最終更新日 2025-08-31

岩櫃城の戦い(1582)

天正十年、本能寺の変後の混乱に乗じ、真田昌幸は岩櫃城を拠点に独立を果たす。彼は主君を巧みに変え、北条氏の補給路を断つなど、知謀を尽くし真田家の礎を築いた。

天正壬午の乱と岩櫃城 ― 真田昌幸、独立への烽火

第一章:序章 ― 巨星墜つ、動乱の幕開け

天正10年(1582年)、日本の歴史が大きく揺れ動いたこの年、後の世に「表裏比興の者」と称されることになる一人の武将が、その類稀なる才覚を歴史の表舞台で開花させた。その名は真田安房守昌幸。彼が本拠とした上野国吾妻郡の岩櫃城を巡る一連の攻防は、単なる局地戦に非ず、巨大な権力の空白が生んだ「天正壬午の乱」という大動乱の縮図であり、真田家が戦国大名として独立を果たすための重要な里程標であった。

武田氏の滅亡と真田昌幸の進言

天正10年の年明け、甲斐の名門・武田氏は滅亡の淵に立たされていた。前年からの織田信長による執拗な圧力に加え、2月には信長の嫡男・信忠を総大将、織田四天王の一人・滝川一益を軍監とする大軍が甲州征伐に乗り出した 1 。これに呼応し、同盟者である徳川家康は駿河から、そして武田氏とは姻戚関係にありながら手切れとなっていた北条氏政もまた関東から、武田領へと侵攻を開始した 1

木曽義昌の寝返りを皮切りに、武田方の城は次々と陥落、あるいは戦わずして開城し、武田勝頼はなすすべもなく追いつめられていく。この絶望的な状況下で、昌幸は主君・勝頼に起死回生の一策を進言する。それは、築城半ばの新府城を捨て、自らの本拠地である上野国・岩櫃城へ退避し、再起を図るというものであった 3

昌幸のこの進言は、単なる忠誠心の発露ではなかった。岩櫃城は、標高802.6メートルの岩櫃山の険しい中腹に築かれた天然の要害であり、武田領内でも甲斐の岩殿城、駿河の久能城と並び称される三名城の一つであった 3 。断崖絶壁に守られたその防御力は、織田の大軍を一時的に食い止めるに十分であった。さらに、その地理的位置は、上野・信濃北部に残存する武田勢力を結集させ、越後の上杉景勝との連携をも視野に入れることができる戦略的要衝であった 5 。昌幸は勝頼を迎え入れるため、岩櫃山南麓に急遽御殿(現在の潜龍院跡)を造営し、主君の到着を待ちわびていた 7

しかし、勝頼は昌幸の進言を容れず、譜代の重臣である小山田信茂の居城・岩殿城を目指すという、結果的に破滅的な選択をする。その信茂に裏切られ、進退窮まった勝頼一行は天目山へと追い詰められ、3月11日、妻子と共に自刃。ここに、信玄の代から戦国に覇を唱えた名門・武田氏は滅亡した 1

織田体制下の秩序と滝川一益の関東統治

武田氏滅亡後、織田信長は速やかに旧武田領の仕置きを行った。3月23日から29日にかけて行われた論功行賞において、甲州征伐で多大な功績を挙げた滝川一益が、上野一国と信濃二郡(小県・佐久)を与えられ、関東の諸将を取り次ぐ「関東御取次役」に任じられた 11

真田昌幸もまた、信長から旧領を安堵され、織田政権下に組み込まれることとなった 11 。彼は一益の与力大名という立場となり、沼田城には一益の甥である滝川益重が入城。昌幸は忠誠の証として、次男の信繁(後の幸村)を人質として一益に差し出した 15

