最終更新日 2025-09-01

布部山の戦い(1542)

尼子再興軍は毛利氏の隙を突き出雲へ侵攻、月山富田城を包囲。毛利輝元率いる大軍と布部山で激突。地の利を得た尼子軍優勢も、吉川元春の奇襲で本陣陥落。尼子再興の夢は頓挫し、毛利氏の中国支配が盤石となった。

布部山の戦い(1570年)― 尼子再興の夢と毛利覇権の確立 ―

第一章:序論 ― 「布部山の戦い」の歴史的再定位

1-1. 利用者様の情報(1542年、尼子国久)の解題と歴史的文脈の整理

お問い合わせいただいた「1542年、毛利元就が尼子国久を破る」という情報について、まず歴史的文脈を整理する必要がある。天文11年(1542年)は、毛利元就がまだ安芸国の一国人に過ぎず、周防の大大名・大内義隆の麾下にあった時代である。この年、大内義隆を総大将とする数万の大軍が尼子氏の居城・月山富田城に侵攻した「第一次月山富田城の戦い」が起こった。元就もこの戦いに大内方として参陣している。

しかし、この戦いの結果は大内・毛利連合軍の惨敗であった。その敗因の一つが、尼子経久の次男であり、尼子氏最強の軍事集団「新宮党」を率いた猛将・尼子国久の奮戦であった 1 。したがって、「1542年に元就が国久を破った」という記録は史実とは異なる。むしろ、元就はこの時、国久ら尼子軍の強大さを痛感させられる立場にあった。

尼子国久と新宮党は、尼子氏の軍事力を象徴する存在であったが、天文23年(1554年)、突如として当主・尼子晴久(経久の孫)によって粛清されるという悲劇に見舞われる 1 。この内部崩壊の裏には、毛利元就が「新宮党に謀反の動きあり」という偽の情報を流し、晴久の猜疑心を煽った謀略があったとする説が有力である 1 。最強軍団の自壊は尼子氏の国力を著しく削ぎ、これが後の尼子氏滅亡の遠因となった。

この歴史的経緯は、本報告書が主題とする合戦を理解する上で極めて重要である。尼子国久という稀代の猛将の不在がなければ、永禄9年(1566年)の尼子氏滅亡はなかったかもしれない。そして、その滅亡がなければ、山中鹿介らが決起した「尼子再興運動」も起こり得なかった。つまり、国久の悲劇という過去の亡霊が、これから詳述する戦いの舞台そのものを設定したと言える。

本報告書では、これらの背景を踏まえ、一般に「布部山の戦い」として知られ、詳細な記録が残る 永禄13年(1570年)2月14日 の合戦を主題とする。この戦いは、尼子氏滅亡後にその再興をかけて蜂起した尼子勝久・山中鹿介らの「尼子再興軍」と、毛利輝元を総大将とする「毛利軍」との間で行われた、尼子氏の命運を賭けた決戦であった 3

1-2. 尼子氏の滅亡と再興運動の胎動

永禄5年(1562年)から始まった毛利元就による出雲侵攻は、数年にわたり尼子氏の領国を蚕食していった。そして永禄9年(1566年)11月、尼子氏の居城・月山富田城は完全に包囲され、兵糧も尽き果てる。当主・尼子義久はこれ以上の抵抗は不可能と判断し、毛利氏に降伏。ここに、出雲・伯耆を中心に山陰に覇を唱えた戦国大名・尼子氏は、一度滅亡の時を迎えた 3

しかし、主家を失い牢人となった家臣たちの心には、再興の炎が燻り続けていた。その中心人物が、後に「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話で知られることになる山中鹿介(幸盛)である 3 。鹿介や立原久綱といった旧臣たちは、京都の東福寺で僧となっていた尼子氏一族の尼子勝久を探し出し、還俗させて新たな当主として擁立。ここに、旧主家の栄光を取り戻すべく、不屈の闘志を燃やす尼子再興軍が誕生したのである 5

