最終更新日 2025-09-01

川中島の戦い(第一次・1553)

天文22年、武田信玄と長尾景虎は北信濃で初激突。村上義清の亡命を機に始まったこの戦いは、明確な勝敗なく、後の川中島五度の戦いの序曲となった。

第一次川中島の戦い(天文22年):龍虎、初陣の詳報

第一章:序章:龍虎、相見える前夜 ― 北信濃を巡る熾烈なる攻防

天文22年(1553年)に火蓋が切られた第一次川中島の戦いは、単発の偶発的な衝突では断じてない。それは、甲斐の武田晴信(後の信玄)による十余年にわたる信濃侵攻という、周到かつ冷徹な戦略の必然的な帰結であった。この戦役の勃発を理解するためには、まず、武田氏の膨張政策と、それに抗った北信濃の旧来勢力との間の、血で血を洗う攻防の歴史を紐解かねばならない。

1-1. 甲斐の虎、信濃を望む:武田晴信の戦略的野心

天文10年(1541年)、武田晴信は父・信虎を駿河へ追放する無血クーデターを断行し、甲斐国の実権を掌握した 1 。若き当主となった晴信が次なる目標として見据えたのは、隣国・信濃であった。当時の甲斐国は、東に関東の雄・北条氏、南に駿河の大守・今川氏という強大な勢力に囲まれており、これらの方面への進出は困難を極めた 1 。対照的に、信濃は特定の強力な大名による統一支配がなされておらず、小規模な国人領主が群雄割拠する状態にあった 1 。この政治的脆弱性に加え、諏訪盆地や善光寺平といった豊かな穀倉地帯は、甲斐の国力増強にとって極めて魅力的であった 4

晴信の信濃侵攻は、天文11年(1542年)の諏訪郡制圧から本格的に開始される 3 。彼は軍事力のみならず、敵対勢力内の不和を煽る謀略を駆使し、諏訪頼重を和睦と偽って誘き出して自害に追い込むなど、冷徹な手段で勢力を拡大していった 5 。諏訪を拠点とした武田軍は、その後、伊那、佐久へと侵攻の矛先を向け、着実に信濃国内における版図を広げていったのである 6

1-2. 不屈の猛将、村上義清:武田軍を二度破った男

武田軍の北進を阻む最大の障壁となったのが、北信濃に一大勢力を築いていた村上義清であった 7 。彼は、晴信が信濃侵攻を開始した当時のこの地域における最強の武将であり、その武勇は広く知れ渡っていた。

武田軍と村上軍の衝突は、二度にわたる大規模な合戦へと発展する。天文17年(1548年)の「上田原の戦い」において、村上軍は武田軍を正面から撃破。この戦いで武田方は、宿老の板垣信方、甘利虎泰といった重臣を失うという壊滅的な打撃を受けた 9 。さらに天文19年(1550年)、村上氏の拠点の一つである砥石城を包囲した武田軍は、義清の巧みな反撃に遭い、再び大敗を喫する(「砥石崩れ」) 2 。これらの敗北は、常勝を誇った晴信にとって生涯最大級の屈辱であり、村上義清が単なる地方豪族ではなく、武田軍の信濃平定における最大の難敵であることを天下に示す結果となった。

1-3. 謀略と崩壊:葛尾城陥落と越後への亡命

二度にわたる野戦での敗北は、晴信に力攻めだけでは村上義清を屈服させられないことを痛感させた。ここから武田方は、真田幸隆(幸綱)といった信濃の地理と人脈に明るい将を起用し、執拗な「調略」―すなわち、内応や離反を誘う諜報・謀略活動―へと戦術を転換する 2

真田幸隆らの働きにより、村上方の国人衆は次々と切り崩され、義清は次第に孤立していった 8 。そして天文22年(1553年)4月、ついに義清は本拠地である葛尾城を維持することが不可能となり、城を放棄して北へ逃れることを決断する 11 。彼が頼った先は、北信濃の国人・高梨政頼らとの縁戚関係を頼り、越後国主・長尾景虎(後の上杉謙信)であった 11