一益は上野国の厩橋城(現在の前橋城)を本拠とし、関東支配の拠点とした 17 。彼は関東・東北の諸大名と書状を交わし、また、厩橋城に諸将を招いて能興行を催すなど、巧みな手腕で織田家の威光を知らしめ、新たな支配体制を構築しようと試みた 12 。その統治は一見、順調に進んでいるかに見えた。しかし、長年関東の覇者として君臨してきた北条氏にとって、織田家の勢力が喉元にまで及んできたこの状況は、到底看過できるものではなかった 18 。東国に張り詰めた緊張の糸は、一本の凶報によって、やがてぷつりと断ち切れることになる。

第二章:激震 ― 本能寺の変と権力の空白

天正10年6月2日、京の本能寺において、織田信長が家臣の明智光秀に討たれるという日本史上未曾有の事件が勃発した。この「本能寺の変」は、中央の絶対的な権威を消滅させ、日本全国を再び動乱の渦に叩き込んだ。とりわけ、信長の死によって確立されたばかりの秩序が崩壊した旧武田領、すなわち東国においては、巨大な権力の空白を巡る熾烈な争奪戦の幕が切って落とされたのである。

滝川一益の孤立と神流川の戦い

信長横死の報は、数日をかけて各勢力へと伝播した。当初、その情報は錯綜し、一益のもとにも正確な事態が伝わらない中、虎視眈々と機を窺っていた勢力が即座に行動を開始する。関東の雄、北条氏政・氏直父子である 20

北条氏は、表向きは一益との同盟関係を継続する旨を伝えつつも、6月12日には領国に動員令を発し、上野への侵攻準備を完了させていた 20 。そして6月16日、一益に宣戦を布告。先手の北条氏邦が上野へ進軍し、18日には金窪原で滝川軍と衝突する 20 。この前哨戦では滝川方が辛勝したものの、翌19日、北条氏直率いる約5万の大軍が、武蔵・上野国境の神流川で、厩橋城から迎撃に出た一益軍約1万8千と激突した 2

この「神流川の戦い」は、兵力で圧倒的に勝る北条軍の一方的な勝利に終わった。滝川軍は壊滅的な打撃を受け、一益は命からがら厩橋城へ退却。しかし、もはや上野国に留まることは不可能と悟り、碓氷峠を越えて信濃の佐久郡へと敗走した 18 。この敗戦は、一益個人の運命を大きく変えただけでなく、東国の政治情勢を一変させた。一益は本拠地の伊勢長島まで落ち延びる過程で時間を浪費し、織田家の後継者を決める重要な「清洲会議」への出席機会を逸し、織田家中の重臣としての地位を失うことになる 14

東国における「天正壬午の乱」の実質的な発火点は、この神流川の戦いであった。この戦いによって、織田家という「蓋」が関東から完全に取り払われ、上野・信濃の旧武田領は、北条、上杉、そして徳川による草刈り場と化したのである。

真田昌幸、機を見るに敏

この激動の最中、真田昌幸は冷静に、そして迅速に行動した。彼は滝川一益の与力として神流川の戦いには参陣せず、その敗走を見届けると、主を失った上野国が無主の地と化した瞬間を捉え、電光石火の速さで動いた。

昌幸は、一益を信濃の諏訪まで護送するという名目で付き従い、その道中で別れると、すぐさま自領へと反転した 15 。そして6月21日、叔父の矢沢頼綱に兵を与えて沼田城を、さらに草津の国衆・湯本三郎右衛門尉を動かして岩櫃城を、瞬く間に奪還したのである 15

この行動は、単なる旧領回復に留まるものではなかった。それは、織田信長(滝川一益)から与えられた支配体制を自らの実力で覆し、もはや誰の与力でもない、独立した勢力としてこの大乱に参加するという、昌幸の明確な意思表示であった。武田家臣、織田家与力という立場を経て、真田昌幸が自立した戦国大名として産声を上げた瞬間であった 24 。彼は、巨大な権力闘争の渦中で、自らの所領と一族の未来を、己の知謀のみを頼りに切り開いていくことを決意したのである。

