最終更新日 2025-09-05

岩殿山城の戦い(1582)

岩殿山城の戦いは、武田勝頼が小山田信茂に裏切られ、天目山で滅亡した悲劇。甲州征伐は武田家の内部崩壊を加速させ、信茂の処刑は織田の新たな秩序を示す。この戦いは天正壬午の乱の序章となった。

天正壬午の悲劇:岩殿山城を巡る武田家滅亡の真相

序章:崩壊の序曲 ― 甲州征伐の勃発

天正10年(1582年)に起こった、いわゆる「岩殿山城の戦い」は、単独の城を巡る攻防戦として理解すべきではない。それは、戦国最強と謳われた甲斐武田氏が、その栄光の頂点からわずか数年にして、内部から崩壊し、滅亡へと至る壮大な悲劇の最終幕であった。この出来事を正確に理解するためには、まずその前提となる「甲州征伐」が、織田信長による一方的な軍事侵攻という側面だけでなく、武田氏自身の組織的・心理的な瓦解がいかに急速に進んだかを把握する必要がある。

天正10年(1582年)の戦略状況

天正3年(1575年)の長篠の戦いにおける壊滅的な敗北以降、武田勝頼は領国の再建に努めたものの、失われた多くの宿将と兵力の回復はままならず、その勢力には陰りが見え始めていた 1 。一方、敵対する織田信長は、畿内をほぼ平定し、その圧倒的な経済力と軍事力を背景に天下布武の総仕上げに取り掛かっていた。両者の国力差は、もはや覆い隠しようのないものとなっていた。

この状況を好機と見た信長は、天正10年2月、武田領への総攻撃を決定する。その作戦は、嫡男・織田信忠を総大将に据え、美濃・信濃方面から主力を侵攻させると同時に、同盟者である徳川家康には駿河から、そして飛騨からは家臣の金森長近を侵攻させるという、多方面からの同時飽和攻撃であった 2 。さらに後には、関東の北条氏政もこれに呼応し、武田領は四方から鉄の輪で締め上げられる形となった 3 。この周到な計画は、武田氏の兵力を各地に分散させ、連携を断ち、各個撃破することを狙ったものであった。

内部崩壊の連鎖

信長の侵攻計画が巧妙であったことは事実であるが、それ以上に武田氏の滅亡を早めたのは、内部からの急速な崩壊であった。その連鎖は、まさに堰を切ったように始まった。

第一の衝撃は、天正10年1月27日、信濃の要衝・木曽谷を領する木曽義昌の離反である 4 。義昌は武田信玄の娘婿であり、一門衆に連なる重鎮であった。彼の裏切りは、甲州征伐の直接的な引き金となっただけでなく、武田家臣団に深刻な動揺をもたらした 1 。この報に激高した勝頼が、人質として甲府にいた義昌の実母や嫡男らを処刑するという挙に出たことは、他の家臣たちに恐怖と不信感を植え付け、かえって離反の連鎖を加速させる悪手となった 4

そして、武田家にとって致命傷となったのが、2月25日に明らかになった穴山梅雪(信君)の内応である 4 。梅雪は武田一門の筆頭格であり、信玄からの信頼も厚い宿老であった。その彼が徳川家康を通じて織田方に寝返ったという事実は、軍事的な損失以上に、武田家中の精神的な支柱を根底から打ち砕くものであった 2 。駿河方面の守りの要であった梅雪の裏切りにより、徳川軍の甲斐本国への侵攻ルートは完全に開かれ、勝頼は信濃の諏訪上原城から本拠地への撤退を余儀なくされたのである 3

この時、勝頼の求心力はすでに地に落ちていた。2月19日、勝頼夫人が武田八幡宮に奉納した願文には、「思いもよらぬ逆心」が新たに出現し、「付き従うべき士卒が利益を得ることがないので、その心がまちまちとなっております」という悲痛な叫びが記されている 7 。これは、最高指導者層が、軍事行動の最中にあって自軍の兵士たちの忠誠心を疑っているという、組織として末期的な状況を如実に物語る証左であった。

織田軍の破竹の進撃

内部崩壊を起こした武田方に、もはや織田の大軍を押しとどめる力は残されていなかった。織田信忠が率いる本隊は、2月14日に信濃伊那郡へ侵攻を開始すると、松尾城主・小笠原信嶺の寝返りを手始めに、ほとんど抵抗を受けることなく南信濃を席巻していく。飯田城、大島城といった要衝は、城主が戦わずして逃亡、あるいは開城し、織田軍はほぼ無傷で進軍を続けた 2