この一連の出来事は、単に信濃の一地方領主が没落したという以上の、遥かに大きな戦略的意味を持っていた。それまで北信濃は、村上義清という強力な「防壁」の存在によって、武田氏の勢力圏と長尾氏の勢力圏とを隔てる緩衝地帯として機能していた。しかし、義清の敗走と葛尾城の陥落は、この防壁が崩壊したことを意味する。武田の軍事力が、越後の本拠地である春日山城の間近にまで及ぶという事態は、長尾景虎にとって座視できない直接的な脅威となった 9 。村上義清の亡命は、信濃国内の地域紛争を、甲斐の武田氏と越後の長尾氏という、戦国時代を代表する二大勢力間の国家間戦争へと発展させる決定的な転換点となったのである。

第二章:第一次川中島の戦い:合戦のリアルタイム詳報 (天文22年4月~10月)

村上義清の亡命を受け、越後の長尾景虎が軍事介入を決断したことで、北信濃の情勢は新たな局面を迎える。天文22年(1553年)4月から10月にかけて展開された一連の軍事行動が、後に「第一次川中島の戦い」と呼ばれるものである。この戦いは、第四次合戦のような大規模な決戦ではなく、双方の思惑が交錯する中、一進一退の攻防が繰り広げられた戦略的な序盤戦であった。

第一幕:天文22年4月~5月 - 越後の介入と村上義清の反攻

北信濃の国人衆からの救援要請に対し、長尾景虎は即座に全面的な介入を行うのではなく、まずは限定的な支援によって事態の打開を図るという、計算された初動を見せた。これは、武田氏の出方と戦力を見極めつつ、最小限のコストで北信濃の戦線を回復させようとする、極めて老練な戦略的判断であった。

景虎は自らが出陣する代わりに、約5,000の兵を村上義清に与え、旧領回復のための反攻作戦を支援した 13 。天文22年4月22日、勢いを得た村上軍は武田方の守備隊と更級郡八幡(現在の千曲市八幡地区)で激突。この「八幡の戦い」において村上軍は勝利を収め、武田軍を撃退することに成功する 13 。この勝利により、義清は一時的にではあるが、かつての居城・葛尾城を奪還するに至った 16

予期せぬ反撃と、その背後にある越後の影を察知した武田晴信は、無理な戦闘を避けて一旦軍を深志城(現在の松本城)まで後退させ、5月には甲府へと帰還した 13 。景虎の最初の狙いは成功したかに見えた。しかし、この勝利はあくまで局地的なものであり、武田の信濃支配の根幹を揺るがすには至らなかった。

第二幕:天文22年7月~8月 - 武田軍の再侵攻と塩田城の陥落

甲府で三ヶ月にわたり態勢を立て直した晴信は、7月、満を持して大軍を率い、北信濃への再侵攻を開始した 10 。その進撃は、まさに破竹の勢いであった。武田軍は村上方に与していた諸城を次々と攻略し、その数は16に及んだと記録されている 18

村上義清は塩田城に籠もり最後の抵抗を試みるが、圧倒的な兵力差と、武田方による巧みな調略の前に、もはや抗う術はなかった。8月5日、塩田城はついに陥落。義清は再び越後への亡命を余儀なくされた 18 。晴信は村上氏の本領であった埴科郡・小県郡を完全に掌握し、飯富虎昌に塩田城の守備を固めさせるとともに、真田氏をはじめとする味方の信濃国人衆に所領を分け与え、支配体制を磐石なものとした 13 。この結果、北信濃における緩衝地帯は完全に消滅し、武田と長尾の領国は直接境を接することとなった。

第三幕:天文22年9月 - 長尾景虎、自ら出陣す

もはや代理戦争の段階ではない。自国の安全保障が直接脅かされるに至り、長尾景虎はついに自ら軍を率いての出陣を決意する。9月1日、景虎は約8,000の兵を率いて信濃へ進軍した 10

両軍の最初の本格的な衝突は、川中島南部の布施(現在の長野市篠ノ井地区)で発生した。この「布施の戦い」において、景虎率いる長尾軍の先鋒は武田軍の先鋒部隊を撃破し、その進撃を食い止めることに成功する 10

しかし、景虎はここで一気呵成に決戦を挑むことはなかった。布施での勝利の後、彼は軍を進めて荒砥城を攻略し、3日には青柳城を攻めるなど、機動的な作戦で武田方の拠点を脅かした 13 。これに対し、晴信もまた、景虎との直接対決を巧みに回避した。彼は景虎の本隊と正面からぶつかるのではなく、援軍を派遣して味方の城を救援させつつ、荒砥城に夜襲を仕掛けるなど、長尾軍の背後や連絡線を脅かす動きを見せた 13 。これにより、長尾軍は前進を阻まれ、後退を余儀なくされる。

