最終更新日 2025-09-01

山科本願寺焼討(1532)

天文元年の劫火:山科本願寺焼討、畿内を揺るгаした二日間の全貌

序章:仏国か、城塞か

日本の戦国時代史において、天文元年(1532年)8月24日に発生した山科本願寺の焼討は、単なる一合戦として片付けることのできない、極めて重層的な意味を持つ事件である。これは、管領代・細川晴元、近江守護・六角定頼、そして京都の町衆が結成した法華一揆という、当時の畿内における主要な公武および民衆勢力が連合し、巨大宗教勢力である浄土真宗本願寺教団の総本山を攻め滅ぼした、前代未聞の出来事であった 1 。この事件は、「享禄・天文の乱」と称される一連の動乱の頂点をなすものであり、その背景には宗教宗派間の対立、武家内部の権力闘争、そして勃興しつつあった都市民の自治意識が複雑に絡み合っていた 2

本報告書は、この山科本願寺焼討を、単なる宗教弾圧や武家による寺院攻撃という一面的な解釈から解き放ち、戦国期畿内の政治・社会構造の転換点を象徴する複合的事件として捉え直すことを目的とする。細川晴元は、本願寺の持つ強大な軍事力を政治闘争の道具として利用しようと試みたが、その根底にある信仰のエネルギーを制御できず、逆にその脅威に恐怖を抱き、かつての同盟相手を滅ぼすという極端な行動に走った 4 。この過程は、当時の武家権力が、宗教の持つ求心力(ソフトパワー)と軍事・経済力(ハードパワー)の二面性をいかに理解しきれず、その力に翻弄されたかを生々しく物語っている。

この劫火は、本願寺の拠点を大坂石山へと移させ、後の織田信長との10年にわたる石山合戦の遠因を形成した 5 。同時に、勝利者となった法華一揆による京都の一時的な支配と、その後の「天文法華の乱」における劇的な崩壊を招き、畿内の勢力図を大きく塗り替える直接的な契機ともなった 7 。山科本願寺焼討は、中世的権威が崩壊し、新たな秩序が模索される時代の混沌を凝縮した、戦国史を読み解く上で避けては通れない一大事件なのである。

第一章:錯乱前夜 ― 畿内に渦巻く野心と信仰

山科本願寺焼討に至る道筋は、一夜にして形成されたものではない。そこには、畿内における政治秩序の崩壊、本願寺教団の急成長、そしてそれに反発する対抗勢力の台頭という、三つの大きな歴史的潮流が存在した。これらの潮流が天文元年に合流し、破局的な結末へと向かうことになる。

畿内政治の流動化 ― 細川京兆家の内訌

応仁の乱以降、室町幕府の権威は地に落ち、幕政の実権は管領たる細川京兆家が掌握していた。しかし、その細川家もまた内部抗争に明け暮れ、畿内は恒常的な戦乱状態にあった 9 。事件当時は、細川高国との後継者争いに勝利した細川晴元が、将軍・足利義晴を擁して畿内の覇権を握りつつあったが、その政権基盤は極めて脆弱であった 4

晴元政権内では、高国打倒の最大の功労者であった重臣・三好元長の力が突出しており、晴元にとって次第に脅威となっていた 1 。元長は阿波国を本拠とし、堺の商人とも結びついて強大な軍事力と経済力を有していた。さらに、元長が熱心な法華宗(日蓮宗)徒であったことは、当時畿内で勢力を拡大していた本願寺一向宗との間に宗教的な緊張関係を生んでおり、これが後の政争の火種となる 12 。晴元は、この強力すぎる家臣をいかに制御し、自らの権力を確立するかという深刻な課題に直面していたのである。

「仏国のごとし」― 巨大化する本願寺

一方で、本願寺教団は第八世法主・蓮如の時代に飛躍的な発展を遂げていた。蓮如は「御文章(御文)」と呼ばれる平易な言葉で書かれた手紙を用いて親鸞の教えを民衆に広め、各地に「講」という信者の組織を形成することで、爆発的に門徒を獲得した 5

