最終更新日 2025-08-30

安祥城の戦い(1542~49)

三河の要衝・安祥城を巡り、織田・今川・松平が十年争奪。織田信秀が奪うも今川義元が奪還。竹千代(家康)人質交換を経て今川が三河を支配。家康独立の転換点。

三河の楔:安祥城をめぐる織田・今川・松平十年戦争(1540-1549)全史

序章:守山に吹く嵐 ― 三河国に生じた権力の真空

戦国時代の三河国(現在の愛知県東部)は、一人の傑出した当主の死を境に、激動の渦へと巻き込まれていく。天文4年(1535年)、三河統一を目前にしながら尾張へ侵攻した松平氏七代目当主・松平清康が、陣中の守山にて家臣の凶刃に倒れたのである 1 。この「守山崩れ」と呼ばれる事件は、松平氏の勢力拡大を頓挫させただけでなく、三河国に深刻な権力の真空地帯を生み出した。

清康の死後、松平家中は跡目を巡って分裂し、内紛状態に陥った 3 。清康の嫡男である広忠はまだ幼く、叔父の松平信定によって本拠地である岡崎城を追われ、伊勢や遠江を流浪する苦難の日々を余儀なくされる 4 。この松平氏の急激な弱体化は、隣接する二大勢力にとって、またとない好機であった。西には、尾張国(現在の愛知県西部)で勢力を急速に拡大し、「尾張の虎」と称される織田信秀が 6 。東には、駿河・遠江(現在の静岡県)を支配し、「海道一の弓取り」の異名を持つ今川義元が 7 。両雄は共に、戦略的要衝である三河国への野心を露わにし、その覇権を巡って激しく対立することになる。

この織田・今川両勢力の衝突点となったのが、西三河平野部の中心に位置する安祥城であった 8 。安祥城は、松平氏三代目の信光が手に入れて以来、四代にわたって松平宗家の本拠地とされた、一族にとって象徴的な意味を持つ城である 9 。地理的には岡崎城の西約4キロメートルに位置し、この城を抑えることは、岡崎城の喉元に刃を突きつけ、矢作川流域の支配権を確立する上で決定的な意味を持っていた 8 。織田信秀にとっては三河侵攻の最前線基地であり、今川義元にとっては織田の進出を阻む防波堤であった 8

松平広忠は今川氏の支援を得て辛うじて岡崎城に復帰するが、それは事実上、今川氏の庇護下に入ることを意味していた 4 。こうして、弱体化した松平氏を挟み、三河国は織田と今川の代理戦争の舞台と化す。その十年近くに及ぶ攻防の歴史は、安祥城の争奪戦から幕を開けるのである。この戦いは単なる城の奪い合いではなく、松平清康の死によって生じた地政学的な権力の空白を、隣接する二大勢力が埋めようとする、戦国時代の力学がもたらした必然的な衝突であった。

年代(西暦)

主な出来事

天文4年(1535)

松平清康、守山にて陣没(守山崩れ)。松平氏が弱体化。

天文9年(1540)

6月、織田信秀が安祥城を攻略。城主に庶長子・織田信広を置く。

天文10年(1541)

松平広忠、水野忠政の娘・於大の方と婚姻。

天文11年(1542)

8月、第一次小豆坂の戦い(※実在性には諸説あり)。12月、竹千代(後の徳川家康)誕生。

天文13年(1544)

水野信元が織田方に離反。広忠は於大の方と離縁。

天文16年(1547)

広忠、今川氏に援軍を要請。竹千代を人質として送る途上、織田方に奪われる(通説)。

天文17年(1548)

3月、第二次小豆坂の戦い。太原雪斎の戦術により今川軍が大勝。織田軍は安祥城へ敗走。

天文18年(1549)

3月、松平広忠が急死。11月、太原雪斎が安祥城を攻略し、織田信広を捕縛。信広と竹千代の人質交換が成立。

永禄3年(1560)

5月、桶狭間の戦いで今川義元が討死。松平元康(竹千代)が独立。

永禄5年(1562)

織田信長と松平元康の間で清洲同盟が成立。安祥城は廃城となる。

第一章:尾張の虎、安祥城を奪取す(天文9年/1540年)

