川中島の戦い(第五次・1564)
永禄七年、武田信玄と上杉謙信は飛騨の内紛を背景に川中島で対陣。第四次合戦の教訓から決戦を避け、60日間の睨み合いの末に撤退した。この「戦わなかった戦い」は両雄の戦略的成熟を示し、川中島の抗争に終止符を打った。
日本の戦国時代史研究報告:第五次川中島の戦い(永禄七年)の総合的分析
序章:第五次川中島の戦いへの序曲
天文22年(1553年)から永禄7年(1564年)に至る12年間、信濃国の覇権を巡り、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信(当時は長尾景虎、後に政虎、輝虎と改名)は、後に「川中島の戦い」と総称される一連の軍事衝突を繰り返した 1 。この長きにわたる抗争の直接的な発端は、信玄の信濃侵攻によって本拠地を追われた北信濃の豪族、村上義清や高梨政頼らが謙信に救援を求めたことにあった 2 。信玄が千曲川と犀川に挟まれた善光寺平の豊かな穀倉地帯の掌握を戦略目標とする一方 2 、謙信の介入は領土的野心というよりも、救援要請に応えるという「義」の理念に根差すものであった 4 。
この一連の戦いの中でも、永禄4年(1561年)の第四次合戦、通称「八幡原の戦い」は、唯一無二の大規模決戦として両軍の記憶に深く刻まれた。この激闘において、武田軍は軍師と評される山本勘助、そして信玄の実弟であり副将として信望の厚かった武田信繁をはじめ、諸角虎定など多くの宿将を失った 4 。対する上杉軍もまた、数千人に及ぶ死傷者を出すという甚大な損害を被り、戦いは双方にとって痛み分けというべき凄惨な結果に終わった 9 。この戦いの後、双方が勝利を主張する書状を残しているが 11 、実質的には互いに決定的な打撃を与えられず、戦略目標の完全達成には至らなかった。信玄は川中島一帯の支配権を事実上固めたものの 11 、謙信を北信濃から完全に駆逐することはできず、謙信もまた武田軍の撃退という当初の目的を果たせなかったのである 11 。
この第四次合戦がもたらした心理的影響は、その後の両雄の関係性を決定づけた。互いの軍事的能力の極限を目の当たりにし、全面衝突がいかに破滅的な結果を招くかを痛感した両者は、これ以降、より慎重な姿勢を取るようになる。第四次合戦後の3年間、信玄は北信濃の支配体制を磐石なものとしつつ、その戦略の主軸を西上野や、今川氏の弱体化に乗じた駿河方面へと徐々に転換させていった 1 。一方の謙信は、永禄4年に関東管領職を正式に継承しており、その職責を全うすべく、宿敵である相模の北条氏康との関東における覇権争いにより多くの軍事資源を投入するようになっていた 1 。
このように、川中島という戦場は、両雄にとっての最優先課題ではなくなりつつあった。かつては北信濃の領有権を巡る「主戦場」であったこの地は、互いの主戦略を妨害し、牽制するための「第二戦線」へとその性格を変質させていたのである。第五次合戦の「戦われなかった」という結末は、決して偶然の産物ではなく、第四次合戦という凄惨な経験と、それを踏まえた両雄の戦略的成熟によってもたらされた、必然的な帰結であったと言えよう。
表1:川中島の戦い 全五回の概要比較表
回次 |
通称 |
年月日 |
主要な動き・結果 |
両軍の兵力(推定) |
特記事項 |
第一次 |
布施の戦い |
天文22年(1553年) |
村上義清らの要請で謙信が出陣。武田軍の先鋒を破るも、信玄本隊の進出により謙信は撤退。 |
上杉軍: 8,000 武田軍: 10,000 |
北信濃国衆の救援が主目的。限定的な衝突に留まる。 |
第二次 |
犀川の対陣 |
弘治元年(1555年) |
犀川を挟み約200日間に及ぶ長期対陣。今川義元の仲介により和睦し、両軍撤退。 |
上杉軍: 8,000 武田軍: 12,000 |
決戦は回避され、外交的決着が図られる。 |
第三次 |
上野原の戦い |
弘治3年(1557年) |
武田方の葛山城攻略を発端に謙信が出陣。小規模な衝突に終わり、将軍義輝の調停もあり撤退。 |
上杉軍: 10,000 武田軍: 23,000 |
双方ともに決定的な動きを見せず、睨み合いに終始。 |
第四次 |
八幡原の戦い |
永禄4年(1561年) |
両軍合わせて3万以上が激突した最大の決戦。武田信繁、山本勘助らが戦死。双方甚大な被害。 |
上杉軍: 13,000 武田軍: 20,000 |
「啄木鳥戦法」「車懸りの陣」の伝承が生まれる。事実上の痛み分け。 |
第五次 |
