最終更新日 2025-09-01

小豆坂の戦い(1549)

天文17年、今川義元は太原雪斎の奇策で織田信秀を小豆坂で破り、三河支配を確立。この戦いは、後の徳川家康の運命を大きく左右した。

第二次小豆坂の戦い(天文十七年)全詳解:三河の覇権と徳川家康の運命を定めた一日

序章:三河を巡る両雄の対峙 ― 覇権への序曲

戦国時代中期、日本の中心部に位置する東海地方は、二つの巨大な勢力がその覇権を巡り、緊張の極みにあった。一方は、駿河・遠江二国を完全に掌握し、「海道一の弓取り」の威名を天下に轟かせる今川義元 1 。もう一方は、尾張守護代の家臣という立場から実力で頭角を現し、尾張国の統一を目前に控えた「尾張の虎」、織田信秀である 3 。この両雄の勢力圏が、尾張と駿河の中間に位置する三河国を舞台に、まさに衝突しようとしていた。

この対立の根本的な原因は、三河国における権力の真空状態にあった。天文四年(1535年)、岡崎城主・松平清康(後の徳川家康の祖父)が、家臣の凶刃に倒れる「森山崩れ」という悲劇が発生する 3 。三河統一を目前にしながらの突然の当主の死は、松平宗家の求心力を著しく低下させ、国内は再び分裂と混乱の時代に逆戻りした。この状況は、隣接する織田・今川という二大勢力にとって、自らの影響力を拡大するための絶好の機会と映った 6

両者の戦略目標は明確であった。織田信秀にとって、三河への進出は尾張統一事業の総仕上げであり、東方に位置する今川氏との間に安全な緩衝地帯を確保する上で不可欠であった。特に、経済的に豊かな西三河平野部を掌握することは、織田家の国力を飛躍的に増大させることを意味していた 3 。対する今川義元は、軍師・太原雪斎という稀代の戦略家の補佐のもと、盤石な領国経営を基盤に、西方への勢力拡大を国是としていた。彼にとって、弱体化した松平氏を従属させ三河を支配下に置くことは、最終目標である尾張侵攻への重要な足掛かりを築くことに他ならなかった 1

かくして、小豆坂の戦いは単なる領土紛争という側面を超え、戦国期における「勢力圏」という概念そのものを巡る代理戦争の様相を呈することになる。松平氏の弱体化は、当時の大名にとって自国の安全保障上、看過できない事態であった。隣接する弱小勢力を自らの影響下に置く「取込」は、必須の戦略であった。信秀が西三河の要衝・安祥城を奪い、松平広忠に服従を迫ったのは、松平氏を織田の勢力圏に組み込むための直接的な行動である 3 。一方、広忠が今川に救援を求めたのは、今川の勢力圏に入ることで家の存続を図るための必死の選択であった 9 。すなわち、小豆坂の戦場では、織田・今川両軍が、松平氏という存在を介して、自らの勢力圏の境界線を画定すべく激突したのである。これは、戦国時代の地政学的な現実を色濃く反映した、必然の衝突であった。

第一章:合戦前夜 ― 複雑に絡み合う三河の情勢

第二次小豆坂の戦いへと至る道筋は、数年にわたる複雑な政治的・軍事的駆け引きによって敷かれていた。その中心には、常に弱体化した松平家と、その嫡男・竹千代(後の徳川家康)の存在があった。

織田信秀の先制と安祥城の陥落

天文九年(1540年)、織田信秀は「森山崩れ」以降の松平家の混乱に乗じ、西三河における戦略的要衝である安祥城を電撃的に攻略した 3 。信秀はここに庶長子の織田信広を城代として配置し、三河侵攻における確固たる橋頭堡を築き上げた 3 。矢作川西岸に位置する安祥城は、川を挟んで岡崎城と対峙する絶好の拠点であり、その存在は松平宗家にとって喉元に突きつけられた匕首(あいくち)に等しかった。