織田信秀、三河へ侵攻

松平氏の内紛と弱体化を好機と見た織田信秀は、満を持して三河への本格的な侵攻を開始する。天文9年(1540年)6月、信秀は水野氏の援軍を加えた約3,000の兵を率いて、安祥城に迫った 1 。この侵攻は、信秀が朝廷から「三河守」に任官された直後の軍事行動であり、その官職を名実ともに手中に収めようとする強い意志の表れであった 12

当時の安祥城を守っていたのは、松平一族の長老格である松平長家であった。守備兵の数については諸説あるが、寡兵であったことは確かであり、織田軍は圧倒的な兵力差を背景に城を包囲した 1 。信秀は軍を二手に分け、主力を城の北側にある高台に、水野勢を南側に配置し、南北から挟撃する陣形をとった 8

安祥城の攻防と落城

この危機に際し、岡崎城の松平広忠は弟の松平信康らを援軍として派遣するが、大勢を覆すには至らなかった 1 。城主の松平長家は、絶望的な状況下で果敢に城外へ打って出るなど奮戦し、一時は織田勢を押し返すほどの抵抗を見せた 1 。しかし、衆寡敵せず、6月6日の総攻撃で城主・長家や援将・信康以下、数十名の将兵が討死し、安祥城はついに陥落した 1

この勝利は、信秀の三河戦略において決定的な意味を持った。安祥城は松平宗家の旧本拠地であり、その象徴的な城を奪取したことは、松平氏の権威を失墜させ、三河の国人たちに織田の威勢を示す上で絶大な効果があった。信秀は単に城を占領するに留まらず、この地を恒久的な支配拠点とすべく、自らの庶長子である織田信広を城主として配置した 1 。信広を最前線の城に置くことは、彼の能力を試すとともに、織田家内部の序列を示す合理的な人事でもあった。

安祥城という楔を打ち込まれたことで、矢作川以西の西三河の大部分は織田氏の勢力圏となり、松平広忠は喉元に刃を突きつけられた形で岡崎城に孤立することとなった 1 。織田氏による三河支配の橋頭堡が、ここに確立されたのである。

第二章:虚実の小豆坂(天文11年/1542年)

第一次小豆坂の戦い ― 通説にみる織田の武威

織田信秀による安祥城の奪取は、三河を自らの勢力圏と見なす今川義元を強く刺激した。天文11年(1542年)8月、義元は松平氏救援を名目に大軍を三河へ派遣。これに対し、信秀も安祥城から兵を発し、両軍は岡崎城の南東に位置する小豆坂で激突したとされる 3 。これが通説における「第一次小豆坂の戦い」である。

織田信長の伝記である『信長公記』など後代の軍記物によれば、この戦いは織田軍の華々しい勝利に終わったとされている。信秀の弟である織田信康や信光、そして「小豆坂七本槍」と称えられた織田方の勇猛な将士たちの奮戦により、今川軍は撃退されたという 3 。この勝利によって、織田氏の西三河における影響力はさらに強固なものになったと伝えられている。

合戦の存在をめぐる学術的論争

しかしながら、近年の研究において、この第一次小豆坂の戦いの実在性そのものが大きく疑問視されている 3 。その根拠は主に二点挙げられる。

第一に、当時の今川氏の戦略的状況である。今川氏が本格的に東三河へ進出し、支配を確立するのは天文12年(1543年)以降のことであった 3 。天文11年の時点で、まだ東三河さえ完全に掌握していない今川氏が、西三河の奥深くにある小豆坂まで大軍を派遣することは、地理的にも戦略的にも不自然である。

第二に、今川氏が直面していた外交的危機である。当時、今川氏は本拠地である駿河の東部国境において、相模国(現在の神奈川県)の北条氏と「河東一乱」と呼ばれる深刻な領土紛争を繰り広げていた 3 。東方で大敵と対峙している最中に、西方へ大規模な軍事遠征を行う余裕があったとは考えにくい。

