小丸山城の戦い(1583)
天正十一年 小丸山城の戦い:戦われなかった合戦の戦略的意義
序章:天正十一年、能登における地政学的転換点
天正十一年(1583年)、能登国において「小丸山城の戦い」と呼ばれる事象が発生した。しかし、この名を冠する大規模な攻城戦や野戦が、同時代の史料に明確に記録されているわけではない。本報告書では、この「小丸山城の戦い」を、城を巡る直接的な戦闘行為としてではなく、織田信長の死後に生じた中央政局の激動、すなわち賤ヶ岳の戦いの結果として北陸地方に生まれた深刻な政治的・軍事的対立、すなわち前田利家と佐々成政の対立を背景に、小丸山城が対佐々成政の最前線基地として置かれた極度の軍事的緊張状態、およびそれに付随する一連の戦略的行動の総体と定義する。
したがって、本稿の目的は、なぜ大規模な戦闘が記録されていないにもかかわらず、この天正十一年という年が前田家の能登、ひいては加賀支配にとって決定的な意味を持つのか、その水面下で進行していた「見えざる戦い」の実態を、時系列に沿って解き明かすことにある。物語は、天正十年(1582年)の本能寺の変に端を発し、北陸の勢力図を塗り替えた荒山合戦を経て、天正十一年(1583年)の賤ヶ岳の戦いへと至る。この一連の激動の中で、小丸山城が果たした戦略的役割を多角的に分析し、その歴史的意義を再評価する。
第一部:小丸山城の誕生 ― 前田利家、能登統治の新ビジョン
第一節:七尾城からの戦略的移転
天正九年(1581年)、織田信長より能登一国を与えられた前田利家は、当初、能登守護・畠山氏の旧拠点であり、上杉謙信との攻防戦でも知られた難攻不落の山城、七尾城に入城した 1 。しかし、七尾城は中世的な山城の典型であり、その防御性能は比類なきものであったが、平時の領国経営の中心地としては著しく利便性を欠いていた 2 。標高約300メートルの山上に位置するため、城下町との往来や物資の搬入は困難を極め、経済活動の拠点としては不向きであった。
利家は、信長のもとで学んだ先進的な領国経営思想に基づき、能登の統治方針を旧態依然とした「守り」の姿勢から、経済と流通を重視する「攻めの経営」へと転換させることを構想していた。そのビジョンを実現するため、翌天正十年(1582年)、七尾湾に面した交通の要衝、所口村の小丸山(標高約22メートル)に新たな城の築城を開始した 3 。これが小丸山城である。
この拠点の移転は、単なる居城の変更以上の意味を持っていた。七尾湾という天然の良港を直接掌握することで、水運を利用した物流網を整備し、能登の経済を活性化させる狙いがあった。さらに、城は能登水軍の本部としても機能し、海上交通の支配権を確立する意図も含まれていた 5 。この選択は、戦国大名が単なる軍事指導者から、領国全体の経済を運営する近世的領主へと変貌していく時代の流れを象徴するものであり、利家が能登に新しい時代の統治を根付かせようとする強い意志の表れであった。
第二節:城と城下町の設計に込められた意図
利家の築城は、単なる軍事施設の建設に留まらず、地域社会との共存共栄を目指した総合的な都市計画であった。彼は築城にあたり、住民の生業を妨げないよう細心の注意を払い、中居の鋳物や穴水の材木といった、中世以来その地に根付いていた特産物の生産と流通を計画に組み込むことで、領民の全面的な協力を得ることに成功した 6 。これは、支配者が一方的に収奪するのではなく、地域の経済基盤を尊重し、それを活用することで領国を富ませるという、極めて近代的な発想であった。
さらに、利家は防御面においても独創的な工夫を凝らした。小丸山城の周囲に29もの寺院を集めて「山の寺寺院群」を建立し、有事の際には城を守る物理的な防壁として機能させたのである 5 。これは、かつて織田軍を長年苦しめた一向一揆の勢力を熟知していた利家ならではの戦略であった 7 。寺院群の配置は、物理的な防御機能に加え、領民の信仰心を掌握し、潜在的な宗教的反乱勢力を牽制するという、軍事・政治・宗教を一体化させた複合的な意図を持っていた。