塩崎の対陣 |
永禄7年(1564年) |
飛騨国の情勢を背景に両軍が出陣。約60日間の対陣の末、戦闘なくして双方撤退。 |
不明確 |
直接的な戦闘は発生せず。川中島での抗争の事実上の終結。 |
第一章:戦雲、再び ― 飛騨国を巡る代理戦争
永禄7年(1564年)、信玄と謙信が再び川中島で対峙するに至った背景には、もはや北信濃の領有権問題だけでは説明できない、より広範な地政学的要因が存在した。この時期、尾張の織田信長は「桶狭間の戦い」での勝利の勢いを駆って美濃攻略を着々と進めており、同年2月には美濃の斎藤龍興の重臣であった竹中重治が稲葉山城を一時的に占拠するという事件も発生している 13 。信長の急速な台頭は、信玄と謙信が10年以上にわたり北信濃で繰り広げてきた抗争が、時代の大きな潮流から取り残されつつあることを示唆していた 11 。
このような天下の情勢下で、第五次合戦の直接的な引き金となったのは、信濃の西に隣接する飛騨国における国人領主間の内紛であった 12 。飛騨では、国衆の三木良頼・自綱親子と江馬輝盛が、同じく国衆の江馬時盛と激しく対立していた。この争いに、信玄は江馬時盛を、謙信は三木氏・江馬輝盛をそれぞれ支援する形で介入したのである 12 。謙信と三木氏の間には、越前の朝倉氏を介した連携関係が以前から存在した可能性も指摘されている 14 。
事態が動いたのは永禄7年6月のことである。『甲陽軍鑑』によれば、信玄は重臣の山県昌景と甘利昌忠(信忠)を飛騨へ派遣し、三木氏らを攻撃させ、これを劣勢に追い込んだ 12 。この信玄の行動は、謙信にとって看過できない戦略的脅威であった。もし飛騨が完全に武田の勢力圏となれば、謙信の治める越後は西側から直接的な脅威に晒されることになり、武田による戦略的包囲網が完成に近づくことを意味していたからである 16 。
この一連の動きは、信玄が北信濃、西上野、そして飛騨へと同時に勢力を拡大しようとする「多方面展開戦略」を推進していたことを示している。謙信の視点からすれば、これらの動きはすべて連動したものであり、最終的には越後を包囲するための布石と映ったであろう。これに対し、謙信が選択したのは、飛騨で劣勢にある味方を直接救援することではなく、信玄にとって最も敏感な場所、すなわち川中島に軍事的な圧力をかけることであった。これは、飛騨方面への武田軍の動きを牽制し、その作戦を頓挫させることを目的とした、高度な「間接的アプローチ」であったと解釈できる。
飛騨の内紛は、両雄にとって、自軍の主力を大きく損耗させるリスクを冒すことなく、相手の勢力拡大を妨害し、自らの影響力を浸透させるための「代理戦争」の格好の舞台となった。第五次川中島の戦いは、この代理戦争が信濃の地で直接的に顕在化したものであり、その本質は領土の奪い合いではなく、より大きな戦略的意図を巡る駆け引きだったのである。
第二章:塩崎の対陣 ― 緊迫の六十日間の時系列詳解
永禄7年(1564年)夏、飛騨における代理戦争は、ついに両雄を川中島の地へと引き寄せた。しかし、そこで繰り広げられたのは第四次合戦のような血で血を洗う激戦ではなく、静かなる緊張に満ちた長期対陣であった。この「戦わなかった戦い」のリアルタイムな状況は、戦闘記録ではなく、両軍の配置と兵站を巡る忍耐の記録の中にこそ見出される。
表2:永禄七年(1564年)第五次川中島の戦い 詳細年表
年月日(旧暦) |
武田軍の動向 |
上杉軍の動向 |
関連する出来事 |
6月 |
山県昌景・甘利昌忠らを飛騨へ派遣。三木氏らを攻撃し、優勢に立つ 12 。 |
飛騨の同盟勢力が劣勢に陥る。 |
織田信長、美濃侵攻を継続中。 |
8月 |
謙信の川中島出陣の報を受け、甲府より主力を率いて出陣 12 。 |
信玄の飛騨侵攻を阻止するため、越後より川中島へ出陣 12 。善光寺周辺に布陣か。 |
謙信、弥彦神社に「武田晴信悪行之事」と題する願文を奉納 12 。 |
8月下旬~9月 |
長野盆地南端の塩崎城に本陣を構え、防御態勢を固める 12 。 |
川中島に進出し、武田軍と対峙。 |
両軍、約60日間にわたる長期対陣(塩崎の対陣)を開始 2 。 |
9月 |
塩崎城を拠点に、上杉軍の南下を警戒しつつ対陣を継続。 |
決戦を挑まず、武田軍を牽制しつつ対陣を継続。 |
兵糧の消費と補給線の維持が、両軍にとって最大の課題となる。 |
10月 |
上杉軍の撤退を確認後、塩崎城より兵を撤収し、甲斐へ帰還。 |
決着がつかぬまま、越後の冬の到来を前に撤退を開始 4 。飯山城を修築し守りを固める 19 。 |
