最終更新日 2025-09-01

川中島の戦い(第三次・1557)

弘治三年、武田晴信の盟約破りに激怒した長尾景虎は北信濃へ侵攻。武田領深く進むも、晴信は決戦を避け持久戦に徹した。軍事的には引き分けも、政治的には武田が信濃守護職を得て勝利。遺恨は第四次川中島へ。

弘治三年の攻防:第三次川中島の戦い、戦略と実相の徹底分析

序章:嵐の前の静寂 ― 第二次合戦後の北信濃

天文二十四年(1555年)、甲斐の武田晴信(後の信玄)と越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が信濃川中島で対峙した第二次川中島の戦いは、駿河の今川義元を仲介役として和睦が成立し、一応の終結を見た 1 。この和睦の条件には、犀川を挟んでの対峙の最前線であった旭山城の破却、両軍の川中島からの撤退、そして占領地の旧領主への返還などが含まれていたとされる 2 。しかし、この和睦は両雄の信濃を巡る根本的な対立を解消するものではなく、次なる大規模衝突への僅かな猶予期間、いわば嵐の前の静寂に過ぎなかった。

武田晴信にとって、この和睦は信濃全土を掌握するという長期的戦略における一時的な戦術的後退でしかなかった。彼は和睦の条項を遵守する意思を当初から持たず、水面下で北信濃への影響力拡大を着々と継続した 4 。既に伊那、木曽を完全に支配下に収め、信濃の大部分を手中にしていた晴信は 4 、川中島周辺の国人衆への調略の手を緩めることなく、軍事力による正面突破ではなく、外交と謀略を駆使して上杉方の足元を切り崩していくという、彼が得意とする戦略を推し進めていた 5

一方、長尾景虎の置かれた状況は晴信とは対照的であった。弘治二年(1556年)には、景虎自身が出家を図るという越後国内の政情不安が発生している 6 。これは家臣団の必死の説得により事なきを得たものの、越後国内の結束が必ずしも盤石ではなかったことを示唆している。このような内部の動揺は、晴信にとって北信濃での工作をさらに容易にする好機となった可能性は否定できない。

ここに、第三次合戦の根本的な原因が内包されている。すなわち、第二次合戦の和睦に対する両者の認識の「非対称性」である。景虎にとって和睦は、信濃の国人衆の旧領を回復させるという「義」の実現であり、一度交わした約束は絶対的なものであった。対照的に、晴信にとって和睦は、より大きな戦略目標を達成するための単なる一手段に過ぎなかった。この統治哲学と「義」の概念における根本的な相違が、晴信による計画的な盟約破りを必然とし、景虎の義憤に火を点けることになった。したがって、第三次川中島の戦いは、単なる領土紛争の再燃ではなく、晴信の「戦略的盟約破り」に対する景虎の「懲罰的軍事行動」という、両者の理念そのものが激突する構造を持っていたのである。

【表1】第三次川中島の戦い 主要関連年表(1556年~1558年)

