岩石城の戦い(1587)
天正十五年、豊臣秀吉の九州平定において、堅城岩石城は一日で陥落した。圧倒的鉄砲の前に秋月氏の抵抗は崩れ、旧来の戦術の終焉と新時代の到来を告げた戦いである。
天正十五年、豊前岩石城の攻防:豊臣軍の圧倒的火力と秋月氏の抵抗、その一日間のリアルタイム戦闘記録
序章:天下統一への道、九州へ
天正13年(1585年)7月、関白に任官した羽柴秀吉は、名実共にかつてない権威をその手に掌握し、天下統一事業を最終段階へと推し進めていた 1 。四国、紀州を平定し、その視線は西国に残された最後の一大勢力、九州に向けられていた。
当時の九州は、薩摩の島津氏がその覇権をほぼ手中に収めつつある状況にあった。木崎原の合戦で伊東氏を破り、日向を平定して三州(薩摩・大隅・日向)を統一した島津義久は、その勢いを駆って北上を開始 2 。天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで肥前の龍造寺隆信を討ち取ると、その支配領域は九州の大部分に及び、残すは豊後の大友氏のみという状況にまで至っていた 2 。
この島津氏の圧倒的な軍事力の前に、存亡の危機に瀕した大友宗麟は、中央の新たな覇者である秀吉に救援を求める 3 。これに応じた秀吉は、天正13年10月、天皇の権威を背景とした「惣無事令」(私戦停止命令)を九州の諸大名に発布した 1 。これは、軍事介入に先立ち、自らの統治の正当性を示すための高度な政治的布石であった。しかし、この命令に対し、劣勢の大友氏は即座に受諾したものの、九州の覇者たる自負を持つ島津義久は、「頼朝以来の名門たる島津が、秀吉のごとき成り上がり者の命に従う必要はない」としてこれを事実上拒絶 1 。この反発こそが、秀吉に「逆徒征伐」という大義名分を与え、大規模な九州出兵を決定づける直接的な引き金となったのである。
秀吉の九州侵攻計画は、壮大かつ周到なものであった。弟の羽柴秀長を総大将とし、毛利・小早川・吉川といった中国勢や、長宗我部・十河ら四国勢を主力とする軍団を豊後から日向へと進ませる東ルート。そして、秀吉自らが率いる本隊が、筑前から肥後、薩摩へと侵攻する西ルート。この二正面作戦によって島津軍を挟撃し、一挙に平定しようというものであった 4 。
この壮大な軍事作戦において、秀吉率いる西ルート軍が九州上陸後に初めて直面する本格的な城攻めこそが、豊前国に位置する「岩石城の戦い」であった。この戦いは、単なる一城の攻略戦ではない。それは、秀吉が九州の旧来の秩序に叩きつける、新しい時代の戦争の幕開けを告げる号砲であり、抵抗する者たちにその無意味さを知らしめるための、計算され尽くした政治的デモンストレーションの舞台となる運命にあった。
第一章:筑前の雄、秋月種実
岩石城の戦いにおいて、豊臣の大軍に敢然と立ち向かったのは、筑前の戦国大名・秋月種実であった。彼の生涯は、まさに戦国乱世を体現するような、不屈と執念の物語であった。
種実は天文17年(1548年)、筑前古処山城主・秋月文種の次男として生まれる 5 。しかし、彼が13歳の時、豊後の大友宗麟の侵攻により父と兄が討死し、古処山城は落城。種実は家臣に守られ、周防の毛利元就のもとへ亡命するという苦難の少年時代を過ごす 6 。しかし、毛利氏の庇護下で成長した種実は、数年後にその支援を得て故郷に帰還。見事に古処山城を奪還し、秋月家を再興する 6 。
この経験は、種実を単なる地方領主ではなく、巨大勢力に屈しない独立不羈の精神を持つ武将へと鍛え上げた。彼は大友氏との長年にわたる抗争の中で、巧みな戦略と奇襲攻撃を駆使して勝利を重ね、徐々に勢力を拡大 5 。やがて、北上する島津氏と、共通の敵である大友氏を打倒するため同盟を締結する 8 。この戦略的判断は功を奏し、種実は筑前、豊前、筑後北部にまたがる11郡、石高にして36万石にも及ぶ広大な領地を有する有力大名へと成長し、秋月氏の最盛期を築き上げたのである 5 。