その中で唯一、武田武士の意地を見せたのが、勝頼の異母弟・仁科盛信が守る高遠城であった。3月2日、信忠は盛信に降伏を勧告するが、盛信はこれを敢然と拒否。信忠軍は総攻撃をかけるが、盛信と城兵は最後まで勇猛に戦い、壮絶な自刃を遂げた 4 。この高遠城の奮戦は、滅びゆく武田家の最後の輝きであったが、その一方で、他の城主たちの雪崩を打ったような降伏や逃亡との鮮やかな対比を際立たせ、武田家の組織的統制が完全に失われていたことを象徴する出来事ともなった。

甲州征伐は、織田信長による軍事的な「征伐」という側面を持ちながらも、その実態は、内部から腐食しきっていた武田という巨大な建造物が、外部からの圧力によって一気に崩れ落ちた「自壊」のプロセスを追認するものであった。織田軍の役割は、その最後の引き金を引いたに過ぎなかったのである。

【表1】甲州征伐 主要関連年表(天正10年2月~3月)

日付 (天正10年)

場所

主要な出来事

主要人物

2月1日

岐阜城

木曽義昌の離反が織田信忠に伝わる 4

木曽義昌、織田信忠

2月3日

安土城

信長、甲州征伐の陣触れを発令。徳川・北条・金森にも出陣を命じる 4

織田信長、徳川家康

2月12日

岐阜城

織田信忠、5万の兵を率いて出陣 4

織田信忠

2月14日

信濃・伊那郡

信忠軍、岩村城着陣。小笠原信嶺が寝返り、飯田城を占領 4

織田信忠、小笠原信嶺

2月16日

信濃・鳥居峠

木曽義昌の別働隊が武田軍に勝利 4

木曽義昌

2月25日

駿河・江尻城

穴山梅雪、人質を脱出させ、徳川家康を通じて織田方に内応 4

穴山梅雪、徳川家康

2月27日

信濃・上原城

勝頼、梅雪の裏切りを知り、新府城へ撤退を開始 4

武田勝頼

2月末

駿河東部

北条軍が武田領へ侵攻開始。徳川軍も甲斐へ向かう 4

北条氏政、徳川家康

3月2日

信濃・高遠城

織田信忠軍が高遠城を攻撃。城主・仁科盛信は奮戦の末に自害し、落城 4

織田信忠、仁科盛信

3月3日

甲斐・新府城

勝頼、未完成の新府城に放火し、岩殿山城へ向け逃亡を開始 4

武田勝頼

第一章:最後の拠点 ― 新府城放棄の決断

追い詰められた武田勝頼が下した最後の大きな戦略的決断、それが新府城の放棄であった。この決断は、彼の絶望と焦燥の深さを物語ると同時に、武田家の滅亡を決定づける分水嶺となった。なぜ彼は、自らが心血を注いだ最後の拠点を、戦うことなく見捨てなければならなかったのか。その背景には、未完の城という物理的な問題と、崩壊した主従関係という心理的な問題が複雑に絡み合っていた。

新府城の戦略的価値と未完の悲劇

韮崎の地に築かれた新府城は、勝頼が武田家の未来を託した一大プロジェクトであった。従来の居城であった躑蟇ヶ崎館が、防衛拠点としては脆弱であったことを踏まえ、織田・徳川連合軍の脅威に対抗しうる堅固な城塞都市を建設しようとしたのである 1 。しかし、その壮大な計画は、敵の侵攻速度に全く追いついていなかった。

甲州征伐が開始された時点で、新府城はまだ築城の途上にあり、籠城戦に耐えうる状態ではなかった 11 。『信長公記』によれば、勝頼がこの城に入城してからわずか68日、一度も本格的な戦いにその真価を発揮することなく、彼は自らの手でこの城を灰燼に帰すという悲劇的な選択を迫られることになる 9 。燃え盛る新府城の炎は、勝頼の描いた再起の夢が、非情な現実の前に脆くも崩れ去ったことを象徴していた 14

運命の軍議 ― 岩櫃城か、岩殿山城か

穴山梅雪の裏切りという衝撃的な報が新府城に届くと、わずかに残っていた家臣団にも動揺が走り、兵は次々と離散していった。その数は、もはや1,000人程度にまで激減していたと伝えられる 4 。この絶望的な状況下で、武田家の運命を決する最後の軍議が開かれた。ここで提示されたのは、二つの対照的な撤退案であった。

