安濃川口の戦い(1600)
慶長五年 安濃川口の戦い ― 関ヶ原の戦局を決定づけた伊勢安濃津城、知られざる三日間の死闘
序章:天下分け目の前哨戦
慶長五年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康を中心とする勢力と、石田三成らが主導する反徳川勢力との対立は、ついに天下分け目の戦いへと至らんとしていた。この関ヶ原の戦いは、美濃国関ヶ原における一日だけの決戦として語られることが多い。しかし、その雌雄を決した本戦に至るまで、日本各地では「もう一つの関ヶ原」とも言うべき熾烈な前哨戦が繰り広げられていた。山城国伏見城における鳥居元忠の壮絶な玉砕、丹後国田辺城での細川幽斎の孤高の籠城戦は、その代表例として知られる 1 。
本報告書が主題とする「安濃川口の戦い」、すなわち伊勢国安濃津城(現在の三重県津市)を舞台とした攻防戦もまた、そうした重要な前哨戦の一つである。しかしこの戦いは、伏見城や田辺城の戦いとは異なる、極めて特異な戦略的意義を秘めていた。局地戦としては西軍の勝利に終わったこの戦いが、結果として西軍全体の戦略構想を根底から覆し、東軍を勝利へと導く決定的な転換点となったのである。
本報告書は、この安濃川口の戦いの全貌を、合戦に至る背景から、三日間にわたる攻防戦のリアルタイムな時系列、そして関ヶ原の戦局全体に与えた影響に至るまで、徹底的に詳解することを目的とする。一見すると地味な地方の籠城戦に過ぎないこの戦いが、いかにして天下の趨勢を左右するほどの重要性を持ち得たのか。その知られざる真実に迫る。
第一部:戦略的要衝・伊勢国 ― 関ヶ原前夜の情勢
西軍の初期戦略構想と伊勢国の重要性
慶長五年七月、石田三成らが畿内で挙兵した際、彼らが描いた初期戦略構想は壮大かつ緻密なものであった。その骨子は、第一に徳川方の拠点である伏見城を速やかに攻略して畿内を完全に掌握すること。第二に、その勢いを駆って伊勢国と北陸道を平定し、背後の憂いを断つこと。そして最終段階として、美濃国の岐阜城と大垣城を前線基地とし、天然の要害である木曽川を防衛線として、東から進撃してくる徳川家康率いる東軍主力を濃尾国境地帯で迎え撃つ、というものであった 2 。
この構想において、伊勢国の平定は絶対不可欠な要素であった。伊勢は、東軍の有力大名である福島正則らが拠る尾張国清洲城と、西軍の本拠地である畿内とを結ぶ戦略的要衝に位置する。もし伊勢を放置すれば、清洲城の東軍勢力が伊勢に侵入し、西軍の側面を脅かす危険性があった。そうなれば、濃尾国境での決戦という基本戦略そのものが崩壊しかねない。加えて、伊勢湾の制海権を確保することは、兵站と物資輸送の安定化に繋がり、西軍の戦略的優位を確固たるものにする。故に西軍首脳部は、伊勢国を迅速かつ確実に制圧するため、毛利秀元を総大将とする三万もの大軍を派遣するという決断を下したのである 2 。
伊勢国に割拠する諸大名の動向
当時の伊勢国は、安濃津城主・富田信高の五万石を最大として、中小規模の大名が複雑に入り乱れて割拠する地であった 3 。天下分け目の大乱を前に、彼らの去就は伊勢国の運命を、ひいては天下の趨勢を左右する重要な鍵を握っていた。各大名の動向は、地理的条件、豊臣政権下での人間関係、そして人質という現実的な制約が複雑に絡み合い、単純な二元論では割り切れない様相を呈していた。
東軍に与したのは、徳川家康による会津の上杉景勝討伐に従軍し、下野国小山での軍議「小山評定」において家康への忠誠を誓った大名たちが中心であった。安濃津の富田信高、伊勢上野の分部光嘉、松坂の古田重勝、岩出の稲葉道通、そして鳥羽の九鬼守隆らがこれにあたる 5 。彼らは家康の命を受け、西軍の進攻に備えるべく、急ぎ自領へと帰還することになる。
