最終更新日 2025-08-30

小松城の戦い(1580)

天正八年、柴田勝家率いる織田軍は加賀一向一揆を平定。金沢御坊陥落後、佐久間盛政の調略で舟岡山城が落ち、小松城も戦わずして開城。一揆は壊滅し、加賀は織田の支配下となる。

天正八年・加賀平定戦詳報:織田軍による小松城攻略の時系列的再構築

序章:百年王国の終焉

「百姓の持ちたる国」の実像

長享2年(1488年)、加賀国守護であった富樫政親が高尾城で自刃し、守護家が事実上滅亡して以来、加賀国はおよそ一世紀にわたり、特異な統治形態の下にあった。それは、浄土真宗本願寺教団の門徒たちが、守護という世俗権力を排除し、自治共同体を形成した「百姓の持ちたる国」と呼ばれる体制であった 1 。この体制は、本願寺の宗教的権威を頂点としながらも、郡や組といった地域単位での強固な結束力に支えられ、独自の軍事力と統治機構を擁する独立国家の様相を呈していた。天下布武を掲げ、強力な中央集権体制の確立を目指す織田信長にとって、この加賀の門徒国家は、自らの支配秩序に組み込むことのできない「異質な存在」であり、いずれは打倒すべき最後の牙城の一つと見なされていた。

織田信長の北陸戦略

織田軍の北陸方面への進出は、決して平坦な道のりではなかった。天正5年(1577年)、織田軍は越後の雄・上杉謙信と手取川で激突し、手痛い敗北を喫している 3 。この敗戦は、信長に北陸制圧の困難さを改めて認識させると同時に、より周到な戦略の必要性を痛感させた。謙信の死後、上杉家が内乱(御館の乱)で弱体化した好機を捉え、信長は北陸方面軍総司令官である筆頭家老・柴田勝家に対し、加賀平定の最終指令を下す 4 。この作戦の目的は、単なる領土拡大に留まらなかった。それは、長年にわたり信長を苦しめ続けた石山本願寺と連携し、反信長包囲網の一翼を担ってきた宗教勢力の根を完全に断ち切り、北陸道という戦略的要衝を完全に掌握するための、織田政権の威信をかけた事業だったのである。

石山本願寺和睦の衝撃

天正8年(1580年)3月、織田信長と本願寺の11年にも及ぶ抗争、いわゆる石山合戦が、正親町天皇の勅命を介した講和によって終結した 5 。この報は、本願寺の最も強力な支持基盤であった加賀の門徒たちに大きな衝撃と動揺をもたらした。総本山が降伏した以上、戦いを続ける大義名分は失われたかに見えた。しかし、事態は単純ではなかった。本願寺宗主・顕如の子である教如が徹底抗戦を呼びかける檄文を発したこともあり 5 、加賀の門徒たちの間では抵抗の意思が再燃する。

ここに、一つの歴史的パラドックスが浮かび上がる。石山本願寺の講和は、加賀一向一揆を組織的に孤立させ、その精神的支柱を揺るがすものであった。しかし、同時にそれは、約100年にわたって自治を享受してきた彼らにとって、自らの「国」が、もはや本山の意向とは無関係に、織田軍によって蹂躙され、解体されるという冷徹な現実を突きつけるものでもあった。信長は講和後、柴田勝家に一時的な休戦を命じながらも、最前線で一揆勢と対峙する佐久間盛政らの軍事行動を事実上黙認するという矛盾した姿勢を見せた 6 。この織田方の硬軟織り交ぜた対応は、一揆方に深い不信感を植え付けた。もはや和睦の道はないと悟った彼らは、「失うものは何もない」という絶望的な覚悟を固め、より頑強で、そして悲劇的な結末へと向かう徹底抗戦の道を選択することになるのである。