第二章:戦いの序曲 ― 尼子再興軍の電撃的蜂起と毛利包囲網の形成

2-1. 毛利氏の戦略的間隙を突く

尼子再興軍が蜂起の機会を窺っていた永禄11年(1568年)頃、中国地方の覇者となった毛利氏は、次なる目標として北九州の覇権を定め、豊後国の大友宗麟と激しい抗争状態に入っていた 6 。毛利元就をはじめ、吉川元春、小早川隆景といった毛利軍の主力が筑前国の立花城などで大友軍と対峙し、釘付けにされている状況は、彼らの本拠地である山陰地方に「軍事的空白」を生み出していた 5

尼子再興軍はこの千載一遇の好機を逃さなかった。永禄12年(1569年)6月、但馬国から日本海の海路を使い、丹後・但馬の海賊衆の協力を得て出雲国へ侵攻。島根半島に上陸すると、毛利方の多賀元龍が守る真山城を攻撃し、わずか1日にしてこれを攻略、再興運動の拠点とすることに成功した 5

2-2. 破竹の進撃と月山富田城包囲

尼子勝久と山中鹿介のもとには、主家再興の報を聞きつけた旧臣たちが各地から続々と馳せ参じ、その兵力は当初3,000、やがて数千にまで膨れ上がった 5 。彼らは真山城を本拠としつつ、末次、宇波、そして後に決戦の地となる布部などに城砦を築き、支配地域を急速に拡大していく 5

その勢いは留まることを知らず、同年7月には、かつての尼子氏の栄光の象徴である月山富田城を包囲するに至った。城を守る毛利方の将・天野隆重は、元就に救援を求めつつ、寡兵で頑強に抵抗を続けた。しかし、半年に及ぶ長期の籠城により城内の兵糧は欠乏し、将兵は疲弊。落城はもはや時間の問題と見られていた 3

2-3. 大内輝弘の蜂起 ― 毛利氏、東西挟撃の危機

尼子再興軍の快進撃は、単独の事象では終わらなかった。それは、毛利氏の勢力拡大を快く思わない勢力による、地政学的な連鎖反応の引き金となった。九州で毛利軍と対峙していた大友宗麟は、この状況を好機と捉え、毛利氏を背後から揺さぶるための次の一手を打つ。大友の支援を受けた大内氏の残党・大内輝弘が、同年10月、周防国に侵攻し、毛利氏の支配下にあった旧大内領の都・山口を一時的に占拠したのである 5

この蜂起は、毛利氏を国家存亡の危機へと追い込んだ。北では出雲の尼子再興軍が月山富田城を脅かし、西では九州で大友軍本隊と対峙、そして本拠地・安芸の喉元である周防では大内輝弘軍が蜂起するという、三方向からの挟撃を受ける絶体絶命の窮地に陥った。広大に拡大した毛利の領土が、この時ばかりは多正面作戦を強いられるという脆弱性へと転化した瞬間であった 5

第三章:決戦前夜 ― 毛利軍の反攻と両軍の布陣

3-1. 元就の決断 ― 危機管理と戦略的優先順位

この未曾有の国難に対し、老練な毛利元就の判断は迅速かつ的確であった。彼はまず、九州戦線で大友軍と対峙していた主力の即時撤退を決断する 3 。そして、複数の脅威の中から、本拠地に最も近く、放置すれば領国支配の根幹を揺るがしかねない大内輝弘の鎮圧を最優先事項とした。

元就は吉川元春・小早川隆景ら主力をすぐさま周防へ派遣。九州から電撃的に反転した毛利精鋭部隊の前に輝弘軍は為す術もなく、その反乱はわずか数日で鎮圧された。これにより、毛利氏は東西から挟撃される最悪の事態を回避し、次なる脅威である尼子再興軍に全力を傾ける体制を整えたのである 5

