最終更新日 2025-09-01

岩付城の戦い(1560~69)

永禄年間、岩付城は太田資正の反北条路線と上杉謙信への依存により激戦の舞台となるも、松山城失陥、国府台敗北を経て、嫡男氏資のクーデターで無血開城。氏資の戦死で岩付太田氏は断絶し、後北条氏の支配下へ。

永禄年間における岩付城の攻防史(1560-1569)― 関東の覇権を巡る十年戦争の実像 ―

序章:嵐の前の静寂 ― 1560年以前の関東と岩付城

永禄年間(1560-1570)の幕開け前夜、関東地方の勢力図は、一つの巨大な画期を経て大きく塗り替えられていた。天文15年(1546年)の河越夜戦における扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の劇的な滅亡は、関東の旧秩序の崩壊を決定づけた 1 。この戦いを制した相模の雄・後北条氏は、伊勢宗瑞(北条早雲)の代から続く関東経略を飛躍的に進展させ、武蔵国における支配を盤石なものとしつつあった。かつて関東公方や両上杉氏が君臨した時代は終わりを告げ、在地領主(国衆)たちは、新興勢力である後北条氏への服属か、あるいは滅亡を覚悟した徹底抗戦か、という厳しい選択を迫られていたのである。

このような激動の時代にあって、武蔵国東部に位置する岩付城(現在の埼玉県さいたま市岩槻区)は、反北条勢力の最後の牙城として、極めて重要な戦略的意味を帯びていた。城主は太田資正(おおた すけまさ)。江戸城を築いたことで知られる太田道灌の曾孫であり、滅び去った主家・扇谷上杉氏への忠義を貫き、後北条氏に対して一貫して反抗の姿勢を崩さない、気骨ある武将であった 3 。その姿勢は、兄・資顕が親北条路線を採ったことで兄弟間の不和を招くほどに徹底しており、太田家内部には既に対立の火種が燻っていた 1

資正がその抵抗を可能にした背景には、岩付城の地理的優位性があった。この城は、荒川(現在の元荒川)の流れと広大な沼沢地に三方を囲まれた天然の要害であり、容易に大軍が接近できる構造ではなかった 3 。石垣を用いず、土塁と堀を主体とした関東特有の平山城であり、その防御力は多分に自然地形に依存していた 7 。しかし、ここで留意すべき極めて重要な事実がある。後年、岩付城の象徴として語られる、城下町全体を囲い込む巨大な惣構(そうがまえ)「大構(おおがまえ)」や、後北条氏特有の築城技術である障子堀(しょうじぼり)といった高度な防御施設は、この1560年代にはまだ存在していなかった 3 。これらの大規模な改修は、天正年間後期(1580年代後半)、豊臣秀吉との全面対決を想定した後北条氏主導で行われたものである。したがって、太田資正が城主であったこの時代、岩付城は未だ「発展途上」の要塞であり、その防衛戦略は、城郭の物理的な堅固さ以上に、外部勢力との連携、すなわち越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の軍事力に大きく依存せざるを得ない状況にあった。この点が、永禄年間の岩付城を巡る一連の攻防を理解する上での鍵となる。


【表1:主要登場人物と所属勢力一覧(1560年時点)】

勢力

主要人物

役職・立場

1560年時点での動向

後北条氏

北条氏康

相模の戦国大名

関東の覇権を確立し、武蔵国への支配を強化。

北条氏政

氏康の嫡男

父と共に軍事・政治を主導。

上杉(長尾)氏

長尾景虎

越後の戦国大名

関東管領・上杉憲政を保護し、関東出兵を計画。

上杉憲政

前関東管領

景虎を頼り、関東への復帰を目指す。

岩付太田氏

太田資正

岩付城主

扇谷上杉氏滅亡後も、反北条の姿勢を貫く。

太田氏資

資正の嫡男

父の反北条路線に懐疑的。後に北条氏康の娘を娶る。

里見氏

里見義弘

安房・上総の戦国大名

後北条氏と房総の覇権を巡り激しく対立。太田資正の盟友。


第一章:越後の龍、関東へ ― 上杉謙信の関東出兵と岩付城(1560~1561年)

