最終更新日 2025-08-31

山吹城の戦い(1565)

永禄八年の攻防:石見銀山と山吹城を巡る毛利・尼子最終戦争の実相

序章:永禄八年(1565年)、山吹城に戦火はあったのか

日本の戦国時代史において、永禄八年(1565年)の「山吹城の戦い」という名の特定の合戦は、信頼に足る同時代の史料には記録されていない。しかし、この事実は、石見国(現在の島根県)の要衝・山吹城が静寂に包まれていたことを意味するものではない。むしろ、この年は、剣戟の交わらない「見えざる戦い」が最も熾烈を極めた時期であり、その勝敗が中国地方の覇権を決定づけた、極めて重要な転換点であった。

本報告書は、利用者より提示された「山吹城の戦い(1565)」という問いを、より本質的な「永禄八年という時間軸における、石見銀山・山吹城を巡る毛利・尼子両陣営の戦略的状況全体」と再定義する。そして、尼子氏の本拠・月山富田城を巡る最終決戦の裏側で、山吹城とその下に眠る銀が、いかにして尼子氏の息の根を止める決定的な役割を果たしたかを解明するものである。

結論を先に述べれば、永禄八年における山吹城の真の「戦い」とは、物理的な攻防戦ではなく、経済と兵站を巡る冷徹な消耗戦であった。毛利氏が完全に掌握した石見銀山を後背地とする山吹城は、尽きることのない財源と物資を前線に送り続ける巨大な心臓部として機能した。対する尼子氏は、その経済的動脈を断たれ、月山富田城という籠の中でゆっくりと死を待つしかなかった。本稿は、この静かで、しかし残酷な経済戦争の実態を、時系列に沿って克明に描き出すことを目的とする。

第一部:争奪の坩堝 ― 石見銀山と山吹城の戦略的価値

1-1. 銀が紡ぐ富と戦:石見銀山の経済的インパクト

戦国時代の合戦は、兵の動員、兵糧の確保、そして鉄砲や玉薬といった最新兵器の調達など、あらゆる局面で莫大な資金を必要とした 1 。その意味で、石見銀山は単なる鉱山ではなく、戦争の遂行能力そのものを左右する戦略的資源であった。16世紀、日本の銀産出量は世界の約三分の一を占めたと推定され、その大部分を石見銀山産出の高品質な銀が占めていた 2 。この銀山から産み出される富は、一国の財政基盤を根底から支え、支配者の覇権を確立するための強力な原動力となったのである。

この莫大な富を巡り、周防の大内氏、出雲の尼子氏、そして安芸から台頭した毛利氏という中国地方の三大勢力は、文字通り自国の存亡を賭けた熾烈な争奪戦を繰り広げた 1 。石見銀山を巡る戦いは、単なる領土紛争の域を遥かに超えていた。それは、当時の日本の「基軸通貨」ともいえる銀の採掘権と流通路を巡る経済戦争であった。産出される銀は、国内の軍資金であると同時に、明や南蛮諸国との貿易における重要な決済手段でもあった。すなわち、石見銀山を制することは、最新兵器の輸入ルートを確保し、国際経済へのアクセスポイントを掌握することを意味した。この極めて近代的な経済的価値故に、各勢力はこの地の支配に固執したのである 5

1-2. 銀山支配の鍵:難攻不落の要害・山吹城

石見銀山の支配を確固たるものにする上で、その司令塔として機能したのが山吹城であった 1 。標高414メートルの要害山に築かれたこの山城は、銀鉱脈が広がる仙ノ山や鉱山町である大森の集落、さらには日本海へと続く街道までを一望できる絶好の戦略的地点に位置していた 1

城の構造は堅固そのもので、山頂付近に設けられた主郭を中心に、尾根筋には敵の侵攻を阻むための畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)が幾重にも走り、要所は石垣で固められていた 6 。この天然の地形と人工の防御施設が一体となった山吹城は、まさに難攻不落の要塞であった。そのため、「山吹城を制する者が銀山を制す」という言葉が、当時の武将たちの共通認識となっていた 1 。この城は単なる砦ではなく、銀山の防衛、経営、そして産出された銀の集積と輸送を管理する、銀山支配の象徴そのものであったのだ。

第二部:血塗られた銀山 ― 山吹城支配権の変転(~永禄四年)

2-1. 絶え間なき攻防の歴史

大永六年(1526年)に博多の商人・神屋寿禎によって再発見されて以降、石見銀山と山吹城の支配権は、目まぐるしく移り変わった。当初支配したのは周防の大内氏であったが、やがて出雲の尼子氏、そして石見の国人領主である小笠原氏が争奪戦に加わり、三つ巴の様相を呈した 1 。その複雑な変遷は、この地がいかに重要視されていたかを物語っている。

