小田井原の戦い(1547)
天文16年、武田晴信は志賀城を攻囲。救援に来た関東管領上杉憲政軍を小田井原で撃破し、その首級を晒す。この非情な勝利は、信濃支配を確固たるものとした。
天文十六年 小田井原の戦い――信濃制圧を血で染めた武田晴信の非情なる一手
序章:甲斐の虎、信濃佐久郡に牙を剥く
戦国時代の日本列島において、甲斐国(現在の山梨県)を本拠とする武田氏は、その地理的条件から常に領土拡大の宿命を背負っていた。四方を険しい山々に囲まれた甲斐は、防御には適しているものの、経済発展に不可欠な広大な穀倉地帯や交易路に乏しかった 1 。この地政学的制約を打破すべく、武田家は隣国・信濃(現在の長野県)への進出を宿願としていた。
天文10年(1541年)、家臣団の支持を得て父・信虎を駿河へ追放し、若くして家督を継いだ武田晴信(後の信玄)は、この積年の課題に本格的に着手する 2 。当時の信濃は、小笠原氏や諏訪氏、村上氏といった有力な国人領主が割拠し、統一された権力機構が存在しない状態であった 3 。晴信はこの状況を巧みに利用し、まず天文11年(1542年)に諏訪氏を滅ぼすと、その矛先を伊那、そして佐久へと、各個撃破の戦略で着実に版図を広げていった 2 。
中でも佐久郡の制圧は、晴信の信濃経営において極めて重要な意味を持っていた。甲斐に隣接するこの地域は、信濃への東の玄関口であると同時に、関東へと通じる碓氷峠を擁する戦略的要衝であった 5 。ここを完全に掌握することは、信濃における支配を安定させ、関東管領・上杉氏からの干渉を遮断するために不可欠であり、ひいては後年の西上野進出への布石ともなるものであった 2 。
晴信は天文15年(1546年)までに、佐久の有力国人であった大井貞清が籠る内山城を陥落させるなど、佐久郡の大部分を手中に収めていた 2 。しかし、その中にあって最後まで武田への屈服を拒み、抵抗を続ける勢力が存在した。それが、天然の要害と謳われた志賀城に拠る城主、笠原清繁であった 5 。晴信にとって、この最後の抵抗勢力を殲滅することは、佐久郡完全平定の総仕上げであり、自らの権威を信濃全土に知らしめるための避けては通れない戦いであった。この志賀城を巡る攻防こそが、小田井原の戦いへと至る直接的な引き金となるのである。
第一章:志賀城の孤塁――笠原清繁の決断
城主・笠原清繁の人物像と関東管領との関係
志賀城主・笠原清繁は、通称を新三郎といい、信濃佐久郡に根を張る国人であった 6 。その出自の詳細は不明な点も多いが、彼が武田氏という巨大な勢力に対して徹底抗戦の道を選んだ背景には、関東管領・山内上杉家との強固な結びつきがあった 6 。清繁は、上杉氏の家臣で西上野国(現在の群馬県西部)を拠点とする高田憲頼と縁戚関係にあり、正室も上杉方から迎えていたと伝えられている 5 。この血縁と地縁こそが、彼に武田への抵抗を決断させ、そして彼の命運を決定づける要因となった。
上杉憲政への救援要請と、その背景にある政治情勢
清繁が頼みとした関東管領・上杉憲政は、当時、極めて苦しい立場に置かれていた。この戦いの前年、天文15年(1546年)4月、憲政は相模の北条氏康と戦った「河越夜戦」において歴史的な大敗を喫し、関東における権威と軍事力を著しく失墜させていたのである 2 。
この状況下で、武田氏との新たな戦端を開くことは、上杉家にとって大きな危険を伴うものであった。事実、上杉家の重臣・長野業正は「北条氏康に加えて武田晴信まで敵に回すべきではない」と、この度の援軍派遣に強く反対したと記録されている 13 。しかし、憲政は業正の現実的な諫言を退け、志賀城への派兵を断行する。これは単なる縁者への義理立てだけではなかった。河越での屈辱的な敗北によって地に堕ちた自らの権威を、信濃への軍事介入を成功させることで回復しようという、起死回生を狙った政治的な賭けであった可能性が高い。名誉回復への渇望が、冷静な戦略的判断を上回ったのである。
籠城する将兵と、援軍・高田憲頼の存在
笠原清繁の決起に応じ、志賀城には上杉方からの先遣援軍として、縁戚である高田憲頼・繁頼の父子が既に入城し、笠原勢と共に籠城の任についていた 6 。これにより、志賀城はもはや一国人の城ではなく、甲斐武田氏と関東管領上杉氏という二大勢力が激突する、文字通りの最前線拠点と化した。清繁の抵抗は、関東管領という巨大な後ろ盾への期待に支えられていた。しかし、彼が命運を託したその相手は、既に落日の時を迎えつつある存在だったのである。
