岩倉城の戦い(1559)
永禄二年、織田信長は尾張統一のため岩倉城を攻囲。浮野の戦いで敵主力を破り、兵糧攻めと心理戦で城を落とした。この勝利で信長は尾張を統一し、翌年の桶狭間の戦いへの重要な布石を築いた。
尾張統一の最終局面 ― 岩倉城の戦い(1559)全詳報
はじめに:尾張統一への最終章、岩倉城の戦い
日本の戦国史において、永禄3年(1560年)の「桶狭間の戦い」は、織田信長の名を天下に轟かせた画期的な戦いとして広く知られている。しかし、その歴史的転換点のわずか一年前、永禄2年(1559年)に終結した「岩倉城の戦い」こそ、信長の飛躍を支えた決定的な布石であった。この戦いは、単なる尾張国(現在の愛知県西部)における地方の覇権争いに留まらない。それは、信長の革新的な戦略思想、後の天下統一事業の萌芽、そして旧来の権威を実力で覆す「下剋上」の完成を象徴する、極めて重要な戦役であった。
本報告書は、この「岩倉城の戦い」について、その背景から前哨戦、数ヶ月に及んだ籠城戦のリアルタイムな様相、そして歴史的意義に至るまでを徹底的に詳述することを目的とする。尾張国内の最後の抵抗勢力を沈黙させたこの一戦が、いかにして信長を「尾張のうつけ」から「天下人」への道を歩ませる原動力となったのかを、多角的な視点から解き明かしていく。
【表1】岩倉城の戦い 主要関連年表
年月 |
出来事 |
関連資料 |
弘治3年(1557年)頃 |
織田信賢、父・信安を追放し岩倉城主となる。 |
1 |
永禄元年(1558年)7月12日 |
**浮野の戦い。**信長軍が信賢軍に大勝。 |
4 |
永禄元年(1558年)秋 |
信長、岩倉城の包囲を開始。城下町を焼き討ち。 |
6 |
永禄元年秋~永禄2年春 |
数ヶ月にわたる籠城戦。鹿垣設置、火矢・鉄砲による攻撃。 |
7 |
永禄2年(1559年)春 |
織田信賢が降伏。 岩倉城落城。 |
6 |
永禄3年(1560年)5月 |
桶狭間の戦い。 |
11 |
永禄8年(1565年) |
信長、元同盟者の織田信清を攻め、犬山城を落とす。 |
12 |
第一章:戦いの序曲 ― 尾張織田氏の内訌と信長の台頭
岩倉城の戦いは、突発的に生じたものではない。それは、数十年にわたる尾張国内の権力構造の歪みと、それに乗じて台頭した織田信長という存在が引き起こした、必然の帰結であった。
第一節:守護代織田氏の分裂 ― 岩倉「伊勢守家」と清洲「大和守家」
室町時代、尾張国は守護大名である斯波氏によって統治されていたが、その実権は守護代の織田氏が掌握していた 14 。しかし、応仁・文明の乱(1467年~1477年)を経て、織田氏は一枚岩ではなくなる。尾張国は八郡から成り、北部の丹羽・葉栗・中島・春日井の上四郡を岩倉城に拠点を置く「織田伊勢守家」が、南部の下四郡を清洲城に拠点を置く「織田大和守家」が分割統治する体制が確立された 7 。
当初、家格の上では嫡流とされた岩倉の伊勢守家が優位な立場にあり、尾張における織田氏の本流と見なされていた 15 。一方、織田信長の家系である「弾正忠家」は、下四郡を治める清洲大和守家に仕える三奉行の一つに過ぎず、守護代家から見ればさらに格下の存在であった 14 。この戦いは、分家の、さらにその家臣筋であった信長が、本家嫡流を滅ぼすという、まさに下剋上の最終段階であったのである。
第二節:岩倉織田氏の内紛 ― 信賢による父・信安の追放劇
信長にとって最大の好機となったのは、敵である岩倉織田氏の内部崩壊であった。当時の岩倉城主・織田信安は、嫡男である織田信賢を疎んじ、次男の信家を寵愛して家督を譲ろうと画策していた 1 。この後継者問題は、家中を二分する深刻な対立を生んだ。
弘治3年(1557年)頃、この動きを察知した信賢は先手を打ち、クーデターを決行。父・信安と弟・信家を岩倉城から追放し、実力で城主の座を奪い取った 1 。この父子相克の悲劇は、岩倉織田氏の結束を著しく弱体化させた。家臣団の中には信安を支持する者も少なくなく、家中は分裂状態に陥った。信長は、この敵の内部における脆弱性を見逃すはずがなかった。
第三節:下剋上の体現者・織田信長 ― 下四郡掌握と戦略的布石
