最終更新日 2025-09-02

小田原城の戦い(1569)

永禄十二年、武田信玄は駿河の戦況打開のため関東へ侵攻。鉢形・滝山城を牽制後、北条氏の本拠小田原城を包囲し城下を焼き払う。北条軍は籠城策で対抗。撤退路で待ち伏せた北条軍を三増峠で撃破し、信玄は戦略的勝利を収めた。

永禄十二年の関東侵攻:武田信玄による小田原城の戦い ― その全貌と歴史的意義

序章:永禄十二年の衝撃

永禄12年(1569年)、甲斐の虎・武田信玄が敢行した相模国への侵攻、通称「小田原城の戦い」は、単に難攻不落と謳われた小田原城を数日間包囲したというだけの局地的な事件ではない。これは、同年8月下旬の甲府出立に始まり、武蔵国の諸城を攻略し、小田原城を牽制した後、撤退路で待ち受けた北条軍主力を「三増峠の戦い」で撃破して甲斐へ帰還するまでの一連の壮大な軍事作戦、すなわち「関東侵攻作戦」の総称である 1

この作戦の真の目的は、小田原城の攻略そのものではなく、前年に始まった武田氏の駿河侵攻を巡る北条氏との深刻な対立において、戦略的優位を確立するための多角的な軍事行動であった 3 。戦国時代の三英傑に数えられる武田信玄と、「相模の獅子」と畏怖された北条氏康という、当代きっての戦略家がその存亡を賭けて激突した数少ない事例として、この戦役は特筆に値する。さらに、その過程で繰り広げられた三増峠の決戦は、戦国史上最大級の山岳戦として知られ、両軍の軍事思想、戦術、そして指揮官の力量が赤裸々に示された戦いであった 5

本報告書は、この永禄12年の一連の戦役を包括的に分析し、その背景にある外交関係の変転から、武田軍の進撃路、小田原城での攻防、そしてクライマックスである三増峠の決戦に至るまでを時系列に沿って詳細に解き明かすものである。

表1:小田原攻め(1569年)関連年表

年月

出来事

概要

天文23年 (1554)

甲相駿三国同盟 成立

武田、北条、今川の三家が同盟を結び、東国の安定が図られる 6

永禄3年 (1560)

桶狭間の戦い

今川義元が織田信長に討たれ、今川氏が急速に衰退。同盟の均衡が崩れ始める 2

永禄10年 (1567)

義信事件・塩止め

信玄の嫡男・義信が死去。今川氏真が甲斐への「塩止め」を敢行し、武田・今川関係が悪化 6

永禄11年 (1568)

駿河侵攻

信玄が徳川家康と密約を結び、駿河へ侵攻。甲相駿三国同盟は完全に破綻 2

甲相同盟 破綻

北条氏康は娘婿の今川氏真を支援し、駿河へ出兵。武田氏との同盟も破綻する 9

永禄12年 (1569) 6月

越相同盟 成立

北条氏が武田氏に対抗するため、宿敵であった上杉謙信と同盟を結ぶ 2

永禄12年 (1569) 8月-10月

関東侵攻作戦

信玄が2万の兵を率いて関東へ侵攻。鉢形城、滝山城を攻撃後、小田原城を包囲 2

永禄12年 (1569) 10月8日

三増峠の戦い

小田原から撤退する武田軍を北条軍が追撃。三増峠で激突し、武田軍が勝利する 1

元亀2年 (1571) 10月

北条氏康 死去

氏康が死去。遺言で武田氏との再同盟を促したとされる 12

元亀2年 (1571) 12月

甲相同盟 復活

北条氏政は父の遺言に従い、武田信玄と再び同盟を締結。両家の抗争は一旦終結する 3

第一章:三国鼎立の崩壊 ― 甲相駿三国同盟の破綻

1-1. 盤石の同盟とその前提

天文23年(1554年)、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、駿河の今川義元という東国を代表する三人の大名の間に成立した甲相駿三国同盟は、単なる婚姻関係に基づく友好条約ではなかった。それは、各々の戦略目標を相互に保証し合う、極めて高度で合理的な安全保障の枠組みであった 6 。この同盟により、信玄は背後の憂いなく信濃攻略に専念でき、氏康は関東の諸勢力との戦いに集中し、義元は西の上洛へとその眼差しを向けることが可能となった。十数年にわたり、この三国間の勢力均衡は東国の安定を支える基盤として機能したのである。

