最終更新日 2025-09-02

寺部城の戦い(1565)

永禄八年、寺部城での大規模合戦記録はないが、徳川家康は三河一向一揆を鎮圧し、三河三奉行を設置し領国支配を確立。永禄元年には家康が初陣で寺部城を攻略し、永禄九年には織田信長の援軍により寺部城は最終的に落城。家康の三河統一の象徴となった。

三河・寺部城の戦い ― 徳川家康、三河統一への道程

序章:寺部城と三河鈴木氏 ― 戦略的要衝の歴史的背景

戦国時代の三河国は、東に駿河の今川氏、西に尾張の織田氏という二大勢力の狭間に位置し、絶えず緊張に晒されていた。この地で勢力を拡大しようとする新興の松平氏(後の徳川氏)と、古くから土地に根差す国人領主たちとの間には、複雑な対立と協調の関係が渦巻いていた。その象徴的な舞台の一つが、現在の愛知県豊田市に位置した寺部城である。

寺部城は、文明年間(1469年~1487年)に鈴木重時によって築かれたと伝わる 1 。矢作川水系を望む丘陵上にあり、西三河の平野部と東部の山間地帯を結ぶ交通の結節点を押さえる、戦略的に極めて重要な拠点であった 2 。城主である寺部鈴木氏は、紀伊国を起源とし、鉄砲隊で名高い雑賀衆とも同族とされる穂積氏の後裔を称する、三河の有力な国人領主であった 4 。彼らは高橋荘東部一帯に勢力を張り、同じく西三河での覇権を目指す松平氏とは、長年にわたり競合と衝突を繰り返してきた 6

16世紀中盤、今川義元が三河への影響力を飛躍的に高めると、寺部鈴木氏は松平氏からの圧力をかわすべく、他の多くの国人衆と同様に今川氏の麾下に入った 5 。しかし、これはあくまでも家の存続を第一とする戦略的選択に過ぎなかった。彼ら国人領主は、独立性を保ちながらも、常に周辺大名の力関係を天秤にかけ、従属と離反を繰り返すことで激動の時代を生き抜こうとしていたのである。寺部城の歴史は、まさにこうした国人の生存戦略と、それに翻弄され、やがてはそれを乗り越えて三河を統一する徳川家康の成長物語が交差する場所であった。

ご下問のあった永禄8年(1565年)という年は、徳川家康が三河一向一揆という未曾有の内乱を鎮圧し、領国支配を盤石にした極めて重要な時期にあたる。しかしながら、この年に寺部城で大規模な合戦が行われたという直接的な記録は、主要な史料からは見出すことができない。むしろ、寺部城が歴史の表舞台に大きく登場するのは、その前後、永禄元年(1558年)と永禄9年(1566年)の二度にわたる戦いにおいてである。

本報告書では、まず家康の初陣として知られる永禄元年の戦いを合戦中の時間経過が分かる形で詳述し、次に永禄8年(1565年)に至るまでの三河国の激動と家康による支配権確立の過程を解き明かす。そして最後に、永禄9年の寺部城落城が持つ歴史的意味を考察することで、寺部城を巡る一連の出来事が、家康の三河統一事業においていかに重要な画期であったかを明らかにする。

年代(西暦)

元号

主要な出来事

1558年

弘治4年/永禄元年

寺部城の戦い。 鈴木重辰が今川氏から離反。松平元康(家康)が初陣を飾り、寺部城を攻略。

1560年

永禄3年

桶狭間の戦い。今川義元が討死。松平元康が今川氏から独立。

1562年

永禄5年

清洲同盟。松平元康と織田信長が同盟を締結。

1563年

永禄6年

三河一向一揆が勃発。家康、生涯最大の危機に直面。

1564年

永禄7年

三河一向一揆を鎮圧。

1565年

永禄8年

三河三奉行を設置。 家康、一揆後の領国支配体制を再構築し、支配権を確立。

1566年

永禄9年

寺部城、再び落城。 織田信長の家臣・佐久間信盛により寺部城が攻略される。

第一部:永禄元年(1558年) 寺部城の戦い ― 松平元康、初陣の刻

永禄元年2月、三河国に激震が走った。寺部城主・鈴木重辰が、長年従属してきた駿河の今川氏に反旗を翻し、尾張の織田信長に内通したのである 8 。この動きは、当時尾張統一をほぼ成し遂げ、その勢威を三河国境にまで及ぼしつつあった信長の伸長を敏感に察知した、鈴木氏による大胆な賭けであった。今川の権勢に陰りが見えると判断し、新たな強者である織田に接近することで、宿敵・松平氏に対する優位を確保しようとした戦略的決断であったと考えられる。

