最終更新日 2025-08-30

小松城の戦い(1585)

天正十三年、伊予東予で「小松城の戦い」と伝わる攻防が勃発。小早川隆景率いる豊臣軍は、金子元宅の徹底抗戦を打ち破り、金子城・高尾城を制圧。この勝利で伊予は平定され、秀吉の天下統一を加速させた。

天正十三年、伊予東予の攻防:世に伝わる「小松城の戦い」の真実

序章:天正十三年、四国の風雲

天正十三年(1585年)、伊予国(現在の愛媛県)東部で繰り広げられた一連の戦いは、豊臣秀吉による天下統一事業の重要な一局面をなすものです。ご依頼のあった「小松城の戦い」という名称は、歴史的文脈においていくつかの錯綜が見られます。本報告書は、まずこの名称に関する歴史的背景を解題し、その上で、この戦いの真の姿である「天正の陣における東予攻防戦」の全貌を、合戦のリアルタイムな状況が把握できるよう時系列に沿って詳述するものです。

「小松城の戦い」という名称の解題

「小松城」という名の城郭は、戦国史において主に加賀国(現在の石川県小松市)に存在したものが知られています。この城は、関ヶ原の戦いに際して前田利長と丹羽長重が激戦を繰り広げた舞台として名高く、ご依頼の天正十三年(1585年)の伊予国における事象とは時代も場所も異なります 1

一方、伊予国に目を転じると、現在の愛媛県西条市小松町には、江戸時代初期の寛永十三年(1636年)に一柳氏によって築かれた「小松陣屋」が存在しました 4 。しかし、これもまた1585年の戦いより約半世紀後のことであり、戦国時代の合戦の舞台となった城郭ではありません。

これらの事実から、ご依頼の「小松城の戦い(1585)」とは、特定の城を指す固有名詞ではなく、後の小松陣屋が置かれることになる伊予国東予地方一帯で発生した、豊臣(羽柴)軍と長宗我部方の在地勢力との一連の戦闘、すなわち**「天正の陣における東予攻防戦」**を指すものと解釈するのが最も妥当です。本報告書では、この歴史的実態に即し、金子元宅らが守った金子城や高尾城を主戦場とするこの攻防戦について、徹底的に解明していきます。

合戦前夜の四国:長宗我部元親の野望

この戦いの背景には、土佐の雄・長宗我部元親による四国統一事業の最終段階がありました。天正三年(1575年)に土佐を完全に掌握した元親は、その勢いを駆って阿波、讃岐、伊予へと侵攻を開始します 8 。元親の軍事力の源泉は、「一領具足」と呼ばれる半農半兵の兵士たちでした。彼らは普段は田畑を耕しつつも、召集があれば具足一式を携えて直ちに戦場に駆けつける即応性の高い兵力であり、その粘り強い戦闘力で元親の快進撃を支えました 11

破竹の勢いで勢力を拡大した元親は、天正十三年(1585年)春には伊予の名門・河野氏を降伏させ、長年の宿願であった四国統一をほぼ成し遂げるに至ります 10 。ここに、四国は元親を頂点とする一つの独立した王国とも言うべき様相を呈していました。

中央政権との相克:秀吉と元親

当初、元親は織田信長と友好関係を結び、その権威を巧みに利用して四国での勢力拡大を進めていました 8 。しかし、天正十年(1582年)の本能寺の変で信長が横死し、その事業を継承した羽柴秀吉が天下人への道を歩み始めると、両者の関係は急速に悪化します。

秀吉は、自らの権威の下に天下を再編する過程で、元親の四国における独立した勢力圏を認めませんでした。秀吉は元親に対し、征服した伊予・讃岐の両国を返上するよう要求しますが、元親はこれを「多くの犠牲を払って得た領土」として断固拒否します 12 。この対立は、単なる領土問題には留まりませんでした。それは、実力で獲得した領地は自らのものであるという戦国時代以来の旧来の価値観を体現する元親と、「惣無事令」に象徴されるような天下人の権威による新たな統一的秩序を構築しようとする秀吉との、二つの異なる時代の論理の衝突でした。元親が伊予一国の割譲による和睦を打診したのに対し、秀吉がそれを一蹴したのは、領土以上に元親の完全な服従という「新秩序への参加証明」を求めていたからに他なりません。交渉が決裂したことで、秀吉は元親討伐、すなわち四国平定を決意するのです。