永禄3年(1560年)、関東の政治情勢は新たな局面を迎える。越後の「龍」と称された長尾景虎が、遂に関東への大規模な軍事介入を開始したのである。景虎は、後北条氏に追われて越後に亡命していた関東管領・上杉憲政を奉じ、「関東の旧秩序回復」という大義名分を掲げて越山(えつざん)した 9 。この軍事行動には絶好の追い風が吹いていた。同年5月、駿河の今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれたことで、後北条氏、武田氏、今川氏の間で結ばれていた甲相駿三国同盟の一角が崩れ、後北条氏は東からの脅威に備える必要が生じたからである 11

この越後の龍の到来に、関東の反北条勢力は沸き立った。その中でも、誰よりも早く景虎に呼応したのが、岩付城主・太田資正であった 13 。長年の孤立した戦いに喘いでいた資正にとって、景虎の軍勢はまさに乾天の慈雨であった。彼はすぐさま景虎軍に馳せ参じ、岩付城を反北条連合軍の北武蔵における最重要拠点として提供した。資正の決断は、旧主・上杉家への忠義を果たすと同時に、関東の支配者たる後北条氏を打倒するための、乾坤一擲の賭けであった。

景虎の勢いは凄まじく、彼の檄に応じて関東各地の国衆が次々と参陣した。その軍勢は、一説には十万を超す大軍に膨れ上がり、破竹の勢いで後北条氏の諸城を攻略していった 11 。そして永禄4年(1561年)3月、連合軍は遂に後北条氏の本拠地である小田原城を包囲するに至る。しかし、「難攻不落」を謳われた小田原城の守りは固く、連合軍は力攻めを断念せざるを得なかった 15 。長期化する包囲戦の中で、元々独立性の高い関東国衆の足並みは乱れ始め、兵糧の問題も深刻化していった。鶴岡八幡宮で行われた関東管領の就任式において、景虎が礼を欠いたとして成田長泰を打擲(ちょうちゃく)した逸話は、景虎と関東国衆の間に生じていた軋轢を象徴している 15

結局、景虎は小田原城の攻略を諦め、鎌倉で上杉憲政から関東管領職と上杉の姓を譲り受けて「上杉政虎(後の輝虎、謙信)」と名を改めた後、同年6月には越後へと帰国してしまう 15 。この一連の出来事は、太田資正にとって諸刃の剣であった。確かに、謙信の力は後北条氏を滅亡寸前まで追い詰め、資正の反北条路線が正当であったことを一時的に証明した。しかし、その一方で、深刻な構造的問題を露呈させる結果となった。謙信はあくまで越後の領主であり、関東に常駐するわけではない。彼が関東から去れば、勢力を回復した「地元の巨人」である後北条氏の報復の圧力を、関東に残る資正が一身に受け止めなければならない。謙信という強力な「梯子」は、いつでも外される危険性を孕んでいた。この謙信への過度な依存と、その不在時の脆弱性こそが、この後の太田資正と岩付城の悲劇的な運命を決定づけることになる。

第二章:武蔵の死闘 ― 松山城争奪戦と軍用犬の逸話(1562~1563年)

上杉謙信が越後へ帰国すると、後北条氏康は直ちに反撃を開始した。その最初の主要な目標となったのが、北武蔵の要衝・松山城(現在の埼玉県吉見町)であった 17 。松山城は岩付城の重要な支城であり、上杉方と北条方の勢力圏が直接衝突する最前線に位置していた。この城を奪還することは、後北条氏にとって武蔵における失地回復の第一歩を意味した。