年月

出来事

典拠

弘治二年(1556年)3月

武田軍、上杉方の葛山衆(落合氏)に対し調略を開始。

4

弘治二年(1556年)8月8日

武田方の真田幸隆、川中島の要衝・尼巌城を攻略。

2

弘治二年(1556年)8月

景虎家臣の大熊朝秀が武田方に内通し挙兵するも、鎮圧される。

6

弘治三年(1557年)1月

景虎、更科八幡宮に武田氏討滅の願文を奉納。

6

弘治三年(1557年)2月15日

武田軍、上杉方の拠点・葛山城を攻略し、落合氏を滅ぼす。

4

弘治三年(1557年)3月24日

景虎、高梨政頼らの救援要請に応じ、春日山城を出陣。

4

弘治三年(1557年)4月18日

景虎、信濃に入り、武田方の山田城・福島城を奪還。

6

弘治三年(1557年)4月21日

景虎、善光寺横山城に着陣。旭山城を再興し本営とする。

4

弘治三年(1557年)5月13日

景虎、武田領深く侵攻し、小県郡境の岩鼻まで進軍。

4

弘治三年(1557年)6月18日

武田の同盟国・後北条氏の援軍(北条綱成勢)が上田に到着。

6

弘治三年(1557年)6月23日

景虎、武田領から撤退し、飯山城へ後退。

6

弘治三年(1557年)8月下旬

晴信が川中島へ出陣。両軍は水内郡上野原で対峙する。

1

弘治三年(1557年)9月

景虎、戦果なく越後へ撤兵。

1

弘治三年(1557年)10月

晴信、甲斐へ帰国。

1

永禄元年(1558年)1月

将軍・足利義輝の仲介により、晴信が信濃守護に補任される。

6

第一章:破られた盟約 ― 武田軍、侵攻再開(1556年~1557年初頭)

善光寺平への布石(1556年)

第二次合戦の和睦から一年も経たない弘治二年(1556年)、武田晴信は北信濃侵攻の準備を再開した。その動きは慎重かつ計画的であった。まず3月、晴信は善光寺平の西部に位置する葛山城を拠点とする上杉方の国人・落合氏(葛山衆)に対し、静松寺の僧侶を通じて内部分裂を誘う調略を開始した 4 。これは、真正面からの攻撃に先立ち、敵の内部結束を弱体化させるという武田軍の常套手段であった。

そして同年8月8日、北信濃の地政学に決定的な影響を与える出来事が起こる。晴信の腹心であり、信濃の地理に精通した真田幸隆が、川中島東部の要衝である尼巌城を電撃的に攻略したのである 2 。尼巌城は地蔵峠から善光寺平に通じる交通の要衝であり、この城の確保は、武田軍が善光寺平へ円滑に兵力を展開するための重要な足掛かりを意味した。この方面の地理に明るい真田氏を始めとする信濃先方衆の働きは、武田軍の北信濃戦略において不可欠な要素であった 5

さらに武田の調略は、越後国内部にまで及んでいた。同じく8月、景虎の家臣であった大熊朝秀が武田方に内通して挙兵するという事件が発生した 6 。この反乱は景虎によって速やかに鎮圧されたものの、武田の情報網と工作活動が敵国の深部にまで浸透していたことを示す衝撃的な出来事であった。

決意の表明と前線拠点の陥落(1557年初頭)

晴信による度重なる盟約違反と、じわじわと進む北信濃の蚕食に対し、景虎の怒りは頂点に達していた。弘治三年(1557年)正月、景虎は更級郡の名社・武水別神社(更科八幡宮)に願文を捧げ、神仏に対し武田氏討滅を厳粛に誓った 6 。これは、彼の出兵が単なる領土回復のための軍事行動ではなく、信義を裏切った者に対する天罰を下す「聖戦」であるという大義名分を内外に示すものであった。

景虎が戦勝を祈願している間にも、武田軍の侵攻は最終段階に入っていた。2月15日、武田軍は上杉方にとって善光寺平における最重要拠点であった葛山城への総攻撃を開始した。城主・落合備中守らは籠城し、徹底抗戦の構えを見せたが、衆寡敵せず城は陥落、落合一族は滅亡の悲運を辿った 4

葛山城の陥落は、善光寺平の軍事バランスを決定的に武田方へ傾けた。善光寺平の中心部は武田の手に落ち、上杉方の防衛線は大幅な後退を余儀なくされた。上杉方の将、島津月下斎は長沼城から大倉城への撤退を強いられ 4 、武田軍はさらに戸隠方面にも進出、北信濃における支配を既成事実化していった 4 。もはや、景虎による大規模な軍事介入以外に、この流れを押しとどめる術は残されていなかった。

第二章:越後の龍、動く ― 上杉軍の電撃的侵攻(1557年3月~5月)