第一部:開戦への道程

第一章:秀吉の四国征伐計画

秀吉の戦略的意図

秀吉にとって四国平定は、天下統一事業の総仕上げに向けた重要な布石でした。その戦略的意図は多岐にわたります。第一に、自らの権威に服従しない元親を討伐し、天下人としての地位を盤石にすること。第二に、瀬戸内海の制海権を完全に掌握し、西国、特に九州で勢力を拡大する島津氏への牽制、さらには将来の九州征伐における兵站線を確保すること 16 。そして第三に、後の文禄・慶長の役にも繋がる大陸への展望をも見据えた、西国経営の基盤を固めることにありました 17

圧倒的な軍事力の動員

この戦略を実現するため、秀吉は圧倒的な軍事力を動員しました。総大将には弟の羽柴秀長を据え、甥の秀次、宇喜多秀家、蜂須賀正勝、黒田孝高といった子飼いや与力大名を中核とする総勢10万を超える大軍を編成します 12 。これは、長宗我部方が動員可能であった約4万の兵力を遥かに凌駕するものでした 12

作戦は、以下の三方向から同時に四国へ侵攻するという、長宗我部軍に反撃の暇を与えない電撃的なものでした。

  1. 阿波方面軍 : 総大将・羽柴秀長と秀次率いる約6万の主力部隊が、淡路島を経由して阿波に上陸。
  2. 讃岐方面軍 : 宇喜多秀家、黒田孝高ら約2万の部隊が、播磨から海を渡り讃岐に上陸。
  3. 伊予方面軍 : 毛利輝元を名目上の総大将とし、小早川隆景、吉川元長が率いる約3万の部隊が、伊予に上陸。

伊予方面軍の編成と毛利氏の起用

特に注目すべきは、伊予方面軍に毛利氏を起用した秀吉の巧みな大名統制術です。わずか3年前の備中高松城の戦いで敵対した毛利氏を、これほど大規模な軍事作戦の主軸に据えた背景には、秀吉の卓越した政治的計算がありました。第一に、この戦いで毛利氏に「豊臣政権の一員」として功を立てさせ、戦後の恩賞(伊予一国)を与えることで、その忠誠心を確固たるものにする狙いがありました 21 。第二に、村上水軍など瀬戸内海の海賊衆に強い影響力を持つ毛利氏の水軍力は、海を渡る伊予侵攻作戦において不可欠な戦力でした 16 。そして第三に、この戦功を通じて毛利氏を豊臣政権の西国方面における重要な柱として組み込むことで、次なる目標である九州征伐への強力な協力を引き出す布石としたのです 16 。かつての敵を味方として活用し、その力を自らの天下統一事業に組み込むという、秀吉ならではの戦略眼がここに見て取れます。

第二章:迎え撃つ長宗我部方

東予の防衛線と在地勢力

秀吉の圧倒的な大軍に対し、長宗我部元親は四国全土に兵力を分散させて対抗せざるを得ず、防衛戦略は後手に回らざるを得ませんでした 18 。伊予国東予の防衛を担ったのは、長宗我部氏の支配下にあった在地領主たちでした。その中心人物が、新居郡の金子城主・**金子備後守元宅(かねこ びんごのかみ もといえ)**と、高峠城主・

石川虎竹丸 です。

金子氏は新居郡に古くから根を張る国人領主であり、元宅はその当主として地域の武士たちから厚い信望を集めていました。石川氏は高峠城を本拠とする有力国人でしたが、当時の当主・虎竹丸はまだ幼く、一族の重臣たちが合議で事を決していました 24 。彼らは元々伊予の独立した領主でしたが、長宗我部氏の勢力拡大に伴い、その支配下に入っていたのです 9