永禄5年(1562年)11月、氏康は同盟者である甲斐の武田信玄からの援軍1万5千を加え、総勢5万ともいわれる大軍で松山城を包囲した 17 。城を守るのは、謙信によって城代に任じられていた上杉憲勝であった。城兵の数に比して、攻め手の兵力は圧倒的であった。この松山城の危機に際し、岩付城の太田資正は後詰(救援部隊)として奮戦する。この時、資正が用いたとされる奇策が、後世に「三楽犬(さんらくけん)の入替え」として語り継がれる逸話である。資正は日頃から岩付城と松山城でそれぞれ多数の犬を飼育しており、この犬の習性を利用して、密書を入れた竹筒を首に付け、両城間を往復させて連絡を取り合ったという 13 。これは、日本史上における軍用犬の早期の事例とも言われ、追い詰められた資正の機知と、必死の抵抗を物語っている。

資正の奮闘と松山城の堅固な守りにより、後北条・武田連合軍は攻めあぐねた。金堀人夫を使った坑道戦術も、城方の抵抗によって失敗に終わる 17 。しかし、戦況を決定づけたのは、天候であった。救援に向かうべく越後を出立した謙信の軍勢が、関東平野を襲った大雪によって進軍を阻まれてしまったのである。この状況を好機と見た後北条方は、城将・上杉憲勝に対し、「謙信の救援は雪で絶望的である」と説き、降伏を勧告した。度重なる攻撃で疲弊していた城兵の士気は低く、憲勝は遂に永禄6年(1563年)2月、降伏勧告を受け入れ開城した 17

雪を乗り越え、ようやく北武蔵まで進軍してきた謙信が松山城陥落の報に接した時の怒りは凄まじく、「憲勝の臆病者めが」と罵り、その怒りの矛先は太田資正にも向けられたと伝えられている 17 。この松山城の失陥は、単なる一城の喪失以上の深刻な影響を資正にもたらした。それは、彼の基本戦略であった「謙信との連携による反北条路線」の脆弱性を、岩付城の家臣団の目前に無残にも露呈させたからである。遠国の謙信の救援は、必ずしも間に合うとは限らない。一方で、後北条氏は武田氏とも連携し、関東において恒常的かつ圧倒的な軍事力を維持している。この現実は、資正の嫡男・氏資をはじめとする城内の親北条派にとって、「遠い謙信よりも、近くの北条と和睦する方が、太田家の安泰にとって現実的である」という主張を強力に裏付ける格好の材料となった。松山城の陥落は、資正の威信を大きく傷つけ、岩付城内における父子の路線対立を、もはや修復不可能な段階へと進める決定的な転換点となったのである。

第三章:運命の転換点 ― 第二次国府台合戦と太田資正の敗北(1564年)

松山城の失陥により、武蔵における上杉方の勢力は大きく後退した。追い詰められた太田資正は、起死回生を図るべく、最後の大規模な攻勢に出る。永禄7年(1564年)1月、資正は房総半島に勢力を持つ安房・上総の雄、里見義弘と連合し、後北条氏に決戦を挑んだ 20 。この戦いは、関東に残る反北条勢力が総力を結集した、文字通り最後の賭けであった。

決戦の舞台は、下総国の国府台(現在の千葉県市川市)。ここはかつて、里見氏と後北条氏が雌雄を決した因縁の地でもあった。緒戦は、里見・太田連合軍が優位に進めた。連合軍の猛攻の前に、後北条軍の先鋒部隊は打ち破られ、江戸城代の遠山綱景らが討ち死にするなど、大きな損害を受けた 16 。この勝利に、連合軍の士気は大いに上がった。

しかし、この緒戦の勝利が、連合軍に致命的な油断を生じさせた。特に里見軍は、勝利に気を良くして国府台で祝宴を開き始めたと伝えられている 22 。この一瞬の隙を、百戦錬磨の将である北条氏康・氏政父子が見逃すはずはなかった。後北条軍は体勢を立て直すと、油断している連合軍に奇襲を敢行。不意を突かれた連合軍は混乱に陥り、指揮系統は麻痺し、総崩れとなった 2 。この戦いで連合軍は壊滅的な打撃を受け、太田資正も命からがら戦場を離脱し、居城である岩付城へと逃げ帰った 20