このように、小丸山城の築城プロジェクトは、武力による支配(ハードパワー)と、民政への配慮や宗教勢力の巧みなコントロール(ソフトパワー)を融合させた、利家の領国経営思想の集大成であった。それは、来るべき新時代における統治者の理想像を、能登の地に具現化しようとする壮大な試みだったのである。
第二部:激動の前夜 ― 本能死の変と荒山合戦(1582年)
第一節:権力の空白と旧勢力の蜂起
小丸山城の築城が始まった天正十年(1582年)6月2日、京都・本能寺において織田信長が明智光秀の謀反によって自刃するという、天下を揺るがす大事件が発生した(本能寺の変) 8 。絶対的権力者の突然の死は、織田体制下で抑圧されていた各地の勢力にとって、旧領回復の千載一遇の好機と映った。
北陸においても、この権力の空白は即座に動乱を引き起こした。かつて信長によって寺領を削減されたことに強い不満を抱いていた能登・越中の国境に位置する一大宗教勢力、石動山天平寺の衆徒が蜂起したのである 8 。石動山は古くから武装化し、政治的影響力を持つ僧兵集団を擁していた 10 。彼らは越後の上杉景勝に支援を求め、景勝のもとに身を寄せていた旧能登畠山家臣、温井景隆・三宅長盛兄弟と結託した 12 。温井・三宅兄弟にとって、これは主家の再興をかけた決起であり、景勝にとっても、信長によって失われた能登への影響力を取り戻す絶好の機会であった。
第二節:「荒山合戦」― 能登支配権を巡る血戦
『荒山合戦記』によれば、天正十年6月23日、温井・三宅兄弟は上杉からの援兵を率いて氷見の女良浦に上陸し、石動山に入った 8 。そこで天平寺の衆徒と合流し、総勢約4300の軍勢を形成。翌24日、彼らは石動山にほど近い要害、荒山城(桝形山)に立てこもり、能登の新領主である前田利家に対して公然と反旗を翻した 8 。
この報に接した利家は、即座に3000の兵を率いて出陣。同時に、加賀金沢城主であり、織田家臣団の中でも「鬼玄蕃」の異名で知られた猛将・佐久間盛政に急使を送り、救援を要請した 8 。利家は石動山と荒山の中間地点である柴峠に巧みに布陣し、敵の連携を分断。一方、救援要請に応じた佐久間盛政は2500の兵を率いて石動山南麓の高畠村に布陣しており、知らせを聞くや否や、直ちに荒山城への猛攻を開始した 8 。
盛政の凄まじい攻撃の前に荒山城は持ちこたえられず、温井景隆・三宅長盛兄弟と遊佐長員は討死 8 。敵主力を壊滅させた利家は、反乱の根源であった石動山へ矛先を向けた。翌朝、濃霧に乗じて石動山へ総攻撃をかけ、伊賀組を用いて堂塔伽藍に次々と火を放った 8 。不意を突かれた衆徒と上杉勢はなすすべもなく壊滅し、一大霊場であった石動山は、信長による比叡山焼き討ちにも匹敵するほどの業火によって灰燼に帰した 8 。上杉景勝が派遣した3000の援軍は、海上からその火煙を眺めるのみで、戦わずして越後へ撤退したという 8 。
第三節:合戦がもたらしたもの
荒山合戦における前田・佐久間連合軍の圧勝は、能登・越中北部から上杉家の影響力を完全に排除し、前田利家の能登支配を盤石なものとした 8 。この勝利により、利家は能登国内における後顧の憂いを断ち切ることができた。これは、翌年に勃発する織田家内部の覇権争い、すなわち賤ヶ岳の戦いにおいて、彼が兵を動かすことを可能にする上で決定的に重要な意味を持った。もしこの反乱の鎮圧に手間取っていれば、利家は中央の政争に関与できず、その後の歴史は大きく異なっていた可能性が高い。
また、この戦いは、後に袂を分かつことになる前田利家と佐久間盛政が、緊密に連携して勝利を掴んだ最後の戦いとなった。皮肉なことに、この荒山合戦で共闘した盛政が、翌年の賤ヶ岳で柴田軍敗北の引き金を引くことになる。そしてその結果が、利家と、越中のもう一人の同僚であった佐々成政との間に、修復不可能な対立構造を生み出す遠因となるのである。荒山合戦は、利家の足場を固めると同時に、翌年の北陸全体の力学を決定づける人間関係の、最後の平穏な瞬間を記録した重要な「前日譚」であった。
第三部:賤ヶ岳の戦いと前田利家の決断 ― 運命の1583年
第一節:織田家臣団の分裂と北陸の動向
本能寺の変後、山崎の合戦で明智光秀を討ち、信長の後継者として頭角を現した羽柴秀吉と、織田家筆頭宿老の柴田勝家との対立は、清洲会議を経て決定的となった 17 。天正十一年(1583年)、両者はついに近江国・賤ヶ岳で対峙する。