決戦前の評定と金子元宅の決断

天正十三年六月、小早川隆景率いる大軍が伊予に迫ると、石川家中では豊臣方に降伏すべきか、長宗我部方として戦うべきかで激しい議論が交わされました 24 。衆議が降伏に傾きかけたその時、評定に招かれていた金子元宅が立ち上がり、徹底抗戦を強く主張したと伝えられています。その時の言葉が、彼の武士としての矜持を雄弁に物語っています。

「昨日は長宗我部に従い、今日は小早川に降る。土佐の人質を見捨てて他人に後ろ指を指されるのは武士の本意ではない。所詮、肩をすぼめて世を渡るよりは、潔く討死して名を後世に残すべきである」 25

この元宅の言葉は、単なる精神論ではありませんでした。当時、長宗我部氏は服属させた国人領主から人質を徴収しており、東予の諸将も子弟を土佐に送っていました。安易な降伏は、主君である元親の怒りを買い、人質の命が危うくなるという極めて現実的な問題を孕んでいたのです。元宅の決断は、武士としての「義」や面子だけでなく、人質という「現実」、そして中央政権の圧倒的な軍事力に対する「情報不足」という複数の要因が複雑に絡み合った結果でした。それは、時代の大きなうねりの中で、自らの信義を貫こうとした戦国末期の地方武将が置かれた苦しい立場を象徴するものでした。元宅の気迫に押され、東予の諸将は心を一つにし、小早川の大軍を迎え撃つことを決意したのです。

第二部:東予攻防戦—リアルタイム・クロニクル

天正十三年七月、伊予国東予地方を舞台に、小早川隆景率いる豊臣軍と、金子元宅率いる長宗我部方在地勢力との間で、数日間にわたる壮絶な攻防戦が繰り広げられました。以下に、その詳細な時系列を示します。

日付(天正十三年)

出来事

関連城郭

主要人物

6月中旬

豊臣軍(10万超)、四国侵攻開始。小早川隆景軍、伊予へ向かう。

-

豊臣秀吉、小早川隆景

7月上旬

小早川軍、伊予国新居郡に上陸。周辺の小城砦を制圧し、金子城・高尾城へ進軍。

御代島、沢津

小早川隆景

7月12日

小早川軍、高尾城への攻撃を開始。

高尾城

金子元宅、小早川隆景

7月14日

激しい攻防の末、金子城が落城。城代の金子元春が戦死。

金子城

金子元春

7月17日

金子元宅、高尾城に火を放ち、城兵を率いて野々市原へ打って出る。小早川軍との決戦の末、元宅以下討死。

高尾城

金子元宅

7月中旬〜下旬

高峠城も陥落し、東予における長宗我部方の主要拠点がすべて制圧される。

高峠城

石川虎竹丸

8月上旬

長宗我部元親、総大将・羽柴秀長に降伏。

白地城

長宗我部元親、羽柴秀長

第三章:小早川軍、伊予上陸(天正十三年七月上旬〜)

天正十三年七月上旬、小早川隆景率いる3万余の大軍は、伊予沖の海上交通を熟知する来島通総の先導のもと、伊予国新居郡の御代島と沢津(現在の新居浜市)の二手に分かれて上陸を果たしました 18 。上陸後、毛利軍は周辺の小規模な城砦を瞬く間に制圧し、東予における長宗我部方の中心拠点である金子城と高尾城へと進軍を開始します。

これに対し、金子元宅は防衛体制を固めます。幼い石川虎竹丸に代わって総大将となった元宅は、本城である高峠城に籠り、全軍の指揮を執りました。そして、平野部に位置する金子城には実弟の金子元春を、山城である高尾城には重臣の高橋政輝(美濃守)を配置し、自身も高尾城に入って直接指揮を執るという布陣を敷きました 24 。これは、平城と山城を連携させて敵の消耗を誘い、持久戦に持ち込むことを意図した防衛戦略であったと考えられます。

第四章:金子城の死闘(七月十二日〜十四日)