その教団の総本山として、文明10年(1478年)に京都東郊の山科に建立されたのが山科本願寺であった 15 。ここは単なる寺院ではなかった。周囲を幾重にも土塁と堀で囲み、内部に御影堂や阿弥陀堂などの伽藍が立ち並ぶ「御本寺」と、その周囲に僧侶や職人、商人が居住する「寺内町」が形成された、一大城塞都市であった 16 。最盛期には約3万人が住んでいたともいわれ、その繁栄ぶりは公家の鷲尾隆康の日記『二水記』において「寺中広大無辺、荘厳只仏国の如し」と記されるほどであった 18

事件当時の第十世法主・証如は17歳と若年であり、教団の実権はその後見人である祖父、蓮淳(蓮如の六男)が握っていた 12 。蓮淳は極めて政治感覚に優れた人物であり、本願寺の勢力を背景に、細川晴元をはじめとする畿内の武家勢力と巧みに渡り合い、教団の権益拡大を図っていた 13

「題目の巷」― 京都町衆と法華宗

当時の京都では、もう一つの宗教勢力が民衆の心を掴んでいた。日蓮宗、すなわち法華宗である。応仁の乱で荒廃した京都の復興を担ったのは、商工業者を中心とする「町衆」であったが、彼らの間に法華宗の信仰が深く浸透していた 23 。洛中の町屋は「題目の巷」と称されるほど法華宗徒で溢れ、市内には二十一ヶ寺もの本山が甍を並べていた 7

彼らは信仰の下に固く団結し、自らの町を防衛するために武装した。これが「法華一揆」である。彼らは、洛中に乱入しようとする土一揆を撃退し、時には武家の軍事行動にも参加する一方、幕府や荘園領主に対して地子銭(固定資産税)の納入を拒否するなど、強力な自治組織として機能していた 8

「法華経こそが唯一絶対の教え」とする法華宗の排他的な教義は、「悪人正機」を説き万人を救済の対象とする一向宗とは相容れなかった。両宗派の門徒は畿内の各地で衝突を繰り返しており、その対立は根深いものがあった 12 。この宗教的対立が、細川家の内紛という政治的力学と結びついた時、畿内全土を巻き込む大乱へと発展する条件は整ったのである。この時代の畿内は、武家、公家、寺社という旧来の権力構造に加え、信仰で武装した市民(法華一揆)と、巨大な寺内町を持つ宗教国家(本願寺)という新たな社会勢力が台頭し、複雑な権力ゲームを繰り広げる、まさに錯乱の時代であった。

第二章:蜜月から破滅へ ― 細川晴元と本願寺、束の間の同盟

当初、細川晴元と本願寺は敵対関係にはなかった。むしろ、共通の敵を打倒するために手を結んだ同盟者であった。しかし、その蜜月はあまりにも短く、劇的な勝利の直後に関係は破綻し、全面戦争へと突入する。この章では、両者が手を結び、そして決裂に至るまでの過程を時系列で追い、特に一向一揆の「力の暴走」が如何にして決定的な転換点となったかを明らかにする。

利害の一致 ― 対三好元長包囲網の形成(享禄5年/天文元年 5月~6月)

享禄5年(1532年)春、細川晴元政権内における三好元長との対立は、もはや修復不可能な段階に達していた。晴元の家臣である木沢長政が元長と対立し、河内の飯盛山城に籠城すると、元長は畠山義堯らと結託してこれを包囲した 1 。自派の重臣が滅ぼされるのを座視できない晴元であったが、元長の軍事力は強大であり、単独での介入は困難であった 4

ここで晴元は、元長が熱心な法華宗徒であり、これまで一向宗を弾圧してきたという宗教的対立点に活路を見出す。彼は本願寺の事実上の最高指導者であった蓮淳に接触し、元長討伐への協力を要請した 1 。本願寺にとって、法華宗の強力な庇護者である元長は積年の宿敵であった。蓮淳はこの要請を、「浄土真宗と法華宗の最終決戦」と位置づけることで、門徒の宗教的熱情を煽る絶好の機会と捉えた 3 。彼は17歳の法主・証如を象徴として担ぎ出し、自ら大坂御坊に入って指揮を執り、全畿内の門徒に対して蜂起を命じたのである 3

圧倒的勝利 ― 一向一揆、元長を滅ぼす(同年6月15日~20日)