これらの状況証拠から、第一次小豆坂の戦いは、天文17年(1548年)に行われた第二次合戦の逸話や記録が、後の時代に混同されたり、あるいは織田・徳川方の史料が信秀の武功を誇張するために意図的に創作した「歴史的虚構」である可能性が指摘されている。戦国時代の歴史記述が、必ずしも客観的な事実の記録ではなく、特定の家の権威を高めるための「物語」として編纂されることがあるという本質的な問題が、この論争の背景には横たわっている。

第三章:引き裂かれる絆(天文12年~16年/1543~1547年)

水野信元の離反と広忠の苦境

小豆坂での衝突の真偽はともかく、安祥城を拠点とする織田氏の圧力は日増しに強まっていった。この状況下で、松平広忠の運命を大きく左右する事件が起こる。天文12年(1543年)頃、広忠の正室・於大の方の兄であり、松平氏にとって重要な同盟者であった水野信元が、今川氏から離反して織田信秀に与したのである 15

水野氏の領地は尾張と三河の国境地帯にあり、強大化する織田氏の勢力に抗しきれず、一族の生き残りをかけての苦渋の決断であったと考えられる 20 。水野信元は義理の弟である広忠にも織田方につくよう勧誘したが、広忠はこれを拒絶した 21 。これにより、松平氏と水野氏は敵味方に分かれることとなった。

於大の方との離縁 ― 苦渋の決断

この事態は、今川氏の庇護に依存する広忠を絶体絶命の窮地に追い込んだ。敵方となった水野氏の娘を正室として迎え続けては、今川氏への裏切りと見なされかねない。広忠は、今川氏への絶対的な忠誠を示すため、非情な決断を迫られた。

天文13年(1544年)9月、広忠は妻・於大の方と離縁する 15 。この時、二人の間に生まれた嫡男・竹千代(後の徳川家康)はわずか3歳。幼い竹千代は母と生き別れ、父・広忠のもとに残された 20 。この離縁は、戦国という時代において、個人の情愛がいかに政略の前に無力であったかを物語る悲劇であった。

この出来事は、松平広忠が独立した大名としての立場を事実上放棄し、今川氏の完全な属国として生きる道を選択した決定的な瞬間であったと言える。自らの外交的選択肢を断ち、今川の軍事力に完全に依存する体制となったことで、松平氏は後に今川から「人質」という、より強い要求を受け入れざるを得ない状況へと追い込まれていくのである。

第四章:人質・竹千代の行方(天文16年/1547年)

人質提出の決断と通説

於大の方との離縁後も織田氏の攻勢は続き、天文16年(1547年)、信秀は再び岡崎城に大軍を差し向けた。もはや独力での抵抗が不可能な広忠は、今川義元に正式な援軍を要請する 22 。義元は、この支援の対価として、広忠の唯一の嫡男である竹千代(当時6歳)を人質として駿府へ送るよう要求した 22

これが、徳川家康の波乱に満ちた幼少期を象徴する人質生活の始まりであった。通説によれば、竹千代の護送は、新たな姻戚関係にあった戸田康光が担当した。しかし、戸田康光は金銭に目がくらみ今川氏を裏切り、かねてより通じていた織田信秀のもとへ竹千代の身柄を引き渡してしまったとされる 3 。信秀は竹千代を人質に取り、広忠に織田方への寝返りを迫ったが、広忠は「侍の義理は、子を思う情よりも重い」と述べ、これを断固として拒否したと伝えられている 3

新説 ― 岡崎城陥落と広忠の降伏

しかし、この「戸田康光の裏切り」という物語は、近年の研究によってその信憑性が揺らいでいる。越後の僧・日覚が残した書状の中から、天文16年(1547年)9月に岡崎城が織田軍によって攻め落とされ、松平広忠が降伏を余儀なくされたという記述が発見されたのである 3

この新説に基づけば、竹千代が織田方の人質となった経緯は全く異なる様相を呈する。すなわち、広忠は織田信秀との戦いに敗れて降伏し、その降伏の証として、自らの意思で嫡男・竹千代を人質として織田方に差し出したということになる 3 。この場合、戸田康光の「裏切り」という逸話は、初代将軍・徳川家康の父が敵に降伏したという不名誉な事実を隠蔽するため、後に徳川家の正史を編纂する過程で創作された物語である可能性が極めて高い。