一つは、上野国にある家臣・真田昌幸の居城、岩櫃城への撤退案である 15 。岩櫃城は、険しい山容を活かした天然の要害であり、籠城して時間を稼ぐには最適の地であった。さらに、越後の上杉景勝領にも近く、同盟関係にあった上杉からの援軍や連携も期待できる。戦略的に見れば、再起を図るための最も現実的な選択肢であったと言えよう。

もう一つは、甲斐国東部の郡内領主・小山田信茂が強く進言した、自らの居城である岩殿山城への退避案であった 16 。岩殿山城もまた、その険しさから難攻不落と謳われた名城であり、甲斐国内に留まって抵抗を続けるという選択肢であった。

勝頼の選択とその心理的背景

二つの選択肢を前に、勝頼が選んだのは、小山田信茂が勧める岩殿山城であった。この決断は、後から見れば致命的な誤りであったが、当時の勝頼の心理状態を鑑みると、その選択には一定の理由があったと考えられる。

最大の要因は、真田昌幸と小山田信茂の、武田家中における立場の違いであった。真田氏は信濃の国衆であり、武田家に仕えてからの日は浅い、いわば外様の家臣である。一方、小山田氏は信玄の代から武田家に仕える譜代の重臣であり、一門衆に準ずる家格を誇っていた 17 。四面楚歌の状況に追い詰められた勝頼が、客観的な戦略的合理性よりも、伝統的な主従関係という情緒的な絆に最後の望みを託そうとしたのは、人間として自然な心理であったかもしれない。彼は、譜代の家臣は決して主君を裏切らないはずだという、もはや通用しなくなった旧来の価値観にすがったのである。しかし、この時すでに武田家中の主従の絆は崩壊しており、この信頼こそが、彼を破滅へと導くことになる。

この勝頼の最後の決断は、冷静な戦略分析の結果ではなく、精神的に追い詰められた末の、過去の栄光への情緒的な依存であった。この決断が下された時点で、武田氏の滅亡は、もはや避けられない運命となっていたのである。

天正10年3月3日、新府城炎上

決断は下された。天正10年3月3日の未明、勝頼は織田軍に利用されることを防ぐため、そして過去との決別を誓うかのように、未完成の新府城に自ら火を放った 4 。紅蓮の炎が夜空を焦がす中、勝頼は一門や親族、そして最後まで彼に従ったわずか500~600名ほどの家臣を率いて、岩殿山城へと続く、絶望的な逃避行を開始したのである 4

第二章:岩殿山城 ― 難攻不落の要害と城主・小山田信茂

武田勝頼が最後の望みを託した岩殿山城。それは、物理的には彼の期待に応えうるだけの堅固さを備えた名城であった。しかし、城の堅固さと、城主の心の堅固さは、必ずしも一致しない。この悲劇の舞台となった岩殿山城とはどのような城だったのか。そして、その城主・小山田信茂は、なぜ主君を裏切るという、戦国史上最も有名な決断の一つを下すに至ったのか。城の物理的な構造と、城主の心理的な葛藤を解き明かすことで、悲劇の本質が見えてくる。

岩殿山城の地勢と構造

山梨県大月市にそびえる岩殿山は、標高634mの峻険な岩山であり、その全山が要塞化されていた 18 。眼下には桂川が深く大地を削り、天然の外堀として機能。大軍が容易に取り付くことを許さない、まさに天然の要害であった 11

城の中心部への入り口とされる「揚城戸」は、二つの巨大な岩に挟まれた幅わずか1mほどの通路であり、ここに門を構えられれば、いかなる屈強な兵といえども突破は極めて困難であったと推測される 11 。山中には、馬場跡や蔵屋敷跡、そして湧水を持つ用水池なども備えられており、籠城戦を想定した設計がなされていた 18 。元々が修験道の修行場であったという歴史も、この山の険しさを物語っている 15 。もし勝頼一行がこの城に籠もることができていたならば、織田の大軍を相手にしても、相当な期間、持ちこたえることが可能だったであろう。

城主・小山田信茂の人物像と立場

この難攻不落の城を治めていたのが、小山田信茂である。小山田氏は、甲斐国東部の郡内地方を支配する有力な国人領主であり、武田氏に従属してはいたものの、領内においては半独立的な権限を維持していた 20 。その立場は、純粋な武田家の家臣というよりは、強力な同盟者に近い側面も持っていた。