父・信秀の急死後、家督を継いだ信長は、尾張下四郡の統一に向けて迅速かつ非情な手を打っていった。まず、主家であった清洲城の守護代・織田信友を「萱津の戦い」で滅ぼし、その拠点を奪取 3 。次いで、自分に反旗を翻した実弟・織田信勝(信行)を「稲生の戦い」で破り、最終的には謀殺して後顧の憂いを断った 3 。これにより、信長は下四郡の支配権を完全に掌握した。
この時点で信長の視線は、もはや尾張国内だけに留まっていなかった。東方では、駿河・遠江・三河を支配する今川義元が着実に勢力を拡大しており、尾張への侵攻は時間の問題と見られていた 3 。この強大な外的脅威に対抗するためには、まず尾張一国を完全に統一し、国力を結集する必要があった。そのためには、国内における最後の抵抗勢力である岩倉織田氏の打倒が、何よりも優先されるべき戦略目標だったのである。岩倉城攻めは、来るべき今川との決戦に備えるための、不可欠な国内平定事業であった。
この戦いが避けられなかった背景には、これら三つの要因が複雑に絡み合っていた。すなわち、「尾張織田氏の分裂構造」という歴史的対立、「岩倉織田氏の内部崩壊」という好機、そして「信長の急速な台頭と戦略的必要性」という能動的要因が重なり合った結果、両者の最終対決は必然となったのである。
第二章:前哨戦「浮野の戦い」― 雌雄を決した野戦(永禄元年七月十二日)
岩倉城の堅固な守りを前に、信長はまず野戦によって敵の主力を殲滅することを選択した。この「浮野の戦い」こそ、岩倉織田氏の運命を事実上決定づけた一戦であった。
第一節:両軍の布陣 ― 岩倉城の背後を突く信長
永禄元年(1558年)7月12日、信長は清洲城から出陣した。『信長公記』によれば、清洲から岩倉までは直線距離で30町(約3.3km)ほどだが、途中には川などの要害があるため、信長はあえて北へ3里(約12km)も大回りし、岩倉城の背後にあたる浮野(現在の愛知県一宮市千秋町浮野)に軍を配置した 4 。これは敵の警戒網を巧みに避け、意表を突くための見事な機動であった。
これに対し、岩倉城の織田信賢も軍勢を率いて出陣。両軍は浮野の地で対峙することとなった。
【表2】浮野の戦い 両軍兵力・構成比較表
勢力 |
総兵力(推定) |
指揮官 |
主要構成 |
備考 |
織田信長軍 |
約3,000 |
織田信長 |
・信長本隊:約2,000 ・犬山城援軍:約1,000 |
当初は兵力で劣勢。信清の援軍が勝敗を分けた。 |
岩倉織田軍 |
約3,000 |
織田信賢 |
・岩倉織田氏本隊 |
兵力では優勢だったが、信清の参戦により側面を突かれ崩壊。 |
第二節:戦況の推移 ― 苦戦と逆転
合戦は午の刻(正午頃)に火蓋が切られた 4 。当初、兵力で勝る岩倉勢は戦いを優位に進め、信長軍は苦戦を強いられた 3 。しかし、この劣勢は信長の計算のうちであった。信長は事前に、犬山城主であり、自身の姉(犬山殿)を娶っていた織田信清に協力を要請していたのである 3 。
激戦が続く中、かねての約束通り、織田信清が率いる1,000の援軍が戦場に到着 3 。この援軍が岩倉軍の側面、あるいは背後を突いたことで、戦況は一変する 21 。不意を突かれた岩倉軍の陣形は大きく乱れ、混乱状態に陥った。信長はこの好機を逃さず、総攻撃を命じた。
第三節:戦場のハイライト ― 弓と鉄砲の一騎打ち
この戦いの激しさを物語る象徴的な逸話が、『信長公記』に記されている。岩倉方の武将で、弓の名手として知られた林弥七郎が、敗走の最中に信長軍の橋本一巴に追いつかれた 4 。橋本一巴は、信長に鉄砲を指南したともいわれる鉄砲の名人であった。
二人は互いの武名をかねてより知っており、林弥七郎は「助けまじき(手加減はしないぞ)」と声をかけ、一巴も「心得た」と応じたという 4 。弥七郎は振り返りざまに矢を放ち、一巴の脇の下を深く射抜いた。しかし、時を同じくして一巴が放った二つ玉の鉄砲弾も弥七郎を捉え、両者は相討ちとなった 4 。弥七郎は倒れながらも、首を取ろうと駆け寄った信長の小姓・佐脇藤八の左肘を太刀で切り落とすという凄まじい執念を見せた 4 。この一騎打ちは、弓矢という旧来の武芸と、鉄砲という新しい兵器が雌雄を決した、時代の転換点を象徴する出来事であった。
第四節:結末 ― 岩倉勢の壊滅と敗走