一方、西軍には、地理的に畿内に近く、西軍本拠地からの圧力を直接受ける北伊勢の大名が多く参加した。桑名城主の氏家行広、亀山城主の岡本宗憲、神戸城主の滝川雄利らがその代表格である 3 。特に氏家行広は、東軍に心を寄せながらも、家老らが人質として近江水口城主・長束正家の元に送られていたため、心ならずも西軍に与したと伝えられており、当時の大名たちが置かれた苦しい立場を物語っている 3 。この「不本意な参加」は、西軍内部の結束力や士気に微妙な影を落としており、伊勢の情勢が関ヶ原全体の縮図であったことを示唆している。
【表1:関ヶ原前夜における伊勢国周辺諸大名の動向一覧】
大名名 |
居城 |
石高(推定) |
所属陣営 |
備考 |
富田信高 |
安濃津城 |
5万石 |
東軍 |
会津征伐に従軍後、帰国し籠城 3 |
分部光嘉 |
伊勢上野城 |
1万石 |
東軍 |
富田信高と共に安濃津城に籠城 3 |
古田重勝 |
松坂城 |
3万7千石 |
東軍 |
帰国後、松坂城に籠城。安濃津へ援軍派遣 3 |
稲葉道通 |
岩出城 |
2万石 |
東軍 |
帰国後、岩出城に籠城 3 |
九鬼守隆 |
鳥羽城 |
3万石 |
東軍 |
会津征伐に従軍。父・嘉隆と対立 3 |
福島正頼 |
長島城 |
1万石 |
東軍 |
福島正則の弟。長島城に籠城 3 |
氏家行広 |
桑名城 |
2万5千石 |
西軍 |
人質のため不本意ながら西軍に参加 4 |
岡本宗憲 |
亀山城 |
2万2千石 |
西軍 |
桑名の氏家行広に合流 4 |
滝川雄利 |
神戸城 |
2万石 |
西軍 |
神戸城に籠城 4 |
九鬼嘉隆 |
鳥羽城 |
5千石(隠居料) |
西軍 |
息子・守隆と対立し、鳥羽城を占拠 4 |
堀内氏善 |
新宮城 |
2万7千石 |
西軍 |
九鬼嘉隆と連携し、熊野水軍を率いる 4 |
山崎定勝 |
竹原城 |
1万石 |
西軍 |
西軍主力部隊と共に行動 3 |
松浦久信 |
井生城 |
1万1千石 |
西軍 |
西軍主力部隊と共に行動 3 |
蒔田広定 |
雲出城 |
1万石 |
西軍 |
西軍主力部隊と共に行動 3 |
海の関ヶ原:九鬼水軍の父子相克
伊勢湾の制海権を巡る攻防は、まさに「海の関ヶ原」と呼ぶにふさわしい様相を呈していた。かつて織田信長の下で水軍を率い、その名を轟かせた志摩の九鬼家において、当主の座を譲っていた父・嘉隆が西軍に、家督を継いだ子・守隆が東軍に与するという、一族を二分する悲劇が起きていた 6 。これは、どちらが勝利しても九鬼家が存続できるようにとの、老将・嘉隆の深謀遠慮であったとも言われている 7 。
西軍に与した嘉隆は、紀伊の堀内氏善ら熊野水軍と連携し、その強大な水軍力をもって伊勢湾を完全に封鎖した 4 。この海上封鎖は、伊勢国内に点在する東軍方諸将の連絡網を断ち切り、彼らを完全に孤立させるための、西軍の極めて有効な戦略であった。そしてこの鉄壁の海上封鎖こそが、後に富田信高が演じる決死の帰還劇において、最大の障壁として立ちはだかることになるのである。
第二部:籠城への道 ― 富田信高、決死の帰還
小山評定と家康の特命
慶長五年七月二十五日、下野国小山に陣を敷いていた徳川家康の元に、石田三成らの挙兵という急報がもたらされた。世に言う「小山評定」である。ここで家康は諸将の忠誠心を確認すると、すぐさま反転西上を決定。同時に、戦局全体を見据えた的確な指示を各地に飛ばした。その中で、伊勢国出身の諸将、すなわち安濃津城主・富田信高、伊勢上野城主・分部光嘉、松坂城主・古田重勝らに下されたのは、会津征伐への従軍を解き、一刻も早く自領へ帰還して西軍の進攻に備えよ、という特命であった 5 。
この家康の命令は、単なる防衛指示ではなかった。寡兵の彼らが西軍の大軍を相手に長く持ちこたえられないことは、家康自身が最もよく理解していたはずである。その真の狙いは、彼らを伊勢に帰還させて抵抗させることで、西軍の主力を伊勢国に引きつけ、その足止めをさせることにあった。富田信高たちは、関ヶ原の戦局全体を左右する「時間」を稼ぐための、極めて重要な「磁石」としての役割を担わされたのである。