この一連の攻防は、両雄が互いの力量を測り合う、さながら盤上の駆け引きのようであった。景虎は果敢な攻勢で武田軍の戦線を揺さぶり、晴信は老練な用兵でその鋭鋒を巧みにかわす。大規模な会戦は発生せず、小競り合いと戦略的な機動戦が繰り返された 18 。それは、両者が互いを侮りがたい敵と認識し、不用意な決戦による消耗を避けようとした結果であった。この戦いは、両雄にとって互いの戦術や兵の動きを学ぶ「実戦偵察」の様相を呈していたのである。

第四幕:天文22年9月下旬~10月 - 両雄の撤兵

武田方の側面攻撃により、それ以上の深入りは危険と判断した景虎は、軍を八幡原まで後退させた 13 。その後、晴信が本陣を置く塩田城へ向かう動きを見せるが、晴信は城から打って出ることはなく、堅守の構えを崩さなかった 18

景虎からすれば、武田軍の北進を阻止し、北信濃に長尾氏の存在感を強く示すという当初の目的は達成された。これ以上、堅城に籠もる敵を相手に無益な消耗戦を続ける理由はない。9月20日、景虎は全軍に撤退を命じ、越後へと帰還した 13

一方の晴信もまた、最大の目的であった村上氏旧領の完全掌握という戦略目標を達成していた。長尾軍を信濃から撤退させたことで、当面の脅威は去った。10月17日、晴信もまた占領地の守りを固めた上で、本拠地である甲府へと兵を引いた 13 。こうして、約半年にわたった第一次川中島の戦いは、明確な勝敗が決することなく幕を閉じたのである。

第三章:参戦武将と兵力:両軍の陣容

第一次川中島の戦いは、後の第四次合戦ほど詳細な陣容が史料に残されているわけではない。特に『甲陽軍鑑』などで活躍が描かれる武将の多くは、第四次合戦に関する記述であり、第一次合戦の参加者と混同しない注意が必要である。しかし、断片的な記録から、この最初の対決における両軍の中核を担った指揮官たちを特定することは可能である。

3-1. 両軍の指揮官

武田軍

総大将は、言うまでもなく武田晴信である 22。当時33歳。信濃侵攻を着実に進めてきた、戦国時代屈指の戦略家であった。

その麾下で、この戦役において特に重要な役割を果たしたのが以下の武将たちである。

  • 飯富虎昌(おぶ とらまさ) :武田家の重臣。村上義清を駆逐した後、最前線の拠点となった塩田城の守備を任されており、長尾軍の侵攻に対する防衛の要であったことがうかがえる 18
  • 真田幸隆(さなだ ゆきたか) :元は信濃の国人であったが、武田氏に仕え、その知謀と土地勘を活かして村上氏攻略で絶大な功績を挙げた 4 。彼の調略なくして、武田の北信濃制圧は遥かに困難であっただろう。
  • その他、室賀氏、小泉氏、禰津氏といった、武田方に従属した信濃の国人衆も、それぞれの領地で武田軍の一翼を担っていたと考えられる 4

長尾・北信濃連合軍

総大将は、長尾景虎 23。当時24歳。前年に越後を統一したばかりの若き龍であり、その軍事的才能はすでに国内で証明されていた 1。彼の軍は、越後の兵に加え、武田に追われた北信濃の領主たちで構成される連合軍の性格を持っていた。

  • 村上義清(むらかみ よしきよ) :武田軍に二度も勝利した猛将。領地を失い、景虎を頼った亡命大名という立場ではあったが、その存在は連合軍の象徴であり、旧臣たちの士気を支える重要な役割を果たした 7
  • 高梨政頼(たかなし まさより) :北信濃の有力国人。長尾氏とは縁戚関係にあり、村上義清と共に景虎に救援を要請した中心人物の一人である 19
  • その他、井上氏、島津氏、須田氏、栗田氏といった北信濃の豪族たちも、景虎の庇護を求めてこの戦いに加わっていた 24

