最終更新日 2025-09-01

岩付城(武蔵)再包囲(1564)

永禄七年、武蔵岩付城は北条氏康の謀略により、父子対立から内部崩壊。外部からの攻撃なく城主が追放され、北条氏の関東支配が盤石となった。
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永禄七年 岩付城の変:武力なき「包囲」と内部崩壊の真相

序章:永禄七年、武蔵岩付城に垂れ込めた暗雲

永禄七年(1564年)、武蔵国(現在の埼玉県周辺)の中央に位置する岩付城は、関東の覇権を巡る巨大な渦の中心にあった。この城は、単なる軍事拠点ではない。北の上杉謙信と南の北条氏康、二大勢力が睨み合う最前線であり、その帰趨は関東全体の力学を左右する戦略的要衝であった 1 。元荒川を天然の要害とするこの堅城は 3 、反北条勢力にとっては相模国小田原を窺うための喉元に突きつけられた刃であり、北条氏にとっては上杉の南下を阻み、北関東へ支配を拡大するための橋頭堡であった 4

この時代の関東は、二人の傑出した戦国大名によって動かされていた。一人は、天文十五年(1546年)の河越夜戦における劇的な勝利以降、着実に関東での支配体制を固めつつあった「相模の獅子」北条氏康である 5 。もう一人は、故郷を追われた関東管領・上杉憲政を保護し、「義」を掲げて越後から幾度となく関東へ出兵(越山)する「越後の龍」上杉謙信(当時は長尾景虎)であった 8 。両者の対立は、関東に割拠する国衆たちに踏み絵を迫り、地域全体を親北条派と反北条派に二分する根源的な対立軸を形成していた。

本報告書が主題とする「岩付城(武蔵)再包囲(1564)」という事象は、しばしば軍記物語などにおいて、北条の大軍が城を幾重にも取り囲む、壮大な攻城戦として描かれがちである。しかし、現存する史料を丹念に読み解くと、その様相は大きく異なる。永禄七年に岩付城で起こったのは、城外からの武力攻撃による「落城」ではなく、父子の対立と北条氏の巧みな謀略が絡み合った、内側からの「崩壊劇」であった 12 。本報告書は、この「再包囲」という通説に疑問を呈し、情報戦と心理戦の末に引き起こされた内部クーデターとしての真相に迫るものである。

第一章:抗争の前史 ― 北条の伸張と上杉の介入

永禄七年の悲劇に至る道筋は、約二十年前に遡る。この章では、岩付城主・太田資正がなぜ頑ななまでに反北条の道を歩んだのか、そしてその嫡男・氏資がなぜ父とは逆に親北条へと傾いていったのか、その背景にある関東の情勢と太田家内部の力学を解き明かす。

河越夜戦と扇谷上杉氏の滅亡

天文十五年(1546年)、北条氏康は河越城を包囲する上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の八万ともいわれる大連合軍に対し、わずか一万余の兵力で夜襲を敢行し、これを壊滅させた 6 。日本三大奇襲の一つに数えられるこの「河越夜戦」は、関東の勢力図を一夜にして塗り替える画期的な戦いであった 7 。この戦いで太田資正が主君と仰いだ扇谷上杉家の当主・上杉朝定は討死し、名門・扇谷上杉氏は事実上滅亡する 6

主家を失った資正は、反北条の旗を掲げ続けるも、圧倒的な北条の軍事力の前に抗しきれず、天文十七年(1548年)、北条の大軍に岩付城を包囲され、一度は降伏を余儀なくされる 17 。しかし、これは資正の本意ではなかった。彼は北条氏の支配下にあって独立を保つ機会を窺う、複雑な立場に置かれることとなった。

上杉謙信の関東出兵と太田資正の呼応

転機は永禄三年(1560年)に訪れる。上杉憲政を奉じた上杉謙信が、関東の秩序回復を大義名分として大軍を率いて関東へ進出すると、これまで北条氏に圧迫されていた関東の諸将は、堰を切ったように謙信の下に馳せ参じた 9