第三章:盤上の駒、盤面の支配者 ― 真田昌幸、激動の主君変遷

権力の空白地帯と化した上野・信濃を巡り、北の上杉景勝、東の北条氏直、南の徳川家康という三つの巨大勢力が牙を剥いた。その三勢力の領土が接するまさに境界線上に、真田氏の所領は存在した 24 。真っ先に併呑されてもおかしくないこの絶体絶命の状況下で、真田昌幸は生き残りをかけて驚くべき外交戦略を展開する。それは、主君を次々と乗り換えるという、一見すると節操のない行動であった。しかし、その一連の動きは、小勢力が大勢力の狭間で自立を保つための、極めて高度で合理的な最適化戦略だったのである。

第一の選択:上杉景勝への臣従(6月下旬)

滝川一益が関東から駆逐されると、最も早く、そして物理的に最も近い脅威として真田領に迫ったのが、越後の上杉景勝であった。景勝は本能寺の変の報を受けるや、北信濃の国衆への調略を開始し、自らも春日山城から出陣。川中島四郡を制圧し、海津城に入った 20 。この圧倒的な軍事力を背景にした南下に対し、昌幸はまず上杉氏に服従を申し入れた 2 。これは、北からの圧力を一時的にでも回避し、安全を確保するための、最も現実的な選択であった。

第二の選択:北条氏直への転身(7月9日)

しかし、上杉への臣従は長くは続かなかった。神流川の戦いに勝利した北条氏直が、5万近い大軍を率いて碓氷峠を越え、信濃へと侵攻してきたからである 2 。7月9日、昌幸は上杉への臣従からわずか2週間ほどで態度を翻し、北条氏に降った 2 。眼前に迫る、当時最大規模の軍事力の前には、上杉との同盟はあまりにも脆かった。昌幸は北条軍の先鋒として、上杉方と対峙する陣にも加わっている 2 。この変節は、常に自領に最も近い、最大の脅威となる勢力に従うことで、直接的な攻撃を避けるという昌幸の行動原理を如実に示している。

第三の選択:徳川家康への帰属(9月)

一方、南からは徳川家康が着実に勢力を伸ばしていた。家康は本能寺の変の直後、伊賀越えを経て本国に戻ると、すぐさま旧武田領の確保に乗り出し、7月9日には甲斐の甲府に入っていた 16 。その後、家康は信濃へと進軍し、甲斐の若神子に本陣を置く北条軍と対峙する 20

戦況が80日以上も膠着する中、家康は武田旧臣で、巧みな交渉術を持つ依田信蕃を介して、北条方についていた昌幸への調略を開始した。家康が提示した条件は「領土の安堵」という、昌幸にとって最も魅力的なものであった 2 。北条氏の傘下では、いずれその巨大な官僚機構の中に組み込まれ、独立性を失う危険性があった。対して、旧武田家臣を積極的に登用し、その独立性をある程度尊重する姿勢を見せていた家康の方が、将来的な展望が開けていると判断したのである。9月、昌幸は三度目の寝返りを打ち、徳川方へと帰属した 16

昌幸の一連の主君変遷は、単なる裏切りや日和見主義とは一線を画す。それは、刻一刻と変化するパワーバランスを冷静に分析し、自らの勢力にとって最も生存確率が高く、かつ実利の大きい選択肢を瞬時に選び取るという、高度な政治的・戦略的判断の連続であった。彼は巨大勢力という盤上の駒であることを拒否し、自らが駒を動かすプレイヤーとして、この大乱を乗り切ろうとしていたのである 24

表1:真田昌幸の主君変遷(天正10年6月~9月)

時期

臣従先

臣従の理由(戦略的意図)

離反の理由

~6月2日

織田信長(滝川一益)

