最終更新日 2025-08-28

安城城の戦い(1540年代)

尾張・駿河の狭間で:安城合戦(天文九年~十八年)全史――三河の要衝を巡る十年戦争のリアルタイム詳解

序章:嵐の前の三河――安城城を巡る地政学的状況

戦国時代の日本列島が群雄割拠の様相を呈していた天文年間(1532年~1555年)、東海地方に位置する三河国は、西の尾張国と東の駿河国という二大勢力の狭間で、その存亡を賭けた激しい動乱の渦中にありました。この時代、三河中西部の要衝・安城城(あんじょうじょう)を巡って繰り広げられた約10年間にわたる一連の攻防、すなわち「安城合戦」は、単なる局地的な城の争奪戦ではありません。それは、後の天下人・徳川家康の父祖である松平氏の苦難、尾張の虎・織田信秀の膨張政策、そして海道一の弓取り・今川義元の深謀遠慮が交錯する、戦国史の縮図とも言うべき重要な戦いでした。本稿では、この安城合戦の全貌を、あたかも戦場の霧の中からリアルタイムで事態の推移を追うかのように、時系列に沿って詳細に解説します。

1-1. 松平氏の権威失墜と三河の混乱

安城合戦の直接的な引き金は、三河国主であった松平氏の急激な弱体化にありました。徳川家康の祖父にあたる松平清康は、卓越した軍事・政治能力で分裂していた三河をほぼ統一し、松平家の権勢を絶頂に導いた人物です 1 。しかし天文4年(1535年)、尾張遠征の陣中において、突如として家臣に殺害されるという悲劇に見舞われます。世に言う「守山崩れ」です 1

この事件は、松平宗家の求心力を根底から揺るがしました。清康の嫡男・広忠(家康の父)は当時わずか10歳であり、この機に乗じた大叔父の松平信定に本拠地・岡崎城を追われ、伊勢や遠江を流浪するという苦難を強いられます 2 。数年後、今川氏の支援を得て岡崎城への復帰は果たしたものの、一度失われた権威は容易には回復しませんでした。広忠の支配は常に不安定であり、一族の中には叔父の松平信孝のように公然と広忠に反旗を翻し、西の織田信秀に通じる者まで現れる始末でした 6 。松平家臣団はもはや一枚岩ではなく、親今川派と親織田派に分裂し、三河国内は深刻な内乱状態に陥っていたのです。この「力の空白」こそが、隣接する二大勢力の介入を招き寄せる最大の要因となりました。

1-2. 両雄の野心:尾張の織田信秀と駿河の今川義元

松平氏が内紛に喘ぐ中、西の織田信秀と東の今川義元は、それぞれ三河への野心を露わにしていました。

尾張下四郡の守護代の家臣という低い身分から成り上がり、尾張統一を進めていた織田信秀にとって、三河は自身の領国の東側に隣接する極めて重要な地域でした。東の今川氏との間に緩衝地帯を設けることは、背後の安全を確保し、北の美濃国攻略に全力を傾けるための絶対条件だったのです 8 。信秀の戦略において、三河は単なる征服目標ではなく、より大きな天下戦略を遂行するための戦略的縦深を確保する上で不可欠な存在でした。

一方、駿河・遠江二国を支配下に置く名門・今川家の当主、今川義元もまた、三河を自身の勢力圏に組み込むことを宿願としていました。足利将軍家の一門という高い家格を誇る義元にとって、父祖伝来の領地に加え、三河を完全に掌握することは、京へ向かって上洛の軍を起こすための兵力と経済基盤を固める上で欠かせないステップでした 8 。弱体化した松平氏を保護下に置き、事実上の属国とすることは、その遠大な計画の第一歩に他なりませんでした。

このように、安城合戦の背景には、織田信秀の「西進政策」と今川義元の「東海道制覇」という、二人の戦国大名の野望が真正面から衝突する地政学的な必然性があったのです。

1-3. 要衝・安城城の戦略的価値

両雄の野望が交錯する三河において、その戦略的な焦点となったのが安城城でした。永享12年(1440年)に和田親平によって築かれたとされるこの城は 12 、かつて松平清康が岡崎城へ本拠を移すまで、安城松平家四代の居城として栄えた名城です 13