松平広忠の苦境と今川への従属

安祥城の失陥に加え、松平広忠は一族内部の裏切りにも苦しめられていた。叔父の松平信孝をはじめ、織田方に通じる者が後を絶たず、広忠の支配基盤は極めて脆弱であった 11 。決定打となったのは、広忠の正室・於大の方の兄であり、義兄弟の関係にあった刈谷城主・水野信元の織田方への寝返りであった 3 。これにより完全に孤立無援となった広忠は、もはや自力での国家存続は不可能と判断。生き残りを賭け、東の大国・今川義元に全面的な従属を誓うという苦渋の決断を下すに至る。

人質・竹千代の誘拐事件

天文十六年(1547年)、広忠は今川家への忠誠の証として、嫡男である竹千代を人質として駿府へ送ることを決断した。しかし、この護送の過程で、戦国史に残る一つの事件が発生する。護送の任を請け負った田原城主・戸田康光が突如裏切り、金銭と引き換えに竹千代の身柄を敵である織田信秀のもとへ引き渡してしまったのである 3

信秀の恫喝と広忠の決断

信秀は、思いがけず手に入れた「松平家の後継者」という最高の切り札を使い、広忠に対して今川家との手切れと織田家への服従を強く迫った 9 。幼い我が子の命を盾に取られた広忠の苦悩は察するに余りある。しかし、ここで広忠は驚くべき決断を下す。「たとえ我が子を殺されようとも、今川家への忠義を変えることはない」と、信秀の要求を毅然として拒絶したのである 8

この広忠の悲壮な覚悟は、結果的に今川義元の心を動かし、三河への本格的な軍事介入を決意させる直接的な引き金となった。しかし、信秀の側から見れば、この竹千代の誘拐は計算違いの「悪手」であった可能性が高い。信秀の戦略目標は、あくまで竹千代を人質に取ることで広忠を脅し、松平家を織田方に寝返らせることにあった。ところが、広忠がこれを拒絶したため、信秀は「価値ある人質」を抱えながらも、本来の目的を達成できないという戦略的ジレンマに陥った。そればかりか、広忠の示した忠義は、今川義元にとって松平家が「救うに値する信頼できる家臣」であることを証明する形となり、大規模な援軍を派遣する大義名分を与えてしまった。信秀の脅迫は、むしろ今川・松平の結束を強固にし、自らが望まない形での全面戦争を誘発するという、皮肉な結果を招いたのである。

第二章:天文十七年三月十九日、小豆坂 ― 合戦のリアルタイム詳解

天文十七年(西暦1548年)三月、三河国の命運、そして竹千代という一人の少年の未来を賭けた決戦の火蓋が、岡崎城南東の小豆坂において切って落とされた。利用者様が指定された「1549年」は、この戦いの勝利を足掛かりに行われた翌年の「安城城の戦い」を指すものと考えられるが、本章ではその前哨戦であり、戦略的に極めて重要な意味を持つ天文十七年の「第二次小豆坂の戦い」の戦闘経過を、時系列に沿って詳細に再現する。

両軍の布陣と戦力

合戦の具体的な推移を追う前に、両軍の態勢を把握することは、戦場の力学を理解する上で不可欠である。

項目

今川・松平連合軍

織田軍

総大将

太原雪斎(今川義元名代)

織田信秀

主要武将

朝比奈泰能、岡部元信(真幸)、松平広忠

織田信広(先鋒)、織田信光、織田信実

総兵力

約10,000 3

約4,000 3

布陣地

岡崎城東方より進軍、小豆坂周辺 11

安祥城より矢作川を渡河、上和田砦を拠点 15

戦略目標

岡崎城の救援、三河における織田勢力の駆逐

岡崎城の攻略、三河支配の確立

【時刻不明・早朝】両軍の進発と予期せぬ遭遇

今川軍は、総大将に今川義元の絶対的な信頼を得る軍師・太原雪斎、副将に譜代の重臣・朝比奈泰能を配し、松平軍を組み入れた約一万の大軍で岡崎城救援のため東から進軍した 11 。一方の織田軍は、総大将・織田信秀自らが安祥城に入り、先鋒を庶長子・信広、中核を弟の信光らが固める約四千の精鋭をもって矢作川を渡河、岡崎城南の上和田砦に本陣を構えた 15