信清の援軍という決定打により、岩倉軍は完全に総崩れとなった。この一戦で岩倉勢が失った将兵の首は1,250を超えたと記録されており、これは総兵力の3分の1以上を失うという壊滅的な敗北であった 4 。
織田信賢は、残った手勢と共に命からがら本拠である岩倉城へと敗走した 9 。この浮野での大敗は、岩倉織田氏から野戦における抗戦能力を完全に奪い去った。もはや彼らに残された道は、城に立てこもり、外部からの援軍という万に一つの可能性に賭ける籠城戦のみとなったのである。この敗北こそが、岩倉城が信長によって「生殺し」にされる運命を決定づけた瞬間であった。
第三章:岩倉城籠城戦 ― 信長による「生殺し」の兵法(永禄元年秋~永禄二年春)
浮野の戦いで敵の主力を叩いた信長は、休む間もなく岩倉城の攻略に取り掛かった。しかし、彼が選んだのは力攻めという短期決戦ではなかった。数ヶ月にわたり、敵の心身をじわじわと蝕んでいく、冷徹かつ合理的な包囲戦であった。
【時系列解説①】包囲網の構築(永禄元年秋)
浮野から敗走してきた信賢軍を追う形で、信長はただちに岩倉城を大軍で包囲した 6 。岩倉城は、五条川を天然の外堀として利用し、さらに内堀を巡らせた二重の堀を持つ堅城であった 6 。古文書によれば、その規模は東西約90m、南北約170mに及び、望楼を備えた館が建っていたという 10 。この堅固な守りを前に、信長は無用な損害を出す力攻めを避け、長期戦の構えを取った。
【時系列解説②】城下町の焼き討ちと「裸城」化
信長が包囲完成後、最初に行ったのは、岩倉の城下町への徹底的な焼き討ちであった 7 。これは単なる威嚇ではない。城下町は、城兵の家族が住む生活の場であると同時に、物資や情報の供給源でもある。これを焼き払うことで、城を経済的、兵站的、そして精神的に完全に孤立させる「裸城(はだかじろ)」にする戦術であった。城内から、自分たちの町が、家が、炎に包まれる光景を目の当たりにした城兵たちの士気低下は計り知れないものがあったと推察される。
【時系列解説③】二重三重の鹿垣と兵糧線の完全遮断
次に信長は、城の周囲に二重、三重にもなる鹿垣(ししがき、木の枝や竹を組み合わせた野戦用の防御柵)を堅固に築かせた 8 。これは、城からの決死の脱出や、外部からの救援、密かな兵糧の搬入といったあらゆる可能性を物理的に断絶するための、徹底した封鎖網であった。これにより岩倉城は、外部世界から完全に切り離された「陸の孤島」と化した。この戦術は、後の稲葉山城攻めなどでも用いられる、信長の攻城戦における得意戦術の原型となる 23 。
【時系列解説④】心理的圧迫(数ヶ月間)
物理的な封鎖に加え、信長は執拗な心理戦を展開した。『信長公記』には、包囲中、昼夜を問わず火矢や鉄砲を城内に撃ち込み続けたとある 8 。これらの攻撃の主目的は、直接的な殺傷よりも、城兵に安眠や休息の時間を与えず、常に死の恐怖と隣り合わせの状態に置くことであった。いつ終わるとも知れない攻撃音と、時折上がる悲鳴、燃え上がる建物。この絶え間ないストレスは、城兵たちの精神を確実に蝕んでいった。食料が減っていく不安と、援軍が来ない絶望感の中で、城内の結束は次第に崩れていったであろう。
【時系列解説⑤】城内の疲弊と降伏交渉
数ヶ月に及ぶ籠城の末、城内の状況は限界に達した 7 。兵糧は底を突き、兵士たちは飢えと疲労で戦闘能力を失い、もはや組織的な抵抗は不可能な状態に陥っていたと考えられる。戦わずして敵を屈服させる兵糧攻めの効果は絶大であった。この絶望的な状況を前に、城主・織田信賢はついに降伏を決断。城兵の助命などを条件に、信長との間で開城交渉が開始されたと見られる。
【時系列解説⑥】開城と落城(永禄二年春)
永禄2年(1559年)春、織田信賢は信長の条件を受け入れ、岩倉城の門を開いた 9 。ここに、尾張上四郡に君臨した名門・岩倉織田氏は滅亡した。信長は降伏を受け入れると、ただちに岩倉城の徹底的な破却を命じた 6 。これは、岩倉織田氏の権威の象徴を物理的にこの世から消し去り、二度と再起の拠点とさせないという、信長の非情かつ徹底した意思の表れであった。