蓮淳の檄は絶大な効果を発揮した。摂津、河内、和泉などから集まった一向一揆の軍勢は、10万、一説には20万にまで膨れ上がったと言われる 3 。この圧倒的な物量の前に、戦局は一変した。

6月15日、一揆勢は飯盛山城を包囲していた畠山義堯軍の背後を急襲。不意を突かれた畠山軍は総崩れとなり、義堯は南河内まで逃れた末に自刃した 3 。勢いに乗る一揆勢は、休むことなく元長の本拠地である堺へと殺到した。

6月20日、堺は一向一揆の大軍によって完全に包囲された。もはやこれまでと覚悟した三好元長は、法華宗の寺院である顕本寺において一族郎党と共に自害して果てた 3 。こうして、細川晴元は自らの手を汚すことなく、最大の政敵を葬り去ることに成功した。

制御不能の奔流 ― 大和での暴挙(同年7月)

しかし、晴元と蓮淳の計算は、ここから大きく狂い始める。元長打倒という当初の目的を達成したにもかかわらず、一度燃え上がった一揆の炎は鎮火するどころか、さらに燃え広がった。法主・証如や後見人・蓮淳による静止命令は、宗教的熱狂の渦中にある門徒たちにはもはや届かなかった 12

7月10日、大和国の一揆勢が独自に蜂起。彼らは守護格の興福寺や春日大社を襲撃し、数百にのぼる僧坊や子院に火を放ち、略奪の限りを尽くした。その狼藉は凄まじく、春日大社の神鹿や猿沢池の鯉までことごとく食い尽くされたと伝えられる 3 。これは、単なる武力衝突ではなく、既存の宗教的権威に対する全面的な挑戦であった。

この大和での暴挙は、筒井順興や越智利基といった大和の国人衆の反撃によって鎮圧されたが、本願寺教団が自らの門徒を全く統制できていないという事実を畿内全土に露呈させた 1 。この一件は、本願寺が既存の社会秩序を破壊しかねない危険な存在であるという認識を、他の権力者たちに強く植え付ける決定的な出来事となった。

昨日の友は今日の敵 ― 晴元の変心と連合軍の結成(同年7月下旬~8月)

一向一揆の制御不能な暴走を目の当たりにした細川晴元、そして将軍・足利義晴、近江守護・六角定頼は、深刻な脅威を感じた。彼らは本願寺の行動を「天下への謀叛」と断罪し、これを共通の敵として討伐することで利害が一致した 1

晴元は、かつて元長が庇護した法華宗徒に目をつけた。一向宗への強い敵愾心を持つ京都の町衆を煽動し、反本願寺の先兵として組織化する 3 。7月28日、法華一揆が蜂起。これに六角定頼の軍勢も呼応した 3

8月2日、本願寺側は堺にいる晴元を攻撃するが、木沢長政らの奮戦により撃退される 28 。これにより両者の敵対関係は決定的となり、ここに細川晴元軍、六角定頼軍、そして数万の法華一揆衆からなる「反本願寺連合軍」が正式に結成された 28 。わずか一ヶ月前まで同盟者であった本願寺は、今や畿内の主要勢力のすべてを敵に回すことになったのである。これは、本願寺が政治闘争の手段として用いた「一揆」という力が、目的を達成した後に自己増殖的なエネルギーを持って暴走し、結果的に自らの首を絞めるという、歴史の皮肉を象徴する展開であった。

第三章:難攻不落の城塞都市 ― 山科本願寺の構造と防御機能

天文元年の合戦の舞台となった山科本願寺は、単なる宗教施設の集合体ではなかった。それは、当時の築城技術の粋を集めて建設された、一大軍事要塞であった。その堅固な防御機能は、籠城する本願寺側に絶大な自信を与え、一方で攻城連合軍にとっては恐るべき障壁として立ちはだかった。本章では、文献史料と近年の考古学的調査の成果を基に、その実像に迫る。

巨大宗教都市の縄張り

山科本願寺の寺内町は、京都盆地の東、山科川と安祥寺川に挟まれた平地に位置し、その規模は東西約800メートル、南北約1キロメートルにも及んだ 15 。その縄張りは、極めて計画的に設計されていた。