第二章:攻防の序曲――志賀城包囲戦(天文16年 閏7月24日~8月5日)
閏7月24日:武田軍、志賀城を包囲
天文16年(1547年)閏7月、武田晴信は遂に動いた。大井三河守貞清を先鋒部隊として、自ら本隊を率いて甲府を出陣 2 。同月24日、武田軍は志賀城に到達し、直ちに包囲の網を敷いた。武田氏の軍学や動向を記録した『高白斎記』には、その日の様子が「卯の刻(午前6時頃)から午の刻(正午頃)まで志賀の城に取り詰められる」と記されており、早朝から半日にわたって激しい攻防が繰り広げられたことがわかる 13 。武田軍の本隊は、志賀城を見下ろす桜井山城に布陣したとも伝えられている 10 。
閏7月25日:水の手切断と城内の窮状
正攻法だけでは堅城・志賀城を容易に落とせぬと見た武田軍は、翌25日、その戦術を転換する。晴信は、甲斐の金山経営で培われた高度な土木技術を持つ専門家集団「金堀衆」を動員した 2 。彼らは城の生命線である水源、すなわち「水の手」を探索し、これを断ち切ることに成功する。『高白斎記』もまた、「未の刻(午後2時頃)、水の手取りなさる」と、その事実を簡潔に記録している 15 。
水源を絶たれた籠城側は、絶望的な状況に追い込まれた。兵糧はまだあっても、水なくして長期の籠城は不可能である。しかし、笠原清繁と城兵たちはそれでもなお屈しなかった 2 。彼らのこの粘り強い抵抗こそが、関東の上杉憲政に援軍を編成し、派遣するだけの貴重な時間的猶予を与えることになったのである。
関東管領軍、出陣
志賀城の窮状と、笠原清繁の奮戦の報は、碓氷峠を越えて上野国平井城の上杉憲政のもとへ届いた。重臣の反対を押し切って救援を決断した憲政は、西上野の国人衆に動員をかける。倉賀野党十六騎を先陣とし、その旗頭である金井秀景(後の倉賀野秀景)を総大将に任命。総勢およそ3,000の救援軍が編成された 5 。彼らは決戦の地となる信濃を目指し、上野国から碓氷峠を越えて進軍を開始した。この動きは、志賀城を巡る局地戦を、信濃の覇権を左右する大規模な会戦へと発展させる号砲となった。
第三章:小田井原の激突――救援軍、東より来たる(天文16年 8月6日)
武田軍の迎撃部隊編成
上杉救援軍接近の報を受けた武田晴信の判断は、迅速かつ合理的であった。彼は自ら率いる本隊を動かさず志賀城の包囲を継続することで、城内の敵に脱出や救援軍との合流の望みを断たせた 2 。そして、迎撃の任には、武田家中で最も信頼の厚い二人の宿老を派遣した。智将として知られる板垣信方と、猛将の誉れ高い甘利虎泰である 2 。
「武田の左右の腕」とも称されたこの両将に、晴信は選りすぐりの精鋭約4,000の兵を与えた 11 。武田家が誇る最強のカードを切ったこの采配は、晴信がこの迎撃戦を、単なる救援軍の撃退に留まらず、関東管領軍の主力を叩き潰す好機と捉えていたことを示している。
両軍の兵力、布陣、そして戦場の地理的分析
決戦の舞台となった小田井原は、現在の長野県北佐久郡御代田町に位置する 2 。この地は、上杉軍が越えてきた碓氷峠から、目的地である志賀城へと至る進軍経路上にあり、浅間山の南麓に広がる比較的開けた地形であった。軍勢を展開しやすく、騎馬隊の機動力を活かせるこの場所は、敵を待ち伏せ、捕捉撃滅するにはまさに理想的な戦場であった。
天文16年8月6日、この小田井原で両軍は対峙した。兵力では武田迎撃軍が約4,000、対する上杉救援軍が約3,000と、武田方がやや優勢であった 8 。しかし、勝敗を分けたのは単なる兵力差ではなかった。それは、軍としての練度、そして指揮官の質の差であった。
表1:小田井原の戦い 両軍勢力比較
項目 |
武田迎撃軍 |
上杉救援軍 |
総大将 |
板垣信方、甘利虎泰 |
金井秀景 |
主要武将 |
横田高松、多田満頼など |
倉賀野党十六騎など |
推定兵力 |
約4,000 |
約3,000 |
兵の質・特徴 |
晴信直属の精鋭。信濃での実戦経験豊富。 |
西上野の国人衆の連合軍。連携に課題か。 |
指揮官の経験 |
武田家宿老。信虎の代からの歴戦の将。 |
倉賀野衆の旗頭。実力者だが、相手は歴戦の宿老。 |
【合戦詳報】卯の刻の開戦から潰走まで
8月6日の早朝、『高白斎記』が「8月卯の刻、板垣駿河 其の外働き、関東衆数多討ち取らる」と記すように、戦いの火蓋は切られた 13 。