信茂自身は、決して暗愚な武将ではなかった。父祖伝来の領地を守り、武勇に優れるだけでなく、学識も豊かで、信玄からもその文武両道の才を高く評価されていた 21 。勝頼の代になっても、越後の上杉景勝との同盟締結の使者を務めるなど、外交の重要な局面で重用されており、冷静な状況判断能力と政治的センスを兼ね備えた人物であったことがうかがえる 21 。彼が下した決断は、単なる恐怖や利欲に駆られた衝動的なものではなく、複雑な計算と葛藤の末に導き出されたものであったと考えるべきである。

裏切りの深層 ― 諸説の検討

小山田信茂はなぜ勝頼を裏切ったのか。この問いに対しては、様々な説が存在する。

一つは、古くからの通説である**「不忠者説」**である。主君が最大の危機に瀕しているにもかかわらず、保身のために裏切り、武田家滅亡の直接的な原因を作った許されざる不忠の臣、という見方だ。事実、後に彼を処刑した織田信忠が断罪の理由としたのも、この「不忠」であった 17

しかし近年、特に地元などを中心に有力視されているのが、**「領主としての苦渋の決断説」**である 18 。この説によれば、信茂の行動の最優先事項は、滅びゆく武田家への忠義ではなく、「先祖伝来の郡内領と、そこに住む領民を戦禍から守る」という、領主としての責務を果たすことにあったとされる 21 。もはや勝頼に勝ち目がないことは誰の目にも明らかであった。その一行を城に迎え入れれば、織田・徳川・北条の連合軍に包囲され、領地が焦土と化すことは避けられない 18 。信茂は、自らが「裏切り者」の汚名を着て処刑されることと引き換えに、織田方と「郡内領不犯(郡内領には手を出さない)」という密約を交わし、領地の安泰を図ったのではないか、という見方である 21

さらに、**「家臣団の反対説」**も存在する。信茂自身は勝頼を迎え入れるつもりで一旦城に戻ったものの、家臣たちにその意向を伝えたところ、「勝ち目のない戦に郡内全土を巻き込むのか」と猛反対に遭い、やむなく受け入れを拒否する決断を下した、という可能性である 25

信茂の「裏切り」は、単なる個人の倫理の問題として片付けられるものではない。それは、中世的な価値観である「主君への絶対的な忠誠」と、戦国時代を通じてより重要性を増してきた近世的な価値観である「領国経営者としての責任」とが、彼の心の中で激しく衝突した結果生じた悲劇であった。彼が直面したのは、「滅びゆく主君と運命を共にし、忠臣として死ぬか」、それとも「主君を見捨ててでも、自らの領地と民を守り、領主としての責務を全うするか」という、あまりにも過酷な二者択一だったのである。

信茂は、後者の「領国経営者」としてのリアリズムを選択した。しかし、皮肉なことに、彼が帰順しようとした織田信長・信忠が構築しようとしていた新しい天下の秩序は、状況に応じて主君を変えるような旧来の国衆のあり方を許さず、絶対的な「忠義」を臣下に求めるものであった。信茂の悲劇は、古い価値観を捨てて新しい秩序に飛び込もうとしたものの、その新しい秩序が求める価値観をも満たすことができなかったために、双方から断罪されてしまったという、時代の大きな転換点に生きた武将のジレンマそのものであったと言えよう。

第三章:滅亡への道程 ― 3月3日から11日までの詳細な時系列記録

武田勝頼一行の最後の九日間。それは、地理的な逃避行であると同時に、彼が「武田家当主」という立場を支えていたあらゆる人間関係の信頼が、一枚また一枚と剥がされていく「心理的な剥離」の過程でもあった。ここでは、ユーザーの「リアルタイムな状態が時系列でわかる形」という要望に応えるべく、史料に基づき、その絶望的な道程を克明に再現する。

【表2】武田勝頼 最後の九日間 行動記録(3月3日~11日)

日付 (天正10年)

主な経由地

主な出来事

推定同行者数

3月3日

新府城 →

未明、新府城に放火。岩殿山城を目指し逃避行を開始。

約500~600名 4

3月4日

勝沼・柏尾

小山田信茂からの出迎えを待つが、来ず。信茂の離反を察知 4

変化なし

3月5日~9日

笹子峠付近

小山田信茂軍が笹子峠を封鎖。鉄砲による威嚇射撃を受け、郡内入りを拒絶される 24

激減し始める

(期間中)

