小高城の戦い(1589)
天正17年、伊達政宗は蘆名氏を滅ぼし、その矛先を相馬義胤に向けた。相馬氏は小高城で玉砕を覚悟するが、秀吉の小田原征伐の命により伊達軍は撤退、相馬氏は滅亡を免れた。
天正十七年、奥羽国境戦役 ― 伊達政宗の覇権と相馬義胤の抵抗 ―
序章:天下統一前夜の奥羽
天正17年(1589年)は、日本の歴史が大きな転換点を迎えた年である。中央では豊臣秀吉による天下統一事業が最終段階に入り、大名間の私的な戦闘を禁じる「惣無事令」が、新たな秩序の根幹として列島を覆い尽くそうとしていた 1 。しかし、その「天下」の論理が未だ完全には浸透しきらない辺境の地、奥羽では、旧来の価値観に基づく領土拡大の野心が、最後の熾火のように燃え盛っていた。この中央の法と辺境の現実が激しく衝突する最前線で、時代の奔流に抗い、あるいは乗りこなそうとした二人の武将がいた。一人は、奥州の覇権という野望を胸に、中央の権威を半ば無視して勢力拡大に邁進する伊達政宗。もう一人は、平将門を祖と仰ぐ名門の誇りを背負い、強大な隣国の圧力に屈することなく一族の存亡を賭して戦い続ける相馬義胤である 3 。
利用者様がご提示された「小高城の戦い」は、特定の城を巡る一度の攻城戦を指すものではない。それは、天正17年という一年を通じて、伊達・相馬両家の国境地帯で繰り広げられた一連の熾烈な武力衝突の総称と捉えるのがより正確である。本報告書では、この連続した軍事行動を「天正十七年国境戦役」と再定義し、その背景にある半世紀にわたる宿怨の歴史から、具体的な戦闘の推移、そして中央政権の介入による唐突な終焉まで、その全貌を時系列に沿って徹底的に解き明かすことを目的とする。
この戦役は、単なる二大名の領土紛争に留まらない。それは、豊臣秀吉という新たな権力構造が地方に及ぼす影響と、それにどう向き合うかという、戦国大名たちの最後の選択を象徴する事件であった。政宗は、秀吉の本格的な介入という時間的制約の中で、南奥羽における自らの覇権を既成事実化しようと最後の賭けに出た 4 。相馬氏との戦いは、その壮大な野望の最終段階に位置づけられるものであり、奥羽の戦国時代が終焉を迎える直前の、最も激しい断末魔の叫びでもあったのである。本報告書の理解を助けるため、まず天正17年前後の主要な出来事を以下の年表で概観する。
【表1:天正十七年 伊達・相馬国境戦役 関連年表】
年月日(旧暦) |
奥羽での出来事 |
中央・関東での出来事 |
天正17年 (1589) |
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1月5日 |
岩城常隆、相馬派の田村領・小野城を攻略 6 |
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4月 |
相馬義胤・岩城常隆、伊達方の田村領へ侵攻 7 |
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5月1日 |
伊達軍、相馬領・飯土居小屋林の砦を攻撃 6 |
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5月19日 |
伊達軍、相馬領・駒ヶ嶺城を攻略 6 |
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5月20日 |
伊達軍、相馬領・新地城を攻略 6 |
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6月5日 |
摺上原の戦い。伊達政宗、蘆名義広を破り蘆名氏滅亡 11 |
豊臣秀吉の子、鶴松が誕生 13 |
6月18日 |
相馬軍、激戦の末に飯土居小屋林の砦を奪還 6 |
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7月4日 |