戦闘の経過は、一方的なものであった。板垣信方と甘利虎泰が率いる武田軍は、組織的な連携と個々の兵の武勇において、上杉軍を圧倒した。西上野の国人衆の寄せ集めであった上杉軍は、歴戦の武田精鋭部隊の猛攻の前に有効な抵抗もできず、瞬く間に陣形を崩され、潰走へと追い込まれた 2 。
その結果は、惨憺たるものであった。上杉軍は、総大将の金井秀景こそ辛うじて離脱したものの、名の知られた武将14、5名が討ち取られ、雑兵に至っては3,000という、軍のほぼ全てを失う壊滅的な敗北を喫した 2 。小田井原は、関東管領軍兵士の血で赤く染まったのである。この勝利は、武田軍の軍事的能力の高さを改めて証明すると同時に、関東管領上杉家の権威に、回復不能なほどの追い打ちをかけるものであった。
第四章:絶望の城――三千の首級(天文16年 8月7日~9日)
小田井原からの帰還と戦果の誇示
小田井原で圧勝を収めた板垣・甘利隊は、その勝利の証として、討ち取った敵兵3,000の首級を志賀城の包囲陣へと持ち帰った 2 。これは単なる戦果報告ではなかった。晴信はこのおびただしい数の首を、次なる戦術、すなわち敵の心を折るための最も残忍な心理的兵器として用いることを企図していた。
志賀城を囲むように晒された三千の首
翌8月7日、志賀城の籠城兵たちは、信じがたい光景を目の当たりにする。城の眼下の平原に、武田兵が次々と首を並べ始めたのである。その数は三千。昨日まで自分たちの最後の希望であったはずの、上杉救援軍の将兵の変わり果てた姿であった 2 。武田軍は、城の周囲をぐるりと取り囲むように、槍の先に首を掲げ、あるいは棚に並べて晒したという。城内のどこから見ても、味方の無数の生首が目に入るという、地獄のような光景が現出した。
戦国時代における「晒し首」の心理的効果
この晴信の戦術は、籠城兵の士気に破壊的な影響を与えた。救援の望みが物理的に断たれただけでなく、その事実を最も凄惨な形で突きつけられた城兵たちの心は、完全に折れてしまった 2 。
戦国時代において、敵将の首を晒すことは戦意を挫くための常套手段であったが、三千という規模は前代未聞であり、当時としても異常なほど過酷な処置と見なされた 20 。晴信の狙いは、志賀城を無駄な損害を出さずに陥落させること、そして何よりも「武田に逆らう者の末路」を信濃全土の国人衆に見せつけ、恐怖によって彼らを支配することにあった。三千の首は、そのための最も効果的なプロパガンダだったのである。物理的な総攻撃の前に、晴信は敵の精神を完全に破壊することに成功した。志賀城は、もはや生ける屍と化したのである。
第五章:落日の賦――志賀城、陥落す(天文16年 8月10日~11日)
8月10日:武田軍による総攻撃開始
味方の首級が晒されてから数日間、志賀城内は絶望と恐怖に支配されていた。籠城兵の士気が完全に崩壊したことを見計らい、天文16年8月10日、武田晴信は総攻撃の命令を下した 2 。
『高白斎記』は、その日の戦闘経過を時刻と共に克明に記録している。「10日午の刻、外曲輪を焼く。子牛の刻(午前2時頃)、二の曲輪焼く」 13 。この記述から、昼過ぎに始まった攻撃でまず外郭が破られ、攻防は夜を徹して続き、深夜には第二の郭も炎上したことがわかる。抵抗する気力も体力も尽き果てた城兵たちは、武田軍の圧倒的な物量の前に、なすすべもなかった。
8月11日:本曲輪への最終攻撃と城主の討死
夜が明け、8月11日。武田軍は城の中枢である本曲輪への最後の攻撃を開始した 2 。もはや城の命運が尽きたことを悟った城主・笠原清繁は、降伏という屈辱の道を選ばなかった。彼と、その子・清仲、そして最後まで運命を共にした援軍の将・高田憲頼、繁頼父子らは、残った僅かな兵を率いて城門を開き、武田の大軍の中へ最後の突撃を敢行した 13 。
それは勝利を求める戦いではなく、武士としての名誉を守るための死に場所を求める戦いであった。衆寡敵せず、彼らは次々と討ち取られていった。笠原清繁は、武田家臣の荻原昌明によって討ち取られたと伝えられる 6 。享年33、若き城主の抵抗はここに終わりを告げた 6 。『高白斎記』もまた、「11日、午の刻、志賀父子・高田父子打ち捕らる」と、その最期を記している 13 。ここに、武田氏に最後まで抗った佐久の拠点、志賀城は陥落した。
第六章:勝者の論理、敗者の運命――戦後処理の残虐性
「乱妨取り」の実態:捕虜の奴隷化と人身売買