川中島での武田・上杉間の大規模な軍事対立は事実上終結する。 |
【八月】上杉軍、川中島へ進発
飛騨の戦況を受け、上杉輝虎(謙信)は信玄の戦略を打破すべく、川中島への出陣を決意する 12 。8月、謙信は軍を率いて越後を発向し、川中島へと進軍した。第四次合戦のように妻女山に布陣したという明確な記録はないが、上杉方の重要拠点であった善光寺やその背後に控える横山城を拠点としていたと考えられる 20 。
【八月下旬~九月】武田軍の応手と対陣の形成
謙信出陣の報は、直ちに甲斐の信玄のもとへもたらされた。信玄もまた、飛騨から兵を転用するのではなく、甲府から主力を率いてこれに応じる。しかし、その動きは極めて慎重であった。信玄は第四次合戦のように川中島の中心部、海津城へは入らず、長野盆地の南端に位置する塩崎城に本陣を構えたのである 12 。この布陣地の選択は、それ自体が信玄の明確な意思表示であった。塩崎城は、上杉軍の南下を阻止する要衝でありながら、自軍の補給路を確保しやすい防御的な位置にある。これは、「これ以上北へは進まないが、もし南下してくるならば断固として防戦する」というメッセージであり、積極的に決戦を望まないという意図を布陣地そのもので示していた。
【九月~十月】膠着状態の深層 ― 動かぬ両軍
こうして、両軍は互いに決定的な一手を打たぬまま、約二ヶ月、日数にして六十日間に及ぶ長い睨み合いに入った 2 。この長期対陣の「リアルタイムな状況」とは、武力衝突の応酬ではなく、目に見えないプレッシャーとの戦いであった。それは、兵站という名の静かなる戦争である。
当時の軍隊において、一人の兵士が携行できる兵糧は数日分に過ぎなかった 22 。数万の軍勢を敵地で60日間も維持するためには、後方から絶え間なく兵糧や武具を輸送する小荷駄隊の活動が生命線となる 23 。米、味噌、塩といった必需品の消費量は膨大であり、補給線が少しでも滞れば、軍の士気は低下し、戦闘能力は著しく損なわれる。この対陣は、どちらの兵站能力が先に限界に達するかを試す、極限の忍耐比べであった。
また、この対陣は高度な心理戦の側面も持っていた。謙信が弥彦神社に奉納した願文で信玄を激しく罵ったのは 12 、単なる憎悪の表明に留まらず、自軍の士気を高め、敵を挑発して軽率な行動を誘う狙いがあったとも考えられる。しかし、老練な信玄がその挑発に乗ることはなかった。
【十月】両軍撤退と抗争の事実上の終結
決着がつかないまま秋が深まり、やがて越後に厳しい冬が訪れる季節となった。特に雪深い越後を本国とする謙信にとって、これ以上の長期滞陣は兵の維持を困難にする。10月に入り、ついに謙信は軍の撤退を決定した 4 。その際、上杉方の北信濃における拠点である飯山城の改修を行っており 19 、撤退後も国境線の防備を固める意図があったことが窺える。謙信の撤退を確認した信玄もまた、塩崎城から兵を引き、甲斐へと帰還した。こうして、第五次川中島の戦いは一発の矢火を交える大規模な戦闘もなく、静かに幕を閉じたのである。
第三章:分析 ― なぜ両雄は刃を交えなかったのか
永禄7年(1564年)の塩崎の対陣において、当代きっての戦術家とされた武田信玄と上杉謙信が、なぜ決戦を回避し、60日もの睨み合いの末に兵を引いたのか。その理由は、単一の要因に帰結するものではなく、戦略的、戦術的、そして政治的な複数の要因が複雑に絡み合った結果であった。
戦略的視点:川中島という戦場の価値の変化
まず、両雄にとって川中島の戦略的価値が相対的に低下していたことが挙げられる。信玄は第四次合戦以降、北信濃の支配をほぼ確立しており、善光寺平以南は武田の勢力圏として安定していた 2 。これ以上の北進は、謙信の強固な抵抗に遭うだけで、得られる利益は少ない。信玄の目は、むしろ弱体化した今川氏が治める駿河・遠江や、上杉方の国衆が抵抗を続ける西上野へと向けられていた 1 。これらの地域は、経済的に豊かであり、将来的な上洛への足掛かりともなり得る、より価値の高い目標であった。
一方の謙信にとっても、北信濃の失地回復はもはや最優先課題ではなかった。関東管領として、その権威を関東一円に及ぼし、宿敵・北条氏を打倒することが彼の最大の責務となっていた 1 。川中島での消耗戦は、関東経営のために不可欠な兵力を無駄に削ぐだけの行為であり、大局的に見て得策ではなかった。
表3:永禄七年(1564年)時点での武田・上杉両勢力の戦略状況比較
項目 |
武田信玄 |
上杉謙信 |
