最終更新日 2025-09-01

富田城攻囲(1542~43)

天文11年、大内義隆は尼子氏の月山富田城を攻囲。しかし、尼子晴久の持久戦と国人衆の離反により大敗。毛利元就はこの敗戦から学び、後の中国地方統一の礎とした。

第一次月山富田城の戦い(1542-43)— 中国地方の覇権を巡る一大攻防戦の全貌

序章:雲州動乱への序曲 — 吉田郡山城の戦いと尼子経久の死

天文年間、中国地方の勢力図を根底から揺るがす一大攻防戦が繰り広げられた。世に言う「第一次月山富田城の戦い」である。この戦いは、西国に覇を唱えた大内義隆が、その威信と勢力の全てを賭して出雲の雄・尼子氏の打倒を目指した大規模な軍事行動であった。しかし、この遠征は決して突発的なものではなく、その根源は天文9年(1540年)に遡る。尼子氏による安芸国侵攻、すなわち「吉田郡山城の戦い」の惨憺たる敗北と、その翌年に訪れた尼子家の巨星、「謀聖」と謳われた尼子経久の死という二つの画期的な出来事によって、必然的に引き起こされたものであった。

尼子晴久の野心と挫折

尼子家の家督を継いだ若き当主・尼子晴久は、祖父・経久が築き上げた巨大な勢力圏をさらに拡大すべく、野心に燃えていた 1 。その矛先が向けられたのが、安芸国の有力国人領主・毛利元就の居城、吉田郡山城であった。天文9年(1540年)、晴久は3万と号する大軍を率いて安芸へ侵攻。当時、毛利氏は尼子・大内という二大勢力の間で巧みな外交を繰り広げていたが、この時は大内氏への従属を強めており、晴久にとってはその排除が急務であった 2

しかし、この遠征は晴久の思惑通りには進まなかった。毛利元就は吉田郡山城の地の利を活かした巧みな籠城戦を展開し、尼子軍の猛攻を耐え抜く。さらに、毛利からの救援要請に応じた大内義隆が、重臣・陶隆房(後の晴賢)を大将とする援軍を派遣。これにより内外から挟撃される形となった尼子軍は大混乱に陥り、壊滅的な敗北を喫して出雲へと敗走した 4 。この一戦は、尼子晴久にとって初めての大きな挫折であり、尼子家の権威に深刻な傷をつけた。

国人衆の動揺と勢力図の激変

吉田郡山城での大敗は、単なる一合戦の敗北に留まらなかった。それは、中国地方の国人領主たちが形成する「忠誠心の市場」において、尼子氏の価値を暴落させる決定的な出来事となった。戦国時代の国人領主にとって、最も重要なのは自家の存続であり、そのために彼らは常に「勝ち馬」を見極めようとしていた。尼子氏の3万の大軍が敗れ去ったという事実は、彼らの目に尼子氏の限界を映し出したのである。

この結果、これまで尼子・大内の間で日和見を続けていた安芸・備後地方の国人衆は、雪崩を打って大内氏へと服属した 5 。彼らにとって、これは生き残りのための合理的な選択であった。さらに彼らは、自らの寝返りを正当化し、旧主である尼子氏からの報復の芽を完全に摘み取るため、大内義隆に対して尼子討伐を執拗に催促した 7 。これは、いわば「自己保身のための主戦論」であり、大内家中の主戦派の声を一層大きなものにした。

「謀聖」の死という画期

国人衆の離反が相次ぎ、尼子家の勢力圏が急速に縮小していく中、天文10年(1541年)11月13日、尼子家にとって決定的な悲報がもたらされる。下剋上によって一代で尼子氏を山陰山陽十一カ国に影響を及ぼす巨大勢力へと押し上げた「謀聖」尼子経久が、84年の生涯を閉じたのである 3

経久の死は、単に偉大な指導者を失ったという以上の意味を持っていた。彼の卓越した謀略と個人的なカリスマは、多くの国人領主を束ねる「結束の楔」として機能していた 9 。若き当主・晴久には、この巨大で、しかし内実は脆い国人連合体をまとめ上げるだけの威信と経験がまだ備わっていなかった。