志賀城の陥落後、武田軍によって行われた戦後処理は、その勝利以上に彼らの冷徹さと残虐性を物語るものであった。城内に生き残っていた兵士、領民、そしてその家族である女子供は、一人残らず捕虜とされ、「乱妨取り」の対象となった 6 。彼らは人間としての尊厳を剥奪され、戦利品として扱われたのである。
捕らえられた人々は甲斐国へと連行され、奴隷として人身売買の市場に出された 6 。戦国時代、合戦における人身売買は決して珍しいことではなかったが、志賀城の事例はその規模と組織性、そして過酷さにおいて際立っていた 20 。これは、武田氏にとって戦争が単なる領土拡大の手段であるだけでなく、経済活動の一環であったことを示している。捕虜は、身代金による収入源、あるいは金山開発などに従事させる安価な労働力という「資源」と見なされていたのである。
『勝山記』に見る身代金の価格とその意味
武田氏の動向を伝える史料『勝山記』(『妙法寺記』とも)には、この人身売買の生々しい実態が記録されている。それによれば、甲斐に縁故のある者は身代金を支払うことで解放される道も残されていたが、その額は一人あたり二貫文から十貫文という法外なものであった 6 。
当時の米価などから一貫文の価値を現代の貨幣価値に換算すると、およそ5万円から10万円に相当すると考えられている 23 。つまり、最高で一人あたり50万円から100万円もの身代金が要求されたことになる。これは、戦乱で全てを失った領民が到底支払える額ではない。結果として、身請けがかなった者はごく僅かで、ほとんどの人々が奴隷商人らに二束三文(一説には20~30文、現代の価値で1000円~1500円程度)で売り払われたと推測される 7 。
美貌と謳われた笠原清繁夫人の悲劇
この悲劇は、城主の家族も例外ではなかった。美貌で知られた笠原清繁の夫人(後室)は、人間ではなく、武功のあった者への「褒美」として扱われた。彼女は、この城攻めで活躍した武田家の重臣、小山田信有(出羽守)に与えられ、その側室となることを強いられたのである 5 。
彼女は故郷を遠く離れた甲斐国都留郡駒橋(現在の山梨県大月市)へと送られ、夫の仇の妻として生きるという過酷な運命を辿った。その悲運は土地の人々の同情を呼び、後世には彼女を題材とした哀れな童謡までもが作られ、伝えられたという 6 。この逸話は、勝利者が敗者の全て、すなわち生命、財産、そして家族の尊厳までも奪い去るという、戦国の世の非情な現実を象徴している。
終章:小田井原が残した遺恨――次なる戦いへの序章
佐久郡平定の完了と武田氏の勢力拡大
小田井原の戦いとそれに続く志賀城の陥落をもって、武田晴信は信濃佐久郡の完全制圧を成し遂げた 2 。これにより、武田氏の勢力圏は信濃東部に大きく広がり、北信濃に君臨する豪族・村上義清の領地と直接境を接することとなった。もはや両者の衝突は時間の問題であり、信濃の覇権を巡る戦いは、次なる、そしてより激しい局面へと移行していく。
志賀城での過酷な処置が信濃国人衆に与えた影響
三千の首級の晒し首、そして捕虜の奴隷化と人身売買という晴信の過酷な処置は、彼の狙い通り、信濃の国人衆に武田氏への凄まじい恐怖を植え付けた。しかしそれは同時に、決して消えることのない深い遺恨と、激しい反発心をも生み出す結果となった 6 。
この遺恨は、後の武田軍にとって大きな足枷となる。特に、天文19年(1550年)に村上方の要衝・戸石城を攻めた際には、守備兵の中に志賀城の生き残りや縁者が多数含まれていたため、彼らは鬼気迫るほどの頑強な抵抗を見せた。この凄まじい抵抗が、武田軍が攻めあぐねる最大の要因となり、結果として村上本隊の反撃を許し、晴信生涯最大の大敗北と語り継がれる「砥石崩れ」を招くのである 6 。
村上義清との対立激化と、翌年の上田原の戦いへの伏線
小田井原の戦いの直後、晴信は次なる標的である村上義清の領地、小県郡へと狙いを定める。そして翌年の天文17年(1548年)2月、満を持して小県郡へ侵攻し、村上義清と「上田原の戦い」で激突した。
しかし、この戦いの結果は誰もが予想しないものであった。武田軍は村上軍の巧みな戦術の前に苦戦し、小田井原で輝かしい武功を挙げたばかりの宿老、板垣信方と甘利虎泰の両将が、同じ戦場で共に討死するという壊滅的な打撃を受けたのである 2 。これは晴信にとって、生涯で初めて味わう屈辱的な大敗であった。