この第二次国府台合戦での惨敗は、太田資正の軍事的・政治的権威を完全に失墜させた。松山城の救援失敗に続き、今度は自らが主力として参加した決戦で大敗を喫したのである。これにより、資正が掲げ続けた「反北条」という路線が、軍事的に破綻していることを誰の目にも明らかにしてしまった。武家社会において、指導者の権威は軍事的な勝利によって最も強く担保される。その権威が地に堕ちた今、城内において父の路線に反対してきた勢力、すなわち嫡男・氏資らが行動を起こすための絶好の機会が訪れた。もはや父・資正の指揮下では太田家の存続は危うい、という大義名分が、来るべきクーデターを正当化する強力な論理として機能し始めたのである。国府台での敗北は、単なる戦術的な失敗に留まらなかった。それは、太田資正という一人の武将の時代の終わりを告げる鐘の音であり、岩付城の運命を内部から変える、政変への引き金であった。

第四章:城は内より堕つ ― 太田父子の確執と岩付城の無血開城(1564年)

第二次国府台合戦の敗北は、岩付城内に燻り続けていた対立の火に油を注いだ。滅び去った旧主への忠義を重んじ、上杉謙信との連携に活路を見出そうとする父・資正の「反北条・親上杉」路線と、関東の実質的な支配者である後北条氏に服属することで一族の存続を図ろうとする嫡男・氏資の「親北条」路線。この二つの路線対立は、父の権威失墜を機に、もはや共存不可能な段階にまで先鋭化した 6

この父子の深刻な不和を、後北条氏康が見逃すはずはなかった。彼は武力による攻略と並行して、巧みな調略を巡らせていた。氏康は自らの娘(長林院)を氏資に嫁がせるという婚姻政策によって、岩付城の中枢に強力な親北条派の楔を打ち込んだのである 14 。そもそも、氏資の「氏」の字は後北条氏から与えられた偏諱(へんき)であり、両者の間には既に深い主従関係が形成されていた 3 。後北条氏の戦略は、城を外から攻めるのではなく、内側から切り崩すことにあった。

そして、運命の時が訪れる。国府台合戦から約半年後の永禄7年(1564年)7月23日、太田氏資は遂にクーデターを決行した 14 。彼は、河目氏をはじめとする城内の親北条派の家臣たちと密かに連携し、父・資正の追放を断行したのである 21 。軍事的権威を失い、家臣の支持も離れていた資正に、もはや抵抗する術はなかった。長年守り抜いてきた居城・岩付城から追放された資正は、常陸の佐竹義重を頼って落ち延び、以後、生涯をかけて武蔵奪還を目指すことになる 2

この内部からの崩壊により、かつて上杉謙信の大軍ですら落とせなかった後北条氏が、一滴の血も流すことなく岩付城を手中に収めた。これは、後北条氏の軍事力と、敵の内部矛盾を巧みに突く高度な政治戦略とが見事に結実した瞬間であった。利用者様が問うた1560年代の「岩付城の戦い」の核心は、実は物理的な城壁を巡る攻防戦ではなかった。それは、岩付城という一つの「家」の中で繰り広げられた、古い価値観(忠義や名誉)と新しい価値観(現実主義的な存続戦略)の戦いであった。そして、その世代間の価値観の断絶を利用し、最小のコストで最大の成果を上げた後北条氏の、見事な情報戦、心理戦、そして外交戦の勝利だったのである。

第五章:束の間の栄光と終焉 ― 太田氏資の治世と三船山の露(1565~1567年)

父を追放し、岩付城主となった太田氏資の治世は、岩付太田氏が後北条氏の関東支配体制に完全に組み込まれたことを意味した。もはや独立した国衆ではなく、後北条氏の有力な一門として、その軍事行動に動員される存在となったのである 23 。氏資は、後北条氏政の指揮下で関東各地の戦いに従軍し、その忠誠を示した。

しかし、その治世は長くは続かなかった。永禄10年(1567年)8月、後北条氏政は、宿敵である里見氏の拠点・佐貫城を攻略するため、大軍を率いて上総国へと侵攻した。太田氏資も、岩付の兵を率いてこの軍に加わっていた 24 。これに対し、里見義弘は居城を出て、三船山(現在の千葉県君津市・富津市)に布陣する後北条軍を迎え撃った。これが三船山合戦である 25