この報は、長年の宿敵であった大内義隆にとって、まさに天佑であった 1 。経久という最大の障害が取り除かれた今こそ、尼子氏を完全に滅ぼす二度とない好機である。義隆が見ていたのは、尼子家の当主交代に伴う一時的な混乱ではなく、経久というカリスマを失ったことによる尼子家の「構造的脆弱性」そのものであった 1 。吉田郡山城の勝利で得た軍事的優位、国人衆の支持、そして宿敵の死。出雲侵攻への全ての条件は、ここに整ったのである。

第一章:両雄の対峙 — 大内・尼子の戦略と軍勢

尼子経久の死という好機を捉え、大内義隆はついに尼子氏の本拠地・出雲への遠征を決断する。それは、単なる領土拡大や宿敵の打倒に留まらない、様々な思惑が絡み合った一大事業であった。対する尼子晴久は、祖父の死と国人衆の離反という逆境の中、存亡を賭けた防衛戦に臨むこととなる。ここに、両雄の戦略と動員された軍勢を比較分析し、開戦前夜の情勢を明らかにする。

大内義隆の動機と内情

大内義隆にとって、この出雲遠征は複数の目的を持つものであった。第一に、吉田郡山城の戦いで尼子氏に勝利した勢いを駆り、長年の宿敵に終止符を打つこと。第二に、尼子討伐を求める国人衆の期待に応え、中国地方における覇権を確固たるものにすることである。しかし、それら以上に義隆の心を占めていたのは、より個人的な動機であった。

それは、寵愛する養嗣子・大内晴持(恒持)の存在である 1 。公家の一条家から迎えた晴持を、義隆は次期当主として溺愛していた。天文11年(1542年)1月には、晴持は19歳にして正五位下という、後の上杉謙信や武田信玄が生前に受けた官位よりも高い位階に叙されている 1 。この出雲遠征は、晴持に華々しい初陣の功を立てさせ、次期当主としての権威を内外に知らしめるための、壮大な「お披露目」の舞台という側面を色濃く持っていたのである。

しかし、大内家中の全てがこの遠征に賛同していたわけではなかった。陶隆房を筆頭とする武断派は、吉田郡山城の勝利と経久の死を絶好の機会と捉え、出雲への即時出兵を強く主張した 5 。一方で、相良武任ら文治派は、大規模な遠征に伴うリスクや財政的負担を懸念し、慎重論を唱えていた 5 。最終的に義隆は武断派の意見を容れ、自ら総大将として出陣することを決断するが、この時点で既に、後の大内家崩壊の遠因となる家中の路線対立が明確に存在していた。

尼子晴久の防衛戦略

一方、尼子晴久が置かれた状況は極めて深刻であった。祖父の死後、傘下の国人衆の離反は続き、動員可能な兵力は大内軍に比して著しく劣っていた。正面からの野戦では、数の上で勝る大内連合軍に抗する術はない。

この圧倒的な戦力差を前に、晴久が選択したのは、尼子氏歴代の居城であり、難攻不落を誇る月山富田城への籠城であった 13 。これは、単なる消極的な防衛策ではない。敵の大軍を堅城の前に釘付けにし、戦いを長期化させることで、敵の兵站線が伸びきるのを待つ。そして、補給の困難と長期にわたる陣中生活による士気の低下を誘い、敵の内部崩壊を狙うという、極めて合理的な持久戦戦略であった 14 。晴久は、月山富田城という物理的な要害と、時間の経過という戦略的な武器を最大限に活用し、この未曾有の国難に立ち向かおうとしたのである。


表1:両軍の兵力・主要武将一覧

項目

大内連合軍

尼子軍

総大将

大内義隆

尼子晴久

主要武将

陶隆房、杉重矩、内藤興盛、冷泉隆豊、弘中隆兼、大内晴持、毛利元就、小早川正平、益田藤兼、吉川興経、三刀屋久扶、三沢為清、本城常光

尼子国久(新宮党)、牛尾幸清、その他一門衆・譜代家臣

推定兵力

約45,000 5

約15,000 5

基本戦略

敵本拠地の攻略による尼子氏の殲滅

籠城による持久戦と敵の自壊誘発


この表が示す通り、大内連合軍は尼子軍の3倍という圧倒的な兵力を有していた。この数字は、大内義隆に力攻めでも十分に勝利できるという過信を抱かせた可能性がある。しかし同時に、その構成武将には吉川興経、三刀屋久扶といった、元は尼子方であった国人領主が多く含まれていた。この「寄せ集め」という性質こそが、この巨大な軍団が内包する最大の脆弱性であったことを、後の戦いの経過が証明することになる。