歴史が勝者によっていかに再構築されるかを示すこの事例は、史料を批判的に検討する重要性を我々に教えてくれる。「裏切られた悲劇の忠臣」という物語は、「一度は敵に降伏した当主」という不都合な真実よりも、支配者の権威を確立する上で遥かに都合が良かったのである。

第五章:雪斎、動く―第二次小豆坂の戦い(天文17年/1548年)

今川軍の本格介入と両軍の布陣

松平氏の跡継ぎである竹千代が織田方の人質となったことは、三河の支配権を巡る争いが新たな段階に入ったことを意味した。今川義元は、もはや松平氏の救援という名目ではなく、三河を直接支配下に置くべく、本格的な武力介入を決断する。

天文17年(1548年)3月、義元は腹心の軍師・太原雪斎を総大将に、朝比奈泰能を副将とする10,000余の大軍を三河へ派遣した 3 。雪斎は単なる僧侶ではなく、外交から軍事までをこなす今川家の最高顧問であり、その卓越した知略は広く知られていた 26 。一方の織田信秀も、北の美濃国で対立していた斎藤道三と和睦を成立させ、後顧の憂いを断った上で、この決戦に臨んだ。信秀は庶長子の信広を先鋒とし、4,000余の兵を率いて安祥城から出陣、矢作川を渡って上和田に布陣した 3

勢力

今川・松平連合軍

織田軍

総大将

太原雪斎

織田信秀

主要武将

朝比奈泰能、岡部元信

織田信広、織田信光

兵力

約10,000

約4,000

合戦のリアルタイム描写

3月19日、両軍は再び小豆坂の地で対峙した。戦端は織田方によって開かれた。

序盤: 織田軍の先鋒が坂の下から果敢に突撃を敢行する。しかし、高所に陣取り、地形的優位を確保していた今川軍は、坂の上から大量の矢を射かけてこれを迎え撃ち、序盤は今川方が有利に戦いを進めた 3

中盤: 劣勢に立たされた織田勢は、無理な力押しを避け、巧みに兵を後退させながら敵を平地へと誘い込む戦術に切り替えた。信秀の本隊と合流して勢いを盛り返すと、一時は今川方の松平勢を突き崩すなど、戦況は一進一退の激しい攻防となった 3 。織田信秀の戦上手ぶりが発揮され、兵力差をものともしない互角の戦いが繰り広げられた。

終盤(決定打): 織田軍が攻勢に転じようとした、まさにその瞬間であった。戦場の側面、織田軍の死角となっていた場所に潜んでいた部隊が、突如としてその横腹に襲いかかった。それは、戦闘が始まる前に太原雪斎が周到に配置していた、岡部元信率いる伏兵であった 11

予期せぬ側面からの奇襲攻撃を受け、織田軍の統制は完全に崩壊した。信秀は必死に部隊の立て直しを図るが、一度乱れた陣形はもはや元には戻らない。全滅の危機を察した信秀は、即座に撤退を決断。織田軍は総崩れとなり、矢作川を渡って命からがら安祥城へと敗走した 3

この第二次小豆坂の戦いは、太原雪斎の卓越した戦術眼がもたらした今川軍の完勝であった。それは、織田信秀個人の武勇や現場指揮官の奮闘に依存する戦術と、大局的な視点と周到な準備に基づいた雪斎の戦略との差が、勝敗を分けたことを示している。この決定的敗北により、織田信秀の三河における勢力は大きく後退し、安祥城は敵地の中に孤立する、危険な拠点と化したのである 11

第六章:安祥城、血戦(天文18年/1549年)

松平広忠の急死と今川の総攻撃

第二次小豆坂の戦いから一年後の天文18年(1549年)3月6日、岡崎城主・松平広忠が24歳の若さで急死するという衝撃的な事件が起こる 7 。家臣による暗殺説も囁かれる謎の多い死であった 7 。当主を失い、跡継ぎである竹千代は敵地・尾張に人質として囚われている。松平家は、まさに滅亡の淵に立たされた。