九鬼水軍の海上封鎖を突破せよ
家康の特命を受けた富田信高と分部光嘉は、八月一日、手勢を率いて小山を発つと、東海道を西へ急行した 8 。彼らが選択したのは、三河国吉田(現在の豊橋市)から船に乗り、伊勢湾を横断して自領へ向かうという最短経路であった。しかし、その海は父・九鬼嘉隆率いる西軍の強力な水軍によって完全に制圧されていた 2 。
案の定、信高らの船団は九鬼水軍の船に捕捉され、絶体絶命の窮地に陥る。万事休すかと思われたその時、富田信高はその胆力と機知を発揮する。彼は嘉隆に対し、「まだ毛利方(西軍)と徳川方(東軍)のどちらに与するかは決めていない。願わくは貴殿と同じ陣営に加わりたい」という趣旨の言葉を投げかけ、味方であるかのように装ったのである 4 。この巧みな交渉術に嘉隆は欺かれ、信高らの海上通行を許可した。この一瞬の判断と機転がなければ、安濃津城の戦いは起こりえず、歴史は大きく異なったものになっていただろう。信高は九死に一生を得て、故郷である安濃津の阿漕浦に上陸を果たした。
寡兵の結集と脆弱な安濃津城
無事に居城・安濃津城に帰還した信高を待っていたのは、過酷な現実であった。信高の留守を預かっていたのは、妹婿の富田主殿であったが、彼はすでに西軍の先鋒部隊の接近を受け、降伏を申し出ていたのである 1 。信高は当初これを咎めたが、主殿が「殿の御帰城を待つための方便であった」と申し開きしたため、これを許し、急ぎ籠城の準備に取り掛かった 4 。
時を同じくして、伊勢上野城主の分部光嘉も帰還していた。しかし、彼の居城は小規模で防衛は困難と判断し、城を捨てて手勢を率い、富田信高の安濃津城に合流するという決断を下す 4 。ここに、運命を共にする二人の武将が揃った。
しかし、彼らが立てこもる安濃津城は、籠城戦には全く不向きな城であった。海沿いの平地に築かれた平城であり、石垣も低く、城郭自体も小規模であった 1 。周囲が湿地帯であることが唯一の防御上の利点であったが、それも限定的であった。富田・分部の兵に、松坂城主・古田重勝から送られてきた小瀬四郎右衛門率いる五十名の援軍、そして地元の武士や城下町の町民から募った義勇兵を全て合わせても、籠城側の総兵力はわずか1,700名に過ぎなかった 1 。彼らはこの脆弱な城で、刻一刻と迫り来る三万の西軍を迎え撃たねばならなかったのである。
第三部:安濃津城攻防戦 ― リアルタイム時系列詳解
脆弱な平城に立てこもるわずか1,700の兵が、三万の大軍を相手に繰り広げた三日間の死闘は、慶長五年八月二十三日にその火蓋が切られた。
【表2:安濃津城攻防戦における両軍の兵力構成】
陣営 |
総兵力(推定) |
主要指揮官 |
東軍(籠城側) |
約1,700 |
富田信高、分部光嘉 |
西軍(攻撃側) |
約30,000 |
毛利秀元、吉川広家、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂、長宗我部盛親 他 |
合戦前夜:慶長五年八月二十三日 ― 先制の一撃
【午後】
西軍の先鋒部隊である長束正家・安国寺恵瓊の軍勢が、安濃津城の北を流れる塔世川の対岸、茶臼山・薬師山一帯に着陣した 4。城からはそのおびただしい数の旗指物が見え、城内の緊張は一気に高まった。
【夕刻】
城主・富田信高は、敵の着陣を座して待つことを良しとしなかった。彼は、平城という防御上の不利を補うため、城に立てこもるだけでなく、積極的に打って出る戦術を選択する。信高は、鉄砲頭の綾井権之助と斎田隼人に精鋭の鉄砲隊六十名を預け、城外への出撃を命じた 4。
綾井・斎田の部隊は密かに城を出ると塔世川を渡り、西軍が陣取る山へと忍び寄った。そして、陣の設営中で油断していた西軍に対し、一斉に銃弾を浴びせかけたのである。この予期せぬ奇襲攻撃に西軍の陣は混乱し、多数の死傷者を出した 4 。奇襲を成功させた鉄砲隊が退却する際には、弓の名手である弓削忠左衛門が足軽三十名を率いてこれを援護し、追撃してきた西軍の指揮官級の武将を見事に射倒したと伝えられる 4 。
