屋島城の戦い(1585)
天正十三年(1585年)四国征伐における讃岐侵攻:屋島上陸作戦と喜岡城の戦いの詳解
第一章:序論 ― 天下統一への道程と四国の「鬼若子」
天正十年(1582年)6月2日、京都本能寺における明智光秀の謀反は、日本の歴史を大きく転換させる分水嶺となった。天下統一を目前にしていた織田信長が横死し、織田政権が事実上崩壊したことで、日本各地の権力構造は一気に流動化する 1 。この未曾有の政治的空白を突いて、驚異的な速度で権力の中枢へと駆け上がったのが、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)であった 2 。備中高松城の攻略から取って返した「中国大返し」によって山崎の戦いで光秀を討ち、翌年の賤ヶ岳の戦いでは織田家の宿老筆頭であった柴田勝家を破る 2 。さらに天正十二年(1584年)には、織田信雄・徳川家康連合軍と小牧・長久手の戦いで対峙し、軍事的には決定的勝利を得られなかったものの、巧みな政治交渉によって和睦に持ち込み、信長の後継者としての地位を不動のものとした 4 。秀吉の天下統一事業は、ここに新たな段階へと移行する。
時を同じくして、四国においては一人の戦国大名がその勢威を頂点にまで高めていた。土佐国の長宗我部元親である。幼少期はその色白で華奢な容姿から「姫若子(ひめわこ)」と揶揄されたが、永禄三年(1560年)の長浜の戦いにおける初陣で自ら槍を振るって武功を挙げると、その勇猛さから一転して「鬼若子(おにわこ)」と称されるようになった 5 。父・国親の急逝により家督を継ぐと、半農半兵の戦闘集団である「一領具足」を巧みに率い、天正三年(1575年)の四万十川の戦いで土佐一条氏を破り、遂に土佐一国を統一する 5 。その野心は土佐に留まらず、阿波、讃岐、伊予へと向けられた。破竹の勢いで周辺勢力を切り従え、天正十三年(1585年)春には、伊予の河野氏を降伏させ、四国全土のほぼ完全な平定を成し遂げていた 5 。
元親と中央政権との関係は、複雑な変遷を辿る。当初、元親は明智光秀の家老・斎藤利三との姻戚関係を通じて織田信長と同盟を結び、四国における三好氏勢力と対峙していた 5 。しかし、元親の際限なき領土拡大志向は、やがて信長の「天下布武」と衝突する。信長は元親に対し、その領土を限定するよう要求したが元親はこれを拒否。関係は急速に悪化し、信長は三男・信孝を総大将とする四国征伐軍を編成するに至った 14 。この遠征軍は、本能寺の変によって実行されることなく解体されたが、両者の対立は決定的なものとなっていた。
信長の死後、元親は中央の混乱を好機と捉え、四国統一を加速させる一方、秀吉と敵対する柴田勝家や徳川家康と連携する姿勢を見せた 1 。特に小牧・長久手の戦いにおいては、家康の呼びかけに呼応し、秀吉の背後を脅かす存在として明確に敵対した 4 。秀吉にとって、天下統一事業を完遂するためには、この独立志向の強い四国の覇者を屈服させる必要があった。天正十三年三月、秀吉は四国侵攻への布石として、元親の有力な同盟者であった紀伊国の雑賀衆・根来衆を征伐(紀州征伐) 4 。これにより元親は軍事的に完全に孤立し、秀吉による四国への圧力は頂点に達した。
この対立の構造は、単なる領土問題に留まるものではなかった。それは、戦国時代を通じて育まれた「地方分権的秩序」を体現する長宗我部元親と、強力な中央集権体制の確立を目指す羽柴秀吉の「中央集権的秩序」との、いわば時代の方向性を賭けた必然的な衝突であった。信長が元親を「鳥無き島の蝙蝠(こうもり)」と評したとされる逸話があるが 5 、これは中央から見た地方勢力への一種の侮りを含んでいる。しかし、秀吉が後に10万を超える空前の大軍を動員したという事実そのものが、彼が元親を決して侮りがたい存在、天下統一における重大な障害と認識していたことの何よりの証左であった。
第二章:天正十三年、対立の激化 ― 秀吉の四国征伐計画
