宮津城の戦い(1582)
天正十年、本能寺の変後の混乱に乗じ、細川忠興は明智光秀に与した一色義定を宮津城に誘殺。丹後一国を掌握し、細川氏の天下取りへの重要な布石を築いた。
丹後宮津城の戦い(1582年):本能寺の変、地方権力闘争の縮図
第一章:天正十年、動乱前夜の丹後国
天正10年(1582年)春、織田信長の権勢はまさに旭日の勢いであった。長年の宿敵であった甲斐の武田氏を滅亡させ、東国をほぼ完全にその支配下に置いた信長の視線は、次なる標的である西国の雄、毛利氏へと注がれていた 1 。この壮大な天下統一事業において、日本海に面した丹後国は、毛利氏の背後を突く水軍の拠点、そして兵站基地として、極めて重要な戦略的価値を帯びていたのである。この地に築かれた宮津城は、信長の国家戦略の下で「対外的軍事拠点」として産声を上げた。しかし、歴史の歯車は予期せぬ方向へと回転し、この城はわずか2年でその役割を大きく変え、丹後国内の凄惨な権力闘争の舞台へと変貌することになる。本報告書は、この「宮津城の戦い」と呼ばれる一連の事件を、本能寺の変という激動の時代を背景に、詳細かつ時系列に沿って解き明かすものである。
1-1. 新たな支配者・細川氏の入府
丹後の運命が大きく動き出したのは、天正5年(1577年)に始まる織田信長による丹波・丹後平定作戦であった。明智光秀を総大将とするこの方面軍において、細川藤孝(後の幽斎)とその嫡男・忠興は、中核をなす武将として軍功を重ねた 2 。藤孝は、足利将軍家に仕えた名門の出自でありながら、時代の流れを的確に読み、早くから信長に仕えた智将であった。その功績を認められ、藤孝は丹後国の南半にあたる加佐郡・与謝郡を与えられ、この地を治めることとなった 3 。
当初、細川父子は丹後の伝統的な府中であった八幡山城に入ったが、信長は彼らに新たな城の築城を許可する 5 。こうして、丹後の新たな中心地として宮津の地が選ばれ、細川氏による統治の象徴となる宮津城の建設が開始されたのである。
1-2. 旧来の名門・一色氏との不協和音
一方、丹後には細川氏以前からの支配者がいた。一色氏である。彼らは室町幕府において将軍家に次ぐ家格を誇る「四職」の一つに数えられ、南北朝の時代から約200年にわたり丹後守護として君臨してきた名門中の名門であった 7 。しかし、応仁の乱以降続く戦国の世にあってその権威は大きく揺らぎ、家臣団の内紛や、隣国・若狭の武田氏による度重なる侵攻によって領国は疲弊。「国錯乱」と称されるほどの混乱状態に陥っていた 4 。
織田軍の侵攻に対し、当時の当主であった一色義道は最後まで抵抗の道を選んだが、衆寡敵せず自害に追い込まれた 12 。その跡を継いだのが、息子の義定(史料によっては義俊、あるいは通称の五郎とも記される)であった。
1-3. 政略結婚という名の軛(くびき)
信長の裁定により、丹後は細川氏が南半国を、一色氏が北半国を領有するという分割統治の形がとられた 3 。そして両家の融和を図るため、細川藤孝の娘(忠興の妹)である菊が、一色義定に嫁ぐこととなった 14 。しかし、これは決して対等な婚姻関係ではなかった。実質的には、織田政権の代理人である細川氏の監視下に、旧来の支配者である一色氏を置くための政略であり、一色氏にとっては屈辱以外の何物でもなかったであろう。両家の間には常に水面下での緊張が走り、丹後の地には一触即発の空気が漂っていた 9 。
1-4. 海城・宮津城の戦略的意義
細川氏が築いた宮津城は、単なる居城ではなかった。信長は藤孝に宛てた朱印状の中で、「光秀とよく相談して丈夫に造るように」と明確に指示している 5 。このことから、当代随一の築城家であり、方面軍司令官でもあった明智光秀が、その設計(縄張り)を主導したことがわかる。
光秀は、自身が手掛けた琵琶湖畔の坂本城や大溝城での経験を活かし、宮津湾に直接面した地に、水軍の運用を前提とした本格的な「海城」を構想した 5 。この城の第一義的な目的は、対毛利戦における日本海側の水軍基地であり、毛利方の鳥取城などを海上から攻撃するための前線拠点であった 5 。つまり宮津城は、丹後一国の統治というミクロな視点ではなく、信長の天下統一事業というマクロな戦略構想の中から生まれた、最先端の軍事施設だったのである。
第二章:本能寺の変と細川家の決断