その戦略的価値は、まず第一に地理的優位性にありました。安城城は、安城が原の東端に位置する台地上の平山城であり、西三河平野を一望できる軍事上の要衝でした 12 。また、三河を南北に貫く矢作川流域の交通路を押さえる位置にあり、ここを支配することは、松平氏の本拠・岡崎城と、織田氏の尾張を結ぶラインを維持、あるいは分断することを意味しました 16 。織田方にとっては三河侵攻の最前線基地となり、松平・今川方にとっては岡崎城防衛の最重要拠点となる、まさに「喉元に突きつけられた匕首」のような存在だったのです。

第二に、経済的な価値も無視できません。矢作川流域は古来より豊かな穀倉地帯であり、三河国の経済的な中心地の一つでした 17 。後の太閤検地における三河国の石高は約29万石とされていますが 20 、その中核地帯を支配することは、軍事行動を支える経済力を確保する上でも極めて重要でした。

城郭構造としては、本丸を中心に二の丸、三の丸が配置され、周囲を堀と土塁で固めた、当時の標準的な城砦でした 12 。近年の発掘調査では、戦国時代のものとされる堀や土塁の遺構が確認されており、幾度となく繰り広げられた攻防戦の激しさを今に伝えています 23

合戦開始時点での三者の力関係は、以下の表に示す通り、松平氏がいかに絶望的な状況に置かれていたかを如実に物語っています。

表1:主要三勢力(織田・松平・今川)の比較分析(天文九年時点)

項目

織田家

松平家

今川家

当主

織田信秀

松平広忠

今川義元

本拠地

那古野城(尾張)

岡崎城(三河)

駿府館(駿河)

支配国

尾張(ほぼ統一)

三河(一部)

駿河・遠江

推定石高

約57万石

約5~10万石(不安定)

約40万石

最大動員兵力

10,000~15,000

1,000~2,000

10,000~20,000

主要家臣

織田信光、平手政秀など

本多忠豊、酒井正親など

太原雪斎、朝比奈泰能など

外交方針

北(美濃)と東(三河)への勢力拡大

織田・今川間の勢力均衡による生存模索

三河の完全属領化と西上作戦の準備

第一幕:尾張の虎、牙を剥く――天文九年、第一次安城合戦

松平氏の内紛と弱体化を好機と見た織田信秀は、ついに三河への本格的な軍事侵攻に踏み切ります。天文9年(1540年)、安城城に最初の戦火が上がりました。

2-1. 天文九年(1540年)六月:織田信秀、侵攻開始

この年、織田信秀は満を持して約三千の兵を率い、三河国へ侵攻しました 26 。この軍勢には、当時織田方に与していた知多半島の国人領主、刈屋城主・水野忠政も加わっていました 27 。信秀がこのタイミングで侵攻を決断した背景には、松平広忠が当時まだ15歳と若く、家中の統率が完全に取れていないことを見抜いていた点が挙げられます 3 。まさに、敵の弱点を見据えた的確な一撃でした。

2-2. 安城城の攻防:リアルタイム描写

織田軍の目標は、三河支配の楔を打ち込むための最重要拠点、安城城でした。この時、城を守っていたのは松平一族の長老格であった松平長家。援軍をかき集めても、その兵力は千ほどに過ぎず、織田軍の三分の一にも満たない劣勢でした 26

開戦

絶望的な兵力差を前に、長家は籠城という選択をしませんでした。籠城しても援軍の見込みは薄く、兵糧も十分ではなかったのでしょう。彼は一か八かの賭けとして、城外での決戦を選びます 26。松平武士の意地と誇りをかけ、果敢に織田の大軍に野戦を挑んだのです。

激戦

戦端が開かれると、松平勢は寡兵ながらも奮戦し、一時は織田軍を押し返すほどの猛攻を見せました。しかし、三倍という圧倒的な兵力差は、個々の武勇だけでは覆せません。時間が経つにつれて松平勢は次第に消耗し、織田軍に押し込まれていきます。この激戦の中で、広忠の弟である松平信康や、松平康忠といった一族の主だった武将たちが次々と討死していきました 26。