以下の表は、第一次川中島の戦いにおける主要な参戦武将をまとめたものである。

陣営

役職

武将名

備考

武田軍

総大将

武田 晴信

甲斐国主。信濃侵攻を主導。

中核武将

飯富 虎昌

合戦後、最前線の塩田城の守備を任される。

謀将

真田 幸隆

村上氏攻略において謀略で多大な功績を挙げる。

長尾・北信濃連合軍

総大将

長尾 景虎

越後国主。北信濃豪族の救援要請に応じ出陣。

亡命大名

村上 義清

元北信濃最大勢力。旧領回復を目指す。

亡命大名

高梨 政頼

景虎と縁戚関係にあり、救援を要請した中心人物。

3-2. 推定兵力

戦国時代の合戦における兵力は、後世の軍記物などで誇張される傾向があり、正確な数を特定することは困難である。しかし、比較的信頼性の高い史料や研究に基づくと、天文22年秋の本格的な衝突における両軍の兵力は、以下のように推定されている。

  • 武田軍 :約10,000人 10
  • 長尾軍 :約8,000人 10

武田軍が若干の数的優位にあったことがわかる。この兵力差も、晴信が無理な決戦を避け、景虎が深追いをしなかった一因と考えられる。両軍ともに、一回の会戦で壊滅的な損害を被ることを避けようとする、慎重な兵力運用を行ったことがうかがえる。

第四章:総括:第一次合戦の歴史的意義と後世への影響

第一次川中島の戦いは、明確な勝者がいないまま終結した。しかし、この「引き分け」ともいえる結果こそが、この戦いの本質と歴史的意義を物語っている。両軍はそれぞれの戦略的目標を達成し、この最初の衝突を通じて、以降十余年にわたる宿命的な対決の構図を決定づけたのである。

4-1. 双方の「勝利」:戦略的目標の達成

この戦いの結果を評価する上で重要なのは、両雄が掲げていた戦争目的が根本的に異なっていたという点である。

武田晴信の目的は、 領土の獲得 であった。具体的には、長年の宿敵であった村上義清を完全に信濃から駆逐し、その本領である小県・埴科郡という肥沃な地を武田の版図に組み込むことであった 6 。この目的は、長尾景虎の本隊が到着する以前の8月の時点で、すでに完璧に達成されていた 10 。彼にとって9月以降の戦いは、獲得した領土を防衛し、長尾軍の介入を最小限に食い止めるためのものであり、それにも成功した。したがって、武田方から見れば、この戦いは紛れもない「勝利」であった。

一方、長尾景虎の目的は、 現状維持と脅威の排除 、すなわち防衛的なものであった 6 。彼の出陣は、武田の勢力が越後国境にまで及ぶのを阻止し、北信濃の反武田勢力を保護下に置くことで、自国の安全を確保することにあった。彼は布施の戦いで武田軍の進撃を停止させ、晴信に決戦を回避させて甲府への撤退を余儀なくさせた 13 。これにより、武田による北信濃の完全制覇を阻止し、新たな前線を構築することに成功した。領土獲得こそならなかったが、戦略的な防衛目標は達成された。したがって、長尾方にとっても、この戦いは「勝利」と総括できるものであった 25

このように、異なる目的を持って戦った両者が、それぞれにその目的を達成したことこそが、この戦いが「双方の勝利」として終わった理由である。それは決着がつかなかったのではなく、両者がそれぞれの論理において満足のいく結果を得て、兵を引いた戦略的帰結であった。

4-2. 十二年にわたる宿命の序曲

第一次川中島の戦いは、単独の戦いとして見れば限定的なものであったかもしれない。しかし、より大きな歴史的文脈の中に置くとき、その重要性は際立ってくる。この戦いは、天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)まで、計5回にわたって繰り広げられる「川中島の戦い」という壮大な物語の、まさに序曲であった 4

この最初の対決を通じて、両雄は互いを生涯の宿敵と認識した。晴信は、信濃統一のためには越後の介入を排除しなければならないことを痛感し、景虎は、越後を守るためには武田の北進を断固として阻止し続けなければならないことを悟った。そして、両軍の勢力が激しくぶつかり合う場所として、千曲川と犀川に挟まれた「川中島」という地が、運命の舞台として設定されたのである。

この戦いを境に、武田信玄と上杉謙信の対決は、個人的な宿命と国家の存亡をかけた、戦国時代を象徴するライバル関係へと昇華していく。第一次合戦は、その長きにわたる龍虎の死闘の幕開けを告げる、静かな、しかし決定的な号砲だったのである。

第五章:史料に関する考察:『甲陽軍鑑』と一次史料の狭間で

川中島の戦いを語る上で、史料の性質を理解することは極めて重要である。特に、広く知られている英雄的な逸話の多くが、特定の史料に由来するものであることを認識する必要がある。第一次川中島の戦いの実像に迫るためには、物語性の強い後代の軍記物と、同時代に近い一次史料とを慎重に比較検討する視点が欠かせない。