天文十七年三月十九日未明、信秀は決戦を期して上和田の砦を出陣し、馬頭原(ばとうがはら)方面へと兵を進めた。時を同じくして、今川軍もまた小豆坂に差し掛かっていた。当時の小豆坂周辺は、松の木立に覆われた起伏の多い丘陵地帯であり、両軍ともに互いの正確な位置を把握できていなかった 11 。そして運命の瞬間、進軍する両軍の先鋒は、小豆坂の坂道で突如として鉢合わせすることになる。計画された会戦ではなく、偶発的な遭遇戦として戦端は開かれた。

【開戦直後】先鋒の激突 ― 坂の攻防

織田信広率いる織田軍先鋒は、坂を登りかけたまさにその時、眼前に今川軍の先陣を発見し、直ちに突撃を開始した 11 。しかし、坂の上という地の利を得ていた今川軍は、攻め上がってくる織田軍に対し、矢を射かけるなど極めて有利に戦いを進めた 5 。織田軍先鋒は今川軍の猛攻の前にたちまち劣勢となり、一時は「盗木(ぬすっとぎ)」と呼ばれる場所まで後退を余儀なくされるなど、手痛い打撃を受けた 11

【中盤】戦況の膠着 ― 一進一退の死闘

先鋒部隊の苦戦を知った織田信秀は、自ら本隊を率いて前線に進出。後退してきた信広の部隊と合流し、崩れかけた戦線を瞬く間に立て直した。ここから戦況は一変し、両軍が入り乱れての凄惨な白兵戦が展開される 5 。織田軍は猛然と反撃に転じ、今度は今川軍が押し返される場面も見られた。一部の史料によれば、今川軍の先鋒が攻め疲れたことで、一時的に織田軍が優勢となる局面さえ生まれたと記録されている 8 。この段階では、両軍ともに決定打を欠き、勝敗の行方は全く予断を許さない一進一退の膠着状態に陥っていた 17

【転換点】雪斎の神算 ― 伏兵、動く

戦況が膠着し、両軍の将兵が目の前の敵を打ち破ることに全神経を集中させていた、まさにその時。今川軍総大将・太原雪斎が周到に仕掛けていた策が発動する。彼は、戦いが最も激しくなり、敵が前線に集中するであろうこの瞬間を見越し、予め戦場の側面に伏兵部隊を配置していたのである 5

この伏兵部隊を率いていたのが、今川家譜代の猛将・岡部元信(史料によっては岡部真幸とも記される)であった 8 。岡部隊は、激戦を繰り広げる織田軍の無防備な側面を強襲。猪の立物をつけた兜を輝かせ、凄まじい勢いで敵陣に斬り込んだと伝わる 18 。予期せぬ方向からの攻撃を受けた織田軍は、指揮系統が麻痺し、瞬く間に大混乱に陥った 5

この一連の戦況は、太原雪斎の「戦場を俯瞰する大局観」が、織田信秀の「現場での戦闘指揮能力」を上回った結果であると分析できる。信秀は、自らも前線に立つ勇猛な将であり、一度崩れた戦線を立て直すなど、戦術家としての能力は非常に高かった 5 。しかし、彼は目の前の敵を押し返すことに集中しすぎるあまり、戦場全体の状況、特に自軍の脆弱な側面への注意を怠った。一方、僧籍の身でありながら今川家の最高顧問として常に大局を見てきた雪斎は、戦況が膠着すること、そして敵が一点に集中することを見越して、岡部元信という「遊軍」ともいえる決定的な戦力を最後まで温存していた 12 。戦いが最も熾烈になった瞬間に、最も効果的な場所へこの戦力を投入する。これは、盤面全体を見渡せる者だけが可能な高度な戦術であり、信秀の武勇を雪斎の知略が封じ込めた瞬間であった。

【終結】織田軍の敗走 ― 安祥城へ

側面を完全に崩された織田軍は、もはや組織的な抵抗を維持できず、総崩れとなった 5 。織田信秀は完敗を悟り、全軍に撤退を命令。拠点である安祥城へと敗走を開始した 5 。この絶望的な撤退戦において、信秀の弟・織田信光が殿(しんがり)として獅子奮迅の働きを見せ、今川軍の猛烈な追撃を食い止め、信秀本隊の退却を助けたとされている 16 。かくして、小豆坂の戦いは今川・松平連合軍の完全勝利に終わった。