この機を、太田資正は見逃さなかった。彼は誰よりも早く謙信に呼応し、反北条の旗幟を鮮明にする。謙信が関東の諸将を率いて北条氏の本拠地・小田原城を包囲した際には、その先鋒を務めるなど、反北条連合軍の中核として活躍した 9 。これは、滅亡した旧主・扇谷上杉氏の無念を晴らし、江戸城を築いた太田道灌の末裔としての名門・太田氏の復権を賭けた、資正の執念の表れであった。

父子に生じた致命的な亀裂

一方、北条氏康は単なる武力による制圧だけでなく、謀略をもって敵を切り崩す術に長けた稀代の戦略家であった。彼は、反北条派の急先鋒である資正を内側から揺さぶるため、巧みな政略結婚を仕掛ける。自らの娘・長林院を、資正の嫡男である源五郎(後の氏資)に嫁がせたのである 12 。これは、太田家の家督継承者に楔を打ち込み、父子の間に不和の種を蒔く、長期的な視野に立った一手であった。

父・資正が上杉方として命を賭して戦う一方で、妻が北条家出身である嫡男・氏資は、極めて難しい立場に立たされた。舅である北条氏康と、実父である太田資正。両者の間で板挟みとなった氏資の心は、次第に父から離れ、現実的な勢力を持つ北条方へと傾いていく。この立場の違いが、後に岩付城を内部から崩壊させる、致命的な亀裂を生み出す温床となったのである 12

氏資のこの選択は、単なる親不孝や裏切りという言葉で片付けられるものではない。父・資正の反北条路線は、旧主への忠義や名門としての意地といった、ある意味で過去の秩序に根差したものであった 20 。しかし、河越夜戦以降の関東の現実は、北条氏による圧倒的な支配体制が確立されつつあるという冷厳な事実であった 2 。次代の当主として、この現実を直視した氏資にとって、父の路線は太田家そのものを滅亡に導きかねない無謀な賭けに映ったとしても不思議ではない。北条氏康の娘を娶っている以上、北条方につくことは、「家」の存続という戦国武将にとっての至上命題を最優先するならば、最も合理的かつ現実的な政治判断であったと解釈できる。氏康の謀略は、まさにこの「家」の論理を突いたものであり、1564年のクーデターは、この長期的な布石が一気に結実した瞬間であった。

表1:主要人物と所属勢力(永禄七年時点)

人物名

所属勢力

立場・関係性

太田資正

上杉方

岩付城主。反北条派の筆頭。

太田氏資

親北条派

資正の嫡男。氏康の娘婿。

北条氏康

北条方

相模の戦国大名。関東の覇者。

北条氏政

北条方

氏康の嫡男。北条家当主。

上杉謙信

上杉方

越後の戦国大名。関東管領。

里見義弘

上杉方

安房の戦国大名。反北条派。

第二章:決戦、第二次国府台合戦

岩付城の運命を決定づけた直接の引き金は、永禄七年(1564年)正月に勃発した「第二次国府台合戦」であった。この戦いは、太田資正にとって起死回生を狙った一大攻勢であったが、その結果は彼の期待とは真逆の、破滅的な結末をもたらした。

永禄七年正月:反北条連合の結成と進軍

永禄六年(1563年)から関東に滞在していた上杉謙信の動きに呼応し、太田資正は房総半島に勢力を持つ安房の里見義弘と連合軍を結成した 16 。両軍は正月四日には下総国府台(現在の千葉県市川市)に進出し、北条方の重要拠点である江戸城や葛西城を直接脅かす一大拠点を築いた 25 。この動きには、北条方の勢力圏に孤立しがちであった岩付城へ兵糧を運び込むという、戦術的な目的も含まれていたとされる 25

