最終更新日 2025-09-01

山城国一揆(1485~93)

山城国一揆(1485-1493)詳細調査報告:戦国黎明期における地域自治の試みとその帰結

序章:応仁の乱、焼け残った火種 ― 一揆前夜の山城国

室町幕府の権威を根底から揺るがした応仁の乱(1467-1477年)は、公式な終結を迎えてもなお、京都周辺に深刻な傷跡と燻り続ける火種を残した。乱の終結後、多くの守護大名は荒廃した自らの領国の経営を立て直すため帰国し、在京する大名は管領家の細川氏などごく一部に限られた 1 。この権力の真空状態は、幕府のお膝元である山城国(現在の京都府南部)において、新たな、そしてより深刻な悲劇の序章となった。

応仁の乱の主要因の一つであった幕府管領・畠山政長と、その一族である畠山義就との間の家督相続を巡る争いは、乱の終結後も全く収まることなく続いていた 2 。彼らの抗争は河内国(現在の大阪府東部)を主戦場としながらも、畿内の交通・経済の要衝である山城国、特に京都南部に位置する久世郡、綴喜郡、相楽郡の三郡(南山城)へと頻繁に飛び火した 3 。この地は、両畠山氏にとって、終わりの見えない内紛を続けるための新たな戦場と化したのである。

両軍は木津川や宇治川といった自然の要害を挟んで陣を構え、長期にわたる対陣と小規模ながら絶え間ない武力衝突を繰り返した 5 。この過程で、南山城に生きる国人(在地武士)、農民、そして寺社は、守られるべき対象ではなく、収奪の対象へと成り下がった。両軍は支配の正当性に関わらず、兵糧米や労働力(人夫)を強制的に徴発し、抵抗する者は容赦なく罰せられた 5 。田畑は軍馬に踏み荒らされ、家屋や由緒ある寺社は戦火によって焼き払われた 5 。本来、領国の秩序を維持し、民を保護すべき守護大名の軍勢が、その実態においては生活基盤を破壊する侵略者と何ら変わらない存在となっていた。

この守護権力の変質こそが、一揆発生の根源的な土壌を形成した。山城国の民衆にとって、畠山氏はもはや統治者ではなく、自らの生活を脅かす「外部からの敵」として認識されるに至ったのである。この認識の変化は、後の「両畠山軍の国外追放」という、当時としては極めて過激な要求を、一揆勢力内部で正当化する論理的基盤となった。彼らの行動は、単なる反乱ではなく、不法な占拠者に対する自衛行為という側面を色濃く帯びていた。

そして文明17年(1485年)秋、事態は臨界点に達する。10月以降、宇治川を挟んだ両軍の睨み合いは60日にも及び、戦況は完全に膠着した 6 。収穫期であるにもかかわらず農作業はままならず、冬の到来を前に人々の不安と不満は頂点に達した。「このままでは年を越せない」「どちらが勝利しようとも、我々の生活は破綻する」という絶望的な共通認識が、武士から農民に至るまで、あらゆる階層の人々の間に醸成されていった。それは、もはや誰かに頼るのではなく、自らの手で故郷を守るしかないという、悲壮な決意の萌芽であった。

第一章:民衆の決起 ― 宇治川の誓い(1485年)

長きにわたる戦乱と収奪に疲弊しきった山城国の民衆は、文明17年(1485年)12月、ついに自らの運命をその手に取り戻すべく行動を開始した。この章では、歴史的な集会から、当時絶大な権力を誇った守護大名に対し、武装解除と退去を迫るまでの緊迫した過程を時系列に沿って克明に追う。

1485年12月11日、運命の集会

12月11日、南山城三郡の国人たちが中心となり、地域の行く末を決するべく大規模な集会が招集された。その場所は、宇治の平等院であったと伝えられている 7 。この集会が特異であったのは、その参加者の広範さにある。「上は60歳から下は15、16歳まで」と記録されるように、地域の成人男性が年齢を問わず結集し、さらにその周囲には「一国中の土民(一般農民)が群集した」とある 5 。これは、一部の指導者による密議ではなく、地域の全階層が参加し、その意思を一つにするための公開討論の場であったことを示している。

