最終更新日 2025-09-06

富山湾・放生津口再戦(1585)

天正十三年「富山湾・放生津口再戦」は、佐々成政の富山湾岸制圧戦を指す。前田利家と秀吉本隊の侵攻で海からの生命線を断たれ、富山城は孤立。陸海からの周到な包囲が成政の降伏を決定づけた。
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天正十三年 越中沿岸攻防戦史 —「富山湾・放生津口再戦」の実像と富山の役—

序章:天正十三年、北陸の風雲

本報告書は、天正13年(1585年)に羽柴秀吉が佐々成政を攻めた「富山の役」において、特に富山湾岸、とりわけ放生津口周辺で展開された一連の軍事行動を、可能な限り時系列に沿って再構築し、その戦略的意義を明らかにすることを目的とする。越中の覇権を巡るこの戦役は、単なる一地方の攻防に留まらず、織田信長亡き後の天下統一事業における重要な一里塚であった。

本調査の端緒となった「富山湾・放生津口再戦」という呼称は、しかしながら、同時代の一次史料や主要な二次史料において、単一の明確な合戦名として確認することは困難である 1 。この名称は、前年の天正12年(1584年)に繰り広げられた佐々成政と前田利家による末森城の戦いを「第一戦」とみなし、翌天正13年における両勢力の沿岸部での対決を「再戦」と捉えた、後世の解釈あるいは通俗的な呼称である可能性が高い。

したがって、本報告書では、特定の日に発生した単一の合戦を探求するというアプローチは採らない。その代わりに、天正13年の春から夏にかけての前田利家軍による越中沿岸部への段階的な侵攻と、それに続く秀吉本隊による最終的な軍事制圧までの一連のプロセス全体を、広義の「放生津口を巡る攻防」と定義する。これにより、佐々成政が拠った越中という国が、いかにして陸と海から、軍事的かつ政治的に追い詰められていったかの実態を、多角的に詳述するものである。

第一部:開戦に至る道程 — 孤狼、佐々成政の決断

佐々成政が、天下の趨勢となりつつあった羽柴秀吉という巨大な勢力に対し、なぜ単独で抗うという、一見無謀とも思える道を選んだのか。その答えは、彼の武将としての性格、旧主・織田家への揺るぎない忠誠心、そして隣国の雄・前田利家との個人的な確執という、複数の要因が複雑に絡み合った結果であった。

第一章:織田家旧臣たちの相克

天正10年(1582年)の本能寺の変による織田信長の死は、日本の政治地図に巨大な権力の真空を生み出した。その後継者の座を巡り、織田家臣団は激しく対立。その中で頭角を現したのが羽柴秀吉であった。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで、織田家筆頭家老であった柴田勝家を破った秀吉は、織田家中の主導権を事実上掌握するに至った 2

この新たな秩序に反発する勢力も少なくなかった。天正12年(1584年)、信長の次男・織田信雄が徳川家康と結び、秀吉に対抗の兵を挙げた(小牧・長久手の戦い)。佐々成政は、信長への旧恩と織田家への忠義を貫く立場から、そして秀吉の台頭を快く思わぬ感情から、この信雄・家康方に与することを決断する 2 。この決断が、彼自身の、そして越中の国の運命を大きく左右することになる。

成政の行動は、まず秀吉方についた隣国の前田利家に向けられた。両者はかつて信長の下で北陸方面軍を構成する同僚であったが、信長死後の路線対立により、その関係は修復不可能なまでに冷え切っていた 3 。成政は、利家の領国である加賀と能登を分断し、北陸における反秀吉の橋頭堡を築くべく、軍事行動を開始した。これが、富山の役の前哨戦と位置づけられる「末森城の戦い」である。

天正12年9月、成政は1万5千と号する大軍を率いて能登へ侵攻し、要衝・末森城を包囲した 6 。城を守る奥村永福らの兵はわずか数百。落城は時間の問題かと思われた。しかし、金沢城で急報を受けた前田利家は、わずか2,500の兵を率いて決死の救援に駆けつける。悪路を疾駆し、佐々軍の警戒網を巧みに潜り抜けた利家は、翌朝、末森城を攻める佐々軍の背後を強襲した 3 。不意を突かれた成政軍は混乱し、城兵の奮戦もあって挟撃される形となり、敗北を喫した。