中心には、御影堂や阿弥陀堂といった本願寺の中枢施設が置かれた「御本寺(ごほんじ)」があり、これは城でいえば本丸に相当する 30 。その外側を、有力な末寺や僧侶、職人、商人の居住区である「内寺内(うちじない)」(二の丸)が囲み、さらにその外側を「外寺内(そとじない)」(三の丸)が取り巻くという、三重の同心円状の郭(くるわ)で構成されていた 16 。これらの各郭は、それぞれが巨大な土塁と深い堀によって厳重に区画されており、全体として一個の強固な環濠城塞都市を形成していたのである 17

先進的な防御施設

山科本願寺の防御施設は、同時代の武家が築いた城郭と比較しても、決して見劣りするものではなかった。むしろ、いくつかの点では先進的ですらあった。

  • 土塁と堀 : 近年の発掘調査では、幅12メートル、深さ4メートルにも達する巨大な堀や、粘土質の土と砂礫を交互に突き固める「版築」に近い工法で築かれた堅固な土塁が確認されている 30 。土塁と堀底の高低差は最大で約8メートルにも及び、人力で容易に登ることは不可能であった 35
  • 薬研堀・箱堀 : 堀の断面形状にも工夫が凝らされていた。底がV字型に尖り、斜面が急な「薬研堀(やげんぼり)」や、断面が逆台形をした「箱堀(はこぼり)」が採用されていた 36 。これらの形状は、堀底に降りた敵兵の足場を不安定にし、急な斜面を這い上がりにくくさせる効果があり、最小の労力で最大の防御効果を得るための、極めて実戦的な設計であった 36
  • 横矢掛かり : 最大の特徴は、「横矢掛かり(よこやがかり)」の思想が導入されていた点である。これは、土塁や堀を一直線に造るのではなく、意図的に突出部や屈曲部(「折れ」)を設けることで、城壁に取り付こうとする敵に対し、側面から矢や鉄砲による十字砲火を浴びせることができるようにした防御システムである 32 。山科本願寺の縄張りにはこの「折れ」が多用されており、戦国時代の城郭史において、横矢掛かりが本格的に導入された最も早い事例の一つと考えられている 32

防御の要と弱点 ― 「水落」の存在

これほどまでに堅固な要塞都市も、生活を維持するためにはインフラが必要であった。寺内町に降り注いだ雨水や生活用水を外部の堀へ排出するため、土塁の下には石で組まれた暗渠排水路が何本も設けられていた 35

この排水口は「水落(みつおち)」と呼ばれていた 1 。水落は、寺内町の衛生を保つ上で不可欠な設備であると同時に、分厚い土塁を貫通して外部と物理的に繋がる数少ない開口部であり、防御上の潜在的な弱点でもあった。事実、発掘調査では、焼討の際に火を受けた痕跡のある石組が発見されており、この場所が攻防の鍵となったことを考古学的にも裏付けている 2 。難攻不落を誇った山科本願寺の堅牢な鎧にも、致命的な隙が存在していたのである。

山科本願寺の城郭機能一覧

施設・構造

規模・特徴

防御機能・役割

関連史料・考古学的知見

三重の郭

御本寺、内寺内、外寺内の三重構造

敵の侵攻を段階的に遅延させ、内部での多層防御を可能にする

『野村本願寺古御屋敷之図』 18 、発掘調査 31

土塁

高さ4-5m、版築工法

物理的な障壁。横矢を掛けるための「折れ」を持つ

発掘調査 16

幅12m、深さ4mの箇所も。空堀

敵の接近を阻害。薬研堀・箱堀形式で登攀を困難にする

発掘調査 34

横矢掛かり

土塁・堀の屈曲構造

直線的な塁壁の死角をなくし、側面からの十字砲火(射撃)を可能にする

縄張り図の分析 32

水落(暗渠)

石組の排水路

寺内町のインフラ機能。しかし、外部との物理的な繋がりを持つため、防御上の弱点となる

『本福寺明宗跡書』 1 、発掘調査 2

第四章:合戦詳報 ― 天文元年八月、炎上の二日間(リアルタイム解説)

本章では、山科本願寺の運命を決した天文元年8月23日から24日にかけての二日間を、現存する史料、特に合戦の目撃者である蓮如の末子・実従が記した『私心記』や、公家・鷲尾隆康の『二水記』の記述に基づき、可能な限りリアルタイムに近い形で再構成する。