1-2. 均衡の崩壊 ― 桶狭間の衝撃

しかし、この盤石に見えた均衡は、永禄3年(1560年)5月、一つの戦いを契機に崩壊への道を歩み始める。桶狭間の戦いにおける今川義元のまさかの戦死である 2 。大黒柱を失った今川家は急速にその勢力を減退させ、領国であった三河では松平元康(後の徳川家康)が自立を果たすなど、領国の動揺は隠しようもなかった 6 。この事件は、単に今川家の弱体化を招いただけではない。それは、武田・北条にとって共通の敵(上杉氏)に対処するための背後の安定を保証していた「重し」を失わせたことを意味した。東国のパワーバランスは、この瞬間から不可逆的に変化し始めたのである。

1-3. 信玄の野心 ― 海への渇望

今川氏の衰退を、千載一遇の好機と捉えたのが武田信玄であった。四方を山に囲まれた内陸国である甲斐の国主として、信玄はかねてより海への出口、すなわち港の確保を渇望していた 7 。港は交易による経済的利益をもたらすだけでなく、塩の確保や水軍の運用など、軍事的・経済的発展に不可欠な国家的戦略資源であった。今川氏の弱体化は、信玄にとって長年の悲願であった駿河獲得という、新たな戦略目標への扉を開くものであった 2

この信玄の動きは、単なる機会主義的な領土拡大欲と見るべきではない。それは「桶狭間」という外部要因によって生じたパワーバランスの真空地帯を埋めるための、必然的な戦略的帰結であった。信玄が動かなければ、いずれ徳川、あるいはその背後にいる織田が駿河を制圧し、武田はより深刻な戦略的劣勢に立たされる危険性があった。彼の行動は、先手を打つことで将来の脅威を未然に防ぐという、極めて能動的な防衛戦略でもあったのである。

1-4. 決裂への道

駿河侵攻という大方針を固めた信玄は、周到にその布石を打っていく。まず、武田家内部の障害を取り除く必要があった。信玄の嫡男・武田義信は、今川義元の娘である嶺松院を正室に迎えており、岳父の家を滅ぼす駿河侵攻に強く反対していた。この対立は、永禄10年(1567年)に義信が謀反の疑いで幽閉され、その末に死に至るという悲劇的な結末を迎える(義信事件) 6 。これは、信玄の駿河侵攻に対する固い決意と、そのために実子すら犠牲にする非情さを示す象徴的な出来事であった。

対外的には、永禄11年(1568年)、尾張の織田信長の仲介を経て、三河の徳川家康との間に密約を締結する 2 。その内容は、今川領を大井川を境として東西に分割し、東の駿河を武田が、西の遠江を徳川がそれぞれ領有するというものであった 7 。この密約こそが、駿河侵攻の直接的な引き金となった。

そして同年12月、信玄は「今川氏真が宿敵・上杉謙信と結び、武田を挟撃しようと画策した」という大義名分を掲げ、遂に駿河への侵攻を開始した 9 。武田・徳川両軍の挟撃の前に、今川氏真はなすすべもなく本拠地である駿府を追われ、遠江の掛川城へと逃げ延びた 8

1-5. 甲相同盟の破綻

信玄による同盟の反故と駿河侵攻は、北条氏康を激怒させた。氏康の娘・早川殿は氏真の正室であり、信玄の侵攻によって輿も用意されぬまま徒歩で逃げるという屈辱を味わわされた 9 。姻戚関係という名分以上に、北条氏にとってこの事態は座視できるものではなかった。弱体化した今川氏が西の緩衝地帯であることは容認できても、強大で野心的な武田氏が駿河を領有し、伊豆の目と鼻の先にまで迫ることは、自国の安全保障を根底から揺るがす「許容できない脅威」の出現を意味した。