秀吉、上杉・佐竹に伊達氏討伐を命じる 6 |
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7月18日 |
坂本犀ノ鼻の戦い。相馬・伊達両軍が激突 6 |
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10月 |
伊達政宗、二階堂氏を滅ぼす 10 |
北条氏家臣による名胡桃城奪取事件が発生 2 |
11月 |
石川昭光、岩城常隆が伊達氏に服属 10 |
秀吉、北条氏討伐の朱印状を発布 2 |
天正18年 (1590) |
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4月 |
義胤、政宗の留守を狙い軍事行動 15 |
秀吉による小田原城包囲が開始される 16 |
6月5日 |
政宗、小田原に到着し秀吉に謁見 6 |
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7月 |
義胤、小田原に参陣し本領を安堵される 17 |
北条氏が降伏し、小田原城が開城 |
8月 |
奥州仕置。 政宗は減封、相馬氏は所領安堵 18 |
秀吉、宇都宮・会津で仕置を行う |
第一章:宿怨の系譜 ― 伊達・相馬、半世紀の抗争史
天正17年の激突は、突発的に生じたものではない。その根源は、半世紀以上前に遡る伊達、相馬両家の複雑に絡み合った因縁にあった。両家の対立構造を理解することは、この戦役の本質を掴む上で不可欠である。
発端としての天文の乱
伊達・相馬両家の長きにわたる抗争の直接的な発端は、伊達家内部で勃発した骨肉の争い「天文の乱」(1542年-1548年)に求められる。伊達家14代当主・稙宗とその嫡男・晴宗の父子相克は、奥羽の諸大名を二分する大乱へと発展した。この乱が終結した際、敗れた父・稙宗は隠居を余儀なくされるが、その隠居領として丸森・金山・小斎・新地・駒ヶ嶺の五か村が与えられた 19 。これらの所領は、伊達領と相馬領のちょうど中間に位置し、国境地帯に楔を打ち込むような形となった。この不安定な領土の存在が、将来にわたる紛争の火種として燻り続けることになったのである。
輝宗の時代:一進一退の攻防
政宗の父・伊達輝宗と、義胤の父・相馬盛胤の代になっても、この国境地帯を巡る対立は続いた。両家は座流川で矛を交えるなど、一進一退の攻防を繰り広げた 20 。一方で、武力衝突と並行して、婚姻による関係改善も模索された。永禄3年(1560年)、相馬義胤は伊達稙宗の末娘・越河御前を正室に迎える。これは、天文の乱で相馬氏が稙宗方に与した縁によるものであったが、この婚姻関係も長くは続かなかった。伊達家中で晴宗・輝宗父子の影響力が強まるにつれ、相馬家中の力学も変化し、越河御前は離縁され伊達家へ送り返されるという悲劇的な結末を迎える 6 。このような武力と外交が複雑に交錯する関係性は、両家の間に根深い不信感を植え付けた。
政宗の登場と対立の激化
天正12年(1584年)、伊達政宗が家督を相続すると、両家の対立は新たな段階に入る。若き政宗は父・輝宗の慎重な路線とは一線を画し、奥州統一という野望の実現に向けて、苛烈な領土拡大政策を推し進めた。この過程で、伊達氏と相馬氏の間に立つ田村氏の存在が、対立を決定的に先鋭化させる要因となった。政宗の正室・愛姫は田村清顕の娘であり、伊達・田村は同盟関係にあった。一方、相馬氏もまた田村氏と縁戚関係を結び、連携を模索していた 6 。
天正14年(1586年)に田村清顕が死去すると、その後継を巡って田村家中で伊達派と相馬派が激しく対立。この争いに政宗が介入し、田村領を事実上併合したことで、伊達・相馬の関係は修復不可能なまでに悪化した。この政宗の覇権主義的な動きは、相馬氏だけでなく、佐竹氏や蘆名氏といった南奥羽の諸大名に強い危機感を抱かせ、結果として広範な「反伊達連合」が形成されるに至る。