岩石城は、秋月氏が豊前方面へ勢力を拡大する上で獲得した重要拠点であり、領内に配置した24の支城の中でも、特に堅固さを誇る城であった 10 。
天正15年(1587年)、秀吉の大軍が九州に迫ると、島津軍主力は北部九州から撤退を開始する。多くの国人領主が次々と豊臣方へ寝返る中、秋月種実は抵抗の意思を固持していた 12 。彼の抵抗は、単に島津氏への義理立てから来るものではなかった。それは、秀吉が提示した国分案が、自らが一代で築き上げた領土の多くを宿敵・大友氏に返還させるという、到底受け入れ難いものであったからに他ならない 1 。種実にとってこの戦いは、自らの手で掴み取った独立王国を守るための、誇りを賭けた最後の戦いであった。彼の選択は、九州の旧来の秩序、すなわち「実力が全て」という価値観と、秀吉がもたらす「中央集権」という新しい秩序との、避けられない衝突を象徴していた。
第二章:天然の要害、岩石城
豊臣軍の九州における最初の攻略目標となった岩石城は、「豊前一の堅城」「九州一の名城」と評される、難攻不落の山城であった 13 。その堅固さは、地理的条件と城郭構造の巧みな融合によって生み出されていた。
まず、その地理的特徴は圧倒的である。城は福岡県の添田町と赤村の境に位置する標高454メートルの岩石山に築かれている 15 。その名の通り、山全体が巨岩や奇岩に覆われた険しい地形であり、これが天然の防御壁として機能していた 17 。麓からの登城路は限定され、大軍の展開を著しく困難にする。
城郭構造(縄張り)は、この険しい地形を最大限に活用した連郭式山城の典型であった。山頂の最も高い平坦地を「天守台」とし、その南下に広がる比較的広い空間を城の中核である「本丸」と定めている 15 。本丸から北東に伸びる尾根には「馬場」と呼ばれる曲輪が、南東や南西に伸びる尾根筋にも複数の曲輪が配置され、それぞれが独立した防御拠点として機能するよう設計されていた 15 。
これらの曲輪群を守るため、多彩な防御施設が設けられていた。特に顕著なのは、尾根筋を人工的に断ち切ることで敵の進軍を阻止する「堀切」である。岩石城には、二重に掘られた堀切や、特に大規模な大堀切など、複数の堀切が効果的に配置されており、敵兵は一つの曲輪を落としても、次の曲輪へ進むためにはこの堀切を越えねばならなかった 15 。また、城の中心部である本丸の入り口(虎口)は、敵兵を直進させず、袋小路状の空間に誘い込んで集中攻撃を加えるための「枡形虎口」に近い構造であったと推測されている 15 。さらに、曲輪の斜面は崩れやすい土の切岸だけでなく、自然石を積み上げた「野面積み」の石垣で補強されており、その堅牢さを高めていた 15 。籠城に不可欠な水も、城内に複数の古井戸が確認されており、確保されていた 15 。
これらの要素を総合すると、岩石城は刀や槍を用いた伝統的な白兵戦を想定した場合、極めて攻略が難しい要塞であったことは疑いようがない。細川忠興が後に「100人の兵を置けば、10万の兵も防げる」と評したという逸話も、その防御能力の高さを物語っている 21 。
しかし、この堅固さは、あくまで旧来の戦術思想に最適化されたものであった。敵兵が城壁に取り付いてくることを前提とした防御設計は、新しい時代の戦争、すなわち組織的かつ集中的に運用される鉄砲という遠距離兵器に対して、致命的な脆弱性を内包していた。岩石城の「強み」であったはずの、険しい地形による孤立性。それは、遠距離からの組織的な射撃の前では、兵士たちの逃げ場を奪う「弱み」へと転化する。この戦いは、城郭のあり方そのものに、時代の変革を突きつけるものとなるのであった。
第三章:岩石城の攻防:天正十五年四月一日の詳細な時系列記録
天正15年(1587年)4月1日、豊前岩石城は、日本の戦国時代の戦闘様相が大きく転換する、その象徴的な一日を迎えることとなる。
表1:岩石城の戦いにおける両軍の兵力比較
項目 |
攻撃軍(豊臣軍) |
守備軍(秋月軍) |
総大将 |
羽柴秀勝 13 |
(城主: 秋月種実 - 不在) |