この構造こそ、山城国一揆の本質を物語っている。指導力と軍事力を提供する国人層と、動員力と行動の正当性を担保する村落共同体「惣」を基盤とした農民層が、明確な目的意識をもって連携したのである。これは後に「惣国一揆」とも称される形態であり 7 、単なる支配層への反発を超え、地域共同体の存亡をかけた全住民的な運動であった。この強固な連合体であったからこそ、一個の守護大名家という巨大な武力組織に正面から対峙することが可能となった。

「国中掟法」の決議

この歴史的な集会において、参加者の総意として「国中掟法(くにじゅうおきて)」と呼ばれる三ヵ条からなる決議が採択された 5 。これは単なる要求リストではなく、山城国における新たな統治原理を宣言する、事実上の自治憲章とも言うべき画期的な内容を含んでいた。

  1. 両畠山氏の排除: 「これより後、両畠山方、国中に入るべからず」 6 。これは、畠山政長・義就両軍の山城国への駐留および立ち入りを一切禁ずるという、守護権力そのものに対する明確な拒絶であった。
  2. 所領の回復と他国者支配の拒否: 「本所領はもとのごとくにするべし」 6 。戦乱によって不法に奪われた荘園などの所有権を、本来の持ち主(寺社本所)へ返還することを定めた。さらに、この条項には「殊更大和以下の他国の輩、代官として入れ立つべからず」という重要な一文が付随していた 6 。これは、畠山氏の配下として入り込んでいた大和国(現在の奈良県)などの他国武士による支配を排除し、在地領主である国人自身が所領を直接管理する(直務)ことを目指すものであり、経済的自立と排他的な地域支配を志向する強い意志の表れであった。
  3. 新関の撤廃: 「新関などを立つるべからず」 5 。両軍が兵糧確保や物流の遮断を目的として乱立させた新しい関所をすべて撤廃し、交通と商業の自由を回復させることを要求した。これは、疲弊した地域経済を再建するための具体的な政策であった。

これらの条文は、単に「畠山氏よ、去れ」と要求するに留まらない。第一条は「守護権力の否定」、第二条は「在地領主権の確立と排他的な国人自治」、第三条は「経済的自立性の確保」を意味しており、これらは一体となって、守護大名による従来の支配システムそのものを否定し、「国は、その国に住む者たちで治める」という新しい統治原理を高らかに宣言するものであった。

最後通牒と両軍の撤退

決議は、単なる理想の表明では終わらなかった。一揆勢は、この掟法を携えて両畠山軍の陣営へ赴き、要求の受諾を迫った。そして、もしこの要求に従わず退陣しないのであれば、「国衆として実力をもって攻撃を加える」という最後通牒を突きつけたのである 1 。これは、長年の収奪に耐えかねた民衆が、自ら武装して戦うことも辞さないという、並々ならぬ覚悟の表れであった。

当時、管領家として幕府の中枢を担う畠山氏にとって、国人や農民からの要求は本来であれば歯牙にもかけないものであったはずである。しかし、彼らはこの要求を受け入れ、南山城からの撤退を余儀なくされた。その背景には、一揆勢の強硬な姿勢に加え、彼ら自身の現実的な計算があったと考えられる。第一に、現地の国人層が一斉に敵対に回れば、兵站線の維持や情報収集が極めて困難となり、戦闘の継続が不可能になる。第二に、長期の対陣で両軍ともに疲弊しており、これ以上の消耗戦は避けたかったという事情もあったであろう。

奈良・興福寺の僧侶が記した日記『政覚大僧正記』には、あれほど絶大な権力を誇っていた畠山勢が、名もなき国人たちの要求によって撤退したことに対する大きな驚きが記されている 5 。この一連の出来事は、旧来の権威が力を失い、地域の力が歴史の表舞台に躍り出る、新たな時代の到来を告げる象徴的な瞬間であった。

第二章:「惣国」の誕生 ― 八年間の自治(1486年~1493年)

両畠山軍という長年の災厄を自らの手で追放した南山城の民衆は、日本の歴史上でも稀有な、国人主導による広域自治の時代へと足を踏み入れた。この章では、彼らが創り上げた統治機構「惣国」の実態と、それを黙認せざるを得なかった室町幕府との奇妙な共存関係を解き明かす。