この敗北は成政にとって大きな軍事的痛手となっただけでなく、利家との遺恨を決定的なものとした。しかし、この時の成政軍の撤退ぶりは「金色に輝きながら一糸乱れず、整然として引き揚げた」と伝えられ、敵将である利家をして「敵将ながら見事」と感嘆せしめたという 8 。この逸話は、成政が卓越した指揮官であったことを示すと同時に、一度決めた道を突き進む彼の剛直さ、あるいは頑固さをも象徴している。この敗戦後も、彼は秀吉への抵抗の意思を微塵も曲げることはなかった。

第二章:「さらさら越え」の悲壮

末森城での敗北から間もなく、佐々成政を更なる窮地へと追い込む報せが届く。彼が味方していた織田信雄が、成政に何の相談もなく、秀吉と単独で和睦してしまったのである 4 。これにより、成政は秀吉に反抗するための大義名分を完全に失い、政治的・軍事的に完全に孤立した。

万策尽きたかに見えた成政であったが、彼は常人の発想を超えた行動に出る。最後の望みを託し、徳川家康に直接会って再度の挙兵を促すため、厳冬期の北アルプス・立山連峰を踏破するという、前代未聞の決断を下したのである 8 。この決死の行軍は、ザラ峠を越えたことから、後に「さらさら越え」として語り継がれることになる 10

この行動は、単に家康の援軍を要請するためだけの合理的な軍事行動とは言い難い。周囲を前田、上杉といった敵対勢力に囲まれ、正規の街道を行くことは不可能であった 8 。しかし、厳冬期の峻険な山々を越えることは、死と隣り合わせの暴挙に等しかった。これは、秀吉が築こうとする新しい「天下」の秩序に対する成政の生理的なまでの反発と、信長から託された北陸の安寧という旧主への「義」に殉じようとする、極めて個人的で情念的な動機に基づいた行動であった。彼の頑固で我の強いと評された性格が 11 、この極端な選択をさせたのである。この行軍は、成政の武将としての矜持を懸けた、最後の意思表明であった。

しかし、その悲壮な覚悟が報われることはなかった。命からがら浜松城に辿り着き、家康に面会したものの、時勢は既に秀吉にあり、家康は動かなかった 2 。絶望の中、成政は再び雪深い山を越えて越中へ帰国する。秀吉による大規模な征伐がもはや不可避であることを悟った彼は、固く城の守りを固め、来るべき決戦に備えるのであった。

第二部:富山の役、開戦 — 秀吉の大軍、越中を呑む

佐々成政の抵抗に対し、羽柴秀吉は天下統一事業の総仕上げの一つとして、その圧倒的な軍事力と巧みな政治戦略を駆使して越中へと乗り出す。これは単なる一地方大名の征伐ではなく、未だ服従せぬ全国の大名、特に徳川家康や北条氏政らに自らの威光を見せつけるための、壮大なデモンストレーションであった。

第三章:豊臣軍の動員と進発

天正13年6月、紀州征伐を終え、7月には長宗我部元親を降して四国を平定した秀吉は、その勢いのまま、次なる標的を越中の佐々成政に定めた 1 。同月、関白に就任した秀吉は、その権威を背景に、全国の大名に成政討伐の動員令を発する。

この遠征において、秀吉は巧みな政治的演出を施した。総大将に、かつて成政が味方した織田信雄を名目上据えたのである 1 。これにより、この戦いを秀吉個人の野心によるものではなく、あくまで「織田家の秩序を乱した者を、織田家当主が討伐する」という体裁を整え、自らの行動を正当化した。

動員された兵力は、秀吉自らが率いる本隊に加え、前田利家、丹羽長重、そして総大将の織田信雄らの軍勢が集結し、総勢10万とも号する未曾有の大軍となった 13 。閏8月7日、秀吉は京を発し、近江、越前、加賀を経て、同19日には加賀国津幡から越中領内へと進軍を開始した 1