松平軍(今川方)

鈴木軍(織田方)

総大将

松平元康(17歳)

鈴木重辰

主要な援軍・加勢

上野城主 酒井忠尚

広瀬城主 三宅高清

主要武将

石川数正、酒井忠次、鳥居元忠など

不明

推定兵力

約2,000

数百

出陣の刻:駿府からの下知

鈴木氏の離反という報は、今川義元の逆鱗に触れた。義元は、この裏切り者を討伐するべく、一人の若武者に白羽の矢を立てる。人質として駿府で育った松平家の嫡男、松平元信(後の元康、家康)、当時17歳 7 。これが、後の天下人の初陣となるのである 8

義元が元康を抜擢した背景には、複数の政治的計算があった。第一に、元康の将器を実戦で試すこと。第二に、この初陣を成功させることで、元康を名実ともに松平家の当主として三河の旧臣たちに認めさせ、家臣団の結束を促すこと。そして第三に、三河の国人同士を争わせることで、今川の支配をより盤石にするという深謀遠慮があった。元康にとって、この戦は自らの武威と存在価値を主君・義元と三河の家臣たちに示す、絶好にして唯一の機会であった。

軍議と戦略:「まず枝葉を刈り、然る後に根を断つべし」

討伐命令を受けた元康は、本拠地である岡崎城に入り、譜代の家臣たちと軍議を開いた。この時、元康が示した作戦は、居並ぶ老臣たちを驚嘆させるに十分なものであった。『徳川実紀』によれば、元康は諸将に対し、こう述べたとされる。

「敵はこの一城とは限らぬ。諸所の敵城より、後詰め(援軍)があったならば、由々しき大事じゃ。先ず、枝葉を刈り取り、それから後で根を断つべし」 10

これは、いきなり本丸である寺部城を攻めるのではなく、まず周辺に点在する鈴木氏の与党の城(枝葉)を叩いて連携を断ち、寺部城を完全に孤立させた上で、最後に本丸(根)を攻め落とすという、極めて合理的かつ冷静な戦略であった。酒井、石川といった宿老たちは、17歳の若き当主が示した、戦場の力学を的確に見抜いた深謀遠慮に感嘆し、「若くしての初陣において、既にこのようなお心構え。後々、どのような名将となられるであろうか」と涙したと伝わる 10

戦いの時系列再現:永禄元年2月5日

【未明】岡崎城出陣

永禄元年2月5日、払暁。松平元康は、岡崎の譜代家臣を中心とする軍勢を率いて、雪の残る三河路を寺部へと進軍した。道中、上野城主・酒井忠尚の軍勢と合流し、その兵力は約2,000に達したとみられる 8。

【早朝】第一手:城下への放火

寺部城に到着した元康軍が取った行動は、敵の意表を突くものであった。城への攻撃準備に入るかと思いきや、元康はまず城下の町家へ一斉に火を放つよう命じたのである 9。轟音とともに立ち上る黒煙と炎は、城兵たちの動揺を誘う絶大な心理的効果をもたらした。これは、籠城兵の士気を削ぐと同時に、城外からの支援を断ち切るための非情な一手であった。

【午前~】電撃作戦:枝葉を刈る

城下町が燃え盛る中、元康軍は矢継ぎ早に次の行動に移る。寺部城への包囲を維持しつつ、主力または別動隊を転進させ、周辺の支城へと襲いかかったのである。

  1. 梅坪城攻撃: 最初に標的となったのは、鈴木氏に同心する梅坪城であった。元康軍は城から打って出てきた敵兵を難なく撃退すると、その勢いのまま城内に突入。二の丸、三の丸をことごとく焼き払い、敵を敗走させた 7
  2. 広瀬城・挙母城への転戦: 元康軍の勢いは止まらない。すぐさま矛先を変え、鈴木重辰に加勢していた三宅高清が守る広瀬城、さらには挙母城へと次々に攻め寄せた 7 。いずれの城も十分な防備を整える暇なく攻撃を受け、城構えを破壊され、火を放たれて甚大な被害を被った。