羽柴秀吉と長宗我部元親の対立が避けられないものとなる中、最後の外交交渉が試みられたが、両者の主張は平行線を辿るのみであった。秀吉は、元親に対して讃岐・伊予の両国を即時返上し、上洛して臣従することを要求した 1 。これは、元親が長年にわたる戦いで築き上げた四国統一という偉業を事実上、白紙に戻すに等しい、極めて高圧的な要求であった。
これに対し元親は、多くの家臣の血と犠牲の上に成り立った領土を安易に手放すことはできないと強く反発。「伊予一国のみの返上」を対案として提示したが、秀吉はこれを一蹴した 4 。この交渉決裂の背景には、秀吉に臣従していた毛利輝元が、かつて河野氏との関係から伊予国の領有を望んでいたことも影響したとされる 14 。もはや武力による解決以外に道は残されていなかった。
交渉の決裂を受け、秀吉は四国全土を制圧すべく、大規模な軍事行動の準備に着手した。その動員力は、元親の想像を遥かに超えるものであった。総兵力は10万を超え、当時としては空前の規模であった 4 。この圧倒的な兵力は、秀吉が進めてきた兵農分離政策と、畿内・西国を掌握したことによる強大な経済力の賜物であり、長宗我部氏との国力差を雄弁に物語るものであった。秀吉にとって、この大規模な渡海作戦は初めての経験であり、自身の天下統一事業の遂行能力を内外に示す試金石でもあった 14 。
秀吉が立案した作戦は、四国の三方向から同時に侵攻するという、壮大かつ緻密なものであった。
- 阿波方面軍(主攻) :総大将に弟の羽柴秀長、副将に甥の羽柴秀次(後の豊臣秀次)を任じ、約6万の兵力を与えた 4 。これは全軍の半数以上を占める主力部隊であり、淡路島を経由して阿波に上陸し、元親の本陣が置かれた白地城を直接衝くことを目的としていた。
- 讃岐方面軍 :備前の宇喜多秀家を総大将とし、軍監として知将・黒田孝高(官兵衛)が付けられた。これに蜂須賀正勝・家政父子、そして淡路を拠点とし讃岐の地理に明るい仙石秀久らが加わり、その兵力は約2万3千に及んだ 4 。この部隊は播磨から出航して屋島に上陸し、讃岐を制圧した後、阿波の主力軍と合流する手筈であった。
- 伊予方面軍 :中国地方の雄である毛利輝元を総大将とし、その叔父である小早川隆景と吉川元長が約3万の兵を率いて実働部隊を指揮した 4 。この部隊は伊予に上陸し、旧河野氏領を制圧し、元親の背後を脅かす役割を担っていた。
この三方面同時侵攻作戦は、長宗我部軍の兵力を強制的に分散させ、どの戦線においても豊臣軍が数的優位を確保することを可能にする、極めて合理的な計画であった。以下の表は、両軍の兵力を比較したものである。この圧倒的な戦力差は、戦いの趨勢が始まる前から、既に決していたことを示唆している。
【表1】四国征伐 両軍兵力比較
勢力 |
方面 |
総兵力(推定) |
主要指揮官 |
豊臣軍 |
総計 |
約11万3千 |
羽柴秀吉(総指揮) |
|
阿波方面 |
約6万 |
羽柴秀長、羽柴秀次 |
|
讃岐方面 |
約2万3千 |
宇喜多秀家、黒田孝高、仙石秀久、蜂須賀正勝 |
|
伊予方面 |
約3万 |
毛利輝元、小早川隆景、吉川元長 |
長宗我部軍 |
総計 |
約4万 |
長宗我部元親 |
|
阿波方面 |
(主力) |
(元親直属、谷忠澄など) |
|
讃岐方面 |
(少数) |
高松頼邑、戸波親武、香西佳清など |
|
伊予方面 |
(少数) |
金子元宅など |
第三章:鉄壁の布陣か、脆弱な長大戦線か ― 長宗我部元親の防衛戦略
圧倒的な兵力を誇る豊臣軍の侵攻を前に、長宗我部元親もまた、持てる国力を総動員して防衛体制を構築した。天正十三年(1585年)5月、元親は四国の地理的中心に位置し、阿波・讃岐・伊予の三国への連絡が容易な阿波国西端の白地城に本陣を移した 1 。この城を司令塔として、総勢4万と号する全軍の指揮を執ることを決定したのである 4 。白地城の選定は、豊臣軍の主力が淡路島を経由して阿波に上陸するという、元親の的確な予測に基づいた合理的な判断であった 1 。