小田井原の戦いが戦国史に刻んだ意味の総括
小田井原の戦いは、武田晴信の軍事的才能と、目的のためには手段を選ばない冷徹な合理主義を遺憾なく発揮した、完璧な勝利であった。しかし、その勝利がもたらしたものは、必ずしも肯定的なものばかりではなかった。
歴史の皮肉とでも言うべきか、この圧倒的な勝利が、武田家中に油断と慢心を生んだ可能性は否定できない。『甲陽軍鑑』などの軍記物には、上田原の戦いにおいて、先陣の板垣信方が緒戦の勝利に油断し、危険な場所で首実検を始めた隙を村上軍に突かれて討死した、という逸話が記されている 21 。もしこれが事実であるならば、小田井原での完璧な勝利という成功体験が、翌年の大敗と、かけがえのない宿老二名を同時に失うという悲劇の遠因となったことになる。
結論として、小田井原の戦いは、武田氏の信濃支配における一つの頂点を画する戦いであった。しかし同時に、その勝利の過程で用いられた非情な手段は、後の戦いにおける頑強な抵抗の種を蒔き、その圧勝という結果は、次なる戦いでの油断と悲劇を誘発した。まさに、武田信玄の信濃平定という壮大な物語における、光と影が最も深く交錯する一幕であったと言えるだろう。
引用文献
- 武田信玄(たけだ しんげん) 拙者の履歴書 Vol.4~山岳に鍛えし甲斐の虎 - note https://note.com/digitaljokers/n/na75416384bfa
- 小田井原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E4%BA%95%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 小笠原長時 - 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/tag/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E9%95%B7%E6%99%82
- 長野市「信州・風林火山」特設サイト 川中島の戦い[戦いを知る] https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/tatakai/jinbutsu3.php.html
- 笠原新三郎首塚 - 恨みを飲んだ将の首塚の怪 - 日本伝承大鑑 https://japanmystery.com/nagano/kasahara.html
- 笠原清繁 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E6%B8%85%E7%B9%81
- 小田井原の戦いとは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E4%BA%95%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 上田原古戦場 埋もれた古城 http://umoretakojo.jp/Shiro/Tokubetsuhen/Uedahara/index.htm
- 志賀城跡 行き方 アプローチ方法 - FC2 https://holyshitt.web.fc2.com/shigajyoshi.html
- 志賀城 - DTI http://www.zephyr.dti.ne.jp/bushi/siseki/shiga.htm
- 志賀城の戦い - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/ShigaJou.html
- 河越夜戦(よいくさ)後北条氏対扇谷上杉氏 | 株式会社カルチャー・プロ https://www.culture-pro.co.jp/2022/06/17/%E6%B2%B3%E8%B6%8A%E5%A4%9C%E6%88%A6%EF%BC%88%E3%82%88%E3%81%84%E3%81%8F%E3%81%95%EF%BC%89%E5%BE%8C%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F%E5%AF%BE%E6%89%87%E8%B0%B7%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%B0%8F/