主たる戦略目標 |
駿河・遠江への進出(東海道確保)、西上野の平定 |
関東管領としての関東平定、対北条氏戦線の維持 |
主要な敵対勢力 |
上杉謙信、北条氏康(潜在的)、徳川家康(後に同盟) |
北条氏康、武田信玄、関東の反上杉勢力 |
主要な同盟勢力 |
北条氏康(甲相駿三国同盟)、今川氏真(同盟破綻寸前) |
関東の親上杉諸将(佐竹氏、里見氏など) |
抱える課題 |
海への出口がない地理的制約、多方面への戦線拡大 |
背後の武田信玄の脅威、関東諸将の離反の可能性 |
戦術的・政治的視点:第四次合戦の教訓と外部環境
戦術的な観点からは、第四次合戦での甚大な損害が、両将に決戦のリスクを深く認識させたことが大きい 25 。互いの軍団の強さと指揮官の能力を知り尽くしているからこそ、下手に動けば自軍が壊滅的な打撃を受けかねないことを理解していた。信玄の「負けなければよい」という現実主義的な思考 1 と、謙信の戦上手ぶりが 25 、互いに決定的な隙を見せないという高度な駆け引きを生み、結果として動的な均衡、すなわち膠着状態に至ったのである。
さらに、両者を取り巻く政治的環境も無視できない。当時、権威の回復を目指していた室町幕府第13代将軍・足利義輝は、信玄と謙信の和睦を望んでいた 26 。特に「義」を重んじ、将軍や朝廷との関係を重視する謙信にとって、将軍の意向を完全に無視してまで私闘に固執することは、自らの行動原理と矛盾する可能性があった。
勢力均衡の機能:共倒れのリスクと第三勢力の存在
最も重要な点は、この対陣が戦国時代における「勢力均衡(バランス・オブ・パワー)」が機能した稀有な事例であったことである。この時点で、武田と上杉は、単独で相手を滅ぼすことが極めて困難な、ほぼ互角の勢力となっていた。そして彼らの周囲には、虎視眈々と機を窺う北条氏、そして急速に台頭する織田信長という強力な第三勢力が存在した。
もし、信玄と謙信が川中島で再び全面衝突し、共倒れになるような大消耗戦を演じれば、その漁夫の利を得るのは間違いなくこれらの第三勢力であった 11 。両雄ともに、その冷徹な国際情勢を的確に認識していたはずである。決戦を避けるという選択は、単なる臆病や優柔不断ではなく、自国の国力を温存し、競合相手を利さないための、極めて高度で合理的な外交・戦略判断であった。二大勢力が互いを牽制しあうことで、結果的に大規模な衝突が回避され、一種の安定がもたらされたのである。
第四章:川中島の「後」― 北信濃の安定と新たなる戦略的地平
第五次川中島の戦いが戦闘なくして終結したことは、12年にわたる甲越間の断続的な抗争に事実上の終止符を打ったことを意味する。この「川中島の終焉」は、武田・上杉両家にとって、長年の呪縛からの解放であり、それぞれが新たな戦略的地平を切り拓く転換点となった。
武田信玄の次なる一手:西上野侵攻と駿河攻略
背後の最大の脅威であった謙信との戦線が安定化したことで、信玄は蓄積した軍事力を他の方面へ大胆に振り向けることが可能となった 1 。その矛先は、まず西上野に向けられた。永禄9年(1566年)には、上杉方の重要拠点であった箕輪城を攻略し、西上野における支配権を確立する 27 。さらに、永禄10年(1567年)には嫡男・義信を廃嫡し、今川氏との同盟を完全に手切ると、翌永禄11年(1568年)、ついに駿河への大々的な侵攻を開始した。信玄の長年の悲願であった「海への出口」の確保と、上洛への道筋をつけるための、新たな戦いが始まったのである。
上杉謙信の次なる一手:関東経営への注力
謙信もまた、信玄との抗争から解放されたことで、関東管領としての本来の職務、すなわち関東の秩序回復と宿敵・北条氏の打倒に専念できるようになった 1 。信玄という背後からの脅威が低下したことで、謙信はより大規模な兵力を動員して関東へ出兵することが可能となり、北条氏との戦いは一層激化していくことになった。
北信濃の安定化と歴史の皮肉
長年、両雄の角逐の舞台となり、戦火に苛まれてきた北信濃の地は、この抗争の終結によってようやく安定期を迎えた。武田氏による善光寺平の支配は確定的なものとなり、上杉方の勢力は飯山城や野尻城といった越後国境地帯に封じ込められた 19 。これにより、信玄は信濃一国をほぼ完全に手中に収め、武田家の版図は最大となった 2 。