元親の防衛構想の核心は、阿波方面に戦力を集中させ、山城が連なる天険の地形を利用して豊臣軍の主力を食い止め、持久戦に持ち込むことにあった。そのために、阿波国内の主要な城郭には、信頼の厚い重臣たちが配置された。阿波の玄関口である木津城には東条関兵衛、そして防衛線の中核を成す一宮城には谷忠澄といった猛将が入り、何重もの防衛ラインを形成した 12 。
一方で、他の二方面の防衛は、阿波に比べ手薄にならざるを得なかった。伊予方面では、新たに長宗我部配下となった金子元宅らの在地国人衆が防衛の主体となった 4 。そして讃岐方面は、主力部隊が阿波に割かれているため、兵力はさらに寡少であった。しかし元親は、讃岐が完全に無防備であったわけではない。豊臣軍の進撃を遅滞させ、時間を稼ぐための拠点として、内陸部に新たに植田城を築城し、一門衆の中でも武勇に優れた従弟の戸波親武を城将として配置した 1 。これに加え、沿岸部では喜岡城の高松頼邑や香西城の香西佳清らが、それぞれの持ち場で豊臣軍を迎え撃つ手筈となっていた。
元親の防衛戦略は、一点集中の思想に基づいていた。阿波の堅固な山城群で敵主力を拘束し、その間に讃岐や伊予の部隊が側面を突く、あるいはゲリラ的な戦術で敵の補給線を断つといった反撃を意図していた可能性が考えられる。しかし、この戦略には構造的な欠陥が内包されていた。それは、秀吉が元親の予測を上回る三方面同時侵攻作戦を実行したことである。総兵力で圧倒的に劣る長宗我部軍は、この多方面作戦に対応するために、ただでさえ少ない兵力を三方に分散させざるを得なくなった 4 。その結果、最も重点的に防備を固めたはずの阿波方面ですら、局所的には豊臣軍が圧倒的な数的優位を保つことになり、他の戦線は言うまでもなく、極めて脆弱な状態に置かれた。
四国という広大な海岸線を持つ地形は、防衛側にとっては守るべき箇所が多すぎるという致命的な弱点となる。秀吉は、その弱点を的確に突き、上陸地点の選択権を完全に掌握することで、戦いの主導権を握り続けた。元親の防衛戦略は、秀吉の壮大かつ柔軟な作戦計画の前に、戦端が開かれる前から既に破綻の兆しを見せていたのである。これは、大陸的な規模の兵力を動員できるようになった中央政権の新しい戦争の形態に、地方の雄が対応しきれなかった典型例と言えるだろう。
第四章:讃岐侵攻、その第一歩 ― 屋島上陸作戦のリアルタイム詳解
秀吉の四国征伐において、讃岐方面への侵攻を担ったのは、宇喜多秀家を総大将とする約2万3千の軍勢であった 4 。若年の秀家が名目上の総大将ではあったが、実質的な作戦指導は、秀吉が最も信頼を置く軍師、黒田孝高(官兵衛)が担っていたと考えられる 14 。これに、淡路国洲本城主として四国の情勢、特に讃岐の地理に精通していた仙石秀久が加わった 25 。仙石秀久は天正十一年(1583年)に十河存保の救援のため讃岐に渡海し、喜岡城を攻めた経験があり、案内役としても実戦部隊としても重要な役割を期待されていた 20 。この部隊に課せられた任務は、讃岐沿岸部を迅速に制圧して四国への確固たる橋頭堡を築き、長宗我部軍の注意を主戦場の阿波から引きつけ、最終的には阿波の主力軍に合流して元親の本隊を挟撃することにあった。
彼らが上陸地点として選んだのが、讃岐国東部の屋島であった。この選択には、地理的および歴史的な深い意味合いがあった。当時の屋島は、江戸時代の干拓によって陸続きになる以前であり、文字通り海に浮かぶ「島」であった 28 。周囲を切り立った断崖に囲まれたその地形は、天然の要害を成しており、少数の兵でも防衛しやすく、上陸後の拠点を確保するには最適な場所であった 30 。さらに、屋島は源平合戦における「屋島の戦い」の古戦場として全国にその名を知られていた 28 。この歴史的な地に上陸することは、豊臣軍の兵士たちの士気を高揚させると同時に、長宗我部方に対して天下人たる秀吉の軍威を示すという、象徴的な意味合いも含まれていた。