この緒戦は籠城側の完全な勝利に終わり、日没と共に城外の兵は城内へと引き上げた。圧倒的な兵力差にもかかわらず、先制攻撃を成功させたことで、籠城兵の士気は大いに高まった。
死闘の一日:慶長五年八月二十四日 ― 炎上する城と町
【早朝(日の出と共に)】
夜が明けると同時に、毛利秀元を総大将とする西軍本隊三万が、安濃津城の四方を完全に包囲した。そして鬨の声を合図に、怒涛の総攻撃が開始された 1。
- 布陣 : 城の西に毛利秀元・吉川広家、南に長束正家・安国寺恵瓊・毛利勝永、東に毛利家の重臣・宍戸元続、そして北には鍋島勝茂・龍造寺高房の軍勢が布陣し、蟻の這い出る隙間もないほどの包囲網を敷いた 4 。
【午前】
西軍の猛攻が続く中、城東の沼沢地帯を突き進む一団があった。松坂城主・古田重勝が送った、林宗左衛門らを将とする援軍であった 4。彼らは地の利を活かし、宍戸元続率いる西軍の攻撃を巧みにかいくぐり、城兵の援護もあって決死の入城を果たした 4。この援軍の到着は、籠城兵にとって大きな希望となった。
しかし、戦況は刻一刻と悪化していく。西軍の兵は城下町になだれ込み、次々と火を放った。城下町を守っていた部隊は、これ以上の抵抗は不可能と判断すると、城の北西にあった西来寺に自ら火を放ち、敵の進撃を少しでも遅らせる焦土戦術をとりながら、城内へと撤退した 4。城下から立ち上る黒煙は、籠城兵の心を動揺させた。
【午後】
城の各所で、血で血を洗う激戦が繰り広げられた。
- 南方 : 分部光嘉が獅子奮迅の働きを見せ、敵将・宍戸元続を負傷させるほどの奮戦をしたが、自身もまた深手を負い、やむなく後退した 4 。
- 西方 : 総大将・毛利秀元が自ら軍配を振るって攻め立てるが、城兵の決死の抵抗は凄まじく、西軍は多くの死傷者を出した。思うように進まぬ戦況に、秀元が「退く者は斬れ」と味方を叱咤するほど、籠城側の抵抗は激しかった 4 。
- 城内 : 城の北、塔世山に陣取った西軍からの砲撃が城を襲い、櫓や塀が次々と破壊されていく。その混乱に乗じて城内に忍び込んだ西軍兵と城兵が、各所で壮絶な白兵戦を繰り広げた 4 。
【夕刻】
多勢に無勢、時間の経過と共に籠城側の消耗は限界に達し、外郭は次々と破られていった。城兵は最後の拠点である本丸へと追い詰められる。城主・富田信高は、もはやこれまでと覚悟を決め、自ら本丸の大手門の外へ打って出て、槍を振るって奮戦した。しかし、西軍の兵は波のように押し寄せ、信高は瞬く間に敵兵に囲まれ、絶体絶命の窮地に陥った 5。
その時であった。どこからともなく、鎧兜も鮮やかな一人の若武者が白馬に乗って単騎で現れ、信高を取り囲む敵兵の中に突入した。その若武者は片鎌槍を巧みに操り、瞬く間に五、六人の敵兵をなぎ倒し、信高を救出したのである 1 。この勇猛果敢な武者は、後に信高の妻(宇喜多氏の一族)であったと伝えられている 5 。この劇的な救出劇に城兵は奮い立ち、信高は辛うじて本丸へと生還することができた。
落城と降伏:慶長五年八月二十五日 ― 戦略的役割の終焉
一夜明けても、西軍の攻撃の勢いは衰えなかった。城内は満身創痍であった。城兵の死傷者は約六百名に達し、本丸に避難していた非戦闘員の町民たちにも矢玉が降り注ぎ、多数の死傷者が出ていた 4 。櫓は破壊され、防御施設もその多くが機能を失っていた。
これ以上の抵抗は無益な殺戮を増やすだけである。そう判断した西軍は、力攻めから交渉へと戦術を転換し、高野山の高僧・木食応其を和平交渉の使者として城へ派遣した 4 。一説には、西軍にありながら東軍への内通を考えていた吉川広家が、無用な損害を避けるために降伏を働きかけたとも言われている。
後詰めの援軍が来る見込みは万に一つもなく、城兵の疲労も極限に達していた。富田信高は、これ以上の籠城は不可能と悟り、城兵と領民の命を救うため、降伏勧告を受け入れることを決断した 2 。
