最終更新日 2025-09-01

富樫政親討伐・加賀蜂起(1488)

富樫政親討伐・加賀蜂起(1488年):守護支配の終焉と『百姓の持ちたる国』の誕生

序章:『百姓の持ちたる国』の黎明

長享二年(1488年)六月九日、加賀国(現在の石川県南部)の守護・富樫政親は、一向宗門徒を中心とする二十万ともいわれる大軍に居城の高尾城を包囲され、燃え盛る炎の中で自刃した 1 。これは、戦国乱世において数多繰り返された城の陥落や一族の滅亡といった出来事の一つに過ぎない。しかし、この事件が持つ歴史的意味は、単なる一地方大名の敗北に留まるものではない。室町幕府によって任命され、国家の公権力を代行するはずの守護が、特定の宗教的信念の下に結束した国人や農民といった民衆の力によって、完全に打倒されたのである。この前代未聞の事態は、加賀国がその後約一世紀にわたり「百姓の持ちたる国」と呼ばれる、日本史上極めて特異な統治体制へと移行する黎明を告げるものであった 3

本報告書は、この「富樫政親討伐・加賀蜂起」、後世に「長享の一揆」とも呼ばれる事件について、その遠因となった数十年にわたる加賀国の複雑な力学から、合戦に至る緊迫した情勢、そして高尾城で繰り広げられた凄惨な攻防戦の全貌を、可能な限りリアルタイムに近い時系列で克明に描き出すことを目的とする。なぜ守護はかくも無残に滅ぼされねばならなかったのか。そして、「百姓の持ちたる国」という言葉が象徴する統治の実態とは、一体どのようなものであったのか。

この問いを解き明かす上で、当時の日本全体の状況を俯瞰することは不可欠である。中央では、失墜した権威の回復を焦る九代将軍・足利義尚が、近江守護・六角高頼を討伐すべく親征の途上にあった(鈎の陣) 6 。また、関東では、幕府の統制が及ばぬ中で山内・扇谷の両上杉氏が「長享の乱」と呼ばれる泥沼の抗争を繰り広げていた 8 。これらの出来事は、応仁・文明の乱を経て室町幕府の権威が決定的に失墜し、日本各地で旧来の秩序が崩壊しつつあったことを示している。加賀国の蜂起は、こうした中央政権の空洞化と全国的な動乱という、より大きな時代のうねりの中で発生した、ある種の必然であった。

事実、富樫政親の運命は、この中央と地方の矛盾によって決定づけられた。守護として、彼は将軍の近江出兵に従軍する義務を負っていた 7 。これは、室町幕府の支配体制が、少なくとも名目上はまだ機能していたことの証左である。しかし、その長期にわたる軍役を支えるための過酷な兵糧米の徴収や人員の動員は、加賀国内に燻っていた不満を一気に爆発させる直接的な引き金となった 11 。皮肉なことに、将軍が自身の権威を再確立しようと試みた軍事行動が、遠く離れた加賀国における幕府権威の完全な崩壊を招いたのである。これは、中央の権威が実態を伴わなくなり、地方の現実を顧みない命令が、逆に地方の自立や反乱を誘発するという、戦国時代特有の「下剋上」の構造的矛盾を象徴している。加賀の蜂起は、単なる一揆ではなく、室町幕府体制そのものが抱える末期症状を、最も劇的な形で示した事件だったのである。

第一章:加賀国の動乱前夜 ― 富樫氏の内訌と本願寺の勃興

第一節:分裂する守護家 ― 富樫氏、半世紀にわたる内紛の系譜

長享の一揆に至る伏線は、実に半世紀近く前から加賀国に張り巡らされていた。その根源は、守護であった富樫氏自身の弱体化にある。嘉吉元年(1441年)、六代将軍・足利義教の怒りに触れて当主が失脚したことをきっかけに、富樫氏は一族内で守護職を巡る深刻な内紛状態に陥った 12

この内訌は、中央政界における管領・畠山氏や細川氏の権力闘争とも連動し、泥沼化の一途をたどった 7 。幕府は事態を収拾するため、一人の守護による一国統治を諦め、加賀国を南北に二分し、それぞれに守護を置く「半国守護」という異例の措置を講じるに至る 7 。この妥協策は、一時的な沈静化には繋がったものの、結果として富樫氏の権威を著しく低下させ、国内の国人衆に対する統制力を失わせる決定的な要因となった。守護家が分裂し、互いに争う中で生まれた権力の空白地帯は、やがて加賀国の運命を根底から揺るがす新たな勢力が台頭するための、格好の土壌となったのである。