【表1】加賀平定戦 主要関係者一覧

勢力

氏名

役職/称号

主要拠点/担当戦線

織田軍

柴田勝家

北陸方面軍総司令官

加賀平定戦 全般指揮

佐久間盛政

織田家臣、「鬼玄蕃」

加賀南部戦線、調略・殲滅戦

村上頼勝(義明)

丹羽長秀家臣

戦後の小松城主

一揆軍

若林長門守

一向一揆指導者

舟岡山城主、小松城主

鈴木出羽守

一向一揆指導者

鳥越城主、白山麓門徒衆指揮

宇津呂丹波

本願寺堂衆

波佐谷城主

荒川市助

一向一揆指導者

虚空蔵山城主

岸田常徳

一向一揆指導者

日谷城主

第一章:戦いの序曲 ― 金沢御坊陥落(天正8年 閏3月~4月)

第三次加賀侵攻の開始

石山本願寺との和議が成立した直後の天正8年(1580年)閏3月9日、柴田勝家率いる織田軍本隊は、満を持して三度目の加賀侵攻を開始した。『信長公記』によれば、勝家軍は加賀国の玄関口である手取川を渡り、海沿いの宮腰(現在の金沢市金石町)に陣を構えた 5 。これは、加賀一向一揆の中枢部である金沢御坊(尾山御坊)に対する最終攻撃の拠点と補給線を確保するための布石であった。

野々市の攻防

織田軍の最初の目標は、金沢御坊の南方に位置し、交通の要衝でもあった野々市であった。ここに立て籠もる一揆勢に対し、勝家は容赦のない攻撃を仕掛ける。野々市は一揆勢の頑強な抵抗拠点であったが、織田軍の圧倒的な軍事力の前に長くは持ちこたえられず、同日中に陥落した 6 。この勝利により、織田軍は金沢御坊へ南から迫る進撃路を確保し、一揆勢の防衛網に大きな亀裂を入れることに成功した。

木越砦の陥落

閏3月11日、信長から柴田勝家のもとへ、加賀における休戦を命じる使者が到着する 6 。これは石山本願寺との和議の条件を遵守する姿勢を内外に示すための政治的措置であった。しかし、戦いの最前線では、この命令は事実上無視された。依然として抵抗を続ける一揆勢に対し、織田軍の攻撃の手は緩められなかったのである。同月14日、勝家の甥であり、勇猛さから「鬼玄蕃」の異名をとる佐久間盛政が、能登国の織田方武将・長連龍(ちょうつらたつ)の協力を得て、金沢御坊の北方を固める重要拠点・木越砦を攻撃し、これを陥落させた 6 。これにより、金沢御坊は南北から挟撃される形となり、完全に孤立した。

本拠地の崩壊

外堀がすべて埋められた4月、柴田勝家と佐久間盛政は、加賀一向一揆の政治・軍事・宗教の限りない中心地であった金沢御坊への総攻撃を開始した。金沢御坊は、石垣や堀で固められた巨大な要塞寺院であり、その内部には寺内町が形成されていた 8 。しかし、織田軍の猛攻の前に、約一世紀にわたり「百姓の持ちたる国」の象徴であり続けたこの拠点は、ついに陥落の時を迎える 8

戦局の転換

金沢御坊の陥落は、加賀一向一揆にとって致命的な打撃であった。司令塔を失い、組織的な指揮系統は完全に崩壊した。しかし、門徒たちの抵抗の炎が消えたわけではなかった。本願寺から派遣されていた堂衆や、在地の一揆指導者たちは、金沢を脱出し、加賀南部の能美郡、江沼郡の丘陵地帯から、霊峰白山の麓に広がる山間部へと逃れた。彼らはそこに点在する山城群を新たな拠点とし、抵抗を継続する構えを見せたのである 6 。これにより、加賀平定戦は、平野部での拠点攻略戦から、山間部を舞台としたゲリラ的な山城防衛戦へと、その様相を大きく変えることとなった。