天正10年6月2日未明、京都本能寺より上がった炎は、またたく間に日本全土を揺るがす巨大な動乱の狼煙となった。主君・織田信長、横死。その報は、宮津城にいた細川父子に、一族の存亡を賭けた究極の選択を迫ることになる。盟友であり、姻戚でもあった明智光秀につくのか、それとも旧主への忠義を貫き、謀反人を討つのか。彼らの下した冷徹な政治判断は、丹後の未来を決定づけるだけでなく、戦国という時代の非情さを象徴するものであった。
2-1. 凶報、丹後に届く
信長が本能寺で斃れたという報は、宮津城の細川父子にとってまさに青天の霹靂であった 18 。細川藤孝と明智光秀は、かつて足利義昭に共に仕えた同僚であり、信長配下となってからも丹波・丹後平定戦線を共に戦った盟友であった 19 。さらに、忠興の正室・玉(後のガラシャ)は光秀が最も慈しんだ三女であり、両家は血の繋がりを持つ極めて近い姻戚関係にあった 21 。
2-2. 盟友か、旧主か ― 苦渋の選択
光秀は、細川父子が味方になることを微塵も疑っていなかった。彼は早速、使者を宮津に送り、「この挙兵は自分が天下を望んでのことではない。全ては娘婿である忠興殿を引き立てるためだ」と記した書状を届けさせ、さらには摂津一国を与えるという破格の条件で協力を要請した 18 。光秀の構想において、細川家の軍事力と名声は、新政権の基盤を固める上で不可欠な要素だったのである。
2-3. 幽斎、動く ― 迅速なる政治決断
しかし、細川父子の決断は驚くほど迅速かつ冷徹であった。彼らは光秀からの使者を即座に追い返すと、信長への弔意を示すために髻(もとどり)を切り落として剃髪。信長への忠誠を天下に示すという、断固たる態度を表明したのである 18 。
この時、藤孝が見せた一連の行動は、単なる時勢判断を超えた、老獪なリスク管理術の極致であった。彼は「幽斎玄旨」と号して出家し、家督を嫡男・忠興に譲ると宣言。自らは政治の表舞台から退き、舞鶴の田辺城に隠居するという姿勢を内外に示した 5 。これは、光秀との個人的な盟友関係を「過去のもの」として清算し、自身を政治の最前線から切り離すことで、細川家全体が「逆臣の与党」と見なされるリスクを最小化するための高等戦術であった。そして、丹後国内の「後始末」という汚れ仕事は、血気盛んな新当主・忠興に委ね、自らは文化人「幽斎」として超越的な立場を確保したのである。この巧みな役割分担と自己演出こそ、藤孝が激動の時代を生き抜いた真骨頂であった。
さらに彼らは、備中高松城から驚異的な速さで京へ引き返していた羽柴秀吉に使者を送り、光秀に与しない旨を明確に伝達した 18 。これにより、来るべき新時代の覇者への恭順の意をいち早く示し、自家の安泰を確実なものとしたのである。
2-4. 「逆臣の娘」ガラシャの幽閉
光秀との完全な決別を内外に示すため、忠興は非情な決断を下す。妻・玉を「謀反人の娘」として離縁し、丹後国の山深い味土野(みどの)の地に幽閉したのである 21 。これは愛する妻への仕打ちという個人的な苦悩を超えた、細川家の存続のための冷徹な政治的措置であった。この日から、玉(ガラシャ)の苦難に満ちた、しかし気高い信仰の人生が始まることになる。
第三章:宮津城の謀略:一色義定、非業の最期
本能寺の変を契機とした丹後の動乱は、武士同士が鬨の声を上げてぶつかり合う合戦ではなく、周到に仕組まれた謀略によってその幕を開けた。「宮津城の戦い」の中核をなすのは、城主・細川忠興による一色義定の誘殺事件である。これは、戦国時代が個人の武勇よりも、情報戦や謀略、そして政治的立ち回りが勝敗を決する、より冷徹な時代へと移行していたことを象徴する出来事であった。
表1:天正十年六月~九月 丹後における事象の時系列
日付(天正10年) |
畿内の動向 |
丹後・若狭の動向 |
6月2日 |
本能寺の変、織田信長・信忠自刃 |
凶報が丹後にもたらされる。細川父子、光秀への非協力を決断。一色義定・若狭武田元明は光秀に与力。 |
6月13日 |
山崎の戦い。羽柴秀吉、明智光秀を破る。光秀は敗走中に落命。 |
一色義定、光秀敗死の報を受け弓木城へ撤退。 |
6月27日 |
清洲会議。織田家の後継者問題と領地再配分が決定される。 |
細川忠興、丹後国内の一色氏勢力掃討の計画に着手。 |
7月19日 |
- |
若狭国主・武田元明が、丹羽長秀に攻められ近江海津にて自害 27 。 |
9月8日(有力説) |