こうして、三日間にわたる安濃津城の戦いは終結した。富田信高と分部光嘉は、降伏の証として剃髪し、高野山へ登ることとなった 4 。安濃津城は西軍の管理下に置かれ、伊勢平定の任を終えた毛利秀元らの主力部隊は、北へ転進し、関ヶ原の本戦に備えて南宮山に着陣した。
第四部:戦いの影響と歴史的意義 ― 関ヶ原の戦局を動かした三日間
西軍の足止めという最大の戦果
安濃津城は開城し、戦術レベルで見れば、この戦いは西軍の完全な勝利に終わった。しかし、この戦いの真の歴史的価値は、その勝敗にはない。富田信高と1,700の籠城兵が成し遂げた最大の戦果は、毛利秀元、長宗我部盛親、鍋島勝茂といった西軍の主力部隊を含む三万もの大軍を、慶長五年八月二十三日から二十五日までの丸三日間、伊勢国という一地点に完全に釘付けにしたという事実そのものであった 2 。
岐阜城陥落との連動:西軍戦略の完全なる破綻
安濃津城で三日間の死闘が繰り広げられていたのと全く同じ時間軸で、主戦場となるべき美濃国では、関ヶ原の戦局を決定づける重大な事件が起きていた。八月二十三日、清洲城に集結していた東軍の先鋒部隊、福島正則や池田輝政らが、西軍の重要拠点である岐阜城への攻撃を開始し、わずか一日でこれを攻略してしまったのである 2 。
ここに、安濃津城の戦いが持つ戦略的意義が浮かび上がる。もし、富田信高が抵抗せずに即座に降伏していたならば、伊勢に投入された西軍三万の軍勢は、遅くとも八月二十三日には美濃へ転進することが可能だったはずである。その大軍が岐阜城の救援に向かうか、あるいは清洲城を牽制する動きを見せていれば、東軍は岐阜城をあれほど迅速に攻略することはできなかったであろう 2 。富田信高たちの三日間の抵抗が、東軍が電撃的に岐阜城を攻略するための、決定的な「時間的猶予」を生み出したのである。
岐阜城の陥落は、西軍にとって致命的な打撃であった。これにより、「濃尾国境で東軍を迎え撃つ」という西軍の初期戦略構想は、実行される前に完全に破綻した。この戦いは、軍事史において「城を落とされた」という局地的な敗北が、「敵主力を拘束し、主戦場での味方の勝利を導いた」という戦略レベルでの大勝利に繋がった、極めて稀有な事例と言える。
関ヶ原への道筋
岐阜城陥落の報は、東軍全体の士気を爆発的に高め、これまで去就を決めかねていた豊臣恩顧の大名たちの多くを、東軍支持へと傾かせた。この決定的な戦果を確認した徳川家康は、もはや躊躇う必要はないと判断し、九月一日、ついに江戸城から西上を開始する 2 。安濃津城の戦いは、間接的に家康の出陣決断を促す要因ともなった。
一方、戦略の前提を根底から覆された西軍の石田三成は、防衛計画の全面的な見直しを迫られた。彼はやむなく、大垣城を新たな拠点として防衛線を再構築し、関ヶ原での決戦に臨むこととなる 2 。安濃津城での三日間の遅滞が、結果的に関ヶ原の戦場設定にまで影響を及ぼしたのである。
戦後処理と伊勢国の新体制
九月十五日の関ヶ原本戦は、東軍の圧倒的な勝利に終わった。戦後、富田信高の功績は徳川家康から高く評価された。彼は高野山から呼び戻され、伊勢安濃津の旧領を安堵された上、二万石を加増されて合計七万石の大名として復帰した 4 。
しかし、その後の慶長十三年(1608年)、信高は伊予国宇和島へ転封となる。そして、彼と入れ替わるように伊勢国に入府したのが、築城の名手として名高い藤堂高虎であった 12 。高虎は伊賀・伊勢二十二万石の領主として、安濃津城を近世城郭である「津城」へと大改修し、城下町を整備した 4 。ここに、江戸時代を通じて続く津・藤堂藩三百年の歴史が幕を開けるのである。
結論:安濃川口の戦いの再評価
慶長五年八月の安濃川口の戦いは、局地戦の勝敗という観点から見れば、籠城側の降伏と西軍の勝利に終わった。しかし、関ヶ原の戦いというより大きな戦略的文脈の中で捉え直す時、その評価は完全に逆転する。