統治機構の整備と「三十六人衆」

両軍の撤退という目的を達成した一揆勢は、次なる段階として、恒久的な自治運営のための統治機構の構築に着手した。文明18年(1486年)2月13日、彼らは再び宇治の平等院に集い、自治政府の具体的な骨格を定めた 6

この自治共同体は「惣国」と称され、その最高意思決定機関として、指導的な立場にある国人36名からなる「三十六人衆」が組織された 6 。彼らが合議によって惣国の重要事項、例えば法律の制定、紛争の調停、対外的な交渉などを決定した。さらに、日常的な行政実務を円滑に進めるため、三十六人衆の中から輪番制で「月行事(がちぎょうじ)」が選出された 6 。これは、特定の個人や一族への権力集中を防ぎ、合議制の原則を維持するための巧みな工夫であったと考えられる。

惣国が目指したのは、単に守護が不在の状態を維持することではなかった。彼らは、半済権や検断権といった、守護の根幹的な権能を自ら行使したのである 6 。これは、守護という「役職」は空席のままとしつつも、その「機能」は国人連合体が完全に代行するという、極めて高度な政治的実践であった。彼らは守護権力を否定し、追放するだけでなく、それを自らの手で「乗っ取った」のである。

財政基盤としての「半済」

自治政府を運営するためには、安定した財政基盤が不可欠であった。惣国は、その財源を確保するために「半済(はんぜい)」を実施した 6 。半済とは、荘園領主である寺社や公家へ納められるべき年貢の半分を、地域の軍事・行政経費として徴収する権利である。これは本来、室町幕府が守護大名にのみ限定的に認めた特権であった。惣国がこれを自らの判断で行ったという事実は、彼らが名実ともに南山城における最高権力、すなわち事実上の守護として君臨したことを意味している。

室町幕府の対応 ― 黙認と牽制の狭間で

自らの足元である山城国で起きたこの前代未聞の事態に対し、室町幕府、特に当時管領として実権を握っていた細川政元は、意外にも静観の構えをとった 7 。その背景には、いくつかの政治的打算が働いていた。

第一に、一揆によって長年の政敵であった畠山氏の勢力が削がれることは、細川氏にとって好都合であった。第二に、幕府はかねてより山城国を特定の守護大名の支配下に置かず、幕府の財政基盤となる直轄領(御料国)化することを構想しており、惣国による自治は、畠山氏の支配を排除するという点で幕府の意向と一時的に合致した 7 。第三に、三十六人衆の中には、一揆以前から畠山氏に対抗する形で細川氏と被官関係を結んでいる者も含まれており、政元にとって惣国は必ずしも敵対的な存在ではなかった 5

しかし、幕府は惣国の自治を全面的に承認したわけではなかった。幕府の権威を維持し、自治の動きが他国へ波及するのを防ぐため、牽制策を講じる必要があった。そこで文明18年(1486年)5月、幕府は政所執事(幕府の財政・総務長官)であった伊勢貞宗の嫡男・伊勢貞陸を、名目上の山城国守護に任命した 7 。これは、惣国による実質的な自治を認めつつも、形式上は山城国が幕府の任命する守護の統制下にあることを内外に示すための、絶妙な政治的妥協の産物であった。伊勢氏は自身の強大な軍事力を持たなかったため、この任命が直ちに惣国の自治を脅かすことはなく、当初その支配が南山城に及ぶことはなかった 10

このようにして、惣国と室町幕府との間には、約8年間にわたる奇妙な共存関係が成立した。惣国は、検断権(警察・裁判権)を行使して領域内の治安維持や境界争いなどの紛争解決にあたる一方 7 、時には幕府から課される守護役(軍役負担)の要求に応じることもあった 7 。これは、惣国が幕府の権威を完全に否定するのではなく、その枠組みの中で実質的な自治を最大限に確保しようとする、極めて現実的な戦略をとっていたことを示している。