第三章:合戦後の影響と戦略的帰結

第二次小豆坂の戦いにおける今川軍の勝利は、単なる一戦闘の勝利に留まらず、三河国、ひいては東海地方全体の勢力図を塗り替える決定的な転換点となった。その影響は、直後の軍事行動から、十数年後の歴史を動かす遠因にまで及んでいる。

勝利の追撃 ― 安城城の攻略(天文十八年)

小豆坂での勝利は、今川氏にとって三河支配を確立するための第一歩に過ぎなかった。太原雪斎の視線は、依然として西三河に残る織田方の最大拠点、安祥城に向けられていた。天文十八年(1549年)、雪斎は小豆坂の勢いを駆って、再び今川・松平連合軍を率いて安祥城を大軍で包囲した(第三次安城合戦) 22 。城将・織田信広は奮戦するも、衆寡敵せず、激しい攻防の末に今川軍は安祥城を陥落させ、信広を生け捕りにすることに成功した 9

人質交換の実現と竹千代の運命

雪斎は、捕虜とした織田信秀の庶長子・信広と、織田家に囚われていた松平家の嫡男・竹千代との人質交換を信秀に提案した。信秀は、自らの三河における拠点を全て失い、さらに後継者候補の一人を捕らえられた状況下で、この提案を受け入れざるを得なかった 16

こうして竹千代は二年ぶりに解放された。しかし、彼の帰るべき岡崎城では、父・松平広忠がこの年の三月に家臣によって暗殺されるという悲劇が起きていた 24 。この状況を好機と見た今川義元は、竹千代を岡崎城には戻さず、そのまま今川家の本拠地である駿府へと移送した 9 。表向きは「庇護」という名目であったが、事実上、人質の身であり続けることに変わりはなかった。そして彼はこの駿府で、当代随一の知識人でもあった太原雪斎から直接薫陶を受けることになる 25

この一連の処置は、今川義元による松平家「乗っ取り」計画の完成を意味するものであった。人質交換の目的は、表向きは松平家の後継者を解放することであったが、父・広忠の死という絶好の機会を利用し、義元は竹千代を岡崎城主とせず、駿府で完全に自らの管理下に置いた。これは、竹千代を今川の文化と思想で染め上げ、将来的に今川家の忠実な傀儡として三河を統治させるという冷徹な政治的計算に基づいていた。岡崎城には今川の城代が置かれ、松平家の家臣団は今川家の直接指揮下に組み込まれた。つまり、今川氏は松平氏を単なる従属大名としてではなく、その実体を解体・吸収し、三河を事実上の直轄領とするプロセスをこの時点で完成させたのである。小豆坂での軍事的勝利が、この政治的プロセスを可能にしたと言える。

今川氏の三河支配確立と桶狭間への道

安祥城の奪還と竹千代の身柄確保により、今川氏は西三河における織田勢力を完全に駆逐し、三河国をその勢力圏に組み込むことに成功した 3 。これは、東方の北条氏、北方の武田氏との間に甲相駿三国同盟を成立させたことと並び、今川義元にとって後顧の憂いを断つ大きな戦略的成果であった 27 。これにより、義元は満を持して尾張侵攻へと乗り出すことが可能となり、その道は十二年後の永禄三年(1560年)、彼の運命を決定づける「桶狭間の戦い」へとまっすぐに繋がっていくのである 1

第四章:合戦を彩った武将たち

小豆坂の戦いは、二人の大将の知勇と、一人の猛将の活躍によってその趨勢が決定づけられた。ここでは、合戦を彩った主要な武将たちの横顔に迫る。

今川方総大将:太原雪斎 ― 「黒衣の宰相」の神算鬼謀

今川義元の幼少期における教育係から、やがては執権として今川家の政治・軍事・外交の全てを掌握した「黒衣の宰相」 21 。臨済宗の僧侶でありながら、還俗することなく今川家の最高顧問として辣腕を振るった異色の人物である。花倉の乱では義元を家督に据えるために自ら兵を率い、外交では武田・北条という強国を手玉に取って甲相駿三国同盟を締結させるなど、その手腕は当代随一と評された 12 。小豆坂の戦いにおいても、自ら総大将として出陣し、巧みな伏兵戦術を駆使して数に劣る織田軍を打ち破った 27 。彼の存在そのものが、今川家の最盛期を象徴していたと言っても過言ではない 28