落城

ついに城将・松平長家も奮戦の末に討ち取られ、指揮官を失った松平軍は総崩れとなります。この戦いで両軍合わせて千人以上の死者が出たとされ、その遺体を葬ったとされる「千人塚」や「東条塚」が今も安城市内に残り、当時の激戦を物語っています 28。城主を失った安城城は、こうして織田信秀の手に落ちました 26。

2-3. 織田による橋頭堡の確立

安城城を攻略した信秀は、ここを三河支配の恒久的な拠点とすべく、城代として自身の庶長子である織田信広を配置しました 10 。この人選は、信秀の三河経営に対する強い意志の表れでした。信広は、美濃の斎藤道三との政略結婚が内定していた嫡男・信長とは異なり、純粋な軍事拠点の司令官として配置できる、いわば実戦部隊の長でした。この配置により、安城城は単なる前線基地から「織田家三河方面軍司令部」としての性格を帯び、松平氏のみならず、その背後にいる今川氏に対する直接的な牽制という重要な役割を担うことになったのです。

さらに織田氏は天文12年(1543年)、岡崎城と矢作川を挟んで対峙する位置に山崎城を新たに築城し、松平氏から寝返った松平信孝を城主としました 35 。これにより、岡崎の松平広忠は、西の安城城と北の山崎城から挟撃される形となり、喉元に二本の刃を突きつけられたに等しい、極めて危険な状況に追い込まれたのです。第一次安城合戦の終結は、三河を巡る争いが、松平氏の局地的な防衛戦から、織田対今川の全面対決へと構造的に変化した瞬間でした。

第二幕:雌伏と苦悩の歳月――松平広忠の挑戦と挫折

安城城を失い、存亡の危機に立たされた松平広忠は、苦難の中で活路を見出そうと必死にもがきます。しかし、その試みはさらなる悲劇を呼び込むことになります。

3-1. 揺れ動く周辺勢力と第一次小豆坂の戦い(天文11年、1542年)

孤立を深める広忠は、織田の圧力に対抗するため、外交に活路を見出します。当初は織田方として安城城攻めに加わっていた刈屋城主・水野忠政が、今川方へと転じたのを機に同盟を締結。その証として、忠政の娘・於大の方を正室に迎えました 27 。この婚姻によって、天文11年(1542年)12月26日、後に徳川家康となる嫡男・竹千代が岡崎城で誕生します 2

時を同じくして、三河への織田勢力の伸長を座視できない今川義元も大軍を派遣。天文11年8月、岡崎城の南東に位置する小豆坂で、織田信秀率いる軍勢と激突しました。これが「第一次小豆坂の戦い」です 10 。この戦いの勝敗については、『信長公記』などが織田方の勝利を伝える一方で、今川方の勝利とする史料も存在し、見解が分かれています 38 。織田信光ら「小豆坂七本槍」の活躍が伝えられる一方で 40 、決定的な勝敗はつかず、両軍ともに損害を出して兵を引いた、というのが実情に近いのかもしれません。

しかし、広忠にとっての光明は長くは続きませんでした。天文12年(1543年)、同盟相手であった水野忠政が死去。跡を継いだ息子の水野信元は、今川の将来性よりも、地理的に近く、勢いに乗る織田信秀に付くことを選び、再び織田方へと寝返ります 2 。これにより、広忠は敵対勢力となった水野家出身の於大の方を妻として留め置くことができなくなり、断腸の思いで離縁を余儀なくされました 2 。竹千代はわずか3歳で母と生き別れることとなり、広忠は再び外交的な孤立状態へと逆戻りしてしまったのです。

3-2. 天文十四年(1545年)九月:第二次安城合戦

内憂外患に苦しむ広忠のもとに、一筋の光明が差します。宿敵・織田信秀が美濃攻めで斎藤道三に大敗を喫した、という情報でした。広忠はこれを千載一遇の好機と捉え、失地回復、すなわち安城城の奪還を決意します 29 。これは、今川の力を借りるのではなく、自らの力で劣勢を挽回しようとする、広忠の意地をかけた戦いでした。

天文14年9月、広忠は兵を率いて岡崎城を出陣。安城城へと軍を進めます。しかし、この決断は戦略的に見て極めて甘いものでした。美濃での敗戦は事実であったものの、織田軍の組織的な継戦能力は広忠の想像を遥かに超えていました。広忠の軍が安城城に迫ると、城兵が城から打って出ると同時に、尾張からの迅速な後詰め(援軍)が出現。松平軍は、安城城兵と織田の援軍に前後から挟撃されるという、最悪の事態に陥ってしまったのです 26