攻撃部隊指揮官 |
大手: 蒲生氏郷, 搦手: 前田利長 13 |
城将: 熊井越中守久重, 芥田悪六兵衛 12 |
総兵力 |
5,000~10,000名 10 |
3,000名 4 |
主要装備 |
圧倒的多数の鉄砲 13 |
刀、槍(抜刀突撃を得意とする) 14 |
この比較表が示す通り、豊臣軍の兵力は守備側の2倍から3倍程度であり、城攻めの定石とされる「10倍の兵力」には遠く及ばない 14 。しかし、この戦いの本質は兵員数という量的差異ではなく、「主要装備」の欄に示された質的な非対称性にあった。
合戦前夜(三月二十九日~三十一日)
天正15年3月29日、秀吉率いる本隊は豊前小倉に上陸し、ただちに馬ヶ岳城に本営を構えた 4 。ここで開かれた軍議において、九州平定の緒戦として、島津方に与する秋月氏の支城・岩石城の攻略が決定される。秀吉は、あえて「九州一の名城」と評判の高いこの堅城を最初の標的に選んだ。それは、この城を圧倒的な力で、しかも短期間に陥落させることで、九州のいまだ抵抗を続ける諸大名に対し、自らの軍事力の絶大さを見せつけ、戦意を挫くという明確な戦略的意図があったからである。
攻撃の指揮官には、数多の武将が先陣を競う中、若くして智勇兼備と名高い蒲生氏郷と、前田利家の嫡男である前田利長が指名された 14 。彼らは秀吉が信頼を置く新世代の武将であり、旧来の戦術に固執しない、新しい時代の戦いを遂行する能力を期待されての抜擢であった。
払暁、攻撃開始(四月一日 午前四時頃)
夜が明けきらぬ午前4時、豊臣軍による岩石城への総攻撃の火蓋が切られた 14 。作戦は、城を二方向から同時に攻める二正面作戦であった。蒲生氏郷率いる部隊が城の正面玄関にあたる大手口から、そして前田利長率いる部隊が背後の尾根筋に位置する搦手口から、一斉に攻撃を開始した 13 。
対する籠城側は、秋月氏の重臣である熊井越中守久重と芥田悪六兵衛が城将として3,000の兵を率い、この猛攻を迎え撃つ。天然の要害と堅固な防御施設に依拠し、徹底抗戦の構えであった 12 。
午前の激闘:新旧戦術の衝突
攻撃の主軸は、もはや刀や槍ではなかった。豊臣軍が投入したのは、圧倒的な物量の鉄砲であった。城を取り囲んだ豊臣軍は、城内の防御拠点に向けて、文字通り「雨のように」 17 、「ほとんど切れ目なく連射を浴びせた」 14 。これは、一斉射撃の後に弾込めに時間がかかる火縄銃の弱点を、複数の部隊が交代で射撃を続ける「連続射撃」という組織的運用で克服する、織田信長以来の先進的な戦術であった。
この絶え間ない弾幕の前に、秋月軍は完全に動きを封じられる。城の狭間(銃眼)から応戦しようにも、身を乗り出せばたちまち蜂の巣にされる 22 。彼らが最も得意とする、白刃を振るっての抜刀突撃を敢行しようにも、城から打って出る前に銃弾の餌食となることは明白であった。記録によれば、「熊井勢の戦死のほとんどは、銃弾によるものだった」とされ、両軍の戦術的格差がいかに決定的であったかを物語っている 14 。この一方的な展開の中、指揮官である蒲生氏郷は自ら先頭に立って突撃を敢行し、その勇猛な姿が兵たちの士気を大いに高めたと伝えられている 24 。
正午~午後:個人の武勇と組織の力
戦況が一方的に豊臣軍優位で進む中、城内では最後の抵抗が試みられた。その象徴が、城将の一人、芥田悪六兵衛の壮絶な奮戦であった。
六尺(約180cm)を超える巨漢で、並外れた怪力の持ち主として知られた悪六兵衛は、城内に突入してきた敵兵を相手に獅子奮迅の戦いを見せる 13 。そしてついに、加藤清正の家臣で、毛谷村六助の名で知られる伝説的な剣客・貴田孫兵衛と相対する。伝承によれば、二人は武器を捨て、素手で組み合う壮絶な一騎打ちを演じた末、悪六兵衛は力尽き、討ち取られたという 13 。この一騎打ちは、組織的な集団戦術の中に埋没しがちな個人の武勇が、最後の輝きを放った瞬間として、後世に語り継がれることとなった。
落城(午後四時頃)