第二章:難攻不落の要塞 — 月山富田城の地勢と構造

大内義隆率いる4万5千の大軍が目指した月山富田城は、当時「中国地方随一の堅城」と謳われた難攻不落の要塞であった。その名声は、単に城壁が堅固であるというだけではなく、計算され尽くした地理的利点の活用と、複雑かつ多層的な城郭構造に由来する。大内軍が直面した物理的な困難を理解するためには、まずこの城の構造そのものを解剖する必要がある。

天然の要害と複郭式の防御システム

月山富田城は、出雲平野に聳える標高約190メートルの独立峰、月山(がっさん)の全山を城郭化した典型的な山城である 15 。その最大の特徴は、自然の地形を最大限に防御へ活かしている点にある。城の南東部を除く三方は急峻な崖となっており、天然の城壁を形成。さらに麓を流れる飯梨川が外堀の役割を果たし、敵の接近を物理的に困難にしていた 15

城の構造は、山麓から山頂にかけて複数の郭(くるわ)を連続的に配置した「連郭式」あるいは「複郭式」と呼ばれるものである 16 。麓の城下町から順に、兵士の集合場所であった「千畳平」、時を告げる太鼓が置かれた「太鼓壇」、そして城主の居館があったとされる広大な「山中御殿平」といった郭が中腹に配置されている 16 。これらの郭はそれぞれが独立した防御拠点として機能し、仮に一つの郭が突破されても、次の郭で敵を食い止めるという、多層的な防御網を形成していた。

必殺の登城路「七曲り」

月山富田城の防御システムを象徴するのが、中腹の山中御殿平から山頂の本丸へと続く唯一の登城路、「七曲り」である 16 。この道は、急峻な山肌を七度折れ曲がりながら登る、狭く険しい一本道である。その設計思想は、単に登りにくくするだけではない。道の両脇には巧妙に郭が配置されており、侵攻してくる敵兵に対し、上方からだけでなく側面からも矢や鉄砲、投石による十字砲火を浴びせることが可能であった 18

つまり、「七曲り」は敵兵を殲滅するために設計された巨大な「キルゾーン(殺戮地帯)」であった。大軍で押し寄せても、この狭い道では兵力を展開できず、先頭から一人ずつ血祭りにあげられることになる。事実、月山富田城はその歴史上、この「七曲り」を突破され、山頂の本丸まで攻め込まれたことは一度もなかったと伝えられている 18 。この道こそが、月山富田城が難攻不落と称される所以であった。

城の設計思想と大内方の誤算

月山富田城の総面積は、東京ドーム約15個分に相当する約70万平方メートルにも及ぶ広大なものであった 19 。この規模は、長期の籠城に耐えうるだけの兵員、食料、水を確保できることを意味していた。大手門や搦手門といった主要な入口は、近世城郭にも通じる堅固な石垣で固められており、力攻めによる突破を容易には許さない 16

これらの要素を総合すると、月山富田城の設計思想が明らかになる。この城は、単なる防御拠点ではない。それは、敵を物理的に消耗させ、時間を稼ぎ、そして最終的に戦意そのものを削ぎ落とすことを目的として構築された、巨大な「罠」なのである。攻撃側は、一つ郭を落とすたびに多大な犠牲を強いられ、兵站は伸びきり、兵士たちの士気は確実に低下していく。城そのものが、尼子方の持久戦戦略を物理的に具現化した存在であった。

大内義隆と彼の将帥たちは、3倍の兵力差をもってすれば、この城を短期決戦で陥落させられると踏んでいた可能性が高い。しかし、彼らはこの城が持つ「システムとしての防御力」を根本的に過小評価していた。この認識の甘さこそが、1年以上にわたる長期戦と、それに続く戦略的破綻を招く根本的な原因となったのである。

第三章:出雲侵攻 — リアルタイムで追う合戦の推移

大内義隆による出雲遠征は、当初の楽観的な見通しとは裏腹に、泥沼の長期戦へと突入していく。ここでは、天文11年(1542年)1月の出陣から、天文12年(1543年)3月の本格的な攻城戦開始に至るまでの約1年2ヶ月間の動向を時系列で追い、戦場のリアルタイムな状況を再現する。