しかし、この12年間にわたる抗争は、歴史の大きな潮流の中で見れば、両雄にとって決定的な「好機」の喪失を意味していた。彼らが信濃の覇権を巡って互いに国力を消耗させている間に、尾張の織田信長は美濃を平定し、永禄11年(1568年)、足利義昭を奉じて上洛を果たす。天下布武への道を、信長が誰よりも先に駆け上がっていったのである 11 。もし、信玄と謙信がより早い段階で和睦し、その力を畿内に向けていれば、戦国の歴史は全く異なる様相を呈していたかもしれない。彼らの長きにわたる死闘は、結果として最大のライバルに天下への道を開いてしまったという、歴史の皮肉な結末を迎えた。
この川中島での「不干渉」という暗黙の了解は、さらに時代が下り、織田信長という共通の巨大な脅威が出現した際に、新たな関係性を生む遠い伏線となった。天正7年(1579年)、武田勝頼と上杉景勝の間で結ばれた「甲越同盟」は、かつての宿敵同士が手を結ぶという驚くべき展開であったが、その根底には、第五次合戦以降に醸成された、互いの生存を脅かさない限りは干渉しないという、一種の信頼関係があったと見ることもできるだろう 30 。
終章:歴史的評価と後世への影響
第五次川中島の戦いは、その劇的な戦闘の欠如から、しばしば一連の抗争における「尻すぼみの結末」として軽視されがちである。しかし、その歴史的意義は、戦闘の有無によって測られるべきではない。「戦わなかった」という事実そのものが、両雄の戦略的成熟と戦国中期のパワーバランスの変化を象徴する、極めて重要な転換点であったと再評価されるべきである。
今日、我々が「川中島の戦い」として思い描く、信玄と謙信の一騎打ちや、奇策「啄木鳥戦法」といった劇的なイメージの多くは、江戸時代初期に成立した軍学書『甲陽軍鑑』に由来するものである 1 。この書は、武田家の栄光と戦術を後世に伝える貴重な記録である一方、史料としての信頼性には多くの議論がある。年号の誤りや、物語的な脚色が随所に見られるため、その記述を史実として鵜呑みにすることはできない 33 。しかし、『甲陽軍鑑』が江戸時代の武士たちに「甲州流軍学」の教科書として広く読まれ、浮世絵や講談を通じて大衆の間に「川中島像」を定着させた影響力は計り知れない 32 。
同様に、両雄のライバル関係を象徴する美談として名高い「敵に塩を送る」という逸話もまた、歴史の事実とは言い難い。この逸話は、同時代の信頼できる史料には一切見られず、江戸時代中期以降に編纂された『謙信公御年譜』などに初めて登場する後世の創作である可能性が極めて高い 36 。これは、江戸時代の儒教的道徳観に基づき、謙信を「義将」として理想化する過程で生み出された物語であり、理想の英雄像がどのように形成されていくかを示す好例と言える。
川中島の戦いの歴史的評価を考える上で本質的なのは、一次史料が極めて乏しい 1 という現実を踏まえ、「史実がどうであったか」という探求と同時に、「その史実が後世にどのように語られてきたか」という受容の歴史を分析することである。不明な点の多い史実が、後の時代の価値観や文化の中で解釈され、消費され、伝説化していく。そのプロセス自体が、「川中島の戦い」という歴史事象の豊かさと奥深さを物語っている。
第五次合戦をもって直接対決を終えたことで、信玄と謙信の勝敗は永遠に決着しないことになった。この「決着のつかなさ」こそが、かえって二人のライバル関係を神話の領域へと昇華させ、後世の人々を魅了し続ける「宿命の好敵手」という不滅の物語を完成させたのである。その物語は、浮世絵の鮮やかな色彩の中に 39 、そして現代の映像作品の中に、今なお生き続けている。
引用文献
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- 上杉謙信と武田信玄の5回に渡る川中島の戦い https://museum.umic.jp/ikushima/history/takeda-kawanakajima.html
- 信玄と謙信の川中島合戦 - 飯山市 https://www.city.iiyama.nagano.jp/assets/files/dourokasen/kawamachi/50210/R6map.pdf
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- 長野市「信州・風林火山」特設サイト 川中島の戦い[戦いを知る] https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/tatakai/jinbutsu4.php.html
