常山城の戦い(1582)
常山城は天正3年と10年に二つの激闘の舞台となった。天正3年の落城戦では鶴姫率いる女軍が奮戦し、天正10年の八浜合戦では毛利と宇喜多が激突。両戦は戦国時代の変遷を映す。
常山城を巡る二つの激闘:天正三年落城戦と天正十年八浜合戦の徹底分析
序章:常山城の戦略的価値と二つの「戦い」
戦国時代の日本列島において、城とは単なる軍事拠点に留まらず、その地域の政治、経済、そして人々の運命を左右する戦略的要衝であった。備前国と備中国の境界に位置する児島半島、その付け根北側にそびえる常山城もまた、そのような重要な役割を担った城の一つである 1 。標高約300メートルの山頂に築かれたこの連郭式の山城は、眼下に広がる岡山平野から、古来より海上交通の動脈であった備讃瀬戸、さらには対岸の四国までを一望できる絶好の立地を誇っていた 2 。この地理的優位性ゆえに、常山城は中国地方の覇権を争う毛利氏と宇喜多氏、そして天下統一を目指す織田氏の思惑が交錯する、激動の舞台となる宿命を負っていた。
本報告書は、天正10年(1582年)に発生したとされる「常山城の戦い」についての徹底的な調査依頼に応えるものである。しかし、詳細な調査を進める中で、歴史的な事実関係において重要な点が見出された。一般に「常山城の戦い」として語り継がれ、城主一族の悲劇と「常山女軍」の壮絶な奮戦で知られる籠城戦は、依頼の年号より7年前の天正3年(1575年)の出来事である。一方、天正10年(1582年)に常山城が関わった戦闘は、宇喜多軍と毛利軍がその麓の八浜で激突した野戦、すなわち「八浜合戦」である。
この二つの出来事は、発生年、合戦の形式、主要な交戦勢力、そして歴史的意義において全く異なる。しかし、両者ともに常山城が戦略的に重要な役割を果たした点では共通しており、分かち難く結びついている。1575年には滅びゆく地方豪族の最後の砦として、そして1582年には西国の雄・毛利氏の前線基地として、常山城は時代の転換点に立ち会ったのである 2 。
したがって、常山城を巡る戦国時代の動乱の全体像を正確かつ深く理解するためには、この歴史的混同を解き明かし、二つの戦いをそれぞれの文脈の中で詳細に分析することが不可欠である。本報告書では、まず天正3年の悲劇的な落城戦を、次いで天正10年の覇権を賭けた八浜合戦を、それぞれ時系列に沿って徹底的に解説する。以下に、両合戦の概要を比較した表を提示し、以降の分析への理解を助けたい。
項目 |
天正三年の常山城の戦い |
天正十年の八浜合戦 |
発生年 |
天正3年(1575年)6月 |
天正10年(1582年)2月 |
合戦形式 |
籠城戦 |
野戦 |
主要交戦勢力 |
毛利軍 vs. 上野・三村軍 |
毛利軍 vs. 宇喜多軍 |
主要指揮官(攻) |
小早川隆景、浦野宗勝 |
穂井田元清 |
主要指揮官(守) |
上野隆徳、鶴姫 |
宇喜多基家、宇喜多忠家 |
結果 |
常山城陥落、上野氏滅亡 |
宇喜多軍の敗走(総大将戦死) |
歴史的意義 |
備中兵乱の終結 |
備中高松城の戦いの前哨戦 |
第一部:悲劇の落城 ― 天正三年の常山城の戦い
第一章:戦雲の胎動 ― 備中兵乱の勃発
天正3年(1575年)の常山城における悲劇は、個別の戦闘として突発的に発生したものではない。それは、中国地方の勢力図を根底から揺るがした「備中兵乱」と呼ばれる一連の動乱の、最終局面であった。この動乱の引き金となったのは、西国の覇者・毛利氏と、備前の梟雄・宇喜多直家との間に結ばれた、歪な同盟関係に他ならない。