武田氏滅亡後の支配者への服属による家名存続。

本能寺の変による織田権力の消滅。

6月下旬~7月上旬

上杉景勝

滝川一益退去後、北信濃から南下する上杉の脅威への対処。

北条氏直の大軍が目前に迫り、より大きな脅威となったため。

7月9日~9月

北条氏直

圧倒的な軍事力を背景にした現実的選択。北条の力を借りて上杉を牽制。

徳川家康から、より確実な「領土安堵」の条件が提示されたため。

9月~

徳川家康

北条との対立が深まる中、甲斐・信濃に確固たる地盤を築いた家康への帰属が長期的安定に繋がると判断。

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第四章:吾妻郡攻防戦 ― 「岩櫃城の戦い」の実像

利用者様の問いの中心である1582年の「岩櫃城の戦い」は、通説で語られるような、岩櫃城を舞台とした大規模な籠城戦ではなかった。その実態は、真田昌幸の徳川への寝返りを契機として、吾妻郡の覇権を巡って繰り広げられた一連の謀略戦と局地戦の総体であった。この戦いは、岩櫃城そのものへの直接攻撃ではなく、城を無力化しようとする北条氏の「間接的アプローチ」と、それをことごとく打ち破り、逆に北条氏の橋頭堡を破壊した真田氏の「積極的防御」によって構成されている。

第一幕:北条の謀略と昌幸の防諜(10月上旬)

9月に昌幸が徳川方へ寝返ったという情報は、10月初旬には北条氏に伝わった 15 。激怒した北条氏は、裏切り者への報復と、吾妻郡制圧の足がかりを築くため、即座に行動を起こす。北条氏直は、自らの支配下にあった吾妻郡大戸城主・浦野入道(忠広)に対し、真田方の岩櫃城を攻撃するよう厳命した 16

大戸城は岩櫃城の南方に位置し、ここを拠点に攻撃を仕掛けられれば、岩櫃城は大きな脅威に晒されることになる。しかし、昌幸の張り巡らせた情報網は、この北条の動きを事前に察知していた。攻撃が実行に移される前に、昌幸は浦野入道に対して調略を仕掛け、巧みな交渉によって攻撃を未然に防いでしまったのである 28 。これは、昌幸の軍事的能力だけでなく、情報戦と外交交渉においても卓越した手腕を持っていたことを示す重要な事例である。

第二幕:大戸城の戦い ― 信幸、初陣を飾る(10月下旬)

自らの命令を反故にされた北条氏は、今度は浦野氏そのものの討伐に動いた。多目周防守、冨永主膳らを将とする約5000の軍勢を再び吾妻郡に派遣し、大戸城を攻撃。城は陥落し、浦野入道は自害に追い込まれた 28 。北条氏はようやく吾妻郡における橋頭堡を確保したかに見えた。

しかし、昌幸はこの事態を座視しなかった。彼は嫡男・真田信幸(後の信之)を総大将に任命し、出浦昌相、鎌原重春といった手練れの家臣たちを付け、わずか800の兵を率いて岩櫃城から出陣させた 28

信幸は、大戸城にほど近い仙人窪に布陣。数に劣る真田軍に対し、北条軍は油断して攻めかかった。信幸は、まず先陣に偽りの敗走をさせて敵を深く引き込み、伏兵で側面を突き、さらには影武者を使って敵軍を混乱させるという、まさに真田家伝家の宝刀とも言うべき戦術を駆使した 28 。これにより北条軍は大混乱に陥り、完敗。冨永主膳らは大戸城へと敗走した。

勢いに乗る真田軍は、その日のうちに大戸城下を焼き払い、城へと殺到。出浦昌相らが大手口から、一場茂右衛門らが北の丸から猛攻を仕掛け、激戦の末に大戸城を奪還した 28 。この戦いで北条軍は800人もの死者を出すという大損害を被り、吾妻郡への足がかりを完全に失った 28 。この「大戸城の戦い」は、信幸の初陣を華々しく飾るとともに、真田氏が吾妻郡における支配権を確固たるものにした決定的な戦いであった。

第三幕:北条の反撃と連絡線の分断(12月)

大戸城での手痛い敗戦の後も、北条氏は吾妻郡への圧力を緩めなかった。直接的な攻撃が困難と悟った北条氏は、より高度な戦略へと移行する。12月、北条軍は沼田城と岩櫃城のほぼ中間に位置する真田方の中山城を攻略し、城の拡張工事を行ったのである 20