この戦いは、西軍にとっては、貴重な戦力を無駄に消耗し、何よりも致命的な「時間」を浪費させられた手痛い戦略的失敗であった。一方で東軍にとっては、富田信高ら寡兵の犠牲によって西軍主力を伊勢に釘付けにし、その間に主戦場である美濃での勝利を確定させた、輝かしい戦略的成功であった。
富田信高と、名もなき籠城兵たちの三日間にわたる奮戦は、単なる地方領主の意地や武勇伝として記憶されるべきではない。それは、天下分け目の大局の中で自らに課せられた戦略的役割を、多大な犠牲を払いながらも完璧に遂行した結果として、高く再評価されなければならない。
安濃川口の戦いは、歴史の転換点が必ずしも華々しい大会戦の勝敗だけで決まるものではないことを我々に教えてくれる。一見すると地味な局地戦における、兵力や物資といった有形の要素ではなく、「時間」という無形の戦略資源を巡る争奪が、時に天下の趨勢をも決定づけるのである。この戦いは、そのことを示す、極めて貴重な歴史的教訓を後世に遺している。
引用文献
- 絶体絶命のピンチに駆けつけたのは…白馬に乗った嫁⁉︎「関ヶ原の戦い」前哨戦の驚きの結末とは https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/111649/
- 伊勢安濃津城の戦い~関ケ原前夜、西軍の戦略を打ち砕いた「籠城 ... https://rekishikaido.php.co.jp/detail/514
- 関ヶ原の戦い@安濃津城2 戦前の伊勢周辺の動向 - ダイコンオロシ ... https://diconoroshi.hatenablog.com/entry/2024/09/22/000009
- 慶長5年 安濃津城の戦い|ダイコンオロシ@お絵描き - note https://note.com/diconoroshi_mie/n/n9b4bd2353399
- 安濃津城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%BF%83%E6%B4%A5%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 希望の道 : 御食国 答志島 - 鳥羽商工会議所 http://www.toba.or.jp/toushijima/04_info.html
- 九鬼 嘉隆 について | 九鬼プロジェクトHP - 鳥羽市観光協会 https://toba.gr.jp/kuki-project/about/
- 古城の歴史 安濃津城 https://takayama.tonosama.jp/html/anotsu.html
- 宇喜多氏(富田信高の妻)の槍働き|ダイコンオロシ@お絵描き - note https://note.com/diconoroshi_mie/n/n824575016d22
- 安濃津城の戦い ~富田信高の関ヶ原~ http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/anotsu.html
- 1600年 関ヶ原の戦いまでの流れ (後半) | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1600-2/
- 藤堂高虎(とうどうたかとら) - 津市 https://www.info.city.tsu.mie.jp/www/sp/contents/1001000011143/index.html
- 津の発展と築城の名手・藤堂高虎 - 三重の文化 https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/arekore/detail9.html
- 藤堂高虎が復興した<津城> https://sirohoumon.secret.jp/tsujo.html