秀吉の戦略は、単に正面から大軍で圧殺するだけのものではなかった。成政にあらゆる逃げ道と思惑を断ち切らせる、周到な「戦略的包囲網」が敷かれていた。

  • 西から: 秀吉率いる10万の本隊が、加賀国境から越中西部へと侵攻する。
  • 東から: 越後の上杉景勝が秀吉に呼応し、大軍を越中との国境まで進出させ、東からの圧力を加える 1
  • 南から: 成政の同盟者であった飛騨の姉小路頼綱に対し、金森長近を将とする別働隊を派遣。秀吉本隊の越中侵攻とほぼ同時に飛騨を制圧し、南からの救援ルートを完全に遮断した(飛騨征伐) 1

この西・東・南の三方向からの同時進攻は、成政に物理的な籠城を強いるだけでなく、心理的にも「天下すべてが敵である」と認識させ、戦意そのものを喪失させることを主目的としていた。軍事行動そのものが、最大の心理戦であった。これは、後の小田原征伐にも通じる、戦わずして勝つことを理想とする秀吉の得意とする戦法であり、この富山の役はその完成された雛形であったと言える。

第四章:佐々軍の防衛戦略

秀吉の圧倒的な大軍に対し、野戦で雌雄を決することが無謀であることは、成政自身が最もよく理解していた。彼の採った戦略は、ただ一つ。越中国内に点在させていた三十六の城塞や拠点から兵を順次引き揚げさせ、全ての戦力を居城である富山城に集中させる徹底した籠城策であった 1

この富山城こそ、成政が最後の望みを託した拠点であった。彼は越中統治時代、領内の治水事業に心血を注いだが 4 、その一環として神通川の流路を大きく変更し、城の外堀として利用する大規模な改修工事を行っていた 18 。これにより、富山城は天然の要害と人工の防御施設が一体化した、難攻不落の「浮城」とも呼ばれる堅城へと生まれ変わっていた 1 。力攻めを行えば、いかに秀吉の大軍といえども多大な犠牲を強いられることは必至であり、秀吉自身も水攻めによる攻略を計画したと伝えられている 1

しかし、その堅城に籠もる佐々軍の兵力は、最大でも2万程度と推定される。対する豊臣連合軍は10万。兵力差は歴然としており、外部からの援軍の望みも完全に断たれていた。成政と彼の家臣団は、まさに袋の鼠であった。

表1:富山の役 主要参戦武将と推定兵力

勢力

総大将/城主

主要武将

推定兵力

備考

豊臣連合軍

(名目上)織田信雄

羽柴秀吉、前田利家、前田利長、丹羽長重、金森長近、上杉景勝(呼応)

約100,000

秀吉本隊、先鋒、飛騨方面軍、越後からの牽制軍を含む総兵力。

佐々軍

佐々成政

神保氏張、佐々平左衛門

約20,000

越中国内から富山城に集結させた兵力。

この数字は、佐々成政が置かれた絶望的な状況を何よりも雄弁に物語っている。この戦いは、もはや戦術や将の勇猛さで覆せる段階を遥かに超えていた。それは、旧時代の秩序を代表する一人の武将が、新しい時代の奔流に飲み込まれていく、抗いようのない歴史の必然であった。

第三部:富山湾岸の攻防 — 放生津口を巡る戦いの再構築

本報告書の中核を成すこの部では、大規模な海戦の記録が乏しい中で、断片的な史料を繋ぎ合わせ、「放生津口再戦」と称される一連の沿岸制圧作戦の実像に迫る。それは、後世の我々が想像するような華々しい合戦ではなく、富山城に籠もる佐々成政の生命線を断ち切るための、地道で執拗な戦略的絞殺の過程であった。

第五章:放生津の戦略的重要性

放生津(現在の富山県射水市新湊地区)は、古代より奈呉の浦(現在の富山湾)に面した天然の良港として栄えていた。鎌倉時代には越中の守護所が置かれ、長くこの地域の政治・経済・文化の中心地としての役割を担ってきた 19