この中山城の奪取は、極めて大きな戦略的意味を持っていた。これにより、真田氏の二大拠点である沼田城と岩櫃城の連絡線が物理的に分断された 20 。有事の際に相互に援軍を送ることが困難になり、兵站線も脅かされることになった。ここに、「岩櫃城の戦い」は、城を巡る物理的な攻防から、領国経営の生命線である連絡線を巡る、より広域的かつ戦略的な攻防へとその様相を変えたのである。これは、戦国時代後期の戦いが、単なる力と力のぶつかり合いではなく、兵站や情報、地理的条件を複合的に利用した、より洗練されたものへと進化していたことを示す好例と言えるだろう。

第五章:転機 ― 徳川への帰属と北条補給路の遮断

真田昌幸の徳川への寝返りは、単なる政治的な主君の乗り換えに留まらなかった。それは、天正壬午の乱全体の戦局を決定づける、極めて重要な軍事行動へと直結していた。甲斐・若神子で徳川軍と対峙していた北条軍本隊は、4万から5万という、徳川軍の数倍に及ぶ大軍であった 2 。この大軍を敵地で長期間維持するためには、本国・相模からの安定した補給が生命線であった。昌幸の真の価値は、この巨大な敵の弱点、すなわち兵站線を破壊する「てこ」として機能した点にある。

戦略的連携の開始

徳川方についた昌幸は、ただちに同じく武田旧臣で徳川に属した依田信蕃と連携を開始した 2 。依田信蕃は信濃佐久郡の在地領主であり、地の利を熟知していた。昌幸の吾妻・小県における軍事基盤と、依田の佐久における影響力が結びついたことで、徳川方は信濃東部において強力な別働隊を組織することが可能となった。

碓氷峠の制圧と補給路の遮断(10月)

10月、昌幸と依田信蕃の部隊は、北条方の支配下にあった信濃佐久郡の諸城に対し、破竹の勢いで攻撃を開始した。望月城、内山城、岩村田城といった拠点を次々と攻略し、佐久郡における徳川方の優勢を確立した 16

そして、彼らは天正壬午の乱の戦局を決定づける行動に出る。上野と信濃を結ぶ最大の交通の要衝であり、北条軍の主たる補給路であった碓氷峠を占領したのである 2

この碓氷峠の占領は、甲斐で対峙する北条軍本隊にとって致命的な一撃となった。本国からの兵糧や弾薬の補給が絶たれ、前線で大軍を維持することが戦略的に不可能になったのである。戦術的には優勢を保っていた北条軍も、兵站という戦争の根幹を断たれては、もはや戦いを継続することはできなかった。

これは、小勢力である真田・依田連合軍が、地形とタイミングを巧みに利用して大勢力の戦略的重心を突いた、「非対称戦」の典型例と言える。昌幸は、自らの軍事力を正面からぶつけるのではなく、敵が最も脆弱な一点に集中させることで、数万の軍勢を擁する大敵を機能不全に陥れたのである。この功績により、昌幸は徳川家康から絶大な信頼を得るとともに、天正壬午の乱における自らの価値を決定的なものとした。

第六章:終章 ― 天正壬午の乱の帰結と真田家の屹立

真田昌幸による補給路の遮断は、北条氏にとって最後の一押しとなった。甲斐での戦線膠着に加え、背後では家康の呼びかけに応じた佐竹義重らが北条方の館林城を攻撃するなど、北条氏は多方面での対応を迫られていた 16 。戦略的に完全に手詰まりとなった北条氏直は、ついに徳川家康との和睦を決断する。

徳川・北条の和睦と「沼田領問題」の発生

天正10年10月29日、織田信雄・信孝の仲介という形で、徳川・北条間の和睦が成立した 16 。これにより、本能寺の変以来、約5ヶ月にわたって旧武田領を舞台に繰り広げられた天正壬午の乱は、一応の終結を見ることになる。