勝沼・大善寺

理慶尼が一行の惨めな姿を目撃 18

約100名以下 18

(期間中)

(移動中)

岩殿山城を断念し、天目山を目指すことを決意。家臣の離散が相次ぐ。

-

3月10日

天目山麓・田野村

最後の目的地である田野村に到着 4

約40~50名 1

3月11日

田野村・鳥居畑

織田軍の追撃と地元民の一揆に遭遇。最後の戦いの後、一族自刃 4

全員死亡

詳細な時系列描写

3月3日、出発。

未明、勝頼は自らが築いた新府城に火を放った。燃え盛る城を背に、まだ彼を「主君」と信じる約500~600名の一門、親族、家臣たちと共に、最後の希望の地・岩殿山城へと向かった 4。

3月4日、最初の亀裂。

一行は勝沼の柏尾(現在の甲州市勝沼町)に到着。ここで、先行して準備を整えているはずの小山田信茂からの出迎えを待った。しかし、待てど暮らせど迎えは現れない。この時、人質としていた信茂の母親の行方が分からなくなり、一行は信茂の離反を確信したと伝えられる 4。不安と疑念が、疲弊した一行の心を蝕み始めた。

3月5日~9日、笹子峠の絶望。

日付については諸説あるが、この期間中に武田家の運命は決定づけられた。岩殿山城へと続く道、笹子峠に差し掛かった勝頼一行の眼前に現れたのは、味方であるはずの小山田信茂の兵であった。彼らは峠を完全に封鎖し、あろうことか、かつての主君一行に向けて鉄砲を撃ちかけ、その行く手を阻んだのである 16。

この行為は、物理的な進路の遮断以上に、勝頼の心を打ち砕いた。最も信頼していたはずの譜代家臣からの、あまりにも無慈悲な拒絶。それは「主従の信頼」という、武家社会の根幹をなす価値観が完全に剥奪された瞬間であった 21

この頃、一行は勝沼の大善寺に立ち寄ったとされる。そこに居合わせた理慶尼(武田信玄の妹)は、後に『理慶尼の記』として知られる記録の中で、一行の「哀れで惨めな姿」を書き残している 18 。彼女の目撃談は、栄華を極めた武田家の最後の姿がいかに悲惨なものであったかを、生々しく伝えている。

離散、そして最後の決意。

岩殿山城への道が完全に閉ざされたことで、一行の結束は崩壊した。「集団の結束」の剥奪である。多くの家臣たちが、もはやこれまでと勝頼を見限り、闇に紛れて逃亡していった。勝頼は、先祖・武田信満が自刃した地であり、一族ゆかりの地である天目山を目指し、そこを自らの死に場所とすることを決意する 28。

3月10日、田野村へ。

離散に次ぐ離散の果てに、勝頼に従う者はわずか40数名にまで減っていた 5。彼らはついに、天目山の麓にある田野村という数軒の民家しかない小さな集落にたどり着いた 4。もはや、組織的な抵抗など望むべくもなかった。

3月11日、最後の裏切りと終焉。

夜が明けると、最後の悲劇が勝頼を襲った。滝川一益率いる織田軍の追手が迫る中、天目山周辺の百姓たちが一揆を起こし、落ち武者狩りとばかりに勝頼一行に襲いかかったのである 29。守るべき対象であったはずの「領民」からの攻撃。それは、勝頼が「領主と領民の絆」という、最後の社会的関係性をも剥奪されたことを意味していた。

この九日間の旅路は、勝頼が「武田家当主」という社会的地位から、その権威を支えるあらゆる人間関係を引き剥がされ、最後にはただ一人の人間として死に直面していく、過酷な過程だったのである。

第四章:天目山の悲劇 ― 武田家嫡流の滅亡

天正10年3月11日、甲斐国田野。かつて戦国最強と謳われた武田騎馬軍団を率いた名門、甲斐武田氏の嫡流が、その栄光の歴史に幕を下ろす時が来た。その最期は、軍事的敗北という言葉だけでは語り尽くせない、壮絶かつ儀式的な様相を呈していた。それは、滅びゆく者が自らの「家の歴史」を完結させるための、最後の、そして最も悲しい儀式であった。