たちまち松平軍は混乱に陥り、総崩れとなります。もはや組織的な抵抗は不可能となり、広忠自身も討死を覚悟せざるを得ない状況にまで追い詰められました 30

3-3. 忠臣の鑑:本多忠豊の犠牲

まさにその絶体絶命の瞬間、一人の老臣が広忠の前に進み出ました。徳川四天王・本多忠勝の祖父にあたる、本多平八郎忠豊です。忠豊は、討死を覚悟する広忠を諌めると、主君の馬印である金の扇を自らが受け取り、大音声で名乗りを上げて敵陣の真っただ中へと突撃していきました 28

織田軍は、馬印を掲げる忠豊を広忠本人と誤認し、攻撃を集中させます。全軍の注意が忠豊に引きつけられている、そのわずかな時間。広忠と残存兵は、この隙を突いて戦場を離脱し、九死に一生を得て岡崎城へと退却することができたのです 26

主君の身代わりとなった本多忠豊は、敵中で獅子奮迅の働きを見せた後、この地で壮絶な討死を遂げました 49 。この忠豊の自己犠牲は、単なる美談として語られるべきではありません。これは、主君の戦略的失敗という穴を、家臣が自らの命をもって埋めるという、弱小勢力特有の悲劇的な構造を象徴しています。しかし、逆説的に、このような極限状況における「犠牲」こそが、松平家臣団の結束をより一層強固なものにしました。「主君のために命を捧げることこそが武士の最高の誉れである」という価値観が、この苦難の時代を通じて醸成されていったのです。後の徳川家康を支えた精強無比な三河武士団の精神的支柱は、第二次安城合戦における忠豊の死をはじめとする、数多の犠牲の上に築かれたものでした。

第三幕:麒麟児、今川の手に――竹千代、人質となる

第二次安城合戦の惨敗は、松平広忠に厳しい現実を突きつけました。もはや自力で織田信秀に対抗することは不可能である、と。この認識が、松平家の運命を、そして竹千代の運命を大きく変える決断へと繋がっていきます。

4-1. 孤立無援の広忠、今川への完全従属

独力での領土回復を断念した広忠に残された道は、ただ一つ。駿河の今川義元に庇護を求め、その軍門に降ることでした。広忠は今川氏に使者を送り、織田氏の脅威から岡崎城を守ってくれるよう、全面的な支援を要請します 6

この申し出に対し、今川義元は支援を受諾する条件として、極めて厳しい要求を突きつけます。それは、広忠の唯一の嫡男であり、松平家再興の希望である竹千代を、人質として駿府に送ることでした 2 。これは単なる同盟の証ではありません。松平家の家督継承者を今川家が預かることで、松平氏を完全に今川家の支配下に組み込み、三河を事実上の属領とするための、決定的な一手だったのです。

4-2. 天文十六年(1547年):戸田康光の裏切り

広忠は、家臣団の反対を押し切り、この屈辱的な要求を呑むことを決断します。我が子を人質に出してでも、家名を存続させる道を選んだのです。天文16年、わずか6歳の竹千代は、岡崎の家臣たちに見送られ、駿府へと旅立ちました 5

しかし、この旅路で松平家をさらなる悲劇が襲います。竹千代一行の護送を担っていた三河湾岸の国人領主、田原城主の戸田康光が、金銭に目がくらんだのか、あるいは織田信秀からの調略に応じたのか、突如として裏切ります。康光は一行の進路を変え、竹千代の身柄を駿府ではなく、敵である尾張の織田信秀のもとへと引き渡してしまったのです 6

この裏切りは、単なる一個人の背信行為として片付けられるものではありません。それは、織田と今川という二大勢力の間で、常に有利な側につこうと揺れ動く三河国衆の現実を浮き彫りにしています。戸田氏にとっては、今川の支配が三河全土に及ぶよりも、織田と手を結ぶ方が自家の利益になると判断したのでしょう。この事件は、広忠が自らの勢力圏内の国人領主すら完全に掌握できていなかったことの痛恨の証明となりました。