しかし、この安定は脆い基盤の上に成り立っていた。「両畠山氏の排除」という共通の目的が達成された後、惣国の内部では、元々畠山政長方と義就方に分かれて争っていた国人同士の対立や、荘園領主への年貢納入を巡るトラブルなどが徐々に表面化し始めていた 5 。この内部的な結束の脆弱性が、後の外部からの政治的介入によって一気に露呈し、惣国を崩壊へと導く致命的な弱点となるのである。

以下の表は、山城国一揆を取り巻く主要な人物と勢力の関係性をまとめたものである。

勢力分類

主要勢力/人物

概要と関係性

自治勢力

山城国一揆(惣国)

南山城三郡の国人・農民による自治共同体。三十六人衆が合議制で運営。当初は畠山氏排除で結束したが、後に恭順派と抗戦派に分裂。

旧支配者

畠山氏(内紛状態)

畠山政長 : 管領。細川政元と連携。一揆により山城から追放され、明応の政変で自刃。

畠山義就・義豊 : 政長の対抗馬。山名宗全と連携。同じく一揆により追放。

中央政権

室町幕府

将軍 : 足利義尚 → 義稙 → 義澄。明応の政変で将軍が交代し、幕府の権威が失墜。

管領 細川政元 : 明応の政変を主導し、幕政の実権を掌握。一揆に対しては当初静観し、後に山城への影響力拡大を狙う。

政所執事 伊勢貞陸 : 名目上の山城守護。明応の政変後、惣国の実質的な支配(一円知行化)を目指し、一揆崩壊の直接的な引き金となる。

外部介入勢力

古市澄胤

大和国の有力武将。伊勢貞陸の要請を受け、守護代として南山城に軍事侵攻し、稲屋妻城を攻略。一揆を武力で鎮圧した。

第三章:中央の嵐、山城に及ぶ ― 明応の政変(1493年)

八年間にわたり奇跡的な平穏を享受した惣国であったが、その運命は常に中央政局の動向と密接に結びついていた。明応2年(1493年)、京都で発生したクーデター「明応の政変」は、惣国の存立基盤そのものを揺るがす巨大な嵐となって山城国に吹き荒れた。この章では、中央の権力闘争が、いかにして地域の自治を終焉へと導く引き金となったのか、その力学を詳細に解説する。

明応の政変の勃発

明応2年(1493年)閏4月、10代将軍・足利義稙(よしたね、後に義材と改名)は、長年の宿敵であった河内の畠山義豊(義就の子)を討伐するため、畠山政長を伴って河内国へ親征した。この将軍の京都不在という絶好の機会を捉え、管領・細川政元が電撃的にクーデターを決行した 2 。政元は、幕府の実力者であった日野富子や伊勢貞宗(貞陸の父)らと連携し、新たな将軍として堀越公方・足利政知の子である清晃(後の足利義澄)を擁立した 10

そして、政元は軍を河内へ派遣し、将軍・義稙と畠山政長が陣を敷く正覚寺城を急襲した。完全に孤立した政長は嫡子・尚順を紀伊国へ逃した後、自刃して果てた 2 。将軍・義稙は捕らえられ、京都の龍安寺に幽閉された 4 。この一連の事件は、将軍が家臣によって追放されるという前代未聞の事態であり、室町幕府の権威を完全に地に堕とし、戦国時代の幕開けを決定づけた「明応の政変」として知られている。

政変が惣国にもたらした外部環境の激変

この中央政局の激変は、南山城の惣国にとって、その存在意義を根底から揺るがすものであった。惣国が成立し、存続し得たのは、「両畠山氏の内紛による地域の疲弊」という特殊な状況と、「幕府(細川氏)の静観」という二つの絶妙な条件が揃っていたからである。明応の政変は、この前提条件を一夜にして覆した。

第一に、惣国が結束する最大の理由であった畠山氏の内紛は、政長の死によって新たな局面を迎えた。これにより、「両畠山氏から地域を防衛する」という惣国の当初の存在理由は大きく後退した。

第二に、そしてより決定的なことに、幕府はもはや「静観」する存在ではなくなった。政変によって幕政の実権を完全に掌握した細川政元と、新将軍・義澄の後見役として幕府官僚機構を掌握した伊勢貞陸は、協力してクーデターを成功させたものの、今度は山城国の支配権を巡って互いに競合する関係へと転化した 12 。彼らは、山城国を自らの勢力圏に組み込むべく、積極的な介入を開始したのである。