第二節:蓮如の衝撃 ― 北陸を席巻する本願寺教団

富樫氏が内紛に明け暮れていた文明三年(1471年)、後の歴史を大きく動かす人物が北陸の地に足を踏み入れた。浄土真宗本願寺派第八世宗主・蓮如である 13 。比叡山延暦寺によって京都を追われた蓮如は、越前国吉崎(現在の福井県あわら市)に坊舎を建立し、ここを拠点に精力的な布教活動を開始した。

蓮如の布教手法は革新的であった。彼は「御文(おふみ)」と呼ばれる、平易な仮名交じり文で書かれた手紙を用いて、難解な教義を民衆にも分かりやすく説いた 14 。さらに、自然発生的な村落共同体である「惣村(そうそん)」を単位として、「講(こう)」と呼ばれる強固な信徒組織を形成していった。これにより、武士、国人、商人、そして農民といった階層の垣根を越え、本願寺の教えは爆発的な勢いで北陸一帯に浸透していった 13 。この急激な勢力拡大は、当然ながら、同じく北陸に大きな基盤を持っていた真宗高田派などの他派との間で、信徒の奪い合いという深刻な宗教的対立を引き起こすことにもなった 15

第三節:文明の一揆 ― 富樫政親と一向一揆、束の間の共闘

この二つの潮流、すなわち富樫氏の弱体化と本願寺の強大化が交錯したのが、文明五年(1473年)の出来事である。当時、富樫政親は家督を巡る争いで弟の幸千代に敗れ、越前への亡命を余儀なくされていた 15 。起死回生を狙う政親が頼ったのが、急速に勢力を拡大していた蓮如率いる本願寺門徒であった 7

蓮如にとっても、この申し出は渡りに船であった。政親の弟・幸千代は、本願寺と対立する真宗高田派の支援を受けていたからである 15 。蓮如の檄に応じて蜂起した数万の門徒は、幸千代派を軍事的に圧倒し、これを加賀から追放。政親は劇的な勝利を収め、加賀一国の守護の座に就くことに成功した 16 。この「文明の一揆」と呼ばれる共闘は、政親にとっては守護の地位を、本願寺にとっては加賀国における公然たる活動の自由をもたらす、束の間の「蜜月」であった。

しかし、この勝利は政親にとって、自らの破滅の種を蒔く行為に他ならなかった。彼は、一向一揆を自らの権力闘争を勝ち抜くための、都合の良い「傭兵」あるいは「勢力」程度にしか考えていなかったであろう。だが、この共闘を通じて、一向一揆勢は自らの軍事力が守護家の運命すら左右しうることを自覚し、単なる宗教団体から、実力を持つ政治・軍事集団へと変貌を遂げた。政親は、目先の勝利と引き換えに、自らの権威を相対化させ、一向一揆という巨大な力の「パンドラの箱」を開けてしまったのである。彼が守護の座に就いたその瞬間から、両者の力関係は、やがて来る破局へと向かう逆転の道を歩み始めていた。

年代

主要な出来事

備考

嘉吉元年 (1441)

富樫教家が失脚。富樫氏の内紛が本格化する 12

守護家の権威低下が始まる。

文明三年 (1471)

本願寺第八世・蓮如が越前吉崎に下向し、布教を開始する 13

北陸における本願寺教団の急成長が始まる。

文明五年 (1473)

富樫政親、弟・幸千代との家督争いに敗れる。

文明六年 (1474)

政親、蓮如に支援を要請。本願寺門徒の力で幸千代を破る(文明の一揆) 7

政親は加賀一国の守護となる。一向一揆が政治勢力として台頭。

文明七年 (1475)

政親、強大化する本願寺門徒を恐れ、弾圧に転じる。蓮如は吉崎を退去 16

両者の関係が決定的に決裂。門徒の憎悪が募る。

文明十三年 (1481)

越中にて一向一揆が発生し、門徒を弾圧していた石黒光義を討ち取る 18

一揆の軍事力が周辺国にも影響を及ぼし始める。

長享元年 (1487)