氏康・氏政親子は、娘婿である氏真を救うべく、今川支援を即座に決定。駿河へ援軍を派遣した 17 。これにより、十数年にわたり武田・北条両家の関係を支えてきた甲相同盟もまた、完全に崩壊したのである 9

さらに北条氏は、武田氏に対抗するための大胆な外交戦略に打って出る。長年にわたり関東の覇権を争ってきた宿敵、越後の上杉謙信との和睦交渉を開始し、永禄12年(1569年)6月、遂に「越相同盟」を締結する 2 。これにより、武田氏は北の上杉、東の北条、そして南の徳川(遠江を巡る対立から関係が悪化していた)という三方を敵に囲まれる戦略的苦境に立たされることになった。永禄12年の関東侵攻は、この駿河で膠着した戦況を打開し、北条氏に直接打撃を与えることで包囲網を打破しようとした、信玄の起死回生の一手であった。

第二章:甲斐の虎、関東へ ― 武田軍の進撃路と戦略

2-1. 作戦開始

永禄12年(1569年)8月下旬、武田信玄は2万の大軍を率いて本拠地・甲府を出立した 9 。越相同盟の成立により、背後から上杉謙信に脅かされる危険性を承知の上での、極めて大胆な決断であった。この作戦の主目的は、駿河方面に展開する北条軍主力を関東に引き戻すことにあり、そのための周到な計画が練られていた。

2-2. 意表を突く進軍路

信玄は、甲府から小田原へ至る最短経路である甲州街道を意図的に避けた。彼が選択したのは、まず信濃国佐久郡へと北上し、そこから碓氷峠を越えて上野国へ侵入、一転して南下し武蔵国へと進軍するという、敵の意表を突く大迂回ルートであった 2

この進軍路の選択は、単なる奇襲以上の戦略的意味を持っていた。北条氏の防衛戦略は、本拠地・小田原城を核とし、関東各地に配置された支城が連携して敵を食い止めるネットワーク防衛であった。信玄が甲州街道から直接小田原を目指せば、北条方は戦力を小田原周辺に集中させることができる。しかし、北から侵入することで、北条氏は武蔵国北部の要衝・鉢形城を守る北条氏邦、南部の要衝・滝山城を守る北条氏照という、一門の有力武将をそれぞれの城に釘付けにせざるを得なくなる。彼らは小田原での籠城や、遊撃部隊としての合流が困難となり、結果として小田原城の防衛兵力は相対的に減少し、武田軍の背後を脅かす部隊も無力化される。この進軍は、北条軍の主力を「拘束」し、戦力を「分散」させることに真の狙いがあったのである。

2-3. 支城への攻撃 ― 鉢形城と滝山城

武蔵国に侵入した武田軍は、北条氏の支城ネットワークに次々と攻撃を仕掛けた。

鉢形城(城主:北条氏邦)

9月、武田軍はまず、北条氏康の四男・氏邦が守る鉢形城を包囲した 2 。鉢形城は荒川を天然の堀とする要害であり、氏邦は徹底した籠城策で対抗した 21 。信玄の目的は城の攻略ではなく、あくまで氏邦の軍勢を城に閉じ込めることにあったため、深追いはせず、短期間で包囲を解いて南下を続けた 4

滝山城(城主:北条氏照)

続いて武田軍の矛先は、氏康の三男・氏照が守る滝山城に向けられた。ここでも氏照は籠城を選択したが、鉢形城とは異なり、激しい攻防戦が繰り広げられた。

信玄は、多摩川を挟んで滝山城の対岸に位置する拝島に本隊の陣を構えた 23 。それと同時に、別働隊を率いる猛将・小山田信茂が、通常は軍勢の通行が不可能とされていた小仏峠を越えて氏照の背後を突くという奇襲作戦を実行した 24 。この動きは氏照にとって全くの想定外であり、迎撃に出した横地監物らの部隊は廿里(とどり)の地で小山田隊に撃破されてしまう(廿里古戦場) 25