4-3. 織田の人質となった竹千代と第二次小豆坂の戦い

松平家の跡継ぎを手に入れた織田信秀は、これを絶好の機会と捉えます。広忠に対し、「息子が惜しくば、今川との手を切り、織田に降れ」と、降伏を勧告しました。しかし、広忠は「たとえ我が子が目の前で殺されようとも、信義を違えることはできぬ」と、この要求を毅然として拒絶します。

この広忠の態度に、今川義元は感じ入ると同時に、織田への怒りを募らせました。また、竹千代を奪われたことで、今川の三河における権威は大きく揺らぎました。この状況を打開すべく、義元は再び三河への大軍派遣を決定。天文17年(1548年)3月、再び小豆坂が戦場となります 11

この「第二次小豆坂の戦い」において、今川軍の総大将を務めたのは、義元が絶大な信頼を寄せる軍師・太原雪斎でした。雪斎の巧みな用兵の前に織田軍は為す術なく大敗を喫し、信秀は安城城へと敗走します 30 。この戦いの勝利により、今川・松平連合軍は三河における軍事的主導権を奪い返し、織田の勢いを一時的にではあるものの、大きく削ぐことに成功しました。

竹千代が織田の人質となったこの事件は、彼の戦略的価値を劇的に変化させました。今川にとっての「同盟の証」であった竹千代は、織田にとって松平家臣団を揺さぶるための「外交カード」となったのです。そして、今川義元と太原雪斎にとって、この「カード」を無力化し、竹千代を奪還することは、三河支配を盤石にするための最重要戦略目標となりました。この政治的要請が、次なる安城城攻めの様相を決定づけることになります。

第四幕:雪斎、動く――天文十八年、第三次安城合戦と織田信広の捕縛

第二次小豆坂の戦いでの勝利は、松平・今川方にとって束の間の安堵をもたらしました。しかし、その直後、松平家を根底から揺るがす事件が発生します。そして、この危機を好機へと転換すべく、今川の軍師・太原雪斎が動きます。

5-1. 天文十八年(1549年)三月:松平広忠、非業の死

天文18年3月、岡崎城内において、松平広忠が近臣の岩松八弥によって刺殺されるという凶行が発生しました 26 。享年24。父・清康と同じく、若くして家臣の裏切りによって命を落とすという、あまりにも悲劇的な最期でした。この暗殺の背後には、織田信秀による謀略があったとも囁かれています 56

当主を失い、跡継ぎは敵国の人質となっている。この松平家最大の危機は、今川氏にとっても三河支配の基盤を失いかねない深刻な事態でした。岡崎城が織田方に寝返るか、あるいは家臣団が分裂して自壊するかは、もはや時間の問題でした。

5-2. 今川義元の電光石火の介入

この報に接した今川義元の対応は、驚くほど迅速かつ的確でした。彼はこの危機を、むしろ三河を完全に直接支配下に置く絶好の機会と捉え、即座に行動を起こします。義元は、軍師・太原雪斎を総大将として、二万余と号する大軍を三河へ派遣しました 10

雪斎に与えられた任務は多岐にわたりました。第一に、岡崎城に入り、動揺する松平家臣団を掌握し、今川の支配を確立すること。第二に、この軍事力を背景に、長年の懸案であった安城城を完全に攻略すること。そして第三に、最も重要な目標として、織田方の人質である竹千代と交換可能な価値を持つ重要人物、すなわち安城城代・織田信広を生け捕りにすることでした。

5-3. 第三次安城合戦:攻城戦のリアルタイム描写

雪斎率いる今川・松平連合軍は、岡崎を固めた後、安城城へと進軍。城を幾重にも包囲し、完全な孤立状態に陥れます。城を守る織田信広の手勢は、わずか八百ほどでした 26

第一波攻撃と本多忠高の死

攻撃の火蓋が切られると、父祖の地を奪回せんと燃える松平勢が、我先にと城へ殺到しました。この猛攻の先鋒に立ったのが、かつて主君・広忠を救うために討死した本多忠豊の嫡男、本多忠高(忠勝の父)でした 53。忠高は父の仇を討たんと獅子奮迅の働きを見せ、敵の頑強な抵抗を打ち破り、本丸近くまで攻め込みます。しかし、あと一歩というところで敵の放った矢に胸を射抜かれ、父と同じく安城城の露と消えました 28。本多平八郎家は、親子二代にわたって、主家のためにその命を安城の地に捧げたのです。