留意すべきは、この天正十三年の時点で「屋島城」という名の城郭が戦国大名の拠点として機能していたわけではないという点である。しかし、時代を遡れば、飛鳥時代の天智天皇六年(667年)に、唐・新羅連合軍の侵攻に備えて築かれた古代朝鮮式山城「屋嶋城(やしまのき)」がこの地に存在した記録が『日本書紀』に見える 31 。古来より瀬戸内海の海上交通の要衝として、また軍事的な拠点として重要視されてきた歴史的背景が、後世にこの一連の軍事行動を「屋島城の戦い」という呼称で記憶させる一因となった可能性は高い。
【時系列記述】上陸作戦の展開
- 天正十三年(1585年)6月 :宇喜多秀家、黒田孝高、仙石秀久らが率いる讃岐方面軍約2万3千は、播磨国の港から大小の兵船に分乗し、瀬戸内海を東へと進んだ。
- 6月中旬(推定) :船団は讃岐沖に到達し、屋島の東岸、あるいは南岸から上陸を開始した。長宗我部方は主力を阿波に集中させていたため、この上陸に対して大規模な組織的抵抗は行われなかったと見られる。豊臣軍は速やかに屋島全域を確保し、四国侵攻の橋頭堡を築くことに成功した。
- 上陸直後 :橋頭堡を確保した軍勢は、間髪入れずに周辺地域の制圧へと乗り出した。屋島の対岸に位置する牟礼城などを攻略し、高松(現在の高松市中心部とは異なる、喜岡城周辺の古高松地域)から牟礼にかけて広範囲に布陣した 4 。これにより、豊臣軍は内陸部への進撃路を確保し、次の作戦目標である喜岡城への圧力を強めていった。
この一連の動きは、利用者様が関心を寄せる「屋島城の戦い」の歴史的実態である。それは大規模な攻城戦ではなく、秀吉の壮大な四国征伐計画の第一歩として実行された、極めて迅速かつ効果的な上陸作戦であった。この成功により、讃岐における戦いの主導権は完全に豊臣軍の手に渡り、主戦場は南方の喜岡城へと移っていくことになる。
第五章:主戦場は南へ ― 喜岡城、二百の兵の壮絶なる抵抗と玉砕
屋島に確固たる橋頭堡を築いた豊臣軍の次なる目標は、南方に位置する長宗我部方の拠点、喜岡城であった。この城は、別名を「高松城」とも称され、後に生駒氏が築城する近世高松城(玉藻城)と区別するため「古高松」という地名の由来ともなった、讃岐東部における重要な城郭であった 34 。
城主は高松左馬助頼邑(たかまつ さまのすけ よりむら)。彼は讃岐の有力国人である香西氏に属していたが、主家が長宗我部元親に降伏したことに伴い、元親の配下としてこの城を守っていた 38 。喜岡城は決して脆弱な城ではなく、天正十一年(1583年)には、仙石秀久が率いる羽柴軍の攻撃を一度撃退した実績を持つ堅城であった 20 。しかし、今まさに城に迫りつつある敵は、かつての小規模な派遣軍とは比較にならない、2万3千という未曾有の大軍であった。これに対する喜岡城の守備兵力は、長宗我部からの援兵を合わせても、わずか200名余りに過ぎなかった 4 。その兵力差は実に100倍以上であり、籠城する将兵たちの運命は、戦いが始まる前から既に決していたと言っても過言ではなかった。
【時系列記述】攻城戦のリアルタイム経過
屋島に上陸後、周辺を制圧した宇喜多・黒田軍は、ただちに軍を南進させ、喜岡城へと向かった 4 。やがて、豊臣軍の無数の旗指物が地平を埋め尽くし、喜岡城は瞬く間に大軍によって完全に包囲された。
攻城戦の指揮を執った黒田孝高は、力攻めによる味方の損害を避けるため、まず城の防御機能を無力化する作戦を選択した。彼は軍勢に命じ、近隣の山から大量の木々を切り出させ、それを城の防御の要である堀へと次々に投げ込ませた 4 。これは、敵の意表を突くと同時に、圧倒的な人的資源を持つ大軍だからこそ可能な、合理的かつ迅速な戦術であった。城内から矢や鉄砲による抵抗があったであろうが、大軍の前では焼け石に水であり、堀は刻一刻と埋められていった。