- |
細川忠興、一色義定を宮津城に誘い出し、謀殺 14 。 |
9月中旬 |
- |
義定の叔父・一色義清が弓木城で挙兵。細川軍による討伐が開始される。 |
9月28日(一説) |
- |
一色義清が討死し、弓木城が落城。丹後における一色氏の組織的抵抗が終結 14 。 |
3-1. 岐路に立つ一色義定
本能寺の変の報を受け、一色義定はこれを長年の宿敵である細川氏を排除し、丹後一国の支配権を取り戻すまたとない好機と捉えた。彼は迷わず明智光秀に与することを決断する 12 。一説によれば、光秀に呼応して兵船を率い、宮津湾にまで進出するなどの軍事行動を起こしたとされる 31 。しかし、頼みの光秀が山崎の戦いでわずか11日で敗死したという報に接し、義定はなすすべもなく本拠地である弓木城へと引き返さざるを得なかった。この瞬間、彼の運命は事実上決したと言える。
3-2. 忠興の深謀遠慮
羽柴秀吉の勝利は、丹後の力関係を決定的に塗り替えた。光秀に与した一色氏は「逆賊」となり、細川忠興は彼らを討伐する絶対的な大義名分を手に入れた。これは、信長の裁定による不完全な分割統治を終わらせ、秀吉の新政権下で丹後一国を完全に掌握するための、またとない機会であった 15 。しかし、丹後北部には依然として一色氏を支持する国人衆が根強く存在しており、全面戦争となれば無用の血が流れ、平定に時間を要する可能性があった。そこで忠興は、最小限の犠牲で最大限の政治的成果を得るため、指導者である義定を謀略によって排除するという、極めて合理的かつ非情な手段を選択したのである。
3-3. 偽りの宴 ― 宮津城への誘引
計画は周到に進められた。忠興は、戦勝祝い、あるいは完成まもない宮津城の披露などを口実に、妹婿である義定を宮津城での祝宴に招待した 14 。この謀略の実行にあたっては、細川家の重臣である松井康之や米田求政(宗堅)らが中心的な役割を担い、城内に兵を潜ませるなど、万全の準備を整えていた 14 。
3-4. 【リアルタイム解説】天正10年9月8日、宮津城
その日、一色義定は、忠興からの招待に疑念を抱きつつも、もはや畿内の覇者となった秀吉という強大な後ろ盾を得た細川氏の要求を拒むことはできなかった。彼は、運命を悟っていたのかもしれない。わずかな供回りを連れて、本拠の弓木城から宮津城へと向かった。
宮津城内の一角に設けられた饗応の場(一説には重臣・米田氏の屋敷、あるいは城の在番であった有吉将監の屋敷とされる 13 )では、何事もなかったかのように偽りの酒宴が始まった。忠興は義理の弟を丁重にもてなし、酒が酌み交わされ、宴は和やかな雰囲気に包まれていった。
そして、義定主従が完全に油断し、警戒を解いた瞬間、忠興の合図と共に事態は一変する。屋敷の内外に潜んでいた細川方の兵が一斉に鬨の声を上げ、抜刀して襲いかかった。不意を突かれた義定主従に抗う術はなかった。宴の席は一瞬にして凄惨な殺戮の場と化し、義定をはじめとする主従はその場で全員が斬殺された。この粛清は城下にいた雑兵にまで及び、100人余りが討ち取られたとも伝わっている 12 。名門・一色氏の嫡流は、戦場で武士として死ぬことすら許されず、謀略の刃にかかってその生涯を閉じたのである。
第四章:丹後最後の抵抗:弓木城の攻防
主君・一色義定が宮津城で非業の最期を遂げたという報は、丹後北部に雌伏していた一色家残党の怒りと絶望に火をつけた。彼らは、織田・豊臣という新しい中央集権体制の波に飲み込まれていく地方旧勢力の、最後の意地と誇りをかけて、絶望的な戦いに身を投じる。その舞台となったのが、一色氏代々の本拠・弓木城であった。この戦いは、丹後における中世的秩序の完全な終焉を告げる、悲劇的な挽歌となった。
4-1. 義清、立つ ― 一色家再興の旗
甥の無残な死を知った叔父の一色義清(吉原越前守)は、悲嘆に暮れる間もなく立ち上がった。彼は一色家の家督を継ぐことを宣言し、一族郎党や旧臣、そして細川氏の支配を快く思わない国人衆らを結集。弓木城に籠城し、細川氏への徹底抗戦の構えを見せた 12 。後世の軍記物には、この時8500余の兵が馳せ参じたと記されているが 14 、これは誇張であろう。しかし、丹後北部を中心に、なおも名門一色氏に与する勢力が根強く存在していたことは間違いない。
4-2. 細川軍、宮津より出陣