天正2年(1574年)、室町幕府第15代将軍・足利義昭の仲介により、毛利氏と宇喜多氏は和睦する 4 。これは、中央で急速に勢力を拡大する織田信長と、山陰で再興を狙う尼子氏という共通の敵に対抗するための、政治的な判断であった。しかし、この同盟は備中の国人領主・三村元親にとって、到底受け入れられるものではなかった。元親の父・家親は、永禄9年(1566年)に宇喜多直家の謀略によって鉄砲で暗殺されており、これは日本史上初の鉄砲による要人暗殺事件とされている 5 。父の仇である直家と、これまで主家として仰いできた毛利氏が手を結んだという事実は、元親の心に癒やしがたい遺恨と毛利への不信感を植え付けた 6 。
はらわたが煮えくり返る思いの元親に対し、絶妙な好機を見出したのが、天下布武を掲げる織田信長であった。信長は中国地方への進出の足掛かりとして、毛利氏の勢力圏に楔を打ち込むことを画策していた。信長からの誘いを受けた元親は、毛利氏からの離反を決意し、織田方へと与することを表明する 6 。この決断が、毛利氏による大々的な三村氏討伐、すなわち「備中兵乱」の幕開けとなったのである。
この動乱は、単なる備中一国の地域紛争ではなかった。その本質は、織田信長が推し進める中央集権的な天下統一事業と、それに抵抗し西国の独立性を維持しようとする毛利氏の支配体制との、代理戦争としての側面を色濃く帯びていた。三村元親の離反は、彼の個人的な復讐心のみならず、信長の巨大な政治的・軍事的圧力の波が、ついに中国地方の心臓部である備中にまで到達したことの証左であった。
この巨大な権力闘争の渦中に否応なく巻き込まれたのが、常山城主・上野隆徳であった。彼は三村元親の妹婿という密接な姻戚関係にあり、三村一族の運命共同体であった 6 。主君であり義兄でもある元親が毛利に反旗を翻した以上、隆徳には毛利の軍門に降るという選択肢は存在しなかった。彼は、巨大な毛利の軍勢を相手に、常山城に籠って戦うという宿命を背負うことになったのである。上野隆徳と彼の一族の悲劇は、巨大な権力構造の転換期において、地方の小領主がいかに無力であり、時代の奔流に翻弄されていくかを象徴する出来事であった。
第二章:孤城への道 ― 毛利軍の侵攻と包囲網の形成
三村元親の離反という事態に対し、西国の覇者・毛利氏の対応は迅速かつ圧倒的であった。毛利輝元は、叔父であり、一門随一の知将として名高い小早川隆景を総大将に任じ、三村氏討伐の軍を編成した 10 。その軍勢は、毛利の両輪と称された吉川元春の軍も加わり、中国地方の精鋭を結集した大軍であった。
毛利軍の戦略は、極めて合理的かつ冷徹なものであった。彼らはまず、三村氏の本拠地であり、元親自身が籠城する備中松山城(現在の岡山県高梁市)に目標を定めた。組織を無力化するには、その中枢を破壊するのが最も効率的である。天正3年(1575年)に入ると、毛利軍は備中松山城に対する包囲網を徐々に狭めていった。4月には城周辺の麦を刈り取り、兵糧攻めの態勢を固める 12 。食糧が欠乏し、孤立無援となった城内からは投降者が相次ぎ、5月22日、ついに備中松山城は陥落した 10 。城を脱出した三村元親は、逃亡の途中で負傷し、菩提寺である松連寺にて自刃して果てた 10 。
本拠地が陥落し、当主が斃れたことで、三村氏の組織的抵抗は事実上終焉した。残るは、元親に同調した支城の一つ、常山城のみであった 10 。この時点で、常山城の運命は決定づけられていたと言っても過言ではない。毛利軍にとって、常山城への攻撃は、軍事的な勝利を確定させるための戦いというよりも、反逆者への見せしめと、備中支配を完全なものにするための政治的な後処理、すなわち掃討作戦としての意味合いが強かった。
この掃討作戦の直接的な指揮を執ったのは、小早川隆景配下の猛将であり、小早川水軍を率いる浦野宗勝(乃美宗勝とも記される)であった 10 。彼が率いる軍勢は総勢6,300人にも及び、常山城へと殺到した 10 。