表1:石見銀山・山吹城 支配権変遷年表(1530年~1566年)

西暦(元号)

主な出来事

山吹城の支配勢力

関連する主要人物

1530年(享禄3年)

小笠原長隆、銀山を奪取

小笠原氏

小笠原長隆

1533年(天文2年)

大内氏、銀山を奪回

大内氏

大内義隆

1537年(天文6年)

尼子経久、石見に侵攻し銀山を占領

尼子氏

尼子経久

1541年(天文10年)

尼子氏、小笠原氏と結び再び銀山を占拠

尼子氏

尼子晴久

1556年(弘治2年)

毛利氏が一時支配するも、忍原崩れで大敗。尼子氏が奪回

尼子氏

尼子晴久、本城常光、吉川元春

1559年(永禄2年)

降露坂の戦い。毛利軍、本城常光に撃退される

尼子氏

本城常光、毛利元就

1562年(永禄5年)

本城常光が毛利氏に降伏。直後に謀殺される

毛利氏

毛利元就、本城常光

1566年(永禄9年)

月山富田城開城。尼子氏滅亡

毛利氏

毛利元就、尼子義久

2-2. 毛利氏の苦杯:忍原崩れと降露坂の戦い

天文二十四年(1555年)の厳島の戦いで陶晴賢を討ち、大内氏に取って代わろうとしていた毛利元就にとって、石見銀山の掌握は次なる覇権への絶対条件であった。しかし、彼の前に立ちはだかったのが、尼子氏の厚い壁であった。元就の石見銀山攻略は、彼の輝かしい戦歴の中では稀に見る「失敗の連続」から始まったのである。

弘治二年(1556年)、元就は次男の吉川元春を主将とする軍勢を石見に派遣するが、忍原(おしばらく)において尼子軍と激突し、数百人の死者を出すという大敗を喫した。これが「忍原崩れ」である 6 。この勝利によって尼子氏は山吹城を完全に掌握し、その城主として猛将・本城常光を配置した 1

さらに永禄二年(1559年)、元就は自ら軍を率いて山吹城奪回を目指すが、本城常光の巧みな防戦の前にまたしても撃退されたとされる。この戦いは「降露坂の戦い」として知られるが、同時代の史料に乏しく、その実在性については議論の余地が残されている 6 。しかし、いずれにせよ、この時期の毛利氏が山吹城を武力で攻略できなかったことは紛れもない事実であった。

2-3. 尼子の防壁:猛将・本城常光

毛利氏の前に巨大な壁として立ちはだかったのが、山吹城主・本城常光その人であった。彼は石見の国人・高橋氏の一門に生まれ、尼子、大内、そして再び尼子と、時勢に応じて主君を変えた複雑な経歴を持つ武将であった 10 。しかし、その武勇と知略は傑出しており、尼子晴久から絶大な信頼を寄せられ、石見防衛の最前線である山吹城の守将に抜擢された 8

常光は期待に応え、毛利軍の度重なる猛攻をことごとく頓挫させた 13 。彼の存在が、毛利氏の石見侵攻を長年にわたって阻み続けたのである。この連続した軍事的敗北こそが、智将・毛利元就に「力攻めでは本城常光の守る山吹城は落とせない」と悟らせる直接的な原因となった。軍事的限界に直面した元就は、彼の最も得意とする「謀略」へと戦略を大きく転換せざるを得なかった。それは、単なる彼の好みや戦術ではなく、必要に迫られて選択された、極めて合理的な次善の策であった。

第三部:謀略の刻 ― 山吹城、戦わずして落城す(永禄五年)

3-1. 尼子氏の動揺と元就の調略

毛利元就に千載一遇の好機が訪れたのは、永禄四年(1561年)末、尼子氏の大黒柱であった尼子晴久が急死したことであった 6 。偉大な当主を失った尼子家中に動揺が走り、家臣団の結束に綻びが見え始めた。元就はこの機を逃さなかった。

彼は武力行使を避け、標的を山吹城主・本城常光一人に絞り、執拗な調略を開始する。元就は常光に対し、「現在の所領である須佐高矢倉城に加え、石見銀山周辺の所領を与える」という破格の条件を提示し、尼子氏からの離反を促した 8 。これは、尼子氏の衰退と毛利氏の隆盛という大きな流れの中で、孤立しつつあった常光の心を強く揺さぶるものであった。