山科本願寺包囲軍の布陣(天文元年8月23日時点)

方角

担当軍勢

指揮官(推定含む)

主要な進軍路・目標

兵力・特徴

法華一揆衆(主力)

不明(京都町衆の代表か)

粟田口

数万規模。宗教的熱意が高く、対一向宗の最前線 28

柳本勢(細川晴元方)

山村正次

汁谷口

柳本賢治の旧臣。戦闘経験豊富な武士団 28

西

六角定頼軍

六角定頼

大津口(東海道)

近江守護の大軍。後方の補給路を遮断する役割 28

付近の郷民一揆

各郷の指導者

東岩倉山

50余郷の土民。本願寺の勢力拡大を快く思わない在地勢力 28

合戦前哨(8月7日~22日):山科盆地への圧力

山科本願寺への直接攻撃に先立ち、連合軍は周到に外堀を埋めていった。

8月7日、京都の法華一揆衆が本格的な軍事行動を開始する。柳本賢治の旧臣・山村正次に率いられた一隊は、京都東山にあった本願寺系の大谷本願寺跡の一向堂を焼き討ちにした 3 。これは、連合軍による反本願寺闘争の狼煙であった。

続く8月16日から19日にかけて、東山山麓や京都西郊の西岡において、法華一揆衆と救援に駆けつけようとする一向一揆衆との間で激しい戦闘が繰り広げられた。兵力で優る法華一揆衆はこれらの前哨戦でことごとく勝利を収め、山科本願寺は京都方面からの連絡・救援ルートを完全に遮断され、孤立無援の状態に追い込まれていった 28

時を同じくして、東方の近江国では六角定頼の軍勢が本願寺門徒の拠点を攻撃し、蓮淳が住持を務めていた大津の顕証寺などを焼き払った 1 。これにより、山科本願寺は東西南北の全てから圧力を受け、その包囲網は日増しに狭まっていった。

合戦前夜(八月二十三日):死の包囲網、完成

天文元年8月23日、細川晴元方の諸将、六角定頼率いる近江衆、そして京都から進軍してきた法華一揆衆の全軍が山科盆地に集結。総勢3万とも4万ともいわれる大軍が、山科本願寺を遠巻きに布陣を完了させた 27 。東の粟田口には主力の法華一揆、西の大津口には六角軍、南の汁谷口には山村正次率いる柳本勢、そして北の山々には本願寺に反感を抱く在地領主や土民たちが陣を構え、蟻の這い出る隙間もない完全な包囲網が敷かれた 28

寺内では、数万に及ぶと推定される門徒や住民が、刻一刻と迫る脅威に固唾を飲んでいた。夕刻になると、包囲軍は一斉に篝火を焚き、鬨の声をあげて威嚇する。それに対し、籠城側は土塁や櫓の上で弓や鉄砲を構え、厳重な警戒態勢を敷く。静寂と喧騒が交錯する、嵐の前の不気味な夜が更けていった。