対する常山城の防衛兵力は、あまりにも寡兵であった。城主・上野隆徳と、その妻で三村家親の娘である鶴姫が将として城兵を率いていたが、その数は僅か100人から200人程度であったと伝えられている 9 。圧倒的な兵力差、主家の滅亡、そして援軍の望みが完全に絶たれた状況。常山城は、まさに死地と化していた。この絶望的な状況こそが、後に語り継がれる壮絶な玉砕戦の背景を形作っていたのである。
第三章:最後の刻 ― 落城に至るリアルタイム・クロノロジー
備中兵乱の最終幕は、天正3年(1575年)6月、常山城を舞台に、息を呑むような速度で展開された。それは、武士としての、そして武家の女としての誇りを賭けた、壮絶な最期の数日間であった。
天正3年6月4日~6日:包囲と総攻撃
三村元親の自刃から程なくして、毛利の大軍は備中最後の抵抗拠点である常山城へと矛先を向けた。6月4日、浦野宗勝率いる6,300の兵が城を完全に包囲し、外部との連絡を遮断した 10 。山頂の孤城からは、麓を埋め尽くす敵兵の篝火が、まるで地上に現れた不吉な星々のように見えたことであろう。数日にわたる攻防の末、6月6日の朝、毛利軍は総攻撃を開始。同時に城の各所に火が放たれ、黒煙が空を覆い、城兵たちの退路を断った 14 。
6月7日 未明~払暁:最後の酒宴と一族の自決
もはや落城が時間の問題であることを悟った城主・上野隆徳は、残された一族郎党、家臣たちを集め、最後の酒宴を催した 9 。死を目前にした宴席は、悲壮感に包まれていたかと思いきや、意外にも賑やかな声で語らっていたのは女たちであったと伝えられている 14 。それは、死への恐怖を超越した覚悟の表れであったのかもしれない。
宴も終わり、隆徳は妻・鶴姫に「今はこれまで……女子供は落ち延びよ。我らはこの城と共に果てる」と告げ、女子供を託した 12 。鶴姫は一度はこの夫の命令を受け入れた 12 。その後、隆徳は、城に残って運命を共にすることを譲らなかった妹と、まだ幼い次男を自らの手で介錯し、夜が明けようとする頃、嫡男の隆秀と共に自刃して果てた 12 。武門の当主として、一族の名誉を守り抜くための、凄絶な決断であった。
6月7日 払暁直後:鶴姫の翻意と「常山女軍」の結成
夫と一族が目の前で壮絶な最期を遂げる様を目の当たりにした鶴姫の心に、激しい変化が生じた。一度は落ち延びることを受け入れた彼女であったが、もはやその選択はあり得なかった。「このまま生き永らえたとて、敵の辱めを受けるばかり。武士の妻として面目が立たない」 12 。父を殺され、兄を死に追いやった毛利の手によって生きながらえることは、彼女の誇りが許さなかった。
鶴姫は、城内に残る侍女たちを集め、毅然として告げた。「皆の者、よく聞け。私は、敵わずとも敵中へ斬り込み、武士の名誉をまっとうせんと思う。そなたらもそれぞれ考えがあろうから、無理強いはせぬ。生き延びたい者は遠慮なく申し出よ」 12 。その気迫に満ちた言葉に、侍女たちは心を動かされた。結果、34名の侍女たちが鶴姫と共に死出の道を行くことを決意し、さらに生き残っていた83名の城兵もこれに加わった 5 。彼女たちは、日頃は武士たちの世話で着せつけていた甲冑を、慣れない手つきで自らの身に纏った 12 。こうして、戦国史上類を見ない女性だけの戦闘部隊、「常山女軍」が結成されたのである。
6月7日 朝:城門開放、最後の突撃
夜が完全に明け、朝靄が立ち込める中、常山城の城門が内から開け放たれた。鶴姫を先頭に、武装した女たちと残存兵が一斉に鬨の声を上げ、麓の毛利軍陣地へと突撃した。もはや城内に抵抗する力は残っていないと油断していた浦野宗勝の部隊は、この予期せぬ奇襲に色めき立ち、俄かに混乱した 12 。
鶴姫と女軍は、ここを死に場所と定め、死兵となって奮戦した。銀の采配を振るい、「かけ破れ、ものども」と味方を鼓舞する鶴姫の姿は、鬼神の如き迫力であったという 15 。不意を突かれた毛利勢は足並みを乱し、『中国兵乱記』によれば、この一撃で百余騎が討ち死に、あるいは手傷を負ったとされる 11 。