- 上杉謙信が「敵に塩を送る」のは経済的な狙いがあった!? 駿河侵攻、桶狭間の戦い、川中島の戦い…義理人情では語れない戦国武将たちの知略をご紹介 | ニコニコニュース オリジナル https://originalnews.nico/259904
- 上杉謙信の戦略図~武田・北条との死闘を繰り広げた越後の龍 - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/755/
- 主要人物 - 【川中島の戦い】総合サイト | Battle of Kawanakajima - 長野市 https://kawanakajima.nagano.jp/character/category/main/
- [合戦解説] 10分でわかる通説川中島の戦い 「戦国史上最大の激戦!勝ったのはどっち?"甲斐の虎"武田信玄vs"越後の龍"上杉謙信」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=AuHne8_KWbw
- [合戦解説] 10分でわかる通説川中島の戦い 「戦国史上最大の激戦!勝ったのはどっち?"甲斐の虎"武田信玄vs"越後の龍"上杉謙信」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=AuHne8_KWbw&t=154s
- 川中島の戦い古戦場:長野県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/kawanakalima/
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- 戦国時代、兵糧は戦場で大事なエネルギー源だった! https://sengoku-his.com/820
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- 川中島合戦はなぜ起こったのか、武田信玄と上杉謙信の一騎打ちは本当なの? - 額縁のタカハシ https://www.gakubuti.net/framart/why_happen.html
- 令和6年度日本大学文理学部資料館展示会 「『甲陽軍鑑』と軍学書・軍記物 -酒井憲二旧蔵書-」(2024年6月14日(金) - 文学通信 https://bungaku-report.com/blog/2024/06/-2024614722.html
- 甲陽軍鑑の取り扱いについて - note https://note.com/gunkan2222neco/n/n71510971099a
- して、新しい切り口としての川中島の戦い像の構築を試みました。 - 真田宝物館 https://www.sanadahoumotsukan.com/up_images/bok/bok_63f387fa.pdf
- 「敵に塩を送る」本当にあった? 上杉謙信と武田信玄、美談の真相は - withnews https://withnews.jp/article/f0180717002qq000000000000000G00110601qq000017487A
- 敵に塩を送る - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B5%E3%81%AB%E5%A1%A9%E3%82%92%E9%80%81%E3%82%8B
- 日本経大論集 第46巻 第2号 - CORE https://core.ac.uk/download/pdf/267827057.pdf
- 浮世絵師「歌川国芳」の生涯/ホームメイト https://www.touken-world-ukiyoe.jp/ukiyoe-artist/utagawa-kuniyoshi/
- 超クールでイケてる ボストン美術館所蔵「THE HEROES刀剣×浮世絵―武者たちの物語」 http://danshi-senka.jp/taste/%E8%B6%85%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%A7%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%80%80%E3%83%9C%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8%E6%89%80%E8%94%B5%E3%80%8Cthe-heroes%E5%88%80