3-2. 猛将の決断:本城常光の降伏

永禄五年(1562年)六月、本城常光はついに毛利氏への降伏を決断する。その背景には、毛利軍による周辺城砦の漸次的な攻略によって山吹城が孤立しつつあったこと 13 、主家である尼子氏が毛利氏と和議(雲芸和議)を結んだことによる不信感 11 、そして元就からの魅力的な条件提示があった 7

常光は降伏に際してもその智謀を見せた。当時、尼子氏への人質として月山富田城に預けられていた嫡男を救出するため、部下を馬売りに変装させて城内に潜入させ、馬の試乗を装って城外へ脱出させるという離れ業をやってのけたのである 10 。こうして、毛利元就は一兵も損なうことなく、長年の懸案であった石見銀山と山吹城を完全に手中に収めることに成功した。

3-3. 非情の結末:本城一族の謀殺

しかし、物語はここで終わらなかった。降伏からわずか五ヶ月後の同年十一月、元就は出雲の陣中において、降伏したばかりの本城常光とその一族を謀殺するという非情な挙に出た 10

この謀殺の背景には、元就の冷徹なリアリズムと徹底したリスク管理の思想があった。元就は、常光の卓越した武勇を評価する一方で、その過去の変節の多さから、将来必ずや毛利氏を裏切るであろうと深く疑っていた 8 。彼にとって、常光は「高性能だが制御不能な駒」であった。元就は、この危険な駒を一時的に利用して「石見銀山の無血掌握」という最大の戦略目標を達成した後、それが将来のリスク要因となる前に即座に排除したのである。これは、短期的な軍事力の獲得よりも、長期的な支配の安定性を優先する元就の統治哲学を象徴する出来事であった。

ただし、この非情な処断は予期せぬ波紋を広げた。常光の死は、一度は毛利氏に靡いていた他の出雲・石見の国人領主たちに強い不信感を抱かせ、彼らを再び尼子方へと走らせる結果を招いた。皮肉にも、元就のこの決断が、結果的に尼子氏の最終的な本拠地・月山富田城の攻略をさらに長期化させる一因となったのである 10

第四部:決戦前夜 ― 毛利氏の支配体制と銀山の活用(永禄五年~七年)

4-1. 支配体制の確立と正当化

本城常光を排除した毛利氏は、ただちに石見銀山の支配体制固めに着手した。山吹城には、吉川元春の信頼厚い家臣である森脇市郎左衛門が城代として置かれ、銀山は完全に毛利氏の軍事機構の管理下に組み込まれた 17

しかし、元就の戦略は単なる軍事占領に留まらなかった。彼は巧みな政治工作によって、その支配を正当化しようと試みる。永禄五年(1562年)十二月、元就は一度石見銀山を朝廷に献上し、改めて自らがその代官に任命されるという形式を踏んだのである 19 。これにより、毛利氏の銀山領有は「幕府や朝廷の公認」という権威ある後ろ盾を得ることになった。さらに、銀の主要な搬出港であった温泉津を直轄の蔵入地とし、銀の生産から輸送に至るまでの全ルートを完全に掌握した 19

4-2. 尼子攻めの生命線:軍資金としての石見銀

石見銀山から得られる潤沢な資金は、毛利氏の軍事力を飛躍的に増大させた。元就が死に際し、息子たちに「石見銀の使途は主として軍事費に充てるように」と遺言したという事実は、この銀山が毛利家の軍事力の源泉そのものであったことを明確に物語っている 19

永禄五年以降、この莫大な財源を背景に、毛利氏は数万の兵力を数年間にわたって動員し続けることが可能となった。まさしく、これから始まる尼子氏の息の根を止めるための長期包囲戦、すなわち第二次月山富田城の戦いは、石見銀山なくしては到底遂行不可能な壮大な軍事作戦だったのである 15

4-3. 戦略資源としての「鉱夫」:白鹿城攻め

石見銀山がもたらした価値は、銀という「カネ」だけに留まらなかった。それを象徴するのが、永禄六年(1563年)の白鹿城攻めである。月山富田城の重要な支城であった白鹿城の攻略に手こずった元就は、驚くべき策を講じた。彼は石見銀山から数百人もの鉱夫を呼び寄せたのである 6

彼らの目的は戦闘ではなかった。元就は、鉱夫たちが持つ高度な掘削技術を利用し、城の水源を断つための坑道を掘らせたのだ 15 。この作戦は功を奏し、白鹿城はついに降伏する。この事例は、石見銀山が毛利氏にとって、単なる「財源」であると同時に、特殊技能を持つ「人的資源」の供給源でもあったことを示している。