織田軍が緒戦において見せた一連の動きは、単なる力押しではなかった。野々市、木越砦、そして金沢御坊と、一貫して一揆勢力の中枢と司令部を狙い撃ちにしている。これは、特定の指揮官を持たない無数の門徒が蜂起するという一揆の特性、すなわち「面」として広がる敵を制圧することの困難さを、柴田勝家らが深く理解していたことを示している。個々の門徒を相手にしていては、戦いは泥沼化し、膨大な時間と兵力を消耗する。それゆえ、彼らを組織し、扇動する「頭脳」を迅速かつ徹底的に破壊することこそが、最も効率的かつ効果的な戦略であると判断したのである。この冷徹で合理的な戦略は、一揆側の組織的抵抗を早期に瓦解させ、戦いの主導権を完全に織田軍のものとした。戦いは、彼らの思惑通り、南加賀の各城砦に立てこもる「点」の抵抗へと矮小化されていったのである。

第二章:南加賀の攻防 ― 小松城攻略に至る道程(天正8年 4月~11月)

金沢御坊の陥落後、戦いの舞台は加賀南部へと移った。ここからの数ヶ月間は、織田軍による執拗な掃討作戦と、追い詰められた一揆勢による絶望的な抵抗が繰り広げられることになる。この一連の攻防の中で、小松城もまた、その運命の時を迎えた。

【表2】天正8年 加賀平定戦 関連年表

時期

場所

出来事

主要人物(織田軍/一揆軍)

天正8年(1580年)

閏3月9日

加賀国 宮腰、野々市

柴田勝家、第三次加賀侵攻を開始。野々市を攻略。

柴田勝家

閏3月14日

加賀国 木越砦

佐久間盛政、木越砦を攻略。

佐久間盛政

4月

加賀国 金沢御坊

織田軍、金沢御坊を総攻撃し、陥落させる。

柴田勝家、佐久間盛政

4月~夏

加賀南部(能美・江沼郡)

一揆勢、舟岡山城、小松城、鳥越城などで防衛線を再構築。

若林長門守、鈴木出羽守ら

秋頃

加賀国 舟岡山城

佐久間盛政の調略により、若林長門守が謀殺され、舟岡山城が陥落。

佐久間盛政/若林長門守

秋頃

加賀国 小松城

舟岡山城陥落に連動し、小松城も織田軍の手に落ちる。

佐久間盛政/若林長門守

11月17日 (20日説あり)

近江国 安土城

柴田勝家、若林長門守ら一揆指導者19名の首級を信長に献上。

柴田勝家、織田信長

新たな防衛線の構築(4月~夏)

金沢を追われた一揆勢の残存勢力は、加賀南部へと集結し、新たな防衛線を構築した。その防衛網は、能美郡・江沼郡の丘陵地帯から、白山麓の険しい山岳地帯にまで及んでいた 6 。この防衛線の中核をなしたのが、各地に築かれた山城や砦であった。文献によれば、手取川扇状地を見下ろす要衝・舟岡山城には若林長門守、能美丘陵の虚空蔵山城には荒川市助、同じく波佐谷城には本願寺堂衆の宇津呂丹波、そして白山麓における最後の砦となる鳥越城には鈴木出羽守がそれぞれ立て籠もり、織田軍の南下を阻止する構えを見せていた 6

この防衛線において、小松城もまた重要な役割を担っていた。小松城は、もともと戦国時代に一向一揆勢が築いた城砦がその始まりとされ 11 、この時は舟岡山城主と同じく若林長門守が守っていたと伝わる 13 。梯川の蛇行を利用した沼地に築かれ、「浮城」とも称されるほどの天然の要害であり、その周囲に広がる泥沼や深田は、大軍の接近を阻む絶好の防御地形であった 11 。一揆勢は、この小松城と舟岡山城、そして白山麓の鳥越城とを連携させることで、織田軍に対する一大抵抗拠点を形成しようと試みたのである。

鬼玄蕃の調略 ― 舟岡山城の悲劇(秋頃)