北陸方面軍を統括していた勝家のもと、方面軍の有力武将であった前田利家、佐々成政、そして佐久間盛政らは、当然のことながら柴田方としてこの決戦に参陣した 18 。利家にとって勝家は長年の上官であり、多大な恩義のある存在であった。一方で、秀吉とは織田家中にあって若い頃から苦楽を共にした盟友であり、個人的な親交も極めて深かった 17 。利家は、旧主への「義理」と、盟友への「人情」、そして天下の趨勢を見極める冷徹な「政治判断」という、三つの要素の狭間で、極めて困難な選択を迫られる立場に置かれていた。
第二節:「鬼玄蕃」佐久間盛政の勇み足
戦線は膠着状態にあったが、天正十一年4月、秀吉が美濃で再挙兵した織田信孝を討つために戦線を離れた隙を突き、佐久間盛政が動いた 19 。彼は勝家に対し、秀吉方の重要拠点である大岩山砦への奇襲を進言。勝家は「砦を落としたら即座に帰還せよ」との厳命付きでこれを許可した 19 。
4月19日、盛政は奇襲を敢行。その猛攻は凄まじく、砦を守る中川清秀を討ち取り、岩崎山砦の高山右近をも敗走させるという大戦果を挙げた 19 。しかし、「鬼玄蕃」と恐れられた猛将の武勇は、同時に彼の致命的な欠点でもあった 21 。戦術的勝利に酔いしれた盛政は、さらなる戦果を求めて勝家の再三にわたる撤退命令を無視し、突出したまま前線に留まり続けたのである 19 。
第三節:府中退却 ― 利家の政治的決断
盛政の突出と大岩山砦陥落の報は、美濃の秀吉のもとへ直ちに届けられた。秀吉は驚異的な速度で軍を反転させ、わずか5時間で約52キロの距離を踏破して戦場に帰還する(美濃大返し)。秀吉本隊の出現に柴田方は動揺し、突出していた盛政隊はたちまち秀吉軍の猛反撃に晒され、崩壊を始めた 19 。
この状況を冷静に見ていたのが前田利家であった。彼は、盛政隊の崩壊と秀吉本隊の帰還によって、柴田方の敗北がもはや決定的であると判断。突如、自軍に退却を命じ、戦線を離脱して越前府中城へと兵を引いた 16 。柴田軍の側面を担う利家の大部隊の離脱は、ドミノ倒しのように全軍の総崩れを引き起こす決定的な要因となった 18 。これは単なる敗走ではなかった。柴田勝家を見限り、羽柴秀吉の勝利に自らの、そして前田家の未来を賭けるという、利家の生涯における最大の政治的決断であった。
第四節:勝家の最期と新時代の到来
利家の離脱により、柴田軍は完全に崩壊した。敗走の途上、勝家は利家の居城である府中城に立ち寄る。裏切ったも同然の利家に対し、勝家がどのような言葉をかけるか、城内は緊迫した空気に包まれた。しかし、勝家は利家を一切責めることなく、これまでの長年の友誼に感謝の言葉を述べ、「秀吉に降って、家の安泰を図るがよい」と、その将来を案じる言葉をかけたという 16 。その後、勝家は居城・北ノ庄城にて妻のお市の方と共に自害し、秀吉の覇権が事実上確立された。
利家の行動は、表面的には旧主への「裏切り」と映るかもしれない。しかし、一族と家臣団を守り、家名を後世に伝えることが当主の最大の責務とされた戦国時代の価値観において、彼の選択は決して非難されるべきものではなかった。勝家が利家を責めなかったという逸話は、勝家自身も利家の苦しい立場を理解し、その決断を容認していた可能性を示唆している。利家の決断は、個人的な忠義よりも大名としての政治的責任を優先した、新時代の到来を的確に読み取った冷徹な現実主義者の選択だったのである。
第四部:小丸山城の「戦い」 ― 国境線の攻防と睨み合い(時系列分析)
第一節:戦後処理と北陸勢力図の再編(1583年4月~)
賤ヶ岳の戦いにおける利家の政治的決断は、秀吉から高く評価された。戦後、利家は能登一国の所領を安堵されると共に、その戦功として新たに加賀の石川・河北二郡を与えられた 6 。これにより、前田家は能登一国の大名から、加賀・能登二国にまたがる約35万石の大大名へと一躍飛躍を遂げた。この領国の拡大に伴い、利家は本拠を能登の小丸山城から、加賀支配の中心地である尾山城(後の金沢城)へと移した 4 。