この電光石火の連続攻撃は、17歳の若者の初陣とは到底思えぬ、卓越した指揮能力と計画性を示している。「各個撃破」の原則に忠実なこの作戦により、寺部城はわずか半日にして全ての援軍の望みを絶たれ、完全に孤立無援の状態に陥った。

【午後~】総攻撃:根を断つ

周辺の「枝葉」をすべて刈り取った元康は、満を持して「根」である寺部城への総攻撃を命じた。すでに士気が著しく低下していた鈴木軍に、攻勢に転じる力は残されていなかった。元康軍は外曲輪を突破すると 10、城内各所に火を放ち、猛烈な火攻めを展開した 8。

【夕刻】決着:落城

城内が炎と混乱に包まれる中、激しい白兵戦が繰り広げられた。そして、奮戦も空しく、城主・鈴木重辰は乱戦の中で討死 5。大将を失った寺部城は、ついに落城した。

この戦いの後、寺部鈴木氏は一時的に没落したものの、一族が根絶やしにされたわけではなく、後に城主に復帰している 5 。これは、元康の戦後処理が敵対勢力の殲滅ではなく、再度の服従を促すことを目的としていた可能性を示唆しており、彼の政治的バランス感覚の萌芽が見て取れる。

戦後処理と評価

元康の初陣は、完璧な勝利で幕を閉じた。この報を受けた今川義元は大いに満足し、元康の武功を称えて太刀一腰と、かつての松平氏の旧領であった山中三百貫文の地を恩賞として与えた 7 。この勝利は、元康個人、そして松平家臣団にとって計り知れない価値を持つものであった。元康は武将としての絶対的な自信を掴み、家臣団は祖父・清康の再来とまで称された若き当主の采配に心酔し、その結束を一層強固なものにした 10 。今川家中の評価も高まり、後の桶狭間の戦いにおいて大高城への兵糧入れという重要任務を任される伏線となる。天下人・徳川家康の長い戦いの歴史は、この寺部城での鮮烈な勝利から始まったのである。

第二部:激動の三河 ― 桶狭間から一向一揆へ

永禄元年の寺部城の戦いで華々しい初陣を飾った元康であったが、その後の三河国は、彼の運命を根底から揺るがす激動の時代へと突入する。

転機:桶狭間の戦いと今川からの独立

永禄3年(1560年)、元康の主君であった今川義元が、桶狭間の戦いで織田信長に討たれるという大事件が勃発する。主を失った今川軍が混乱する中、元康は岡崎城へと帰還し、長年の人質生活と今川氏への従属に終止符を打った。これは、彼が独立した戦国大名として、自らの力で三河を切り拓いていく決意を固めた瞬間であった。そして永禄5年(1562年)、元康は宿敵であったはずの織田信長と清洲同盟を締結 11 。西方の脅威を取り除くことで、三河一国の平定に全力を注ぐ戦略的環境を整えたのである。

内乱:三河一向一揆と1565年の国内情勢

三河統一を着実に進める家康(永禄6年に改名)の前に、生涯最大の危機が立ちはだかる。永禄6年(1563年)に勃発した三河一向一揆である 12 。これは、家康が進める領国支配の強化策が、寺社が持つ「不入の権」(治外法権)を侵害したことに端を発する 14 。これに、家康の支配に不満を抱く国人領主たちが結びつき、西三河全域を巻き込む大規模な内乱へと発展した。

この一揆の深刻さは、本多正信をはじめとする腹心の家臣までもが一揆方に与するなど、徳川家臣団が信仰と忠誠の間で引き裂かれ、内部から崩壊しかねない状況に陥った点にある 15 。約半年にわたる激戦の末、家康は永禄7年(1564年)に辛うじて一揆を鎮圧するが、その爪痕はあまりにも深かった。