伊勢貞陸の野心と惣国への介入

特に、これまで名目上の守護に過ぎなかった伊勢貞陸は、この政変を千載一遇の好機と捉えた。彼は、京都から追放された旧将軍・義稙派の残党による反撃に備えるという大義名分を掲げ、山城国全域の実質的な支配(一円知行化)を目指して強硬な手段に打って出た 10 。貞陸は、惣国が管理していた国内の寺社本所領を接収するなど、公然と自治権の侵害を開始した。

これに対し、細川政元も山城国における影響力を伊勢氏に奪われることを座視できず、対抗策として国人衆への働きかけを強めた 12 。こうして、南山城の国人たちは、かつてのように地域の平和を守るために団結するのではなく、「伊勢氏につくか、細川氏につくか」という、中央の権力闘争に根差した踏み絵を迫られることになった。

惣国は、自らがコントロールできない外部環境の激変によって、そのアイデンティティと結束の基盤を失い、内部から崩壊していく新たな政治状況に直面させられたのである。中央の嵐は、地域のささやかな自治を容赦なく飲み込もうとしていた。

第四章:稲屋妻城、落日 ― 自治の終焉(1493年)

中央政局の激震は、南山城の惣国に決定的な亀裂を生じさせた。幕府の正式な守護という「正統性」を盾に介入を強める伊勢貞陸に対し、国人たちの結束はもろくも崩れ去った。この章では、自治崩壊のクライマックスである稲屋妻城の攻防を軸に、惣国が分裂し、武力によって終焉を迎えるまでの悲劇的な過程をリアルタイムで追跡する。

古市澄胤の投入と惣国の分裂

伊勢貞陸は、惣国を完全に掌握するため、自らの手足となる強力な軍事力を必要としていた。そこで彼が白羽の矢を立てたのが、隣国・大和の有力武将であった古市澄胤(ふるいちちょういん)である 10 。古市氏はかねてより南山城の利権に関心を示しており、貞陸にとってはこの上ない協力者であった。

明応2年(1493年)9月7日、伊勢貞陸は古市澄胤を南山城の相楽・綴喜両郡の守護代に正式に任命した 10 。これは、古市氏の軍事介入に「幕府の公認」という大義名分を与えるものであり、惣国に対する決定的な揺さぶりとなった。

この報を受け、三十六人衆は致命的な分裂をきたす。

  • 恭順派: 伊勢貞陸を幕府が任命した正規の守護として認め、その支配下に入ることで、自らの地位と所領を安堵してもらおうと考えた勢力。彼らにとって、中央の権力構造が激変した以上、これ以上の自治の継続は無謀であり、現実的な選択肢は新しい権力者への恭順であると判断した。彼らは自ら集会を開き、8年間続いた自治の放棄を決定した 7
  • 抗戦派: 「他国者」である古市氏が軍事力で乗り込んでくることを断固として拒否し、自治の理念を守るために最後まで戦うことを主張した勢力。彼らは、細川政元など伊勢氏に対抗する勢力と結び、抵抗の道を選んだ 7

この分裂は、一揆の崩壊が単なる軍事的な敗北ではなく、その前に政治的な敗北があったことを示している。国人たちにとって、畠山氏という「不法な侵略者」に抵抗することには明確な正当性があった。しかし、幕府が正式に任命した「正規の守護」に抵抗し続けることには、自らが「幕府への反逆者」と見なされる大きな政治的リスクが伴った。伊勢貞陸が振りかざす「正統性」の前に、惣国の結束は内部から瓦解したのである。

稲屋妻城の攻防と落城

自治の放棄を拒否した抗戦派の国人衆は、最後の拠点として稲屋妻城(いなやつまじょう、現在の京都府精華町)に立てこもり、徹底抗戦の構えを見せた 10

1493年9月11日、守護代としての大義名分を得た古市澄胤は、軍を率いて南山城への侵攻を開始した 10 。抗戦派の国人たちは細川政元に支援を期待したが、政元は明応の政変の共同遂行者である伊勢貞陸の行動を公然と妨害することができず、表立った支援を送ることができなかった 7 。抗戦派は完全に孤立無援の状態に陥った。