一色残党蜂起の報を受け、細川忠興は自ら討伐軍の総大将となり、宮津城に本陣を置いて弓木城攻略の指揮を執った 14 。彼は、力攻めだけでは損害が大きいと判断し、巧みな用兵術を展開する。軍を二手に分け、本隊は自らが率いて弓木城の正面(大手口)へ進軍。一方、別動隊を弟の細川興元に率いさせ、丹後北部の奥三郡に残る一色方の諸城を制圧しながら大きく迂回し、弓木城の背後(搦手口)を突くという挟撃作戦を立てたのである 12 。
4-3. 【リアルタイム解説】弓木城攻防戦
弓木城は、正面を野田川が天然の堀として流れ、対岸の倉梯山にも出城を構えるなど、防御に優れた堅固な山城であった 14 。城内には、一色氏の命運を託された精鋭たちが固い決意で立て籠もっていた。
攻防戦の序盤、細川軍を最も苦しめたのは、城将の一人であった稲富伊賀守(直家)の存在であった。彼は、後に「稲富流砲術」の開祖として天下に名を馳せる鉄砲の名手であり、彼の指揮する鉄砲隊が火を噴くと、その正確無比な射撃によって細川方の兵が次々と斃れた 14 。稲富は、敵の銃弾を防ぐために二枚の胴丸を重ね着し、冷静に敵将を狙撃したため、「二領具足」の異名で両軍に恐れられたという逸話も残っている 31 。
正面からの力押しが困難と見た忠興は、無理な突撃を避け、包囲を固めて興元率いる別動隊が戦場に到着するのを待った。そして天正10年9月28日(一説)、ついにその時が訪れる。奥三郡を制圧した興元隊が、弓木城の背後にそびえる大内峠を越え、奇襲攻撃を開始したのである 14 。これを合図に、正面で待機していた忠興の本隊も一斉に総攻撃を仕掛けた。
前後から挟み撃ちにされた一色軍は、奮戦むなしく総崩れとなった。城兵は混乱に陥り、大将格の大江越中守や杉山出羽守といった主だった武将が次々と討ち死にしていく 14 。もはや、落城は時間の問題であった。
4-4. 一色義清、壮絶なる最期
味方の壊滅と城の命運が尽きたことを悟った一色義清は、武士として最後の花道を飾るべく、驚くべき行動に出る。城を打って出て、残るわずかな手勢と共に、敵本陣にいる総大将・細川忠興の首一つを狙い、決死の突撃を敢行したのである 31 。
義清は鬼神のごとく奮戦し、数カ所に深手を負いながらも敵兵を斬り伏せて進んだ。しかし、大軍を前に衆寡敵せず、ついに力尽きる。彼は忠興の本陣を目前にしながら、宮津の海岸(後の宮津城三の丸北東部とされる場所)まで走り、そこで自刃して壮絶な最期を遂げた 14 。
一色義清の死をもって、丹後における一色氏の組織的な抵抗は完全に終結した。南北朝時代から続いた名門守護家の歴史は、ここに幕を閉じたのである 13 。彼の死は、武士としての意地と滅びの美学という、旧来の価値観の最後の輝きであったのかもしれない。
第五章:周辺勢力の動向と戦後処理
丹後における一色氏の滅亡は、単独の事件ではなかった。それは、本能寺の変という中央政局の大変動が、地方の勢力図をドミノ倒しのように一気に塗り替えていく過程の一環であった。視点を丹後国外にも広げると、この粛清が羽柴秀吉陣営による、周到に計画された「光秀与党の一掃作戦」であったことが浮かび上がってくる。
5-1. 若狭武田氏の滅亡
丹後一色氏と同様に明智光秀に与した隣国・若狭の国主、武田元明もまた、悲運の道をたどった。彼は、甲斐武田氏の宗家にあたる名門・若狭武田氏の嫡流であったが、幼少期を越前朝倉氏の人質として過ごすなど、その生涯は苦難に満ちていた 27 。
山崎の戦いの後、秀吉陣営の重鎮である丹羽長秀が若狭に進駐。元明は天正10年7月19日、近江国海津の宝幢院に呼び出され、光秀に加担した罪を問われて自害させられた 27 。丹後の一色義定が謀殺される約2ヶ月前の出来事である。これにより、名門・若狭武田氏もまた、歴史の舞台から完全に姿を消した。
特筆すべきは、元明の妻であった京極竜子のその後である。彼女は近江の名門・京極高次の妹であり、その類稀なる美貌から、後に秀吉の側室(松の丸殿)となり、数奇な運命をたどることになる 27 。
丹後の一色氏粛清と、若狭の武田氏滅亡。この二つの事件は、地理的に隣接する二国で、ほぼ同時期に、同じ理由(明智方への加担)で旧来の支配者が排除されたという点で、明確に連動している。これらは、山崎の戦いに勝利した羽柴秀吉陣営による、畿内およびその周辺地域における戦後秩序形成の一環として位置づけられるのである。
5-2. 丹後国の平定完了