武田軍による北信濃の席巻に対し、越後の龍がついに動いた。飯山城主・高梨政頼を始めとする北信の国人衆からの必死の救援要請を受け 4 、長尾景虎は雪解けを待って、満を持しての出陣を決意する。彼の反撃は、武田方の予想を上回る迅速さと苛烈さを伴うものであった。

【表2】両軍の推定兵力と主要武将

総兵力(推定)

総大将

主要武将

武田軍

約23,000

武田晴信

山本勘助、真田幸隆、飯富虎昌、小山田虎満、高坂昌信、馬場信春など

上杉軍

約10,000

長尾景虎

高梨政頼、島津月下斎、柿崎景家、甘粕景持、直江実綱など

(典拠: 3

両軍の兵力には歴然とした差があった。武田軍が2万を超える大軍を動員可能であったのに対し、上杉軍はその半分にも満たない約1万の兵力であった 3 。この圧倒的な兵力的劣勢こそが、景虎の作戦行動を規定する最大の要因であった。すなわち、持久戦や消耗戦は絶対に避けねばならず、敵の戦備が整う前に電撃的な機動戦を展開し、短期決戦に持ち込む以外に勝機はなかったのである。

雪解けと共に出陣(3月~4月)

弘治三年(1557年)3月24日、景虎は春日山城から信濃へ向けて出陣した 4 。その進軍速度は驚異的であった。4月18日には信濃に入り、武田方に寝返っていた高井郡の山田城、福島城を瞬く間に攻略し、奪還する 4 。これは、武田の支配がまだ盤石ではないことを見せつけ、動揺する北信の国人衆を勇気づける効果があった。

4月21日、景虎は善光寺のすぐ北に位置する横山城に着陣した 4 。さらに彼は、第二次合戦の和睦条項で破却されていた旭山城を再興し、ここを最前線の本営とした 4 。旭山城は善光寺平を一望できる戦略的要地であり、その再建は和睦の完全な破棄と、武田方に対する明確な挑戦状を意味するものであった。

武田領への深甚なる侵攻(5月)

景虎の攻勢は留まるところを知らなかった。5月12日には、武田方が川中島の防衛拠点として築城中であった香坂城(後の海津城の前身とする説もある)を攻撃 4 。そして翌5月13日、景虎はさらに大胆な行動に出る。全軍を南下させ、武田方の本領に極めて近い埴科郡と小県郡の境、坂木に位置する岩鼻まで一気に進軍したのである 4

この岩鼻への進軍は、単なる示威行動や威力偵察の域を遥かに超えていた。それは、甲府にいる晴信自身を戦場に引きずり出し、川中島での決戦を強要するための、極めて挑発的な軍事行動であった。兵力で劣る景虎が、あえて敵地の喉元に刃を突きつけることで、晴信に「動かざるを得ない」状況を作り出そうとしたのである。越後の龍は、甲斐の虎との直接対決を求め、戦いの主導権を握るべく、最大限の賭けに出たのであった。

第三章:甲斐の虎、動かず ― 信玄の深謀遠慮と持久戦略

挑発への沈黙

長尾景虎による岩鼻への侵攻という、大胆不敵な挑発行動に対し、甲斐の虎・武田晴信は驚くほど冷静であった。彼は甲府の躑躅ヶ崎館から動かず、景虎が望む川中島での決戦に応じる気配を一切見せなかった 4 。景虎の戦略は、晴信を戦場におびき出すことで初めて成立するものであったが、その大前提が崩れたことで、上杉軍は目的を失い、敵地深くで宙に浮いた形となった。

一見すると、この晴信の「不動」は消極的な対応に映るかもしれない。しかし、その背後には、冷徹な計算に基づいた高度な戦略的判断が存在した。それは、景虎の戦略そのものを無力化する、最も効果的な対抗策であった。