戦闘終盤:鶴姫と敵将の対峙
しかし、圧倒的な兵力差はいかんともしがたい。やがて態勢を立て直した毛利勢の反撃により、女軍は一人、また一人と討ち取られていった。乱戦の中、鶴姫は敵の大将旗を見つけ、馬上の浦野(乃美)宗勝に向かって大音声を張り上げた。「どうした宗勝、あなたは西国で勇士の名を得ておられると聞いている。自分は女人の身ではあるが、ひと勝負仕りたい」 13 。
敵将に一騎打ちを挑むという、武士として最高の名誉を賭けた行動であった。しかし、歴戦の勇士である宗勝は、相手が女性であることに驚き、そして武士としての矜持から、その挑戦を拒んだ。「いやいや、貴女は鬼ではなく、女である。武士が相手には出来ぬ」 13 。彼は兵に戦闘の停止を命じ、いたずらに女性を殺すことを良しとしなかった。この宗勝の対応は、敵を殲滅する冷徹な指揮官であると同時に、武士としての共通の価値観と名誉を重んじる文化人でもあった、戦国武将の複雑な内面を浮き彫りにしている。
最期
一騎打ちを断念した鶴姫は、もはやこれまでと覚悟を決めた。彼女は腰に差していた家宝の太刀「国平」を抜き放つと、宗勝に向かって投げ渡した。そして、「これは我が家重代の国平が作である。父家親だと思って肌身離さず持っていたが、死後には宗勝殿に進上する。後世を弔ってたまえ」と言い残した 6 。
この行為は、単なる降伏や命乞いではない。自らの死が単なる敗北ではなく、名誉ある最期として敵将に記憶され、後世に語り継がれることを意図した、極めて儀式的なパフォーマンスであった。三村一族の誇りと、武家の女性としての矜持を歴史に刻むための、最後の自己表現であったと言えよう。
言葉を終えた鶴姫は、静かに城中へと引き返すと、南無阿弥陀仏と念仏を唱え、太刀を口にくわえて前に倒れ伏し、自らの命を絶った。享年33。その壮絶な最期を見届け、彼女に続いた侍女たちも皆、殉じていった 6 。世に言う「常山女軍」の、あまりにも悲しく、そして気高い結末であった。
第二部:覇権の衝突 ― 天正十年の八浜合戦
第一章:反転する同盟 ― 織田の中国侵攻と宇喜多の寝返り
天正3年の常山城の悲劇から7年の歳月が流れる間に、中国地方の政治情勢は激変していた。かつて毛利氏と手を結び、三村氏を滅亡に追いやった備前の宇喜多直家は、天下の趨勢が織田信長にあることを見抜くと、巧みに毛利氏から離反。天正7年(1579年)頃には、信長の中国方面軍司令官である羽柴秀吉の与力となり、織田方へと鞍替えしていた 8 。これにより、毛利と宇喜多は不倶戴天の敵同士となり、備前・備中の国境地帯は、両大勢力が直接対峙する最前線と化した。
この緊張状態に、さらなる不安定要素が加わる。天正9年(1581年)2月、数々の謀略を駆使して備前一国を統一した梟雄・宇喜多直家が、岡山城にて病没したのである 16 。跡を継いだ嫡男・秀家はまだ幼く、叔父の宇喜多忠家らが後見人として政務を執るという、不安定な体制であった。
毛利氏にとって、これは千載一遇の好機であった。長年の宿敵であり、その恐ろしさを誰よりも知る直家がこの世を去った今こそ、宇喜多領を切り崩し、織田の勢力伸長を食い止める絶好の機会と捉えたのである。毛利方は、宇喜多家の代替わりによる弱体化を突き、失地回復と勢力圏の再構築を狙って行動を開始した。
その直接的な引き金となったのが、天正10年(1582年)2月6日、児島半島東端の小串に拠点を置く毛利方の国人・高畠氏が、宇喜多方に人質を出し寝返った事件である 16 。児島半島は、備讃瀬戸の制海権を握る上で極めて重要な拠点であり、この高畠氏の離反は、毛利氏の海上交通路を深刻に脅かすものであった。この事態を受け、毛利輝元は一門の勇将・穂井田元清を総大将に任じ、児島半島への軍事侵攻を断行した。この戦いは、単なる領土紛争ではなく、毛利氏が「直家亡き後の宇喜多家」の実力と、その後ろ盾である羽柴秀吉の介入速度を見極めるための、戦略的な攻勢であった。