最後の抵抗 ― 鳥居畑の戦い

田野の鳥居畑において、滝川一益が率いる数千の織田軍と、勝頼に従うわずか40名余りの武田家臣が最後の対峙をした 1 。圧倒的な兵力差の前に、勝敗は初めから決していた。しかし、彼らはただ死を待つのではなく、武田武士としての誇りを胸に、主君が最期を迎えるための時間を稼ごうと奮戦した。

その中でも、ひときわ凄まじい働きを見せたのが、家臣の土屋昌恒であった。彼は河川沿いの崖道に一人立ちはだかり、片手で藤蔓を掴んで自らの体を支えながら、押し寄せる織田兵を次々と斬り伏せたという。この「片手千人斬り」の伝説は、後世、武田武士最後の意地と忠義の象徴として語り継がれることとなる 1 。また、一度は勝頼の不興を買い逼塞していた小宮山内膳のような家臣が、この最後の戦場に駆けつけ、主君に殉じたという逸話も残されており、滅びの美学を際立たせている 34

最期の儀式

敵兵が迫る緊迫した状況の中、勝頼は死を覚悟し、最後の儀式を執り行った。それは、当時16歳であった嫡男・信勝の元服の儀であった 5 。軍事的には全く無意味なこの行為は、武田家の歴史を、当主不在のまま無秩序に終わらせるのではなく、「信勝に家督を譲り、武田家最後の当主として死なせる」という、形式的ではあっても秩序だった形で締めくくるための、強い意志の表れであった。勝頼は、武田家伝来の宝鎧「楯無」を信勝に着せ、家督を譲ったと伝えられている 3

さらに勝頼は、もう一つの家宝である「御旗」(日の丸の原型とされる旗)を家臣に託し、落ち延びるよう命じた。これもまた、単に宝物を守るという以上に、武田家の「魂」を次代に繋ごうとする意識の表れであった。これらの行動は、天目山での最期が単なる混乱状態ではなく、武家の棟梁として、自らの「家」の物語を可能な限り正式な手続きに則って完結させようとする、儀式的な行為であったことを示している。

自刃 ― 一族の最期

儀式は終わった。まず、勝頼の継室であった北条夫人が自害した。彼女は敵対する北条氏政の妹であり、その生涯は政略に翻弄され続けた。享年わずか19歳であった 4 。彼女が遺したとされる辞世の句、「黒髪の 乱れたる世ぞ 果てしなき 思ひに消ゆる 露の玉の緒」は、乱世に生きた女性の悲哀を今に伝えている 7

続いて、元服したばかりの信勝が、父に別れを告げると敵中に切り込み討死、あるいは自刃したとされる 5

そして最後に、勝頼もまた、佩刀を腹に突き立てた。享年37 35 。彼が詠んだとされる辞世の句、「朧なる 月のほのかに 雲かすみ 晴て行衛の 西の山の端」には、西方浄土への憧憬と、現世への未練が入り混じった複雑な心情がうかがえる 27

武田氏の滅亡

こうして、平安時代から続く源氏の名門、甲斐武田氏の嫡流は、天目山の露と消えた。勝頼と信勝の首は、織田信長のもとへ送られ検分された後、京都の一条大路で晒し首にされた 3 。一方、家臣によって守られた「御旗」と「楯無」は、後に甲斐を領有することになる徳川家康の手に渡った 5 。家康が武田家の遺臣団を積極的に登用し、「武田流軍学」を江戸幕府の軍制の根幹に据えたことは、武田家の権威と伝統を継承しようとする彼の強い意志の表れであった。武田の肉体は滅びたが、その魂は家康によって受け継がれ、新たな時代を形作っていくことになる。

第五章:岩殿山城の「戦い」とその終焉

武田勝頼を拒絶し、その滅亡を決定づけた岩殿山城と城主・小山田信茂。物語のもう一方の主役であった彼らは、その後どのような運命を辿ったのか。勝頼の死は、決して物語の終わりではなかった。それは、新たな悲劇の始まりを告げるものであった。

主を失った岩殿山城

勝頼一行が天目山で最期を遂げた後、主戦場となることなく残された岩殿山城が、織田軍にどのように接収されたかについての詳細な戦闘記録は乏しい。おそらくは、大きな抵抗もなく開城したものと考えられる。しかし、この落城に際して、一つの悲しい伝説が今に伝えられている。