今川義元と太原雪斎は、この千載一遇の好機を逃さなかった。松平家の動揺に乗じ、三河を完全に掌握すべく、最後の総攻撃を命じる。目標は、敵中に孤立した織田方の拠点、安祥城であった。雪斎は再び大軍(一説に二万余)を率いて出陣。この軍勢の先鋒には、主君を失い、今川に命運を託すしかなくなった松平家の家臣たちが加わっていた 7

攻城戦のリアルタイム描写

城主・織田信広は、わずか八百の兵と共に安祥城に籠城し、絶望的な防衛戦に臨んだ 28

今川・松平連合軍の猛攻が開始されると、松平勢は雪辱を果たすべく、また今川への忠誠を示すべく、凄まじい勢いで城に殺到した。中でも、後に徳川四天王に数えられる本多忠勝の父・本多忠高は、先陣を切って城内に突入。本丸近くまで攻め込み、城主・信広に肉薄するが、敵の矢を全身に受けて壮絶な戦死を遂げた 28 。その墓碑は、今も安祥城本丸跡に建つ大乗寺の境内に残されている。

城内では、安祥村の法師であった善恵坊や、戦いに巻き込まれた名もなき女性たちも命を落としたと伝えられ、その悲劇を偲ぶ供養碑や「姫塚」が今にその記憶を伝えている 10

数に勝る連合軍の波状攻撃の前に、城兵は次々と倒れていった。約10年間にわたり織田方の三河支配の象徴であった安祥城は、ついに陥落。城主・織田信広は捕虜となり、生け捕りにされた 23 。広忠の死は松平家にとって悲劇であったが、逆説的に、今川による三河支配を完成させる最後の引き金となったのである。

第七章:運命の交換(天文18年/1549年)

人質交換交渉の開始

安祥城を攻略し、城主・織田信広を捕虜としたことで、太原雪斎は最後の仕上げに取り掛かった。今川方は、捕らえた信広の身柄と、織田方が人質としている松平竹千代との交換を、織田信秀に提案したのである 30

信秀にとって、信広は庶長子とはいえ自らの血を分けた子であり、三河方面軍の司令官でもあった。彼を見殺しにすることはできず、この提案を受諾する 30 。この交渉の背後には、雪斎のような高度な交渉術を持つ外交僧の存在があったと考えられる 33

この人質交換は、単なる捕虜のやり取り以上の意味を持っていた。それは、三河国の支配権が織田氏から今川氏へと完全に移譲されたことを象徴する、政治的な儀式であった。織田の三河支配の象徴であった「安祥城主・織田信広」と、松平の正統性の象徴である「岡崎城主後継者・松平竹千代」を交換することは、支配権そのものの受け渡しを意味したのである。

交換の場所をめぐる諸説

この歴史的な人質交換が行われた場所については、二つの説が存在する。

笠寺観音説(通説): 最も有力な説は、交換が尾張国の笠寺(現在の名古屋市南区にある笠覆寺、通称・笠寺観音)で行われたというものである 35 。笠寺観音の境内には、現在、この出来事を記念する石像が建てられている 36

西野説(異説): 一方で、江戸幕府の公式史書である『徳川実紀』には「三河の西野笠寺」という記述があり、これに基づき三河国安祥城の西方約600メートルに位置する西野(現在の安城市)で行われたとする説も存在する 35

竹千代、駿府へ

天文18年(1549年)11月、人質交換は無事実行された。竹千代は父の死に目に会うことも叶わぬまま、織田家から今川家へと引き渡され、今川氏の本拠地である駿府へと送られた 23 。ここから、彼が19歳で独立を果たすまでの、約10年間に及ぶ駿府での人質生活が始まる。

しかし、この人質生活は、単なる虜囚の時間ではなかった。今川義元は竹千代を将来の三河国主として、また今川家の有力な家臣候補として厚遇した。竹千代は太原雪斎から直接、帝王学や兵法を学ぶ機会を得るなど、最高水準の教育を受けたのである 39 。この苦難と学びの経験が、後の天下人・徳川家康を形作っていくことになる。