第二章:両軍の対峙 ― 八浜への布陣
毛利軍の侵攻は、周到な計画のもとに行われた。総大将の穂井田元清は、かつて三村氏から奪い、毛利の支配下に置いていた常山城を前線基地として活用した 3 。常山城から東へと軍を進めた毛利勢は、宇喜多方の拠点である八浜城(両児山城)を見下ろす麦飯山に陣を敷き、臨戦態勢を整えた 16 。
毛利軍進出の報は、直ちに岡山城の宇喜多家にもたらされた。当主・秀家はまだ若年のため、叔父の宇喜多忠家と、直家の養子であった宇喜多基家(通称:与太郎)が軍を率いることになった 19 。基家は秀家の名代として総大将を務め、戸川秀安や岡家利といった宇喜多家の重臣たちが脇を固めた 16 。
宇喜多軍は、毛利軍の侵攻を食い止めるべく、児島湾南岸の要衝である八浜城に入り、麦飯山の毛利軍と対峙した 3 。両軍は互いに牽制し合い、散発的な小競り合いを繰り返しながら、決戦の時を窺っていた。児島湾を挟んで睨み合う両軍の緊張は、日増しに高まっていった。
第三章:雌雄を決する一日 ― 八浜合戦のリアルタイム・クロノロジー
天正10年(1582年)2月21日、両軍が対峙を続けていた八浜の地で、ついに戦端が開かれた。この一日の戦いは、児島半島の支配権、ひいては備前・備中における毛利・織田両勢力の優位を決定づける重要な戦いであった。
天正10年2月21日 早朝:開戦の火種
戦いのきっかけは、些細な出来事であった。宇喜多勢が兵糧の足しにするためか、麦飯山の麓へ馬草を刈りに数名の兵を繰り出した。これを察知した毛利勢の哨戒部隊が数名でこれを追い払い、小競り合いが発生した 16 。この小競り合いに対し、宇喜多方はさらに増援を送り、毛利方もそれに応じて兵を出すという応酬が繰り返された。
午前中:戦闘の拡大
当初は小規模な衝突であったが、双方から次々と増援が投入されるうちに、やがて両軍の主力が引きずり出される形で本格的な野戦へと発展した。主戦場は、大崎村(現在の玉野市八浜町大崎)の柳畑と呼ばれる浜辺に移り、両軍が入り乱れての激しい戦闘が繰り広げられた 20 。
戦局の転換点:毛利水軍の奇襲
陸上での戦闘が激しさを増す中、毛利方はかねてより得意とする水軍を動かした。穂井田元清の要請を受け、村上元吉率いる毛利水軍(村上水軍)の船団が児島湾を進み、陸上で戦う宇喜多軍の側面、あるいは背後に奇襲上陸を敢行したのである 20 。陸の穂井田元清軍と、海からの村上水軍による連携攻撃。この完璧な陸海共同作戦(挟撃)により、宇喜多軍の戦線は一気に崩壊した 20 。
総大将の戦死
側面を突かれて混乱する軍勢を立て直そうと、総大将の宇喜多基家は馬を駆って前線で必死に指揮を執っていた。しかしその時、敵の鉄砲隊が放った一弾が基家を捉えた。流れ弾に当たった基家は、無念にも馬から落馬し、戦死を遂げたのである 19 。まだ若く、将来を嘱望されていた武将の、あまりにも突然の死であった。
総大将を失った宇喜多軍は、指揮系統を完全に失い、総崩れとなって敗走を開始した。世に言う「八浜崩れ」である 17 。
殿軍「八浜七本槍」の奮戦
勝ちに乗じた毛利軍は、敗走する宇喜多軍に猛追をかけた。この絶体絶命の窮地を救ったのが、戸川秀安をはじめとする宇喜多家の猛将たちであった。彼らは決死の覚悟で殿(しんがり)を務め、獅子奮迅の働きで毛利軍の追撃を食い止めた。この時の彼らの活躍は後に「八浜七本槍」として長く語り継がれることになる 3 。彼らの奮戦により、宇喜多軍は壊滅を免れ、かろうじて八浜城へと撤退することに成功したのである。