戦国時代に入ると、この地は越中守護代であった神保氏の拠点となり、放生津城が築かれた 19 。佐々成政の時代には、神保氏の拠点は富山城に移っていたものの 24 、放生津が越中の海の玄関口としての重要性を失ったわけではなかった。特に、成政の与力として越中西部の守りを担っていた神保氏張にとって、この地は自身のルーツにも関わる重要な地域であった 25

富山城に籠城する成政にとって、放生津を含む富山湾岸は、最後の希望とも言うべき生命線であった。万が一の際の海からの補給路、あるいは脱出路となる可能性を秘めていたからである。また、神保氏張をはじめとする沿岸部を固める家臣団との連携を保つ上でも、この地域の確保は絶対条件であった。秀吉と前田利家が、この生命線を執拗に狙ったのは当然の戦略であった。

第六章:沿岸部における前哨戦(天正13年春〜夏)

秀吉本隊が越中に雪崩れ込む以前から、富山湾岸では既に静かで熾烈な戦いが始まっていた。主役は、前年の末森城の戦いで成政に煮え湯を飲まされた前田利家であった。

【時系列①:天正13年2月〜3月】前田軍、越中侵攻を開始

前年の末森城の戦いの後、守勢に転じていた佐々軍に対し、前田利家は年が明けた天正13年から攻勢に転じた 27 。これは、秀吉本隊の到着を待たずして開始された軍事行動であり、単なる秀吉の命令遂行という側面だけでなく、前田家自身の領土拡大への強い意欲と、宿敵・佐々成政への個人的な報復という側面を色濃く反映していた。利家は、秀吉という巨大な権威を背景に、長年のライバルであった成政の領地を、自らの手で切り崩しにかかったのである 5

2月25日、利家は越中西部の砺波郡蓮沼を攻め、周辺を焼き払った。これに対し、佐々方の勇将・佐々平左衛門が井波城から出撃し、両軍の間で小競り合いが発生したと記録されている 27 。これは、越中沿岸部を巡る一連の攻防の火蓋を切る出来事であった。

【時系列②:天正13年4月〜6月】阿尾城を巡る攻防と菊池氏の離反

春になると、前田利家は軍事行動と並行して、巧みな調略を開始する。標的となったのは、富山湾西岸の氷見湊を支配する阿尾城主・菊池武勝であった。4月、利家の説得に応じた菊池氏は、ついに成政を裏切り、前田方へと寝返った 9

この離反は、佐々成政の求心力が急速に低下していることを象徴する決定的な出来事であった。菊池氏の離反に関しては、成政が富山城の桜馬場で催した馬揃えの際に菊池氏の面目を潰したことが原因とする逸話が伝わっている 28 。しかし、この逸話自体は、菊池氏の裏切りを正当化し、成政を器量の狭い愚将として描くために後世に創作された可能性が高いとみられている 28 。より現実的な理由は、圧倒的な秀吉・前田連合軍の圧力の前に、国衆である菊池氏が自家の生き残りを懸けて将来性のある側に付いた、という政治的判断であろう。一国衆の動向は、大勢力の趨勢を敏感に反映する。菊池氏の離反は、佐々氏の支配体制が内部から崩壊し始めていた証左であり、他の国衆の離反を誘発しかねない、軍事的な敗北以上に深刻な政治的敗北であった。

事態を重く見た成政は、6月、腹心の神保氏張に命じて阿尾城を攻撃させるが、既に前田方の支援を受けていた菊池軍の前に撃退されてしまう 26 。この敗北により、富山湾西岸の制海権は事実上、前田方の手に落ち、富山城は海からの孤立を一層深めることになった。

第七章:「放生津口再戦」の実像 — 沿岸制圧の最終段階

【時系列③:天正13年8月19日以降】秀吉本隊到着と沿岸部の完全制圧

閏8月19日、ついに秀吉率いる本隊が越中へと入る。これ以降、富山湾岸の戦況は最終局面を迎えた。前田軍を先導役として、豊臣の大軍は抵抗する沿岸部の諸城や拠点を次々と制圧していったと考えられる。