南下する織田軍の前に立ちはだかったこの防衛線に対し、最前線の指揮を執る佐久間盛政は、単なる力攻めという手段を選ばなかった。彼は、一揆勢の結束を内部から切り崩す「調略」という、より狡猾で効果的な戦術を用いた。

その最大の標的となったのが、白山麓への入り口を扼し、防衛線全体の要石ともいえる舟岡山城の城主・若林長門守であった 16 。複数の史料が、この舟岡山城の結末について、驚くべき事実を伝えている。それは、佐久間盛政が若林長門守を「謀殺」し、城を奪取したというものである 17 。その謀殺の具体的な手口に関する詳細な記録は残されていない。しかし、偽りの和議交渉を持ちかけて油断させ、城外におびき出して暗殺したのか、あるいは城内に内通者を作り出して内部から崩壊させたのか、いずれにせよ、正攻法ではない、相手を欺く非情な手段が用いられたことは疑いようがない。この調略の成功により、一揆方の防衛線に決定的な破綻が生じた。

「小松城の戦い」の実像 ― 戦わずして落ちた城

ここで、本報告書の主題である「小松城の戦い」の核心に迫る必要がある。多くの文献は、天正8年に織田軍が小松城を「攻め落とした」と簡潔に記している 9 。しかし、その具体的な戦闘の様子、例えば攻城戦の経過や双方の損害などを詳細に記した一次史料は、実のところ見当たらない。これは一体何を意味するのか。

その答えは、舟岡山城の悲劇と密接に結びついている。前述の通り、小松城の城主もまた、舟岡山城と同じ若林長門守であったとされている 13 。その若林長門守が、佐久間盛政の謀略によって命を落としたのである。自軍の総大将を失い、連携して戦うはずだった最重要拠点・舟岡山城が内部から崩壊したという報は、小松城に籠る守備兵たちに計り知れない衝撃と混乱をもたらしたであろう。指揮官を失い、戦略的支柱を断たれた城兵たちの士気は瞬く間に崩壊し、組織的な抵抗は不可能になったと考えるのが自然である。

これらの状況証拠を積み重ねていくと、天正8年における「小松城の戦い」の真の姿が浮かび上がってくる。それは、大規模な攻城戦や激しい白兵戦を伴う「合戦」ではなく、 舟岡山城における調略の成功という決定的な一撃に連動して、戦わずして、あるいはごく小規模な抵抗の後に無力化され、織田軍の手に落ちた一連の過程 そのものを指すものと結論付けられる。主戦場は舟岡山城であり、そこで繰り広げられたのは武力ではなく謀略であった。そして、小松城の運命は、血を流す前に、その謀略戦の決着によってすでに定まっていたのである。ユーザーが求める「合戦中のリアルタイムな状態」とは、まさにこの佐久間盛政の調略が進行し、成功し、その報が小松城にもたらされ、城内の秩序が崩壊していく、その静かで、しかし決定的な時間の流れそのものであったと言えよう。

加賀平定の画期(11月)

舟岡山城と小松城の陥落は、ドミノ倒しのように南加賀の諸城の運命を決定づけた。抵抗の拠点を次々と失った一揆勢は、もはや織田軍の進撃を押しとどめる術を持たなかった。

そして天正8年11月17日(『当代記』では20日)、柴田勝家は、この加賀平定戦における戦果の証として、若林長門守、鳥越城の鈴木出羽守をはじめとする一揆の指導者たち19名の首級を、安土城の織田信長のもとへと送り届けた 2 。安土の城下、松原町の西に晒された首級は、加賀国における一向一揆の組織的抵抗が、この時点で事実上終焉したことを天下に示す、何より雄弁な宣言となったのである。

第三章:戦後の新秩序と残された抵抗

論功行賞と新支配体制

加賀平定戦の終結を受け、織田信長は速やかに戦後の論功行賞と新たな支配体制の構築に着手した。この戦いで最大の功労者と目されたのは、疑いようもなく佐久間盛政であった。彼は、加賀国の中枢部である石川郡と河北郡を与えられ、陥落させた金沢御坊の地に新たに城を築き、その初代城主となった 8 。これが現在の金沢城の起源である。