将軍・足利義尚が近江の六角氏討伐を開始(鈎の陣)。政親もこれに従軍する 6

政親の長期不在と国内への重税が、蜂起の直接的な引き金となる。

第二章:亀裂 ― 守護・富樫政親の焦燥と弾圧

第一節:強大化する門徒への恐怖

文明の一揆を経て加賀一国を掌握した富樫政親であったが、その安堵は長くは続かなかった。彼が目の当たりにしたのは、自らの権力基盤を確立するために利用したはずの本願寺門徒が、今や守護の権威すら脅かすほどの強大な組織力と結束力を持つに至ったという、恐るべき現実であった 16 。蓮如が築き上げた「講」の組織は、信仰を紐帯として惣村の隅々にまで張り巡らされ、守護の命令系統とは全く別の、独立した指揮系統として機能していた。政親にとって、この「国の中にもう一つの国」が存在するにも等しい状況は、到底容認できるものではなかった。

第二節:「鈎の陣」― 運命の引き金

政親と門徒の間に生まれた亀裂は、修復不可能なまでに広がっていた。文明七年(1475年)、守護としての権力を確立した政親は、手のひらを返すように本願寺門徒への弾圧を開始する 16 。この突然の裏切りにより、蓮如は吉崎御坊を退去せざるを得なくなり、多くの門徒は政親の追及を逃れて隣国の越中へと逃れた 16 。この弾圧は、門徒たちの心に、政親に対する根深い不信感と消しがたい憎悪を植え付けた。

両者の対立が決定的な破局を迎える直接の引き金となったのは、長享元年(1487年)に始まった、将軍・足利義尚による近江守護・六角高頼の討伐、いわゆる「鈎の陣」であった 6 。守護としての権威を幕府に改めて認めさせ、加賀一国の支配を盤石なものにしたいと願う政親は、この遠征に積極的に従軍した 7 。しかし、この判断が彼の命運を尽きさせることになる。長期にわたる遠征の戦費と兵員を賄うため、政親が加賀国内に課した重税と強制的な動員は、すでに不満を募らせていた国人層や農民(その多くは本願寺門徒であった)の怒りに火をつけた 11 。さらに、守護である政親自身の長期不在は、反政親勢力にとって、決起のためのまたとない好機となったのである。

第三章:長享の一揆 ― 合戦のリアルタイム詳報

長享元年(1487年)末、近江の陣中から加賀の不穏な空気を察知した政親が帰国した時から、翌年六月九日に高尾城が炎上するまでの約半年間。この章では、複数の史料を基に、守護・富樫政親の滅亡に至る過程を、可能な限り詳細な時系列に沿って再現する。

富樫政親軍(籠城側)

一揆軍(包囲側)

兵力

約1万余 18

10万~20万 2

拠点

高尾城 7

加賀国一円

総大将

富樫政親

富樫泰高(名目上) 7

主要武将・指導者

本郷春親、山川高藤、松坂信遠、槻橋近江守 2

下間蓮崇、洲崎慶覚、河合宣久 2

構成

富樫家譜代の家臣、与力国人

加賀・越中・飛騨の一向宗門徒、反政親派国人衆 18

支援勢力

室町幕府、越前・朝倉氏、能登・畠山氏(いずれも名目上) 2

第一節:1487年12月~1488年春 ― 嵐の前の静けさ

近江から急ぎ帰国した富樫政親の行動は、迅速かつ断固たるものであった。彼は、来るべき武力衝突を覚悟し、有事の際の詰めの城である高尾城(現在の金沢市高尾町)の大規模な修築に直ちに着手した 2 。高尾城は標高約186メートルの丘陵に築かれた山城であり、堀切や切岸といった防御施設を備えていた 21 。政親は、この天然の要害をさらに堅固にすることで、一揆勢の攻撃に備えようとしたのである。

一方、一揆勢も水面下で着々と準備を進めていた。越中から帰還した門徒たちと、政親の統治に不満を抱く加賀国内の国人衆は密に連携を強化。そして、彼らは巧みな政治工作によって、一揆に大義名分を与えるための「旗印」を確保することに成功する。かつて守護の座にあり、政親とは対立関係にあった富樫一族の長老格、富樫泰高を総大将として擁立したのである 7 。これにより、この蜂起は単なる農民反乱ではなく、「現守護の悪政を正すための、旧守護を奉じた義挙」という体裁を整えることになった。