毛利氏による石見銀山の支配は、単なる占領から、近代的な「国家資源管理」の域に達していた。彼らは銀山を、①財政基盤(カネ)、②軍事拠点(モノ)、③特殊技能集団(ヒト)、④支配の正当性(権威)という四つの側面から複合的に活用した。この多角的かつ戦略的な資源活用能力こそが、尼子氏との決定的な差であり、最終的な勝敗を分けた本質的な要因の一つであった。

第五部:永禄八年のリアルタイム・レポート ― 月山富田城包囲網下の山吹城

永禄八年(1565年)、毛利氏と尼子氏の力関係は、もはや逆転不可能なほどに開いていた。その絶望的な戦力差の根源には、石見銀山、すなわち山吹城の支配権の有無があった。

表2:永禄八年(1565年)時点 毛利・尼子両軍 勢力比較

比較項目

毛利軍

尼子軍

総大将

毛利元就

尼子義久

主要武将

吉川元春、小早川隆景

尼子倫久、牛尾久清

推定兵力

15,000以上

籠城軍(数千)

支配領域

中国8ヶ国以上

出雲・隠岐の一部

財政基盤

石見銀山からの潤沢な収入

外部からの補給路断絶、枯渇状態

戦略的状況

盤石な後方支援体制

完全包囲下での兵糧攻め

【1565年 春】補給路の完全遮断

この年の春までに、毛利軍は月山富田城の周囲に点在する「尼子十旗」と呼ばれる支城群をことごとく制圧。さらに毛利水軍が日本海と中海を封鎖し、月山富田城は陸路・海路ともに完全に孤立した 6 。兵糧攻めの体制が完成したのである。このとき、後方の山吹城は毛利軍の最重要兵站拠点として機能していた。石見銀山から産出される銀は兵士たちの給金となり、温泉津港から陸揚げされる兵糧や武具は、滞りなく前線の包囲軍へと送られ続けた。

【1565年 4月】月山富田城総攻撃

四月十七日、毛利軍は月山富田城への第一次総攻撃を開始した。元就と初陣の嫡孫・輝元、吉川元春、小早川隆景が率いる軍勢が三方から城に殺到したが、尼子軍は難攻不落の城を盾に頑強に抵抗。毛利軍は多大な損害を出し、総攻撃は一時中断に追い込まれた 15 。この激しい消耗戦をものともせず、毛利軍がすぐに態勢を立て直せたのも、山吹城からもたらされる経済力があったからに他ならない。

【1565年 5月】奪還への祈りと絶望

戦況が膠着する中、一つの象徴的な出来事が記録されている。かつて石見銀山周辺を支配し、毛利氏に追われた尼子方の旧領主・温泉氏が、出雲大社に常燈を寄進し、山吹城を含む旧領の回復を必死に祈願したのである 19 。これは、尼子方にとって山吹城と石見銀山がいかに重要な意味を持ち、その奪還が絶望的な状況下での唯一の希望であったかを示す悲痛なエピソードである。しかし、その祈りが届くことはなかった。

【1565年 夏~冬】兵糧攻めの深化と対照的な両陣営

総攻撃から再び兵糧攻めへと戦術を転換した毛利軍は、ただひたすらに時が過ぎるのを待った。城内では、時が経つにつれて兵糧が尽き、飢餓が蔓延。兵士たちの士気は日に日に低下し、城を脱走する者が続出した 15

対照的に、城外の毛利軍は、山吹城という「尽きることのない財布」を背景に、長期戦に全く動じることはなかった。前線では兵が城を囲み、後方では銀が掘られ、物資が運ばれる。この盤石な兵站体制こそが、尼子氏の心を折る最大の武器であった。永禄八年における山吹城の真の「戦い」とは、この静かで、しかし残酷な経済的圧迫そのものであった。

この年の戦いの本質は、物理的な戦闘ではなく、「時間」を武器にした非対称な経済戦争であった。毛利方は「時間」を完全に味方につけ、時間が経てば経つほど自軍の優位が確立される状況を創出した。一方、尼子方にとって「時間」は、兵糧と士気を刻一刻と奪い去る最大の敵であった。この「時間の支配権」を毛利にもたらしたのが、長期戦を可能にする石見銀山と、それを管理する山吹城の存在だったのである。

終章:山吹城が決定づけた勝敗 ― 尼子氏の滅亡と毛利覇権の確立

永禄八年を通じて続けられた冷徹な兵糧攻めは、ついに尼子氏の抵抗力を完全に奪い去った。翌永禄九年(1566年)十一月、当主・尼子義久は城兵の助命を条件に降伏を決意し、月山富田城は開城した。ここに、かつて山陰・山陽十一ヶ国に覇を唱えた戦国大名・尼子氏は、事実上滅亡したのである 21