背後を突かれた氏照が動揺する中、信玄の本隊も多摩川を渡河し、滝山城への総攻撃を開始した 24 。信玄の嫡男・武田勝頼を先鋒とする部隊の猛攻は凄まじく、城の二の丸、三の丸まで肉薄し、落城寸前にまで追い込んだと伝えられる 2 。しかし、ここでも信玄は目的が小田原への進軍にあることを忘れず、攻略を断念。滝山城の包囲を解き、最終目的地である小田原へと軍を進めた 27

この滝山城での攻防、特に小山田隊による小仏峠からの奇襲は、城主・北条氏照に「滝山城の防御上の欠陥」と甲州口防衛の重要性を痛感させる強烈な体験となった 25 。この戦いの教訓が、後の天正年間、より堅固で甲州方面の防衛に特化した「八王子城」の築城へと繋がる直接的な原因となったのである 27

第三章:難攻不落の城 ― 小田原城の攻防

3-1. 永禄12年10月1日 ― 包囲開始

数々の支城を牽制し、北条方の戦力を各地に分散させることに成功した武田軍2万は、永禄12年(1569年)10月1日、遂に北条氏の本拠地・小田原城下に到達し、その包囲を開始した 5 。城内では、隠居の身であった北条氏康と当主の北条氏政親子が全軍を指揮し、甲斐の虎を迎え撃つべく万全の態勢を整えていた 2

3-2. 信玄の狙い ― 挑発と誘引

武田信玄は、この小田原城が8年前の永禄4年(1561年)に上杉謙信率いる10万余の大軍の包囲を耐え抜いた、天下に名だたる堅城であることを熟知していた 30 。2万の兵力で短期間にこれを力攻めで陥落させることが不可能であることは、百も承知であった。

したがって、信玄の真の狙いは、この難攻不落の城を攻略することにはなかった。むしろ、その目的はより高次の戦略にあった。すなわち、小田原城下を徹底的に蹂躙し、北条氏の関東における権威を失墜させると同時に、駿河に展開する北条軍主力を本国へと引き戻すための、抗いがたい「磁石」として機能させることにあったのである。

その戦略に基づき、武田軍は城への直接攻撃は最小限に留め、城下の民家や社寺に次々と火を放ち、三日三晩にわたって燃え続けた炎は、小田原の町を灰燼に帰したと伝えられる 5 。これは北条氏に甚大な経済的・心理的打撃を与え、城兵を挑発して野戦に引きずり出すための、計算され尽くした示威行動であった 31

3-3. 北条の対応 ― 徹底した籠城策

対する北条氏康・氏政親子は、老練であった。彼らは信玄の挑発的な意図を完全に見抜き、決してその誘いに乗ることはなかった 2 。上杉謙信の大軍を退けた成功体験に基づき、徹底した籠城戦こそが北条氏の基本戦略であり、今回もその方針に揺るぎはなかった。

武田軍の先手部隊が城の蓮池門を突破する場面もあったが、これは北条方の巧みな戦術であった。門の先は行き止まりの空間(枡形虎口)になっており、誘い込まれた武田兵は左右の曲輪に配置された弓兵や鉄砲隊から十字砲火を浴び、壊滅的な損害を被った 2 。外壁の防御に固執せず、敵を城内に引き入れて叩くという、北条氏の高度な城郭防衛術が遺憾なく発揮された瞬間であった。

3-4. 10月4日 ― 撤退決断

包囲開始からわずか4日後の10月4日、信玄は目的を達したと判断し、小田原城の包囲を解いて撤退を開始した 5 。この迅速な撤退は、決して攻城戦の「失敗」を意味するものではない。兵站線が伸びきり、各地の北条支城からの援軍が集結して逆に包囲される危険が生じる前に、戦場を自らが選んだ場所、すなわち甲斐への帰路へと移すための、計画通りの行動であった。