それが「稚児落とし」の悲話である 18 。城主・小山田信茂が不在の中、城に残された彼の婦女子が、敵兵の追手から逃れるために城から脱出を図った。その道中、ある夫人が背負っていた赤子が泣き出してしまった。敵に発見されることを恐れた一行は、断腸の思いで、その赤子を断崖絶壁から投げ落としたという 18 。この伝説の真偽は定かではないが、主家を裏切った一族が、新たな支配者からいかに過酷な運命を強いられたか、その混乱と悲惨さを象徴する物語として語り継がれている。

小山田信茂の末路 ― 不忠者への断罪

一方、主君を裏切り、織田方への帰順によって自らの領地と一族の安泰を図ろうとした小山田信茂の目論見は、無残にも打ち砕かれることになる。

勝頼の死後、信茂は労をねぎらわれ、恩賞を与えられることを期待して、甲斐に入った織田信忠の前に出頭した 17 。しかし、彼を待っていたのは、温かい歓迎ではなく、冷徹な断罪であった。信忠は、信茂の行為を「主君を裏切るは人の道に非ず」と断じ、その帰順を一切認めなかったのである 17

結果、小山田信茂は、一族もろとも甲斐善光寺の門前で処刑された 5 。享年44 21 。彼が自らの命と引き換えに守ろうとした「郡内領の安堵」は、彼の死後、本能寺の変を経て甲斐を領有した徳川家康によって、結果的に果たされることにはなる 21 。しかし、それは信茂の意図とは全く異なる形での実現であった。

信茂の処刑は、単に彼個人の罪を罰するという意味合いに留まるものではなかった。戦国時代において、主家を見限り、より強い勢力に寝返ることは、生き残りのための常套手段であった。信茂の行動だけが、特別に非難されるべきものではなかったはずである。

にもかかわらず信忠が彼を厳しく処断したのは、父・信長が構築しようとしていた新しい天下の秩序においては、旧来の価値観がもはや通用しないことを天下に示すためであった。信長が目指していたのは、単なる領土拡大ではなく、信長を頂点とする絶対的な中央集権体制の構築である。その新しい秩序の中では、状況に応じて主君を乗り換えるような国衆のあり方は許されず、臣下には絶対的な「忠誠」こそが求められた。

したがって、小山田信茂の処刑は、彼の個人的な罪を問うという以上に、「これから織田の支配下に入る者たちは、主君への裏切りは決して許されない」という強烈なメッセージを、他の武田旧臣や全国の大名に示すための、政治的なパフォーマンス、すなわち「見せしめ」としての意味合いが強かったのである。彼は、時代の大きな転換の波に乗りそこね、古い価値観と新しい価値観の双方から見捨てられた悲劇の武将であった。

終章:歴史のもしも、そして残されたもの

「岩殿山城の戦い」は、武田氏という中世的名門の終焉と、本能寺の変以降の近世的秩序形成の始まりを繋ぐ、歴史の決定的な結節点であった。この一連の出来事が歴史に刻んだ意味とは何だったのか。そして、それは後世に何を残したのか。

歴史の分岐点 ― もし勝頼が岩櫃城を選んでいたら

歴史に「もしも」は禁句であるが、この出来事ほど、その仮定を語りたくなるものも少ない。もし、あの運命の軍議で、武田勝頼が小山田信茂ではなく真田昌幸の言を容れ、上野の岩櫃城に落ち延びていたら、歴史はどのように変わっていたであろうか。

岩櫃城の堅固さと、真田昌幸の智謀をもってすれば、織田の大軍を相手に籠城し、進撃を遅滞させることは十分に可能であったかもしれない 16 。そして、同盟者である越後の上杉景勝と連携し、抵抗を続けていれば、天正10年6月2日、京都で本能寺の変が起こるまで生き延びることができた可能性は否定できない 18 。信長の死による織田体制の大混乱に乗じ、武田家が奇跡的な再興を果たすという、全く異なる歴史が展開されていたかもしれない。この考察は、勝頼の最後の決断が、単なる一つの選択ミスではなく、歴史そのものの流れを変えてしまうほどに重大な分岐点であったことを浮き彫りにする。

小山田信茂の再評価

長年にわたり、「主君を裏切った不忠者」の代名詞として語られてきた小山田信茂。しかし近年、その評価には変化の兆しが見られる。特に、彼の本拠地であった山梨県大月市などを中心に、彼の行動を再評価する動きが活発になっている 18