一方、加賀南部の要衝であった小松城は、柴田勝家の与力であり、丹羽長秀の家臣であった村上頼勝(義明)に与えられた 11 。これにより、加賀国は北半分を柴田勝家が、南の二郡を佐久間盛政が、そしてその南端の拠点を村上頼勝が押さえるという形で分割統治されることになり、織田政権による支配体制が確立された。かつての「百姓の持ちたる国」は、完全に織田家の軍事支配下に組み込まれたのである。

白山麓の最後の抵抗 ― 鳥越城の悲劇

加賀の平野部がことごとく織田軍の手に落ちた後も、抵抗の火種は完全には消えていなかった。白山麓の険しい山々に抱かれた地域では、「山内衆(やまうちしゅう)」と呼ばれる本願寺門徒たちが、鳥越城とその支城である二曲城を拠点に、なおも抵抗を続けていた 5 。彼らの抵抗は熾烈を極め、天正9年(1581年)には一度、織田方に奪われていた両城を奪回するという驚くべき執念を見せている 22

しかし、この最後の抵抗も長くは続かなかった。天正10年(1582年)3月、佐久間盛政は白山麓に対し、殲滅を目的とした容赦のない攻撃を敢行する。山内衆は鳥越城で最後まで頑強に戦ったが、織田軍の圧倒的な物量の前に力尽き、城は再び陥落した。そして、その結末は凄惨を極めた。捕らえられた門徒衆は300人余りにのぼり、彼らは手取川の河原へと引きずり出され、一人残らず磔に処されたのである 8 。この徹底的な処刑により、白山麓の村々からは人の気配が消え、一世紀にわたって加賀国を支配した一向一揆は、文字通り根絶やしにされた 5

この鳥越城での残党狩りの異様なまでの徹底性は、単なる戦闘の勝利や反乱分子の処罰という範疇を明らかに超えている。その背景には、織田信長自身の思想が色濃く反映されていた。越前一向一揆を平定した際、信長は「山林を探し、居所が分かり次第、男女を問わず斬り捨てよ」と命じたと伝えられている 25 。また、数万人が捕らえられ、奴隷として尾張や美濃に送られたという記録も存在する 25 。これらの事実は、信長が一向一揆という存在を、単なる敵対勢力としてではなく、自らが築こうとする統一国家の秩序とは相容れない、根絶すべき社会システムそのものであると見なしていたことを示唆している。

つまり、小松城の攻略を含む一連の加賀平定戦の本質は、戦国時代に繰り返された領土の奪い合いという従来の合戦の枠組みを超えた、イデオロギーの対立に基づく「殲滅戦争」の側面を色濃く帯びていたのである。宗教的共同体を基盤とする中世的な自治国家と、強力な世俗権力による近世的な中央集権国家。この二つの相容れない世界の衝突が、加賀の地で最も悲劇的な形で現れたのが、鳥越城の結末であったと言えるだろう。

終章:小松城のその後と歴史的意義

城主の変遷と新たな戦い

天正8年の加賀平定戦によって織田家の支配下に入った小松城は、その後も激動の時代の中で、その役割を変えながら歴史の舞台に立ち続ける。初代城主となった村上頼勝の後、豊臣政権下の慶長3年(1598年)、丹羽長秀の子である丹羽長重が12万石をもって入城し、新たな城主となった 11

そして慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の合戦が勃発すると、小松城は再び戦火に見舞われる。西軍に与した城主・丹羽長重と、東軍の徳川家康方についた加賀の前田利長との間で、後に「浅井畷の戦い」と呼ばれる激戦が繰り広げられたのである 9 。この戦いは、天正8年の一向一揆との戦いとは全く性格を異にする、戦国大名同士の存亡をかけた戦いであった。