- 小田井原の戦い - 箕輪城と上州戦国史 - FC2 https://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E4%BA%95%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 武田晴信の志賀城攻め&人身売買 - 箕輪城と上州戦国史 https://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E6%99%B4%E4%BF%A1%E3%81%AE%E5%BF%97%E8%B3%80%E5%9F%8E%E6%94%BB%E3%82%81%EF%BC%86%E4%BA%BA%E8%BA%AB%E5%A3%B2%E8%B2%B7
- 志賀城 五本松城 内山古城 春日城 前山城 伴野氏館 余湖 http://otakeya.in.coocan.jp/nagano/sakusi01.htm
- 金井秀景:概要 - 群馬県:歴史・観光・見所 https://www.guntabi.com/bodaiji/yousen.html
- 板垣信方(いたがき のぶかた) 拙者の履歴書 Vol.192~誠忠の武将、散る - note https://note.com/digitaljokers/n/n7b822176c3eb
- 甘利備前守虎泰 - 川中島の戦い・主要人物 https://kawanakajima.nagano.jp/character/amari-torayasu/
- 御代田町 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E4%BB%A3%E7%94%B0%E7%94%BA
- 上田原の戦いとは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 「板垣信方」若き信玄を指南するその姿は、まさに武田家の”重鎮” - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/734
- 『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』(渡邊 大門) - 講談社 https://www.kodansha.co.jp/book/products/0000360109
- 戦国大名の経済事情 | 戦国の戦陣と領地統治 - 吾妻の歴史を語る https://denno2488.com/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%88%A6%E9%99%A3%E3%81%A8%E9%A0%98%E5%9C%B0%E7%B5%B1%E6%B2%BB/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E5%90%8D%E3%81%AE%E7%B5%8C%E6%B8%88%E4%BA%8B%E6%83%85/
- 戦国時代の貨幣の単位換算 現代であれば、1万円=(1,000円×10)=(100円×100)=(10... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000170301
- らんまる攻城戦記~兵どもが夢の跡~ - 志賀城 (佐久市志賀) - FC2 https://ranmaru99.blog.fc2.com/blog-entry-544.html
- ;「上田原合戦」「戸石崩れ」に見る『甲陽軍鑑』のリアリティ http://yogokun.my.coocan.jp/kouyougunkan.htm
- 石久摩神社(上田原古戦場碑) - DTI http://www.zephyr.dti.ne.jp/bushi/siseki/ishikuma.htm
- 板垣信方~若き武田信玄を支えた宿老、上田原で討死 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4794
- 信玄が「両識」として一目置いた「板垣信方」と「甘利虎泰」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/9335