この未曾有の内乱を乗り越えた家康は、三河国の統治体制を根本から作り直す必要に迫られた。これこそが、ご下問の核心である永禄8年(1565年)の三河国が置かれた状況である。この年、家康は「門徒・国人勢力を鎮圧し支配確立」を成し遂げるため、一連の画期的な政策を断行した。

第一に、一揆に加担した家臣たちに対し、寛大な措置をもって帰参を許したことである 15 。これにより、分裂した家臣団の融和と再結束を図り、人的基盤を立て直した。第二に、反乱の温床となった一向宗寺院を領内から追放、あるいは破却し、宗教勢力が政治へ介入する道を徹底的に断ち切った 15

そして第三に、最も重要な施策として、永禄8年(1565年)、家康は領国統治の中核を担う行政機関として、本多重次、天野康景、高力清長の三名を「三河三奉行」(岡崎三奉行)に任命した 18 。彼ら奉行は、これまで国人や寺社がそれぞれに行使していた民政や訴訟といった権限を家康直轄の機構に一元化する役割を担った。

この三奉行の設置は、徳川氏の三河支配が、国人領主たちの連合盟主という立場から、大名の権力下にすべてが統制される近世的な領国支配体制へと移行したことを示す決定的な出来事であった。一揆という危機を乗り越えたことで、家康は旧来の勢力を解体・再編し、三河国を文字通り自らの「国家」として掌握したのである。寺部城で具体的な合戦はなかったものの、永禄8年(1565年)は、徳川氏が戦国大名として真の飛躍を遂げるための礎が築かれた、極めて重要な年であったと言える。

第三部:永禄九年(1566年) 寺部城、再び戦火へ

永禄8年(1565年)の国内改革によって三河の地盤を固めた家康。その翌年、寺部城は再び歴史の転換点となる。しかし、今度の主役は家康ではなく、その同盟者である織田信長であった。

背景:変化した力学と信長の戦略

1566年当時、家康が三河平定を完了しつつあった一方で、織田信長は美濃攻略を本格化させていた 19 。清洲同盟は、もはや単なる軍事同盟ではなく、互いの領土拡大を補完し合う、より高度な戦略的パートナーシップへと進化していた。信長にとって、美濃の斎藤氏と雌雄を決するにあたり、背後、すなわち三河方面の安定は絶対不可欠な条件であった。同盟者である家康の領内に、いまだ織田・徳川連合に従わない旧今川方や独立志向の国人が存在することは、看過できないリスクだったのである。

1558年の戦いの後、寺部鈴木氏は再び今川方に服属し、桶狭間の戦い以降も家康の三河統一に非協力的な態度を取り続けていたと推測される。この寺部城の存在は、信長の戦略構想における「最後の障害」の一つと見なされた。

佐久間信盛の侵攻と落城

永禄9年(1566年)、信長は重臣の佐久間信盛に軍勢を預け、寺部城へと派遣した 1 。この織田軍による攻撃は、家康の三河平定を軍事的に後押しし、領内の親今川勢力を一掃する総仕上げとしての意味合いを持っていた。

織田軍の精鋭の前に、もはや寺部城に抗する術はなかった。城は猛攻を受けて陥落 4 。城主であった鈴木重教(重辰の子あるいは一族)は、かろうじて城を脱出し、矢並城へと逃れた後、最終的には没落した今川氏を頼って駿河へと落ち延びていった 6 。この落城をもって、三河の国人領主としての寺部鈴木氏は事実上滅亡し、その故地は完全に徳川氏の支配下に組み込まれたのである 3

この戦いにおいて家康が直接軍を動かした記録はないが、同盟者である織田軍が自領内で行う軍事行動を承認、あるいは黙認していたことは疑いようがない。これは、家康がもはや今川の属将でも、一介の三河の国人盟主でもなく、信長と対等に近い戦略的パートナーとして、領国の安定化を共同で進める立場にあったことを明確に示している。寺部城の二度目の落城は、戦国乱世が、もはや一国人領主の思惑で生き残れる時代ではない、新たな段階へと移行したことを告げる象徴的な出来事であった。

結論:寺部城の戦いが物語る徳川家康の三河統一

本報告書で詳述した寺部城を巡る二度の戦いと、その狭間に位置する永禄8年(1565年)という年は、徳川家康という一人の武将が天下人へと至る、その原点である三河統一の軌跡を鮮やかに映し出している。