防御の要である堀がその機能を失った後、豊臣軍は鬨の声を上げて総攻撃を開始した。城兵200余名は、絶望的な状況下で最後の抵抗を試みた。城主・高松頼邑をはじめ、重臣の唐渡弾正、片山志摩らが先頭に立ち、城門や城壁で壮絶な白兵戦が繰り広げられたと想像される。しかし、100倍を超える兵力差の前では、個々の武勇も戦術も意味をなさなかった。豊臣軍の兵士たちは、埋められた堀を越えて怒涛のごとく城内へとなだれ込み、抵抗する城兵を次々と討ち取っていった。
奮戦も空しく、喜岡城はひとたまりもなく落城。城主・高松頼邑以下、城を守った約200名の将兵は、一人残らず討ち死にした 4 。この壮絶な玉砕戦の記憶は、現在、城跡に建てられた喜岡寺の境内に残る三将墓(高松頼邑、唐渡弾正、片山志摩の墓)によって、後世に伝えられている 36 。
この讃岐方面における一連の軍事行動を時系列で整理すると、以下のようになる。
【表2】讃岐方面軍の行動時系列(天正13年6月~)
時期(天正13年) |
出来事 |
関連情報・考察 |
6月上旬~中旬 |
宇喜多秀家、黒田孝高ら讃岐方面軍(約2万3千)が播磨を出航 4 。 |
大規模な渡海作戦であり、秀吉軍の兵站能力の高さを示す。 |
6月中旬 |
屋島に上陸。橋頭堡を確保し、牟礼城などを制圧 4 。 |
長宗我部方の抵抗は軽微。讃岐東部の防衛が手薄であったことを裏付ける。 |
6月中旬~下旬 |
軍を南に進め、喜岡城を包囲 4 。 |
迅速な進軍であり、作戦計画が順調に進んでいたことが窺える。 |
6月下旬(推定) |
黒田孝高の指揮の下、堀の埋め立てと総攻撃により喜岡城は落城。城主・高松頼邑以下約200名が玉砕 4 。 |
圧倒的兵力差による殲滅戦。周辺勢力への見せしめの意味合いもあった。 |
喜岡城落城直後 |
豊臣軍の戦力に畏怖した香西城主・香西佳清が戦わずして降伏 4 。 |
喜岡城の玉砕が、敵の戦意を挫く上で絶大な心理的効果をもたらした。 |
7月以降 |
黒田孝高の判断により、堅城・植田城を迂回。阿波の主力軍との合流を目指し、軍を転進 14 。 |
戦術的勝利より戦略的目標を優先する、黒田孝高の卓越した判断。 |
第六章:讃岐平定と戦略的転進 ― 黒田官兵衛の慧眼
喜岡城における守備隊の壮絶な玉砕は、讃岐東部の長宗我部方勢力に計り知れない衝撃を与えた。わずか200の兵が、2万を超える大軍の前に瞬く間に殲滅されたという事実は、豊臣軍の圧倒的な軍事力と、抵抗の無意味さを何よりも雄弁に物語っていた。この報に接した香西城主・香西佳清は、戦わずして降伏を決断した 4 。これにより、讃岐の東部から中部にかけての沿岸地域は、ほとんど血を流すことなく、速やかに豊臣方の支配下に入った。
しかし、讃岐全土が平定されたわけではなかった。長宗我部元親は、讃岐防衛の最後の切り札として、内陸の要害に植田城を新たに築き、一門の中でも屈指の勇将として知られた従弟の戸波親武に堅守させていたのである 1 。元親の描いた防衛構想は、豊臣軍がこの堅固な植田城の攻略に手間取り、兵力を消耗している隙を狙い、阿波から出撃した別動隊が側面や背後から奇襲をかけるという、一種の迎撃殲滅作戦であったと推測される 14 。植田城は、単なる防衛拠点ではなく、敵を誘い込むための「罠」としての役割を期待されていた。
豊臣軍の進路上に立ちはだかる植田城。戦国時代の常道に従えば、次なる攻略目標はこの城となるはずであった。しかし、軍監として軍の進退を実質的に差配していた黒田孝高は、異なる判断を下す。彼は、植田城が容易ならざる堅城であること、そして何よりも、それが元親の仕掛けた巧妙な罠である可能性を鋭く見抜いていた 14 。
孝高の思考は、目先の城を一つ落とすという戦術的な勝利には向いていなかった。彼が見据えていたのは、四国征伐全体における戦略的な最終目標、すなわち「阿波の主力軍と速やかに合流し、元親の本隊を撃破する」という一点であった。植田城に固執し、ここで時間と兵力を浪費することは、敵将・元親の思う壺であり、作戦全体の遅滞を招きかねない。