一色氏の残党を完全に掃討した細川忠興は、名実ともに丹後一国(約12万石)の支配者としての地位を確立した。これにより、信長の裁定による不安定な分割統治状態は終わりを告げ、丹後は細川氏のもとで統一された。
一色氏の旧臣の中には、弓木城の攻防戦で細川軍を大いに苦しめた鉄砲の名手・稲富直家のように、その才能を高く評価され、細川氏に仕官する者もいた 16 。忠興は、抵抗勢力を力でねじ伏せる一方で、有能な人材は登用するという、現実的な領国経営を行ったのである。
5-3. 祟りを鎮める ― 一色稲荷社の創建
武力で丹後を統一した後、細川氏は興味深い行動に出る。謀殺した一色義定の怨霊を鎮めるため、その終焉の地である宮津城内に「一色稲荷神社」を建立したのである 4 。
これは、非道な手段で敵を滅ぼしたことへの後ろめたさの表れであると同時に、怨霊信仰が現実的な力を持つと信じられていた当時の精神世界を色濃く反映している。新たな支配者として領民の心を掌握するためには、武力による支配だけでなく、こうした精神的な慰撫もまた、不可欠な統治行為だったのである。この神社は、戦国の世の非情さと、それと裏腹の深い信仰心とが同居していた事実を、今に伝えている。
第六章:結論:「宮津城の戦い」が残したもの
天正10年(1582年)の夏から秋にかけて丹後国で繰り広げられた一連の事件、すなわち「宮津城の戦い」は、単なる一地方の権力交代劇に留まらない、重要な歴史的意義を持っている。それは、本能寺の変という中央政権の崩壊が、地方の勢力図をいかに劇的に、そして非情に塗り替えていったかを示す、まさに時代の縮図であった。
6-1. 丹後における細川支配の確立
この「戦い」を経て、細川氏は丹後における盤石な支配体制を築き上げた。これにより、細川家は安定した領国経営の基盤を得ることができた。この基盤があったからこそ、後の関ヶ原の戦いにおいて、当主・忠興は後顧の憂いなく徳川家康方として参陣し、大きな功績を挙げることが可能となった。そして戦後、その功により豊前国中津・小倉39万9千石という大大名へと飛躍する礎を築いたのである 4 。丹後での非情な決断と勝利が、近世大名・肥後細川家の輝かしい未来を切り開いたと言っても過言ではない。
6-2. 本能寺の変後の地方権力再編の縮図
「宮津城の戦い」は、戦国時代末期から安土桃山時代にかけての権力移行のダイナミズムを、これほど鮮やかに示す事例は少ない。時代の変化を読み誤り、旧来の価値観に固執した名門守護大名(一色氏、若狭武田氏)が滅び、時流を的確に捉えて迅速かつ冷徹に行動した新興勢力(細川氏)がその地位を奪う。この構図は、本能寺の変後の日本各地で繰り広げられた権力闘争の典型であった。細川藤孝・忠興父子の政治的判断力と実行力は、乱世を生き抜くための要諦が、もはや家柄や伝統ではなく、情報収集力、決断の速さ、そして時には非情な謀略をも厭わない現実主義にあることを雄弁に物語っている。
6-3. 宮津城の運命
一色氏粛清の謀略の舞台となった宮津城は、その後、細川氏の丹後支配の拠点として整備され、栄華を誇った。しかし、その運命もまた、細川家と同様に波乱に満ちたものであった。築城からわずか20年後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦「田辺城籠城戦」において、城主・忠興の留守を守る父・幽斎は、西軍の大軍を前に宮津城と田辺城の両方を守ることは不可能と判断。苦渋の決断の末、自らの手で宮津城に火を放ち、自身の隠居城である田辺城での籠城戦に全てを賭けたのである 5 。
信長の天下統一の夢を乗せて築かれ、一色氏滅亡の血塗られた舞台となり、そして最後は細川家の未来のために自らの手で焼かれる。宮津城は、細川家の丹後時代における栄光と苦難、そして非情な決断の全てを見届けた、歴史の証人なのである。
引用文献
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- 昔人の物語(47) 明智光秀「謀反の真実は?」 | 医薬経済オンライン https://iyakukeizai.com/beholder/article/1057
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- 丹後 宮津城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/tango/miyazu-jyo/