この歴史的な勝利の要因を再評価するならば、それは元就の謀略や、吉川元春・小早川隆景の武勇だけに帰せられるべきではない。その根底には、石見銀山という圧倒的な経済基盤の存在があった。そして、その掌握を決定づけたのは、永禄五年(1562年)の「山吹城無血開城」であった。本城常光の降伏によって山吹城を手に入れた瞬間こそが、尼子氏滅亡へのカウントダウンが始まった時であり、毛利氏の事実上の勝利宣言であったと言える。

尼子氏滅亡後、山中鹿介幸盛らに率いられた尼子再興軍が執念の抵抗を続けるが 23 、彼らが毛利氏の固い支配下にある石見銀山を脅かすことはついになかった。

山吹城を巡る一連の攻防は、単なる一地方の城の奪い合いではない。それは、戦国時代の戦争のあり方が、純粋な武力衝突から、経済力、謀略、兵站といったあらゆる国力を動員する「総力戦」へと移行していく過程を象徴する出来事であった。毛利氏がこの戦いを制したことで、中国地方の覇権は完全に確立され、その後の織田信長との対決へと歴史は進んでいく。そのすべての原動力の源泉の一つが、山吹城の下に眠る銀であったことは、紛れもない事実なのである。

引用文献

  1. 石見銀山を奪取せよ!! - 島根県 https://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/ginzan/publication/index.data/8-1_Japanese.pdf
  2. 毛利元就に尼子に大内…誰もが血眼になって奪い合ったその山の名は「石見銀山」【前編】 https://mag.japaaan.com/archives/194939
  3. Untitled - 島根県 https://www1.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/ginzan/old/pamphlet/record_magazine.data/2syou.pdf
  4. 企画展「奪い合う石見銀山!~山城からたどる銀山の戦国史~」は終了しました。 https://ginzan.city.oda.lg.jp/%E4%BC%81%E7%94%BB%E5%B1%95%E3%80%8C%E5%A5%AA%E3%81%84%E5%90%88%E3%81%86%E7%9F%B3%E8%A6%8B%E9%8A%80%E5%B1%B1%EF%BC%81%EF%BD%9E%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%9F%E3%81%A9%E3%82%8B%E9%8A%80/
  5. 銀山争奪戦|検索詳細|地域観光資源の多言語解説文データベース - 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/R2-00292.html
  6. 月山富田城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%B1%B1%E5%AF%8C%E7%94%B0%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  7. 忍原崩れ - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8D%E5%8E%9F%E5%B4%A9%E3%82%8C
  8. 武家家伝_本城氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/i_honzyo.html
  9. 降露坂の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%8D%E9%9C%B2%E5%9D%82%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  10. 本城常光 - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/HonjouTsunemitsu.html
  11. 本城常光 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9F%8E%E5%B8%B8%E5%85%89
  12. 石見銀山を守る重要な城、山吹城をご紹介(後編)|ゆうさい - note https://note.com/shiro_asobi/n/nb9716b0ef24d
  13. 本城常光3回の寝返り | 石見銀山通信 https://iwami-gg.jugem.jp/?eid=4775
  14. 掛屋山城跡・その2・本城常光の惨殺場所? - 西国の山城 http://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2009/03/2_04.html
  15. 「第二次月山富田城の戦い(1565~66年)」毛利元就、中国8か国 ... https://sengoku-his.com/81
  16. 毛利元就が結ぶ石見銀山と嚴島神社 - 島根県 https://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/ginzan/video.data/R2sekaiisannkouza_siryou.pdf
  17. 山吹城 鵜ノ丸城 櫛島城 矢滝城 物不言城 余湖 http://mizuki.my.coocan.jp/simane/ootasismn.htm
  18. 山吹城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%90%B9%E5%9F%8E
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  20. 温泉津 ゆのつ - 戦国日本の津々浦々 ライト版 https://kuregure.hatenablog.com/entry/2024/07/06/202800
  21. 尼子盛衰記を分かりやすく解説 - 安来市観光協会 https://yasugi-kankou.com/amagokaisetsu/
  22. 世界遺産 石見銀山のすべて:戦国群雄の争奪戦 - 石州瓦工業組合 https://www.sekisyu-kawara.jp/iwamiginzan/soudatsu/index.html
  23. 尼子再興軍の雲州侵攻 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E5%86%8D%E8%88%88%E8%BB%8D%E3%81%AE%E9%9B%B2%E5%B7%9E%E4%BE%B5%E6%94%BB
  24. 山中鹿助 名軍師/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/90104/