3-2. 出雲への進軍 ― 毛利の総力戦体制

後顧の憂いを断った元就は、すぐさま風前の灯であった月山富田城を救援すべく、大軍を編成した。この重要な戦において、元就は総大将に嫡孫の毛利輝元を任命。そして、その後見役として、元就の二人の息子であり、歴戦の猛将である吉川元春と小早川隆景が脇を固めるという、万全の布陣を敷いた 5 。これは単なる軍事行動に留まらず、元就から輝元への権力移譲期における、毛利家の次世代集団指導体制の実戦における試金石という、極めて政治的な意味合いも持っていた。元就個人のカリスマに依存する段階から、組織力で戦う統治システムへの移行を内外に示す必要があったのである。

永禄13年(元亀元年、1570年)1月6日、毛利軍は本拠地・安芸国吉田郡山城を出発 5 。石見路から出雲国へ入り、尼子方の多久和城、氷之上、禅定寺といった諸城を次々と攻略しながら、月山富田城へと進軍した 5 。その軍勢は、毛利譜代の家臣団に加え、石見・備後・備中の国人衆を動員した総力軍であり、水軍200艘もこれに従ったとされる 4

【表1:布部山の戦いにおける両軍の兵力と主要武将】

項目

毛利軍

尼子再興軍

総大将

毛利輝元

尼子勝久

推定兵力

13,000〜26,000(諸説あり) 3

7,000〜10,000(推定) 4

主要武将

吉川元春、小早川隆景、宍戸隆家、天野隆重(籠城)

山中鹿介(幸盛)、立原久綱、秋上宗信、横道高光

特記事項

譜代家臣団に加え、石見・備後・備中の国人衆を動員した総力軍。水軍200艘も動員 4

尼子旧臣の牢人衆が中核。出雲・伯耆の国人衆も一部参加。

3-3. 布部山への布陣 ― 尼子軍、決戦の地を選ぶ

毛利の大軍が刻一刻と迫っていることを知った尼子再興軍は、月山富田城の包囲を解き、決戦に備えることを決断した。彼らが選んだ決戦の地は、月山富田城へと至る街道を見下ろす戦略的要衝、布部要害山城およびその北に連なる布部山(中山)であった 3

山中鹿介らは、この急峻な地形という地の利を最大限に活かし、攻め上ってくる毛利軍を迎え撃つ作戦を立てた。さらに、峰々に多くの偽の陣屋(空陣屋)を設営し、実際の兵力よりも大軍であるかのように見せかける偽装工作も行った 4 。しかし、この策は、元就がかねてより賄賂を送って味方につけていた現地の者たちの内通により、毛利方には見破られていたとされる 4 。情熱と地の利に頼る尼子軍に対し、毛利軍は冷徹な情報戦で既に優位に立っていたのである。

第四章:合戦詳報 ― 布部山における死闘の時系列分析

4-1. 開戦前夜の駆け引き

決戦を前に、両軍の緊張は極度に高まっていた。毛利軍が尼子軍の陣立てを探るべく80騎あまりの斥候を出すと、これを阻止しようと山中鹿介が100騎あまりを率いて出撃。この時、毛利方の遠藤五郎三郎元貞がただ一騎で鹿介に槍を突き挑んだが、鹿介はこれを巧みに受け流し、元貞が乗る馬の目に槍を突き入れた。馬は暴れて谷底へ落ちたが、元貞は藪に落ちて幸運にも命を拾う。鹿介は彼に「我に槍を合わせんとする志は、武であり勇である。今回は天運に助けられた。早く起き上がって味方の陣へ帰られよ」と言い放って去ったという逸話が残っている 4 。これは、目前に迫った死闘を前にした武将たちの気概と、鹿介の武人としての器の大きさを示すものである。