雪斎の攻城戦術

初日の攻撃で、忠高を討ち取るほど城方の抵抗が激しいことを見て取った雪斎は、力押しだけでは損害が大きいと判断したのでしょう。彼は力攻めを続けつつも、兵糧攻めや心理戦を巧みに併用し、城兵の士気を徐々に削いでいったと考えられます。文献には、この戦いで火縄銃が使用されたとの記録もあり 16、当時の最新兵器が投入された高度な攻城戦であったことがうかがえます。焙烙玉のような手榴弾も、城内に投げ込まれ、火災や混乱を引き起こしたかもしれません 61。

落城と織田信広の捕縛

雪斎による執拗かつ多角的な攻撃の前に、寡兵で籠る織田軍は次第に疲弊していきます。そして数日間にわたる攻防の末、ついに安城城は陥落。城代であった織田信広は、脱出することも、討死することも叶わず、今川軍の捕虜となりました 26。太原雪斎は、本多忠高という大きな犠牲を払いながらも、最大の戦略目標であった「織田信広の捕縛」を、見事に成し遂げたのです。

終章:運命の交換、そして新たな序章へ

第三次安城合戦の終結は、軍事的な決着であると同時に、高度な外交交渉の始まりを意味しました。安城城の攻防は、ついに最終局面を迎えます。

6-1. 外交交渉:織田信秀の決断

捕虜とした織田信広を伴い、太原雪斎は織田信秀に対し、歴史的な取引を持ちかけます。すなわち、織田信広の身柄と、織田家が人質として預かる松平竹千代との交換です 59

この提案に対し、織田家中は揺れました。若き日の織田信長をはじめとする強硬派は、「信広は庶兄にすぎない。彼を見殺しにしてでも、松平家の跡取りである竹千代を殺害し、後顧の憂いを断つべきだ」と主張したとも伝えられています 65 。これは、非情なれど戦略的には合理的な判断でした。

しかし、信秀は最終的にこの強硬論を退け、人質交換を受諾します 59 。長年、自らの手足となって最前線で戦ってきた息子を見捨てることはできなかったのでしょう。この決断は、信秀が単なる冷徹な戦略家ではなく、人の親としての情も持ち合わせていたことを示しています。そして、この人間的な判断が、結果として日本の歴史を大きく左右することになりました。もし信秀が非情な決断を下していれば、竹千代はその場で殺害され、「徳川家康」という存在は歴史の舞台から永遠に姿を消していたのです。

6-2. 西野での人質交換

天文18年(1549年)11月、安城城の西に位置する西野の地(一説には熱田の笠寺)で、運命の人質交換が実行されました 33

織田信広は無事に尾張へと帰還しました 66 。一方、竹千代は父の死に目に会うことも、懐かしい岡崎城の土を踏むことも許されませんでした。彼は忠義の松平家臣たちと涙の再会を果たした後、そのまま駿府へと送られ、今川家の人質として、さらに長い少年期を過ごすことになります 30

6-3. 安城合戦の終結と三河の勢力図

この人質交換をもって、天文9年から約10年間にわたって繰り広げられた安城城を巡る一連の争奪戦、「安城合戦」は、今川・松平方の完全勝利という形で幕を閉じました 28

安城城には今川家の譜代家臣が城代として置かれ、三河国は名実ともに今川氏の属領と化しました 34 。織田氏の三河における影響力はほぼ一掃され、尾張と三河の国境線は、一時的な安定期を迎えます 11

この合戦の短期的な勝者は、疑いなく今川義元でした。彼は三河を完全に手中に収め、織田信秀の東進を食い止めるという戦略目標を達成したのです。しかし、歴史は皮肉な結末を用意していました。義元は、松平家の正統な後継者である竹千代を手元に置き、今川の文化と軍学を叩き込むことで、将来にわたって三河を安定的に支配するための「投資」を行いました。しかし、この人質生活こそが、家康に忍耐力と、今川家の内情を冷静に観察する機会を与えたのです。安城合戦の終結は、今川家の栄華を決定づけると同時に、その勝利が11年後の桶狭間における悲劇的な敗北、そして徳川家康の自立という、新たな物語の序章を準備する結果となったのです。