当初のご下問にあった「寺部城の戦い(1565)」は、特定の合戦を指し示すものではなかった。しかし、その問いは、徳川家康による「門徒・国人勢力を鎮圧し支配確立」という、まさに1565年前後に達成された歴史的事業の本質を的確に捉えている。この問いを深く掘り下げることで、我々は三つの重要な段階を経て三河が統一されていく様を、寺部城という一つの城の運命を通して見ることができる。

第一の段階は、 永禄元年(1558年)の戦い である。この戦いで、家康は今川義元の代理人として、17歳にして類稀な将器の片鱗を見せつけた。これは、彼が「今川家の駒」という立場から脱し、「三河松平家の当主」として家臣団の心を掌握する、自己確立の第一歩であった。

第二の段階が、 永禄8年(1565年)の国内改革 である。三河一向一揆という国家存亡の危機を乗り越えた家康は、武力のみならず、三河三奉行という新たな統治システムによって領国を支配する「戦国大名」へと見事に脱皮を遂げた。寺部城で戦火は上がらずとも、この年の静かなる改革こそが、その後の徳川氏の飛躍を支える強固な土台を築いたのである。

そして第三の段階が、 永禄9年(1566年)の落城 である。この出来事は、家康が織田信長という巨大な同盟者と連携し、より大きな戦略的視座から自領の安定化を図る「天下人の同盟者」へと、その政治的地位を変化させたことを物語る。寺部鈴木氏の終焉は、もはや旧来の国人領主が独自の論理で生き残ることが許されない、新たな権力秩序の時代の到来を告げるものであった。

結論として、「寺部城の戦い(1565)」という問いは、一つの合戦ではなく、1558年に武将として産声を上げ、1565年に領主として国を固め、1566年に戦略家として同盟を確立した徳川家康の、三河統一という壮大な物語そのものを、凝縮して問いかける言葉であったと総括できる。一つの城の盛衰は、一人の英雄の成長と、一つの時代の変革を、かくも雄弁に物語っているのである。

引用文献

  1. 寺部城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/1599
  2. 寺部城跡 | 【公式】愛知県豊田市の観光サイト「ツーリズムとよた」 https://www.tourismtoyota.jp/spots/detail/2190/
  3. 寺部城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E9%83%A8%E5%9F%8E
  4. 寺部(てらべ)城 - aitisirotoyota ページ! - 豊田地区の城 https://aitisirotoyota.jimdofree.com/%E8%B1%8A%E7%94%B0%E5%9C%B0%E5%8C%BA%E3%81%AE%E5%9F%8E/%E9%AB%98%E6%A9%8B/%E5%AF%BA%E9%83%A8%E5%9F%8E/
  5. 寺部城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.suzukishiterabe.htm
  6. 三河 寺部城(豊田市) - 城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/mikawa/terabe-jyo/
  7. 寺部城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/mikawa/shiseki/nishi/terabe.j/terabe.j.html
  8. 寺部城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E9%83%A8%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  9. 【どうする家康17歳】初陣・寺部城の戦い!!【2月5日は何の日!?・きょうのれきし】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=5RETp7SfQ2Q
  10. 天下人・家康は初陣をどう戦ったのか? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/24891
  11. 徳川家康の合戦年表 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/78008/
  12. 徳川家康は危機の一つだった「三河一向一揆」を克服し、見事に家臣団統制に成功した! https://www.youtube.com/watch?v=ZAPGel2PwnQ
  13. 三河一向一揆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86
  14. 徳川家康と三河一向一揆 /ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97177/
  15. 織田信長や徳川家康を苦しめた一枚岩の集団~一向一揆 – Guidoor Media https://www.guidoor.jp/media/nobunaga-versus-ikkoikki/
  16. 徳川四天王と三河家臣団/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/tokugawaieyasu-aichi-shizuoka/tokusawa-vassals/
  17. 三河一向一揆(みかわいっこういっき)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86-138329
  18. 本多重次 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/honda-shigetsugu/
  19. 1565年 – 67年 将軍義輝の暗殺 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1565/