この行動は、資正の置かれた苦しい状況を打開するための、最後の賭けであった。永禄四年の小田原包囲の後、謙信が越後へ帰国すると、関東における北条氏の圧力は再び強まっていた 25 。資正が拠点とする岩付城と松山城は、広大な北条勢力圏に浮かぶ孤島と化しつつあった 4 。このまま籠城を続けてもジリ貧になることは明らかであり、資正は里見氏との連携による攻勢によって、戦局を一気に打開しようとしたのである。これは、守勢に回るのではなく、能動的な行動によって活路を見出そうとする、資正の不屈の武将としての気質を示すものであった 20

合戦の推移と連合軍の壊滅

この報を江戸城からの知らせでいち早く察知した北条氏康・氏政父子は、迅速に迎撃軍を編成し、国府台へと向かった。両軍は国府台周辺で激突する 24

緒戦は、里見・太田連合軍が優勢に進んだ。里見軍の精鋭・正木時茂らの活躍により、北条方の先鋒であった遠山綱景・富永直勝といった有力武将を討ち取るという大きな戦果を挙げた 5 。この勝利に連合軍内には楽観的な雰囲気が広がり、祝宴を開くなど油断が生じたとされる。

しかし、老練な氏康はこの隙を見逃さなかった。彼は軍を再編し、油断していた連合軍に奇襲を敢行。不意を突かれた連合軍は混乱に陥り、総崩れとなった 5 。この一戦で連合軍は壊滅的な打撃を受け、里見義弘はわずかな手勢とともに本拠地である安房へと敗走した。

資正の敗走と岩付城の完全なる孤立

太田資正もまた、この戦いで大敗を喫し、命からがら居城の岩付城へと逃げ帰った 24 。この敗戦がもたらした影響は、単なる軍事的な損失に留まらなかった。まず、資正は反北条派の盟主として、その威信を大きく失墜させた。そして、より致命的だったのは、戦略的な状況の変化である。関東における上杉方の有力な連携相手であった里見氏が房総半島へ後退したことで、資正の岩付城は、北条方の勢力圏内に完全に孤立無援で取り残されることになったのである 25 。資正が打った起死回生の賭けは、裏目に出て自らの首を絞める結果となり、岩付城内の権力バランスを揺るがし、嫡男・氏資のクーデターを誘発する直接的な原因となった。

第三章:岩付城、内なる敵 ― 父子相克のリアルタイム再現

国府台での敗戦から約半年後、岩付城は一発の矢も放たれることなく、その主を変えた。この章では、外部からの攻撃ではなく、内部の対立によって城が崩壊していく過程を、断片的な史料をつなぎ合わせ、時系列に沿って再現する。これは、武力によらない「再包囲」の実態である。

表2:永禄七年(1564年)主要関連年表

時期

出来事

関連人物

影響

正月

第二次国府台合戦

資正, 義弘 vs 氏康, 氏政

里見・太田連合軍の敗北。岩付城の孤立が決定的に。

正月~七月

岩付城の「戦略的包囲」

資正, 氏資, 氏康

北条方による心理的・政治的圧力の強化。城内の親北条派が台頭。

不明(この期間)

家督継承問題の浮上

資正, 氏資, 政景

追い詰められた資正が氏資の廃嫡を画策。父子の対立が頂点に達する。

七月二十三日

クーデター決行

氏資

氏資が親北条派の家臣と共に蜂起。資正・政景父子を岩付城から追放。

七月以降

岩付城の北条方への帰属

氏資, 氏康

氏資が城主となり、北条氏の支配下に入る。「氏資」と改名。

(正月~七月)静かなる包囲 ― 北条方の心理戦と内部工作

国府台合戦の後、北条軍が岩付城に対して大規模な軍事攻撃を仕掛けたという記録はほとんど見られない。むしろ、氏康が選択したのは、より狡猾で効果的な「戦略的包囲」であった。彼は岩付城の周辺にある支城への圧力を強め、兵糧や情報の補給路を断つことで、城を物理的に、そして心理的に締め上げていったと推測される 23