神保氏張の本拠であった守山城も、この時期に放棄、あるいは開城を余儀なくされたとみられる。氏張は残存兵力を率いて富山城へと合流し、主君・成政と運命を共にすることを選んだ 26

神保氏の旧拠点であった放生津城も、この豊臣軍の進軍の前に抵抗らしい抵抗もできずに制圧された可能性が極めて高い。近年の発掘調査では、城跡から戦国期の遺物が出土しているものの 19 、大規模な攻城戦が行われたことを示す痕跡は見つかっていない。これは、圧倒的な軍事力の前に、放生津の守備兵が戦わずして降伏、あるいは撤退したことを示唆している。

また、この戦役において、大規模な海戦が行われたという記録は見当たらない。当時、豊臣政権は九鬼嘉隆に代表される強力な水軍を擁していたが 32 、富山の役への本格的な動員の記録はない。これは、陸路からの圧倒的な進軍によって沿岸部が次々と制圧されたため、海からの攻撃や海上封鎖といった水軍の活動がそもそも不要であったことを意味している。

以上の検証から、「富山湾・放生津口再戦」の実像が明らかになる。それは、 特定の日に発生した単一の海戦や攻城戦ではなく、天正13年の春から夏にかけて、前田軍による漸進的な侵食と、秀吉本隊の到着による最終的な制圧という、一連の「沿岸制圧作戦」の総称 であると結論付けられる。それは、富山城に籠もる佐々成政の最後の希望であり生命線を断ち切るための、静かで、しかし確実な絞殺のプロセスであった。

第四部:決着と戦後

圧倒的な物量と周到な戦略の前に、一人の武将の意地と誇りは打ち砕かれた。富山の役の決着は、佐々成政という旧時代の英雄の没落と、前田利家という新時代の覇者の飛躍を、残酷なまでに対照的に描き出すこととなる。

第八章:富山城、落つ

閏8月19日以降、富山城は完全に包囲された。秀吉は、城の東方に聳える呉羽丘陵の白鳥城に本陣を構え、眼下に浮かぶ「浮城」を睥睨した 8 。さらに、安田城や大峪城といった周辺の城塞を拠点として包囲網を固め、富山城への圧力を日に日に強めていった 9

もはや援軍の望みはなく、外部との連絡も完全に遮断された。秀吉が水攻めの準備を進めているとの情報も城内に伝わったであろう 1 。圧倒的な兵力差を前に、成政の戦意は次第に萎えていった。城内の家臣たちの中には最後まで抗戦を主張する者もいたが、成政はこれ以上の抵抗が無益であり、領民を無用な戦禍に巻き込むべきではないと判断したと伝えられている 4

閏8月26日、成政はついに降伏を決意。名目上の総大将である織田信雄の仲介を受け入れた 8 。彼は呉羽山麓の安養坊にて自ら剃髪して恭順の意を示し 8 、白鳥城の秀吉のもとへ出頭した。その降伏の道中、包囲軍の中にいた前田家の兵卒たちから嘲笑を浴びせられたという逸話は、勝者と敗者の残酷なコントラスト、そして成政の無念さを生々しく伝えている 8

この時、秀吉は「成政を降参させるのに太刀も刀もいらなかった」と豪語したとされる 33 。これは、武力によってではなく、自らの権威と威信によって成政を屈服させたことを天下に示す、秀吉の巧みな政治的パフォーマンスであった。

第九章:越中の新秩序と成政の末路

戦後処理は迅速かつ冷徹に進められた。秀吉は降伏した成政の命こそ助けたものの、その所領は大幅に削減され、越中東部の新川郡一郡のみが安堵されるに留まった 13

そして、成政が失った神通川以西の越中三郡(射水・砺波・婦負)は、長年の宿敵であった前田利家の子、利長に与えられた 13 。利長は早速、神保氏張の旧拠点であった守山城に入り、越中西部の支配を開始する。さらに秀吉は、閏8月5日、成政が心血を注いで築き上げた富山城を徹底的に破却するよう命じ、その戦略的機能を完全に破壊した 34