織田方総大将:織田信秀 ― 尾張の虎、その野望と限界

一代で尾張国の大部分を実力で平定し、信長に続く織田家発展の礎を築いた「尾張の虎」。戦における勇猛さだけでなく、津島・熱田といった港湾都市を掌握し、その経済力を背景に勢力を拡大するなど、先進的な感覚も持ち合わせていた 4 。三河への侵攻は、彼の勢力拡大の頂点を示すものであったが、太原雪斎という当代随一の戦略家の前に、その武勇も及ばなかった。この敗北は信秀の威勢に陰りをもたらし、三河からの完全撤退を余儀なくされる決定的な一因となった 30

勝利の立役者:岡部元信 ― 戦局を覆した猛将

今川家譜代の重臣、岡部氏の出身。小豆坂の戦いでは、膠着した戦況を打破する伏兵部隊を率い、その勇猛果敢な突撃で今川軍に勝利をもたらした最大の功労者である 8 。彼の活躍は、後の桶狭間の戦いでも見られる。主君・義元が討死した後も、前線の鳴海城で徹底抗戦を続け、信長に対し「主君の首級と引き換えに開城する」という条件を呑ませ、その忠義を敵将にさえ感嘆させた 19 。今川家滅亡後は武田家に仕え、徳川家康と熾烈な攻防を繰り広げた高天神城で壮絶な最期を遂げるなど、生涯を義と武勇に捧げた武人であった 32

補論:第一次小豆坂合戦(天文十一年)の虚実

第二次小豆坂の戦いを語る上で、避けては通れないのが、その六年前にあったとされる「第一次小豆坂の戦い」の存在である。この戦いは、長らく史実として語られてきたが、近年の研究ではその存在自体を疑問視する声が強まっている。

伝承される「第一次合戦」と「小豆坂七本槍」

織田信長の家臣・太田牛一が記した『信長公記』には、天文十一年(1542年)八月に小豆坂で織田軍と今川軍が衝突し、織田信秀方が勝利を収めたという記述が見られる 20 。この戦いで特に目覚ましい活躍をしたとされる織田信光、織田信房、岡田重善、佐々政次、佐々孫介、中野一安、下方貞清の七人の武将は、その武功を称えられ「小豆坂七本槍」として顕彰されている 8 。この「七本槍」という呼称は、後に豊臣秀吉が賤ヶ岳の戦いで功のあった若手武将を称えた「賤ヶ岳の七本槍」などの先駆けになったとも言われている 37

虚構説の台頭とその根拠

しかし、近年の研究では、この第一次合戦の存在自体が後世の創作、すなわち虚構であるという説が有力となっている 6 。その最大の根拠は、当時の勢力図にある。天文十一年の段階では、今川氏の勢力はまだ東三河に限定されており、西三河の小豆坂で織田軍と大規模な合戦を行う地理的・政治的状況が整っていなかったと考えられるからである 6 。また、合戦の結果についても、織田方の勝利とする『信長公記』に対し、『松平記』などでは決着がつかなかったと記されており、情報が錯綜している 17

なぜ「二度の合戦」説が生まれたのか

では、なぜ「第一次合戦」という物語が生まれたのか。これは、戦国時代特有の「物語消費」と「家臣団顕彰」という文化的背景が生み出した産物である可能性が指摘できる。戦国時代において、武功は個人の名誉であると同時に、主君の威光を示す重要なプロパガンダであった。特に織田家のような新興勢力にとっては、家臣たちの武勇伝を語り継ぐことは、家中の結束を高め、求心力を維持する上で不可欠であった。「七本槍」という、人々の記憶に残りやすく、物語として消費されやすいキャッチーな呼称はその典型である 39 。天文十七年の決定的な敗北という「不都合な真実」を前に、それ以前にあったかもしれない小規模な衝突や個々の武将の功績を、天文十一年という年に集約させ、一つの大きな「勝利の物語」として再構成することで、織田家の威信を保ち、佐々氏や下方氏といった家臣たちの家格を高めるという、政治的・文化的な意図があったと推察される。これは、歴史が単なる事実の記録ではなく、後世の意図によって編集されうることを示す好例と言えよう。