この4日間の包囲と焼き討ちは、北条軍主力を駿河から呼び戻し、野戦での決戦を強いるための壮大な序曲だったのである。そして、そのクライマックスの舞台は、三増峠に用意されていた。

第四章:決戦、三増峠 ― 戦国最大級の山岳戦

小田原城の包囲を解いた武田軍の撤退は、北条方にとって、蹂躙された領土の雪辱を果たす絶好の機会と映った。ここから、戦国史上屈指の激戦として語り継がれる三増峠の戦いの幕が上がる。この戦いは、北条氏の「城塞依存型・防衛消耗ドクトリン」と、武田氏の「機動打撃型・野戦決戦ドクトリン」という、両者の軍事思想が正面から衝突した戦いであった。

表2:三増峠の戦いにおける両軍の兵力と主要武将

軍勢

総兵力(推定)

主要部隊・指揮官

武田軍

約20,000

総大将: 武田信玄 本隊・後詰: 武田勝頼、武田信廉、内藤昌秀、馬場信春 別働隊(奇襲部隊): 山県昌景 左翼隊: 浅利信種†、浦野重秀† 津久井城抑え部隊: 小幡信貞

北条軍

約20,000

総大将(事実上): 北条氏照、北条氏邦 主力部隊: 北条綱成、北条氏忠、原胤栄、上田朝直 追撃本隊(参戦せず): 北条氏政

注: †は戦死者を示す。

4-1. 偽装撤退と追撃

10月4日、信玄は「鎌倉の鶴岡八幡宮へ参詣する」という偽情報を流し、あたかも相模国を遊覧するかのように見せかけながら、小田原からの撤退を開始した 11 。しかし、平塚付近まで南下すると突如として進路を北に変え、相模川に沿って甲斐への帰路についた 5 。信玄が選択したこのルートは、平地が広がり、いつでも野戦に転じることが可能な「甲州道」であった 2

この動きを察知した北条首脳部は、好機到来と判断。鉢形城と滝山城の守備から解放された氏照・氏邦の部隊を先回りさせて三増峠で武田軍を待ち伏せさせ、同時に氏政が率いる小田原からの本隊がその後方を追撃することで、武田軍を挟み撃ちにして殲滅するという壮大な作戦を立案した 2

4-2. 三増峠の布陣 ― 北条の失策

10月5日、作戦通り北条氏照・氏邦の連合軍約2万は、武田軍に先んじて三増峠に到着。峠の高所を占拠し、戦術的に極めて有利な態勢を整えた 2 。眼下を進軍してくるであろう武田軍を、地の利を活かして叩く。勝利は目前かと思われた。

しかし、ここで北条方は致命的な判断ミスを犯す。同日の夜、氏照は突如として確保したばかりの高地を放棄し、全軍を麓の三増宿や志田原といった低地へ移動させてしまったのである 2 。この不可解な行動の理由は、遅れている氏政本隊との合流を優先し、より確実な挟撃態勢を整えようとしたためと推測されるが、結果として武田軍に絶好の布陣場所を無償で明け渡すことになった 2

この好機を信玄が見逃すはずはなかった。入れ替わるように三増峠の高地を占拠した武田軍は、ひときわ高い峰に信玄の本陣を置き、戦場全体を俯瞰できる圧倒的優位な態勢を瞬く間に構築した 11 。野戦における敵の意図を読む能力と、状況判断の的確さにおいて、両軍の指揮官の質の差が早くも露呈した瞬間であった。

4-3. 10月8日 ― 激突

決戦の日は10月8日(一説に6日)の明け方であった 1

緒戦:北条軍の奮戦

戦端が開かれると、緒戦は麓から攻め上がる北条軍が有利に進めた 1 。特に、「地黄八幡」の猛将・北条綱成が率いる鉄砲隊の斉射は武田軍に大きな損害を与えた。この激しい銃撃により、武田軍の左翼を担っていた重臣で箕輪城代の浅利信種、そして浦野重秀が相次いで討死するという、武田方にとって苦しい展開となった 1