考察:安城合戦の歴史的意義

約10年間にわたる安城合戦は、戦国史においていくつかの重要な意義を持っています。

7-1. 戦国期国衆の生存戦略モデルとして

松平広忠の生涯は、強大な二大勢力に挟まれた中小領主、すなわち「国衆」が、いかにして生き残りを図ったかを示す典型例と言えます。彼は婚姻、同盟、従属、そして時には裏切りといった、あらゆる外交カードを駆使して家の存続を図りました。しかし、最終的には大国の戦略に翻弄され、自らの意志とは無関係に運命を左右される姿は、戦国乱世の非情さと厳しさを如実に物語っています。

7-2. 三河武士団の精神的形成

本多忠豊・忠高親子二代にわたる壮絶な討死は、安城合戦が松平家臣団に与えた影響を象徴しています。度重なる敗戦と、主君一家の離散という苦難の経験は、彼らに強固な団結心と、主君のためには自らの命をも厭わないという、自己犠牲的な忠誠心を植え付けました 69 。この時代に培われた「三河武士」の粘り強さと忠義の精神がなければ、後の徳川家康による天下統一は成し得なかったでしょう。

7-3. 徳川家康の人間形成への影響

安城合戦の渦中で、徳川家康は母と生き別れ、父と死別し、幼くして敵国の人質となりました。この過酷な経験は、彼の忍耐強く、慎重で、そして極めて現実的な性格を形成する上で、決定的な影響を与えたことは間違いありません。安城合戦の一連の出来事は、天下人・徳川家康の人間性を理解する上での原点と言えるのです。

7-4. 桶狭間の戦いへの伏線

安城合戦の結果、今川義元は三河国を完全に掌握し、西への憂いを断ち切ることに成功しました。これにより、彼は安心して大軍を率いて尾張へ侵攻し、上洛の途につくことが可能となったのです 9 。その意味において、安城合戦の終結は、戦国史を大きく転換させることになる「桶狭間の戦い」の開始を告げる、運命のゴングであったと言えるでしょう。


付録

表2:安城合戦 年表(天文九年~十八年)

年月

出来事

主要関連人物

結果・影響

天文9年 (1540) 6月

第一次安城合戦

織田信秀、松平長家

織田軍が勝利し安城城を占領。城代に織田信広を置く。

天文10年 (1541)

松平広忠、於大の方と婚姻

松平広忠、水野忠政、於大

松平・水野同盟が成立。

天文11年 (1542)

第一次小豆坂の戦い

織田信秀、今川義元

勝敗は諸説あり。決着はつかず。

天文11年 (1542) 12月

竹千代(徳川家康)誕生

松平広忠、於大

松平家の後継者が誕生。

天文12年 (1543)

水野信元、織田方へ寝返る

水野信元、松平広忠

広忠は於大の方と離縁。松平氏は再び孤立。

天文14年 (1545) 9月

第二次安城合戦

松平広忠、本多忠豊

松平軍が大敗。本多忠豊が広忠の身代わりとなり討死。

天文16年 (1547)

竹千代、人質として送られる

松平広忠、竹千代、戸田康光

戸田康光の裏切りにより、竹千代は織田信秀の人質となる。

天文17年 (1548) 3月

第二次小豆坂の戦い

太原雪斎、織田信秀

今川・松平連合軍が圧勝。三河での軍事的優位を確保。

天文18年 (1549) 3月

松平広忠、暗殺される

松平広忠、岩松八弥

松平家は当主を失い、最大の危機を迎える。

天文18年 (1549)

第三次安城合戦

太原雪斎、織田信広、本多忠高

今川軍が安城城を攻略。本多忠高が討死。織田信広を捕縛。

天文18年 (1549) 11月

人質交換の成立

織田信広、竹千代

信広は尾張へ、竹千代は今川家の人質として駿府へ送られる。

表3:安城合戦 主要登場人物一覧

人物名

所属勢力

主要な役割・行動

結果・動向

松平 広忠

松平家

松平家当主。徳川家康の父。織田・今川の狭間で苦闘。

天文18年、家臣に暗殺される。

竹千代(徳川 家康)