その新しい視点とは、彼を、自らの犠牲と引き換えに、先祖伝来の領地とそこに住む民を戦禍から守り抜いた「悲劇の領主」として捉え直すものである。彼の決断を、単純な善悪二元論で裁くのではなく、時代の大きな転換期に、領国経営者として生き残りをかけて苦悩した一人の人間の決断として、多角的に理解しようとする試みである。歴史上の人物の評価は、時代と共に変わりうることを、小山田信茂の事例は示している。

天正壬午の乱への序章

甲州征伐による武田氏の滅亡は、甲斐・信濃・上野という広大な地域に、巨大な「力の空白地帯」を生み出した 37 。織田信長は、この旧武田領を家臣たちに分与し、新たな統治体制を築こうとした。しかし、その体制が固まる前の6月2日、信長自身が本能寺で横死する。

信長の死という衝撃的な事件は、この「力の空白地帯」を巡る新たな争奪戦の火蓋を切った。旧領の回復を狙う徳川家康、関東からの進出を目論む北条氏直、信濃への影響力拡大を狙う上杉景勝、そして、この混乱の中で自立を目指す真田昌幸ら現地の国衆。彼らが入り乱れて激しく争ったこの一連の争乱は、干支にちなんで「天正壬午の乱」と呼ばれる 37

「岩殿山城の戦い」は、武田氏の滅亡を決定づけ、この新たな大乱の直接的な引き金を引いた、重要な歴史的連鎖の一環として位置づけられる。それは一つの時代の終わりであると同時に、徳川家康が天下人へと飛躍するきっかけとなる、次なる時代の幕開けを告げる出来事でもあったのである。

引用文献

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  2. 【合戦解説】甲州征伐 織田・徳川・北条 vs 武田 〜武田の勢力低下を見極めた信長は いよいよ武田攻めにとりかかる〜 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=CvJfiiQHcuY
  3. 甲州征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90
  4. 1582年(前半) 武田家の滅亡 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1582-1/
  5. 甲州征伐・天目山の戦い~武田勝頼の滅亡~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/koshu-seibatu.html
  6. 信玄の後継者・武田勝頼が辿った生涯|長篠の戦いで敗れ、武田氏を滅亡させた若き猛将【日本史人物伝】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1124110/2
  7. 命より、夫との死を選ぶ。19歳で壮絶な最期を迎えた武田勝頼夫人の愛 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/117343/
  8. 高遠城の戦い(甲州征伐)古戦場:長野県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/takatojo/
  9. ふる.さとの城を語ろう https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/9/9167/7099_1_%E6%88%A6%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%B5%AA%E6%BC%AB%E6%96%B0%E5%BA%9C%E5%9F%8E.pdf
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  14. お城の現場より〜発掘・復元最前線 第26回【新府城】わずか68日で灰燼に帰した悲劇の城 https://shirobito.jp/article/681
  15. 岩殿城 - 埋もれた古城 表紙 http://umoretakojo.jp/Shiro/TokaiKoshin/Yamanashi/Iwadono/index.htm
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  17. 鉄道唱歌にも悪しざまに唄われる小山田信茂の岩殿城 https://yamasan-aruku.com/aruku-319/
  18. 岩殿城!小山田氏の名城。稚児落しの悲話~DELLパソ兄さん https://www.pasonisan.com/rvw_trip/15-06-iwadonosan.html
  19. 岩殿城 - DTI http://www.zephyr.dti.ne.jp/bushi/siseki/iwadono.htm
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  21. 末代まで裏切り者の汚名を着た武田二十四将の一人・小山田左衛門尉信茂 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/10124
  22. 岩殿城の見所と写真・400人城主の評価(山梨県大月市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/500/
  23. 忠臣か逆臣か!?武田二十四将のひとり、戦国武将・小山田信茂の人生と人柄を紹介 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/158291
  24. 岩殿城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/iwadono.j/iwadono.j.html
  25. 武田勝頼を裏切った小山田信茂にも事情があった? - 旦さまと私 https://lunaticrosier.blog.fc2.com/blog-entry-869.html
  26. 世間は小山田信茂をまだ、どう、観ているのか?|夢酔藤山 - note https://note.com/gifted_macaw324/n/ne48884423d76
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  28. 天目山の戦い - 城郭図鑑 http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/996kosenjyo/020tenmokuzan/tenmokuzan.html
  29. 最後はみずから妻の首を落とすはめに…武田氏滅亡のとき忠臣が涙ながらに勝頼に指摘したリーダー失格の理由 一門の屍を山野にさらすことになるとは、後代までの恥辱 (2ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/70294?page=2
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