第二節:1488年5月 ― 蜂起、そして完全なる包囲網

長享二年五月、ついに一揆勢は蜂起の狼煙を上げた。その数は十数万、あるいは二十万とも伝えられ、雪崩を打ったように加賀国全域を制圧した 16 。政親は、わずか一万余の手勢とともに、改修を終えたばかりの高尾城へ籠城する以外に道はなかった 7

一揆軍の戦略は、単に城を力攻めにするだけではなかった。彼らが見せたのは、驚くほど高度な戦略性と組織力であった。高尾城を幾重にも包囲すると同時に、別動隊を派遣して越前・能登・越中との国境を完全に封鎖。外部からの援軍を一切遮断する、鉄壁の包囲網を敷いたのである。

  • 5月26日: 事態を憂慮した将軍・足利義尚は、越前守護の朝倉孝景(史料によっては貞景)、能登守護の畠山義統ら周辺大名に対し、政親への援軍派遣を命じる御内書を発給した 2
  • 5月下旬~6月上旬: しかし、幕府の権威はもはや地に堕ちていた。命令を受けて出陣した援軍の試みは、ことごとく一揆勢の周到な迎撃によって阻まれる。
  • 越前方面: 朝倉からの援軍を迎え撃つべく派遣された富樫方の別動隊二千は、加賀・越前の国境付近で待ち構えていた一揆勢によって殲滅させられた 7
  • 能登方面: 海路からの支援を試みた畠山義統の軍勢は、河北郡の海岸(黒津船の浜)で一揆勢に敗れ、撤退を余儀なくされた 2
  • 越中方面: 城内の重臣・山川高藤が、一縷の望みを託して越中からの援軍を迎え入れようと城外へ出撃するも、馬飼・浦上(現在の金沢市)付近で一揆方の夜襲に遭い、惨敗した 2

この一連の迎撃戦の成功は、一揆軍が単なる烏合の衆ではなかったことを雄弁に物語っている。加賀一国を完全に封鎖し、複数の国境で同時に敵の援軍を撃退するには、広域にわたる情報網、統一された指揮系統、そして統率の取れた部隊が不可欠である。これは、蓮如が長年にわたって築き上げてきた「講」の組織が、単なる宗教的な集会ではなく、有事の際には情報伝達と人員動員のネットワークとして極めて効果的に機能したことを示している。彼らは、旧来の封建的な主従関係ではなく、信仰という水平的な繋がりによって結ばれた、いわば「ネットワーク型組織」の強みを最大限に発揮したのである。これにより、高尾城は完全に孤立無援となり、富樫政親の運命は事実上決した。

第三節:1488年6月7日~9日 ― 高尾城、最後の三日間

外部からの救援という最後の望みを絶たれた高尾城に、一揆勢の総攻撃が開始された。

  • 6月7日 午前6時頃: 夜明けとともに、鬨の声が山々に響き渡り、一揆勢による本格的な城への攻撃が始まった 2 。城の各所で、守る者と攻める者の間で死に物狂いの激しい攻防が繰り広げられた。
  • 6月8日: 戦況は絶望的であった。城内では、富樫方の将・本郷修理進春親が、一揆勢に対し包囲を解くよう最後の交渉を試みたが、勝利を確信している一揆勢はこれを一蹴。交渉は決裂した 2 。城兵の士気は地に落ち、滅亡の時が刻一刻と迫っていた。
  • 6月9日 未明~正午:
  • 総攻撃: 夜明けとともに、二十万の軍勢による最後の総攻撃が開始された。人の波が怒涛の如く城の斜面を駆け上がり、城壁に取り付いた。
  • 城門の攻防: 城の守備配置によれば、正門(大手門)は松山左近、背門(搦手門)は森宗三郎が守りを固めていた 2 。彼らをはじめ、斉藤八郎、安江弥太郎、小早川半弥といった譜代の家臣たちは、圧倒的な兵力差にもかかわらず、最後まで必死の防戦を繰り広げた。
  • 落城: しかし、衆寡敵せず。城の防衛線は各所で次々と破られ、一揆勢が城内へと乱入。松坂信遠、槻橋近江守といった主だった武将もことごとく討死した 2
  • 政親の最期: もはやこれまでと覚悟を決めた富樫政親は、城内の一室にて自害。介錯は家臣の的場右衛門三郎が務めたと伝わる。享年四十二。守護・富樫政親の死をもって、高尾城は完全に陥落した 2