この一連の攻城プロセスは、単なる兵糧攻めではない。「①経済基盤の破壊(焼き討ち)」、「②物理的完全封鎖(鹿垣)」、「③継続的な心理攻撃(火矢・鉄砲)」、そして「④内部崩壊を待つ」という、複数の戦術を組み合わせた複合的かつ体系的な攻城術であった。これは信長の後の戦いにも通じるものであり、この戦いこそが、力攻めを避けて味方の損害を最小限に抑えつつ、敵を確実に無力化するという、信長流の合理的かつ非情な攻城戦術「岩倉モデル」が確立された戦いであったと言える。
第四章:登場人物とその運命
この戦いは、勝者と敗者、そしてその関係者たちの運命を大きく変えた。岩倉城の落城は、彼らにとって人生の大きな分岐点となったのである。
-
勝者・織田信長
この勝利により、信長は尾張一国をほぼ手中に収め、名実ともに尾張の支配者となった 6。国内の憂いを断ち切ったことで、翌年に迫る今川義元との決戦に、国の総力を挙げて臨む体制を整えることができた。岩倉城の攻略は、信長が天下布武への道を歩み始めるための、確固たる地盤を築いた出来事であった。 -
敗者・織田信賢
降伏後、信長によって尾張から追放された 2。その後の消息には不明な点も多いが、最も有力な説によれば、かつての家臣であった山内一豊を頼ったとされる。一豊が後年、土佐(現在の高知県)二十万石の大名に出世すると、信賢は土佐に招かれ、200石の扶持を与えられて穏やかな余生を送ったという 2。かつての主君が、家臣の庇護下で暮らすという運命の逆転は、戦国時代の無常を象徴する逸話として語り継がれている。 -
忠臣・山内盛豊
岩倉織田氏の家老であり、後の土佐藩主・山内一豊の父である盛豊は、主家と運命を共にした 10。岩倉城の落城時に戦死、あるいは自害したと伝えられている 10。彼の死は、当時15歳であった一豊を苦難に満ちた流浪の身へと追いやったが、同時に、それが一豊を不屈の武将へと鍛え上げ、やがて大名へと駆け上がる物語の原点となった。 -
協力者・織田信清
浮野の戦いにおいて信長の勝利に決定的な貢献をした犬山城主・織田信清であったが、その同盟関係は長くは続かなかった。信長の力が強大化するにつれて、領地問題などを巡って両者は対立。信清は信長に反旗を翻すが、永禄8年(1565年)、信長に居城の犬山城を攻め落とされ、甲斐(現在の山梨県)の武田氏のもとへ逃亡した 9。この事例は、戦国時代の同盟がいかに利害関係に基づいた脆いものであったかを示している。信長にとって、尾張統一とは、かつての協力者さえも力で排除していく、冷徹なプロセスであった。
第五章:戦後の尾張と歴史的意義
岩倉城の落城は、尾張一国の勢力図を塗り替え、日本の歴史の流れを大きく変える遠因となった。
第一節:「尾張統一」の完成
この戦いの終結をもって、織田信長は尾張一国を実質的に支配下に置いた 6 。守護代の分家、さらにその家臣という低い身分から出発した信長が、国内のあらゆる敵対勢力を打ち破り、ついに尾張の頂点に立ったのである。これにより、彼は尾張の兵力、経済力といった全ての資源を、自身の意のままに動員することが可能となった。
ただし、厳密に言えば、犬山城の織田信清など、まだ完全に服従していない小勢力は残存していた 12 。信長が尾張を完全に平定するのは、信清を追放した永禄8年(1565年)のことになる。しかし、国内における最大かつ最後の抵抗勢力であった岩倉織田氏を滅ぼしたこの戦いが、事実上の「尾張統一」を成し遂げた画期的な出来事であったことは間違いない 9 。
第二節:桶狭間の戦いへの布石
岩倉城の戦いが持つ最大の戦略的意義は、翌年の桶狭間の戦いへの道筋をつけたことにある。当時、今川義元は数万の大軍を率いて尾張に侵攻しつつあった。もしこの時、背後に岩倉城という敵対勢力が健在であったなら、信長は今川軍と岩倉軍による挟撃の危機に晒されていただろう。そのような状況下では、全軍を率いて今川本隊に奇襲をかけるという、桶狭間で見せたような大胆極まりない作戦行動を取ることは不可能であった。
後顧の憂いを完全に断ち切ったからこそ、信長は東から迫る強大な敵に全戦力を集中させることができたのである。その意味で、岩倉城の戦いは、桶狭間における奇跡的な勝利の、隠れた、しかし不可欠な前提条件であったと言える。