この洞察に基づき、孝高は驚くべき決断を下す。植田城を攻めることなく、これを完全に無視して迂回し、軍の進路を阿波へと転じることを強く主張し、実行に移したのである 14 。この決断は、敵の意図を正確に読み解き、自軍の最終目標を見失わない、高度な戦略眼がなければ到底不可能なものであった。
黒田孝高のこの一手は、長宗我部元親が讃岐で描いた防衛計画を根底から覆した。迎撃の要として配置された戸波親武と植田城の精兵は、戦う機会すら与えられず、完全に遊兵と化してしまった。豊臣軍は、最小限の損害と時間で讃岐戦線を事実上突破し、主戦場である阿波へとその強大な戦力を差し向けることに成功した。讃岐方面作戦の成功は、単なる兵力差の結果だけではなく、指揮官である黒田孝高の卓越した戦略判断に負うところが極めて大きかった。彼の一手は、四国征伐全体の帰趨を決定づける上で、極めて重要な役割を果たしたのである。
第七章:終焉 ― 一宮城の陥落と長宗我部氏の降伏
黒田孝高の戦略的判断により讃岐戦線を突破した宇喜多軍が阿波へと迫る一方、伊予方面でも小早川隆景率いる毛利軍が金子元宅らを破り、長宗我部方の防衛線を次々と攻略していた 4 。三方から迫る豊臣軍の圧力が高まる中、四国征伐の勝敗を決する主戦場は、元親自身が本陣を置く阿波へと絞られていった。
阿波では、羽柴秀長・秀次が率いる6万の主力軍に対し、元親配下の将兵が各地の山城に拠って必死の抵抗を続けていた。中でも、阿波における防衛線の最重要拠点とされた一宮城では、城将・谷忠澄らが鬼気迫る奮戦を見せ、豊臣軍の数万に及ぶ猛攻を20日近くにわたって凌ぎ続けた 12 。
しかし、その善戦も限界に達する。圧倒的な物量と兵力を背景にした豊臣軍の波状攻撃の前に、城兵は疲弊し、ついに一宮城は陥落した 12 。この一宮城での攻防戦で、豊臣軍の計り知れない軍事力を身をもって体験した谷忠澄は、これ以上の抵抗は土佐の兵と民を無駄死にさせるだけであると確信する。彼は白地城の元親のもとへと急ぎ、降伏を進言した 12 。
『南海治乱記』などの軍記物によれば、忠澄は元親に対し、豊臣軍の武具や馬具が光り輝き、兵糧も潤沢で士気も極めて高いのに対し、長年の戦乱で疲弊した長宗我部軍の装備はみすぼらしく、兵士たちの士気も尽きかけているという惨状を具体的に述べ、継戦がいかに無謀であるかを涙ながらに訴えたと伝えられる 1 。
報告を受けた元親は、当初、忠澄の弱腰に激怒し、「未練者」「一宮城に帰って切腹せよ」と罵ったという 12 。四国統一を目前にしながら、天下人の巨大な力の前に屈することを、元親の誇りが許さなかったのである。しかし、連日もたらされる各戦線からの敗報と、谷忠澄をはじめとする重臣たちの必死の説得の前に、頑なだった元親もついに現実を受け入れ、降伏を決意した 12 。
天正十三年(1585年)7月25日、長宗我部氏と羽柴秀長の間で講和が成立した 11 。その条件は、元親に土佐一国のみの領有を安堵する代わりに、苦心の末に手に入れた阿波・讃岐・伊予の三国を全て没収するという、開戦前の秀吉の要求よりもさらに厳しいものであった 1 。ここに、長宗我部元親による四国統一の夢は潰え、四国は完全に秀吉の支配下に組み込まれることとなった。
第八章:結論 ― 戦後の四国と「屋島の戦い」の歴史的意義
長宗我部元親の降伏により、天正十三年(1585年)6月から始まった秀吉の四国征伐は、わずか2ヶ月余りで終結した。戦後処理は速やかに行われ、四国の領土は秀吉配下の諸将に再分配された。講和の条件通り、阿波国は蜂須賀家政、伊予国は小早川隆景、そして讃岐国は仙石秀久と、長宗我部氏に追われていた十河存保に与えられた 11 。これにより、四国は完全に豊臣政権の統治体制下に組み込まれ、長宗我部氏は土佐一国を領する一外様大名として、その存続を許されるに留まった。