決戦を避けた戦略的理由

晴信が決戦を避けた理由は、主に三つの点に集約される。

第一に、 兵站線の絶対的不利 である。甲府から川中島までの距離は約160kmに及ぶのに対し、景虎の本拠地である春日山から川中島までは約70kmと、半分以下であった 9 。兵站線が長ければ長いほど、食糧や武具の輸送は困難になり、その維持には多大な労力と兵員を要する。長期にわたる決戦となれば、この地政学的なハンディキャップは武田軍にとって致命的な弱点となりかねない。晴信はこの現実を冷静に分析し、短期決戦を挑んでくる景虎の土俵で戦うことの不利を正確に理解していた 9

第二に、 両者の戦略目標の差異 である。景虎の当面の目的は、武田軍を北信濃から撃退し、失地を回復するという「軍事的勝利」そのものであった。そのためには、敵主力を撃破する決戦が不可欠であった。一方、晴信の最終目標は、北信濃を恒久的に支配し、武田の版図とすることであった 10 。彼にとって、焦ってリスクの高い決戦に臨む必要はなく、むしろ時間をかけて占領地の支配を固め、景虎の遠征軍が疲弊するのを待つ方が遥かに合理的であった 10

第三に、 同盟国の効果的な活用 である。弘治三年(1557年)6月18日、甲相駿三国同盟を結ぶ相模の後北条氏から、北条綱成が率いる援軍が信濃の上田に到着した 6 。これにより武田軍の戦力はさらに増強され、晴信の戦略的余裕は格段に増した。景虎は、もはや武田単独ではなく、武田・北条連合軍という、さらに強大な敵と対峙する可能性を考慮せざるを得なくなった。

外交と防衛網の再構築

晴信はただ待っていただけではない。景虎の侵攻によって動揺している北信濃の国人衆の引き締めにも余念がなかった。景虎が高井郡の国人・市河藤若への調略を開始すると 6 、晴信は即座に書状を送り、援軍を約束することで市河氏の離反を阻止した 6 。さらに、前線の塩田城を守る重臣・飯富虎昌に対し、今後は自身の命令を待たずとも、市河氏に危機が迫れば独断で派兵するよう指示している 6 。これは、前線指揮官への大幅な権限委譲による、迅速な危機対応体制の構築であり、彼の巧みな組織管理能力を物語っている。

このように、晴信の「不動」は、敵の戦略の根幹を突き、時間を味方につけ、外交と内政によって自軍の態勢を強化するという、極めて能動的かつ高度な戦略であった。「戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるものなり」という孫子の兵法の理想を、晴信は北信濃の地で実践していたのである。

第四章:上野原の対峙 ― 合戦のリアルタイム詳解(1557年7月~9月)

戦線の膠着と景虎の後退(6月~7月)

武田晴信が決戦に応じず、さらに後北条氏の援軍が到着したという報は、長尾景虎に戦略の根本的な見直しを迫った。敵地深くに孤立し、兵力で勝る敵との決戦の望みが絶たれた以上、これ以上の滞陣は無意味かつ危険であった。弘治三年(1557年)6月23日、景虎はついに武田領奥深くの岩鼻から兵を引き、北信濃における上杉方の最重要拠点である飯山城へと後退した 6

その後、7月には高井郡の野沢城などを攻める動きを見せるが、武田方は依然として決戦を避け、守りを固める戦術に徹した 6 。景虎の電撃的な侵攻によって始まった戦役は、両軍が互いに決定打を欠く膠着状態へと移行していった。

武田軍、反転攻勢へ(8月)

景虎の攻勢が頓挫し、飯山城まで後退したのを見計らい、晴信は満を持して甲府を出陣した。安曇郡の平倉城などを攻略しつつ北上し、ついに川中島へと進軍した 6 。そして8月下旬、武田軍は髻山城近くの水内郡上野原(現在の長野市若槻上野付近)に布陣した 6 。これに対し、旭山城に本営を置く景虎も軍を動かし、両軍はついに至近距離で対峙することとなった。数ヶ月にわたる前哨戦と神経戦を経て、戦局はクライマックスを迎えたかに見えた。

