。

安土城は、その壮麗な姿と悲劇的な最期によって、戦国という激動の時代の終わりと、新たな統一政権による時代の始まりを告げる、永遠の象徴として歴史にその名を刻んでいる。今なお安土山に残る石垣の遺構は、信長が見た夢の跡であり、日本の歴史が大きく転換した、あの十三日間の激動を静かに物語っているのである。

引用文献

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