天文11年(1542年):遅滞する進軍

  • 1月11日 : 大内義隆は、陶隆房、毛利元就ら安芸・周防・石見の国人衆を率い、本拠地である周防国山口を出陣。総大将・義隆に加え、養嗣子・大内晴持も同行し、その陣容は華々しいものであった 5
  • 1月19日 : 一行は安芸国厳島に立ち寄り、厳島神社にて戦勝を祈願する。この時点では、大内軍の士気は最高潮に達しており、数ヶ月内での勝利を誰もが信じて疑わなかったであろう 5
  • 4月 : 大内連合軍は、ついに尼子氏の領国である出雲国へと侵入を開始する。
  • 6月7日~7月27日 : 前哨戦・赤穴城の攻防 。大内軍の前に、まず尼子方の支城である赤穴城が立ちはだかった。当初、大内軍首脳部はこの支城を数日で攻略できると見込んでいたかもしれない。しかし、城主・赤穴光清らの頑強な抵抗に遭い、攻略には約2ヶ月もの時間を費やすこととなった 5 。この予想外の抵抗と時間の浪費は、大内軍の進軍計画に最初の、そして深刻な狂いを生じさせた。長期戦を想定していなかったであろう軍の兵糧や物資の消費は、計画を上回るペースで進んでいった。
  • 10月 : 赤穴城をようやく陥落させた大内軍は、進軍を再開。月山富田城の南西に位置する三刀屋峰に本陣を構えた 5 。この地は、かつて尼子方であったが、この時は大内方に寝返っていた三刀屋氏の拠点であり、連合軍の脆さを象徴するような場所でもあった。

天文12年(1543年):包囲網の完成と膠着

  • 年初 : 大内義隆は、三刀屋峰からさらに本陣を前進させ、月山富田城を眼下に見下ろすことができる戦略的要衝、京羅木山に陣を移した 5 。これにより、月山富田城に対する完全な包囲態勢が完成した。兵力で圧倒する大内軍が城を幾重にも取り囲み、尼子氏の滅亡は時間の問題かと思われた。
  • 3月 : 雪解けを待って、大内軍は月山富田城への総攻撃を開始する。しかし、前章で詳述した通り、月山富田城の守りは鉄壁であった。大内軍は何度も攻撃を仕掛けるが、ことごとく撃退され、いたずらに死傷者を増やすばかりであった 5 。堅城を前に攻めあぐねた大内軍と、城に籠もり好機を待つ尼子軍との間で、戦線は完全に膠着状態に陥った。

この1年以上にわたる緩慢な進軍と、攻城戦の開始早々の頓挫は、大内軍の将兵に焦りと疲労をもたらし始めていた。特に、遠征に参加していた国人領主たちにとって、自らの領地を長期間留守にし、成果の上がらない戦いに兵をすり減らすことは、耐え難い苦痛であった。この膠着状態こそが、尼子晴久が狙っていた持久戦戦略の始まりであり、次なる戦局の転換点への序曲であった。


表2:第一次月山富田城の戦い 主要時系列表

年月日

出来事

場所

意義・影響

天文11年 (1542)

1月11日

大内義隆、連合軍を率いて出陣

周防国山口

尼子氏殲滅を目指す大規模遠征の開始。

1月19日

厳島神社にて戦勝祈願

安芸国厳島

連合軍の士気は最高潮に達する。

4月

連合軍、出雲国へ侵入

出雲国

尼子領内での本格的な軍事行動が開始される。

6月7日

赤穴城攻防戦 開始

出雲国赤穴

尼子方の支城が頑強に抵抗。

7月27日

赤穴城 陥落

出雲国赤穴

約2ヶ月を要し、大内軍の進軍計画が大幅に遅延。

10月

三刀屋峰に着陣

出雲国三刀屋

月山富田城への攻撃拠点を確保。

天文12年 (1543)

年初

京羅木山へ本陣を移動

出雲国京羅木山

月山富田城を完全に包囲。

3月

月山富田城への総攻撃を開始

出雲国月山富田城

城の堅い守りの前に攻撃は頓挫し、戦線は膠着状態に。

4月末

国人衆が尼子方へ寝返る

月山富田城

大内軍の包囲網が内側から崩壊し、戦局が決定的に転換。

5月7日

大内軍、全面撤退を開始

京羅木山

統制を失った潰走となり、尼子軍の猛追を受ける。

5月7日以降

大内晴持、海路で溺死

出雲浦(中海)