4-2. 永禄13年2月14日 午前7時頃(五ツ時):戦闘開始

夜が明け、布部山に朝霧が立ち込める永禄13年2月14日の五ツ時(午前7時頃)、毛利軍は布部山に陣取る尼子再興軍に対し、麓からの総攻撃を開始した 4 。鬨の声が山々に響き渡り、尼子氏の存亡を賭けた激戦の火蓋が切って落とされた。

4-3. 序盤戦:地の利を得た尼子軍の優勢

戦いは当初、高所に陣を構え、地の利を得た尼子軍の圧倒的優勢で進んだ 3 。尼子軍は、急峻な山道を攻め上ってくる毛利軍の兵士たちに対し、上方から鉄砲や弓矢を雨のように浴びせかけ、多数を撃ち倒した 4 。特に、水谷口の守りを固めていた山中鹿介の部隊は4,000の兵を指揮して奮戦し、毛利軍の猛攻をことごとく跳ね返し、戦況を有利に進めていた 3

4-4. 戦局の転換:吉川元春、神速の奇襲

正面からの攻撃が膠着し、多大な損害を出すばかりの状況に、毛利軍の総指揮官の一人、吉川元春が動いた。彼は、事前に買収していた地元の一揆衆からの情報により、尼子軍の防御が手薄な側面、中山口へと続く間道が存在することを正確に把握していた 4 。この情報こそが、戦いの趨勢を決する鍵となる。

元春は精鋭部隊を率いて密かに戦線を離脱すると、山を迂回して尼子軍の側面に回り込んだ。そして、横道高光らが守る中山口に、文字通り雷鳴のような奇襲攻撃を仕掛けた。この攻撃は完璧に成功し、手薄だった中山口は瞬く間に突破された 3 。尼子軍が頼みとしていた「地形」という静的な優位性は、毛利軍の「情報」と、それに基づいた「戦術的柔軟性」によって覆されたのである。

4-5. 最終局面:本陣陥落と尼子軍の総崩れ

側面を突破した吉川元春の部隊は、その勢いのまま尼子勝久が構える本陣へと殺到した。全く予期せぬ方向からの敵襲に、尼子軍本陣は大混乱に陥り、組織的な抵抗もできぬまま、あっけなく陥落した 3

大将旗が倒れ、本陣が崩壊したことで、尼子再興軍の指揮系統は完全に麻痺した。各所で奮戦を続けていた山中鹿介らの部隊も、本陣陥落の報に動揺し、もはや戦線を維持することは不可能となった。尼子再興軍は全面的な総崩れとなり、山中鹿介ら諸将は、かろうじて総大将・尼子勝久を守りながら、拠点の一つである末次城へと敗走した 3 。この決死の撤退の際、鹿介が愛馬に乗って滝を飛び越えたという伝説が、今も「蹄の滝」として語り継がれている 3

4-6. 合戦中の逸話:輝元と大岩

この激戦の最中、床几に腰を下ろし全軍を指揮していた総大将・毛利輝元の背後から、山上の大岩が轟音と共に転がり落ちてくるという出来事があった。将兵がこれを凶兆ではないかと動揺する中、若き輝元は少しも慌てることなく、「今、大岩が我が後ろより放られたということは、天が我に力を合わせ、敵陣を打ち破れと示したものだ。進めや皆の者」と叫び、逆に全軍の士気を大いに鼓舞したと伝えられている 4 。この逸話は、初陣に近い若き総大将が、父祖譲りの器量と胆力を持っていたことを示すものとして有名である。

第五章:戦後の帰趨と歴史的意義

5-1. 月山富田城の解放と出雲の再平定

布部山での決定的勝利を収めた翌日の2月15日、毛利軍は月山富田城へ無血入城を果たした。半年にわたる籠城で尽きかけていた兵糧を補給し、城将・天野隆重らの労をねぎらい、城を完全に確保した 3