この戦いは、信長が「天下布武」という壮大な目標を掲げ、全国に号令する上での絶対的な権力基盤を確立したことを意味する。一つの国さえ完全に掌握できていない者が天下を語ることはできない。岩倉城の攻略は、信長の野望を地方の覇権争いから天下統一事業へと昇華させるための、最初の、そして最も重要な一歩であった。また、この戦いで成功を収めた合理的な戦術は信長に大きな自信を与え、伝統的な権威や兵力差をも覆しうるという彼の革新的な戦略思想を、より強固なものにしたのである。
結論:桶狭間への道筋をつけた一戦
「岩倉城の戦い」は、しばしば桶狭間の戦いの輝かしい勝利の影に隠れがちである。しかし、本報告書で詳述した通り、この戦いは単なる尾張国内の内乱ではなく、織田信長の戦略家としての才能を開花させ、後の天下統一事業の礎を築いた、極めて重要な戦役であった。
浮野の野戦における巧みな外交と用兵、そして岩倉城の包囲戦で見せた、経済・物理・心理の三側面から敵を追い詰める体系的な攻城戦術は、信長の非凡さを示すものであった。この戦いを通じて確立された徹底した戦術と、国内を平定して後顧の憂いを断ったという戦略的成果がなければ、翌年の桶狭間における歴史的な勝利も、その後の信長の飛躍もなかったであろう。
したがって、「岩倉城の戦い」は、織田信長が尾張一国という強固な地盤を得て、天下という大舞台へ駆け上がるための、決定的な序章として再評価されるべきである。
引用文献
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- 弓の林弥七郎と鉄砲の橋本一巴が一騎討ち! 一宮市浮野古戦場 https://sengokushiseki.com/?p=478
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- 【浮野古戦場浮剕首塚(うぐいすづか)】酷暑の蝉時雨の中、しめやかに慰霊祭が開催されました。 - 平松としひで(ヒラマツトシヒデ) - 選挙ドットコム https://go2senkyo.com/seijika/170348/posts/943459
- 小口城 - FC2 https://largetopaz.web.fc2.com/oguchijyo.html
- 位置・経過:岩倉城遺跡は、岩倉市下本 町字城跡を中心とする一帯に所在し、五条 川右岸の標 - 愛知県埋蔵文化財センター http://www.maibun.com/modules/mydownloads/visit.php?cid=166&lid=1535
- 信長と秀吉が得意だった必勝の付城戦術|戦国の城攻め https://japan-castle.website/battle/shirozeme-tsukejiro/
- [合戦解説] 10分でわかる稲葉山城の戦い 「金華山を完全包囲する信長、天下統一への戦略」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=JMLsZll7zK0
- 織田信長の合戦年表 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/84754/
- 織田伊勢守信安や山内一豊がこのまちで生まれ育ったこと、歴史とロマンを感じることができる岩倉市。とってもいいと思います。 https://www.city.iwakura.aichi.jp/brand/0000003070.html
- 岩倉城 | あいち歴史観光 - 愛知県 https://rekishi-kanko.pref.aichi.jp/place/place16.html
- 岩倉城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/iwakura.j/iwakura.j.html
- 織田信賢 https://nablatcha.michikusa.jp/sengoku/nobukatao.htm
- 山内盛豊 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E7%9B%9B%E8%B1%8A
- 岩倉街道 岩倉市 - Network2010.org https://network2010.org/article/245