開戦から約12時間。城内の主要な防御拠点が沈黙し、抵抗が散発的になると、豊臣軍は城内に火を放ち、最後の総攻撃を開始した 17 。この猛攻の中、城将・熊井越中守久重も奮戦の末に討死 12 。彼の死をもって、岩石城の組織的抵抗は完全に終焉を迎えた。
午後4時、豊前一の堅城と謳われた岩石城は、わずか一日にして陥落した 13 。戦後、秀吉の本営には、討ち取られた秋月兵の首級400余りが届けられたと記録されている 17 。
第四章:両軍の将帥:その人物像と運命
この一日間の激戦は、戦場を駆け抜けた将帥たちの運命を大きく左右した。彼らの人物像と、この戦いが彼らのキャリアに与えた影響は、新旧の時代の武士の姿を対照的に映し出している。
攻撃軍の将
- 蒲生氏郷: 織田信長の娘婿であり、早くからその才覚を認められていた智勇兼備の名将。この岩石城攻めにおける先陣での活躍は、彼の武功をさらに高め、後の会津92万石の大封へと繋がるキャリアの重要な一歩となった。
- 前田利長: 加賀百万石の祖・前田利家の嫡男。父と共に秀吉に仕え、この九州平定は彼にとって大規模な実戦を指揮する貴重な経験となった。
彼らに共通するのは、秀吉子飼いの武将として、鉄砲の組織的運用といった新しい時代の戦術を的確に理解し、実行できる能力を持っていた点である。彼らは個人の武勇だけでなく、組織力と先進技術を駆使して勝利を掴む、新しい時代の武将像を体現していた。
守備軍の将
- 熊井越中守久重: 秋月種実麾下の最も有力な家臣の一人であり、岩石城の守備を任された忠臣 12 。圧倒的な戦力差の前に最後まで城兵を鼓舞し、城と運命を共にした彼の最期は、主君への忠誠を貫く旧来の武士の鑑といえる 15 。
- 芥田悪六兵衛: その出自には不明な点も多いが、六尺を超える巨躯と怪力で知られた猛将 13 。その名の「悪」の字は、勇猛さを称えた主君・種実から与えられたという説もあり、いかに信頼が厚かったかがうかがえる 13 。貴田孫兵衛との一騎打ちは、組織戦が主流となる時代にあって、個人の武勇が放った最後の閃光であった。
熊井と芥田が体現したのは、主君への絶対的な忠誠と、己の肉体と技量を頼みとする個人の武勇を至上とする、戦国時代本来の武士の姿であった。彼らの奮戦と死は、その価値観そのものが、豊臣政権がもたらした新しい戦争の奔流の前に、もはや通用しなくなりつつあることを悲劇的に示していた。
第五章:衝撃と降伏:戦いがもたらした波紋
岩石城の落城がもたらした影響は、一城の陥落という軍事的な成果を遥かに超えるものであった。それは、秋月種実をはじめとする北九州の諸大名の心を折る、絶大な心理的衝撃であった。
秋月種実は、岩石城から西へわずか三里(約12km)の距離にある益富城に布陣し、戦況の報告を待っていた 17 。自らが最も信頼を寄せる堅城が、日の出から日没までのわずか一日で、しかも抵抗らしい抵抗もできずに蹂躙されたという報告は、彼に抗戦の無益さを悟らせるには十分であった 14 。圧倒的な火力の前に、伝統的な籠城戦術が全く通用しないという現実は、彼の戦意を根底から打ち砕いた。
衝撃を受けた種実は、直ちに益富城を自らの手で破却し、本拠地である古処山城へと撤退した 17 。籠城して最後の抵抗を試みようとしたのかもしれない。しかし、秀吉は彼に息つく暇も与えなかった。
秀吉は、種実が放棄した益富城跡で、彼の得意とする心理戦を仕掛ける。近隣の村々から民を動員し、家々から戸板や障子を運び込ませ、一夜にして仮初めの城郭を築き上げたのである。さらに、その周囲に無数のかがり火を焚かせ、あたかも豊臣の大軍がそこに新たな城を築き、大挙して押し寄せているかのように見せかけた 11 。
古処山城からこの光景を目の当たりにした秋月父子の衝撃は、計り知れないものであった。堅城は一日で灰燼に帰し、一夜にして新たな城が出現する。この常識を超えた光景は、豊臣軍の兵力、物量、そして動員力が底知れないものであると錯覚させ、抵抗する意志そのものを完全に粉砕した 6 。