しかし、この栄光は、同時に新たな脅威との直接的な対峙を意味していた。
第二節:宿敵の誕生 ― 前田利家 vs. 佐々成政
柴田勝家の与力として最後まで秀吉に抵抗した越中守護・佐々成政は、勝家の死後も秀吉に恭順の意を示さず、北陸において孤立を深めていった 18 。成政は信長恩顧の宿将としての自負が強く、秀吉の台頭を快く思っていなかった。また、賤ヶ岳における利家の「裏切り」ともいえる行動は、成政にとって到底許しがたいものであった 24 。
一方、利家にとって、秀吉政権の安定を脅かす成政の存在は、自らの立場を危うくする危険分子であった。かつて織田家の同僚として北陸を共に転戦した二人の間には、もはや修復不可能な亀裂が生じていた。個人的な感情と政治的な立場が複雑に絡み合い、加賀・越中の国境を挟んだ両者の対立は、避けられない運命となったのである 25 。
勢力 |
主要武将 |
主要拠点 |
所領 |
賤ヶ岳後の立場・相互関係 |
羽柴方 |
前田利家 |
金沢城 |
加賀二郡・能登 |
秀吉政権の北陸方面における中核。対佐々成政の最前線。 |
|
前田安勝 |
小丸山城 |
(利家城代) |
能登の統治と対佐々・対上杉の抑え。 |
反羽柴方(旧柴田方) |
佐々成政 |
富山城 |
越中 |
秀吉に反抗。前田利家と敵対関係。 |
中立・警戒 |
上杉景勝 |
春日山城 |
越後 |
秀吉と和睦するも、依然として北陸情勢における潜在的脅威。 |
第三節:最前線基地・小丸山城(1583年後半)
利家が金沢へ本拠を移したことで、能登・小丸山城の戦略的価値は大きく変化した。城代として入ったのは、利家の実兄である前田安勝であった 1 。安勝に与えられた任務は、単なる能登の留守居役ではなかった。それは、越中の佐々成政、そして依然として隙を窺う越後の上杉景勝に対する、前田家の最前線基地の司令官という重責であった 6 。
天正十一年後半、加賀・越中の国境地帯は、大規模な軍事衝突こそなかったものの、息詰まるような緊張感に包まれた「静かなる戦場」と化していた。この時期の「小丸山城の戦い」の実態は、以下のような水面下での熾烈な攻防であったと推察される。
- 情報戦と諜報活動: 両陣営は互いの領内に忍びを放ち、兵の動員状況、城の普請状況、領内の不穏分子の動向といった情報を収集し、相手の次の一手を探る熾烈な情報戦を繰り広げていた。
- 国境城砦群の強化: 利家は、佐々成政の侵攻ルートとなりうる加越国境沿いの松根城や荒山砦などを改修・強化し、防衛線を固めた 26 。一方の成政もまた、加賀国境の城砦を固め、一進一退の睨み合いが続いた 27 。
- 兵站線の確保と経済戦: 小丸山城が七尾港を抑えていることは、前田方にとって大きな戦略的アドバンテージであった。海路を通じて兵糧や武具を容易に補給できるのに対し、成政軍が能登へ侵攻するには険しい山岳地帯を越えねばならず、兵站の維持に多大な困難が伴う。
- 在地勢力の調略: 利家は、越中国境に近い阿尾城主・菊池武勝のような国人衆に対し、所領安堵を約束する誓紙を送るなど、巧みな調略活動を展開した 18 。これは、成政の勢力圏を内側から切り崩し、来るべき決戦に備えるための重要な布石であった。
この状況下において、小丸山城の存在は、佐々成政に対して強力な軍事的圧力をかけ続ける戦略的な「楔(くさび)」の役割を果たしていた。もし成政が能登へ侵攻すれば、金沢の利家本隊が背後から出撃し、小丸山城の安勝軍と挟撃される危険性が常に存在した。この「見えざる戦い」こそが、天正十一年における「小丸山城の戦い」の真の姿だったのである。
第五部:戦後の能登統治と小丸山城の役割
第一節:前田家の能登支配の確立
天正十一年の一年間にわたる「静かなる戦い」は、翌天正十二年(1584年)、ついに火を噴いた。小牧・長久手の戦いに呼応した佐々成政が、総勢1万5000の大軍を率いて能登へ侵攻し、前田方の末森城を包囲したのである(末森城の戦い) 25 。