この「静かなる包囲」は、城内に深刻な影響を及ぼした。外部からの支援が期待できない中、城内の士気は低下し、将来への不安が募っていった。このような状況は、北条氏康にとって絶好の機会であった。彼は密かに城内の太田氏資や、もとより親北条であった家臣団と連絡を取り、内部からの切り崩しを画策した。国府台での敗戦によって父・資正の求心力が著しく低下した今、その策謀は着実に実を結びつつあった。この戦略的包囲の本質は、物理的な軍事力ではなく、情報戦、心理戦、そして政治工作を駆使して敵を内側から崩壊させることにあった。

(時期不明)最後の引き金 ― 家督継承問題

戦略的に包囲され、城内での支持も失いつつあった太田資正は、最後の抵抗を試みる。それは、もはや自らの意に従わない親北条の嫡男・氏資を廃し、意のままになる次男の梶原政景に家督を譲るという、苦渋の決断であった 13

しかし、この動きは氏資の耳にも入る。父が自らの廃嫡を考えていると知った氏資にとって、もはや父に従うという選択肢は完全に消滅した。父に従えば自らの地位と生命が危うい。一方で、北条に付けば、家督と太田家の存続が約束される。この究極の二者択一が、氏資にクーデターを決行させる直接的な動機となった。資正のこの一手は、結果的に息子の背中を押し、自らの追放劇の引き金を引くことになったのである。

この父子の対立には、情報格差が大きく影響していた可能性が高い。孤立した資正は、城外の正確な情報、特に頼みの綱である上杉謙信の動向を掴むことが困難になっていたであろう。彼は、いずれ謙信が援軍に来るという希望的観測に頼っていたかもしれない 25 。対照的に、城内の氏資は北条方から「謙信はすぐには動けない」といった正確な情報を得ており、父よりもはるかに現実的な状況判断ができていた。この情報格差が、資正の焦りを生み、氏資の冷徹な決断を後押ししたのである。

永禄七年七月二十三日 ― クーデター決行の瞬間

永禄七年七月二十三日、その日は来た 12 。太田氏資は、かねてより通じていた親北条派の家臣たちと共に城内で蜂起した。国府台での敗戦以降、城内の大勢はすでに氏資方に傾いていたと見られ、資正を支持する家臣の抵抗は小規模なものに留まった 13 。大規模な籠城戦や市街戦に発展することなく、事態はあっけなく決した。

結果、太田資正と次男・政景は、なすすべもなく居城である岩付城から追放された 13 。これは、外部からの「再包囲」による「落城」ではなく、内部からのクーデターによる「城主の追放」であった。

父を追放して岩付城の主となった氏資は、その忠誠の証として、北条氏康から「氏」の一字を与えられ、名を「資房」から「氏資」へと改めた 13 。これは、岩付城が名実ともに関東の独立勢力から、北条氏の支配体制に組み込まれた属城へと変貌したことを象徴する出来事であった。北条氏康にとって、この一連の事件は、一兵も損なうことなく長年の懸案であった武蔵の要衝を手に入れた、謀略の完全勝利であった。

第四章:事件の余波と関東新秩序

岩付城における内部政変は、単に一つの城の主が交代したというだけの出来事ではなかった。それは関東全体の勢力図を塗り替え、関係者たちの運命を大きく変える、歴史的な転換点であった。

岩付城の北条氏への完全な組み込み

新城主となった太田氏資は、北条氏の忠実な家臣として活動を開始する。永禄八年(1565年)には、父・資正が仕掛けた岩付城奪還の試みを撃退しており 13 、もはや父子の縁は完全に断ち切られていた。これにより、岩付城は太田氏という独立性の高い国衆の拠点から、北条氏の関東支配を支える重要な軍事拠点へと、その性格を完全に変えた 14