成政のその後の運命は、悲劇的であった。妻子と共に大坂へ移ることを強要され、秀吉の側近である御伽衆の一人に加えられた 38 。これは名誉職のようで、実態は監視下に置かれた人質であった。天正15年(1587年)、九州平定における功績を認められ、肥後一国を与えられるが、これは未だ国情が不安定な土地へ厄介払いされた、実質的な左遷であった 2

彼の剛直で我の強い性格は、肥後の統治においても災いした。性急な検地の実施などが現地の国人衆の激しい反発を招き、大規模な一揆が勃発する 11 。秀吉はこの失態の責任を厳しく問い、天正16年(1588年)、成政に切腹を命じた 6 。その最期は、短刀で腹を横一文字に掻き切った後、自らの臓腑を掴み出して天井に投げつけたと伝えられるほど、壮絶なものであったという 18

一方、この戦いの結果、前田家は越中の大半を所領に加え、その勢力を飛躍的に拡大させた。佐々成政との長年にわたる北陸での覇権争いは、前田家の完全な勝利をもって終結し、後の「加賀百万石」と称される広大な領国の盤石な礎が、ここに築かれたのである。

結論:富山の役が戦国史に刻んだもの

本報告書における詳細な検証の結果、「富山湾・放生津口再戦」という呼称が指し示す歴史的実像が明らかとなった。それは、特定の日に限定された単一の海戦や攻城戦ではなく、天正13年の春から夏にかけ、富山湾岸一帯で繰り広げられた一連の 沿岸制圧プロセス であった。羽柴秀吉の周到な戦略的包囲網の下、前田利家の執念深い軍事行動が、佐々成政に残された最後の希望と生命線を、陸と海から断ち切っていく過程そのものであったと言える。

この戦役の中心人物である佐々成政は、決して単なる時代の敗北者ではない。彼は織田信長に深く信頼され、その武勇は「武者の覚え(武士の鑑)」と評された、当代屈指の武将であった 2 。越中においては治水事業に多大な功績を残し、領民からも慕われていた 4 。しかし、その信長への忠義に生きるという旧時代の価値観と、我を曲げぬ剛直な性格 11 が、秀吉の築く新しい時代の潮流を見誤らせた。彼の生涯は、自らの信じる「義」のために、巨大な時代の変化に抗い、そして殉じた、一人の武人の悲劇として捉えることができる。

そして、この富山の役は、豊臣政権の確立過程において極めて重要なマイルストーンであった。秀吉は、この戦いを通じて、自らの圧倒的な軍事動員力と、敵を戦わずして屈服させる巧みな政治戦略を、天下に満天下に示した。抵抗する勢力を容赦なく、しかし計算高く制圧するその手法は、その後の九州征伐や小田原征伐の雛形となった。この越中征伐をもって、秀吉は織田家の旧臣たちを完全に自らの支配下に組み込み、豊臣政権の盤石な基盤を築き上げたのである。一人の武将の没落の影で、新しい天下人の時代が、確固たるものとして幕を開けたのであった。