ここには、単なる領土争いを超えた、奥羽の将来像を巡る根本的な「構想の対立」が存在した。政宗が伊達氏による単独の武力支配によって奥州に新たな秩序を築こうとしたのに対し、相馬義胤は佐竹氏や蘆名氏と連携し、諸大名の連合による集団安全保障的な秩序を維持しようと試みた 21 。この理念的な対立こそが、和睦を困難にし、両家の抗争を天正17年の全面衝突へと導いたのである。
第二章:南奥羽の激震 ― 摺上原の戦いとその衝撃
天正17年、伊達政宗は長年の宿敵であった蘆名氏との決着をつけるべく、周到な準備のもとに行動を開始した。この一連の軍事行動は、南奥羽の勢力図を根底から覆し、相馬氏を絶体絶命の窮地に追い込むことになる。
決戦前夜の情勢(1589年4月~5月)
春、南奥羽の情勢は一気に緊迫した。4月、相馬義胤は岩城常隆と連合し、伊達方の同盟勢力である田村領へ侵攻を開始した 7 。これは、反伊達連合による攻勢の一環であり、政宗の勢力拡大を牽制する狙いがあった。この動きに対し、政宗は田村氏救援を名目に、4月22日、本拠地である米沢城から出陣。しかし、彼の真の狙いは、この機に乗じて南奥羽最大の障害である蘆名氏を滅ぼすことにあった。
政宗の戦略は、多正面に敵を抱える状況を巧みに利用する、極めて高度なものであった。彼は主目標である蘆名氏との決戦に全力を注ぐため、まず東方の脅威である相馬氏の動きを封じる必要があった。そのために彼が展開したのが、見事な陽動作戦である。
5月初頭、政宗はまず軍を南下させ、蘆名領の安子ヶ島城と高玉城を電撃的に攻略した 12 。これにより、蘆名軍主力の注意を西方の自領防衛に引きつけることに成功する。そして、敵の意表を突くように、政宗はすぐさま軍を北へ転進させた。5月18日、伊達軍は相馬領と国境を接する伊具郡の金山城に入城した 12 。これは、相馬義胤に対して「これ以上、田村領で行動を続ければ、本拠地が直接攻撃を受ける」という強烈な圧力をかける軍事行動であった。この一連の動きにより、相馬軍は田村領に釘付けにされ、蘆名氏を救援することが事実上不可能となった。政宗は、主敵を叩く前に、その側面を完璧に安全化したのである。
摺上原の戦い(1589年6月5日)
東方の憂いを断った政宗は、満を持して蘆名氏との決戦に臨んだ。この時、蘆名家臣で猪苗代城主の猪苗代盛国が政宗に内応し、猪苗代城を明け渡したことが決定的な意味を持った。これにより、政宗は蘆名氏の本拠・黒川城の喉元に刃を突きつける戦略的拠点を手に入れた。
天正17年6月5日、磐梯山麓の摺上原において、両軍はついに激突した。伊達軍は約2万3千、対する蘆名軍は約1万6千と、兵力では伊達軍が優位に立っていた 8 。戦端が開かれた当初、西からの強風を追い風に受けた蘆名軍が優勢に戦いを進め、伊達軍の先鋒は苦戦を強いられた 8 。しかし、伊達成実や白石宗実らの部隊が磐梯山麓を迂回して蘆名軍の側面に回り込み、猛攻を加えたことで戦況は膠着。そして午後に入り、天候が伊達軍に味方する。突如として風向きが東風に変わり、今度は蘆名軍が逆風に立たされることになった 23 。この好機を逃さず伊達軍が総攻撃をかけると、蘆名軍は総崩れとなり、敗走する兵の多くが日橋川で溺死したという 12 。
総大将の蘆名義広は辛うじて戦場を離脱し、実家である常陸の佐竹氏のもとへ逃れた。これにより、鎌倉時代から続く奥州の名門・蘆名氏は事実上滅亡した。
戦略環境の激変
摺上原の戦いの勝利は、政宗に絶大な果実をもたらした。彼は蘆名氏の旧領である会津、大沼、河沼、耶麻の四郡に加え、安積郡の一部などを瞬く間に手中に収め、その所領は114万石に達したとも言われる 4 。これにより、伊達政宗は名実ともに南奥羽の覇者としての地位を確立した。