この四国攻めにおいて、讃岐平定の功労者として一国を与えられた仙石秀久は、秀吉子飼いの武将としてその栄光を頂点に極めた 3 。しかし、その栄華は長くは続かなかった。翌天正十四年(1586年)、秀吉の九州征伐が始まると、秀久は四国勢を率いる軍監として豊後国へ渡る。だが、戸次川の戦いにおいて、彼は敵である島津軍の力を侮り、独断専行で突出するという致命的な判断ミスを犯す。結果、豊臣軍は壊滅的な大敗を喫し、この戦いで長宗我部元親の最愛の嫡男・信親と、旧領回復を目前にしていた十河存保が討死するという大惨事を引き起こした 6 。この軍律違反と惨敗に秀吉は激怒し、秀久は讃岐国を没収(改易)され、高野山へ追放されるという、栄光の頂点からの転落を味わうこととなった 27 。
「屋島城の戦い」と総称される屋島上陸作戦とそれに続く一連の讃岐侵攻は、豊臣秀吉の天下統一事業における極めて重要な一里塚であった。この戦いを通じて、西日本に一大独立勢力を築いていた長宗我部氏を屈服させ、瀬戸内海の制海権を完全に掌握したことは、後の九州征伐、そして小田原征伐へと続く全国統一への道筋を確固たるものにした。
本合戦は、豊臣政権の圧倒的な軍事力、すなわち10万を超える兵力を動員する能力と、複数の方面軍を緻密に連携させる高度な作戦遂行能力を天下に示威する絶好の機会となった。それはまた、戦争の様相そのものが大きく変質したことを示す象徴的な出来事でもあった。長宗我部元親の戦いが、一領具足に代表される地域密着型の兵力と個々の武将の武勇に依存する、旧来の戦国時代の様式であったのに対し、秀吉の戦いは、兵農分離による専門的な兵士集団、周到な兵站計画、そして複数の軍団を連携させる大戦略に基づいた、いわば「近代的」な戦争の萌芽であった。喜岡城の戦いにおける100倍以上の兵力差による殲滅や、黒田孝高による合理的な戦略的迂回作戦は、この新しい戦争の形を明確に示している。
結論として、天正十三年の四国征伐は、単なる領土争奪戦ではなく、戦国時代を通じて続いた地方勢力の自立の時代が終わりを告げ、日本の歴史が強力な中央集権体制へと大きく舵を切る、決定的な転換点の一つであったと言える。個人の武勇が戦局を左右した時代は過ぎ去り、国力と組織力、そして合理的な戦略が全てを決定する新しい時代の幕開けを告げる戦いであった。
引用文献
- 四国攻め - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E6%94%BB%E3%82%81
- 豊臣秀吉 http://yamatoji.nara-kankou.or.jp/artifact/0000000083
- 秀吉と秀忠が仙石秀久に求めた異なる「役割」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/35351
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- 天正13年(1585)8月6日は長宗我部元親が羽柴秀長ら秀吉軍に降り四国が平定された日。元親は伊予を除き四国をほぼ制圧していたが秀吉軍に三方より攻められ講和が成立。元親は阿波と讃岐を - note https://note.com/ryobeokada/n/n7b7dd86cfb2c
- 四国征伐(シコクセイバツ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E5%BE%81%E4%BC%90-73053
- 四国征伐 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/ShikokuSeibatsu.html
- 仙石秀久の武将年表/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/65365/
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