運命の日(八月二十四日):劫火、仏国を呑む

  • 早朝 : 夜が明けると同時に、連合軍による総攻撃の火蓋が切られた。四方の攻撃口から、鬨の声と共に兵士たちが土塁と堀へと殺到する。
  • 午前中 : しかし、山科本願寺の守りは予想以上に堅固であった。巨大な土塁と深い堀は容易な突破を許さず、横矢掛かりの防御施設からは矢や石が雨のように降り注いだ。攻城側は多くの死傷者を出し、戦線は膠着状態に陥る。『私心記』が「昨日ヨリ今日ニ至マデ、城中静ニシテ強也(昨日から今日に至るまで、城中は静かで守りは強固である)」と記した通り、正面からの力攻めは困難を極めた 28
  • 正午頃(午の刻) : 攻防が続く中、戦況を打開するためか、攻城側から和睦の交渉が持ちかけられた。一説には、これは籠城側の油断を誘うための偽計であったとされる 28 。本願寺側はこれに応じ、人質として「兵庫介」という人物を城外に出し、引き換えに「源次郎」という人物を城内に迎え入れようとした 1
  • 同時刻 ― 破局 : この人質交換が行われ、城門が開閉し、籠城側の注意がそちらに集中した、まさにその一瞬の隙を突いて、連合軍の別動隊が行動を起こした。彼らが狙ったのは、かねてより弱点と目されていた南西角の排水口「水落」であった。部隊は水落から寺内への侵入に成功する 1
  • 侵入直後 : 寺内への侵入を果たした兵士たちは、水落のすぐ北側にあった興正寺の堂舎に松明を投げ込み、火を放った 1
  • 午後0時~2時頃(一時之間ニ) : 折からの風にあおられ、火の手は瞬く間に燃え広がった。興正寺から本願寺の中心伽藍である御影堂、阿弥陀堂へと次々に延焼。黒煙が天を覆い、この火災を合図と見たかのように、四方の諸門からも攻城軍が雪崩れ込んできた。堅固な防御ラインは内部から崩壊し、壮麗な寺内町は炎と煙、そして殺戮が渦巻く阿鼻叫喚の巷と化した。その崩壊はあまりにも速く、『私心記』が「一時之間ニ、寺中御坊堂等焼失候(約二時間のうちに、寺内の御坊や堂宇はことごとく焼失した)」と記す通りであった 28
  • 午後 : 組織的な抵抗は完全に終息。かつて「仏国のごとし」と謳われた壮大な宗教都市は、わずか半日の戦闘で、社坊一つ残さず灰燼に帰した 19

この地獄の只中にあって、法主・証如は、合戦以前から大坂御坊に滞在していたため無事であった 1 。一方、山科に籠っていた『私心記』の著者・実従は、混乱の中で本願寺の至宝である親鸞聖人の御影(ごえい)を担ぎ出し、辛うじて戦火の中から脱出させることに成功した。御影は一時、醍醐寺などに避難した後、翌年、大坂へと無事届けられた 1

第五章:灰燼の先に ― 歴史の奔流は止まらず

山科本願寺の焼失は、一つの時代の終わりであると同時に、新たな時代の始まりを告げる出来事であった。この事件は、勝利者と敗者の双方に予期せぬ結果をもたらし、その後の畿内の歴史を大きく動かしていく。本章では、事件が本願寺、法華一揆、そして細川晴元という三者の運命に与えた影響を多角的に分析する。

本願寺のその後 ― 大坂への遷都

総本山を失うという壊滅的な打撃を受けた本願寺であったが、その命脈は絶たれていなかった。法主・証如が難を逃れた大坂御坊が、新たな教団の中心となったのである 1 。翌天文2年(1533年)、山科から運び出された親鸞聖人の御影がこの地に遷座されたことで、大坂御坊は名実ともに本願寺教団の総本山「石山本願寺」となった 6

山科焼討後も、本願寺と細川晴元方の戦いは摂津や河内を舞台に続いたが 1 、本願寺は新たな拠点で着実に力を蓄えていく。大坂は淀川水系の河口に位置し、瀬戸内海と畿内を結ぶ水運の要衝であった。その地政学的な重要性と経済的な潜在力は、内陸の山科を遥かに凌駕していた。この地への「遷都」は、結果的に本願寺をより強大な武装宗教勢力へと変貌させる契機となった。灰燼の中から蘇った本願寺は、この石山を拠点として、約40年後、天下布武を進める織田信長と10年にも及ぶ死闘(石山合戦)を繰り広げることになるのである 45

法華一揆の栄光と没落 ― 天文法華の乱へ

山科本願寺焼討において最大の功労者となった法華一揆は、その勝利の果実を存分に享受した。彼らは細川晴元から京都市中の警衛権などを公的に認められ、地子銭の納入拒否も黙認されるなど、以後約5年間にわたり京都の自治権を掌握し、その権勢は頂点に達した 8

しかし、その栄光は長くは続かなかった。法華一揆の急進的な勢力拡大と排他的な態度は、旧来の権威、とりわけ天台宗の総本山である比叡山延暦寺との間に深刻な対立を生んだ。天文5年(1536年)、両宗派の僧侶・信徒間で行われた宗論での対立が引き金となり、延暦寺は積年の恨みを晴らすべく、六角定頼らと結託して京都への大規模な軍事侵攻を敢行した 7