大内氏の後継者が死亡し、義隆は精神的に壊滅的な打撃を受ける。

5月7日以降

毛利元就、陸路で撤退戦

出雲〜石見〜安芸

家臣の犠牲により九死に一生を得る。後の戦略への教訓となる。

5月25日

大内義隆、山口に帰還

周防国山口

1年4ヶ月に及ぶ遠征は、大敗北に終わる。


第四章:攻防の転換点 — 国人衆の離反と兵站の崩壊

天文12年(1543年)3月、月山富田城を包囲した大内軍の総攻撃は、堅城の前に完全に頓挫した。この膠着状態は、尼子晴久の描いた持久戦のシナリオそのものであった。そして、この膠着こそが、戦局を決定的に転換させる二つの要因、すなわち兵站線の崩壊と国人衆の離反を誘発する温床となったのである。

尼子の非対称戦争と兵站の危機

大内軍の兵站線は、本国である周防・長門から、安芸・石見を経て、決戦の地である出雲まで、数百キロにわたって伸びきっていた。この長大な補給路は、大軍を維持するための生命線であると同時に、最大の弱点でもあった。尼子晴久はこの弱点を見逃さなかった。

尼子軍は、正面からの大規模な戦闘を避けつつ、城から精鋭の小部隊を繰り返し出撃させた。彼らは夜陰に乗じて大内軍の陣を襲い、あるいは山中の間道を使って補給部隊を奇襲する、いわゆるゲリラ戦術を展開した 5 。この執拗な兵站攻撃により、大内軍の補給路は度々寸断され、前線への兵糧や武具の輸送は次第に滞るようになった 7 。4万5千という大軍は、その規模ゆえに日々の消費量も膨大であり、補給の遅延は即座に兵士の飢えと士気の低下に直結した。前線では、勝利への期待が焦りと絶望へと変わりつつあった。

国人衆の心理的動揺と「投資の失敗」

この状況を最も深刻に受け止めていたのが、大内方に味方していた国人領主たちであった。彼らにとって、この遠征は自家の将来を賭けた一種の「投資」であった。大内氏という勝ち馬に乗り、尼子氏滅亡後の恩賞として新たな領地を得る。それが彼らの描いた青写真であった。

しかし、現実はどうであったか。戦いは1年以上も続き、一向に富田城は落ちる気配を見せない。それどころか、味方の補給は滞り、兵士は疲弊し、戦況は悪化の一途をたどっている。三刀屋久扶、三沢為清、本城常光、そして毛利元就が仲介して大内方についた吉川興経といった国人衆の脳裏に、「大内は勝てないのではないか」「このままでは共倒れになる」という致命的な疑念が広がり始めたのは当然のことであった 7

国人領主の忠誠の対象は、主君個人や家門ではない。彼らが何よりも優先するのは「自家の存続」である。大内軍の苦戦は、彼らにとって「投資の失敗」を意味していた。そして、失敗した投資から手を引く「損切り」は、経営者として極めて合理的な判断であった。大内義隆は、兵力という「力」で彼らを従わせることはできても、彼らの心を繋ぎ止める「信頼」を戦場で示すことができなかった。これが、大内軍の軍事的な敗北に先立つ、「政治的な敗北」の瞬間であった。

決定的な裏切りと包囲網の崩壊

天文12年4月末、国人衆の不安と不満は、ついに臨界点に達した。吉川興経、三刀屋久扶、三沢為清ら、出雲・石見の主要な国人衆が、示し合わせたかのように一斉に大内軍を裏切ったのである。

その寝返りの方法は、あまりにも劇的であった。『陰徳太平記』によれば、彼らは「今から城に総攻撃を仕掛ける」と偽り、自軍の兵を率いて堂々と月山富田城へと進軍。そして、城門が内から開かれると、そのまま尼子軍へと合流してしまったという 5 。昨日までの味方が、今日からは敵となったのである。

この決定的な裏切りにより、月山富田城を幾重にも囲んでいた大内軍の包囲網は、内側から食い破られる形で崩壊した 7 。もはや、攻城戦を継続することは不可能であった。それどころか、寝返った国人衆と尼子本軍によって、逆に大内軍が包囲殲滅される危険性さえ生じていた 7 。大内義隆に残された選択肢は、もはや一つしかなかった。すなわち、全軍の即時撤退である。