5-1. 『甲陽軍鑑』が描く川中島:英雄譚と史実

川中島の戦いの一般的なイメージ、例えば武田信玄と上杉謙信の一騎討ち、山本勘助の「啄木鳥の戦法」、武田信繁の壮絶な討ち死になどは、そのほとんどが江戸時代初期に成立した軍学書『甲陽軍鑑』に由来する 7 。この書物は、武田家の軍略や武士の心得を後世に伝えることを目的としており、武士道精神の形成にも大きな影響を与えた価値ある文献である 27

しかし、歴史的事実を記録した史書としての信頼性には、多くの疑問符がつく 29 。『甲陽軍鑑』は、物語としての劇的な面白さを追求するあまり、異なる合戦の出来事を混同したり、人物の活躍を脚色したりする傾向が強い。特に、最も激戦であったとされる第四次合戦の記述に多くの紙幅を割いており、その英雄的な描写が、他の四度の戦いの印象をも支配してしまっているのが実情である 7 。第一次合戦に関する記述も存在するが、その内容は断片的であり、この書物のみで戦いの全体像を正確に把握することは困難である。したがって、『甲陽軍鑑』は、川中島の戦いが後世に「どのように記憶され、語り継がれたか」を知る上では不可欠な史料であるが、合戦の経過を再現するための一次情報源として用いるには、極めて慎重な態度が求められる。

5-2. 一次史料から再構築する第一次合戦

第一次川中島の戦いのより正確な姿を再構築するためには、『甲陽軍鑑』のような物語性の高い二次史料ではなく、合戦と同時期に記録された一次史料に依拠する必要がある。具体的には、武田氏の家臣が記したとされる年代記『高白斎記』や、富士北麓の年代記『勝山記』などが挙げられる 31 。また、武田晴信や長尾景虎が戦勝祈願のために神社に奉納した「願文」や、家臣の功績を称えて発給した「感状」といった公式文書も、彼らの動向や戦況を客観的に示す極めて重要な史料である 13

これらの一次史料は、しばしば簡潔で、日付と出来事が淡々と記されているだけであり、『甲陽軍鑑』のような劇的な物語は提供してくれない。しかし、その断片的な情報を丹念に繋ぎ合わせ、平山優氏に代表される現代の歴史研究者たちによる実証的な分析を加えることで、初めて第一次合戦の戦略的な駆け引きや、一進一退の攻防といったリアルな実像が浮かび上がってくるのである 18

ここに、歴史研究の興味深さと難しさが存在する。物語として豊かで魅力的な史料ほど、史実からの乖離が大きい可能性があり、逆に、無味乾燥で断片的な記録こそが、真実に近い情報を含んでいることが多い。第一次川中島の戦いの専門的な理解とは、こうした性質の異なる史料群を批判的に読み解き、英雄譚の向こう側にある、等身大の武将たちの戦略的思考と行動を再構築する知的な作業に他ならないのである。

引用文献

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  2. 武田軍の歴史 - 武田信玄軍団 最強武将~山縣三郎右兵衛尉昌景 https://ym.gicz.tokyo/takedahistory?id=
  3. 武田信玄の戦略図~豪族の群雄割拠が続く信濃に活路を求めた甲斐の虎 https://articles.mapple.net/bk/736/
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  5. 武田信玄の信濃侵攻① ~諏訪への侵攻~ | 歴史の宮殿 https://histomiyain.com/2018/01/03/post-137/
  6. 武田信玄の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7482/
  7. 【武田信玄と上杉謙信の関係】第一次~第五次合戦まで「川中島の戦い」を徹底解説 - 歴史プラス https://rekishiplus.com/?mode=f6
  8. 村上義清は何をした人?「信玄に二度も勝ったけど信濃を追われて謙信を頼った」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yoshikiyo-murakami
  9. 逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第9回【武田信玄・前編】父子 ... https://shirobito.jp/article/1466
  10. 【川中島】武田信玄と上杉謙信の激戦地を写真で紹介 – Region History https://regionhis.com/story/kawanakajima/
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  27. 信玄の『甲陽軍鑑』の教えはビジネスに生かせる|Biz Clip(ビズクリップ) - NTT西日本法人サイト https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-044.html
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  31. 【戦国武将と善光寺如来】 - ADEAC https://adeac.jp/nagano-city/text-list/d100020/ht002910
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