この「天文法華の乱」において、法華一揆は延暦寺の僧兵と六角軍の前に大敗を喫した。京都にあった法華宗二十一本山はことごとく焼き払われ、数千人ともいわれる死者を出し、法華一揆は完全に壊滅した 7 。彼らの勝利は、わずか数年で自らの破滅を招く序曲に過ぎなかったのである。

細川晴元の誤算 ― 終わらぬ戦乱

細川晴元は、三好元長と山科本願寺という二つの巨大な脅威を立て続けに排除することに成功した。しかし、彼が望んだ畿内の安定は訪れなかった。本願寺との抗争はその後も続き、天文4年(1535年)に和睦が成立するまで、彼の政権は軍事的・経済的に疲弊していった 4

歴史の皮肉は、その和睦の仲介を、かつて自分が本願寺を利用して死に追いやった三好元長の嫡男、三好長慶が務めたことにある 4 。この事件を通じて頭角を現した長慶は、着実に実力を蓄え、やがて主君である晴元を凌駕する存在へと成長していく。晴元が目先の敵を排除するために行った一連の行動は、結果的に自らの政権を内部から蝕む、より強力な敵を育て上げることに繋がったのである 50 。山科本願寺焼討という短期的な勝利は、細川晴元政権の長期的な没落の始まりを告げる号砲でもあった。

結論:山科本願寺焼討が戦国史に残した爪痕

天文元年の山科本願寺焼討は、畿内における中世的秩序の崩壊と、新たな権力構造の模索という、戦国時代の動乱を象徴する一大事件であった。この事件が戦国史全体に与えた影響は、単なる一合戦の勝敗に留まらず、極めて深く、多岐にわたる。

第一に、この事件は宗教勢力のあり方を大きく変質させた。山科本願寺の焼失は、一個の宗教団体が、寺内町という閉鎖的な空間に籠るだけでは政治的・軍事的独立を維持できないという厳しい現実を教団に突きつけた。これを最大の教訓として、本願寺は大坂石山という、より開かれ、かつ戦略的価値の高い地で再起を図り、戦国大名と対等に渡り合うための同盟・外交戦略を強化していく。一方で、勝利の果てに滅び去った法華一揆の末路は、民衆の自治エネルギーが、武家権力の冷徹な論理の前にはいかに脆いものであるかを露呈させた 52

第二に、この事件は後の天下統一事業への道筋に重要な示唆を与えた。細川晴元が、宗教勢力同士を争わせ、一方に加担して他方を殲滅するという手法を用いたことは、織田信長による比叡山延暦寺焼討や石山合戦における徹底した殲滅戦の先駆的事例と見なすことができる。山科本願寺の存在とその破壊は、天下統一を目指す次代の権力者にとって、巨大な寺社勢力をいかにして国家の統制下に組み込むかという、避けては通れない課題を明確に提示したのである 54

第三に、畿内の権力闘争を新たな局面へと移行させた。この事件は、細川晴元政権の権勢が頂点に達した瞬間であると同時に、その没落の始まりを告げる転換点であった。事件を通じて生じた権力バランスの流動化は、三好長慶という新たな梟雄の台頭を促し、畿内の政治の中心は、足利将軍と管領細川氏による中世的な「公方―管領体制」から、実力者が覇を競う「下剋上」の時代、すなわち三好政権、そして織田政権へと続く大きな歴史の奔流の中に位置づけられる。

総括すれば、山科本願寺焼討は、信仰の力が政治を動かし、政治の論理が信仰の場を焼き払うという、戦国時代の混沌を凝縮した出来事であった。この劫火の中から、本願寺はより強大な存在として蘇り、畿内の勢力図は新たな時代へと塗り替えられていった。山科の地に残された巨大な土塁の遺構は、かつてこの地に存在した「仏国」の夢の跡であると同時に、戦国という時代の非情さと、その中から新しい秩序を生み出そうとする人々の激しいエネルギーの証として、今なお静かに歴史を物語っている。

引用文献

  1. 【百二】 「山科興正寺の焼失」 ~山科寺内町焼亡の際、最初に燃えた https://www.koshoji.or.jp/shiwa_102.html
  2. 天文の錯乱・山科本願寺焼失と『祇園執行日記』に見える京都周辺の情勢 https://amago.hatenablog.com/entry/2015/06/15/125654
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