この南奥羽の地殻変動は、相馬氏の戦略環境を根底から覆した。これまで、相馬氏と伊達氏の間には、蘆名氏という巨大な緩衝地帯が存在した。しかし、その蘆名氏が消滅したことで、相馬氏は強大化した伊達氏と直接国境を接することを余儀なくされたのである 11 。西の蘆名、南の佐竹と連携して伊達を包囲するという従来の戦略は破綻し、相馬氏は単独で、圧倒的な国力を持つ敵と対峙するという、まさに存亡の危機に立たされたのであった。
第三章:国境炎上 ― 戦端開かる(1589年4月~5月)
摺上原の決戦へと至る過程で、伊達政宗は主戦場から遠く離れた東方の伊達・相馬国境においても、周到かつ冷徹な軍事行動を展開していた。これは、蘆名氏との決戦に集中するための牽制であり、同時に相馬氏の国力を削ぐための本格的な侵攻でもあった。ここからは、利用者様の要望に応じ、戦況をリアルタイムに近い形で追っていく。
前哨戦:飯土居小屋林の砦(5月1日)
政宗が蘆名領へ侵攻を開始する直前の5月1日、彼は相馬方の背後を攪乱し、その注意を国境地帯に引きつけるため、麾下の川俣城主・桜田元親らに命じ、相馬領の飯土居(現在の福島県飯舘村飯樋)にある小屋林の砦を攻撃させた。この動きを事前に察知していた相馬方は、砦に兵を入れ籠城。伊達勢の攻撃を防ぎ、両軍による小規模ながら激しい戦闘が繰り広げられた 6 。この戦いは、これから始まる本格的な国境戦役の序曲であった。
伊達軍主力の侵攻と相馬防衛線の崩壊(5月19日~20日)
政宗自身が金山城に入り、相馬氏に圧力をかける中、彼の命令を受けた別動隊が相馬領北部へと侵攻を開始した。この部隊の主将に任じられたのは、亘理城主・亘理重宗であった。彼の妻は相馬義胤の妹であり、義胤とは義兄弟の関係にあった。親族をあえて侵攻軍の将に据えるという政宗の非情な采配は、相馬家中に動揺を与え、降伏を促す心理的な効果を狙ったものとも考えられる。この亘理重宗率いる伊達軍の目標は、相馬氏の北方における二つの重要拠点、駒ヶ嶺城と新地城であった 6 。
駒ヶ嶺城の攻防(5月19日)
5月19日、伊達軍はまず駒ヶ嶺城に殺到した。この城は、伊達領との最前線に位置する相馬氏の防衛の要であった。城代を務める藤崎久長(治部丞)は、相馬一門衆の一人であり、家臣の村松薩摩や大浦雅楽らと共に城兵を鼓舞し、必死の防戦を試みた 10 。しかし、伊達軍の猛攻は凄まじく、衆寡敵せず、城はついに陥落した。藤崎久長は燃え盛る城から辛うじて脱出し、後方から救援に駆けつけていた相馬盛胤(義胤の父)の陣へと合流した 9 。
新地城の陥落(5月20日)
駒ヶ嶺城を攻略した翌日の5月20日、伊達軍はその勢いのまま、近隣の新地城(蓑首城)を包囲した。この攻撃に際し、城内から内通者が出たこともあり、相馬方の抵抗は長くは続かなかった 10 。城主の泉田甲斐は城を脱出して盛胤のもとへ逃れたが、城将であった杉目三河は脱出を潔しとせず、伊達勢に突撃を敢行し、城を枕に壮絶な討死を遂げた 10 。
戦略的意味
わずか二日間で駒ヶ嶺、新地の二城が相次いで失陥したことは、相馬氏にとって致命的な打撃であった。これにより、宇多郡北部に築かれていた対伊達防衛線は完全に崩壊。伊達氏は、相馬氏の本拠地である小高城や中村城を直接窺うことが可能な最前線基地を手に入れたのである。政宗はすぐさま占領地の支配体制を固め、駒ヶ嶺城には黒木宗元を、新地城には引き続き亘理重宗を配置し、対相馬戦線の拠点として防備を固めさせた 6 。相馬氏は、自らの喉元に冷たい刃を突きつけられた状態で、西から聞こえてくる蘆名氏滅亡という、さらに絶望的な報を待つことになった。
第四章:死闘の夏 ― 摺上原後の反撃と消耗(1589年6月~7月)
摺上原での勝利により南奥羽の覇者となった伊達政宗に対し、今や風前の灯火となった相馬氏は、しかし、その誇りを賭して乾坤一擲の反撃を試みる。この夏の戦いは、相馬氏の不屈の闘志と、それを力で捻じ伏せようとする伊達氏の圧倒的な国力が激突する、壮絶な消耗戦となった。
飯土居小屋林砦の奪還戦(6月18日)