当時の記録である『大乗院寺社雑事記』によれば、この侵攻は古市軍の単独行動であったとされる。本来、古市氏と協力関係にあった大和のもう一つの雄・越智氏は、この時両者の間に不和が生じていたため出兵せず、古市澄胤が単独で稲屋妻城の攻略にあたった 10

孤立した稲屋妻城であったが、籠城した国人たちの抵抗は激しかった。しかし、大和の精鋭を率いる古市軍の猛攻の前に、衆寡敵せず、城はついに落城した。伊勢貞陸の命令に従わなかった国人衆70名あまりが討ち取られたと記録されている 9 。この稲屋妻城の陥落をもって、8年間にわたって南山城に灯った自治の火は、完全に消え去ったのである。

以下の年表は、山城国一揆の勃発から終焉までの主要な出来事を時系列で整理したものである。

西暦 (和暦)

月日

主要な出来事

関連人物・勢力

1485 (文明17)

10月~

両畠山軍、宇治川を挟んで60日以上対陣。南山城の疲弊が極度に達する。

畠山政長、畠山義就

12月11日

国人・農民が宇治平等院で集会。「国中掟法」を決議し、両畠山軍に退去を要求。

山城国衆、農民

12月

両畠山軍、国衆の要求を受け入れ南山城から撤退。

畠山政長、畠山義就

1486 (文明18)

2月13日

再度集会を開き、「三十六人衆」「月行事」など自治組織(惣国)を整備。

三十六人衆

5月26日

室町幕府、名目上の山城守護として伊勢貞陸を任命。

室町幕府、伊勢貞陸

1486-1492

-

三十六人衆による約8年間の自治が行われる。幕府とは一定の協力関係を保つ。

惣国、室町幕府

1493 (明応2)

閏4月25日

明応の政変勃発。細川政元がクーデターを起こし、畠山政長は自刃。将軍義稙は幽閉される。

細川政元、足利義稙、畠山政長

閏4月27日~

伊勢貞陸、政変を機に山城国の一円知行化(実効支配)を目指し、惣国への介入を強化。

伊勢貞陸

9月7日

伊勢貞陸、大和の古市澄胤を南山城の守護代に任命。

伊勢貞陸、古市澄胤

9月11日~

古市軍が南山城へ侵攻。惣国は恭順派と抗戦派に分裂。

古市澄胤、三十六人衆

9月以降

抗戦派が稲屋妻城に籠城するも、古市軍の攻撃により落城。山城国一揆は完全に終焉。

古市澄胤、抗戦派国人

1494 (明応3)

11月

古市軍による鎮圧完了。山城国は伊勢氏の統治下に入るが、情勢は不安定化。

古市澄胤、伊勢貞陸

終章:山城国一揆が遺したもの

稲屋妻城の落城とともに、山城国一揆による8年間の自治は幕を閉じた。その後、南山城は再び中央の権力者たちの草刈り場となり、伊勢氏、古市氏、さらには細川氏や畠山氏の残党が入り乱れる不安定な状況が続いた 7 。最終的には、明応の政変で幕政を掌握した細川政元の影響力がこの地を覆っていくことになる。しかし、武力によって潰えたとはいえ、この一揆が日本の歴史に刻んだ足跡と、後世に遺した意義は決して小さなものではない。

第一に、山城国一揆は「下剋上」の時代の到来を告げる象徴的な出来事であった 3 。室町幕府の根幹的な地方統治機関であった守護大名を、その支配下にある国人と農民が実力で追放したという事実は、既存の権威と秩序がもはや通用しない時代の始まりを明確に示した。力が正義となり、旧来の身分秩序が流動化していく戦国時代の大きなうねりを、この一揆は体現していた。

第二に、日本史上における「地方自治の先駆け」としての意義を持つ 5 。武士と農民という異なる階層が、地域の平和と安定という共通の目的のために階級を超えて協力し、三十六人衆による合議制に基づいて8年間もの長きにわたり広域自治を成功させたことは、特筆に値する。彼らが制定した「国中掟法」は、地域の意思を明文化した憲章であり、その運営は民主的ですらあった。この経験は、戦国時代に見られる国人領主による自律的な領国経営や、堺・博多のような自治都市の運営にも繋がる、画期的な試みとして高く評価されるべきである。