第四章:『百姓の持ちたる国』の実像 ― 支配体制と歴史的意義

第一節:指導者・蓮如の叱責

守護を自害に追い込むという、前代未聞の事態を成し遂げた門徒たち。しかし、彼らを待っていたのは、教団の最高指導者である蓮如からの称賛ではなく、厳しい叱責であった。同年七月四日、蓮如は門徒たちに宛てた書状の中で、彼らの行動を「仏法にあるまじき行為」として厳しく非難したのである 2

この一見矛盾した行動は、蓮如の卓越した政治感覚を示すものであった。守護を討ち滅ぼしたという事実は、一歩間違えれば本願寺教団そのものが幕府から「仏敵」と認定され、討伐の対象となりかねない危険性を孕んでいた。蓮如は、門徒たちの行動を叱責することで、この蜂起があくまでも門徒の「暴走」であり、教団としての組織的な命令によるものではないという体裁を整え、幕府との全面対決を回避しようとしたのである。彼は、一揆という巨大なエネルギーの存在を認めつつも、それが教団の統制を離れて暴走することは決して許さないという、指導者としての現実主義と苦悩を示したのだ。

第二節:加賀国の新支配体制

富樫政親の死後、加賀国は新たな支配体制へと移行した。一揆勢が擁立した富樫泰高が新たな守護となったが、それは全くの名目上の存在に過ぎず、彼に実権はなかった 12

実際の統治を担ったのは、本願寺から派遣された蓮如の子である蓮綱(松岡寺)、蓮誓(光教寺)、蓮悟(本泉寺)らの一門衆や、下間氏に代表される坊官たちであった 18 。彼らは、加賀の有力な国人衆と協議しながら、国政を運営していく。これは、特定の君主が絶対的な権力を持つ「君主制」とも、民衆が直接政治を行う「共和制」とも異なる、一種の宗教的連合政体とでも言うべき、独自の体制であった。行政の基盤としては、文明の一揆の際に形成された国人連合組織である「郡」や、長享の一揆でその力を発揮した門徒の末端組織「組」が活用され、これが後の約百年にわたる本願寺による加賀支配の基礎となった 24

第三節:「百姓の持ちたる国」の再評価 ― 神話と実態

この新たな加賀国の統治体制を象徴する言葉として、後世に広く知られるようになったのが「百姓の持ちたる国」である。この有名な言葉は、蓮如の子・実悟が残した記録の中にある「百姓ノ持チタル国ノヤウニナリ行キ候コトニテ候(百姓が持っている国のように成り行くことでございます)」という一節に由来する 4

しかし、この言葉の真意を正しく理解する必要がある。これは、現代的な意味での「農民による民主的な自治国家が誕生した」ということを意味するものではない 4 。当時の「百姓」という言葉は、単に田畑を耕す農民のみを指すのではなく、地侍や商人、手工業者など、荘園領主や守護といった支配者層から見て、直接支配の対象となる広範な階層を包括する言葉であった 25

したがって、この言葉の本質は、旧来の守護という武家支配体制が崩壊し、本願寺教団を精神的支柱とする新たな支配秩序が確立されたことへの、同時代人の驚きを表現したものと解釈すべきである。支配者が血統を誇る「武士」から、広範な民衆(百姓)を組織し、その代表者たる「宗教勢力」へと代わったという、権力構造の根本的な変化の事実を指し示しているのである。

結論:加賀蜂起が戦国時代に与えた衝撃

富樫政親討伐・加賀蜂起は、日本史上、単なる一揆の成功例として片付けられるべき事件ではない。それは、室町幕府の地方支配の根幹であった守護大名体制を、宗教を媒介として結束した民衆と国人が自らの実力で打倒し、その後約九十年間にわたって「百姓の持ちたる国」と呼ばれる自治(実質的な本願寺支配)を確立した、戦国時代の「下剋上」を最も先鋭的に体現した革命的事件であった。