戦いは、地の利を得た里見軍の巧みな誘導作戦によって、後北条軍の歴史的な大敗に終わった 24 。沼沢地に誘い込まれ、身動きが取れなくなった後北条軍は混乱に陥り、多数の死傷者を出して敗走する。この絶望的な退却戦において、最も危険な殿(しんがり)の任を務めたのが、太田氏資であった。彼はわずかな手勢を率いて追撃する里見軍の前に立ちはだかり、主君・氏政を逃がすために獅子奮迅の働きを見せたが、衆寡敵せず、遂にこの地で討ち死を遂げた 25

氏資の死は、一つの大きな皮肉な結末をもたらした。彼には男子がおらず、その戦死によって岩付太田氏の正嫡の血筋は断絶してしまったのである 23 。氏資が生きている間は、岩付城は形式上「太田氏の城」であり、後北条氏の一門とはいえ、そこには名門としての独立性がわずかに残されていた。しかし、後継者を失った今、後北条氏は太田氏の家督と所領を、いわば合法的に接収することが可能となった。氏政は、戦死した氏資の娘に自らの三男・国増丸(後の太田源五郎)を婿入りさせ、太田氏の名跡を継がせた 23 。これにより、岩付太田氏は事実上、後北条氏に乗っ取られる形でその歴史に幕を閉じた。父を裏切り、後北条氏への忠誠を誓うことで一族の存続を図った氏資であったが、その忠誠の果ての死が、皮肉にも自らの家を他家に明け渡す道を開いてしまったのである。彼の生涯は、巨大勢力に飲み込まれていく小領主の悲劇を象徴していた。


【表2:永禄年間(1560~1569年)岩付城関連年表】

西暦

和暦

岩付城および太田氏の動向

関東全体の主要な出来事

1560年

永禄3年

太田資正、長尾景虎の関東出兵に呼応。岩付城が反北条連合の拠点となる。

長尾景虎(上杉謙信)が関東へ出兵。

1561年

永禄4年

資正、小田原城包囲に参加。

上杉政虎(謙信)、小田原城を包囲するも攻略できず越後へ帰国。

1562年

永禄5年

支城・松山城が後北条・武田連合軍に包囲される。資正、軍用犬を用いて連絡。

-

1563年

永禄6年

松山城が陥落。資正の戦略に大きな打撃。

武蔵松山城の戦い。後北条方が奪還。

1564年

永禄7年

1月:資正、第二次国府台合戦で里見氏と共に後北条軍に大敗。 7月:嫡男・氏資のクーデターにより、資正は岩付城を追放される。氏資が城主となり、後北条氏に完全に服属。

第二次国府台合戦。里見・太田連合軍が敗北。

1565年

永禄8年

氏資、後北条氏の武将として各地の戦いに従軍。

-

1566年

永禄9年

-

-

1567年

永禄10年

城主・太田氏資、三船山合戦で殿を務め討死。岩付太田氏の正嫡が断絶。

三船山合戦。後北条軍が里見軍に大敗。

1568年

永禄11年

氏資の死後、北条氏政の三男・国増丸が太田氏の名跡を継ぎ、岩付城主となる。

-

1569年

永禄12年

岩付城は後北条氏の直轄支城として、その支配体制に組み込まれる。

後北条氏と上杉氏の間で越相同盟の交渉が始まる。


第六章:新時代の到来 ― 後北条氏の直接支配と関東の安定(1568~1569年)

太田氏資の戦死は、岩付城の歴史における一つの時代の完全な終わりを意味した。氏資の跡を継いだのは、北条氏政の三男・国増丸であり、彼が早逝すると、さらにその弟である氏房が城主となった 23 。これにより、岩付城はもはや太田氏の城ではなく、名実ともに後北条氏の直轄支城へと変貌を遂げた。かつて反北条の牙城であった城は、今やその後北条氏の支配を支える重要な拠点の一つとなったのである。