しかし、前田方はこの侵攻を予期していた。利家は金沢からわずか2500の兵を率いて夜通し強行軍を行い、奇襲によって佐々軍を打ち破るという劇的な勝利を収めた 25 。この勝利は、天正十一年の一年間にわたる軍事体制の再編・強化、国境防衛線の整備、そして巧みな調略活動といった周到な準備があったからこそ可能となったものであった。1583年の「睨み合い」がなければ、この圧倒的な兵力差を覆すことは極めて困難だったであろう。末森城での勝利により、前田利家の能登・加賀における支配は、名実ともに揺るぎないものとなった 29 。
第二節:小丸山城のその後
佐々成政の脅威が去った後も、小丸山城は能登統治の中心として重要な役割を果たし続けた。後には利家の次男・前田利政の所領となるなど、前田家にとって欠かせない拠点であった 6 。しかし、徳川の世となり、戦乱が終息すると、その軍事的役割も終わりを告げる。元和元年(1615年)、幕府によって発令された一国一城令により、小丸山城は廃城となった 4 。
城郭としての歴史は短かったが、利家が築いた城下町は七尾の中心地として発展を続け、その統治の遺産は加賀藩の時代を通じて後世に引き継がれた。そして、小丸山城は前田家にとって特別な意味を持つ城として記憶されることになる。それは、利家が能登一国の大名から、加賀百万石の礎を築く大大名へと飛躍する、まさにその出発点となった城であったからだ 30 。その短いながらも激動の歴史は、前田家の発展そのものを凝縮しており、「利家の出世城」として、その名を歴史に刻んでいる 31 。
年月日 |
出来事 |
関連人物 |
天正十年(1582年)6月 |
本能寺の変、織田信長自害 |
織田信長、明智光秀 |
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荒山合戦、石動山焼き討ち |
前田利家、佐久間盛政、温井景隆 |
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小丸山城築城開始 |
前田利家 |
天正十一年(1583年)4月 |
賤ヶ岳の戦い、柴田勝家自害 |
羽柴秀吉、柴田勝家、前田利家 |
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利家、加賀二郡を加増され金沢城へ入城 |
前田利家、羽柴秀吉 |
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前田安勝、小丸山城代となる |
前田安勝 |
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(後半) |
前田・佐々両軍、国境を挟み対峙(小丸山城の「戦い」) |
天正十二年(1584年)9月 |
末森城の戦い、前田軍が佐々軍を撃破 |
前田利家、佐々成政、奥村永福 |
結論:歴史的意義 ― 「戦われなかった戦い」の重要性
天正十一年(1583年)の「小丸山城の戦い」は、火花散る攻城戦や血で血を洗う野戦ではなかった。しかしそれは、賤ヶ岳の戦いという中央政局の大変動が、北陸という一地方の勢力図をいかに劇的に塗り替え、かつての盟友を宿敵へと変貌させたかを示す、極めて重要な歴史の断面である。
この年、前田安勝が守る小丸山城は、前田家の存亡をかけた対佐々成政との「冷戦」の最前線基地であり、その戦略的価値は計り知れない。城を巡る情報戦、心理戦、経済戦、調略戦といった「静かなる戦い」を制したことが、翌年の末森城における軍事的勝利を呼び込み、後の加賀百万石の盤石な礎を築く上で決定的な一歩となった。
したがって、「小丸山城の戦い」の歴史的意義は、戦闘の有無という単純な基準によって測られるべきではない。むしろ、新たな時代の秩序が形成される激動の中で、前田家が生き残りをかけて繰り広げた、高度な戦略的対峙そのものにこそ、本質的な価値が見出されるのである。それは、戦国時代が武力のみならず、政治力、経済力、情報力が勝敗を決する近代的な戦争の様相を呈し始めていたことを示す、象徴的な事例と言えるだろう。
引用文献
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- 小丸山城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/1416