第三に、山城国一揆の成立と崩壊の過程は、戦国時代における「地域」と「中央」の不可分な関係性を予示している。一揆の「成功」は、地域の力が団結すれば、守護のような旧来の中央権力の代理人を排除し、自立しうることを証明した。これは、戦国大名が自らの領国を実力で切り取り、支配していく時代の到来を予感させるものであった。

一方で、一揆の「失敗」は、地域の自治がいかに強固に見えても、中央政局の大きな変動の前には極めて脆弱であり、容易に分裂し、破壊されうるという冷厳な事実を突きつけた。結局のところ、惣国は中央の政治力学と「正統性」を巡るゲームから逃れることはできず、その渦に飲み込まれていった。この教訓は、後の戦国武将たちが、自らの領国経営(地域)に心血を注ぐだけでなく、常に京都の中央政局の動向に鋭い注意を払い、時には上洛して中央政治に積極的に関与しようとした理由を雄弁に物語っている。地域と中央は切り離すことができず、その複雑な力学の中でしか生き残れないという、戦国時代の本質を、山城国一揆はその成功と失敗の両面から、先取りして示したと言えるだろう。

山城国一揆は、戦国という新たな時代への移行期に、民衆が自らの手で平和と秩序を創り出そうとした、壮大かつ悲劇的な社会実験であった。その試みは道半ばで潰えたが、彼らが掲げた自治の理想と、巨大な権力に立ち向かったその行動は、日本史における民衆の力の可能性を示す、不滅の光を放ち続けている。

引用文献

  1. 10分で読める歴史と観光の繋がり 戦国時代の幕開け応仁の乱、足利義政が発展させた東山文化 日本の美意識〝わび・さび〟/ゆかりの世界遺産・銀閣寺と龍安寺、小京都 津和野 | いろいろオモシロク https://www.chubu-kanko.jp/ck.blog/2022/01/13/10%E5%88%86%E3%81%A7%E8%AA%AD%E3%82%81%E3%82%8B%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%A8%E8%A6%B3%E5%85%89%E3%81%AE%E7%B9%8B%E3%81%8C%E3%82%8A-%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%B8%E3%81%AE%E8%BB%A2/
  2. 2人の将軍が誕生し混乱を生んだ「明応の政変」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/22942
  3. 【高校日本史B】「各地の一揆」 | 映像授業のTry IT (トライイット) https://www.try-it.jp/chapters-12583/lessons-12707/point-2/
  4. 【15th Century Chronicle 1481-1500年】 - naniujiのブログ https://naniuji.hatenablog.com/entry/2019/08/06/181306
  5. 山城の国一揆 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/yamashironokuni-ikki/
  6. 山城国一揆(ヤマシロノクニイッキ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E5%9B%BD%E4%B8%80%E6%8F%86-144128
  7. 山城国一揆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E5%9B%BD%E4%B8%80%E6%8F%86
  8. 山城国一揆 - 京都通百科事典 https://www.kyototuu.jp/History/WarYamashiroIkki.html
  9. 1485年山城一揆勃発後の近畿・中国の勢力の行方… |BEST TiMES ... https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/10158/
  10. 明応の政変と越智氏の没落~大和武士の興亡(7) - 大和徒然草子 https://www.yamatotsurezure.com/entry/yamatobushi07_meioh
  11. [回答者]長谷川裕子 https://ywl.jp/file/OGU4GdSyKx3vntCMojH5/stream
  12. 明応の政変 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%BF%9C%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89
  13. 筒井党の没落と山城国一揆~大和武士の興亡(6) - 大和徒然草子 https://www.yamatotsurezure.com/entry/yamatobushi06_kuniikki
  14. 中世の一揆 - アナーキー・イン・ニッポン https://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/booth/m_essay06.html
  15. 室町時代 | GOOD LUCK TRIP https://www.gltjp.com/ja/directory/item/14155/