その和睦の条件は、以下の通りであった 16

  1. 甲斐国と信濃国は徳川家康の所領とする。
  2. 上野国は北条氏の所領とする。
  3. 家康の娘・督姫を北条氏直に嫁がせ、両家は同盟を結ぶ。

この大名間の領土分割において、真田氏の運命を再び揺るがす、極めて重大な条項が付帯されていた。それは、昌幸が実力で確保し、支配していた上野国の沼田領について、「北条の切り取り次第とする」というものであった 15 。これは、徳川家康が同盟の代償として、自らの家臣である真田の領地を、事実上北条に売り渡したことを意味する。

真田家の飛躍と新たな火種

結果として、天正10年という激動の一年間を通じて、真田昌幸は武田家の一家臣という立場から、上野国の吾妻・利根両郡と信濃国小県郡の一部を支配する、独立した戦国大名へと目覚ましい飛躍を遂げた 24 。特に、本拠地である岩櫃城と、その支城である沼田城という二大拠点を守り抜いたことは、その後の真田家の基盤を確立する上で決定的な意味を持った。1582年の一連の攻防は、昌幸の知謀と戦略眼が最大限に発揮された、真田家独立のための戦役であったと言える。

しかし、その輝かしい勝利の裏で、巨大な試練の種が蒔かれていた。徳川・北条間の和睦条件は、昌幸を再び苦境に立たせる。自らが知謀と将兵の血によって勝ち取った沼田領の割譲を、忠誠を誓ったはずの新たな主君・徳川家康から迫られるという、理不尽極まりない矛盾。この「沼田領問題」こそが、昌幸と家康の間に深刻な亀裂を生み、天正13年(1585年)の第一次上田合戦へと直接つながる、新たな紛争の火種となったのである 15

1582年の「岩櫃城の戦い」は、真田家が独立を勝ち取った栄光の戦史であると同時に、さらなる巨大な敵との対決を宿命づける、過酷な未来への序章でもあった。真田昌幸の戦いは、まだ始まったばかりであった。


表2:天正10年(1582年)旧武田領関連動向 詳細年表

年月日

主要動向

関連勢力

出来事の意義・影響

3月11日

武田勝頼、天目山にて自刃。武田氏滅亡。

織田、徳川、北条、武田

甲斐・信濃・上野に巨大な権力の空白が発生。

3月29日

織田信長、旧武田領の知行割を実施。

織田(滝川一益)

滝川一益が関東統治の責任者となり、真田昌幸はその与力となる。

6月2日

本能寺の変。織田信長、自刃。

織田(明智光秀)

中央の権威が消滅し、各地で動乱が勃発する引き金となる。

6月19日

神流川の戦い。滝川一益、北条氏直に大敗。

北条、織田(滝川)