巻末資料:天正12年〜13年 越中関連軍事行動年表

年月

出来事

主要人物

関連史料

天正12年(1584) 8月

朝日山城の戦い

佐々成政、前田利家

7

天正12年(1584) 9月

末森城の戦い

佐々成政、前田利家、奥村永福

4

天正12年(1584) 11月

織田信雄、秀吉と講和

織田信雄、羽柴秀吉

4

天正12年(1584) 12月

佐々成政、「さらさら越え」で浜松へ

佐々成政、徳川家康

2

天正13年(1585) 2月

前田軍、越中蓮沼へ侵攻

前田利家、佐々平左衛門

27

天正13年(1585) 4月

阿尾城主・菊池武勝が前田方へ離反

菊池武勝、前田利家

9

天正13年(1585) 6月

神保氏張、阿尾城を攻めるも敗退

神保氏張

26

天正13年(1585) 7月

秀吉、関白に就任。佐々成政討伐を決定

羽柴秀吉

1

天正13年(1585) 閏8月7日

秀吉、京を出陣

羽柴秀吉

1

天正13年(1585) 閏8月19日

秀吉軍、越中へ侵攻。富山城を包囲

羽柴秀吉、佐々成政

1

天正13年(1585) 閏8月26日

佐々成政、降伏

佐々成政、織田信雄

8

天正13年(1585) 9月以降

戦後処理。越中三郡が前田利長へ

羽柴秀吉、前田利長

34

引用文献

  1. 富山の役 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E3%81%AE%E5%BD%B9
  2. 佐々成政(さっさ なりまさ) 拙者の履歴書 Vol.282~志高く 荒波に散る~|デジタル城下町 - note https://note.com/digitaljokers/n/nf50873d596ec
  3. 末森城の戦いは前田家の運命を決めた!前田利家 VS 佐々成政とその後 - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/14388/
  4. 民衆を愛した佐々成政~真実だった、厳冬の北アルプス"さらさら越え" https://www.ccis-toyama.or.jp/toyama/magazine/narimasa/sasa0204.html
  5. 16 「前田利家 VS 佐々成政」 - 日本史探究スペシャル ライバルたちの光芒~宿命の対決が歴史を動かした!~|BS-TBS https://bs.tbs.co.jp/rival/bknm/16.html
  6. 本能寺の変で暗転した佐々成政の生涯 富山城を秀吉軍10万に囲まれるも大大名に復活、波乱の結末が待っていた | グルメ情報誌「おとなの週末Web」 https://otonano-shumatsu.com/articles/408607/3
  7. 末森城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%A3%AE%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  8. 佐々成政と富山 https://www.ccis-toyama.or.jp/toyama/magazine/narimasa/sasa0201.html
  9. 佐々成政の居城「富山城」の歴史と巨石「鏡石」 https://sengoku-story.com/2019/05/22/sengoku-trip-etsuhi0002/
  10. 北アルプス登山史の謎! 戦国武将佐々成政の厳冬期「さらさら越え」に迫る | YAMAP MAGAZINE https://yamap.com/magazine/13850
  11. 負けず嫌いが身を滅ぼした豪傑型武将【佐々成政】とは⁉ - 歴史人 https://www.rekishijin.com/41108
  12. 富山の怪談・佐々成政にまつわる早百合伝説の真実とは?惨殺された美女の怨念? - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/98188/
  13. ふるさと再発見 富山県ができるまで | GOOD LUCK TOYAMA|月刊グッドラックとやま https://goodlucktoyama.com/article/feature/%E3%81%B5%E3%82%8B%E3%81%95%E3%81%A8%E5%86%8D%E7%99%BA%E8%A6%8B%E3%80%80%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E3%81%8C%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%81%BE%E3%81%A7
  14. 第二章 前田利家・利長・利常の戦い - 近世加賀藩と富山藩について http://kinseikagatoyama.seesaa.net/article/364358126.html
  15. 越中の戦国時代 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A%E4%B8%AD%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3
  16. 1585年 – 86年 家康が秀吉に臣従 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1585/
  17. なるほど!これが富山県<歴史> https://www.pref.toyama.jp/1021/kensei/kenseiunei/kensei/naruhodo/history.html
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  23. HT11 神保国久/国氏 - 系図 https://www.his-trip.info/keizu/ht11.html
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  30. 放生津城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.hojodu.htm
  31. 放生津城(富山県射水市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/3693
  32. 富山藩:富山県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/edo-domain100/toyama/
  33. 絵にみる佐々成政 - 富山市 https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/tayori/tayori12/tayori12.htm
  34. 戦国時代編2 - 富山市 https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/toyamajyo/history/sengoku2.htm
  35. とやま文化財百選シリーズ (5) - 富山県 https://www.pref.toyama.jp/documents/14266/osiro.pdf
  36. 前田利長と越中 - 博物館だより https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/tayori/tayori25/tayori25.htm
  37. 雑記 神保長織(じんぼながもと) ~ 佐々成政 - つとつとのブログ https://tsutotsuto.seesaa.net/article/202112article_2.html
  38. 特別寄稿佐々成政と肥後国衆一揆 ~中世から近世への歴史的転換点 https://www.ccis-toyama.or.jp/toyama/magazine/narimasa/sasa0205.html