転機:山県昌景の奇襲

しかし、百戦錬磨の信玄は、緒戦の劣勢にも全く動じなかった。彼は戦況を冷静に見極め、最も効果的なタイミングで最強の切り札を切る。かねてより三増峠の南西に位置する志田峠方面に迂回させていた、山県昌景率いる精鋭の別働隊に奇襲を命じたのである 4

山県隊は、北条軍が正面の戦闘に集中している隙を突き、さらに高所からその側背を猛然と突いた 11 。この完璧なタイミングで実行された奇襲攻撃は、北条軍の指揮系統を瞬時に麻痺させ、陣形を崩壊させた。これに呼応して、正面の信玄本隊も一斉に反撃に転じ、北条軍は側面と正面から挟撃される形となり、総崩れとなった 2

4-4. 決着

氏照・氏邦の連合軍は大混乱に陥り、おびただしい数の死傷者を出して敗走した 2 。史料によれば、この戦いにおける戦死者は北条方3,269名、武田方900名と記録されており、北条方の大敗であったことが窺える 1

一方、小田原から武田軍を追撃していた氏政率いる本隊は、厚木市の荻野付近まで進出していたが、先発隊が壊滅したとの報を受け、挟撃作戦の失敗を悟り、そのまま小田原城へと引き返した 1

勝利を確信した信玄は、敗走する北条軍を深追いすることはせず、軍勢を反畑(そりはた、現在の相模原市緑区)まで移動させ、そこで勝ち鬨を挙げた後、無事甲斐への帰還を果たした 1 。三増峠の戦いは、大局的な戦略構想力と、戦場における戦術的柔軟性、そして何よりも指揮官の質の差が勝敗を分けた、武田信玄会心の一戦であった。

第五章:戦いの後 ― 歴史的影響と各勢力の動向

永禄12年の一連の戦役は、武田・北条両氏の関係、そして関東の勢力図に大きな影響を及ぼした。戦いは、両者に互いの力の強大さと、同時にその限界を痛感させる結果となった。

5-1. 武田氏の戦略的勝利

三増峠での決定的勝利により、武田信玄は関東からの安全な帰路を確保した。これにより、北条氏による駿河奪還の試みは事実上頓挫し、武田氏の駿河領有は既成事実化への道を大きく前進させることになった 3 。戦術的勝利が、駿河を巡る戦略的目標の達成に直結したのである。しかし、この関東侵攻全体で見れば、北条氏を完全に屈服させるという目的は達成できなかった。小田原城は健在であり、北条氏の関東における支配体制そのものを揺るがすには至らなかった。

5-2. 北条氏の衝撃と戦略転換

一方、北条氏にとって三増峠での大敗は、深刻な衝撃であった。籠城戦においては絶対的な自信を持っていた彼らにとって、野戦における自軍の脆弱性を白日の下に晒す、痛烈な教訓となったのである 2

特に、この戦役で滝山城が信玄の猛攻と小山田隊の奇襲に晒された経験は、城主であった北条氏照に、同城の防御能力の限界を悟らせた 25 。この苦い経験が、氏照をして、より堅固で甲州口防衛に特化した新城、すなわち八王子城の築城を決意させる直接的な契機となったことは、この戦いがもたらした長期的な影響として特筆すべき点である 25

5-3. 外交関係の再編

この戦いは、両家の外交関係にも大きな転換をもたらした。北条氏は、武田軍の侵攻に際して越相同盟に基づく援軍を最後まで送らなかった上杉謙信に対し、強い不信感を募らせた 1 。事実上機能しなかったこの同盟は、後の破棄へと繋がる遠因となる。

そして元亀2年(1571年)10月、北条氏康が病没する。いくつかの記録によれば、氏康は死の床で「信玄と再び手を結べ」と遺言したとされる 12 。これは、永禄12年の戦役を通じて得られた「武田と敵対し続けることの不利益」という、冷徹な戦略的判断の表れであった。父の跡を継いだ氏政は、この遺言に従い、武田氏との和睦へと大きく舵を切る。