第四章:戦後の情勢 ― 勝利の代償と戦略的影響
八浜合戦は、毛利軍の戦術的勝利に終わった。敵の総大将・宇喜多基家を討ち取るという、野戦における最大の戦果を挙げたのである 16 。しかし、その勝利が毛利方にもたらした戦略的利益は、限定的なものであった。
毛利軍は、宇喜多軍の「八浜七本槍」による激しい抵抗に遭い、大きな損害を被った。その結果、敗走した宇喜多軍が籠る八浜城を攻め落とす余力は残されておらず、当初の軍事目標であった毛利からの離反者・高畠氏の討伐も果たせなかった 16 。つまり、毛利軍は局地的な戦闘には勝利したものの、児島半島から宇喜多勢力を完全に駆逐するという、方面全体の戦略目標を達成することはできなかったのである。
一方の宇喜多軍は、総大将を失うという手痛い敗北を喫したが、八浜城という拠点を死守することには成功した。彼らは城に籠り、主筋である羽柴秀吉からの援軍を待つ態勢を整えた 16 。この戦いの結果は、戦国時代末期の戦争の質的変化を象徴している。中世的な価値観では、大将を討ち取ればその軍は瓦解し、戦は終結するはずであった。しかし、宇喜多軍は中核となる家臣団の奮戦によって組織的崩壊を免れ、城に籠って後詰を待つという、より近代的な防衛戦術へと移行した。これは、宇喜多家の軍事行動が、もはや宇喜多単独のものではなく、羽柴秀吉という巨大な後方支援体制と一体化していたことを意味する。毛利氏は、目の前の宇喜多軍には勝てたが、その背後にいる織田の巨大な戦争遂行能力の前には、局地的な戦術的勝利が、必ずしも戦略的勝利には結びつかなくなっていたのである。
八浜合戦は、毛利氏が旧来の戦国大名としての戦い方の限界に直面した戦いでもあった。そしてこの戦いは、羽柴秀吉による備中高松城の水攻めという、織田・毛利の全面対決へと繋がる、重要な前哨戦として歴史にその名を刻むこととなった 17 。
結論:常山城が映し出す戦国終焉期の権力闘争
備前・備中の国境にそびえる常山城は、天正3年(1575年)と天正10年(1582年)という、わずか7年の間に、全く性質の異なる二つの激闘の舞台となった。この二つの戦いを詳細に分析することは、戦国時代がその最終局面において、いかに劇的な変貌を遂げたかを理解する上で、極めて重要な示唆を与える。
天正3年の常山城落城戦は、巨大勢力である毛利が、それに抗う地方豪族の三村を淘汰する、戦国時代を通じて繰り返された弱肉強食の論理を体現する戦いであった。その中心にあったのは、主家への忠義、一族の名誉、そして武士としての死に様といった、中世的な価値観である。絶望的な状況下で咲いた「常山女軍」という徒花は、滅びゆく者の矜持と悲劇の美学として、後世の人々の心を打ち、長く語り継がれることとなった。それは、個人の物語が色濃く反映された、戦国乱世の一つの典型的な姿であった。
対照的に、天正10年の八浜合戦は、天下統一を目前にした織田(羽柴)勢力と、西国の覇権を死守しようとする毛利勢力という、二大国家権力が国境地帯で繰り広げた、よりマクロな覇権争いの縮図であった。この戦いでは、宇喜多基家という一人の将の死は、方面全体の戦略的帰趨を決定づけるには至らなかった。個人の武勇や悲劇よりも、水軍との連携、兵站、そして背後に控える巨大な政治権力といった組織的要素が、勝敗を左右する「総力戦」に近い様相を呈していた。
常山城は、このわずか7年の間に、地方豪族が誇りのために玉砕する最後の砦から、巨大勢力同士が衝突する前線基地へと、その歴史的役割を大きく変えた。この変貌は、織田信長の中国侵攻がいかに急速かつ不可逆的に、この地域の政治・軍事状況を塗り替えていったかを物語る象徴的な事例である。