松平家

広忠の嫡男。幼少期に人質として織田家、今川家で過ごす。

後に天下人となる。

松平 長家

松平家

松平一族の長老。第一次安城合戦で城将を務める。

第一次安城合戦で討死。

本多 忠豊

松平家

松平家重臣。本多忠勝の祖父。

第二次安城合戦で広忠の身代わりとなり討死。

本多 忠高

松平家

忠豊の嫡男。本多忠勝の父。

第三次安城合戦で討死。

織田 信秀

織田家

尾張の戦国大名。織田信長の父。三河侵攻を主導。

安城城を一時支配するも、最終的に三河から撤退。

織田 信広

織田家

信秀の庶長子。安城城代を務める。

第三次安城合戦で捕虜となり、竹千代との人質交換に使われる。

今川 義元

今川家

駿河・遠江の戦国大名。「海道一の弓取り」。

安城合戦に勝利し、三河を完全に属領化する。

太原 雪斎

今川家

今川義元の軍師。臨済宗の僧。

第二次小豆坂、第三次安城合戦を指揮し、勝利に導く。

水野 信元

水野家

於大の方の兄。家康の伯父。織田と今川の間で立場を変える。

最終的に織田方に属し、清洲同盟を仲介する。

於大の方

水野家→松平家

広忠の正室。家康の母。水野家の動向により離縁される。

後に久松俊勝と再婚。

戸田 康光

戸田家

三河の国人領主。竹千代を織田方に売り渡す。

裏切りにより、松平家の運命を大きく左右する。

引用文献

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  2. 松平広忠|国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2373
  3. 松平広忠(まつだいら ひろただ) 拙者の履歴書 Vol.348~短き命に散りし夢 - note https://note.com/digitaljokers/n/neb45c440a059
  4. 天文6年(1537)6月25日は12歳の松平広忠が今川家支援で駿河から岡崎城へ帰った日。家康の父・広忠の生年や一族に追われた流浪後に岡崎へ帰還した時期など史料によりバラつきがある。松平家は今川 - note https://note.com/ryobeokada/n/ne4d90e9f061f
  5. 【漫画】松平広忠の生涯~徳川家康の父~【日本史マンガ動画】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=VBb_1dPYa-o
  6. 徳川家康が生まれたころの松平家は今川と織田に挟まれた弱小勢力だったのか⁉ - 歴史人 https://www.rekishijin.com/26830
  7. 松平 信孝 | 歴史 - みかわこまち https://mikawa-komachi.jp/history/matsudairanobutaka.html
  8. 桶狭間の戦いとは? 織田信長の戦略やエピソードを分かりやすく解説【親子で歴史を学ぶ】 https://hugkum.sho.jp/369442
  9. 奇跡の逆転劇から460年! 織田信長はなぜ、桶狭間で今川義元を討つことができたのか https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/101738/
  10. 刀 無銘 景光と織田信秀・織田信長父子/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7151/
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  63. 家康公の生涯 - 幼少時代の竹千代 - 静岡市観光 https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/02_01.htm
  64. 戦国時代、弟に仕えた織田信長の兄・織田信広のあまり知られていない生涯【前編】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/133279
  65. プレイバック徳川家康・(05)人質交換 - それゆけ!! Kassy号 - ココログ http://kassy4503505075642.cocolog-nifty.com/blog/2023/01/post-dfedcb.html
  66. 【漫画】織田信広の生涯~残念すぎる謀反人~【日本史マンガ動画】 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=I1RWkBFLNEM&pp=ygUNI-S7iuS6leWul-S5hQ%3D%3D
  67. 人質となった竹千代~織田・今川の人質だった徳川家康~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/ieyasu-hitojiti.html
  68. 大河ドラマをより楽しむために…苦悩とがまんの連続の「徳川家康ヒストリー」 - NEWSポストセブン https://www.news-postseven.com/archives/20230112_1829120.html?DETAIL
  69. 三河武士 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E6%AD%A6%E5%A3%AB
  70. 徳川家臣団の結束力と強さの秘密 ~愚直な三河武士たちがなぜ天下を取れたのか? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/21330