同年12月、かつて血で血を洗う死闘を繰り広げた両家は、再び同盟を締結(第二次甲相同盟)。武田・北条は友好関係を回復し、北条は上杉と手切れとなった 3 。皮肉なことに、永禄12年の大戦役は、両者の関係を修復し、新たな同盟を締結させるための「必要な儀式」となったのである。両者は互いの力を認め合い、消耗戦を避けて、より現実的な外交路線へと回帰したのだった。

終章:信玄の関東侵攻が遺したもの

永禄12年(1569年)の関東侵攻作戦は、武田信玄の卓越した戦略眼と戦術的柔軟性、そして北条氏の堅固極まりない防衛体制の両方を証明した、戦国史における画期的な戦役であった。信玄の大胆な迂回進撃、陽動と本攻撃を組み合わせた作戦遂行能力、そして三増峠で見せた絶妙な用兵は、彼が当代随一の軍略家であったことを改めて示している。同時に、北条氏の支城ネットワークと、決して挑発に乗らない小田原城の籠城戦術は、その防衛戦略がいかに洗練されていたかを物語っている。

しかし、この戦いの経験は、北条氏にとって一つの大きな影を落とすことになった。信玄の大軍を小田原城で凌ぎきったという成功体験は、彼らに「籠城戦こそが最善の策である」という過度の自信を植え付けた可能性がある。この成功体験が、21年後の天正18年(1590年)、豊臣秀吉による未曾有の大軍が関東に押し寄せた際、再び籠城策を選択させる一因となったことは想像に難くない 38

だが、時代は大きく変わっていた。信玄の2万の軍勢と、秀吉が動員した20万を超える軍勢とでは、戦争の規模そのものが決定的に異なっていた。信玄は補給線の問題から短期決戦を挑み、早期に撤退せざるを得なかった 39 。対する秀吉は、全国から徴発した兵糧と水軍を駆使した輸送網により、数十万の軍勢を数ヶ月にわたり維持できる、圧倒的な兵站能力を誇っていた 40 。さらに秀吉は、小田原城を孤立させるべく関東各地の支城を同時並行で攻略し、海上を完全に封鎖するという、信玄の時代には不可能であった立体的な包囲網を完成させた 40

北条氏が1569年の経験則で戦おうとした相手は、もはや戦国大名のレベルを超えた「天下人」の戦争であった。信玄の侵攻を退けた栄光の記憶が、時代の変化を見誤らせ、最終的な滅亡へと繋がったとすれば、それは歴史の大きな皮肉と言えるだろう。永禄12年の戦いは、戦国大名同士の抗争の一つの頂点を示すと同時に、その限界と、やがて訪れる新たな時代の戦争の姿を予感させる戦役として、日本史に深く刻まれている。

引用文献

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  2. 「三増峠の戦い(1569年)」北条方の本拠・小田原城まで進出した武田信玄。その退却戦で明暗分かれる | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/779
  3. 逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第10回【武田信玄・後編】武田家の運命を変えた駿河侵攻 https://shirobito.jp/article/1483
  4. 三増峠の戦い古戦場:神奈川県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/mimasatoge/
  5. 三増合戦場跡 - 神奈川県ホームページ https://www.pref.kanagawa.jp/docs/u5r/cnt/f550/tabi-153.html
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  7. 戦国時代の同盟|戦国雑貨 色艶 (水木ゆう) - note https://note.com/sengoku_irotuya/n/nf7362318df3b
  8. 駿河侵攻戦 //武田信玄、正義を掲げて駿河へ…――だが誰一人、それを信じていなかった https://www.youtube.com/watch?v=YozPnnqUtNc
  9. 駿河侵攻 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%BF%E6%B2%B3%E4%BE%B5%E6%94%BB
  10. 北条氏康 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F%E5%BA%B7
  11. 三増合戦について - ポケットに愛川 https://pocketniaikawa.com/mimase-battle/
  12. 四代氏政の時代 - 小田原市 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/encycl/neohojo5/009/
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