結論として、常山城を巡る二つの戦いは、戦国時代という一つの時代が、個人の武勇と名誉が支配する「中世」から、組織力と戦略が支配する「近世」へと移行していく、まさにその過渡期の断面を鮮やかに映し出している。常山城の石垣は、武家の女性たちの悲壮な覚悟と、新たな時代の到来を告げる砲煙の両方を、静かに見つめていたのである。
引用文献
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- 岡山の常山城で行われる女軍供養祭。今年も8月11日に開催!|おか ... https://www.okayama-kanko.jp/okatabi/1111/page
- 戦国時代の国防女子 - 紀行歴史遊学 - TypePad https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2017/03/%E5%A5%B3%E8%BB%8D.html
- 備中兵乱 三村VS毛利と宇喜多!備中を手にするのは誰か!? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=N3DtYKRhwa8
- 玉野市立図書館・中央公民館郷土資料コーナー 平成30年度後期展示 主催:玉野市教育委員会 https://www.city.tamano.lg.jp/uploaded/attachment/9875.pdf
- 女軍を率いて突撃した鶴姫とは?戦国時代、備中城主の妻の壮絶な戦い - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/96547/
- 鶴姫 戦国武将を支えた女剣士/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/19532/
- 戦国の女傑、百の首を獲るも自刃した悲劇の「鶴姫」など|NEWSポストセブン - Part 2 https://www.news-postseven.com/archives/20170128_486712.html/2
- 『敵将に一騎討ちを挑んだ戦国女性』鶴姫と34人の侍女たちの壮絶 ... https://article.yahoo.co.jp/detail/52a605951ecf584d3aa5fd8a6b325f959122ac9f
- 「備中兵乱」と常山城の鶴姫 - 岡山県立博物館の企画展『岡山の城 ... https://amago.hatenablog.com/entry/2014/10/05/031757
- 常山城と久昌寺と鶴姫の思い - つねやまじかん http://tsuneyama-jikan.net/history/%E5%B8%B8%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%81%A8%E4%B9%85%E6%98%8C%E5%AF%BA%E3%81%A8%E9%B6%B4%E5%A7%AB%E3%81%AE%E6%80%9D%E3%81%84
- せめて一太刀! 敵に突入してから戻って自害した烈女「鶴姫」 - BEST TiMES(ベストタイムズ) https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/9068/
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- 足の神様となった戦国武将(八浜合戦・下) - 紀行歴史遊学 https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2009/11/post-9862.html
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