七月十二日、小早川軍は金子城と高尾城への同時攻撃を開始します 27 。隆景はまず、平野部に位置し攻略が比較的容易な金子城に攻撃を集中させました。金子城には、周辺の城からの援軍を含め約2,000の兵が籠城していましたが、対する小早川軍はその十倍以上の兵力で城を幾重にも包囲しました 30

城代の金子元春と城兵たちは、圧倒的な兵力差にも臆することなく奮戦します。しかし、昼夜を分かたぬ猛攻の前に、城の防御施設は次々と破壊され、兵は消耗していきました。二日間にわたる激しい攻防の末、七月十四日、金子城はついに落城します。城代の金子元春は、兄・元宅の娘や一族を城から逃がすための時間を稼ぐべく、自ら殿(しんがり)となって追っ手と戦い、壮絶な討死を遂げました 31

第五章:高尾城・野々市原の決戦(七月十二日〜十七日)

金子城への攻撃と並行して、主戦場となったのは山城である高尾城でした。総大将・金子元宅はここで直接指揮を執り、山城の地の利を最大限に活かして激しく抵抗しました。小早川軍は何度も城に攻めかかりますが、険しい地形と城兵の決死の抵抗に阻まれ、多数の死傷者を出しました 27

しかし、七月十四日に金子城が陥落したことで戦況は一変します。連携すべき拠点を失い、救援の見込みも完全に絶たれたことで、高尾城は完全に孤立しました。この状況に至り、金子元宅は籠城を続けても徒に兵を失うだけと判断し、玉砕を決意します。

七月十七日、元宅は自ら高尾城に火を放ち、城兵に最後の檄を飛ばしました。長宗我部家からの援軍200を含めた残兵600から800余りを率いて城外に打って出ると、麓の野々市原(ののいちばら)に布陣する小早川軍の本隊へと最後の突撃を敢行したのです 27 。1万5千以上ともいわれる大軍に対し、元宅の部隊は死を覚悟した鬼神の如き働きを見せましたが、衆寡敵せず、元宅以下、将兵のほとんどがこの地で討死しました 26 。こうして、東予における長宗我部方の組織的抵抗は、壮絶な結末をもって終焉を迎えたのです。

この戦いにおいて、智将・小早川隆景の戦いぶりは、父・毛利元就譲りの慎重さと合理性に貫かれていました。彼は単なる力押しではなく、金子城と高尾城を同時に攻めることで敵の連携を断ち、戦力を分散させた上で各個撃破するという、極めて効果的な戦術を用いました。しかし、彼の真価は戦後にこそ示されます。金子元宅とその将兵たちの、義を貫き、凄絶な最期を遂げた戦いぶりに深く感銘を受けた隆景は、その無数の亡骸を前に、鎧の上に法衣をまとい、鎮魂の舞を舞って手厚く弔ったと伝えられています 23 。これは、単なる感傷的な行為ではありません。第一に、同じ武士としての共感と、義に殉じた者への敬意の表明でした。第二に、伊予の他の国人衆に対し、「最後まで抵抗すれば滅ぼすが、義を貫いた者へは敬意を払う」というメッセージを発信し、無用な抵抗を抑えて降伏を促すという、高度な心理戦でもあったのです。この逸話は、隆景の武将としての器の大きさと、冷徹な戦略家としての一面を同時に示しています。

第三部:戦後と遺産

第六章:四国の平定

東予の主要拠点が陥落したことで、伊予における長宗我部方の防衛線は事実上崩壊しました。時を同じくして、阿波方面では羽柴秀長・秀次軍が長宗我部方の本拠地・白地城に迫る岩倉城や一宮城を攻略し 19 、讃岐方面でも宇喜多秀家軍が諸城を次々と陥落させていました。

四方からの圧迫と主要拠点の相次ぐ喪失により、長宗我部元親はこれ以上の抵抗は不可能と判断。天正十三年八月上旬、ついに総大将・羽柴秀長を通じて秀吉に降伏しました 12