第五章:潰走 — 大内軍、破滅的撤退戦の全貌

国人衆の大量離反により、大内軍の戦略は完全に破綻した。天文12年(1543年)5月7日、大内義隆は京羅木山の本陣を払い、全軍に撤退を命令した 5 。しかし、それは統率の取れた戦略的撤退ではなかった。指導部の権威は失墜し、兵士たちの士気は底をついていた。後に続くのは、軍としての統制を完全に失った「潰走」であり、尼子軍の猛追と内部崩壊がもたらす地獄絵図であった。

追撃の嵐と海路の悲劇

撤退を開始した大内軍に対し、好機を捉えた尼子軍は容赦のない追撃を開始した。さらに、大内軍の敗北を知った現地の農民たちは、これまで占領軍として振る舞ってきた大内兵への恨みを晴らすべく、土一揆となって蜂起。竹槍や鍬を手に、山道や隘路で落ち武者狩りを始めた 5 。大内軍は、前方からは尼子軍、そして側面や後方からは土一揆の襲撃を受けるという、まさに阿鼻叫喚の状況に陥った。

この混乱の中、総大将である義隆とその養嗣子・晴持は、少しでも安全な海路での脱出を図るべく、出雲浦(現在の中海沿岸)を目指した 22 。しかし、敗走のパニックは、主君と後継者の間さえ引き裂いた。義隆が無事に乗船できた一方で、晴持は別の「小舟」に乗らざるを得ない状況に陥った 22

その小舟に、生き残ろうと必死の味方兵士たちが我先にと殺到した。定員をはるかに超える人々が乗り込んだ結果、舟はバランスを崩して転覆 22 。重い甲冑を身に着けた晴持は、なすすべもなく水中に没し、二度と浮かび上がることはなかった 22 。享年20 24 。この悲劇は、単に後継者を失ったというだけではない。義隆がこの遠征に賭けた最大の希望そのものが、味方の手によって水底に葬られた瞬間であった。この報を受けた義隆の精神的打撃は計り知れず、彼の心はここで完全に折れてしまったと言われている 4

陸路の地獄と忠誠の代償

一方、陸路での撤退はさらに過酷を極めた。殿(しんがり)という、全軍の最後尾で敵の追撃を食い止める最も危険な任務を命じられたのは、毛利元就とその部隊であった 5 。元就は奮戦するも、尼子軍の波状攻撃の前に部隊は次々と崩れ、壊滅的な打撃を受けた。

石見国へと退却する途中、地元の国人(山吹城主)からの追撃も受け、元就はついに嫡男・隆元と共に自害を覚悟するまでに追い詰められる 5 。まさにその時、一人の家臣が元就の前に進み出た。渡辺通である。彼は元就の甲冑と馬印を譲り受けると、「我こそは毛利元就なり」と名乗りを上げ、わずか7騎で追撃軍の中へと突入していった 5 。敵の注意を一身に引きつけた通は、壮絶な奮戦の末に討死。この自己犠牲によって稼がれたわずかな時間のおかげで、元就は九死に一生を得て、安芸の吉田郡山城へと逃げ延びることができたのである 5

大内晴持の混沌とした死と、渡辺通の自己犠牲による主君の救済。この二つの出来事は、戦国時代における「主従関係」の光と影を鮮やかに対比させている。前者は、リーダーシップの欠如が招いた組織崩壊の悲劇であり、後者は、一個人の絶対的な忠義が組織の危機を救うという稀有な事例である。この地獄のような撤退戦で味わった屈辱と、家臣の忠義によって命を拾ったという強烈な経験は、毛利元就の人間観、そして戦争観を根底から変え、後の飛躍の礎となったに違いない。

終章:戦後の波紋 — 中国地方の勢力図を塗り替えた一戦

1年4ヶ月に及んだ大内義隆の出雲遠征は、後継者の死と数多の将兵の犠牲という、破滅的な大敗北に終わった。この「第一次月山富田城の戦い」は、単なる一合戦の勝敗に留まらず、勝者である尼子氏、敗者である大内氏、そして辛うじて生き残った毛利氏、三者のその後の運命を決定づけ、中国地方の勢力図を不可逆的に塗り替える一大転換点となった。