一方、敗れた尼子再興軍は末次城に籠もって再起を図ろうとしたが、もはやその勢いは失われていた。毛利軍はその後、牛尾要害など尼子方の残存拠点を次々と攻略 7 。元亀2年(1571年)8月には、尼子再興軍の最後の拠点であった新山城も陥落し、出雲国から尼子勢力は一掃されることとなった 3

5-2. 尼子再興運動の頓挫と山中鹿介の執念

この布部山での敗北により、出雲国内における尼子氏再興の望みは、事実上、絶たれた。運動の中心人物であった山中鹿介は、この後、吉川元春に捕らえられ、一時幽閉の身となる 3

しかし、鹿介らの執念はこれで尽きることはなかった。彼らにとっての勝利条件は、単一の合戦に勝つことではなく、「尼子家の再興」という極めて長期的な目標の達成にあった。そのため、この敗北は絶望的な打撃ではあったが、「戦いの終わり」を意味するものではなかった。鹿介は後に脱出し、主君・勝久と共に因幡・但馬へと逃れ、織田信長の支援を受けるなどして、第二次、第三次の再興運動を執拗に続けることになる。布部山の戦いは、長く苦難に満ちた尼子再興運動の「第一幕」の終焉を告げる戦いであった 3

5-3. 歴史的意義 ― 毛利氏の中国支配盤石化

毛利氏にとって、布部山の戦いは、一度滅ぼした尼子氏の息の根を、事実上二度止めた決定的な勝利であった。この勝利により、毛利氏は出雲国における支配を完全に確立し、山陰・山陽十一ヶ国を領する中国地方の覇者としての地位を盤石なものとした 5

また、大友氏の謀略に端を発する尼子・大内の蜂起という、東西からの挟撃という国家存亡の危機を、卓越した戦略と組織力で乗り越えたことは、毛利氏の統治能力と軍事力の高さを内外に改めて示す結果となった。この後、毛利氏は西国の憂いを断ち、東から迫る次なる強敵、織田信長と対峙していくことになるのである。

第六章:総括

布部山の戦いは、単なる一地方の合戦ではない。それは、滅びゆく名門・尼子氏が放った最後の輝きと、それを完全に飲み込もうとする新興勢力・毛利氏の強大な力が激突した、戦国時代のダイナミズムを象徴する戦いであった。

地の利と不屈の執念を武器に戦った山中鹿介ら尼子再興軍に対し、毛利軍は老練な元就の戦略眼、勇猛果敢な吉川元春の武勇、そして輝元を頂点とする次世代の組織力をもってこれを打ち破った。情報戦を制し、戦術的柔軟性をもって敵の長所を無力化するという、戦国後期の合戦の様相を色濃く反映した戦いでもあった。

この戦いの結果、中国地方の勢力図は決定的に毛利氏優位に塗り替えられた。しかし、歴史の記憶とは不思議なものである。勝利者である毛利氏の武功と同じく、あるいはそれ以上に、敗者である山中鹿介が主家再興に生涯を捧げた「七難八苦」の物語は、敗者の美学として、また忠義の象徴として、後世に長く語り継がれることになった。布部山の戦いは、戦国乱世における勝利と敗北、そしてその先に残された人々の想いを今に伝える、重要な一頁なのである。

引用文献

  1. 尼子國久- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E5%9C%8B%E4%B9%85
  2. 新宫党- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E6%96%B0%E5%AE%AE%E9%BB%A8
  3. 「布部山の戦い(1570年)」月山富田をめざす尼子再興軍が挙兵、毛利と対決! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/176
  4. 布部山の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E9%83%A8%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  5. 布部山の合戦 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/Fubeyama.html
  6. 尼子再興軍の雲州侵攻 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E5%86%8D%E8%88%88%E8%BB%8D%E3%81%AE%E9%9B%B2%E5%B7%9E%E4%BE%B5%E6%94%BB
  7. 尼子家の「御一家再興」戦争と山中幸盛 - 島根県 https://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/event/plusonline/online2.data/1kou.pdf