終章:戦いの果てに ― 次なる嵐への序曲

天文9年(1540年)の織田信秀による安祥城攻略に始まり、天文18年(1549年)の竹千代と織田信広の人質交換に至るまで、約10年間にわたって繰り広げられた安祥城をめぐる一連の戦いは、今川氏の完全勝利という形で幕を閉じた。

この戦いの結果、今川氏は西三河の支配権を完全に確立し、松平氏の本拠地であった岡崎城も事実上、今川氏の支城と化した 40 。織田信秀の三河進出の野望は完全に打ち砕かれ、彼は失意のうちに天文21年(1552年)頃、病死した 11 。三河を平定し、その勢力を背景に尾張への本格的な侵攻を開始した今川義元の威勢は、まさに頂点に達した。この流れが、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いへと直接繋がっていくのである 29

歴史の皮肉は、この戦いの後に訪れる。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、今川の人質であった松平元康(竹千代)は好機を捉えて独立し、岡崎城へと帰還を果たす 29 。そして永禄5年(1562年)、元康はかつての仇敵であった織田信長と清洲同盟を締結した 8

この同盟により、尾張と三河の国境は安定し、両国の最前線基地として激しい攻防の舞台となった安祥城は、その戦略的価値を完全に失った。そして、同盟締結後まもなく廃城となり、歴史の表舞台から静かに姿を消したのである 8

安祥城の戦いにおける今川の完勝は、短期的にはその覇権を確立したが、長期的には二つの致命的な結果をもたらした。一つは、その後の今川氏の慢心を招いたこと。そしてもう一つは、今川の庇護下で苦難を経験し、織田の実情も知る松平元康という、恐るべきリアリストを育て上げたことである。この10年戦争の真の勝者は、最終的に独立を果たし、戦国乱世を生き抜いていく松平(徳川)家であったと言えるのかもしれない。安祥城の戦いは、今川の絶頂期を演出しつつも、その後の今川の没落と徳川の台頭という、より大きな歴史の潮流を生み出すための、重要な転換点となったのである。

引用文献

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  2. 松平竹千代と織田信広の人質交換騒動| 尾張と三河 複雑怪奇な10年戦争【麒麟がくる 満喫リポート】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/389679
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  29. 桶狭間の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%B6%E7%8B%AD%E9%96%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  30. 織田信広 /ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/oda-nobuhiro/
  31. 織田と今川・松平軍が5回も戦ったといわれる安城市の安祥城址は見どころが多い! https://sengokushiseki.com/?p=264
  32. 麒麟が来る』にも出てきた!織田軍と今川軍が対峙した「小豆坂の戦い - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/8079
  33. 奇跡の逆転劇から460年! 織田信長はなぜ、桶狭間で今川義元を討つことができたのか https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/101738/
  34. [武将解説] 毛利に仕える外交僧 安国寺恵瓊 「信長と秀吉を認めたが - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=ZEMOEI_SbM0&t=244s
  35. 松平竹千代(家康)と織田信広の人質交換の場所は三河?!西野の場所と地図 - ゼロからはじめる愛知の城跡と御朱印、戦国史跡巡り講座 https://sengokushiseki.com/?p=3576
  36. 徳川家康と織田信広の人質交換の石碑が名古屋市南区笠覆寺(笠寺観音)にある理由 https://sengokushiseki.com/?p=4580
  37. 徳川家康幼時幽居の地 竹千代が織田の人質時代に住んでいた場所は? - 歩き旅応援舎 https://arukitabi.biz/blog/20250305a/
  38. 調査№38 https://www.library.city.nagoya.jp/img/reference/chosahoukoku_38.pdf
  39. 徳川家康も真田昌幸も!なぜ戦国時代の「人質」から多くの英傑が生まれたか | サライ.jp https://serai.jp/tour/177472
  40. 小豆坂の戦い/古戦場|ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/aichi-shizuoka-kosenjo/azukizaka-kosenjo/
  41. 岡崎城~徳川家康が生まれた城~ https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/mikawa/okazakijyo.html
  42. 安祥城址を巡る | 観光 - みかわこまち https://mikawa-komachi.jp/spot/anjo-joshi.html