この事件が後世に与えた影響は計り知れない。第一に、本願寺教団が単なる宗教団体から、一国を支配する戦国大名に匹敵する、あるいはそれを凌駕するほどの巨大な政治・軍事勢力へと変貌を遂げる決定的な第一歩となった。この加賀国という強固な地盤があったからこそ、本願寺は後に織田信長と十年にもわたる石山合戦を戦い抜くことができたのである。

第二に、この事件は全国の武将たちに強烈な衝撃を与えた。信仰の下に団結した民衆の力が、幕府が任命した正規の支配者をも打ち破り、既存の権力構造を根底から覆しうるという事実を、白日の下に晒したからである。それは、もはや家柄や権威だけでは国を治められない時代の到来を告げるものであり、力こそが全てを決定するという戦国の動乱を、さらに加速させる一因となったことは間違いない。長享二年、加賀国高尾城の麓で起きた一つの事件は、まさしく一つの時代の終わりと、新たな時代の幕開けを告げる鐘の音だったのである。

引用文献

  1. 長享2年(1488)6月9日は加賀守護の富樫政親が長享の一揆で一揆勢に高尾城を攻められ自害した日。守護は引き続き富樫一族が継承したものの実質的な支配権は本願寺門徒や国人衆が握った。これにより加賀は - note https://note.com/ryobeokada/n/n7b641ed48892
  2. 長亨の一揆 - 能登畠山氏七尾の歴史 https://nanao.sakura.ne.jp/kaga/t-wars/1488_cyokyowars.html
  3. 応仁の乱を契機とした加賀一向一揆の台頭 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/22937/2
  4. 百姓の持ちたる国 https://nanao.sakura.ne.jp/kaga/t-special/hyakusyo_no_mochitarukuni.html
  5. 加賀一向一揆 - 日本200名城バイリンガル (Japan's top 200 castles and ruins) https://jpcastles200.com/tag/%E5%8A%A0%E8%B3%80%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86/
  6. 長享・延徳の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%AB%E3%83%BB%E5%BB%B6%E5%BE%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1
  7. 高尾城の戦い - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/TakaoJou.html
  8. 長享の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%AB%E3%81%AE%E4%B9%B1
  9. 長享の乱 - 川村一彦 - Google Books https://books.google.com/books/about/%E9%95%B7%E4%BA%AB%E3%81%AE%E4%B9%B1.html?id=53UCEAAAQBAJ
  10. 長享の乱/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11087/
  11. 蓮如の布教・一向一揆・能登への伝播 https://geo.d51498.com/CollegeLife-Labo/6989/JoudoShinshuu.htm
  12. 石川中央都市圏歴史遺産活用連絡会 - 金沢市 https://www4.city.kanazawa.lg.jp/material/files/group/22/togashi_s_pf.pdf
  13. 一向一揆(イッコウイッキ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86-31456
  14. 日本史の基本96(21-5 山城の国一揆と加賀の一向一揆) https://ameblo.jp/nojimagurasan/entry-12239848664.html
  15. 本願寺を強大化させたカリスマ・蓮如~その⑫ 北陸初の一向一揆「文明の一揆」 https://negorosenki.hatenablog.com/entry/2025/03/20/172239
  16. 加賀一向一揆 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/kagaikkoikki/
  17. 富樫氏と一向一揆 - 金沢市 https://www4.city.kanazawa.lg.jp/material/files/group/22/cyuotoshi03_ikkoikki.pdf
  18. 加賀一向一揆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%B3%80%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86
  19. 中学社会 定期テスト対策加賀の一向一揆はなぜおきたのか? - ベネッセ教育情報 https://benesse.jp/kyouiku/teikitest/chu/social/social/c00721.html
  20. 富樫泰高 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/TogashiYasutaka.html
  21. 高尾城跡(コジョウ地区)現地説明会資料 - 金沢市 https://www4.city.kanazawa.lg.jp/material/files/group/22/2023takaojo.pdf
  22. 高尾城跡調査成果報告会資料 - 金沢市 https://www4.city.kanazawa.lg.jp/material/files/group/22/250713takaojousetsumeikai.pdf
  23. 「両流相論」の時代 - 能登畠山氏七尾の歴史 https://nanao.sakura.ne.jp/kaga/t-special/ryoryu_soron.html
  24. 加賀一向一揆(かがいっこういっき)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%8A%A0%E8%B3%80%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86-824247
  25. 百姓 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%A7%93