前田家の時代へ

関ヶ原の合戦は東軍の勝利に終わり、敗れた丹羽長重は所領を没収された(後に大名として復帰)。そして、小松城を含む南加賀の地は、戦功により加賀・越中・能登の三国を領有する大大名となった前田家の所領へと組み込まれた 11

その後、加賀藩の治世下で小松城は新たな時代を迎える。特に大きな転機となったのが、寛永16年(1639年)、加賀藩三代藩主であった前田利常が隠居城として小松城に入ったことであった 11 。利常は幕府の許可を得て、城の大規模な改修に着手。一向一揆時代の砦の面影は一掃され、壮麗な石垣で区画され、多くの水堀と島を配した「浮城」としての景観を持つ近世城郭として生まれ変わった 28 。現在、小松高校の敷地内に残る天守台の石垣は、この利常の時代に築かれたものであり、かつての栄華を今に伝えている。

歴史的意義の総括

天正8年(1580年)の「小松城の戦い」は、単独で見れば、調略によって決着がついた比較的静かな局地戦であったかもしれない。しかし、それを柴田勝家による加賀平定戦という大きな文脈の中に位置づける時、その歴史的意義は極めて大きいものとなる。

この一連の戦いは、約一世紀にわたって続いた中世的な宗教自治国家「加賀王国」を歴史の舞台から完全に消し去り、織田信長による近世的、すなわち中央集権的な支配体制を北陸地方に確立する決定的な一歩であった。そして、この戦いの結果として加賀国は、佐久間盛政の短い支配を経て、信長亡き後は豊臣秀吉の盟友であった前田利家の手に渡ることになる。これが、後に日本最大の藩となる「加賀百万石」の直接的な礎となったのである。

小松城の無血に近い形での陥落は、加賀一向一揆という巨大な抵抗勢力が、織田軍の圧倒的な軍事力と冷徹な戦略の前に、内部から崩壊していく過程を象徴する出来事であった。それは、中世が終わり、新たな近世という時代が幕を開ける、巨大な歴史の転換点において刻まれた、静かでありながらも決定的な一コマだったのである。

引用文献

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  2. 天正8年(1580)11月17日は柴田勝家が加賀一向一揆を鎮圧し指導者19人の首を安土の信長のもとへ送った日。3月に信長と石山本願寺の和睦があり加賀国へも停戦を指示していたが戦いは続い - note https://note.com/ryobeokada/n/nf6d9b5151b6d
  3. 手取川戦国物語~手取川の戦いからシミュレーションする「はねる上杉謙信」と「逃る織田信長」 https://sengoku-story.com/home/tedorigawa/
  4. 品野城・河野島・明知城…織田軍はこんなにも敗北を喫していた | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/8241?p=1
  5. 加賀一向一揆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%B3%80%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86
  6. 第10回 白山麓鳥越城と加賀一向一揆の解体 - 北陸経済研究所 https://www.hokukei.or.jp/contents/pdf_exl/hokuriku-rekishi2506.pdf
  7. 歴史の目的をめぐって 柴田勝家 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-12-sibata-katuie.html
  8. 金沢ライフマップ Vol.30 『鳥越城-加賀一向一揆の壮絶なる終焉』|ゲームのグランゼーラ公式 https://note.com/granzella/n/n37a42099b94b
  9. 古城の歴史 小松城 https://takayama.tonosama.jp/html/komatsu.html
  10. 金沢|寺内町から百万石の城下町へ - JR西日本 https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/08_vol_116/feature01.html
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  28. 小松城跡発掘調査報告書 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/38/38021/37827_1_%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E5%9F%8E%E8%B7%A1%E7%99%BA%E6%8E%98%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8.pdf
  29. 小松城~前田利常翁像 https://urawa0328.babymilk.jp/isikawa/komatujou.html
  30. STORY 詳細PDF - 日本遺産ポータルサイト https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/datas/files/2022/09/01/efb78c00969e172a68b2a04a37bcd209bc984d69.pdf