「上野原の戦い」の実態

この対峙は後世「上野原の戦い」と呼ばれるが、その実態は第四次川中島の戦い(八幡原の戦い)のような大規模な野戦には至らなかった 11 。両軍の間で小規模な衝突や小競り合いは発生したものの、全面的な会戦は最後まで避けられたのである 1

その最大の理由は、晴信が引き続き決戦回避の方針を貫いたことであった。彼は数的優位を保ちながらも、景虎率いる上杉軍の精強さを熟知しており、不用意な攻撃を仕掛けるリスクを冒さなかった。一方の景虎も、兵力で劣る状況下で、敵の堅固な陣地に対して無理な攻撃を仕掛けることはできなかった。結果として、両軍は数週間にわたって睨み合いを続けることになった。この長期対陣は双方の軍、特に兵站線が伸びきり、遠征を続ける上杉方の将兵の消耗を激しくさせた 1

戦果なき撤兵(9月)

春の出陣から半年近くが経過し、旭山城を再興した以外に具体的な戦果を挙げられないまま、上野原での対陣を続けた景虎は、これ以上の遠征継続は不可能であると判断せざるを得なかった。兵の疲労は蓄積し、冬の到来も近づいていた。弘治三年(1557年)9月、景虎はついに全軍の撤退を決断し、越後への帰国の途についた 1 。かくして、数ヶ月にわたって北信濃を揺るがした一大キャンペーンは、雌雄を決することなく幕を閉じようとしていた。

第五章:決着なき終幕 ― 戦いの帰結と歴史的意義

両軍の帰国と戦後の政治力学

長尾景虎の全軍撤退を見届けた後、武田晴信もまた10月には甲斐へと帰国した 1 。軍事的には、どちらかが決定的な勝利を収めたわけではなく、いわば引き分けの形で戦役は終結した 1 。しかし、この戦いの真の決着は、戦場ではなく政治の舞台でつけられることになった。

この頃、京では将軍・足利義輝が三好長慶らと対立し、近江へ逃れるなど、幕府の権威は失墜していた。義輝は勢力回復のため、景虎の武勇を頼り、その上洛を熱望していた。そのためには、景虎を信濃の争乱から解放する必要があり、幕府は武田・長尾両氏に対して和睦を勧告する御内書を送った 6

晴信はこの幕府の仲介という絶好の機会を逃さなかった。彼は和睦を受け入れる見返りとして、将軍に対し、自らを正式な「信濃守護職」に任命するよう要求したのである 6 。これは、自らの信濃支配に、幕府という最高の権威から「公式な大義名分」を得ようとする、極めて高度な政治的駆け引きであった。結果、永禄元年(1558年)1月、朝廷と幕府は晴信を信濃守護に補任した 6

第三次合戦の歴史的評価

この一連の経緯を踏まえると、第三次川中島の戦いは以下のように評価することができる。

軍事的には引き分けであった。 戦場での直接対決では明確な勝敗はつかず、景虎は武田軍の北信濃からの駆逐という目的を果たせず、晴信もまた景虎に決定的打撃を与えることはできなかった。

しかし、 戦略的・政治的には武田の完勝であった。 晴信は、景虎の電撃的な侵攻を最小限の損害で凌ぎきり、結果として北信濃における武田の支配権を維持した 12 。そればかりか、戦後の政治交渉を巧みに利用し、長年の目標であった信濃守護の地位を獲得した 6 。彼は、戦場で勝利することなく、戦争の究極的な目的を達成したのである 5

この戦いは、戦国時代の「戦争」が、単なる軍事力の衝突のみで決するものではないことを示す典型的な事例と言える。景虎は戦術家として優れ、一連の軍事行動で武田方を圧倒する場面も見せた。しかし、彼の目的は「戦場で勝利すること」に集約されていた。対照的に、晴信は戦場での一時的な勝利には固執しなかった。彼の目的は「信濃を支配するという政治的現実を確定させること」にあり、そのために軍事、外交、政治のあらゆる手段を駆使した。軍事行動が膠着した結果、問題解決の舞台が「政治」の領域へと移行した時、中央とのパイプを持ち、現実的な取引ができた晴信が、理想と義を掲げる景虎を完全に凌駕したのである。