- 宮津ゆかりの3武将【一色氏・細川氏・京極氏】どんな武将かご存知? - 宮津市 https://www.city.miyazu.kyoto.jp/site/citypro/12753.html
- 大河ドラマ「麒麟がくる」宮津市推進協議会 - 天橋立観光協会 https://www.amanohashidate.jp/garasha/
- 細川ガラシャ悲劇の序曲!本能寺の変後に丹後で何がおきたのか?【謎解き歴史紀行「半島をゆく」歴史解説編】丹後半島 | サライ.jp https://serai.jp/tour/68450
- 宮津へようこそ、丹後の守護一色氏 https://www.3780session.com/miyazuiltushikiuji
- 武田元光・信豊の丹後出兵 - 『福井県史』通史編2 中世 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-4-01-01-05-02.htm
- 1578 丹後攻略: WTFM 風林火山教科文組織 https://wtfm.exblog.jp/17441166/
- 宮津城跡 - sogensyookuのブログ https://sogensyooku.hatenablog.com/entry/2025/01/14/211846
- 丹後の守護一色義俊の謀殺は密かに進められていった - 宮津へようこそ https://www.3780session.com/miyazuiltushikiujibousatu
- 細川忠興の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46498/
- 弓木城跡 - 与謝野町観光協会 https://yosano-kankou.net/kankou/%E5%BC%93%E6%9C%A8%E5%9F%8E/
- 細川藤孝と明智光秀が築城!幻の海城「宮津城」の知られざる歴史とは https://miyazu-city.note.jp/n/nd945477e5131
- 本能寺の変の明智光秀と細川藤孝 玉の三戸野への幽閉と小侍徒のこと - note https://note.com/shigetaka_takada/n/nd89c6b34105f
- www.guidoor.jp https://www.guidoor.jp/media/hosokawa-tadaoki-garasha/#:~:text=%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%81%AB%E4%BB%95%E3%81%88%E3%81%9F%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E8%88%88%E3%81%AE%E7%88%B6%E8%97%A4%E5%AD%9D%E3%81%A8%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80,-%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E8%97%A4%E5%AD%9D%EF%BC%88%E5%B9%BD%E6%96%8E&text=%E3%81%97%E3%81%8B%E3%81%9713%E4%BB%A3%E5%B0%86%E8%BB%8D%E8%B6%B3%E5%88%A9,%E6%B5%81%E6%B5%AA%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82&text=%E3%81%9D%E3%82%93%E3%81%AA%E8%97%A4%E5%AD%9D%E3%81%AE%E5%90%8C%E5%83%9A%E3%81%A7,%E3%81%AE%E3%81%8C%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82
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