戦後処理において、秀吉は元親に対し、土佐一国のみの領有を安堵するという比較的寛大な処置をとりました。しかし、元親が長年の戦いの末に手に入れた阿波、讃岐、伊予の三国は没収され、豊臣政権の重臣たちに再分配されました。阿波は蜂須賀家政、讃岐は仙石秀久、そしてこの東予攻防戦で最大の功績を挙げた小早川隆景には伊予が与えられ、四国は完全に豊臣政権の支配下に組み込まれたのです 19

第七章:歴史的意義と後世への影響

戦略的意義と四国の構造転換

この四国平定、特に伊予の確保は、秀吉の天下統一事業において決定的な意味を持ちました。瀬戸内海の制海権を完全に掌握したことで、翌年から始まる九州征伐において、兵員や兵糧、武具といった物資を安全かつ大量に輸送するための重要な兵站線を確保できたのです 16 。この戦いは、秀吉の天下統一事業における重要なマイルストーンであったと言えます。

さらに、この戦いは単に四国の支配者が長宗我部氏から豊臣氏に変わっただけではありませんでした。それは、四国の政治・経済構造を根本から変革する契機となったのです。元親の支配は、土佐の国人を頂点とした在地性の強いものでした。しかし戦後は、蜂須賀、仙石、小早川といった豊臣政権直属の大名が外部から入部し、検地や城割などを通じて中央集権的な支配体制を敷きました。これは、四国が戦国的な「独立地域」から、統一政権に組み込まれた「一地方」へと変貌したことを意味します。ご依頼の概要にあった「瀬戸内航路の港湾ネットワークが整備された」という点は、まさにこの構造転換の結果であり、在地領主の利害を超えた、天下人の視点からのインフラ整備が進んだことを示唆しています。この戦いは、四国における「中世の終わり」と「近世の始まり」を画する分水嶺であったのです。

金子元宅の評価と「小松」の地

敗将でありながら、金子元宅の義理堅い生き様と壮絶な最期は、地域の伝説として後世に長く語り継がれました 25 。彼の決断は、時代の大きなうねりの中で、自らの信義を貫こうとした地方武将の矜持の象徴として、今なお地域の人々から敬愛されています。

そして、この戦いの舞台となった地と「小松」という地名の歴史的な交錯が、ご依頼の「小松城の戦い」という疑問の源流となったと考えられます。戦いの後、伊予を領した小早川隆景の統治を経て、江戸時代に入ると、この戦場跡を含む地域に一柳氏による小松藩が立藩され、小松陣屋が築かれました 5 。これにより、戦国時代の「東予攻防戦」の記憶は、近世の「小松」という地名と歴史的に結びつき、後世に伝わる過程で「小松城の戦い」という通称を生んだ可能性が考えられます。

結論:天正の陣における東予攻防戦の再評価

本報告書で詳述した通り、天正十三年(1585年)に伊予国東予地方で起こったのは、「小松城」という単一の城をめぐる戦いではなく、金子元宅を中心とする在地勢力が、豊臣秀吉の天下統一の巨大な波に飲み込まれていく中で繰り広げた、複数の城を舞台とする壮絶な地域防衛戦でした。

金子元宅の悲劇的な抵抗は、単なる一地方の局地戦には留まりません。それは、戦国乱世の旧来の秩序と価値観が、豊臣政権という新たな統一的秩序によって塗り替えられていく歴史の転換点を象徴する出来事でした。圧倒的な物量と計算された戦略で四国を制圧した秀吉と隆景。そして、敗れると知りながらも、武士としての義と矜持を貫き、潔く散っていった元宅。この戦いは、戦国時代の終焉を告げる挽歌であり、同時に新しい時代の幕開けを告げる序曲でもあったのです。

最終的に、「小松城の戦い」という名称は歴史的には不正確ながらも、その背景にある探求心は、戦国末期の伊予東部で繰り広げられた、この極めて重要かつ劇的な歴史の真実へと我々を導きました。本報告書が、その歴史の深奥に光を当てる一助となれば幸いです。

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