第四次合戦への伏線

景虎にとって、この結末は到底容認できるものではなかった。信義を重んじ、北信の国人衆を救うという「義」のために出兵したにもかかわらず、結果として盟約を破った晴信の信濃支配が公的に認められてしまったのである。この屈辱と、踏みにじられた義への憤りが、彼の心に深い遺恨を残したことは想像に難くない。この未解決の対立と増幅された憎悪こそが、4年後の永禄四年(1561年)、戦国史上最も凄惨な激戦と謳われる第四次川中島の戦い(八幡原の戦い)へと繋がっていくのである。

結論:次なる激突への序章として

第三次川中島の戦いは、第四次合戦のような華々しい一騎討ちや大規模な野戦こそなかったものの、武田信玄と上杉謙信という戦国時代を代表する二人の巨人の本質を、最も鮮やかに映し出した戦役であった。それは、信義と名誉を重んじる景虎の「義」に基づく電撃的な軍事行動と、実利と長期戦略を計算し尽くす晴信の「利」に基づく冷静沈着な持久戦略との鮮烈な対比であった。

弘治三年の北信濃を舞台に繰り広げられたこの知略と忍耐の応酬は、軍事的には痛み分けに終わった。しかし、その後の政治的帰結は、武田方の大勝利という形で幕を閉じた。晴信は戦わずして戦争の目的を達成し、景虎は戦場で敗れることなくして戦略的に敗北したのである。

この決着のつかない終幕は、両者の対立を解消するどころか、その遺恨をさらに根深いものとした。信濃守護という公的な権威を手にした晴信と、義を踏みにじられた景虎。両者の関係はもはや修復不可能な段階に達し、数年後に川中島八幡原の地を血で染める大激突として爆発する運命を決定づけた。その意味において、第三次川中島の戦いは、第四次合戦という壮大な悲劇の、不可欠な序章だったのである。

引用文献

  1. 川中島の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7085/
  2. 長野市「信州・風林火山」特設サイト 川中島の戦い ... - ながの観光net https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/tatakai/nenpyou.php.html
  3. 川中島の戦い https://www.nagano-ngn.ed.jp/syowajs/pamphlet/pamphlet_h.pdf
  4. 第3次川中島の戦い上野原の戦い攻める謙信、守りの信玄。 正面衝突を避けながら武田軍は勢力をじわじわと浸透させる https://kawanakajima.nagano.jp/illusts/3rd/
  5. 上杉謙信と武田信玄の5回に渡る川中島の戦い https://museum.umic.jp/ikushima/history/takeda-kawanakajima.html
  6. 川中島の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  7. 長野市「信州・風林火山」特設サイト 川中島の戦い[戦いを知る] https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/tatakai/jinbutsu3.php.html
  8. 宇佐美駿河守定行 - 長野市「信州・風林火山」特設サイト 川中島の戦い[戦いを知る] https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/tatakai/jinbutsu6.php.html
  9. 日本経大論集 第46巻 第2号 - CORE https://core.ac.uk/download/pdf/267827057.pdf
  10. 【武田信玄と上杉謙信の関係】第一次~第五次合戦まで「川中島の戦い」を徹底解説 - 歴史プラス https://rekishiplus.com/?mode=f6
  11. 第三次川中島の戦い(1556~1557年) - 関東戦国史 1438-1590 https://www.kashikiri-onsen.com/kantou/gunma/sarugakyou/sengokushi/kawanakajima03.html
  12. 第三次川中島合戦(上野原の戦い - 武田信玄軍団 最強武将~山縣三郎右兵衛尉昌景 https://ym.gicz.tokyo/shopdatail/64719?pc-switcher=1
  13. 上杉謙信の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/33844/