6月5日に蘆名氏が滅亡したという報は、相馬領内にも衝撃となって伝わった。もはや伊達氏に対抗しうる勢力は奥羽から消え去り、降伏か滅亡かの二択を迫られる状況であった。しかし、相馬盛胤・義胤父子は、ここで戦うことを選択する。彼らの最初の目標は、5月1日に伊達方に占領されていた国境の要衝、飯土居小屋林の砦であった。
6月18日、相馬父子は軍を率いて出陣し、砦に猛攻を仕掛けた。守る伊達勢は鉄砲隊を巧みに運用し、激しく抵抗した。両軍による壮絶な白兵戦が繰り広げられ、この一日だけの戦闘で双方合わせて百人を超える戦死者が出たと記録されている 6 。この激戦の末、相馬軍はついに砦の奪還に成功した。この勝利は、戦略的には局地的な成功に過ぎなかったかもしれないが、蘆名氏滅亡後も相馬の戦意が全く衰えていないことを内外に示し、家臣団の士気を鼓舞する上で極めて重要な意味を持つものであった。
戦役のクライマックス:坂本犀ノ鼻の激戦(7月18日)
飯土居での勝利に勢いを得た相馬父子は、次なる目標として、5月に失陥した北方領土、すなわち新地城と駒ヶ嶺城の奪還を掲げた。これは、伊達氏の支配を覆すための、まさに総力を挙げた反攻作戦であった。
出陣と両軍の布陣
7月18日の深夜、相馬義胤は父・盛胤と共に、騎馬武者600余騎、雑兵を合わせて総勢5,000から6,000の軍勢を率い、本拠地の一つである中村城から密かに出陣した 6 。軍は夜陰に乗じて北上し、夜明け前には伊達領との境である坂本(現在の宮城県山元町)に到達した。相馬軍の侵攻を察知した伊達方は、坂元城主・亘理元安斎(亘理重宗の父)が主力となってこれを迎撃すべく出陣。両軍は、犀ノ鼻と呼ばれる地で対峙し、この戦役における最大規模の野戦の火蓋が切られた 6 。
【表2:坂本犀ノ鼻の戦いにおける両軍の編成(推定)】
軍団 |
総大将 |
主要武将 |
推定兵力 |
備考 |
相馬軍 |
相馬義胤, 相馬盛胤 |
青田常清(宿老) |
5,000~6,000 6 |
中村城から出陣した主力部隊。 |
伊達軍 |
亘理元安斎 |
亘理重宗 |
不明 |
坂元城・新地城の守備兵が中心。 |
合戦の推移
戦闘が開始されると、緒戦は雪辱に燃える相馬軍の勢いが勝った。相馬軍は伊達方の陣に猛然と攻めかかり、亘理勢を押し崩していった。この時、総大将である相馬義胤は、その勇猛さのあまり、自ら先陣に立って敵陣深くへと突撃を敢行した。しかし、その突出が仇となる。敵中で孤立しかけた義胤の姿を捉えた伊達方の将・亘理元安斎は、これを千載一遇の好機と判断。手勢を率いて義胤を取り囲み、一気に総大将を討ち取ろうと殺到した 10 。
義胤は絶体絶命の危機に陥った。この時、主君の窮地を救うべく、馬前で奮戦したのが宿老の青田常清(右衛門尉)であった。彼は自らが盾となり、押し寄せる伊達兵を食い止めている間に、義胤を包囲網から脱出させた。青田常清は、この壮絶な戦いの末、ついに力尽き、この地で討死を遂げた 10 。
結果と損害
宿老の一人を失うという大きな犠牲を払いながらも、義胤は辛うじて窮地を脱した。しかし、相馬軍は指揮系統に混乱が生じ、決定的な勝利を掴むことはできなかった。多大な損害を出した相馬軍は、これ以上の戦闘は困難と判断し、兵を引いた。この坂本犀ノ鼻の戦いは、相馬氏の意地と抵抗の激しさを示すものであったが、同時に、伊達方の国境防衛網の堅固さと、もはや局地的な勝利では覆しがたい両者の国力差を改めて浮き彫りにする結果となった。この戦いを最後に、相馬氏が独力で伊達氏に大規模な野戦を挑むことは、事実上不可能となったのである。
第五章:中央の裁定 ― 戦火の強制終了と奥州仕置
坂本犀ノ鼻での激戦の後、南奥羽における伊達政宗の覇業は最終段階に入った。もはや彼に抗する勢力は、風前の灯火となった相馬氏のみであった。しかし、戦いの決着は、奥羽の戦場ではなく、遥か上方の政治情勢によってもたらされることになる。
政宗の次なる一手と降伏勧告