- 「利家とまつ」の像が建つ<小丸山城> https://sirohoumon.secret.jp/komaruyamajo.html
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- 能登の歴史(前田利家七尾入城以降〜廃藩置県) https://geo.d51498.com/CollegeLife-Labo/6989/historytoshiiehaihanchiken.htm
- 桜の名所「小丸山城址公園」と前田利家が築いた出世の象徴「小丸山城跡」 https://sengoku-story.com/2023/01/14/noto-trip-0008/
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- 能登 石動山城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/noto/sekidosan-jyo/
- 国指定史跡 七尾城跡 http://www.city.nanao.lg.jp/sportsbunka/documents/nanaojouato-sansaku-guide.pdf
- 【石川県の歴史】戦国時代、何が起きていた? 加賀一向一揆の約100年に及ぶ抗争 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=eHN15VBnsE4
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- 金沢城|城のストラテジー リターンズ|シリーズ記事 - 未来へのアクション - 日立ソリューションズ https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_shiro_returns/03/
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- 楊斎延一 作 「佐久間盛政秀吉ヲ襲フ」(武者絵)/ホームメイト - 刀剣ワールド/浮世絵 https://www.touken-world-ukiyoe.jp/mushae/art0023900/
- 佐久間盛政(さくま もりまさ) 拙者の履歴書 Vol.289~北陸鬼玄蕃、忠義の最期 - note https://note.com/digitaljokers/n/nb5ec3d5322e0
- 小丸山城 - 七尾市:歴史・観光・見所 https://www.isitabi.com/7/komarusiro.html
- 百万石がはじまったまち?!前田利家と宝達志水町の接点を追いかける(後編) https://www.hodatsushimizu.jp/kanko/mottoslow/toshiiemaeda_02.html
- (佐々成政と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/24/
- 富樫氏と一向一揆 - 金沢市 https://www4.city.kanazawa.lg.jp/material/files/group/22/cyuotoshi03_ikkoikki.pdf
- 前田利家と佐々成政が繰り広げるライバル対決「倶利伽羅戦国物語~前田・佐々抗争」 https://sengoku-story.com/home/kurikara/
- 【陣触れ】決戦に備えよ(2025年06月) | 「ニッポン城めぐり」運営ブログ https://ameblo.jp/cmeg/entry-12904752975.html
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- 能登の桜名所!前田利家が築いた小丸山城跡の「小丸山城址公園」|七尾市 | のとルネ https://noto-renaissance.net/komaruyamakouenn/