大内氏の黄昏と滅亡

周防山口に帰還した大内義隆は、もはやかつての覇気ある戦国大名ではなかった。寵愛する養嗣子・晴持を失った深い絶望は、彼の政治と軍事に対する情熱を完全に奪い去った 4 。義隆は戦場から遠ざかり、京から公家や文化人を招いては宴に明け暮れるなど、華やかな京文化の世界に傾倒していく。

政治の実権は、相良武任ら文治派の側近が掌握。これにより、出雲遠征を強硬に主張し、多くの犠牲を払いながらも報われなかった陶隆房ら武断派の不満は、日増しに募っていった 11 。主君への失望と、文治派への憎悪。この亀裂はもはや修復不可能なレベルに達し、天文20年(1551年)、ついに陶隆房が謀反の兵を挙げる。世に言う「大寧寺の変」である。義隆は長門国大寧寺で自刃に追い込まれ、西国に君臨した名門・大内氏は、事実上滅亡した 4

尼子氏の絶頂と内包された翳り

一方、大内軍を撃退した尼子晴久は、その威名を天下に轟かせた。この勝利を受け、室町幕府は晴久を、出雲・隠岐に加え、備前・備中・備後・美作・因幡・伯耆の守護に任じた 26 。山陰山陽八カ国の守護を兼任する大大名となり、尼子氏は名実ともにその最大版図を現出させ、絶頂期を迎えた 4

しかし、その栄光の裏には、深刻な翳りが潜んでいた。この勝利は、一度は敵に寝返った国人衆が再び味方に戻るという、極めて脆い基盤の上に成り立っていた。晴久は、こうした国人衆や、強大な軍事力を有する一門の「新宮党」に対し、次第に猜疑心を強めていく。この猜疑心は、後に毛利元就の謀略によって増幅され、家中最大の武力集団であった新宮党を自ら粛清するという悲劇に繋がる 14 。月山富田城での勝利は、尼子氏に栄光をもたらすと同時に、その権力基盤の構造的脆弱性を覆い隠し、後の自壊への道を歩ませる結果となった。

毛利氏の教訓と飛躍

この戦いにおいて、最も多くを学んだのは、間違いなく毛利元就であった。彼は、大内軍の一員として、その強大さと脆さ、そして破滅的な崩壊の過程を全て目の当たりにした。この苦い敗戦経験は、元就にとって最高の「教科書」となったのである 5

元就が学んだ教訓は多岐にわたる。第一に、兵力に任せた堅城への力攻めは、いかに愚かな作戦であるかということ。第二に、長期戦における兵站の維持こそが、戦の生命線であるということ。そして第三に、敵を内部から切り崩す「調略」の重要性である 5

これらの教訓は、その後の元就の戦いの全てに活かされていく。天文24年(1555年)の「厳島の戦い」では、大軍の陶晴賢を狭い厳島におびき出し、奇襲によって殲滅するという、力攻めとは正反対の戦術で勝利を収めた。そして約20年後の永禄8年(1565年)、元就は再び月山富田城の前に立つ。しかし、今度は決して力攻めは行わなかった。城への補給路を完全に遮断する徹底した兵糧攻めと、巧みな調略によって城内の結束を崩壊させ、一兵も損なうことなく難攻不落の城を降伏させたのである 5

第一次月山富田城の戦いは、歴史の逆説を鮮やかに示している。短期的な勝者であった尼子氏は、その勝利の内に没落の種を宿し、敗者であった大内氏は、その敗北から立ち直れず自滅した。そして、敗軍の中で最も過酷な経験をした毛利元就こそが、敗北から最も多くを学び、最終的に中国地方の覇者となる道筋をつけたのである。この一戦は、単なる地方の合戦ではなく、旧来の名門大名が没落し、国人領主から成り上がった策略家が新たな時代を築き上げていくという、戦国時代の権力移行の本質を象徴する、画期的な戦いであったと言えよう。

引用文献

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  8. 戦国の謀聖尼子経久――出雲を掌握した男の波乱の生涯 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=IhXYRxSBZcs
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  22. 大内晴持 大内義隆養嗣子・異郷に散った悲劇の貴公子 周防山口館 ... https://suoyamaguchi-palace.com/ochi-harumochi/
  23. 大内義隆の辞世 戦国百人一首92|明石 白(歴史ライター) - note https://note.com/akashihaku/n/n977d72a1d30c
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  28. 月山富田城の戦い~難攻不落の山城の補給路を断ち弱体化させた - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/932/