坂本犀ノ鼻で相馬軍の反攻を退けた政宗は、周辺の平定を急いだ。10月には二階堂氏を滅ぼし、11月には石川昭光、そして長年の盟友であった岩城常隆までもが伊達氏に服属した 10 。南奥羽の抵抗勢力を完全に沈黙させた政宗は、いよいよ相馬領への総攻撃を計画する。
彼は武力による最終的な制圧と並行して、相馬家中の切り崩しを狙った調略も仕掛けた。政宗は相馬家の主だった家臣に密使を送り、内応を促した。さらに、隠居の身であった相馬盛胤のもとへ降伏勧告の使者を送り、穏便に事を収めるよう圧力をかけた 10 。
相馬氏の抵抗と覚悟
政宗の調略に対し、相馬家中は激しく揺れた。しかし、草野城代の岡田兵庫助胤景が政宗からの密使を捕らえて斬首するなど、主戦派は徹底抗戦の意志を明確にした 10 。当主・相馬義胤もまた、降伏を拒絶。もはやこれまでと玉砕を覚悟し、一族郎党と共に小高城に籠もり、最後の決戦に備えた 17 。相馬氏滅亡の時は、刻一刻と迫っていた。
Deus ex Machina(機械仕掛けの神)
まさに相馬氏が滅亡の瀬戸際に立たされたその時、奥羽の情勢を一変させる報がもたらされた。天正17年11月、豊臣秀吉が、惣無事令違反を繰り返す関東の北条氏直を討伐するため、全国の大名に対して小田原への参陣を命じたのである 2 。
この命令は、奥羽の覇権確立を目前にしていた政宗にとっても、決して無視できるものではなかった。摺上原の戦い自体が明白な惣無事令違反であり、すでに秀吉から厳しい咎めを受けていた政宗は、これ以上中央の機嫌を損ねるわけにはいかなかった 1 。彼は断腸の思いで相馬への総攻撃を断念し、小田原へ向かう準備を始めざるを得なくなった 17 。相馬氏にとっては、まさに天佑神助、起死回生の好機であった。
義胤の政治的活路
この千載一遇の好機を、相馬義胤は見逃さなかった。彼は、もはや軍事力で伊達氏に対抗することは不可能であると悟り、戦略の軸を「武力による抵抗」から「外交による生き残り」へと完全に転換した。天正18年(1590年)、政宗が小田原へ向かい領内が手薄になった隙を突いて、駒ヶ嶺城を攻撃するなど軍事行動を起こし、伊達氏への抵抗の意志を示し続けた 6 。しかし、彼の真の狙いは、自らもまた秀吉のもとへ駆けつけることにあった。
義胤は小田原に参陣し、秀吉に直接謁見して服属の意を示した。これにより、彼は相馬氏が豊臣政権に恭順な大名であることを中央に認めさせることに成功し、結果として本領安堵の朱印状を勝ち取ったのである 17 。
奥州仕置と新たな秩序
小田原征伐後、秀吉は自ら軍を率いて奥羽へ乗り込み、戦後処理、すなわち「奥州仕置」を実施した。惣無事令に違反して蘆名領を併合した政宗は、その罪を問われ、会津領などを没収されるという厳しい処分を受け、所領は大幅に削減された 18 。一方、いち早く秀吉に服属した相馬義胤は、その所領を安堵され、豊臣政権下の大名として存続を許された。
こうして、半世紀以上にわたって続いた伊達・相馬両家の血で血を洗う抗争は、どちらかの武力による決着ではなく、中央権力という、より上位の存在の裁定によって強制的に終結させられた。この結末は、軍事的に圧倒的優位にあった政宗が政治的に敗北し、軍事的に劣勢だった義胤が政治的に勝利するという、皮肉な結果をもたらした。それは、戦国乱世の価値観であった「武」の時代の終わりと、新たな統一政権下での「政」の時代の到来を、何よりも雄弁に物語っていた。
終章:「小高城の戦い」が残したもの
天正十七年国境戦役は、単なる一地方の合戦に留まらず、戦国時代の終焉と近世の幕開けを象徴する多くの歴史的意義を内包している。伊達政宗の野望と相馬義胤の抵抗が織りなしたこの一連の戦いは、その後の奥羽の歴史、そして両家の関係性に深い刻印を残した。
天正十七年国境戦役の歴史的意義