ここに及んで、秋月種実は万策尽きたことを悟る。彼は自ら剃髪して「宗誾」と名を改め、恭順の意を示すと、秀吉の陣営に出頭して降伏した 14 。この際、秋月家が誇る天下の逸品、家宝の茶入「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」を秀吉に献上したと伝えられている 6 。
岩石城の「物理的破壊」と、益富の「一夜城」による「心理的恫喝」。この二段構えの周到な作戦は、兵の損耗を最小限に抑えつつ、敵の戦意を完全に喪失させるという、秀吉(あるいは軍師・黒田官兵衛ら)の高度な戦略思想の表れであった。それは、単なる軍事力による制圧ではなく、敵の心を屈服させることこそを本質とする、新しい天下人の戦いであった。
終章:九州平定における岩石城の戦いの歴史的意義
天正15年4月1日の岩石城の戦いは、わずか一日の攻防であったが、九州平定全体、ひいては戦国時代の終焉に決定的な影響を与えた、極めて重要な戦いであったと結論づけられる。
第一に、その 戦術的意義 は、豊臣中央政権が持つ「新しい戦争の形」を九州の諸大名に強烈に見せつけた点にある。この戦いは、圧倒的な兵站能力に支えられた鉄砲の組織的かつ集中的な運用が、いかに旧来の山城籠城戦術を無力化するかを証明した。個人の武勇や地の利に頼った戦いの時代が終わりを告げ、兵力、物量、そして先進技術を組織的に運用する者が戦場を支配する時代の到来を、九州全土に知らしめた象徴的な戦いであった 14 。
第二に、その 戦略的意義 は、九州平定の帰趨を事実上決定づけた点にある。岩石城の電撃的な陥落と、それに続く有力大名・秋月氏の早期降伏は、周辺で抵抗を続けていた他の島津方の国人領主たちの戦意を完全に喪失させた 12 。これにより、豊臣軍に対する抵抗は雪崩を打って瓦解し、秀吉は北九州を迅速かつ最小限の損害で制圧することに成功した。その結果、全軍の兵力を島津氏の本拠地である薩摩へ集中させることが可能となり、九州平定全体のスケジュールを大幅に短縮させることに繋がったのである。
そして最後に、この戦いは秀吉による全国規模での新たな支配体制構築の大きな一歩となった。降伏した秋月種実は、筑前36万石の領地を没収され、日向高鍋3万石へと減封・転封された 3 。九州平定後、秀吉は「国割り」を断行し、毛利氏から独立させた小早川隆景を筑前に、佐々成政を肥後に配置するなど、九州の勢力図を根底から塗り替えた 1 。岩石城の戦いは、その大改革の序曲であり、地方の独立勢力が淘汰され、日本全土が中央集権体制の下に統合されていく、戦国時代の終焉を告げる画期的な出来事であった。
引用文献
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- 薩摩島津氏が目指した九州統一と豊臣秀吉の九州攻め (2ページ目) - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/16110/?pg=2
- No.161 「豊臣秀吉の九州平定と熊本城&本丸御殿」 https://kumamoto.guide/look/terakoya/161.html
- 1587年 – 89年 九州征伐 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1587/
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- 九州・筑前国に勢力を誇った秋月氏の本城・古処山城【福岡県朝倉市】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/27386
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- 高鍋城 https://www.town.takanabe.lg.jp/material/files/group/17/2_takanabejo.pdf