岩付城は、小田原城を本城とし、玉縄城、滝山城、河越城といった主要支城を結んで形成される、後北条氏の広域防衛網「支城ネットワーク」の重要な一角に組み込まれた。武蔵国東部の要衝に位置する岩付城が後北条氏の直接支配下に入ったことで、この地域の支配体制は盤石なものとなり、常陸の佐竹氏や下野の宇都宮氏といった北関東の勢力に対する防衛線が大きく強化された。

1569年頃になると、関東全体の情勢もまた、新たな安定期へと向かっていた。長年にわたり激しい抗争を繰り広げてきた後北条氏と上杉氏の間で、同盟(越相同盟)の交渉が開始されたのである 1 。これは、西から勢力を拡大する織田信長や、甲斐の武田信玄といった共通の脅威に対抗するための戦略的な動きであり、関東における大規模な戦乱は一時的に沈静化していった。

太田資正は依然として常陸の地で佐竹氏の庇護下にあり、武蔵奪還の機会を窺い続けていたが、もはや関東の大勢を覆す力は残されていなかった。1560年、上杉謙信の越山に呼応して始まった岩付城を巡る十年間の動乱は、1569年、城が後北条氏の完全な支配下に置かれ、関東に一時的な平和が訪れるという形で、一つの終結を見たのである。

終章:岩付城が語るもの ― 十年の攻防が残した歴史的意義

本報告書で詳述してきたように、「岩付城の戦い(1560-1569)」とは、単一の合戦を指すものではない。それは、関東の覇権、一つの城の支配、そして一族の存続を巡って繰り広げられた、十年間にわたる連続した軍事・政治ドラマであった。その過程は、戦国時代という変革期において、在地領主たちが如何に巨大勢力の狭間で翻弄され、苦悩に満ちた選択を迫られたかを如実に物語っている。

その中心人物である太田資正の生涯は、多角的な評価を可能にする。滅び去った主家への忠義を貫き、旧時代の秩序に殉じた悲劇の将と見ることもできれば、関東の実情という大きな時代の流れを読み切れなかった頑固な武将と見ることもできるだろう。しかし、彼の選択と行動は、新旧の価値観が激しく衝突する過渡期を生きた、一人の在地領主の苦悩そのものを象徴している。

そして岩付城の事例は、戦国期における城郭の役割が、単なる軍事拠点に留まらない多層的なものであったことを我々に教えてくれる。城は、外交の駆け引きの舞台となり、調略が渦巻く中心地となり、時には一族内部の権力闘争が決着する場ともなった。岩付城は、物理的な攻撃によってではなく、内部の対立と、それに付け込んだ高度な政治戦略によって「陥落」した。城は外から攻め落とされるだけではなく、内側から、あるいは政治的に崩れ落ちるものである。永禄年間の岩付城を巡る十年の攻防史は、戦国という時代の複雑さと、そこに生きた人々の相克を、今に伝え続ける貴重な歴史の証言なのである。

引用文献

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  3. かつては周囲8kmもある巨大な城だった岩槻城【さいたま市岩槻区 ... https://www.rekishijin.com/20391
  4. 太田資正(おおた すけまさ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E8%B3%87%E6%AD%A3-1060535
  5. 日本初の軍用犬を飼育!?打倒北条に燃えた智将・太田資正 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=EPHTuk3hBoQ
  6. 武家家伝_太田氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ota_k.html
  7. 最大級の水堀を誇った、岩槻城!太田道灌の3名城(諸説あり) https://www.pasonisan.com/rvw_trip/saitama/iwatuki.html
  8. さいたま市/岩槻城跡を探る https://www.city.saitama.lg.jp/004/005/006/013/002/p078002.html
  9. 越 後 が 生 ん だ 戦 国 の 名 将 - 上越観光Navi https://joetsukankonavi.jp/files/pamphlet/kenshinkou.pdf
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  11. 【これを読めばだいたい分かる】上杉謙信の歴史 - note https://note.com/sengoku_irotuya/n/nf245ce588cdb
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