本報告書で詳述した一連の戦闘は、戦国時代末期における奥羽の地域的統一戦争の最終局面であった。それは、伊達政宗という傑出した個人の野望が、豊臣秀吉による中央集権化という、より大きな歴史の潮流に飲み込まれていく過程を克明に示している。もし秀吉の介入がなければ、相馬氏は滅亡し、政宗は南奥羽全域を支配する巨大な戦国大名として君臨した可能性が高い。しかし、歴史はそうはならなかった。この戦役の結末は、もはや一個人の武勇や戦略だけでは天下の趨勢を左右できない時代の到来を告げるものであった。
近世への遺産
この戦役で味わった苦い経験は、その後の相馬氏の政策に大きな影響を与えた。特に、本拠地であった小高城が、北からの伊達氏の圧力に対して防衛上不利であることが露呈した 27 。この教訓から、関ヶ原の戦いを経て近世大名として体制を固めた後、慶長16年(1611年)、相馬氏は本城を小高から、より北に位置し、対伊達防衛に適した中村城へと移転する。この中村への築城と移転は、半世紀以上にわたる伊達氏との抗争を意識したものであり、天正17年の記憶が、江戸時代を通じて相馬藩の基本的な戦略方針を規定し続けたことを示している 27 。
終わらぬ宿縁
江戸時代に入り、伊達氏は仙台藩62万石、相馬氏は中村藩6万石の大名として、隣接することになった。両家の対立は、もはや武力衝突という形をとることはなくなったが、水面下での緊張関係は続いた。しかし、その関係は単なる敵愾心だけではなかった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦直前、徳川家康への味方を表明して上杉領を突っ切り、大坂から自領へ帰還しようとしていた伊達政宗が、相馬領の通過を願い出た。家臣団からは「仇敵政宗を討つ好機」との声が上がる中、義胤は「窮地の武士を騙し討ちにするは武門の誉れにあらず」としてこれを許可し、政宗を丁重にもてなしたという逸話が残っている 15 。これは、長年死闘を繰り広げた相手だからこそ通じ合う、武門としての矜持や複雑な感情が両者の間に存在したことを示唆している。
義胤の墓標
寛永12年(1635年)、88歳の天寿を全うした相馬義胤がこの世を去った。その遺骸は、遺言に従い、甲冑を身に着け、北、すなわち仙台藩・伊達領の方角を向いて埋葬されたと伝えられている 27 。生涯をかけて伊達政宗という巨大な存在と対峙し、一族の独立を守り抜いた不屈の武将の執念。その墓標は、伊達への対抗意識こそが近世中村藩のアイデンティティの根幹に深く刻み込まれていたことを、静かに、そして雄弁に物語っている。天正17年の戦火は、こうして一人の武将の魂の中に、そして一つの藩の記憶の中に、永遠に生き続けることとなったのである。
引用文献
- 小田原征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%BE%81%E4%BC%90
- 「小田原征伐(1590年)」天下統一への総仕上げ!難攻不落の小田原城、大攻囲戦の顛末 https://sengoku-his.com/999
- 相馬盛胤・義胤 伊達政宗の前に立ちはだかった親子 宿敵・伊達氏との死闘は数知れず! https://www.youtube.com/watch?v=Xpco8Prvems
- 伊達政宗の家臣団/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/91118/
- 総 年 表 - 歴史の目的をめぐって https://rekimoku.xsrv.jp/9-sounenpho2.php?page=293
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- 小高から中村へ −戦国武将相馬義胤の転換点 - 東北学院大学 https://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/bk2011/pdf/bk2011no09_07.pdf