この事件は、関東における「国衆の時代」が終わりを告げ、「戦国大名の領国支配体制」が確立されたことを象徴するものであった。太田資正は、上杉や北条といった巨大勢力の間で独自の勢力を保とうとする、旧来の「国衆」の代表格であった。彼の追放と、北条氏の支配下に組み込まれた氏資による統治は、国衆が持つ在地での独立した支配権が、戦国大名によって完全に吸収・再編されていく歴史の大きな流れを明確に示している。この事件以降、関東の国衆たちは、北条氏の家臣団の一員として組み込まれるか、あるいは滅ぼされるかの道を辿ることになる。

北条氏の関東支配体制の完成

武蔵国における最大の反抗拠点を無力化したことで、北条氏の関東支配は盤石のものとなった。これにより、北条氏は後顧の憂いなく、上野国(こうずけのくに)や下野国(しもつけのくに)といった北関東への進出を本格化させることが可能になった 29 。一方、上杉謙信にとって、岩付城の失陥は関東への南下ルートにおける重要拠点を失ったことを意味し、彼の関東経営戦略は大きな見直しを迫られることになった。

流浪の将・太田資正の執念

城を追われた太田資正は、次男・政景と共に常陸国(現在の茨城県)の佐竹義重を頼って落ち延びた 18 。しかし、彼の闘志は衰えなかった。以後、彼は佐竹氏の客将として片野城を拠点とし、生涯をかけて反北条の戦いを続け、故地・武蔵の奪還を夢見続けた。その名は「片野の三楽斎」(資正の号)として広く知れ渡り、遠く中央の織田信長や豊臣秀吉の耳にも達するほどであった 17 。彼の不屈の生涯は、時代の流れに抗い続けた戦国武将の生き様の一典型として、後世に語り継がれている。

悲劇の嫡男・太田氏資の最期

父を追放し、北条の力を借りて家督を継いだ太田氏資であったが、その治世は長くは続かなかった。クーデターからわずか三年後の永禄十年(1567年)、北条軍と里見軍が再び激突した三船山合戦において、彼は殿(しんがり)という最も危険な役目を務め、奮戦の末に討ち死にした 13 。享年、わずか25歳であった。

一説には、父を裏切ったという負い目から、北条家中の冷ややかな視線を晴らすために、自ら危険な殿軍を志願したとも言われている 13 。彼の短い生涯は、家の存続という大義と父子の情の間で引き裂かれ、時代の非情さに翻弄された悲劇として幕を閉じた。

結論:岩付城失陥が戦国関東史に刻んだもの

永禄七年(1564年)に武蔵岩付城で起こった一連の出来事は、その真相を深く探求することで、戦国時代の関東史における極めて重要な画期であったことが明らかになる。

第一に、本件は外部からの軍事力による「再包囲」ではなく、北条氏康の周到な謀略によって引き起こされた「内部政変」であったと再定義されるべきである。物理的な攻撃を伴わない「戦略的包囲」によって敵を内側から崩壊させるという手法は、戦国時代の「戦い」が単なる兵力の衝突だけではなかったことを示す好例である。この視点の転換こそが、事件の真相を理解する鍵となる。

第二に、太田資正・氏資父子の悲劇は、戦国時代の非情な論理を浮き彫りにしている。忠義や父子の情といった個人の倫理が、「家」の存続という、より上位の価値観の前には無力であった。氏資の選択は、善悪二元論では到底割り切れない、この時代の武士が置かれた過酷な状況を我々に突きつける。

そして最後に、この事件は北条氏康の戦略家としての卓越性を改めて証明するものであった。武力と謀略を巧みに使い分け、一滴の血も流すことなく関東の要衝を手に入れた手腕は、彼の関東経営における最大の成果の一つと言える。岩付城の支配権を確立したことで、北条氏の関東支配は完成の域に達し、その後の関東の歴史を大きく規定することになったのである。かくして、岩付城の主交代劇は、一個人の、一家の悲劇に留まらず、関東における中世的秩序の終焉と、新たな戦国大名の支配体制の確立を告げる、歴史の分水嶺として戦国史にその名を刻んでいる。

引用文献

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