結論:戦国史における小豆坂の戦いの歴史的意義

天文十七年の第二次小豆坂の戦いは、その後の戦国史の展開に極めて大きな影響を与えた、画期的な戦いであったと結論付けられる。その歴史的意義は、以下の三点に集約される。

第一に、 徳川家康の原点を形作った戦い としての側面である。この戦いの結果、竹千代は父を失った孤児として、敵国である今川家の本拠地・駿府で十数年を過ごすことになった。もしこの戦いで織田信秀が勝利していれば、彼は織田家の人質として全く異なる人生を歩んだであろう。駿府での人質生活は、彼に苦難を強いた一方で、太原雪斎という当代一流の教養人から直接教育を受ける機会を与えた。この時期に培われた忍耐力、政治感覚、そして教養は、後の天下人・徳川家康の人間形成に測り知れない影響を与えたことは間違いない。

第二に、 今川氏の絶頂期を画する勝利 としての位置づけである。小豆坂での勝利と、それに続く安祥城の攻略による三河平定は、今川義元の勢力が頂点に達したことを天下に示す象徴的な出来事であった。これにより今川氏は、駿河・遠江・三河の三国を領有する東海地方最大の勢力となり、上洛して天下に号令する資格を持つ有力大名の一人として、その名を不動のものとした 1 。この勝利なくして、後の桶狭間の戦いにおける二万五千という大軍の動員は不可能であった。

そして第三に、**織田家にとっての「未来への教訓」**となった点である。織田信秀にとってこの敗北は、生涯をかけた三河進出の夢を打ち砕かれる痛恨事であった。しかし、この父の敗北の記憶は、跡を継いだ織田信長に強烈な対今川の意識を植え付けた。父が成し得なかった今川の打破、そして父を打ち破った敵将・今川義元を自らの手で討ち取るという目標が、十二年後の桶狭間における奇跡的な勝利へと繋がる、大きな精神的原動力となったのである。その意味で、小豆坂の敗北は、織田家にとって次世代の飛躍のための、避けては通れない試練であったと言えるだろう。

以上のように、第二次小豆坂の戦いは、今川・織田・松平(徳川)という、後の歴史を動かす三家の運命を大きく左右した、極めて重要な一戦であった。それは、戦国中期の東海地方における覇権争いの帰趨を決しただけでなく、徳川家康の苦難の始まりと、織田信長の未来の飛躍の遠因を同時に内包する、歴史の巨大な分岐点であった。

引用文献

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  4. 小豆坂合戦 | 歴史の王国ブログ https://lordkingdom.net/tag/%E5%B0%8F%E8%B1%86%E5%9D%82%E5%90%88%E6%88%A6/
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  30. 【23】小豆坂合戦ノ図 今川・松平連合軍VS織田信秀の大合戦が信長と濃姫の結婚につながる http://tokugawa-shiro.com/1291
  31. 天文17年(1548)3月19日は太原雪斎率いる今川軍が織田信秀を第二次小豆坂合戦で破った日。この勢いで翌年織田方の安祥城を攻略し織田信広と人質交換で竹千代(家康)を取り戻し西三河の掌握から - note https://note.com/ryobeokada/n/nc6c332bdeddf
  32. 今川家・武田家に仕えた岡部元信が辿った生涯|高天神城で徳川軍に玉砕した忠義者【日本史人物伝】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1136309
  33. 岡部元信 - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/OkabeMotonobu.html
  34. 信長公記』「首巻」を読む 第2話「小豆坂合戦の事 - note https://note.com/senmi/n/n918632bbe6d0
  35. 小豆坂七本槍 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%B1%86%E5%9D%82%E4%B8%83%E6%9C%AC%E6%A7%8D
  36. 武将列伝番外編組列伝・小豆坂の七本槍 - BIGLOBE https://www2s.biglobe.ne.jp/gokuh/ghp/busho/g_0701.htm
  37. 小豆坂Pokyu庵 - About小豆坂 http://home1.catvmics.ne.jp/~yyoshino/AboutAzukizaka.html
  38. 松平広忠 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BA%83%E5%BF%A0
  39. 七本槍 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E6%9C%AC%E6%A7%8D