織田勢力が関東から一掃され、「天正壬午の乱」が本格化する。

6月21日頃

真田昌幸、沼田城・岩櫃城を奪還。

真田

独立勢力としての行動を開始。

6月下旬

昌幸、上杉景勝に臣従。

真田、上杉

北からの脅威に対応するための一次的な安全保障。

7月9日

昌幸、北条氏直に臣従。

真田、北条

碓氷峠を越えてきた北条の大軍に対する現実的対応。

9月

昌幸、徳川家康の調略に応じ、徳川方へ転身。

真田、徳川

天正壬午の乱のパワーバランスを決定づける転換点。

10月下旬

大戸城の戦い。真田信幸、北条軍を撃破。

真田、北条

真田氏が吾妻郡における支配権を確立。

10月

昌幸、碓氷峠を占領。

真田、徳川

甲斐にいる北条軍本隊の補給路を遮断。

10月29日

徳川・北条間で和睦成立。

徳川、北条

天正壬午の乱が終結。しかし、沼田領問題という新たな火種が生まれる。

12月

北条軍、中山城を攻略。

北条、真田

岩櫃城と沼田城の連絡線が分断され、真田は新たな脅威に直面する。

引用文献

  1. 上野国・戦国時代その5 戦国末期から徳川政権へ https://www.water.go.jp/kanto/gunma/sozoro%20walk/the%20age%20of%20civil%20wars%205.pdf
  2. 天正壬午の乱/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/99866/
  3. 岩櫃城 - 埋もれた古城 表紙 http://umoretakojo.jp/Shiro/Kantou/Gunma/Iwabitsu/index.htm
  4. 東吾妻町観光・岩櫃関連 情報 HP https://www.town.higashiagatsuma.gunma.jp/www/kankou/contents/1633575563328/simple/iwabitujouato.pdf
  5. 岩櫃城跡 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/449840
  6. 岩 櫃 城 周 辺 図 http://iwabitsu-sanadamaru.com/file/iwabitsujoato_pamphlet.pdf
  7. 真田/岩櫃の歴史 | 岩櫃(いわびつ)~大河ドラマ「真田丸」東吾妻町公式ホームページ~ http://iwabitsu-sanadamaru.com/history
  8. 岩櫃城 - 日本200名城バイリンガル (Japan's top 200 castles and ruins) https://jpcastles200.com/tag/%E5%B2%A9%E6%AB%83%E5%9F%8E/
  9. 888 岩櫃山周辺ガイドマップ - 東吾妻町 https://www.town.higashiagatsuma.gunma.jp/www/kankou/contents/1204115532274/files/iwabitutizu.pdf
  10. 岩櫃城 稲荷城 岩下城 萩生城 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/gunma/agatumamati.htm
  11. 1582年(前半) 武田家の滅亡 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1582-1/
  12. 滝川一益(たきがわかずます) - 前橋市 https://www.city.maebashi.gunma.jp/soshiki/bunkasupotsukanko/bunkakokusai/gyomu/8/19885.html
  13. 信長に評価された滝川一益が直面した「逆境」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/35761
  14. 滝川一益は何をした人?「甲州征伐で大活躍したが清洲会議に乗り遅れてしまった」ハナシ https://busho.fun/person/kazumasu-takigawa
  15. 真田昌幸 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E6%98%8C%E5%B9%B8
  16. 「天正壬午の乱(1582年)」信長死後、旧武田領は戦国武将たちの草刈り場に! https://sengoku-his.com/453
  17. 滝川一益-歴史上の実力者/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44324/
  18. 神流川の戦い古戦場:群馬県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/kannagawa/
  19. 滝川一益 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E4%B8%80%E7%9B%8A
  20. 1582年(後半) 東国 天正壬午の乱 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1582-4/
  21. 神流川の戦い | 倉賀野城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1324/memo/3205.html
  22. 歴史の目的をめぐって 真田信繁 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-11-sanada-nobushige.html
  23. 神流川合戦を考える‐ それは「本能寺の変」から始まった 両軍激突‐激闘の金久保城 - 上里町 https://www.town.kamisato.saitama.jp/secure/9746/%E3%81%8B%E3%81%BF%E3%81%95%E3%81%A8%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9002%20%E7%89%B9%E9%9B%86%20%E7%A5%9E%E6%B5%81%E5%B7%9D%E5%90%88%E6%88%A6%E3%82%92%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B.pdf
  24. 本能寺の変勃発!天正壬午の乱と真田昌幸の智謀 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/2839
  25. 本能寺の変勃発!天正壬午の乱と真田昌幸の智謀 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/2839/image/0
  26. 【合戦図解】天正壬午の乱〜徳川・北条・上杉の武田家旧領を巡る争い〜 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=g-CzsPMzqak
  27. 天正壬午の乱で真田昌幸がとった行動とは? - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/quiz/577
  28. 第一次上田合戦 - 日本の城研究記 https://takato.stars.ne.jp/kiji/meigen.html
  29. 名胡桃城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E8%83%A1%E6%A1%83%E5%9F%8E
  30. 天正壬午の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E5%A3%AC%E5%8D%88%E3%81%AE%E4%B9%B1
  31. 逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第17回【真田昌幸】“表裏比興の者”と呼ばれ、家康が最も恐れた男 - 城びと https://shirobito.jp/article/1624